どうしてこうなってしまったのか。
ケイは自分の足首を見下ろして、それからちょっと動かしてみて、最後に天井を見上げて溜め息を吐いた。部屋中の空気を飲み込むくらい、大きな大きな溜め息を。
左足を体に寄せてみても、ぐんっと抵抗されて叶わない。
そう──左の足首とベットの足が、短い紐で繋がれていた。
紐というより、リード。赤くてツヤツヤしたエナメルの、たぶんペットショップで買えるやつ。足首を固定するベルト部分には、ご丁寧に小さな鍵まで引っかけられている。犬も猫も鳥も育てたことのないケイにはよく分からなかったが、拘束されているのだと自覚することは容易だった。
ケイは迷わずスマホを手に取り、履歴から一番頭を呼び出した。
いったいどういう了見だと、昨晩をともに過ごしたジョージを問い詰めるつもりで。
スマホ、枕元に置いておいてよかった。テーブルの上にあったらきっと届かなかっただろう。
呼び出し音の反復は、むしろ静寂に近かった。ワンコール、ツーコール、回線の切り替わる音がして、音声ガイダンスが流れ出す。「Thank you for calling……」女性の声が、電話への感謝と応答できない旨を伝えた。
名前と電話番号、用件を残せと定型文が流れる前に通話終了。何もかも分かってるんだろ。ケイは留守電が嫌いだった。
出るまで掛け続けてやろうと、もう一度。ガイダンスすら聞きたくなくて、今度は切り替え音の後にすぐ終了。ワンモア、トライ。
きっと彼の画面には、恐ろしい量の着信履歴が連なっているはずだ。それを気が済むまで眺めて、満足したらようやく液晶に指を滑らせる。ジョージの怒りがデカイほど、応対までの時間が伸びる。
プツリとコール音が止まった。
出た!
「はい、譲治です」
「ハローじゃねえよ!何のつもりだジョージ。今どこにいる。帰ってこい」
「まくし立てるな。うるさい」
「今大学か?なんとかしろ。説明しろ」
「説明?」
ジョージは馬鹿にしたように、鼻で笑った。表情まで浮かんでくる。片目を細めて、唇の端が皮肉にバランスを歪めるのだ。真っ黒な虹彩の深いところ、何を考えているのか読めない色が光る。
「必要ないだろう。自分で考えろ」
「はあ?……おい、ジョージ!おい!」
それで、通話は終わった。最新型のスマートフォンはただただ沈黙を返すだけで、30秒経てば液晶画面も真っ黒になった。
「くそっ!」
ケイは思い付く限りの悪態をついた。苛立ちに任せ、応答しない精密な箱を床に投げつけようとして、しかし振り上げた右手をそっと下ろす。左足首に繋がれたリードがお情け程度の冷静さを呼んだのだ。今、外部と繋がる唯一の手段はこの足ではない。
思えば昨晩から、ジョージの機嫌は悪かった。
昨夜のケイは12時を軽く越えた時間、酔っぱらった千鳥足で帰宅した。飲んでいた相手は付き合いの長いセフレ2人。場所は、ゲイの間では有名なサムシング・バーだ。ゲイ専門なんていかがわしい風でもなく、メインストリートから外れた路地にひっそりとある。そして常連になると、マスターが地下の存在を教えてくれる。薄暗い地下にはベッドやソファが無造作に放置されており(ベッドのいくつかはスプリングが壊れている)、そこはいわゆるハッテン場の波止場。地下だが、みんなその部屋を『奥』と呼ぶ。階上のバーで意気投合した奴らがなだれ込むさまは紛うことなきカオスだ。ただし、ドラッグやハーブはご法度。
ジョージとの関係は、一応恋人ということになっている。ケイは関係性に名前をつけることに慣れなかったのだが、ジョージはその辺りをこだわるタイプだった。お国柄の違いだろうか。
ジョージはケイの通う大学に、留学生としてやってきた。18歳の、昨年の話だ。
初めて喋ったのは第1セメスターも始まって暫くして、皆が新生活に馴染みはじめたころ。友人と待ち合わせて学内のベンチに座っていたら、長身の男が隣端に腰を下ろした。レポート用紙を引っ張り出して、何かを訂正する仕草。それが、久米川譲治だった。
興味本意で首を反らし、手元を覗く。
「あ、それ、間違ってるぜ」
深い意味なんてなく、ふとしたはずみで話しかけていた。男は顔を上げ、視線を動かし、「は?」という顔をした。彼はは髪も瞳も天然の黒色で、肌の感じもアジア系のそれだった。
「国際関係論のレポートだろ。グレン・フレデリック教授、ここのスペル違う。教授の名前ミスはやべえぞ。通じる?」
「ああ。ありがとう」
「あとあの人、手書きダメじゃなかったか?突っぱねられたってやつ知ってるけど」
「……そうなのか」
「いや、大丈夫。そうだ、手書きをコピーして、そっち出せば大丈夫なんだよ、そういう時は。コピー機は図書館にあっから」
ケイは顎をしゃくって図書館を示した。ベンチからは図書館の屋根だけが確認できる。彼も了解したようで、わかったと頷いた。
流暢な英語の男は譲治と名乗った。久米川は発音しづらいだろうから、とも沿えて。日本から来た留学生だという。日本人にしては彫りの深い容貌をくしゃりと歪めて「ありがとう」と微笑んだ。サンキューではなく、ありがとうと。
そして、じゃあなと別れた一週間後、ケイと譲治は再会する。週末の待つ金曜日、浮かれた往来で。
その日は早くから飲んでいて、ひとりバーを出た時には真っ直ぐ歩くのも難しいほどに酔っぱらっていた。通りの明かりが鋭いくらいに眩しくて、行き交う人々の話し声は違う惑星の言葉みたいで。けれど、それすらも笑えてしまうような、アルコールの浮遊感。
どこにだって行けそうな気分で歩いていたら、向かいからやってきた集団とぶつかった。黒いタンクトップから入れ墨の走る彼らから浴びせられた罵声に、ケイはつい挑発の言葉を返してしまう。
空気が、不穏な色に入れ替わった。
「何だお前、調子乗ってんのか」
見下ろされ、壁に迫られ、肩を掴まれてようやくヤバいと目が覚める。けれどそう焦った時には、既にじりじりと路地裏に追いやられていた。放られたごみ袋からはみでた生ごみを踏む。靴底がぐちゃりと嫌な音を立てた。
「若造、生意気な態度取んねえほうがいいぜ」
「綺麗なカオしてんな、ちょっと遊ぶか」
逃げ場なく顎を掴まれて、雑なアルコールと生ごみのすえたにおいに誘発されるのは本能的な吐き気と恐怖。すり抜けようと身をよじるも、足を払われて転がってしまった。
咄嗟に謝罪を引っ張り出すも、時すでに遅し。
情けなく腰がひけてしまって、成す術なくコンクリに頬を擦り付けられた時、助けてくれたのが譲治だった。
「おい。何やってんだ」
よく通る声で、大通りの注目と一緒に飛び込んで来た長身が誰なのか、すぐには認識できなかった。
視線という光に晒されて、煩わしくなった集団はしらけたように舌打ちし、押さえ込んでいたケイの頭を放った。
膝をつく譲治に支えられ、起き上がった反動でケイは嘔吐した。
ほんの少し前まで飲んでいたラムコークが、アルコール成分だけを残して口から溢れる。譲治は相変わらず滑らかな英語で、大丈夫かとか、誰かを呼ぶかなどと繰り返す。大丈夫、ただの飲み過ぎだから、気にすんな。酔いの回った頭では、そんな言葉さえ見つけられない。
「どこか休める所はないのか」
とか、それに似た言葉が聞こえた。
運びの詳細は憶えていないが、その通りはちょうど、あの混沌としたバーのある路地だった。ケイは気楽な地下室の常連だ。半分眠った脳みそと筋肉を動かして、譲治の首に腕を回す。
「オレ、あんたみたいな奴に愛されたかった」
――ああ、そうだ。オレが、そう言ったんだ。
***
そうして次に目が覚めたのは真夜中だった。
素っ裸で固いダブルベッドに横たわり、目に映るのはシミだらけの天井。オレンジ色の照明にぼんやりと照らされて、意識がゆらゆら浮かび上がる。
簡易なカーテン代わりの薄布で仕切られた隣のベッドでは、まさに行為の真っただ中だ。獣のような唸り声の隙間から、階上のジャズビートが微かに聞こえてきた。
首を動かせば、譲治と目が合った。何を考えているのか全く推測できない、深い闇色の瞳がそこにある。
「お前、名前は」
そう問われて初めて、ケイは名前を名乗っていなかったことに気が付いた。
飛び級のステップを間違えたまま“付き合い”が始まっても、ケイの遊び癖が治ることはなかった。緩んだ貞操観念は、そんなに短期間で書き換えられるものではないらしい。
一方の譲治は、その辺りの感覚は今時珍しいほど頑なだ。なし崩し的に一人暮らしをしている譲治の家で半同居状態に落ち着いてからは、さすがの譲治も譲歩を見せたが、ケイがその心境を理解するためには言葉が足りない。
優先順位がついたとはいえ、不特定多数との関係は譲治の機嫌を損ねる最大要因だった。
昨晩、遅くに帰宅したケイは、靴を脱ぎ捨ててトイレに駆けこんだ。
大きな足音に驚いた譲治がリビングから顔を出し、「どうしたんだ」声をかける。
しばらくして出てきたケイはへらりと笑い、あっけらかんとして言った。
「あはは。トイレ、行かしてもらえなくて。でもホラ、ギリギリ、セーフ」
「はあ?」
「ランディがさあ、オレがトイレっつったら『奥』行こうって。仕舞いにはここでしろとか言い出すし、あいつにそういう趣味があるとは思わなかったな。ほんと、ヤバかった」
「……なんだそれ」
「店はどこも閉まってるし、オレ、財布忘れちゃって。駅のトイレも使えねえからさあ」
呂律が、若干怪しい。
譲治の眉間にみるみる皺が刻まれていくことにも気付かず、ケイは話し続ける。服を脱ぎながらバスルームに向かい、思い出したように立ち止まって、
「あ、でも。お前がいるから帰ってきたぜ」
得意げに。
無遠慮に整った笑顔を見て、譲治の苛立ちは閾値を飛び越えた。
その夜、譲治がクロゼットから引っ張り出したのは、赤いエナメルのリードと同素材の首輪。以前友人のペットを預かった時に一緒に渡され、また預けることもあるだろうとそのまま貰っていたものだ。もちろん、こんなことのために使うはずではなかった。次いで引き出しから、おもちゃのように小さなパドロックをつまむ。これは大学近くのホームセンターで工具を買った時に、一緒についてきたものだった。
「なあ、何で怒ってるんだよ、ジョージ」
風呂上り、髪の毛の水滴をがしがしと拭き取りながら、ケイは相変わらず呑気に首を傾げてきた。
何を話しかけても譲治が一切反応しないのを、本気で怪訝に思っているのだ。
その呑気さが、気楽さが、譲治の神経を逆撫でていることにも当然気付かない。
怒っている訳ではないのだ。
これは、ケイのだらしなさに、ふらふらといい加減なさまに、怒っているのとは違う。譲治にはかろうじてその自覚があり、その点では冷静になっているのだが、けれどどうしようもない苛立ちだった。
矛先はケイと、譲治自身に。
ケイはドライヤーを横着し、結局乾ききることのなかった髪を枕に広げて泥のように眠っている。そのもとへ、息を殺して立ち戻った。無造作に投げ出された足を掴む。形のいいくるぶしを持ち上げ、小型犬用の首輪を巻き付けてきつく締める。ベルト穴にパドロックを通して施錠。鍵はポケットにねじ込んだ。
首輪に繋がったリードの片方は、ベッドの足に括る。通すためにほんの少し浮かせたから、振動で起こしたかと寝顔を覗き込んだが、ケイは憎らしいほど無防備に眠っていた。
ケイがロングスリーパーなことも、その眠りが死んだように深いのも、そしてそれ故に、目が覚めて真っ先にトイレに向かうことも、譲治は知っていた。
――苛立ちの名前は、醜い嫉妬と独占欲。
***
どうして、こうなってしまったのか。
もう何度目か分からない自問の続きを考える。
目が覚めて、意識が明瞭になってきて、応答しないスマートフォンに散々苛立ちをぶつけた後。ふと全身に走ったのは尿意だった。はっとした。一瞬、苛立ちも腹立たしさも困惑も、全て忘れ去った。
気が付いてしまったら、もう、それだけしか考えられなくなって。気付かなかったふりをしようとしても、無視することはできなくて。
「……っ、くっそ、何のつもりだよ、クソジョージ」
舌打ちは当然届かない。
昨晩のアルコールが、寝る前に飲んだコップ一杯の水が。老廃物としてこしだされたそれらは、一晩を越えて貯蔵器官をたっぷりとふくらませていた。いつもならとっくに排泄されてるはずの水分は出口が開かず、ケイの尿道をこじ開けようとじわじわと浸潤していく。寝ぼけた筋肉はとっさに緊張し、堪らずに身を捩って堰き止めた。
「……や、ば、……待って……」
静寂の部屋に響く軋みは、貧乏ゆすりのせいだった。木製のフレームベッドは譲治が留学生仲間から譲り受けたものらしく、年季も入っている。ケイの不規則な息遣いとともに、嫌に大きく聞こえた。
一度ふたつに折った体を起こす方が難しくて、それくらい、爆発しそうな尿意で、ケイは股間を握りしめたままベッドに伏せた。窓の外の快晴を睨む。相変わらず真っ黒な液晶画面を睨む。
きつく噛みしめた唇の隙間から、なんとか細く呼吸した。
太腿を紙一枚の余裕なく寄せあって、もじもじと膝を擦り合わせる。それだけでは、もう我慢出来そうになかった。
どうしよう。どうしよう。
ベッドの上、体を揺らしながら首だけで見回す。目には涙が滲んでいた。ちくしょう、トイレ、おしっこ、出したい。
ベッドと壁の溝を埋めるように、クッション代わりの抱き枕がある。ケイは両足で、それを挟んだ。しがみついていれば、少しは我慢しやすいかと思ったのだ。思考回路にも、1ミリの余裕もない。
「っんん、……んぅ……っ」
大きな波に襲われて、ケイは堪らず呻いた。ここは自分の部屋で、憎らしいことに誰もいない。声を憚る必要はなかった。
「ん……っ、~~っ、」
ありったけの力で枕を抱き締めた。波は一向に引いてくれない。太ももは勝手にビクビク痙攣して、焦りで息遣いが乱れた。爪先をせわしなく動かす度に、足先が紐に触れた。焦りと羞恥、すぐ手前で待っている最悪の自体を想像して、顔が真っ赤になっているのが分かる。
自分の口から飛び出す声が、まるで気の乗らない相手とヤる時のリップサービスみたいで妙な気分がした。もしかしたら、ジョージとする時も、こんな声出てんのかな。こんなこと、初めて考えた。
(ああ、そうか)
原因と結果がジョージの不機嫌を結びつける。
何かはっきりとした解答に触れそうになったその時、ガチャリと扉の開く音がした。不意打ちのことでびくりと体が跳ねる。それが誰かなんて、分かりきったことだったのに。
「ただいま」
「……ジョージ」
憎々しく名前を呼ばれても、譲治は顔色一つ変えない。
ただ、静かに燃える目で、ベッドで丸まったケイを見下ろす。
お前さ、もしかして……とか、大学はどうしたんだよ、とか、オレだって授業が、とか。言いたいことはやまほどあったはずなのに。
いざ譲治を目の前にして、その静かな黒に射られると、あまりに理不尽な仕打ちに対して燻っていた怒りが再び浮かび上がる。
「……おい、クソ、これ、何とかしろよ。解け」
「……」
「ジョージ」
譲治は、一言も話さない。冷たい視線は少しも読むことができなくて、その漆黒にケイは初めて、ぞっとした。
ベッドの軋む音だけが、ケイの苦悶の息遣いだけが、沈黙を埋める。
「た、頼むから。お願いだから。もう、オレ、漏れ……」
「“『奥』、いこうぜ”」
「……は……?」
「“ここでしろ”」
片目を細め、唇の端が皮肉にバランスを歪める。
そこにいるのは間違いなく、久米川譲治という男だった。
19歳:END
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