体育祭の準備が始まった。
するべき事は山ほどあった。
そもそも体育祭の開催自体、今回で二回目なのだ。
近隣の高校から合同体育祭の提案をされなければ今も行われていないだろう。
兼ねてから開催を希望していたスポーツ特待組はかなりの喜び様だった。
出席日数にはカウントされるが、殆どの競技で希望参加制となっている。
室内競技や個人競技、球技までも含まれており、体育祭というよりスポーツゲーム祭というイメージだ。
そんな風にゆるい行事で、しかしだからこそ決めなければならない規定は多く、したがって仕事量は膨大なものだった。
ルールが堅い方が統率側としては楽なのだが、とぼやいた所で仕事は減らない。
授業外で和泉と話す機会も、減り続けていた。
和泉の体調は、輪をかけて不安定になった気がする。
ちゃんと寝ているのか、と問い質したくなる程の顔色。
既に何度か貧血を起こし、保健室のお世話になっている。
徐々に体育祭の準備が進む中。
各自希望種目のアンケートを記入したり、雑談をしたり、そんな適度な喧騒が、妙なざわめきに包まれた。
俺は当日のプログラム構成を練っていて、周囲の注目の先、教室の後ろに視線をやり驚いた。
柴田が和泉を押していた。
無言のまま、右手で和泉の肩を掴み、和泉に迫っていく柴田。
為す術も無く後退した和泉は壁に背中をぶつけ、柴田を見上げた。
二人とも、無言。
何があってこうなったのか、周囲から推察することは出来なかった。
「お前、死ねよ」
柴田が、舌打ちと共に、吐き捨てる様にそう言った。
強く和泉の肩を押す。
和泉はあっさりと尻餅をついた。
そして、柴田は無防備な和泉の手を踏みつけた。
どこかで「うわ、」という声。
「いっ…」
体重を載せた踵でもう一踏みされ、和泉は痛みに背を反らせた。
そして柴田は、足下に座り込んだ和泉の、無防備に柔らかい腹部を、思い切り蹴った。
ここで、漸く我に返る。
呆然と出来事を目で追っていて、頭では全く処理をしていなかった。
「和泉!」
もっと早く、飛び出すべきだった。
そう思っても、最早どうしようもない。
咳き込む和泉の肩を支えながら、教室を去ろうとする柴田を呼び止める。
ちらりと此方を一瞥したが、彼はそのまま教室を後にした。
「和泉、」
投げ出された和泉の手を掴む。
白い指先に、はっきりと靴の跡が付いていた。
和泉が苦しそうに喘ぐ。
酸素を求め、口を開くも、乱れた呼吸リズムの所為で叶わず、ただ悲鳴の様な息が漏れた。
蹴られた腹部を抱え体を折り、咳き込みと共に吐瀉物がぱたぱたと落ちた。
「和泉、落ち着いて、大丈夫だよ。ねえ、和泉…っ、」
背中をさすると、浮いた骨の形がはっきりと分かった。
こんなに、痩せていただろうか…?
一向に落ち着く様子を見せない和泉に、あの形容し難い違和感と、不安感が一度に押し寄せた。
息が苦しい。
「誰か、…っ誰か、水と、タオル!誰でもいいから…!」
異様な光景を呆然と静観していた周囲が、はっとした様に動き出した。
ざわざわと一気に騒がしくなり、何人かが教員を呼ぶためか、教室を出た。
「お前さんがそんなに取り乱してどうする」
人の影がかかりふと顔を上げると、不機嫌そうな表情の五十嵐が居た。
突然現れた五十嵐に、思わず面食らい、言葉を失った。
五十嵐はペットボトルの水と大きめのハンドタオルを掲げながら膝を突き、俺と視線を合わせた。
「廊下通ったら何やら妙な雰囲気だし、和泉は倒れてるし、急いで教室に戻ってこれら持ってきたんだから、感謝してくれよ」
そう言いながらペットボトルの蓋を取り、一瞬も躊躇わずにハンドタオルに注いだ。
吸収しきれなかった水が床に溜まったが、お構いなしだ。
それを軽く絞り、和泉の口元にあてがう。
和泉はタオルを押さえ、その様子を見て初めて和泉が震えている事に気付いた。
「ほら、お前さんも和泉を保健室に連れて行くの手伝って。…和泉が死ぬわけでもなし、取り乱してどうする」
尖りを持った五十嵐の口調に、何とか冷静さを取り戻す。
しかし不安感は依然重く残っていた。
「…は、…しば、」
遠慮がちに肩を叩かれ、文字通りどきりとした。
五十嵐と俺に挟まれた和泉が、タオルから顔を上げていた。
「…ごめん…、も…大丈夫。ごめん、」
俯き、点々と落ちている自分が吐いたものに気付き、少しでも隠そうと慌てた様子で手が泳ぎ、しかしどうしようもなく申し訳なさそうにタオルに再び顔を埋めた。
「いいよ、それで拭きなよ」
それを悟った五十嵐がタオルを指差す。
当然和泉は躊躇った。
「でも、…」
「いいって。貸して」
五十嵐はやや強引に濡れたタオルを引き、床をひと拭きした。
和泉の小さな謝罪は空間に溶けた。
「和泉、立てる?もう落ち着いたかもしれないけど、保健室で休んでても良いんじゃないかねえ」
そう言いながら五十嵐は先に腰を浮かせ、それは和泉を促しているようにも思えた。
立ち上がろうとしてふらつき、俺は慌ててその細い体を支えた。
どこか痺れたままの自分の頭に苛々していた。
周囲の視線を一身に集めながら、和泉は俯きながら危なげな足取りで教室を出た。
転びかけた拍子に和泉が俺のシャツを掴み、無意識だとは思うが、保健室に着くまでその手が離れる事は無かった。
あれはいつだったか。
和泉を保健室まで連れて行く時、ふらついた和泉はその都度壁に体を預けていた。
「先生、」
五十嵐がドアを開け南条を呼ぶ。
始業のチャイムが響くのは同時だった。
どうしましたか、と近付く南条も、俺の背後に青い顔をした和泉に気付き眉根を寄せた。
「ちょっと、色々ありまして。俺達は戻るんで、先生、頼みました」
和泉に付き添う気で居たため、正直驚き、それもそうかと納得した。
「橋葉。行こう」
「あ、ああ」
突然五十嵐から話を振られ、ぼんやりした頭が少しだけ醒めた、気がした。
保健室を出る。
五十嵐、と声を掛けようとした時、それを阻止するかのように彼は「橋葉」と俺を呼んだ。
一瞬の沈黙。
「しっかりしろよ」
恐ろしく低い声だった。
「何、」
「お前は無責任すぎる」
そこで始めて、五十嵐は俺を見た。
いつもの張り付いたような笑顔でなく、切れ長な2つの瞳が俺を捉えていた。
「…どういう意味だ」
「あのまま教室でまごついてたら今頃誰かが呼んできた担任の質問攻めだろうね。大方相手は柴田だろ?あいつが居なければお前か和泉が何かしらの状況説明が迫られる。俺は途中からしか知らない訳だけど、それでもおまえさんのおかしさ位十分に理解できたね」
自覚していた点を指摘され言葉に詰まる。
溜まっていた不安を、ずっと吐き出してしまいたかったのだ。
「…最近の和泉は変なんだ。具体的に説明出来ないのがもどかしいけど、何か、…」
「橋葉が不安なのも分かってる。…南条先生だって、俺だって、気になってる。でもそれだけを考えて他が疎かになるのが問題なんだよ。正直、橋葉が人間らしくなったのは喜んでる。けど今のおまえさんは全く¨橋葉¨らしくない。分かってるのか、今和泉が頼れるのは、きっとお前しかいない」
「…それ、どういう、」
五十嵐は、ふ、と視線を逸らした。
暫く逡巡する姿を見せ、そして口を開いた。
「この前和泉の家まで行っただろう。それを先生に報告した。先生は開口一番『誰かに会いましたか』って言ったんだ。変な質問だと思わないか?」
肯定の意味を込めて頷く。
『誰かに会いましたか』なんて、和泉に会いに行った事は明白なのに。
要するに和泉以外の誰か、つまりあの人、妹尾に会ったかどうかを聞いたのだろう。
「和泉と妹尾貴樹に会いました。って言ったよ。そしたら先生は黙って険しい顔をした。…先生は妹尾貴樹に不信感を持っている。先生の予想が正しければ、和泉と妹尾貴樹の間に何かがあったはずだ。和泉は俺達が訪問してから、俺達が妹尾に会ってから、酷く体調を崩してる。メンタル面の影響も大きいと思うけど」
「…何だ、…それ」
和泉は妹尾に『あんな奴らとは付き合うな』とでも言われたというのか。
確かに妹尾とは半ば口論だったし、印象だって良いものでは無かっただろう。
けれどそこで妹尾が深い干渉をしてくる意味が分からなかったし、そこで和泉が体調を崩すまでに神経を使う理由は―――
「そういえば…」
以前感じた違和感を思い出した。
間髪入れずに五十嵐の視線は続きを促した。
「前、和泉を家まで送ったって言っただろ。その時の和泉の様子が変だったんだ」
「変って?」
「妹尾には登校を止められていたのに、自分の判断で登校して、しかも結局電車の中で体調崩して、『貴樹の言ったことを守らなかった』『帰らないと』って、パニックになって…。痛々しかったよ」
五十嵐は、深く息を吐いた。
天井を見上げて独り言のように呟いた。
「…ますます、不可解だねえ」
沈黙が訪れた。
「…教室に戻ろう。俺達は自習だからいいけど、五十嵐は授業入ってただろ」
「そうだね。…その冷静さが¨橋葉¨らしいよ。頼むからおまえさんまで情緒不安定にならないでくれよ」
五十嵐がにやりと笑みを浮かべる。
これだからこいつには適わない。
***
どこかで蝉が鳴いていた。
校舎を囲う広葉樹も夏めいた光を反射している。
「着いたよ」
そう言いながら、貴樹はドアのロックを外した。
「うん」
外気の熱気に少しだけうんざりする。
湿度の高い空気と倦怠感が一度に襲い、思わず眉根を寄せた。
無意識にシャツの袖口に手を伸ばしてしまい、慌てて指を離した。
やっぱり、残っている傷痕は、怖い。
思い出したくない所為か冷静に考えられない。
白く霞む、曖昧な思考放棄。
運転席に座る貴樹の顔色を窺う。
どうしたの、と見返された。
「いってきます」
「はーい。暑いから、気をつけて」
濃紺のメタリックなドアがゆるやかに閉じた。
今は、貴樹を怖いとは思わない。
以前通りの貴樹だ。
しかし、何かしらの変化があったことは確かだ。
時々雰囲気が一変する、ような気がする。
怖くて、緊張で、どうにかなりそうだった。
(…嫌われたていたら…?)
蝉の輪唱が一層大きく聞こえた。
足元に伸びる自分の影が揺らぐ。
鳴き声に囲まれながら、どこまでも続く道に一人きりで立っている、そんな錯覚がした。
玄関に着き、学生証を読み込ませているとチャイムが響いた。
あと五分で、授業が始まる。
そう思って階段を上るも、足が重く、うまく進めない。
そして教室まであと少し、という所で、一歩も動けなくなってしまった。
「…っ」
どうしようと焦る思考回路と裏腹に、強張った体は動く事を忘れ、ただ立ち竦んだ。
爪先に視線を落とす。
緊張にも似たこの感覚。
怖いのだ、と漸く気付いた。
その対象は、良く分からない。
「橋葉!」
名前が呼ばれ、はっと顔を上げると西沢が小走りにやってくる所だった。
「おはよ」
「あ、おはよ~…じゃなくて!和泉は?」
少し抑えられた西沢の声。
時計を見ると予鈴5分前を指していた。
いつも始業ぎりぎりに来る和泉の事だから、特に珍しいことではない。
「まだ来てないね。用事?」
「居ないならいいの。橋葉に用事だから」
「俺に?」
西沢は頷き、空いている和泉の席に腰を下ろした。
「昨日の話聞いた。和泉、大丈夫?」
「…もうそっちのクラスまで広がったんだ?何が発端かは分からないけど、…蹴られてたからね、腹。心配だったけど保健室には残れなかったし、放課後行ったらもう帰ってた。あ、でも早退はしなかったらしいから、大丈夫なのかもね」
「僕原因も聞いた。和泉がプリント落として、それを椅子に座って話してた柴田が踏んだんだってさ。それに対して和泉何て言ったと思う?」
俺は首を横に振った。
「『足、邪魔』って一言。和泉ってあんな見た目だし、線も細そうだし、だからちょっとイメージ違った」
あ、と思った。
復学初日の和泉を思い出す。
痛い位なあの拒絶の雰囲気を忘れていた。
周囲は和泉をどう思っているのだろう。
「それでキレた訳か。なる程ねー。随分詳しい奴が居たんだな」
そう言うと西沢は不思議そうな表情を浮かべた。
「ってか、僕が聞いたの村野だよ。橋葉、話してないの?」
「…村野?」
その時、チャイムが鳴った。
西沢は怪訝そうに俺を見る。
「なに、どうしたの橋葉」
「いや…なんでもない。教えてくれてありがとう」
村野。
そう言えば最近話していない。
「そ?じゃあ僕戻るよ。後で和泉の様子見にくる」
「あっ、そうだ。そっちのクラスのアンケート用紙まだ貰ってない。一緒に行くよ。それで回収してくる」
「ええ、今からー?間に合うの?それ」と、苦笑する西沢。
そう話しつつも席を立ち、時計を一瞥しながら廊下に出た。
その時背後から聞こえて来たのは、あの気怠げな担任の声だった。
「そんな所に立って何やってるんだ。ホームルーム始まるぞ…教室に戻れ」
反射的に振り返り、声の方へ目をやると、廊下の角から担任と、和泉が出てきた。
担任の細めた目と視線がぶつかる。
「ああ、橋葉か。ホームルーム始まるぞ」
そう言われたら、戻るしかない。
不安そうに視線を泳がせる和泉の様子も気になった。
「和泉、おはよ」
「…、おはよう」
和泉には、酷い隈が出来ていた。
***
「南条先生、」
廊下の向こう、白い背中を見かけて呼び止める。
南条は振り返り、こんにちは、と口を動かした。
「あの…、和泉って、」
これだけで、南条には伝わったらしい。
彼は目を伏せて頷いた。
「保健室にいますよ」
その声には、同情の色が滲んでいた。
和泉は、教室に来れなくなってしまった。
*
南条は階段の踊場で、また玄関で立ち竦む和泉を2日続けて見かけたらしい。
3日目、さすがに不安を感じた南条は、和泉を強制的に保健室に連れて行った。
「教室に、足が動かない」
消えそうな声で和泉はそう言ったそうだ。
それが、昨日の話。
「今日、様子見に行ってもいいですか」
「私にそれを拒否する権利はありません。…昨日の様子だと、問題無いと思いますが…。」
「…何してましたか」
「ずっと勉強していましたね」
どこか、歯切れの悪い、すっきりとしない返事。
和泉の所に行ってみようか。
けれど、行って、どう声を掛けるべきだろう――…
「当面は、和泉君が落ち着くまで、保健室登校という扱いにしようと思います。心配しなくても大丈夫ですよ」
南条は困った様に微笑んだ。
今、和泉は¨落ち着いて¨いないのだろうか。
酷い隈の出来た、白い肌を思い出す。
では、と言って、南条は去った。
和泉の様子は、確かに少しおかしかった。
俺と五十嵐で、和泉の家に行ってからだ。
チャイムが鳴った。
同時に今まで全く聞こえていなかった周囲の音が一度に鼓膜を揺らし、一瞬、どこかに取り残された錯覚を覚えた。
和泉は、何を思っているのだろう。
「せーんせ」
放課後、人気の無くなった廊下で五十嵐は扉の向こうの南条を呼んだ。
どうぞ、と南条の声。
疲れているな、と五十嵐は思った。
五十嵐が今日このドアを開けたのには、2つ理由がある。
1つは聞かなければいけない事項があったこと。
もう1つは、今日は南条と一緒に、南条の家に、帰る日だからだ。
机に向かって眉間を揉む南条の隣に、椅子を持ってきて腰を下ろす。
「先生、大丈夫ですか」
「…心労が増えました」
五十嵐には心当たりがあった。
ここに来た理由の1つ目だ。
「和泉、ですか」
髪の隙間からちらりと五十嵐に一瞥を与えた南条は、わざとらしく感じる程に大きな溜め息を吐いた。
そこに肯定を読んだ五十嵐は続ける。
「橋葉から聞きました。保健室登校なんて、そんなシステム許されるんですか」
「はっきり言って、先例が無いので何とも言えません。まあ昔誰かさんも似たようなことしてましたけどね」
誰かさん、と強調して、流し目で不敵な笑みを浮かべる南条。
それでもその表情には疲労の色が滲んでいた。
「さあ?誰のことですかね。…確かに、そうなる時は休学か転校。保健室に登校するなんて選択肢はないですよね」
「そんな誰かさんと違うのは、出席はカウントされるってことですね。試験で不備が無ければ、取り立てて問題にする必要も無いと思います。…あくまで私の判断ですが」
南条がそう判断したのなら、問題になることは無いのだろう。
ではなぜ、南条はこうも頭を抱えているのか。
少しの沈黙の後、潜めた声で呟いた。
「問題は、和泉君自身です」
「どういう意味です?」
南条は背もたれに深く身を預けた。
ぎっ、と音を立てて椅子が軋む。
「和泉君と妹尾貴樹の雰囲気、思い出せますか」
どこか、含みのある言い方だった。
五十嵐は2人の様子を脳裏に浮かべる。
「私、和泉君がこう、周りに対して閉鎖的なのは、妹尾さんが居るからだと思っていたんです。妹尾さんが和泉君を引き取るまでに、どのような過程があったのかが分からないので、断定は出来ませんが…。2人の雰囲気は、少し異質に感じました」
南条がそう感じている事は、薄々気付いていた。
妹尾に対し、不信感を抱いているのだ。
五十嵐はそんな色眼鏡を通して2人を見ていたが、しかし一般的に見たらただ仲が良いだけに思えるだろう。
「まあ、それでもお互いが幸せなら、お互いが大切なら、別段問題はないんです」
「幸せじゃ、無くなったんですか」
橋葉の言葉を思い出す。
「和泉の様子が最近少しおかしい」と。
「…和泉君が、辛そうに見えます。今日、保健室で計ったら微熱があったので、早退させようと思ったんです。そこで、『妹尾さんに連絡しましょうか』と尋ねたら、和泉君は、拒否しました」
少し、意外だった。
「ごめんなさい、止めてください。この一点張り。…和泉君がこうもはっきりと意思表示するのを、初めて見ました」
あまりに悲痛な面持ちなので、自分が残忍な悪人に思えた、と南条は言う。
「でも、何で?和泉って、妹尾だけは絶対的に信頼してるように見えるんですけど」
「分かりません。ただ、和泉君は妹尾さんに迷惑がかかることを、極端に恐れているような気がします。」
確信の無い、憶測だけが飛び交う。
南条は卓上の一冊のファイルに手を伸ばした。
いつかの、調査報告書だ。
「本当は、妹尾さんに直接聞こうと思ったのですが、幸喜の話を聞いて止めました。幸喜と橋葉君が和泉君の家に言った時の様子を考えると、妹尾さんからは正確な情報が聞き出せない」
なので、と言いながら、紙を一枚取り出す。
「妹尾早百合のカウンセラー、この人から始めようと思います」
南条本人が動くのは珍しい。
明らかな越権行為だった。
『正確な情報管理』の大義名分なしに、これは完全に南条の意思である。
「本当は妹尾佳宏を訪ねようかと思ったんですが、医療関係者の方が繋がりもありますしね」
「でも、先生は¨先生¨ですよね。一般人がいきなり訪問して、答えてくれますかねえ」
南条は、五十嵐に向けて口角を上げた。
五十嵐はこの表情が好きだった。
「いざとなったら、奥の手です」
五十嵐は、その奥の手に心当たりがあった。
しかし、なにもそこまで、といった感じだ。
どうやら南条は本気らしい。
南条が、日の落ちた窓の外に視線をやる。
窓ガラスの闇に、2人が映っていた。
「体育祭ですね。幸喜、何か出ますか?」
南条は思い出したように呟く。
「バスケットボールとテニス」
「二つも?」
「勝手に決められてたんですよ…。先生、応援に来てくださいね」
気が向いたら、と南条。
彼が来てくれるのを、五十嵐は確信した。
***
「和泉、」
蝉の歌う昼下がり。
冷房の効いた保健室の机で向き合って、のどかな時間が流れていた。
橋葉は生徒会の仕事を広げながら、おれの名前を呼ぶ。
「和泉は体育祭どうしたい?殆ど自由参加みたいなもんだけど、今の所全員参加しそう」
教室に行けなくなってから、橋葉は朝、昼、放課後と、時間が出来る毎に保健室に来てくれている。
「ん、…」
それは、有り難くもあり、苦痛でもあった。
「審判とかどう?人手足りてないから、結構助かる」
「…じゃあ、それ」
「助かるよ~」
橋葉と話していても、思考の大半は別の事に奪われている。
…貴樹。
「じゃあ、そろそろ行くね」
「あ…うん」
橋葉が書類をまとめるのを手伝って、見送った直後、チャイムが響いた。
窓の外を見る。
ガラスの向こうは、目を背けたくなるほど眩しかった。
今日は南条先生はいない。
朝会った時には、もう出掛ける準備をしていた。
放課後には保健委員か代理の教員が来るはずだ。
机の上にノートと問題集を広げ、ぼんやりと眺める。
自分は、何をしているのだろう。
心の奥から湧き出る空虚が全身に浸透していく。
昨日の事を思い出していた。
学校の帰り、普段は何ともない貴樹の車に酔ってしまった。
吐く程では無かったが、帰宅して、ソファーに体を預けても、眩暈に似たあの感覚は引かなかった。
「直矢、具合どう?もうすぐ夕飯にするけど…」
貴樹が心配そうな顔で覗き込む。
食欲は無かった。
ここ最近、食べ物を受け付けなくなっていた。
まただ、と思う。
味覚が麻痺しているのか、何を食べても同じような味しかしない。
それでも、それを貴樹に言うことは出来ない。
貴樹の負担になることは、嫌だ。
「…大丈夫。今日の夕飯なに?」
そう言うと、貴樹はほっとしたように微笑んだ。
その事に何よりの安心を感じる。
「春巻きだよ。椎茸抜いてあるからね」
香ばしい良い匂いが漂ってきたのはそれから数分後で、手伝いに行こうと立ち上がったら、貴樹にやんわり制された。
困ったような微笑。
「僕がやるから、いいよ。座ってて」
「うん」
穏やかな貴樹の、豹変に怯えながら、箸を進める。毎日を過ごす。
スイッチが分からない。
春巻きを箸で掴みながら、貴樹があっと声を上げた。
「そうだ。明日、仕事遅くなりそうなんだ。だから、迎え遅くなるかもしれない」
ごめんね、と、申し訳無さそうに言われるので、とんでもないと首を振った。
「あ、それなら、電車で帰る」
駅までの道のりが少し曖昧だが、電車通学をしているのは1人じゃないし、何とかなるだろう。
確か、西沢と村上も電車通学だったはず。
その方が貴樹の負担にならないし、幾ら何でも電車くらい1人で乗れる。
本当に、そう思って言ったのに。
貴樹の箸が止まった。
怒ったような、それでいて悲しそうな表情を滲ませて。
―――間違えた、
「電車なんて危ない。迎えに行くから、待ってて」
…怖い。
「…うん」
漠然とした恐怖と焦燥が末端まで駆ける。
貴樹の目を、見ることは出来なかった。
強い吐き気で目を覚ます。
いつの間にか寝てしまったらしい。
机に臥した、変な体勢で寝ていたせいで、腕が痛かった。
「…っ、」
吐く、と直感的に思った。
立ち上がろうとして、机からノートを落とした。
意図せず小さくえずく。
胃液のせり上がる不快感。視界が揺れた。
前屈みになって、よろよろとドアに向かう。
口を押さえる左手が震えていた。
保健室を出る事に、今更ながら違和感を覚えた。
ずっとこのままなのだろうか。
貴樹には、言えない。
「和泉?」
呼び止められ、振り返る前に肩を支えられていた。
強い力で抱き寄せられる。
「…にし、」
西沢だった。
「和泉、どうしたの?」
一緒に移動していたらしい数名が、少し遠くで西沢を呼んだ。
「先行ってるぞー」
「遅れるなよ」
「うん、先行っててー!」
ごめんなさい、と思う。
声に出したらそのまま戻してしまいそうで、意味も無く首を横に振った。
「ね、大丈夫?気分悪いの?」
「…大丈夫、…大丈夫だから、…」
背中をさする手を押し返す。
一人にして欲しかった。
「…、…っ」
「トイレ行ってきたら?待ってるよ」
「平気だから…、」
待たなくていい、そう言うことも出来ず、トイレに駆け込み嘔吐した。
食道が無理に広がる、あの瞬間が大嫌いだ。
「…う、っ、…ぇえ…」
落ちてくる髪が邪魔で耳にかける。
酸のにおいでまた催し、何度となく咽せた。
目が回って腕に顔を埋める。
立ち上がると、本格的に眩暈がした。
水道で口を濯ぎ、トイレから出ると西沢が駆け寄ってきた。
もうとっくにチャイムは鳴っている。
「具合どう?」
「…ん、…平気、」
「今日南条先生いないんだっけ?…迎え呼んだら?誰か他の先生に頼んで、電話…」
はっとして、西沢の腕を掴んでいた。
「いい。やめて…。本当に、平気だから」
西沢は、驚いた表情を浮かべる。
目が瞬いた。
「う、うん、分かったって。大丈夫なら良かった」
西沢のぎこちない、不自然な反応にも気付かなかった。
左手は、まだ震えている。
貴樹。
おれには、貴樹しかいないのに。
***
「小牧芳子さんですね」
その声に反応して、駅ビルのウィンドウに寄りかかっていた女性は顔を上げた。
軽く首を傾げ、訝しげに視線を合わす。
「そうですけれど…。失礼ですが、あなたは…?」
「南条聡と申します」
南条が学校名を告げ一礼すると、小牧はああと合点した。
「はじめまして、小牧と申します」
「では、いきましょうか」
人の良い微笑みを貼り付けて、南条は小牧と連れ立って歩く。
小牧は、妹尾小百合のカウンセラーだ。
時計の針は、午後2時を指していた。
駅近くのデパートの七階、見晴らしの良いガラス張りの店内に2人は入った。
コーヒーを運んできた店員が去った頃合いで、小牧が遠慮がちに口を開いた。
「あの…お電話でもお話しましたように、私からお教えできることはあまり…」
「構いません。些細なことでもいいんです」
「はあ…」
今一つ納得出来ない、といった表情だ。
無理もない。
南条にも、緊張が走っていた。
「それで…、ええと、不登校の生徒のカウンセリングでしたっけ?私の担当している患者さんはみんな学生ではありませんので、正直的確な助言が出来るかどうか…」
小牧はコーヒーを一口含む。
南条は、上唇を舐めた。
『不登校の生徒が酷く悩んでいるようだから、カウンセリングの手法を少しでもいいから学びたい』
これが、南条が小牧に電話で伝えた用件だ。
苦しい口実だったが、いきなり『妹尾家で何があったのか知りたい』なんて言ったら怪しまれること必至。
知り合いの医療関係者の中から何とか小牧の勤めるクリニックと縁のある人を探し出し、紹介役になって貰った。
「そのことなんですが」
南条は姿勢を正した。
相手は年上の女性。おまけに心を扱う仕事だ。
「なんでしょう?」
「…申し訳ありません。お聞きしたいのは、その事ではないんです」
覗き込むように微笑む小牧に、南条は深く頭を下げた。
伸びてきた髪の毛がテーブルに届く。
小牧の顔には、困惑の色が浮かんだ。
正直に、誠実に。
「な、南条さん?どういう意味です?顔を上げてくださいな」
「…」
ゆっくりと背を伸ばし、南条は小牧の目を見た。
不信に思われないように、あくまでも誠実な視線を纏って。
「お伺いしたいのは、妹尾さんの話なんです。騙してしまい申し訳ありません。でも、どうしてもお聞きしたい話なんです」
小牧はコーヒーを飲む事も忘れ、驚きから目を瞬かせる。
「妹尾さん…って、あなた、妹尾さんのお知り合いだったんですか」
「…知り合い、というなら、そうなります。…和泉直也をご存知ですか」
沈黙が訪れた。
小牧の表情には困惑しかない。
考える時間を与えないように、南条は続ける。
「私の勤めている学校の生徒です。…彼の精神がぎりぎりなんです。何とかしてあげたいのに、私は彼の個人的な事を一切知らない。話しているうちにどうやら彼の家庭で起きたことが関わっていると分かりました」
微妙なずれはあるが、全くの嘘は吐いていない。
小牧は頬に手を当て、眉間に皺を寄せた。
「…でも、だからってどうして私が妹尾さんのカウンセリングをしているとご存知なんです?」
「…以前、妹尾さんの自宅の前で、男子生徒を2人見かけたことはありませんか。うちの生徒なんです」
暫くの逡巡の後、ああ、と溜め息のような肯定が漏れた。
「ええ、覚えておりますわ」
「彼らから聞いて…後は、すいません、調べさせて頂きました」
「調べたですって?」
小牧の声が固くなる。
慌てて南条は付け足した。
「調べたといいますか、あなたに私の事を紹介した男が居たでしょう。小牧さんと同じクリニックで働いている…。彼と、飲んでいる時に、…世間話として、ついこんなことで困っているとぼやいてしまったんです。そしたら聞き覚えがある、と言われまして、それで小牧さんの話をしていただいたんです」
完全に、嘘だ。
微笑みを崩さないように、焦りを悟られないように、これは事実であると自分自身にも言い聞かせた。
「そうでしたか…。随分熱心なのですね、今時珍しいほどに」
小牧の雰囲気が緩んだ。
南条は「実を言うと、」と声を潜め、神妙そうな表情を作った。
「和泉くんが学校に提出した住所と、実際に住んでいる所が違うんです。うちの学校は…こういった情報管理に厳しくて、住所が変わる時は確実に申告するよう言われている筈なんです。これも、何か関係があるのかと思って」
小牧は迷い、そして頷いた。
「…患者さんのお話は、守秘義務がありますから、私だけが知りうるお話はできません。ですが、¨世間話¨の範囲でなら…。宜しいでしょうか?」
「勿論です」
ぱっと上げた南条の顔には笑顔が浮かんでいた。
本心の安堵と喜びからだ。
久しぶりに口にしたコーヒーは、もうすっかり冷めていた。
小牧もそれに気づき、微笑みながら店員を呼んで、おかわりを注文した。
「…直矢くん、どうしています?」
悲しそうな、心配そうな表情で小牧が尋ねる。
その横で、店員はコーヒーを二杯分注いでいた。
「かなり、メンタルバランスを崩しています。…最近は、教室にも、あまり、」
「あの子は、本当に可哀想…」
小牧は目を閉じた。
なにを思い浮かべているのか、南条には分からなかった。
「直矢くんの学校でのお話、ご近所でも噂は立ってましたから、ご存知かしら」
知っていたが、少し迷っていいえと告げた。
「噂なので定かではないのですけれど、あの子、ずっと虐められていたって。急に両親を亡くして、引っ越した先でもこんな目に合って、あんまりだわ」
「噂って、例えば…?」
「ふらふらになって帰宅する姿は何人もの人が見ていたようでした。あと…小百合さんが、直矢くんを叱っていたり、叩いていたりする姿も」
あっ、と、思わず声を上げていた。
南条は話を遮った事を詫び、それから意味も無く指を組んだ。
「妹尾小百合さんも、和泉くんに…?」
「フルネームは避けましょう。…小百合さんも、精神のバランスを崩していたんです。だから、私が雇われたのですから」
意志の通った視線が南条に刺さる。
南条は、和泉が中学生の時の副担任だったという、長谷川の話を思い出していた。
『和泉君が家族から暴力を受けていたことを知っていた』そう告白した長谷川。
その時はあの動画の話、ひいては山辺の話を聞き出す事に集中していて、あまり気に留めていなかった。
あの動画で確認した痣や傷痕は、山辺がしたものと納得していたが、妹尾小百合が加えたものもあったというのか。
「直矢くんの学校の方なら、直矢くんが入院していた事もご存知でしょう?あの子、どれだけの期間入院していたの?」
「復学したのは、今年の5月です」
小牧の表情が、悲痛そうに歪んだ。
俯いて、呟くように続ける。
「…これは、きっと私だけが知り得る話ね。…一度お見舞いに行った事があるの。酷かったわ。ずっと泣いて、時々叫んで、そうでないときは眠っていた。私は、直矢くんの元々の性格も何も知らないけれど、貴樹くんが来てくれなかったらと思うと…言葉にできないわ」
思いがけず貴樹というワードが出てきて、南条は驚いた。
同時に、全てが繋がる感覚を覚えた。
不自然な家庭状況。
妹尾貴樹への依存。
大量の傷痕。
「…今、和泉くんは貴樹さんと暮らしてますよね」
「ええ。直矢くんが入院したのは…自殺を図ったからだもの。…貴樹くんが直矢くんを引き取ってくれていなかったら、あの子に安心出来る居場所を与えていなかったら、きっと今、あの子は居なかったと思うわ。大袈裟でなく、本当にそう思うんです」
「…以上です。…どう思います、幸喜」
南条の作ったココアを一口啜り、苦いと呟いていた五十嵐は、いつの間にか南条の話に聞き入っていた。
南条は小牧と別れてから自宅に直行した。
五十嵐は昨日から泊まっている。
「どうもこうもないですよ」
「でしょうね」
あの和泉が、泣いたり、ましてや叫んでいる姿なんて想像も出来ない。
それに加えて、自殺未遂。
線の細い、ふらっとどこかへ消えてしまいそうな危うさを思い浮かべていた。
「妹尾貴樹に関しては、『本当に良くできた優しい子』『あんなに優しい子は居ない』そうですよ」
貴樹くんは一番直矢くんの事を考えている。そう小牧は言っていた。
南条は目を伏せ溜め息を吐いた。
「…共依存だ」
「え?」
ぽつりと呟いた五十嵐に、南条は視線だけ動かした。
「和泉はきっと、妹尾貴樹の事しか頭にない。妹尾の行動だって、過保護にも程がある」
無理もないことだ、と南条は考えていた。
ふと、背筋が寒くなる。
「…和泉くんからしたら、妹尾さんは唯一、居場所をくれた存在です」
「でも、」
「…そうなるのが普通ですよ。保護してくれる人が誰も居なかったんだ」
やや語気が強まる。
対象の分からない苛立ちが湧いた。
分かっている。無理もない話だ。
自分だって、同じ目にあってそんな時に救いの手を差し伸べられたら、その手にしがみつく。
でももう、和泉には選択肢があるじゃないか。
妹尾への依存は、和泉の意思じゃない。
南条は腕を伸ばし机に伏せる。
酷く、疲れていた。
五十嵐は眉を潜め、じゃあ、と南条に向き直った。
「橋葉はどうなるんです。今の和泉に、橋葉の事を考える余裕なんてない。大方妹尾に釘を刺されたんだ。その所為で和泉が体調を崩してるんだったら、」
「…橋葉くんの事は、正直優先順位は低いですよ。何より和泉くんがこのままではいけない。無理に教室に行く必要は無いと思いますが、…彼、食事を取れてない」
「…やっぱり。橋葉もそう言ってました」
南条と意見がずれ、五十嵐は少しぞんざいな物言いになった。
南条程割り切って考えられない。
「教室に行けないのは、柴田くんでしたっけ、彼が原因でしょう。和泉くん本人は気付いてないみたいですけど、きっと潜在的に暴力が怖いんですよ。無理もない」
「…橋葉に伝えないと」
「幸喜は…、橋葉くんのことを随分気に掛けますけど、和泉くんの事は薄情なまでに考慮しないんですね」
言葉には棘があり、五十嵐は改めて南条を見た。
外で雨が降っていることにそこで初めて気付く。
カーテンの向こう、雨粒が分厚いガラスを打つのが見えた気がした。
南条は視線を逸らしたままだ。
人差し指がテーブルを二度鳴らした。
「…何をするべきなのか、分からなくなりました」
部屋が乾燥している。
加湿器を点けることも忘れていた。
「そんなの、元々そうじゃないですか。最初は興味の方が勝ってたんでしょう、先生?言うなら何もするべきじゃ無かったんだ。『正確な情報管理』の範囲を越えてるって、気付いてるんでしょう」
南条がむっとした表情で五十嵐を睨む。
子供みたいだ、と五十嵐は思った。
南条はしかし大人で、直ぐに視線を緩めた。
「そうですね。…幸喜の言う通りだ」
「でしょう?」
得意げに五十嵐は口角を上げる。
降参だと言わんばかりに南条は笑みを零した。
そして、直ぐに表情を引き締める。
するべきことは山ほどある。
考えを整理しようと、南条は手帳とボールペンを取り出した。
長い夜の気配がした。
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