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夕方。

佳隆から渡された貰い物の食器を収納していると、いつもより慌ただしい足音が響いた。バタバタと階段を駆け下りる音がそれに続く。

「真澄くん、ごめん!ちょっとシステムに不備があったみたいだ。会社まで行ってくる」

何だろうと思って振り返ると、佳隆が暖簾をよけてリビングを覗き込んだところだった。
仕事部屋のある二階のベランダでは、ハーブや野菜が育っている。
きっと鉢換えをしていたのだろう。片手に土の付いた軍手、片手に携帯という奇妙な出で立ちで、佳隆は真剣な表情だ。

「ごめんね、行ってきます」

軍手を取り、無造作に机に置く。ひとつが机からはみ出して、落ちそうになっているのも構わない。
じゃあと片手をあげて、佳隆はそのままの姿で玄関を飛び出した。
俺の返事も、待たずに。

「~~っ!」

ガシャン、と大きな音を立て、足元で食器が割れた。
振り下ろされた平皿は足の上に直撃し、重く鈍い痛みが走った。

「あ、っ」

まるで夢から覚めた瞬間のように、はっと我に返る。色が、痛みが、感覚が。フォーカスがかっちりと合わさって、途端、現実は鮮明に凪いだ。
佳隆の食器を割ってしまった。
貰ったばかりだという、佳隆の食器を。

「………っ、は、あっ、ぁ、」

どんどん女々しくなっていく自分が気持ち悪くて吐き気がした。
もう、やめよう。
やめよう。やめたい。
このままでは、きっと正気で居られない。
自分一人で立てなくなってしまう。

 

焦燥と恐怖。無我夢中で携帯を掴む。
もうこの時には十分おかしかったのだ。

 

震える指が、覚えている番号を順番に押す。
もうこの携帯には登録されていない番号。佳隆と暮らすようになって、これまでの連絡先は全て消した。そうして、佳隆の番号だけ、もう一度。メモリーの一番最初に記録した。
なにかがうるさいと思ったら、自分の呼吸だった。
記憶力は昔から良かった。とりわけ、数字の並びには。
やっぱり俺は最低だ。

長いコール音の後、訝しげな声が鼓膜を揺らした。

『……はい、もしもし』
「きっ、……木村さ、木村さん、木村さん…っ」
『……真澄……?』
「木村さん、きむらさ、っ、あああああっ」
『真澄!?一体どうしたの。っていうか、今まで、一体……』
「買って。おれを、買って。お願い…………!」

両足から力が抜けて、立っていられなくて、床にへたり込む。
フローリングに涙がぱたぱたと落ちて水玉を作る。
割れた平皿の破片が散らばっている。足の指からは、血が出ていた。

『今、どこにいる?』

そして、俺は割れた食器もそのままに、スニーカーに乱暴に足を突っ込んで〝佳隆の〟家を出た。

***

「……どうしたの、こんな、急に。仕事が休みだったから良かったけど……。……真澄?」

木村とは駅で落ち合った。
正確には、駅の少し手前。チェーンのカフェや牛丼屋がずらりと並ぶ駅前通り。
急に動いたせいか、連日の不眠のせいか。おそらく両方のために、駅へ向かう途中に目が回って動けなくなった。さあっと血の気が引いていく。全身の血液が一度に抜かれてしまったような錯覚。触れた足からアスファルトに吸い込まれていくようだった。
ブラックアウトした視界は、目を閉じてもなお揺れていた。
酔っ払いを見慣れる群集は器用に俺を避けて歩いていく。
このまま、消えて無くなってしまえたらいいのに。
サングラスをかけた木村が駆け寄ってきたのは、暫く経ってからだった。

「ほら、水」

木村が手渡すのは外国製のミネラルウォーター。
冷蔵庫に入っていたものだろう。
一口、二口と飲んで、自分の思っていたよりもずっと喉が渇いていたことに気が付いた。

「もういい?」
「ん」
「じゃあ話してごらん。どうしたの、一体」

ホテルに入り、足を高くして横になっても、眩暈のようなあの感覚は引かなかった。
呆れ顔で事情を聞いてくる木村の、ベルトに手をかける。
肘を支えに体を起こし、返事の代わりに木村のそれを口に含んだ。
木村が息を詰めるのが分かって、舌先で丁寧に舐めていく。溢れた唾液が、口の端から顎に伝った。

「ちょっと、真澄、」

血液が集中し、硬さが増していくのを直に感じる。
木村はスイッチが入ったようだった。
肩を掴まれて、ぐい、と引き離された。

「こっちがいい」

慣れた手付きで押し倒され、気付いたら顔が布団に埋まっていた。
いいんだね、と耳元で念押し。息遣いがこめかみをくすぐった。
木村の重みを背中に感じる。

「はやく、」

優しくなんてしなくていい。優しくしないでほしい。
何も考えたくないのだから。

人間の脳みそは、痛みを一番に選び取るという。痛みは生死に直結するのだから、敏感に作られているのは合理的だ。そう思えば生きることは、痛むことと同じだった。
頭を痛みでいっぱいにしてほしい。何かを考える余白を埋めてほしい。
あわよくば、永遠に夢の中に。
そんな思いとは裏腹に、木村の動作は緩慢だった。
滑り込んだ右手と冷たいジェルがふれて、時間をかけてほぐしていく。
届きそうで届かないもどかしさに思わず身をよじらせる。もっと、刺激がほしい。足りない。苛立ちすら、感じてしまう。

「きむら、さ、……それ、もう、いい」
「………腰、動いてるよ」

くっ、と喉の奥で笑う木村。顔を動かして後ろを向けば、片頬を歪めた木村の笑みがあった。
そういうことかと、一人合点する。前髪の隙間から冷笑を見上げ、上等だと思った。
もう、今更羞恥なんて感じない。

 

一気に現実に引き戻されたのは、その時だった。

壁を打つような、大きな音が響いたのだ。

「お客様!」

続いて慌てた従業員の声。

「真澄くん!真澄くん!」

そして、佳隆の声。

「!」

驚いたのは言うまでもない。さらに佳隆は次から次へとドアを叩き、俺の名前を叫んでいるようだった。

「……何なんだ、」

木村の呟きは、その音で掻き消された。

「真澄くん!どこにいるんだ」
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますから……!」

すぐ横の体温が、息遣いが、すっと離れた。暗がりと冷たい空気が間に割って入る。
木村はバスローブを羽織り、何も言わずにドアを開けた。

「待っ……、」

隙間から入る細い光は、俺のすぐ近くまで伸びてきた。
手を伸ばせば外の明かりに触れられる。
薄い壁の向こうは、あんなにも明るいのに。

「うるさいな。一体何の騒ぎだ」
「お客様、大変申し訳ありません」
「真澄くんが居ませんか」

 

佳隆。

 

「何の話だ。ここにはいないよ」

少しだけ、心臓が跳ねた。
今俺がしていることは〝そういう〟意味を持つのだ。
ここで「いない」ことにされてしまったら、佳隆とはきっと、もう会えない。

それでいい。
俺が持っているものはひとつしかなくて、生きていく術もひとつしか知らない。これが、俺の全部なんだ。
だから、これでいい。

 

──本当に?

 

突然、携帯のバイブ音が響いた。
固いサイドテーブルに置いていたせいで、その音は殊更目立って聞こえた。振動がテレビのリモコンをカタカタと動かす。
暗闇の中に青色が点滅する。
佳隆からの着信だ。

「真澄くんを、出してもらえますね」

室内から響く音を確認したのか、佳隆は着信を切った。
数瞬遅れて点滅も止まる。
自分の携帯を押し付けるように木村に渡して、佳隆は部屋に入ってくる。
廊下の照明でシルエットしか確認出来なかったその姿が、どんどん近付いて大きくなる。
静かな怒りの雰囲気を感じた。

「……断っておくけど、俺を誘ったのは真澄だよ。着信履歴でも確認すればいい」

木村の言葉に、冷水を浴びたような思いがした。一気に冷静さを取り戻す。
ベッドの正面まで歩を進めた佳隆は、床に膝をついて俺を見た。おおよそ一メートルの距離。目線の高さはほぼ同じ。
微かに見上げる視線が交錯する。
何よりも先に恐怖を感じ、体が小刻みに震えだした。
怖い。佳隆が、怖い。

「……なんで、場所が、」声まで揺れる。
「GPS。真澄くんが携帯を持っててくれて助かった」

感情を滲ませない、抑揚の消されたトーン。
それすらも怒りのなすものかと思うと、強烈な閉塞感を感じた。
木村が荷物を片付ける音が聞こえた。
ブルーのワイシャツとダークグレーのスラックス。上着と鞄は手に持って。バスローブ一枚の姿から、身なりを手早く整えていく。

「チェックアウトは明日十二時です。この部屋はお好きにどうぞ。……ばいばい真澄。お金置いておくね」
「え……っ、あっ……」

佳隆の携帯を重しにして、テーブルに数枚の紙幣を置く木村。
俺が言葉を発する前に、佳隆は立ち上がっていた。木村の背中を追い、大きな動作で置かれていた紙幣を突き返す。

「結構です」
「あなたに渡した物じゃない。あなたは何の権利があって、真澄の所有物を管理してるのかな。……真澄すら自分の持ち物だって言いたいの?」
「……何を言って……」
「帰りますね。……真澄も、次に連絡取る時は、首輪が取れた時だからね」

そう言って、木村は部屋を出た。
佳隆と二人、暗闇の中に残される。

少しでも触れたら切れそうなくらい、尖った沈黙が空間を支配する。
暗くてよく見えなかった表情も、視界が慣れると徐々に輪郭が見えてきた。
佳隆の目が、静かな怒りをたたえて、俺を見上げる。
無言の時間が怖かった。
同時に、いよいよ終わるのかと思うと奇妙な安堵があって、そんな自分に驚いてしまう。
そうだ。呆れて、「こんなのいらない」って捨ててくれ。丁寧に優しく扱われるより、そっちのほうがずっと似合う。柔らかに撫でられることよりも、殴られることに慣れている。

 

佳隆を好きだと思う瞬間は苦しかった。
与えられる愛情に条件はなくて、善意と親切と、甘い環境。
それらが神経の端から端まで麻痺させて、浸かりきってしまったらきっと一人で息もできなくなる。そんな恐怖が付きまとう。

お金で成立する単純な関係の方が気楽だ。相手の感情にも、自分の感情にも左右されない。ずっとそう思って生きていた。

それが佳隆と一緒にいるとどうだ。
嫌われないように神経をすり減らし、それでいて、佳隆の無償の優しさには罪悪感を感じている。
女々しい自分に吐き気がした。

 

佳隆さん、そう口を開こうとしたその瞬間、佳隆に押し倒された。

「んっ……んぅ……っ」

噛みつく勢いの強引なキス。
歯と歯が音を立ててぶつかった。
その隙間から佳隆の舌が侵入してくる。
舌先が上顎の内壁をなぞると、背筋に細い電気が走り、思わずのけぞった。
混ざり合った唾液が溢れ、顎を伝う。

息が、出来ない。

「……っ!はっ、はあっ……、」

たまらずに佳隆を押しのけた。
思い切り息を吸い込む。
新鮮な酸素が肺を満たす前に、再び佳隆に覆われた。

「よ、……っ、よしたか、……っ、」

何か、言ってよ。
罵倒の言葉でもいい。侮蔑の言葉だっていい。
何でもいいから、話してよ。
懇願して胸を叩く。
唇が離れて、目が合った。

「嫌になったら、すぐやめていいから」

 

──上から降ってきた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 

「嫌になったらすぐにやめていい。すぐ逃げていいよ。だけど、今は、絶対に逃がさない」

幼い子供に言い聞かせるようにそう続ける。
静かな怒りは置かれたまま。なのになぜか、泣きそうな顔をしているのは佳隆だった。
この男は、そうやっていつも、自由にさせるんだ。そういう人だって、分かってたじゃないか。

「そうやって!」

カッとなって、佳隆の胸ぐらを掴んだ。
やわらかな綿生地のシャツを引き寄せて、佳隆の体重がぐっとかかる。息遣いさえ感じる距離に顔がある。

「そうやって、あんたはいつも俺を逃がす!」

ここにいてもいい、やめてもいい、逃げてもいい。全部俺次第だなんて、そんなの、無責任だ。自分勝手な理屈だと思う。あり得ないことを言っているって分かる。でも、それでも、わがままを言っていいと言ったのは佳隆だ。この目は絶対に逸らさない。

「佳隆だって、嫌になったらやめればいい、逃げればいい!俺、佳隆のこと、逃がさないから。俺だってあんたのこと逃がさないから!」

一息に叫んで息が切れた。

不安定な体勢でいるせいで腹筋が震える。

 

佳隆も自由になって。
自由になって、俺を好きになって。

 

次の一息でそう続けようとして、突然がくんと全身が弛緩した。理解より早く指がほどけて、掴んでいたシャツを離していた。ベッドに頭が落ちる。仰向けになると、ぐらりと視界が揺れた。

頭の後ろ、首の付け根のあたり。冷たい痛みが広がって、巡る思考に次々とシャッターが下ろされる。
腹の底から吐き気が込み上げ、反射でえずいた。伏せたシーツを舌先が撫でる。ざらりとした。吐いているのか、それも感覚がない。

何がなんだかわからなくて、怖くなってなにかを掴む。
ああ、これは、佳隆の腕だ。

 

「真澄くん。何飲まされた」佳隆の声。
「ごみ箱に入ってた。何、飲まされた。いつ。真澄くん……」

 

なんだこれ、すごく、眠い──

 

水の中から見上げたような光がゆらゆら揺れている。
頬に触れる心地よい冷たさ。
自由は怖いから、どっちに歩いたらいいのか、分からなくなるから。だから佳隆、俺が自由に「慣れる」まで、首輪を握ってて──

 

意識はまどろみの中に溶けていき、いつの間にか夜が明けていた。

 

水泡のように浮かぶ意識の断片がひとつひとつ繋がって、結ばれたときに目が覚める。
開いた視界いっぱいに映ったのは、ずっと欲しかった肯定だった。
ひんやりと冷えた布団にもぐりなおして、佳隆の胸に頭をこするように押し付ける。髪の毛が佳隆の微笑みをくすぐった。「くすぐったいよ」佳隆が言う。

「……佳隆とやれるチャンスだったのに、やり逃した」
「……真澄くん、口が悪いよ」

体を半分起こしていた佳隆も同じように布団にもぐってきて、こまったような、しょうがないなと受け入れたような、眉尻の下がった苦笑を見せる。

「気分は」
「サイアクだよ」
「それは良かった」

きっと俺も今、佳隆と同じ顔をしている。

「ごみ箱に眠剤のカラが入ってた。いつ飲まされたの」

佳隆はつぶれた二錠分のアルミシートをつまんで見せ、それを投げ捨てた。

眠剤。

心当たりはない。

半分眠った頭で記憶を手繰り寄せて辿る。
吐き気すら覚えた強烈な睡魔。佳隆とキスをした。久しぶりに見る怒りの表情。
もう少し前、この部屋に入ってすぐ。木村から受け取ったミネラルウォーターの冷たさを思い出した。

「……あの男だね」

思い当たった表情で察しがついたのだろう。もとより答えなんて、火を見るより明らかだ。佳隆は呆れのため息を吐いた。
木村は最初から、最後までする気がなかった。

「…………ごめん」
「それは、何に対して」

怒っている声ではない。佳隆が怒った時なんて、記憶の限りでは二回だけ。
そういえば、一度目もホテルで、それもホテルマンが部屋まで荷物を運んでくれるような、観覧車の見える部屋だった。
佳隆の体温が隣にあって、白いシーツと日の光が目に染みて、なんだか泣けてきた。一度涙が溢れるとどうにもならなくて、堰をきったようにわんわん泣いた。自分のどこにこんなに涙があったんだろうと、こんなに泣くことができるんだって驚くくらい、感情が流れ込んできて止められない。
声をあげてこんな風に泣いたのは、生まれて初めてだと思った。

「……寂しいって思ってた。俺のことだけって、思って、」
「うん」
「でも佳隆が俺のことだけ考えてたら……。もし、それ以外ぜんぶ捨てたら、そうなったらやだって……」

涙が鼻までおりてきて、ぐしゃぐしゃの酷い顔で佳隆を見る。
誰にも見られない小さな部屋。駅前の安いビジネスホテルのダブルベッドで。漂白したばかりのように真っ白な、薄い布団の膜の中で。

「俺、佳隆のこと幸せにするから。佳隆も俺のこと幸せにしろ」
「望むところだよ」

一人で立って、二人で歩いていくんだ。

「忘れてもらったら困るけど、僕、真澄くんを買ってた立場だからね。きれいなことを言うつもりはないよ」
「それもそうだ」
「あ、こら、開き直ったね」

佳隆の顔がぐっと近づいて、うっすらと汗ばんだ額を舐めた。次に瞼に唇が触れる。
気恥ずかしくなって佳隆の唇に噛みついた。舌をのばして首筋に這わせる。

「しょっぱい」
「佳隆さんもね」
「あれ。〝さん〟ついちゃうの」
「ついちゃうよ」

そこにいるのは神様でも天使でもなくて、ただ一人の人間だった。

十二時まであと少し。

薄い布団の中のまどろみが永遠だと、ありったけの力で抱き合った。

 

***toi et moi 4:END

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