「真澄くん、今日はどこに行こうか?」
目の前で嬉しそうに微笑むのは、佳隆という長身の男。
彼は俺を、五万円で買っている。
_toi et moi 1
「んー、……どこでもいいよ」
繁華街から一本離れた通りの公園に、電車の往来もにぎやかな高架下。寂れた駅の駐車場。アンダーグラウンドのレンタルショップ。〝そっち〟の人が自然と集まる場所は案外どこにでもあるもので、佳隆と知り合ったのもそのうちのひとつ。
誰でもよかったし、幾らでも構わなかった。
目が合って、声を掛けられればついて行って一晩を過ごす。それで相性が良かったら、相手に気に入られたら、メールアドレスを交換して、今度は呼ばれた場所でセックスをする。それが日中だろうと、真夜中だろうと。
気に入らない連絡先は消した。それは、相手だって同じこと。所詮そんな関係だから、各々おおむね後腐れなく他をあたる。
面倒なことになった時もあった。死ぬかもしれないと何度か思ったし、その度に住処を変えなきゃならなかったから、けっこうな、いや、かなりの手間もかかる。
でも、やめようとは思わなかった。いっそ壊してくれればいいのに。そう思った。
この衝動をなんと呼べばいいのか分からない。
相手にもそれが伝わるのか、はたまたそういう扱いが好きだと思われているのか、俺に金を払う奴らは往々にしておかしなことを要求する変態ばかりだ。
けれど。佳隆はイレギュラー中のイレギュラーだった。
今日だって、彼は会うなりにこにこと「いくら必要なの?」なんて聞いてきた。きっと言い値で万札を出すのだろう。
それにも関わらず、彼が求めるものは普通のデート。
食事や映画、買い物と、本当に普通のデートなのだ。おまけに、彼は俺に指一本と触れてこない。不能なのかと疑いもしたが、半ば強引に関係を繋いだ際にその疑いも晴れた。どうやら俺の外見は、佳隆にとって相当の好感を与えているらしい。
ずいぶん物好きなやつだと思う。
佳隆と初めて知り合った夜、俺は厄介な男に絡まれていた。
そいつは強烈な変態趣味で、数ヶ月前に一晩過ごした後にすぐ、連絡先を消した。
偶然か、まさか探されていたわけではないだろうが、とにかく再会してしまってしつこく言い寄られ、腕を掴まれて逃げるにも逃げられず膠着しているところに、佳隆が現れたのだ。
『彼、僕が買っても良いかな?』
俺と男の間に割って入るようにして、確か、そう言った。
ひと目で質の良さが窺えるスーツに見を包んだ佳隆は、見るからにこの場に不釣り合いだったし、経済的なゆとりも明らかだった。穏やかな声音の中に有無を言わさぬ強さがあって、堅気じゃないんだと言われたら納得できてしまうくらい、底知れぬ圧がある。それは、俺の腕を掴んだままの男も察したらしい。二,三、言い合って、押し負けるように男の体温が離れていく。舌打ちをしたのはせめてもの虚勢か。
そして、佳隆は悪態を吐きながら去っていく男には一瞥もくれず、俺に微笑みかけながらこう言ったのだ。
『ところで、いくらで君と過ごせるの?』
***
「…………くん、真澄くん、」
ぼんやりと思い起こしていると、佳隆に名前を呼ばれた。
「僕が行きたかったレストランがあるんだけど、そこでいい?」
見れば彼は既に携帯を取り出していて、予約を入れる一歩手前といった感じ。
慌てて手を重ねて制止する。
「えーっと、ちょっと食事はパスかなあ」
もう済ませちゃった。そう嘘を続けるより早く、佳隆は俺の肩を掴み、背を屈めて視線を合わせる。
突然目の前に整った顔が現れて、少したじろいでしまう。
「暗いから分からなかったけど、顔色が悪い。具合が悪いんじゃ……」
「…………なにそれ、考え過ぎ。もう済ませちゃっただけ。ってか、具合悪かったら来ないって」
「そりゃあそうだろうけど……」
納得のいかない佳隆の視線を受けながら、知らん顔で気付かない振りをする。
実際のところ、気分が、ひどく悪い。
午前中、何度もやり取りをしている男からメールで呼び出され、直行したホテルの一室。なにも知らされないうちに、二の腕から薬を打たれた。
倫理やモラルなんて無いに等しい関係だけど、さすがに薬物はルール違反だ。ふざけるなと抵抗もむなしく、「悪いものじゃないから」と、あっさりと男に捕まっていた。帰ろうとして叶わず、揉み合いになっているうちに、世界がひっくり返った。
天井がメリーゴーランドみたいにくるくる回る。天と地が、上下左右がまるで分からなくなる。なんのBGMだろうと思ったら、あらゆる音が旋律を持って聞こえているだけだった。「なにこれ」と俺の口が言った。「おもしろいでしょ。気持ちよくなるよ」と、男の声。五感が輪郭を失って溶けていくのに、会話だけは明瞭なことが不思議だった。
ベッドに運ばれて、男を見上げて。煌々とした光に目が沁みて。そこで、コンセントを引き抜いたように意識が落ちた。
夕方、強い頭痛と吐き気で目が覚める。男の姿は既にそこにはいなかった。記憶はまるで残っていなかったが、体に残った不快感はすべてを覚えていた。
照明が眩しくて痛いほどで、ベッドサイドに手を伸ばして明かりを落とす。備え付けの液晶テレビは海外のポルノ映画を延々と流していた。
その後、灰皿を文鎮に置かれていた裸の万札を手にホテルを出て、今に至る。
熱いシャワーを浴びても怠さは流れてくれなくて、少し歩いただけで足下が歪む。薬が残っていてもおかしくない。自業自得だな、なんて自虐的な気分にすらなっていて、だからこそ佳隆には見抜かれたくなかったのだ。
「…………そんなことより、飯より、俺、佳隆さんが欲しいな」
いいでしょ、と耳元で囁くと、佳隆の喉仏が上下するのが見て分かる。
正直、こんな体調で、とてもそういう気分にはなれない。けれど彼だって金を払っているのだ。そもそも俺の顔はこいつ好みなはず。自惚れるつもりはないが、魅力的な誘いではあるだろう。
真面目な話なんてしたくない。真剣な目で見られたくない。欲望以外の感情なんて、重たくて重たくて耐えられない。
「…………分かったよ」観念したように佳隆が言う。
「でも、先に食事をしてもいい?実は君と食べようと思って、まだなんだ。真澄くんは食べなくてもいいから」
デザートだけでもどう?なんて、呑気に尋ねるものだから笑えてしまう。
***
食事先に選んだのは近くのカフェだった。
コーヒーとサンドイッチなんて、まるで昼食のようなメニューを注文して、佳隆は次々とどうでもいい話を続けた。
動物を飼ってみたいこと。名前を考えているけれど、何を飼おうかは決めていないこと。米国市場で売りが目立つなんて経済情勢。最近行ったタイ料理のお店で、ライムがかご盛りで出されたこと。なにそれと、思わず吹き出してしまうような時には、そんな自分に驚いた。
アメリカンサイズのサンドイッチを、佳隆は器用に片付けていく。
よく見れば想像よりも大きな手だ。コーヒーカップで持て余す長い指をぼんやりと視界に入れながら、俺はストローを噛む。
店に入った時から胸が詰まるようないやな感覚があって、佳隆が頼んでくれたジャスミン茶はもう半分以上飲み干していた。
(……あー……気持ちわる…………)
どんどん動悸が高まっていく。無視できない吐き気に息苦しさすら覚え、相槌もそこそこにグラスを置いた。
「……佳隆さんごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「うん。突き当たりを左だよ」
自分がひどい顔をしていることが分かるから、佳隆の方を見れない。嘘の言葉なら、作ってみた笑顔なら、どんなに見られたって構わないのに。取り繕えない生身の自分を覆うものは何もなくて、それが、怖いと言ってしまえば、それまでなんだけど。
小さなカフェなので、トイレは男女兼用の一つだけ。ふらつく足取りで辿り着いた個室は、使用中だった。
「……………っ、………う、」
手洗い場の壁に寄りかかり、少しでも楽な体勢を求めて体を折る。
こんなこと、こうまでしてどうして続けるのか、自分ではもう分からない。なんのために。それを考えるにはとても正気じゃいられない。
冷や汗が出て、ますます呼吸が速くなる。強い眩暈が襲ってきて、たまらずその場にしゃがみ込んだ。
(早く、出ろよ………っ)
閉じられたドアを憎らしく睨む。
耳が鳴る。吐き気がする。でも、床に戻してしまうのだけは、絶対にいやだ。
浅く呼吸をして、なんとか息を整える。
「………!」
少し緊張が抜けた一瞬に、胃の中が逆流してきて総毛立った。頬が膨らむ。咄嗟に両手で口もとを覆う。
「っ、ふ………、んん………っ」
どうしよう。どうしよう。こめかみを冷たい汗が流れる。
視線だけで辺りを見回す。何もない。バケツとか、袋とか、そんな都合の良いものはどこにもなくて、板張りの床が迫ってくるような錯覚。
ぞっとするような覚悟を決めて、一度溢れかけたそれを飲み込んだ。視界が滲む。口の中全部が苦くて、気持ち悪い。
水が流れる音がして、はっと顔を上げると個室のドアが開いた。中から男が出てくる。
足下の俺にぶつかりそうになって、男のスニーカーがたたらを踏む。困惑と驚き、それに非難も含んだような声が投げられたけど、構わずに押しのけて駆け込んだ。使われたばかりの便器に抵抗を覚えたのも一瞬。迷っている余裕はなかった。
「ぐ、………ぶ、っう、ゲホッゲホッ、げえッ、」
空っぽの胃から濁った液体が飛び出して、ばたばたと水面を叩いた。
苦しくて苦しくてどうにかなりそう。もう、いっそ死んでしまいたい。
「は、………はぁ、っん……………」
吐き出せるものはもうなにもないのに、まだ不快感は消えない。
けれどそろそろ戻らないと不自然だ。訝しんだ佳隆に、様子を見に来られたらたまらない。重い体を無理やり動かしてレバーを引けば、ぐるぐる、水が汚れを流していく。床が沈んでいくような眩暈を感じたけど、構わずに手洗い場で口を濯いだ。
鏡に映った自分と目が合う。見つめ返すのは、底の見えない暗い瞳。その顔色は、ぎょっとする程真っ白だった。
トイレから出て周りを見渡すと、会計を済ませた様子の佳隆が店の出入り口に立っていた。近付いてくる俺に気付いて小走りで寄ってくる。
「遅かったから、心配したよ」
「あは。ごめんねー。ちょっと並んでて」
「会計済んでるから、行こうか」
「うん」
外の夕暮れはすっかり夜の色に変わっていた。辺りの暗さに街の照明が際立って、その刺激に目が眩む。ふらりと身体が傾きかけた時、腕の隙間から佳隆の腕が割り込んできた。
佳隆から腕を組んでくるなんて初めてだ。驚いて見上げると、微笑む佳隆がいる。
「…………恋人みたいで、いいでしょ」
「ん、…………」
額に何か触れたと思ったら、佳隆の唇だった。
ビルの灯りが、街灯が、金平糖みたい。
もう、どうにでもなれ。
***
佳隆に腕を引かれなかったら、きっとまともに歩くこともできなかっただろう。
ホテルのチェックインを済ませる佳隆の横顔に、ぼんやりとそう思った。
行き先は普通のホテルだと思っていたのだが、外観やロビーのインテリアを見る限り、どうもそうではなさそうだ。値の張るようなところに縁遠くよく分からないが、フロントマンに希望の景色なんかを聞かれているところを見ると、少し高い場所なのかもしれない。当日に、飛び込みで泊まれたりするのだろうか。
「では、ご案内します」
俺の心配は杞憂に終わったようで、すんなりとカードキーが差し出された。
制服を着た女性にエレベーターホールまで見送られ、ごゆっくりどうぞ、と一言。
厚いドアがゆっくりと閉じる。
「………ごゆっくり、だって。佳隆さん」
エレベーターは音もなく、滑らかに上昇していく。
佳隆の首に腕を回す。精一杯の微笑みを作り、目を細める。
吐き気も落ち着いてきたし、大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
―――存在意義
―――自己有用感
しかし、佳隆は、俺の手を取ってはくれなかった。
肩を掴まれ、べりっと引き剥がされる。
「よしたかさ……」
「僕がこのホテルを取ったのは、君を寝かせるためだよ」
「………!?」
「歩けない程具合が悪い人と寝る趣味はない」
悲しそうな、あるいは少し怒ったような佳隆の瞳を正面から受けて、次の言葉が出てこない。こんな目を見たことがなかったから。こんな目で、見られたことがなかったから。
息が詰まりそうな沈黙の中、エレベーターが止まる。「ちょっと」「ねえ、佳隆さん」呼びかけは幾度となく無視される。一言も交わさずカーペットの床を進み、それでも佳隆の腕は俺の肩を抱いていて、行き着いた一室。
「もう寝なさい」俺をベッドに座らせ、そう言った。佳隆の手が諭すように肩を押さえる。
どうしようもなく、腹が立った。
佳隆のネクタイを思いきり引っ張って、バランスを崩した彼の足を払う。
佳隆は、俺に覆い被さるようにしてベッドに倒れ込んだ。
「真澄くん、っ」
「…………」
強引にネクタイを緩める。
シャツのボタンに手を掛けた所で、初めて聞く強い口調で名前を呼ばれた。
「真澄くん!止めなさい!」
佳隆の手は、簡単に俺の両手を封じた。ほら、やっぱり大きな手だ。まるで場違いなことを思う自分もいて、もう、わけがわからない。
くすぶっていた吐き気が、じわじわと形になっていく。パチンと、感情が弾けた。
―――自己証明。
「………っ何なんだよあんた!何で俺の事なんて気にすんだよ!あんた分かってんの?俺を買ってるんだろ?恋人ごっこじゃないんだぞ!」
大声を出したせいか、頭の芯が痺れてくらくらした。
気持ち悪い。吐きそう。佳隆といると、おかしくなる。自分が自分じゃなくなっていく。
「………分かっていないのは真澄くんだ。身体を壊したらどうするんだ」
どうして、俺の心配なんて。
ずっと目を逸らしてきた。答えがほしくて、だけど、答えを聞くのが怖くて。矛盾を抱えていられないから、だったら。
「壊れたいんだよ………!………も、何でもいいから、酷くしてよ………。じゃないと、俺……………、どうしていいのか分かんない………っ!」
何が悲しいのか。何が辛いのかも分からないまま、涙だけは溢れてきて、シーツに顔を埋めた。遠慮がちに伸びてきた手が、頭や背中を撫でる。
「………一目惚れだったんだ、君に。お金で時間が買えるなら安いと思った。でも、こんな風に自暴自棄になる君は見たくない。………ねえ、」
佳隆の手が止まる。
「真澄くん、僕に就職しなよ」
「……は………?」
「お金が欲しいなら、僕があげる。だから、真澄くんをください」
なんだ、こいつ。
頭、おかしいんじゃないか。
そうじゃなかったら、何でこんな汚いものを欲しがるんだ。
何か言わなくては。そう思ったが、込み上げてくる吐き気にそれは叶わなかった。
「………っ、よし、たかさ………っ、」
「真澄くん、………ごめん、これしかない」
佳隆が腕を伸ばしたかと思ったら、どこからかタオルを引っ張り出した。
言わんとしていることが明らかで、腕を突っ張ってそれを拒む。
「や、………待っ、………トイレ、」
「そんな状態じゃ、歩けないでしょう」
ベッドから降りようとするも、佳隆にあっさりと止められる。
嫌だと首を振ったけど、質量を持った不快感は迫ってくるばかりで。見かねた佳隆に口元をタオルで覆われる。空えずきを繰り返して、決壊はあっけなく訪れた。
喉奥からねじれるような、つぶれるような音が鳴る。だらだらと口の端から垂れる唾液を、佳隆はそっと拭った。
「ゲホッゲホッ、………っ、………んぐ、ぅ……っ、」
「………大丈夫、大丈夫だよ………」
額に、頬に、佳隆の唇が下りてくる。
不思議と、心が凪いでいく。
柔らかなシーツで包まれるような、どこか胸を突く郷愁。
「………真澄くんは気付いてないだろうけど、僕は何度か君を見たことがあったんだ。いつも違う男の人と歩いていたし、そういう雰囲気って分かるものだよね、君がしている事も推測できた」
「……なに、……」
ふらついた体が、佳隆の胸に収まる。
佳隆の、匂いがした。
「僕の名誉のために言っておくけど、夜の街で若い子を買うなんて、初めてだったからね。………もうこんな事やめて、僕のところに来てくれると良いんだけど」
佳隆の体温を感じながら、布団に沈む。
まぶたが落ちてくる。意識が眠りに下りていく。
本当は、ずっと望んでいたのかもしれない。
目が覚めても、独りではありませんように。
***toi et moi 1:END
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