「それでは、各校の垣根を越え、存分にスポーツを楽しんでください!解散!」
会長が声高に開催宣言をする。
合同で体育祭を開催するに至った経緯を延々と述べる教頭の挨拶に、うんざりしていた空気も一斉に華やいだ。
その経緯というのも前任の校長と相手校の校長が親しい友人同士であったから、という至極単純なものであるのに、どうしたらあんな風に紆余曲折できるのか不思議に感じてしまう程。
橋葉は話し終えた会長を呼び止める。
「お疲れさまでした」
「ああ、橋葉。お疲れさま」
「結局、スポ特以外で参加するの、三年ばかりでしたね。三年の希望調査まとめていたら殆ど参加だったんで、全校で闘うかと思ってました」
まさか!と会長は吹き出した。
器用にマイクを片付けていく。
「そんな訳ないだろ。一年が三年と闘えると思うか?肉体的には問題なくても、こんな縦社会じゃいくら祭って言ったって無礼講にはならないよ」
それもそうかと合点する。
どこの高校でもそれは同じようで、相手校である東椋の生徒も殆どが三年だった。
「俺も早く行かないと競技に遅れる。橋葉も急げよ」
「はい」
グラウンドではサッカーの試合が始まろうとしていた。
後から作ったグラウンドなため、ここから校舎と繋がる体育館までは少し離れている。
橋葉も足早に体育館に向かった。
バスケの試合は勝ちに終わり、午後の決勝を残すのみとなった。
生徒会役員は各競技場を見回らなければならない。
自分に任されているのは第一、第二体育館だ。
(和泉、どこの審判してるんだろ)
「はーしば」
突然、背中に衝撃を受ける。
「五十嵐、」
五十嵐がスポーツタオル片手にひょろりとやってきた。
先ほどまでのバスケの余韻が残っている。
軽く上がった息で、おつかれさんと橋葉の肩を叩いた。
「お疲れ。もう終わり?」
「いーや。午後にテニス。橋葉は?」
「生徒会の仕事で巡回」
「楽しそうだねえ。…手伝わないけど」
軽口を叩き合っていると、背後から遠慮がちに声が上がる。
振り返ると、東椋の生徒だった。
タオルで汗を拭きながら、勢い余って縁の太い眼鏡を大きくずらし、それを直しながら近付いてくる。
「あのー、第二体育館ってどこですか」
どうやら迷ってしまったらしい。
橋葉は廊下を指差す。
建て替えの際旧校舎の一部を残し、そこに含まれていた体育館を第二体育館として使用しているため、新校舎からは少しややこしい作りになっている。
「ここを出てすぐの渡り廊下を進んで下さい。一階に更衣室やシャワールームが並んでるんで、そこを突っ切った先の階段を上ればあります」
「藤ヶ谷って広いっすねー。もう三回迷子になりました」
いくらなんでもそれは、と、危うく言いかけてしまった。
橋葉は曖昧に笑みを浮かべる。
「何度か建て替えてるんですけど、その都度一部を残して改築したらしくて…だからこんなにややこしいみたいです」
東椋の生徒…指定ジャージに「森田」とある…は、ふうんといった表情を浮かべ、納得したように頷いた。
そして遠くに友人を見つけて呼ぶ。
「おーい岩林!行き方聞いたぞ、行こうぜ」
岩林と呼ばれた男ははっと振り返り、森田を視界に留めて頷く。
岩林も眼鏡を掛けているが、どちらかというとしっかりとした体躯の森田とは対照的にガリガリといっていい程細かった。
そこで、他校の生徒に全く関心を示さなかった五十嵐が、初めて何かに反応した。
「…岩林?」
小さくそう呟く。
二人が去り、橋葉は知り合いかと尋ねたが、五十嵐の視線は対照的な2人の背中を追っていた。
「おい五十嵐、さっきの2人がどうかしたのか」
語気を強めると、漸く五十嵐は向き直った。
少しだけ顔色が悪い。
困惑に近い、こんな表情を見るのは初めてだった。
「橋葉、向こうの高校の参加者名簿とか、持ってるかい」
「…そりゃ、持ってるけど、…一体どうしたんだよ」
五十嵐はそれには答えず、今すぐ見せてくれ、と真剣な顔で視線を合わせた。
「…教室に置きっぱなしだよ」
「じゃあ取りに行こう」
生徒会の仕事もあるのだが、そんなことを言い出せる雰囲気では無かった。
半ば急かされるように体育館を後にする。
教室に戻る途中も、五十嵐は何も言わなかった。
体育祭の喧騒から離れ、すっかり人気の無い校舎は静まり返っていた。
あんなに賑やかだったのに、2人だけが空間から切り離されたかのように感じた。
遠くから歓声が聞こえた。
橋葉は鞄の中から名簿を取り出して五十嵐に手渡した。
五十嵐はそれをざっと眺め、2枚目で動きが止まった。
「…2-3、岩林、洋一」
聞こえるか聞こえないかの声で、名前を読み上げる。
橋葉に聞き覚えは無かった。
考えの読めない五十嵐の言動に、橋葉は苛立ちさえ感じていた。
「誰だよ、それ」
橋葉、と、五十嵐は言う。
顔を上げたが、その視界は橋葉を捉えてはいなかった。
「だから、何」
ついきつい物言いになってしまうも、五十嵐はそれから何も言わない。
岩林洋一。
一体、誰なのか。
***
「橋葉、」
五十嵐が呼ぶ。もう何度目か分からない。
躊躇いを感じさせる沈黙が流れた。
「まずいことになったかもしれない」
小さな声だった。
意味が分からず首を傾げる。
五十嵐は、いつになく慎重に口を開いた。
「橋葉、端的に話すから聞いてくれ。和泉は中学の時虐められていた。しかも生半可なレベルじゃない。かなりキツイ。俺だって無理。高校を丸一年休んだのも、一部はそれが原因だ。その加害者側に居た奴が、向こうの高校にいる。さっきのメガネだよ、ガリガリの方。名前は岩林洋一」
五十嵐は一息にそう言う。
いつもののらりくらりとした調子とは天と地ほどの差だ。
五十嵐は、岩林が完全に加害サイドに属していた訳ではないと知っていたが、説明が長くなるのでやめた。
橋葉の眉間には深い皺が刻まれていく。
「何だ、それ」
「おまえさんの言うバランスを崩して悪かったね。でもちょっとまずいと思わないかい」
「ちょっとどころじゃないだろ。その問題って、当人たちは解決してるのか」
「してたら一年も引き摺らないだろうねえ」
新たに入ってきた情報は余りに明後日の方向性で、思考回路はフリーズした。
五十嵐が知り、自分の知らない和泉のこと。
和泉の言葉を思い出す。
『俺のせいで家族が死んだ』みたいなことを言っていたから、和泉の不安定さは家庭内の問題かと思っていた。
(あるいは、それも一部か…)
いずれにせよそれは推測の域を出ないもので、和泉が知られたくないと思っているなら知りたくない事だった。
和泉の口から聞きたい。
五十嵐もそれを分かっているからか、それ以上は何も言わなかった。
最低限の状況説明。
「それで、どうすればいい?そいつ…岩林?だっけ。五十嵐はそいつがまた和泉に妙な動きをしなか心配してるのか?」
名簿に目を落としたまま緩く首を振る。
「妙な動きをして…、万が一、…いや、何でもない」
「万が一、何」
「…もし、あいつがおかしな事をして、和泉がまた一年外に出られなくなったらどうだい…って話」
一瞬だけ脳が固まった。
五十嵐は五十嵐で和泉を心配していたのだ。
少しの意外性。
溜め息を吐く。
窓の向こうの快晴は、真夏の空気を生んでいた。
五十嵐は自分の鞄から携帯を取り出して電源を入れる。
「ちょっと先生の所に行ってくる。おまえさんは生徒会の仕事がてら和泉を探しておいてくれ。和泉だって役員の仕事してるだろうし、連れてこいなんて言わないけど、どこに居るか分かってた方が橋葉も安心だろ」
にやりと笑う五十嵐。こんな狐顔で甘党という意外性の男。
じゃあ、と言って立ち去ろうとする背中を呼び止める。
「お前、テニスはどうすんだ」
五十嵐は携帯を耳に当てながら首だけで振り返った。
「サボるさ」
音を立ててドアを閉める。
足音が遠ざかると、完全な静寂となった。
動きたくないな、そう思って、そんな自分の考えに驚く。
名簿を仕舞った。
岩林洋一。細身の眼鏡と、痩せた体を思い出す。
顔の印象は特に無く、ぼんやりとしていた。
空は憎らしい程晴れていた。
飛行機の音が、歓声の隙間から聞こえた。
時々ホイッスルが響き渡る。
炎天下のグラウンドには音が溢れていた。
*
「…君、和泉君、」
肩を控え目に叩かれ、心臓が縮む。
横を見ると、同じ得点係の女の子が不思議そうに見ていた。
制服の上だけTシャツに代えた彼女は、得点表を指差す。
確か、サオリと言っていた。
「和泉君、そっち、点入った」
慌てて得点を捲る。
サオリは興味無さそうに視線を戻し、コートの中でサッカーをする選手達に声援を送った。
誰かがゴールに向かってボールを蹴り、それをキーパーが弾いた。
歓声が一際大きくなる。
額から流れた汗が頬を伝った。
暑さで思考が霞む。
蝉の輪唱に焼かれていく気がした。
太陽光はじわじわと体力を奪う。
(この人、大丈夫?)
得点表をいじりながら、サオリは横目で様子を窺う。
初めて会った和泉直矢は、想像よりずっと線が細かった。
それに、いくら得点係だからって、長袖シャツのまま来るなんて、ちょっとズレてる。
サッカーなんて興味無いんだろうな、と思った。
ぼんやりとコートを眺めているが、サッカーを見ているのかどうかは分からない。
突然、ガシャンと音がした。
はっとして横を向くと、和泉が得点表に体重を預けていた。
倒れそうになって、慌てて掴んだ、という感じ。
「ちょっと、大丈夫?!」
和泉は何とか体勢を整える。
けれど、まだ足がふらついていた。
俯いた頬を見てぎょっとした。
この炎天下、和泉の顔色は蒼白だった。
血管が透けて見える。
「ねえ、休んでた方がいいんじゃない。顔色やばいよ」
和泉はちらりとこっちを見たが、何も言わなかった。
(何、こいつ)
少し、むっとした。
口下手とか、人見知りの話ではない。
大丈夫かどうか位、何とか言ったらどうなのか。
横から窺える睫毛の長さに目が留まる。
作り物みたいな横顔から目を逸らせないでいると、いきなり和泉は口を開いた。
「ごめん、」
消えそうなくらい掠れた声だった。
初めて向けられた言葉は謝罪。
彼はほんの少し顔を動かしただけだったのに、視線が一直線に繋がる。
ずっと見ていたのが気付かれたかもしれないな、とか、頭の隅で浮かんできた。
申し訳なさそうに私を見て、俯く。
「少し休んで、いい?」
きっと、
神様が物凄く時間をかけて、丁寧に慎重に作った顔なのだろう。
でなかったら、こんな風に――
強い日差しを受けて、和泉は空気に溶け込みそうだった。
なんでそんな事、いちいち私に聞くんだろう。
得点表に体重を預けたままの和泉は、今にも倒れてしまいそうで、首が痛くなるほど頷いた。
和泉はほっと息を吐き、その場に腰を下ろした。
驚いたのは言うまでもない。
(…え。休むって、ここで?)
だとしたら、和泉はこの場に座る許を私に求めていたことになる。
わざわざ私に聞かなくても、辛いなら休めばいいのに。
そんなに威圧的な態度、取っていたつもりは無いんだけど。
「ね、ねえ、こんな所じゃなくて。救護テントとか、日陰でもいいじゃん。涼しい所で休みなよ」
和泉は体育座りをした膝に顔を埋めたまま、顔を上げない。
ようやく、彼の異変に気付いた。
「ねえ、大丈夫!?」
得点そっちのけで和泉に近寄る。
何かがおかしい、と思った。
やけに早くなった呼吸。
真っ青な顔色。
傍らに膝をついて軽く肩を揺すると、彼は呆気なくバランスを失った。
熱い体がもたれかかってくる。
「ねえ、どうしたの。聞こえる?」
返事は無い。
その代わりに、浅い息。
ぐったりとした手足は殆ど力なんて入ってなかった。
制服のズボンは土まみれになっている。
どうしよう。
どうしたらいいの。
半ばパニックになり、夢中で辺りを見渡した。
和泉が死んでしまうと思った。
それほど目の前で蹲る薄い背中は弱々しかったのだ。
「和泉!」
誰かがそう叫ぶのと、和泉の肩が強張るのはほぼ同時。
「…っ、う、」
喉の奥で何かを堪えるように息を詰める。
小さく嘔吐いた。
背中をさらに丸め、細い指で口元を押さえた。
誰かが駆け寄って来る。
ビブスを着用しているから、サッカーに出場する生徒なのだろう。
スターティングメンバーではなかったらしく、テントの方からやってきた。
違うクラスだけど、見たことある。
確か、西沢だ。
「和泉!大丈夫!?…ねえ、どうしたの」
最後の言葉は私に向けられた言葉ものだった。
馬鹿みたいに首を振る。
何だか泣きそうだった。
試合をしていた人たちも、一時中断してこっちを見てる。
「分かんない…!具合悪そうだったから、休んでなよって言って、急に、」
西沢は真剣な顔で何度か頷いて、私に体重を預けたままの和泉を引き寄せた。
夏の日差しも暑かったが、和泉の体温はもっと高かった。
「和泉、立てる?」
背中をさすりながら西沢が尋ねる。
何人かが私たちを囲んでいた。
心配そうな顔と、興味本位の顔に二分できる。
口元を覆った和泉の左手は小刻みに震えていた。
それを抑えるようにもう片方の手で左手を掴む。
相変わらず呼吸は酷く乱れていた。
西沢も小柄だと思っていたが、和泉はそれよりもずっと細い。
変に慌てた頭はそんな事ばかり捉えてしまう。
和泉が怠そうに首を振った。
自力で立ち上がる事すら困難らしい。
その事に気付いた時、もう一人が見物人を抜けて和泉の横に膝をついた。
(私、邪魔になる)
そう思い、慌ててその場から離れた。
さっき来たのは、隣のクラスの村野だった。
「村野、和泉に肩貸すの手伝って」
「勿論そのつもりできたんだよ」
真面目な顔で、そんなやり取りをする2人。
後ろの方から「熱中症じゃない?」と、誰かが囁く声が聞こえた。
和泉に対して謝りたい気持ちでいっぱいだった。
何でかと問われるとうまく答えられないのだが、とにかく凄く悪い事をしてしまった気がしたから。
ぐったりと脱力した和泉を何とか立たせ、半ば引き摺るようにして二人は和泉を連れて行った。
何度か和泉がしゃがみ込んでしまい、炎天下のグラウンドを抜けるまで、気の遠くなるくらい時間がかかった。
誰が言い出したのか、試合は再会した。
結果は2対4で青色ビブスの勝ち。
トーナメント表に記入するのも得点係の仕事だった。
得点係なんて、一人で十分じゃないか。
そう、思った。