recall the past 2

夜中に目が覚めた。

どういう訳か最近の眠りは酷く浅く、毎日夜中に一度起きて、もう一度寝て、夜が開ける前にまた目が覚めて、次は眠れずに天井を見上げ、そうして朝を迎えるのが定着していた。

だから目が覚めた時に窓の外が真っ暗でも、時計が午前1時を示していても、もう大して気に留めなくなっていた。

けれどその日は何だかもう一度眠りにつくことは出来なそうで。

そろりとベッドから抜け出して、部屋のドアを開け、ひんやりとした空気の中へ出た。

(のど、渇いた)

洗面台に行ってうがいをしよう。

そう思って階段を降り始めたとき、話し声が聞こえた。

ふ、と視線を動かすと、リビングの明かりが点いているのが目に入る。

反射的に息を潜め、耳をそばだてると、叔父さんと叔母さんの声が聞こえた。

「・・・あの子、変よ」

「・・・何を言い出すんだ、そんな、こんな時間に」

叔母さんの声は静まり返った空間によく響いたが、叔父さんの声は篭っていてよく聞き取れなかった。

「何言っても返って来るのは『ありがとうございます』か『ごめんなさい』だけ。ちっとも笑わないのよ」

「・・・急に両親が死んだんだから、あの子も戸惑ってるんだろう」

ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。

(僕のことだ・・・)

「だからって・・・。変よ、絶対。おかしい、おかしいわよ」

「そう言うなよ。事故が起こる前のあの子を覚えていないのか。素直で、可愛いって、お前も言っていただろう」

「あなたは随分あの子の肩を持つのね。そんなの、単なる第一印象だわ」

「今はまだ現実を受け止めきれてないんだよ。そのうち元に戻る。あんなに良い子なんだから。もういいだろう、この話は―――」

疲れた声で話す叔父さんの声を遮って、叔母さんは一層大きな声を上げた。

「ねえ聞いて、今日学校から電話があったのよ」

「学校って?」

「あの子・・・直矢の小学校からよ。今日から学校だって、朝話したわよね」

いきなり飛び出した自分の名前に吃驚して、意味も無く身を縮めた。

部屋に戻ろうかと思ったが、もし足音を立てたら立ち聞きしていた事を気付かれそうで、それが怖くて動けなかった。

「あの子、いきなり同級生の子・・・しかも女の子を泣かせたのよ」

全身が心臓になったかのように跳ね上がった。

もう、その話を、知ってるんだ。誰が?前原先生?あの女の子?あの女の子のお家の人?

「・・・何だって?」

「そのまんまの意味よ。休み時間に、皆で直矢を囲んで話していたら、直矢、その女の子の事をいきなり叩いたんですって」

「電話は・・・誰から?」

「直矢のクラスを受け持ってる先生よ。前原先生。女の子・・・恵理香ちゃんだったかしら・・・その子の友達が先生を呼びに言ったんですって。先生が直矢にも話を聞いたらしいんだけど、一言も話さないの。『恵理香ちゃんを叩いたの?』って質問には、軽く頷いたらしいけど」

「・・・何か、理由が、」

「まだそんな事言うの!」

大きな音が響いた。

丁度、ガラスのコップがテーブルに打ち付けられるような。

「理由があるなら言えば良かったじゃないの。理由なんて無いんだわ」

「・・・それは、お前が直矢に聞いてやれ。俺は今仕事から帰ったばかりだろう・・・ちょっと待ってくれ」

「不気味なのよ、あの子!!」

息を呑んだ。

不気味、僕が、不気味。

廊下の寒さが急に際立って感じられた。

「こっちが何を話しかけても目も見なければ笑いもしない。分かる?おやつを作ってあげても無言で、無表情で食べるのよ。朝食も夕食もそう。ぼんやりして。あなたには懐いているから良いかもしれないけど、私は無理よ。限界よ!」

「・・・まだ、直矢が来て一週間だろう。もともとあの子は人見知りする性質なんだ。もう少し長い目で・・・」

「じゃあ聞くけど!」

叔母さんの声はもう叫び声に近かった。

それは全て僕の存在を否定するもので。

聞きたくないと思うのに、耳は叔母さんの声を執拗に拾う。

「あなたあの子を預かる時、私に相談した?いきなり、妹夫婦が事故にあって亡くなって、その息子を預かることになっただなんて、事後報告もいいところだわ!」

「仕方ないだろう、急の事なんだから。義弟の最期の言葉だぞ。遺言だぞ」

「そんなにあの子が大事なの!そうよね、あの子はあなたの妹さんそっくりだものね。あなたの大好きな妹さんに」

「・・・何だ、その言い方は。家族が大事なのは当たり前だろう」

「私だって家族よ!!」

これが、家族喧嘩なんだ、と、冷える頭はやけに冷静に考えた。

お父さんとお母さんは喧嘩なんてしたこと無かった。

―――今目の前で起こっている喧嘩は、僕が居るから起こったもの。

「私だって、貴樹だって家族よ。私達のことはどうでも良いっていうの!?」

「そんなことは言っていない」

「言ってるも同じよ!貴樹は今年受験なのよ。この時期にこんなにばたばたして、もし・・・もし失敗したら、どうするの!」

「・・・あの子なら、」

「大丈夫、とか言うの?無責任な事言わないで」

「今この話は良いだろう。明日ゆっくり話そう」

「都合が悪くなるとすぐそう言って!止めないわ。じゃああなたの言うように長い目で見て言うわよ。養育費はどうするつもり?貴樹は大学に入れるわよ。直矢まで大学に行きたいとか言い出したら、どうするの?そんなお金、どこにあるの?うちはあなたの妹夫婦の家のように裕福じゃないのよ!」

「・・・あの二人の保険金がある。それに俺にだって二人分の学費位は捻出できる。足りなければ切り詰めていけば良いだろう。それも子育てのひとつだろうが!」

叔父さんが、遂に怒鳴った。

お父さんの怒鳴り声も遂に聞かなかったけれど、叔父さんの怒鳴り声も当然初めてだった。

あまりにも色々な話を聞きすぎて、起き抜けの頭がショートしそうなほどだった。

時間が止まったのではないか思った。

それ位空気は重く、静かだった。

沈黙を破ったのは叔母さんだった。

「・・・あなた・・・そうまでして・・・そこまでして、あの子を育てたいの。そんなにあの子が大事なの。今まで苦労して育ててきた貴樹より。一緒に暮らしてきた私より。あの恵まれすぎた家庭で育ったお坊ちゃまを、この私達の家で育てたいの。この家で、私達の生活よりも優先して直矢を育てていきたいの。そうなの?」

気が遠くなるほどの静寂の後、叔父さんは絞り出す様に言った。

「・・・仕方が、無いだろう。もう、引き取るって、言ってしまったんだ」

目の前が、真っ暗になった。

誰も、僕が居ることを許してくれていない。

誰も、僕の存在を肯定してくれない。

目の前にある否定の山に、逃げ出したくなって、ふっと意識が遠のいた。

目が回って、ふらついたのは階段。

(落ちる・・・!)

目の前に迫る階段に、目を閉じた時だった。

「・・・おい、っ」

絶望にも似た諦めの思いは、腕を強く引かれる感覚で現実に引き戻された。

振り返ると、人影。

「・・・・っ」

声を上げそうになった僕の口を片手で塞ぎ、もう一方の片手では僕の腕を掴んで、人影は微笑んだ。

(・・・貴樹、さん、)

体勢を整えた僕から手を離し、その手をそのまま自分の口元にあてがう。

「しー、・・・大丈夫。部屋、戻ろう」

暗がりで微笑む人影。

まるで呼吸のような押し殺した声。

存在の肯定。

此処に来て、初めて感じた安堵だった。

「うちの母さん、ヒステリー入ってるから。困った母親だよなあ」

そんなに気にしないでね、と言いながら、暖かい手が僕の頭を撫でた。

結局、部屋まで送って貰った。

何て言ったら良いか分からず、戸惑ったまま立ち尽くしていると、貴樹さんは困った様に笑い、「じゃ、おやすみ」と言って、ドアを閉めようとした。

「あ、っ」

無意識に手が伸びて、ドアの隙間からその向こう、袖を掴んだ。

え?、と、再び隙間から顔が覗く。

安心する顔。表情。動作。

「ごっ・・・ごめん、なさい」

それでも、やっぱり拒絶されるのが怖くて、ぱっと手を離した。

本当は、一人で居るのが怖かった。

月明かりの鈍く差し込むこの部屋で。

新品の匂いに囲まれたこの部屋で。

嫌という程孤独を味わう、長く冷たい夜を。

怒っていないか、相手の表情を伺う為、恐る恐る顔を上げた。

微笑んでいた。

「ひとりで居るの、怖い?」

優しい声。

無言で何度も頷いた。

ごめんなさい、我侭言って。ごめんなさい。

心の中では何度も謝って。

「じゃあ、俺が居てあげる。でも静かにね。下に居る二人に気付かれないように」

そう言ってするりと足音も無く僕の部屋に入ってくる。

ドアの開閉の音も立てずに、何だか忍者みたいだ。

長い腕がぬっと伸びて、机のライトのスイッチを入れた。

橙色の光が部屋を包む。

振り返った貴樹さんは、あれ、と声を上げた。

「クマ、出来てる。眠いんじゃないの」

この人は、目を真っ直ぐ見て話す。

優しげに笑う。

目を見ないのは不気味だ、と叔母さんは言っていた。

無表情なのも不気味だ、と叔母さんは言っていた。

僕は不気味で、きっとこの人が理想なのだ。

(もし僕が貴樹さんみたいだったら・・・きっと、否定されない)

首を振った。

「眠くないの?」

頷く。

うまく、できない。

どうやって、思っている事を伝えれば良いんだろう。

そういえば、どうやって、笑っているっけ。

顔の筋肉がうまく働かない。

「・・・寝れない」

「え?」

気がついたら、つるりと口が動いていた。

「目が覚めて、そしてら、もう、寝れない」

顔を上げて、目を見てみた。

少し長い位になった前髪の隙間から、貴樹さんの目を、真っ直ぐに。

「・・・そういうのは、もっと、悲しそうに言うんだよ」

そういう貴樹さんの方が、悲しそうに見えて、より混乱した。

「ほら、やっぱり寝よう。身体に悪いよ、そんなの」

身体を押されて、ベッドに座らされた。

「で、・・・でも、」

「でもじゃないの」

そのまま器用に布団の中に押し込まれて、ふわりと毛布を掛けられる。

抗議はやんわりと阻止された。

でもそれは心地よい否定だった。

「大丈夫。俺もここに居るし。何なら子守唄でも歌ってあげようか」

子守唄!

吃驚して顔を上げると、貴樹さんはちょっと目を瞠って、微笑んだ。

「やっぱり。笑ったほうが可愛いよ」

そこで、自分が笑っていた事に気付く。

いつの間にか、貴樹さんとは目が合っていた。

叔母さんの笑った顔と、叔父さんの笑った顔。そして貴樹さんの笑った顔を思い浮かべていた。

(・・・そっか、)

好意を否定していたのは自分だった。

見向きもせず、受け取ろうとしなかったのも自分だった。

天井を見上げながら、時計の秒針の動く音を耳に流しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

(・・・明日は、ちゃんと笑おう)

好意をしっかり受け取ろう。

お礼も、目を見ながら言おう。

そうすれば、僕の存在も『不気味』では無くなるかもしれない。

朝起きたら、おはようと言おう。

しっかり目を見て、貴樹さんみたいに笑って。

目を閉じて、それから朝まで。

久しぶりにたくさん眠った。

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