2

コーヒーの香ばしい香りと、ほのかに小麦の焼けた匂い。

空調の効いた店内には、数名の店員含め十人程の人がいた。

俺は禁煙席の一番端で、楕円のテーブルに伏せていた。華奢なスツールは洒落たインテリアとして似合っていたけど、座るための家具としてはあまり相応しくないように思う。

もっとも、今日みたいな具合じゃなければ、窓際の席に浅く腰掛けて、階下に広がる都心のビル群を眺めるくらいの余裕はあったのだろうけど。
地上五十階、オフィスビルの最上階にあるカフェバーで、俺は男を待っていた。
携帯を見る。メールは無かった。
一口分も減らないまま隅に追いやったコーヒーは、もうすっかり冷めきってしまった。

「………っ、くそ」

みぞおちの辺り、鋭い痛みが差し込んで、全身に緊張が走る。
思わず飛び出した悪態を飲み込むように唇を噛んだ。じわじわと存在を主張し続ける痛みは、カップの底に沈みついた汚れのようだった。

今日俺を買ったのは、「木村」という会社員。
本名かどうかなんて当然不明。俺は彼を「木村さん」と呼び、彼は俺を「真澄」と呼ぶ。
一昨日誘いのメールが届き、彼の方から待ち合わせ場所も時間も指定してきたにも関わらず、俺は二時間も待ちぼうけを食わされている。
急な会議が入った、と簡潔なメール一本で。
その時からなんとなく腹の調子がおかしくて、帰る理由はあったのに、そうしなかったのはどうしてなのだろう。

──ただ漠然と、寂しい。

ぐぅぅ……と、音が鳴って、下腹部が張るような感覚。締め付けるような痛みが増していく。咄嗟に抱え込んだ腕の下で、内臓が重たく蠢いた。

「…………いっ、た」

額がテーブルにつくくらい、背中が曲がる。痛い。お腹、痛い。
治まれ、治まれ、と一心に念じながら、不調を訴える腹をさする。
けれど、そんな祈りもむなしく痛みは少しも引いていかない。それどころか、ボコボコとガスが動くような不快感の後、感じたのは肛門に下ってきた圧迫感だった。
動きたくない。もう少し、落ち着いてから、トイレに行きたい。そうは思うも一度下ってきたものはもはやどうしようもなく、淡い色のジーンズと下着の下、緊張した括約筋がひくひくと攣縮するのが分かる。いよいよ現実的な危機感を感じ、ふらつく足取りのまま席を立った。
個室に籠もってほとんど水に近い下痢便を出し切ると、少しだけ腹痛が和らぐ。もっともいったん落ち着いたところで、すぐにまた捩れるような痛みが襲ってくるのだろうと想像がついた。嫌な予感に気が遠くなる。
気休めの整腸剤を飲んだだけで、朝から何も食べていないからか、まるで腸壁にこびりついた残滓を一掃する様なそれ。
臭気が残っているのが嫌で、消えるまで何度も水を流している間に吐き気までやってきて、渦巻く水流の中に嘔吐した。

──『真澄くんを、僕にください』

咳き込みながら、佳隆のそんな言葉を思い出す。
そんなことを言われたって、どうしていいのか分からない。
勿論こんなこと──すなわち、〝売り〟──をやめることが、その言葉に対する最も相応しい返事だと分かっている。
だけど、このクソみたいな行為が俺のアイデンティティを保っているなんて馬鹿げた話、きっと理解しては貰えないだろう。
誰かに酷く扱われている間は自分の存在を感じられるし、そこにしか存在意義を見いだせない。痛みを感じることで、やっと何かに許されたような気分になる。その瞬間だけでも誰かの特別なんだと錯覚することで、何とか自分の輪郭を保っているのだ。
佳隆には佳隆の人生があって、彼が俺に巻き込まれて坂道を転げ落ちるのは嫌だった。

ふらつく足取りで、一人分のコーヒーが置きざらしになったテーブルに戻る。
体調が悪いとそれだけで感傷的になるから困る。
そう考えると、詩人なんてみんなある種の病人なのだ。なんて、不遜な思いが浮かぶ。
半ば自棄になって、冷めきったコーヒーを飲み干した。
空っぽの胃に真っ黒な液体は痛いほど染みた。

「真澄!」

突然名前が呼ばれ、はっと顔を上げる。木村だ。彼の指定した店で、いつもの座席。すぐに目が合い、木村はゆったりとした歩調でやってくる。慌てて腹を抱える手を離して、背筋を伸ばした。

木村は、私服に着替えている。
仕事終わりの時間帯に会うのに、スーツのまま、つまり私服にならず、変装もせずに来るのは、佳隆くらいだ。
大胆なのか、浅慮なのか。
そのどちらでもなかったら、凄く──

(…………凄く、…………何だ………?)

「真澄、ごめんね。急に会議が入って、思いのほか長引いた。急いだつもりなんだけど、二時間も待たせたね。何か奢るよ」

ああ、と思う。
実は、佳隆の提案があまりに魅力的で、暴力的なまでに理想そのもので、俺はあの時から届く誘いをほとんど全て断っていた。
しつこく連絡を送ってくる相手もいたけど、多くはそのまま関係を終える。
それでも木村のメールを無視出来ないのは、こいつの物腰がどことなく佳隆に似ていたから。
もともと錯覚を渇望しているのだから、もうどうでも良かった。
それに、あの日以来佳隆からの誘いはない。まるで恋人のようなメールが時折届くが、電話ですらない電子の繋がりは脆く感じた。
佳隆のためを考える振りをして、俺は逃げたのだ。
スイッチを切り替える。

「木村さん、遅い。……お仕事お疲れ様。俺も昨日遅かったから眠くてさあ。だから木村さんに会議が入ってくれて良かったかも」
「そう?なら良かった。何か食べる?お腹空いたでしょ」
「あは。木村さんが遅かったから、俺もう食べたよ。今度何か美味しいもの奢って」
「そうだね、また今度。…………じゃあ、行こうか」
「うん」

木村は、席にも着かず、俺の手を引いた。

「…………っ」
広い歩幅でずんずんと歩いていくものだから、否が応でも小走りになる。背筋を伸ばして歩くことはできなくて、不格好に丸まった背中で木村を追いかける。ぎりぎりの小康状態を保っていた腹はあっさりと音を上げた。

(………痛い、)

木村の後ろ姿を睨みながら、唇を噛む。

「ありがとうございました~」

店員の声に背中を押されるようにして外に出ると、この時期の夕方らしい冷気に包まれた。ニット一枚では心許なく、風が吹けば思わず身震いするくらい。どうしてこんな薄着で来たのだろう。上着を持ってくるか、せめて下にもう一枚着込んでおけば良かった。
ビルの隙間風に全身撫でるように冷やされて、一時は和らいだ腹痛がぶり返す。じわじわと便意が押し寄せてきた。
木村は、俺のそんな異変に気付くわけもなく、通りに出て手を上げる。霞が関のお役人様が退勤する頃合いだ。流しのタクシーは自家用車よりも多く行き交っている。そのうちの一台なんてすぐに捕まって、路肩に停まった後部座席、扉が開く。
強い痛みをもって腹部が不調を訴えた。ぎゅるぎゅると不穏な音が腹の真ん中で響き渡り、痛みの波に合わせて激しく暴れている様が手に取るように分かる。
タクシーに乗り込む木村を見て、ぞっとした。
車、乗りたくない。嫌な予感ばかりが膨らむ。皮膚の下に感じる不快感が不安で立ち止まっていると、手首を掴まれた。

「真澄?」
怪訝そうな木村の声。
微かな前傾姿勢を崩せない俺を、彼はシートに座って見上げた。
「………ん、何でもない」
こうなってしまったら、引き返す道はない。
ここからホテルまでは五分とかからない。歩いても行ける距離なのだ。
何でもない、の後には「だいじょうぶ。たいしたことない。」と頭の中で続けた。自分に言い聞かせるように繰り返して笑顔を作る。
タクシーに乗り込んで、浅く前傾姿勢。車が動き出すのと同時に、木村に気付かれない様にそっと腹に手を添える。
不規則な蠕動をダイレクトに感じて血の気が引いた。
内臓が、冷たい。そんなことあり得ないのに、そう感じてしまうくらい、感覚がおかしくなっていた。

初めこそ木村の話に相槌を打っていたが、徐々にそれすらも困難になってきた。
一瞬でも気を抜いたら漏らしてしまいそう。
水っぽいそれが、すぐそばまで下りてきている。
「…………真澄?どうかした?」
俯き、無言になった俺を、木村は車酔いと勘違いしたらしい。「酔った?」と顔を覗き込む。無遠慮に前髪まで避けて。
見られたくない。きっと酷い顔をしているだろう。細く吐き出す息が震える。
返事も出来ないでいると、木村の手が腰に伸びてきた。
「真澄は乗り物弱いよね。……大丈夫、もうすぐ着くよ」
労るように腰や背中をさする木村。
腹部を温めたいのは事実だが、正直、今は少しの刺激も辛い。
「………っ、………ふ」
腹を抱えて丸まりたい。今すぐにトイレに行かないと、まずい。
帰りたい。でも、帰るって、どこへ。
お腹、痛い。
帰ってもいい場所なんてない。

路肩にタクシーが止まった。
ドアが開き、しかし動けないでいると、先に降りた木村が回り込んで手を差し伸べた。
微笑んだ瞳の奥、欲望の色が見える。

──佳隆は俺を強制的に休ませた。
あれがイレギュラーで、この扱いは「普通」なのだ。木村に佳隆の影を重ねるなんてばかみたいだ。
木村と腕を絡ませながら、照明の眩しいホテルに入る。
パネルの前、部屋を選ぶ木村を横目に、たまらずトイレに駆け込んだ。
「あ、………っん、………っ!」
空いていてよかった。誰もいなくてよかった。捻れるような痛みに襲われ、思わず身体を折る。全身から冷や汗が吹き出して、指先はぎょっとする程冷たかった。
指先まで汗ばんでジーンズがうまく下ろせない。手足は震え、半ばパニックだった。ばくばくと心臓が早鐘を打つ。
緩めたベルトと格闘する手の甲に、水分がぱたぱたと落ちた。
それが涙だと気付き、慌てて両目を拭う。
「………い、……っ、…………は、ぁ」
歯を食いしばりながら、熱いものを吐き出していく。ひどい音を響かせて、水に近い腹痛のもと(あるいは、副産物)を出し切って、少しだけ緊張がほどけていく。
壁に膝が触れてしまいそうなくらい、狭い個室。
便器に腰を下ろしたまま壁に寄りかかる姿はさぞ滑稽だろう。
そうは思ってもあまりに体力を消耗し過ぎていて、もう一歩も動きたくなかった。
正直、息をするのも辛い。それでも、疲弊した体に鞭打って、何とか個室を出た。いい加減戻らないと、木村が不審に思う。

エントランスを見渡すと、木村は携帯を弄っていた。俺に気付き、片手を上げる。
「大丈夫?吐いちゃった?」
颯爽と。下世話な場所に似合わない足取りでやってきて、俯く俺の頭を一撫でする。
髪の毛の感触を楽しんでいるようだった。
「…………ちょっと、体調悪い、……かも」
自分の声があまりにも情けなくて驚いた。
ええ、と声を上げながら、木村は俺の顎を掴む。飛び込んできた天井の照明が眩しくて、思わず目を細めた。
「……うん。確かに顔色悪いね。大丈夫、優しくするよ」
実にスマートに体を寄せられ、木村の手がするりと俺の腰を撫でる。
やはり、するのか。
当然の事なのに、とてもそんな気分にはなれなかった。体調的にも木村を受け入れるのはどうしたって不可能だし、ベッドに入ったとしても、何度もトイレに駆け込むことになるのは目に見えていた。
一度優しさを知ってしまうと、ずるずると甘えが引き出される。
前はどんなに体調が悪くても、いっそ壊してくれと願っていたのに。
(……佳隆、)

重症だ。
俺の方が、依存している。

***

木村に連れられるまま、流されるまま、部屋に着いていた。
後ろ手にドアを閉めたのと同時に、木村が顔を寄せる。勢い余って歯と歯がぶつかった。
背中は扉に押しつけられて、もう逃げられないのだと心臓が冷えていく。薄いドア一枚で隔てられた外の世界にも居場所はない。それはナイフを首筋に当てられたような感覚。
「………ん、………」
混ざり合った唾液が唇の端から糸を引いて垂れた。
ざらざらとした舌の感触を、随分久しぶりに感じていた。
木村の手が服の中に潜っていく。ニットの下、木村の親指の腹が、臍の辺りを刺激した。
「…………っ!」
突如、捩れるような痛み。
体から響いた腹音は誤魔化しようもなく、はっきりと木村にも聞こえただろう。
木村は唇を離し、眉間に皺を寄せ俺を見た。
「……真澄?」
刺激されたせいか、外気に触れたせいか。
おそらくその両方のために、再び激しくぶり返した腹痛に、堪えられずしゃがみ込んだ。
抱え込んだ下腹部から、細く情けない悲鳴が聞こえる。痛みを逃すように息を吐いて、その隙間にたまらずに声が漏れていく。
「真澄、どうしたの」
「………っ、ごめんなさい………っ。お腹、痛くて、」
「ええ……そんなに?大丈夫?………酔ってたんじゃなかったんだね」
同じように屈み、目線の高さを合わせた木村は、俺の額に唇を落とした。
そして信じられない言葉を口にする。
「………うん、大丈夫。お腹痛い真澄も可愛いよ。そんなの忘れるくらい気持ち良くしてあげる。苦痛って快感に繋がるって言うし、きっとすぐ良くなるよ」
え、と思う間もなく、半ば抱きかかえられるようにして、ベッドに下ろされた。その弾みで熱いものが肛門を通る。慌てて括約筋を締めるが、少し、漏らしたかもしれない。
背筋にぞわりと悪寒が走った。
ぞっとする。自分の意志ではどうにもできない。痛みを伴って、ただ下りてくる、そんな感じ。
「やっ、やだ、待って、………っ、ん、………っトイレ、行かせて………」
もう隠す事なく腹を抱え、迫り来る不快感に堪える。
俺の懇願は、しかし許されなかった。
「漏らしていいよ。俺が見たい」
言いながら木村は服を脱ぎ、上半身は完全に裸だった。
シャツを放ったそのままの手で、俺のニットを下から捲り上げる。
強引ともとれる動作に抵抗するだけの力も無くて、されるがまま、無防備な肌が外気に触れた。
「………っあ、……!」
腹痛が、一層牙を向く。生理的な不快感に肌が粟立っていくのが自分で分かる。
ぎゅるぎゅると絶え間なく響く音は木村にも聞こえているだろうに、彼はお構い無しだった。決壊寸前の肛門を踵で必死に押さえつける。不安定なベッドの上では、それすらもままならない。
「………っ、ぁ、………っう」
木村の手が俺のベルトに掛かる。手を止めて、ふふっと口角を上げる。
「すごい緩めてるね。いつから痛かったの?」
楽しそうに、そう囁く木村。
嗚咽が零れる。痛くて、惨めで、みっともないくらいに泣いていた。
「………お願い、………っ、ちょっと、………」
「汚したくないなら、脱げばいいんだって。お腹痛いんでしょ?していいよ」
あんたが良くても俺が良くない。
そう言ってやりたかったが、口から飛び出すのは情けないうめき声。痛みに、息が詰まった。視界が点滅する。
「………舌、噛んでるよ」
そう言って唇を塞がれる。名前を呼ばれる。ほら、と木村の手のひらが這った。
あとはもう、覚えていない。

***

「真澄、真澄」
肩を揺すられ目が覚める。
薄目を開けると、小さな窓から微かに朝日が差し込んでいた。
はっとして体を触ったが、木村が全て片付けてくれたようで、俺はバスローブに包まれていた。
「………きむら、さん……」
体を起こすと、下半身にじわりと痛みが広がった。
「ああ、寝たままでいいよ。急に仕事が入っちゃって………先に帰ることを伝えたかっただけだから。お金置いておくね。あと、ここの支払いは済んでるから、昼までならゆっくりしていて大丈夫」
起きたてのぼんやりとした頭に詰め込まれる情報。
「じゃあ、また。真澄、凄く可愛かったよ」
木村が部屋を出た後サイドテーブルを見ると、万札が重ねて置かれていた。
時間に対する対価。行為に対する対価。自分につけられた値札。これがお前の価値なのだと、思い知らされるような。
でも、これしかない。自分が生きている証明も、肯定も、これ以外になにも持っていない。こんなことでしか自分の輪郭を掴めない。ひとりで、夜を過ごすこともできない。
「………っ、く、………ふ……」
言いようのない虚しさが襲ってきて、涙が溢れた。
涙腺が壊れてしまったみたいだ。昨日から泣きっ放しで、目の奥が痛い。
突然、携帯の振動音が響いた。
誰だろう。
こんな朝早くに。
緩慢な動作で転がっていた携帯に手を伸ばし、表示を見て目を見張った。

──佳隆。

振動は止まらない。着信だった。
恐る恐る通話ボタンを押す。
耳に当てる。
心臓がうるさい。
不安で、どうにかなりそう。

『──もしもし、真澄くん?』

懐かしい声。

「…………佳隆さん」
『あれ、寝てたかな。ごめんね、仕事の関係で時間感覚狂ってるみたいだ。』

まだ学生だったころにゲーム会社を立ち上げて、本人もプログラミングに関わっているという佳隆の生活は、ほとんど昼夜逆転と言っていい。

『どうしても言いたい事があって。眠かったら掛け直すよ?』

佳隆の声は、耳に心地良い。

「佳隆、さん」
『………もしかして、具合悪い?』
思わずしゃくりあげてしまいそうで、慌てて息を深く吸った。
「………ううん、何?」
『怒らないでほしいんだけど、君の事を調べたんだ』
「………え?」
『そしたら君が一人暮らしだってことも、取り敢えずの身寄りも居ないってことも分かったから、………買ったんだ」
「待って、何、何の話?」
『二人で暮らす家』

突拍子もない言葉に、眠気は吹き飛んだ。

「は………?」
『もし、真澄くんが僕に就職してくれるなら、一緒に暮らしたくて。僕と家族になってください。………どう?本当は会って言おうかと思ったんだけど、早く伝えたくて』

楽しそうに住所を読み上げ、間取り等を嬉々として話す佳隆。真っ先に頭を埋めたのは困惑だ。いま、なんて言った?家だって?

「ま、待って、それ………どういう、」
『一緒に暮らしませんか。僕が、真澄くんを独り占めしたいんだ』

殴られたような衝撃。
もつれた言葉の意味を、ゆっくりと解きほぐす。一緒に暮らしたいと、佳隆は言った。「家族に」って、そんなの、まるで。
不意に、視界が歪んだ。世界が滲んで、滲んで、頬があたたかなもので濡れていく。
拭っても拭い去れない。

「……俺で、いいの」
『え?』
「だって、………俺、汚い、………っ」

俺のことを調べたのなら、俺がどんなことをしてきたのか、どんなふうに生きてきたのか、そんなことも全て、佳隆は知ることになったはずだ。ただ目の前の繋がりを貪ることで、振り返るまいとしてきたことまで知られてしまった。これを、汚いと言わずになんと言う。
今だって別の男と寝ていたのだ。漏らして、吐いて、それだけでなく、もっと内面的な、卑怯さが汚い。

『──いいよ。綺麗にしてあげる。だからおいで』

佳隆はずるい、と思った。
それとは全く違うベクトルで、負けないくらいに俺は狡かった。
携帯を変えよう。番号もアドレスもなにもかも。
それで、一番最初に佳隆を入れよう。

「──俺を、買ってください」

微笑みが聞こえた。

『もちろん』

***toi et moi 2:END

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