カレイドスコープ

「もしもし、父さん?」

引越しが終わって半年が過ぎたある日、貴樹は父親―――佳宏の携帯電話に、電話を掛けていた。

随分長いコール音の後、佳宏はそれに応じた。

『貴樹。どうかしたか?』

「いや、昨日から家に電話掛けてるんだけど、誰も出なくて」

『ああ・・・いや、それは、・・・いや、誰も居ない事は無いと思うんだがなあ』

妙に歯切れの悪い返事に、貴樹は小首を傾げた。

「なに、それ」

『きっと買い物に行ってるとか、そんなんだろう。受話器が上がっているとか』

「じゃあ父さん、今日家に帰ったら確認しといてよ」

『んん・・・ああ、そうだな、・・・何か急ぎの用事でもあるのか?』

「そういう訳じゃないけど。何となく。母さんって携帯持たない主義じゃない、家電に掛けるしか手段が無くって」

『あー、うん、分かった。・・・ところで、どうだ、大学は』

「宜しくね。え?普通に、人並みに楽しんでるよ・・・」

なんて事のない会話を暫くして、通話を切った。

結局その晩、掛けなおした電話が繋がる事は無かった。

けれどその時は丁度課題やバイトで忙しく、あまり気にもしていなかった。

それから暫くしたある日、電話が繋がり、母親―――小百合と会話をしたことで満足してしまった貴樹は、あの時の佳宏に感じた違和感など、とっくに忘れてしまっていた。

多忙な毎日に圧され、貴樹が家に電話を掛けることも無くなってしまった。

この時の違和感をもっと追っていれば、と、その後死ぬほど後悔することになる。

それから一年が経ったある日。

まだ肌寒い3月の頭だった。

大学生活にも慣れ、ようやく生活が落ち着いた貴樹は、久しぶりに実家に帰ってみようかと思い立った。

元々そんなに離れた所に引っ越した訳ではない。

けれど用も無い時に気楽に行き来するのはほんの少し億劫になる距離。

そんな微妙な位置のアパートに暮らす貴樹は、大学に通い初めてからまだ一度も家に帰って居なかった。

通話記録から、父親を呼び出す。

友人とは専らメールで用事を済ます上に、基本的に携帯電話が嫌いな貴樹の通話記録は、殆ど佳宏で埋まっている。

「もしもし?ごめん、まだ仕事中だった?」

『ああ、残業中。まあ構わないさ、どうかしたか?』

「うん。実は今週末家に寄ろうかと思って」

『・・・家に?』

「そう。だからー、遠出とかしないでくれると嬉しいんだ」

とは言ったものの、あの3人で仲良く出掛ける・・・という事はまず無いだろう。

何を隠そう、自分の引越しさえ母親には教えなかった程なのだから。

あの頃小百合が和泉をあまりにも邪険にし、それに関する夫婦喧嘩が絶えなかった。

「勉強に障りがあるだろうから、大学近くの格安物件に引っ越したらどうだ」というのが佳宏の提案。

それを聞いたら小百合が逆上して止めるのは目に見えていたから、「母さんにはお前が引っ越した後にうまく説明をしておくよ」という佳宏の提案に乗ったのだ。

この間小百合と電話で普通な会話をした貴樹は、うまくいったのだと安心しきっていた。

受話器の向こうは沈黙だった。

何か考えている、といった感じ。

「・・・何か予定でもあった?」

『えっ、いや、別に、何もないが・・・。・・・実は、今ちょっと風邪気味で』

「風邪?だったら残業なんて早く切り上げて、帰りなよ」

『ああ、もう帰る所だったんだ・・・まあ、そんな訳だから、今帰ってきてうつしたりしたら大変だから・・・』

「ふうん。・・・じゃあ、また」

翌週。

では今週末ならどうか、と、貴樹は携帯を握っていた。

返ってきたのは、自分の風邪を母さんにうつしてしまった、という佳宏の返事。

「ええ、本当に?参ったな、行く気満々だったのに」

『あー、いや、悪い事をした。うん、また、日を改めてくれ』

通話の切れる音がして、携帯電話は無機質な音を立てる。

佳宏の生返事に、貴樹は釈然としない思いを抱えていた。

何か、おかしい。

そうは思うものの、具体的に何に違和感を感じているのか分からず、結局自分の生活を優先させた。

その二週間後。

佳宏は電話に出ない。

返ってくるのはコール音だけで、得体の知れない不安が、じりじりと上ってくるのを感じた。

「今週末行くからね」

そうメールで送る。

返信があったのは、次の日の夜だった。

その頃には佳宏に対する不信感はピークに達していた。

『風邪が直矢にもうつってしまって。それより、家になんて寄っていて、大学は大丈夫か』

愕然として、貴樹はベッドに携帯を投げつけた。

(そんな偶然があるか!)

何か隠している。何か隠されている。

一体何があったんだ。

時刻は夜の12時を回っていたが、構わずに貴樹は自宅に電話を掛けた。

誰も出ない。

こんな時間だからか。

いや、佳宏の帰りは毎日これ位の時間だった。

(・・・家に、居ない・・・?)

ふと浮かんだ考えを、慌てて振り払う。

そんな馬鹿なことある訳がない。

なら、一体どうしたというのだ。

明らかに嘘を吐いているくせに、それを吐き通す意気地もなくメールで応対し、更にそのくせ父親風を吹かせる佳宏に怒りさえ感じた。

直矢の顔が頭に浮かぶ。

あの家で何か問題が起こったとして、一番被害を受けるのは直矢だ。

今週末、日曜日、家に帰ろう。

貴樹はそう決心していた。

貴樹は、ゆるやかな上り坂を早足で歩いていた。

見慣れていた筈の閑静な住宅街が、やけに新鮮に感じられ、募る不安を助長した。

もう直ぐ昼になる。

もっと早く来ても良かったかもしれない。

ぼんやりとそんな事を考え、それでいてしっかりと歩を進め、坂を登る。

自宅が目に映る。

実に2年ぶりだった。

佳宏が背伸びをして購入した一軒屋は、客観的に見ても大きかった。

久しぶりだからだろうか、こんなに大きかったっけ、と貴樹は内心首を捻った程だ。

(・・・酷い雑草)

よく見ると、雑草が伸びに伸びている。

それらを踏みながら玄関に近づく。

漂ってくる雰囲気は、生活感を感じさせなかった。

自宅である筈なのに、拒絶されているような雰囲気も感じた。

玄関のドアを開く。

不気味なほど静かな空間が、貴樹を待っていた。

スニーカーが一足。

華奢なパンプスが一足。

ふと足元に視線を落とすと、フローリングの床に吐瀉物が広がっていた。

ぎょっとして、なお見渡すと、壁には数箇所の赤い染み。

(・・・まさか、血?)

擦り付けられたようなその赤は、古いものなのか黒に近い。

割れた花瓶。

棚には埃が溜まっている。

一体、何が起きているんだ。

重い空気が纏わり付いて息苦しい。

階段に足を掛ける。

自分でも吃驚するほど速い心臓の鼓動。

初めて通るような錯覚に包まれる。

にわかに湧き出した焦りで、貴樹の手はじっとりと汗ばんでいた。

直矢の部屋のドアは開いていた。

というより、閉まってはいない、といった状態。

恐る恐る、ノブに手を伸ばす。

破裂しそうな不安と緊張で一杯の貴樹の目に飛び込んで来たもの。

「直矢!!!」

貴樹の叫び声は悲鳴に近かった。

直矢は吐瀉物と血液にまみれて蹲るようにして倒れていた。

慌てて駆け寄り肩を揺するも、力なくされるがままだった。

直矢はぐったりと床に身体を預けている。

手首には、目を背けたくなるほどの無数の切り傷。

よく見ると、うなじから背中に掛けては火傷の跡もある。

「・・・きゅ、救急車・・・病院、」

真っ白になった頭を何とか動かし、ジーンズのポケットから携帯を探る。

いつもの癖で佳宏を呼び出してしまった貴樹は、彼への連絡も必要なのだとそこで気付き、しかし急いでブラウザバックし手入力画面へ戻った。

連絡だけでなく、この状態を問い質さないと。

さすがに相手の応答は早かった。

「い・・・従兄弟が、倒れていて、・・・」

この子を守らなければ。

じれったく住所を伝えながら、貴樹の脳内はそんな衝動で満たされていた。

直矢は、僕が守る。

一時は停止した思考回路も、もうはっきりと通常運転を再開していた。

寧ろ数倍の、不釣合いな落ち着きを伴って、静かに傍観した。

通話を終えた携帯電話は無機質な音を響かせ、貴樹の手をすり抜けて床に落ちる。

血の付いたカッターナイフが無造作に転がっていた

直矢の状態は酷いものだった。

何よりも足りないものは栄養。

病院に搬送されて直ぐ、細い両腕には点滴が繋がれた。

繰り返し吐いたのだろうか、食道は胃酸で炎症を起こしていた。

血液も足りていない。

左腕の切り傷も、直視できない程だった。

看護士でさえ、隠すことなく眉間に皺を寄せた。

二の腕にもその傷跡は残っており、左腕は全て包帯で巻かれた。

「意識が戻り次第、右手は固定させていただきますが、宜しいでしょうか?」

看護士の言葉。

それらの傷も酷かったが、貴樹には背中の火傷、腹部の打撲痕、目の周りから足まで至る所にある皮下出血も、貴樹の目に留まった。

直矢自身の不注意による怪我とは考えにくい。

可能性はただひとつ。

その可能性である小百合も、「佳宏は浮気をしていて、その浮気相手が自分を殺しにくる」といった突拍子も無い妄想に取り付かれていて、もうずっとまともな精神状態ではなかったらしい。

佳宏はというと、貴樹が最初に抱いた危惧通り、家には居なかった。

「もう限界だったんだ。小百合のヒステリーを聞いているのが嫌になった。こんな状態になっているなんて、考えもつかなかった
んだ・・・」

職場に乗り込んでいって詰問した貴樹に、佳宏は左手で顔を覆いながら、呻くような声でそう言った。

寝泊りは職場か格安ビジネスホテル。

皮肉な事に、帰宅しなくなってからの佳宏の営業成績は格段に上がり、肩書きも格上げされていた。

毎月必要なだけの生活費を口座に振り込んでいた事からも、小百合の妄想は事実ではないのだと伝わる。

貴樹はうんざりしたような、苛立ったような、失望の眼差しで佳宏を見返した。

「・・・直矢は、僕が引き取るからね。あなた達の所には置いて置けない。施設に預ける事も勧められてるけど、僕が断ります。・・・直矢の前に、もう姿を出さないでください」

佳宏にその提案を断る理由などある訳もなく、項垂れたまま微かに頷いた。

肩が小刻みに震えている。

貴樹は、これが自分の父親なのだ、と妙に覚めた思いでそれを見つめていた。

こうも簡単に、人の関係は変化してしまうのか。

落胆と悲しみが、インクの染みのように広がっていく。

侮蔑の色も混ざっていた。

けれどこれは現実で、父親は弱い人間だった。

それと同じくらい、母親も弱い人間だ。

息子である自分だけ違うとは言い切れる筈がない。

けれど、直矢を引き取るという決断だけはどうやっても揺らぐことはなかった。

小百合には専属の心療内科医を雇い、カウンセリングをさせるということに決まった。

直矢は点滴を打たれながら、微動だにせず横になっている。

まだ意識は戻らない。

目を覚ましたら、全てを変えてあげよう。

全てを変えてあげなくてはならない。

何があったのか、調べなくてはならない。

どんな手段を使っても、絶対に守る。

毎日この白い病室から空を見送って。

直矢が目を覚ましたのは、3日目の夕方だった。

>>カレイドスコープ:END

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