tip off THE GHOST

熱が出ると思い出す。

よく冷えた冬の日。父親――達男と暮らしていた古いアパート。熱に浮かされ見上げた天井がゆらゆらと歪む。まばたきのたびに焦点が揺れて、それはまるで水の中に沈んでいるような感覚。

数日寝込み、着替える体力も替えの衣類もなく。ボロ雑巾のようになった俺を、達男は外に連れ出した。

病院に連れて行ってくれるとは思わなかった。だけど、従えばなにか少しでも体は楽になるんじゃないかと、愚かしくも期待してしまった。
だが、そんな甘い考えを抱いたのも一瞬。荒い運転の後部座席に詰め込まれ、せり上がってくる嘔吐感に耐えながら、己の浅薄さを呪った。

 

向かった先は川沿いに並ぶ雑居ビルの一角。決して綺麗とは言えない水路からは、生臭いにおいが風に乗って運ばれてくる。その水面は、鉛色の空と同じ色をしていた。

錆びた外階段を登って三階。半ば廃墟のようなコンクリートの一室は、デスクやキャビネットの並びがかろうじてオフィスらしき体裁を保っていた。

 

そこには、男がいた。
黒いスーツに見を包んだその男が、達男の肩を労うように叩くのを見た。その腕には、暗がりにも光るゴールドの時計。
俺は革張りの剥げかけたソファに転がされていた。頭がガンガンする。乾いてざらついた喉が痛かった。

「達っちゃん、良いじゃねえの」と、男が言った。
「いやいや。お気に召さなきゃそこらの川にでも」やたら腰の低い達男がへらへらとそう言った。

達男はスーツの男に封筒を手渡され、やっぱりへらへらと頭を垂れながら出ていった。
俺はその部屋で、初めて他人に肌を触られた。

「あっつい死体とヤってるみたいだな」

男は自身の肉棒を俺にねじ込みながら、薄ら笑いでそう言った。

「次はあったかい部屋に呼んでやるよ」

叫びたいのに声が出なかった。
吐き出したいのに胃の中は空っぽだった。
逃げる先は、どこにもなかった。

 

***
 

大きな物音が聞こえ、急いでリビングを飛び出した。蒸しタオルを作ろうとしていた手が濡れたままだけど、そんなの構っている暇はない。

「真澄くん、開けるよ」

そう断って扉を開けると、足下に熱い体が倒れ込む。慌てて抱き起こし、彼の体重を預かった。
想像はついていた。目が覚めた時に僕が見当たらなくて、きっとパニックを起こしたのだろう。熱で体もきついだろうに床を這い、助けを求めてドアを叩く。彼は今、夢と現実の狭間にいる。

「真澄くん、大丈夫だよ。びっくりしちゃったね。僕はここにいるから、大丈夫。」
「ひ、ぁ………、あぁ………っ………ああっ」
「大丈夫。怖かったね。もう大丈夫だから、布団戻ろう」

聞こえているのかいないのか、それでも真澄くんがゆるく頷いたのが分かり、僕は同意と受け取った。彼を抱えてベッドに運び、大丈夫だよと繰り返す。

「………よし、たか……、おれ……」

なんかへんだ、と、真澄くんが続ける。熱っぽい息を吐き出して、ひとつ呼吸をするのも苦しそうに。

「熱があるからね。真澄くんのせいじゃない」

何かが変だという彼の感覚は正しいのだと思う。
そして、自覚してしまうからこそ、コントロールを失った感情に翻弄されてしまう。

「体拭こうか。蒸しタオル持ってくる。ちょっとだけ部屋出るけど、すぐ戻るから」

彼の額に張り付いた前髪をすくう。この様子では体も汗ばんで気持ち悪いだろう。
その指で、目尻からこぼれ落ちそうな涙を拭ってみる。長い睫毛に絡む雫を、舐めてしまったら怒るだろうか。
浮かんだ思いつきに保留マークをつけて、静かに部屋を後にした。

一昨日から、真澄くんの熱が下がらない。

 

***
 

一昨日の真夜中、ふと目が覚めると隣に真澄くんの姿がなかった。ついさっきまで彼はここにいたのだと、布団に残る体温が教えてくれる。
深く考えることもなく、喉の渇きを覚えて外に出る。真っ暗だと思っていた廊下は予想外に明るい。なんだろうと不思議に思えば、トイレの電気が点いている。

閉じきれていない扉の隙間に気付くのと、耳が不自然な水音を拾うのはほとんど同時だった。
眠気も渇きも吹き飛んだ。嫌な予感に急かされて、隙間明かりのこもれる個室を断りもせずに開け放つ。案の定だった。便座を抱えるようにしてへたり込む真澄くんと、その床に広がる吐物。
僕が入ってきたことが分かって、真澄くんは首をすこしだけこちらに向けた。酷い顔色で眉根を寄せて、しまった、という顔。来るなと言われる前に踏み込んでしまおう。

「真澄くん?………苦しかったね。具合悪かった?」

薄い背中は今にも倒れそうに見えて、支えるように肩を引き寄せる。意外にも抵抗はなかった。つまり、彼がそれだけ憔悴しているということ。
腕を伸ばす気力もないのか便器の中は吐いたままになっていて、まずはそれを流すことにした。視界に入って気分の良いものではないだろう。

「…………起こした?」掠れた声でそう問われる。
「いいや。起こしてくれて良かったのに」
「急に、………あがってきて、………」

手を添えた背中がぐっと強ばるのを感じる。

「出そう?」

そして、平熱よりも遥かに高い体温も。

「………真澄くん。熱、あるよ」

 

その後も、しぶとい吐き気は真澄くんを離さなかった。疲れ果てて眠り、また吐き気に起こされる。終いには部屋から布団を持ってきて、僕らは廊下で夜明けを迎えた。

朝になり、多少動けるタイミングで病院に駆け込んで、点滴と解熱剤の処方。ひとまず嘔吐は落ち着いたものの、奪われた彼の体力は計り知れない。ベッドにぐたりと横たわる姿はまさに満身創痍で、ほとんど気絶するように眠りに落ちた。

つと、空腹を覚える。そういえば、バタバタしていて朝からなにも食べていない。時刻は既に十三時をまわっていた。
熱い息を吐きながら眠る真澄くんの布団を整えて、起こさないようそっと部屋を出てリビングに向かう。手のひらには、まだ彼の体温が残っている。

萎みかけのトマトとツナ缶を具材にパスタを作り、味付けは二の次に栄養補給として飲み込む。万が一にも共倒れになるわけにはいかない。早く寝室に戻りたいと気持ちは急いて、何を食べてもきっと同じ味になる。
やや茹ですぎてしまった麺が半分ほど減った時だ。
声が聞こえた。否、声と呼ぶには躊躇われるような、迸る悲鳴。この家には二人しかいないのだから、誰のものかなんて分かりきっている。

「真澄くん!」

はやる気持ちのまま部屋に飛び込んで、その目を疑う。こんもりと膨らんだ布団の塊が叫んでいる。ベッドの上で体を丸め、布団に隠れるように身を縮めるのは真澄くんだった。

「真澄くん、どうしたの」
「あ、あぁ、や、やだ、いやだ、来ないで、嫌だ」
「真澄くん、僕だよ。顔見せて。大丈夫だから」

布団の塊にそっと手を添わせると、その中で真澄くんは激しく身じろいだ。もがくように暴れ、布団をはねて這い出てくる。ベッドから落ちそうになる体を咄嗟に引き寄せたら、真澄くんは再び悲鳴を上げる。恐怖がそのまま音になったような絶叫は鋭かった。

「真澄くん落ち着いて………っ」

いったいどうしたって言うんだ。落ち着かなければいけないのは僕のほうだ。分かっているのに焦る気持ちを止められない。こんな風に混乱する姿を見たことがなかったから。
真澄くんは熱い体を全部使って僕から逃れようとする。どこにこんな力があったのだろう。押さえようとするほど暴れ方はひどくなって、ついにはベッドから転げ落ちてしまった。

「……なさ……ごめんなさい……ごめんなさい、おとうさん………!」

床に伏せてもなお体を小さく縮めて、反復されるうわごと。はっとする。真澄くんが見ている亡霊は、きっと夢の中にいる。
膝をついて近付くと、真澄くんは頭を抱える両腕をいっそう強ばらせた。

「……ますみくん。大丈夫。僕だよ。ここは僕たちの家だ」

そっと、震える腕に触れる。途端真澄くんは弾かれたように起き上がって、その手は払われてしまった。涙でいっぱいになった瞳は何も映していない。それでも、濡れた頬でも、引きつった表情でも、顔を上げてくれたことに安堵する。噛んで含めるように「だいじょうぶ」と繰り返す。真澄くんは固まったまま動かなくて、僕はまたわずかににじり寄り、真澄くんの腕が上がるのを見た。

「こないで」掠れて音にならない声がそう言った。でも、ここで引いたら、真澄くんがどこかに行ってしまう気がして。戻って来られなくなる気がして。
胸にドン、と衝撃。何度も、何度も。真澄くんの拳が振り下ろされるのも構わずに、その背に腕を回す。

「いやだったね。だいじょうぶ。真澄くんはなにも悪くない。こっち向いて」

胸の中で、真澄くんの手が止まった。乱れた前髪のあいだから僕を見上げる。視線がかちりと合わさった気がして、思わず頬が緩んだ。良かった。戻ってきた。

「…………よし、たか」

名前を呼ばれて、つい抱きしめてしまいそうになる。驚かせてはいけない。彼はまだ目が覚めたばかりだ。ようやく緊張のほどけた頬を、両手で挟んでみる。むっと唇が出る。真澄くんは、何がなんだかといった顔で、されるがままにぱちぱちと瞬く。

「はい。どうしたの、真澄くん」
「………なんか、おれ、変な夢見て……」
「そうだったんだ。それは、嫌だったね。ほら、すごい汗だ」
「……ん。……もっかい、寝る」
「まだ体熱いからね。拭くもの持ってくるから、いっかい布団入ろうか」

こくりと頷いた真澄くんをベッドに収め、丸まっていた布団を広げてかける。真澄くんは、さっきまでの混乱を覚えているような、覚えていないような、曖昧に怪訝な顔をしていた。魘されてほとんど眠れなかったのかもしれない。すぐに瞬きがゆっくりになる。
照明を絞って部屋を出た。暗闇は作らず、ドアも隙間を開けたままで。
タオルを持ってすぐに戻ろうと心に決めた。
亡霊なんかに彼を連れていかせはしない。

 

***

 

何かが変だって分かってた。

何度も何度も繰り返されるあの冬の日。コンクリートの一室。熱に浮かされたリフレイン。

これは夢だってちゃんと気付いているのに、意識がごっそり持っていかれて、自分がどこにいるのか分からなくなる。そうなってしまうとすぐには戻って来れなくて、天井からおかしくなった自分を見下ろしているような、妙な感覚。ますます、何が夢で、どこからが現実なのか分からなくなる。悪夢と、記憶と、リアルが、境目無く流れ込んでくる。

「……!……はっ、は……は……っ」

裂けるような痛みで目が覚めた。
心臓が弾けてしまうんじゃないか。それくらい激しく脈打って、全身から嫌な汗が吹き出した。

痛んだのは夢の中の自分。今はどこも痛くない。けがもしていない。大丈夫だって佳隆が言った。だから大丈夫──そう言い聞かせてみるけれど、なかなか動悸が収まらない。

布団の中、寝間着代わりのシャツの胸をぐしゃぐしゃに掴む。足下から這い上がってくる恐怖を追い払いたくて、体を小さく縮める。
そうだ、さっきもこんな感覚になって、わけもなく怖くて仕方がなくて、暗がりの部屋で自分を見失った。逃げなきゃと、それだけが強い衝動で、気付いたら扉を叩いていた。
ぐっと喉が広がった。
胃の辺りから迫り上がってくるものを感じて唾を飲む。

(………吐くかも、)

じわじわとやってくる嫌な感覚。
体を起こすと視界が揺れた。ぐらぐらと歪む視界に思わず目を閉じて眉間を押さえる。だんだん暗さに目が慣れてきたけど、その間も吐き気は徐々にはっきりとした形になってくる。

「――――う、」

咄嗟に口元を押さえた。ほとんど反射だ。これ、まずいやつ。吐くやつだ。おぼろげな恐怖とはまた違った種類の不快感を確信する。

(………あ)

何かないかと視線を巡らせて、目が止まる。つむじが見えたからだ。ベッドに頭を預けるようにして眠る佳隆のつむじ。
床にはノートパソコンが開かれていて、読みかけで伏せられた文庫本も落ちている。佳隆が、かなりの時間、ここにいたんだって分かる。
そうだ。さっきも、佳隆が来てくれた。焦って泣き叫ぶ俺に嫌な顔ひとつしないで「大丈夫」と俺を包む。

「…………よ、よしたか」

おそるおそる、そのつむじに手を伸ばす。

「ごめん寝てた!どうかした?」

触れるが早いかがばりと勢いよく顔を上げるものだから、びっくりして手が引っ込んだ。

「……ご、ごめ…………ちょっと、その、吐きそ、で」

言葉にするほど、胃のむかつきが広がっていく。心臓がばくばくいってる。俯いたらそのまま出してしまいそうだったけど、気分が悪くてどんどん背中が丸まっていく。

「あー、もう、僕が寝てどうするんだよね。気付かなくてごめんね。トイレまで行ける?袋もあるけど……」

灰色っぽいビニール袋が差し出されて、でも、袋に戻すのも嫌で、俺は押し返した。起こしておきながら、我が儘言って、ごめんね佳隆。心の中で謝罪して、ベッドから下りようと足を出したら、佳隆は俺の肩を抱いた。

「わかった。トイレ行こう。だめだったら、だめでいいよ」

返事の代わりに、佳隆の服を掴んでみる。
足もとは覚束なかったけど、掴んでいれば、これでもう大丈夫だと思った。どこに行っても、佳隆は俺を捕まえてくれる。

「熱、下がってきた感じするよ。しんどいの、もう少しだからね」

額に佳隆の体温を感じて、本当だ、熱、下がってきた。熱と一緒に、亡霊の影も蜃気楼のように遠ざかっていく。
これでもう、大丈夫。

 

***tip off THE GHOST:END

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