夜中に目が覚めた。
どういう訳か最近の眠りは酷く浅く、毎日夜中に一度起きて、もう一度寝て、夜が開ける前にまた目が覚めて、次は眠れずに天井を見上げ、そうして朝を迎えるのが定着していた。
だから目が覚めた時に窓の外が真っ暗でも、時計が午前1時を示していても、もう大して気に留めなくなっていた。
けれどその日は何だかもう一度眠りにつくことは出来なそうで。
そろりとベッドから抜け出して、部屋のドアを開け、ひんやりとした空気の中へ出た。
(のど、渇いた)
洗面台に行ってうがいをしよう。
そう思って階段を降り始めたとき、話し声が聞こえた。
ふ、と視線を動かすと、リビングの明かりが点いているのが目に入る。
反射的に息を潜め、耳をそばだてると、叔父さんと叔母さんの声が聞こえた。
「・・・あの子、変よ」
「・・・何を言い出すんだ、そんな、こんな時間に」
叔母さんの声は静まり返った空間によく響いたが、叔父さんの声は篭っていてよく聞き取れなかった。
「何言っても返って来るのは『ありがとうございます』か『ごめんなさい』だけ。ちっとも笑わないのよ」
「・・・急に両親が死んだんだから、あの子も戸惑ってるんだろう」
ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。
(僕のことだ・・・)
「だからって・・・。変よ、絶対。おかしい、おかしいわよ」
「そう言うなよ。事故が起こる前のあの子を覚えていないのか。素直で、可愛いって、お前も言っていただろう」
「あなたは随分あの子の肩を持つのね。そんなの、単なる第一印象だわ」
「今はまだ現実を受け止めきれてないんだよ。そのうち元に戻る。あんなに良い子なんだから。もういいだろう、この話は―――」
疲れた声で話す叔父さんの声を遮って、叔母さんは一層大きな声を上げた。
「ねえ聞いて、今日学校から電話があったのよ」
「学校って?」
「あの子・・・直矢の小学校からよ。今日から学校だって、朝話したわよね」
いきなり飛び出した自分の名前に吃驚して、意味も無く身を縮めた。
部屋に戻ろうかと思ったが、もし足音を立てたら立ち聞きしていた事を気付かれそうで、それが怖くて動けなかった。
「あの子、いきなり同級生の子・・・しかも女の子を泣かせたのよ」
全身が心臓になったかのように跳ね上がった。
もう、その話を、知ってるんだ。誰が?前原先生?あの女の子?あの女の子のお家の人?
「・・・何だって?」
「そのまんまの意味よ。休み時間に、皆で直矢を囲んで話していたら、直矢、その女の子の事をいきなり叩いたんですって」
「電話は・・・誰から?」
「直矢のクラスを受け持ってる先生よ。前原先生。女の子・・・恵理香ちゃんだったかしら・・・その子の友達が先生を呼びに言ったんですって。先生が直矢にも話を聞いたらしいんだけど、一言も話さないの。『恵理香ちゃんを叩いたの?』って質問には、軽く頷いたらしいけど」
「・・・何か、理由が、」
「まだそんな事言うの!」
大きな音が響いた。
丁度、ガラスのコップがテーブルに打ち付けられるような。
「理由があるなら言えば良かったじゃないの。理由なんて無いんだわ」
「・・・それは、お前が直矢に聞いてやれ。俺は今仕事から帰ったばかりだろう・・・ちょっと待ってくれ」
「不気味なのよ、あの子!!」
息を呑んだ。
不気味、僕が、不気味。
廊下の寒さが急に際立って感じられた。
「こっちが何を話しかけても目も見なければ笑いもしない。分かる?おやつを作ってあげても無言で、無表情で食べるのよ。朝食も夕食もそう。ぼんやりして。あなたには懐いているから良いかもしれないけど、私は無理よ。限界よ!」
「・・・まだ、直矢が来て一週間だろう。もともとあの子は人見知りする性質なんだ。もう少し長い目で・・・」
「じゃあ聞くけど!」
叔母さんの声はもう叫び声に近かった。
それは全て僕の存在を否定するもので。
聞きたくないと思うのに、耳は叔母さんの声を執拗に拾う。
「あなたあの子を預かる時、私に相談した?いきなり、妹夫婦が事故にあって亡くなって、その息子を預かることになっただなんて、事後報告もいいところだわ!」
「仕方ないだろう、急の事なんだから。義弟の最期の言葉だぞ。遺言だぞ」
「そんなにあの子が大事なの!そうよね、あの子はあなたの妹さんそっくりだものね。あなたの大好きな妹さんに」
「・・・何だ、その言い方は。家族が大事なのは当たり前だろう」
「私だって家族よ!!」
これが、家族喧嘩なんだ、と、冷える頭はやけに冷静に考えた。
お父さんとお母さんは喧嘩なんてしたこと無かった。
―――今目の前で起こっている喧嘩は、僕が居るから起こったもの。
「私だって、貴樹だって家族よ。私達のことはどうでも良いっていうの!?」
「そんなことは言っていない」
「言ってるも同じよ!貴樹は今年受験なのよ。この時期にこんなにばたばたして、もし・・・もし失敗したら、どうするの!」
「・・・あの子なら、」
「大丈夫、とか言うの?無責任な事言わないで」
「今この話は良いだろう。明日ゆっくり話そう」
「都合が悪くなるとすぐそう言って!止めないわ。じゃああなたの言うように長い目で見て言うわよ。養育費はどうするつもり?貴樹は大学に入れるわよ。直矢まで大学に行きたいとか言い出したら、どうするの?そんなお金、どこにあるの?うちはあなたの妹夫婦の家のように裕福じゃないのよ!」
「・・・あの二人の保険金がある。それに俺にだって二人分の学費位は捻出できる。足りなければ切り詰めていけば良いだろう。それも子育てのひとつだろうが!」
叔父さんが、遂に怒鳴った。
お父さんの怒鳴り声も遂に聞かなかったけれど、叔父さんの怒鳴り声も当然初めてだった。
あまりにも色々な話を聞きすぎて、起き抜けの頭がショートしそうなほどだった。
時間が止まったのではないか思った。
それ位空気は重く、静かだった。
沈黙を破ったのは叔母さんだった。
「・・・あなた・・・そうまでして・・・そこまでして、あの子を育てたいの。そんなにあの子が大事なの。今まで苦労して育ててきた貴樹より。一緒に暮らしてきた私より。あの恵まれすぎた家庭で育ったお坊ちゃまを、この私達の家で育てたいの。この家で、私達の生活よりも優先して直矢を育てていきたいの。そうなの?」
気が遠くなるほどの静寂の後、叔父さんは絞り出す様に言った。
「・・・仕方が、無いだろう。もう、引き取るって、言ってしまったんだ」
目の前が、真っ暗になった。
誰も、僕が居ることを許してくれていない。
誰も、僕の存在を肯定してくれない。
目の前にある否定の山に、逃げ出したくなって、ふっと意識が遠のいた。
目が回って、ふらついたのは階段。
(落ちる・・・!)
目の前に迫る階段に、目を閉じた時だった。
「・・・おい、っ」
絶望にも似た諦めの思いは、腕を強く引かれる感覚で現実に引き戻された。
振り返ると、人影。
「・・・・っ」
声を上げそうになった僕の口を片手で塞ぎ、もう一方の片手では僕の腕を掴んで、人影は微笑んだ。
(・・・貴樹、さん、)
体勢を整えた僕から手を離し、その手をそのまま自分の口元にあてがう。
「しー、・・・大丈夫。部屋、戻ろう」
暗がりで微笑む人影。
まるで呼吸のような押し殺した声。
存在の肯定。
此処に来て、初めて感じた安堵だった。
「うちの母さん、ヒステリー入ってるから。困った母親だよなあ」
そんなに気にしないでね、と言いながら、暖かい手が僕の頭を撫でた。
結局、部屋まで送って貰った。
何て言ったら良いか分からず、戸惑ったまま立ち尽くしていると、貴樹さんは困った様に笑い、「じゃ、おやすみ」と言って、ドアを閉めようとした。
「あ、っ」
無意識に手が伸びて、ドアの隙間からその向こう、袖を掴んだ。
え?、と、再び隙間から顔が覗く。
安心する顔。表情。動作。
「ごっ・・・ごめん、なさい」
それでも、やっぱり拒絶されるのが怖くて、ぱっと手を離した。
本当は、一人で居るのが怖かった。
月明かりの鈍く差し込むこの部屋で。
新品の匂いに囲まれたこの部屋で。
嫌という程孤独を味わう、長く冷たい夜を。
怒っていないか、相手の表情を伺う為、恐る恐る顔を上げた。
微笑んでいた。
「ひとりで居るの、怖い?」
優しい声。
無言で何度も頷いた。
ごめんなさい、我侭言って。ごめんなさい。
心の中では何度も謝って。
「じゃあ、俺が居てあげる。でも静かにね。下に居る二人に気付かれないように」
そう言ってするりと足音も無く僕の部屋に入ってくる。
ドアの開閉の音も立てずに、何だか忍者みたいだ。
長い腕がぬっと伸びて、机のライトのスイッチを入れた。
橙色の光が部屋を包む。
振り返った貴樹さんは、あれ、と声を上げた。
「クマ、出来てる。眠いんじゃないの」
この人は、目を真っ直ぐ見て話す。
優しげに笑う。
目を見ないのは不気味だ、と叔母さんは言っていた。
無表情なのも不気味だ、と叔母さんは言っていた。
僕は不気味で、きっとこの人が理想なのだ。
(もし僕が貴樹さんみたいだったら・・・きっと、否定されない)
首を振った。
「眠くないの?」
頷く。
うまく、できない。
どうやって、思っている事を伝えれば良いんだろう。
そういえば、どうやって、笑っているっけ。
顔の筋肉がうまく働かない。
「・・・寝れない」
「え?」
気がついたら、つるりと口が動いていた。
「目が覚めて、そしてら、もう、寝れない」
顔を上げて、目を見てみた。
少し長い位になった前髪の隙間から、貴樹さんの目を、真っ直ぐに。
「・・・そういうのは、もっと、悲しそうに言うんだよ」
そういう貴樹さんの方が、悲しそうに見えて、より混乱した。
「ほら、やっぱり寝よう。身体に悪いよ、そんなの」
身体を押されて、ベッドに座らされた。
「で、・・・でも、」
「でもじゃないの」
そのまま器用に布団の中に押し込まれて、ふわりと毛布を掛けられる。
抗議はやんわりと阻止された。
でもそれは心地よい否定だった。
「大丈夫。俺もここに居るし。何なら子守唄でも歌ってあげようか」
子守唄!
吃驚して顔を上げると、貴樹さんはちょっと目を瞠って、微笑んだ。
「やっぱり。笑ったほうが可愛いよ」
そこで、自分が笑っていた事に気付く。
いつの間にか、貴樹さんとは目が合っていた。
叔母さんの笑った顔と、叔父さんの笑った顔。そして貴樹さんの笑った顔を思い浮かべていた。
(・・・そっか、)
好意を否定していたのは自分だった。
見向きもせず、受け取ろうとしなかったのも自分だった。
天井を見上げながら、時計の秒針の動く音を耳に流しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。
(・・・明日は、ちゃんと笑おう)
好意をしっかり受け取ろう。
お礼も、目を見ながら言おう。
そうすれば、僕の存在も『不気味』では無くなるかもしれない。
朝起きたら、おはようと言おう。
しっかり目を見て、貴樹さんみたいに笑って。
目を閉じて、それから朝まで。
久しぶりにたくさん眠った。