記念日に向かうエレベータ―

「だから悪かったって言ってるだろ」
「もういい。好きにしろよ」

そんな風に尖った言葉を交わして、エレベーターに乗り込んだ。扉が開くと同時に対面した鏡が俺と京介を映して、微妙な距離が見えてしまう。俺はどかどかと端へ行き、京介は一階のボタンを押した。

閉じようとした時、事務員らしき女性が一人駆け込んできて、「どうぞ」と笑顔で扉を押さえる京介。「すみませんね」と女性。京介のこういうスマートさも、今はむかつく。

研究棟の六階から、箱は下降していく。次の階で女性は降りていった。

扉が閉まる間、京介は首だけ振り返って俺を見た。俺は、気付かないふりをしてそっぽを向く。

けんかの原因は、きっと京介からしたらくだらないことなのかもしれない。明後日、土曜日のデートの約束を、キャンセルされてしまったのだ。

俺と京介が付き合い始めたのは、大学2年の春だった。もともと会えば話すような、つるんで遊びに行くような友達だったのだが、同じ研究室に配属された。そんな、よくあるきっかけで。

もともと男が好きだったわけではない。その時に付き合っていた彼女もいた。けれど京介と会うたび、話すたび、今までに感じたことのないような、辞書には載っていないような、そんな感情に溢れていった。

以外と涙もろいこと。実は生き物の世話が好きなこと。居眠りするとき、たまに白目をむいていること。そういう発見の積み重ねは、今思えば恋だったのだろう。甘酸っぱい響きにくすぐったくなる。

ある日実験の道具を片付けていると──その日はネズミの解剖だったのだが──京介が急に、俺の名前を呼んだ。

「朔」
「なに」

京介は俯き、拳を握りしめていた。思い詰めたその様子に、思わず身構える。こんな風に、改まって話しかけられたことなんてなかった。声が固くなる。

「俺、ゲイなんだ」

衝撃のカミングアウトである。体感気温はマイナス2度。俺は試験管を落とした。薄いガラスの割れる音が、やけに大きく聞こえた。

「朔のこと、すきなんだ」

語尾は、嗚咽に消えた。

ごめんね、ごめんね、と京介は繰り返す。そうしないと、呼吸が出来ないというみたいに。言うつもりじゃなかった、ごめんね。

一方で俺は、鐘を頭から被せられて思い切り叩かれたような、揺れる感情を処理できずにいた。呪文をかけられたように体が動かない。舌が、指先が、ピリピリと痺れる。
けれど頭の冷静な部分はこれまでの想いをかき集めて、それに恋とラベルを付けた。きらきらとラッピングに包まれたようなその言葉は、誇らしげに光っていた。

「泣くなよ」と、やっとのことで俺は言ったと思う。
その時は、ありがとうと返したのだ。好きと言ってくれて、ありがとう。振り返るたびに残酷な返事だったと反省する。

けれどもっと残酷なことに、俺はその瞬間、彼女のことを考えていたのだ。

それから程なくして、俺たちは付き合うことになった。お互いの意思確認は真夜中の電話だ。くすぐったくなるような中身のない会話をして、十二時過ぎちゃったな、と京介が笑ったのを覚えている。

その時、俺は彼女と別れていて(「他に好きな人ができたんでしょ?」と気付かれた。女の勘は鋭い。円満な別れだったと思うが、男のエゴだろうか。)、もう一度春を迎えた。明後日が、ちょうど一年の記念日だったのである。

記念日を待ち遠しく思うなんてまるで女子みたいだけど、俺とってはどうしたって特別な日だった。

ブン、と機械の動く音がして、二人を乗せた箱が下降する。古い研究棟にあるのは旧式のエレベーター一台だけ。繁華街に立ち並ぶ、居酒屋が入った細長いビルのそれを想像してくれればいい。いや、それよりはさすがに大きいか。 

冬は明けたとはいえ朝晩はまだ肌寒く、コートを着るほどではないが冷えるのはいやなのでマフラーをぐるぐる巻いている。「朔は冷え性だな」というのは京介の言葉。そう言われて初めて自分の指先か冷たいことに気が付いた。

横目に京介の視線を感じる。女性が降りてからずっと、何かを言いたそうに俺の隣に立っていた。萎れたようにも見えるその様子に、俺は半ば意地になってしまった。ぜったい口を開くもんかとムキになっていた。

古いエレベーターは外気と変わらぬ室温だ。身震いしてマフラーに顔を埋めた。少し、さむい。そっぽを向いて、カウントダウンしていくランプをじっと見つめていた。

エレベーターが止まったのは、そんな時だった。 

あまりに自然に停止したので、異常な音もなくゆっくりと動きを止めたので、誰かが乗って来るのだと思い壁に身を寄せた。

京介も同じ判断をしたようで、真ん中をあけて一歩下がった。ふたりの間には絶対的な距離が生まれる。
けれど、いつまでたっても扉は開かない。機械の箱は時間が止まったように静まり返っていた。京介の息遣いすら聞こえる。

おかしいなと思ったのも、京介と同時だった。

「おい、朔」

京介が前を向いたままそう呼ぶので、反射的に顔を上げる。京介は階数表示を指差していた。

何、と思って視線を動かすと、なんと表示が消えていた。ランプはどの階にも点灯していなかった。まさか、これって。嫌な予感に胸がざわざわと騒ぐ。

さっき見たときは3階だったから、少なくとも今は1階か2階か、それともその中間か、とにかくその辺りにいるのだろう。そう分かった所で、どうしようもないのだけど。

悪いことはさらに続く。照明が点滅して、消えた。真っ暗闇だ。ひっと情けない声が漏れる。思わず身を縮めてしまう。非常用ボタンだけは電源が別なのか、仄かにオレンジ色に光っていた。

棒立ちのまま動かない俺に変わって、京介の腕がすっと伸びてきた。橙色の丸ボタンを押す。

「すみません、聞こえますか。すみませーん」

インターホンに唇が触れそうになりながら、それくらいの近さで呼びかける京介。音声が聞こえてくるであろう放送口からは沈黙だけが返ってきた。京介がボタンをガチャガチャさせる音が聞こえる。京介が焦ってる。珍しい。

「だいじょうぶか」

その言葉が自分に向けられたものだと分かるのに、少しだけ時間が必要だった。「だいじょうぶか、朔」もう一度投げられて、ようやく顔を上げる。

暗闇に目が慣れず、京介の人影がぼんやりと見えるだけだ。

「……平気だよ」

渋々、口を開く。言い争った後でこんな風に気遣われるのは癪だったけど、無視をするのも感じが悪い。
京介は、俺が暗いところを怖いと思っていることを、知っている。

小さい頃物置に閉じ込められたことがあって、それがトラウマになっているんだと、自分では思う。遊んでいたら偶然見つけて、好奇心のままに扉を開けた。秘密基地みたいだと喜んだ俺は、その戸を閉めて中をぐるぐると見渡した。

そこは祖父が趣味で集めている骨董品の保管庫だった。
骨董品の品評が趣味というより収集それ自体が趣味だったらしい祖父は、お気に入りだけを自室に飾り、それ以外は古い土壁の物置に並べていた。多くは木箱に収まっていたが、むき出しで置かれている彫刻の埃をすくってみたり、恐る恐る、蓋をはずして中の瀬戸物を覗き込んでみたり。そんな風に、時間はあっという間にすぎていった。

やがて日は暮れ、夕暮れを迎える。そろそろ戻ろうと引き返して、扉がびくともしないことに気が付いた。

古い物置だったから、立て付けが悪かったのかもしれないし、何かが引っ掛かっていたのかもしれない。今となっては真相は定かではないが、俺は薄暗い物置に閉じ込められてしまった。隙間明かりを頼りに照明はなく、ただでさえ暗かった室内は、徐々に完全な暗闇になる。

泣いても叫んでも助けは来なくて、泣きすぎて息が苦しくなったのを覚えている。辺りはすっかり日が落ちて、夕飯の時間になっても戻らない俺に、一家は大騒ぎになったそうだ。

泣き疲れた所を父親に発見されるまで、それは永遠にも思える時間だった。

もちろんこれは物心がつくかつかないかの頃の話で、こんな風に詳細に覚えているのは、家族から笑い話として繰り返し聞かされたからだ。

暗いところが怖いのは、これが原因かと納得した。

俺の怖がりは京介も了解済みで、京介の部屋で眠る時も、常夜灯を点けてくれる。京介はもともと部屋を真っ暗にして寝るタイプで、俺もそれに慣れようと思っていたけれど、冷や汗が出てどうしても眠れなかった。

俺はどんなに眩しくても寝られるから、と言った京介の言葉に嘘は無いようだった。京介は煌々とした照明の下であっても、テレビで賑やかにサッカーの中継をしていようとも、眠いときは寝る。

ようやく、目が慣れてきた。

エレベーターはうんともすんとも言わない。

爪先から、指先から、徐々に体温が奪われていく。

服の隙間から這い上がる冷気に、下半身がきゅんとした。

(……ちょっと、トイレ行きたくなってきた)

からだが冷えると、尿意を催す。生理的なものだけど、この状況では勘弁してほしかった。感じてしまった違和感を小さく丸めて、頭の隅に追いやる。少しでも暖をとろうと、胸の前で指をすり合わせた。

その時、ずっと俯いている俺に何を誤解したのか、京介にぐいと身を引き寄せられた。突然の引力に足がもつれる。それから、大きな手で肩から腕をごしごしと擦られた。摩擦熱のつもりだろうか。

「建物の停電なら、すぐに戻るだろ」

京介の体温と、息遣い。「分かってるよ」とでも言いたげな。くそ。いつも、こいつはずるい。何だか悔しくなってきた。

それきり、お互いに一言も話さない。非常用コールも繋がらない。しんと冷たい沈黙が下りてきて、あまりの気まずさに呼吸が止まりそうである。

セーターの袖を伸ばしたり、指の関節をいじったり、意味のない動作を繰り返していた。京介は相変わらず、俺を少しでも暖めようと密着している。無言なのも、変わらないが。

ひとの体は不思議なもので、すぐには行けないのだと自覚してしまうほど、なぜか行きたくなってくる。気にしなければいい話なのに、それだけが頭から離れなくなる。

さっき思い出したように感じた尿意は、この数分ではっきりとした欲求に変わっていた。気付くのがあと数分早ければ、エレベーターに乗る前に済ませたのに。ああでも、一階で行けばいいやとやっぱり行かなかったかもしれない。面倒なことを先延ばしにするのは俺の悪いくせだ。

ぱっと取り出して掴めそうなほど、膀胱が張っているのを感じた。

少しでも動ければ気が紛れそうだけど、京介がこんなにくっついていたら身動きも取れない。京介に変に勘ぐられるのが嫌だった。別に具合が悪いわけでも、どこかが痛いわけでもない。エレベーターが動けばいい、それだけなんだから。

『エレベーターご利用のお客様、お怪我はありませんでしょうか』

ザザッと砂嵐の音が聞こえたかと思うと、突然インターホンから音声が響いた。「おっ」と京介が期待色の歓声を上げる。体が離れて、途端にひんやりとした空気に包まれた。膀胱が縮んだ。一瞬で緊張が走り、俺は慌てて身を捩った。下腹部がむずむずする。無意識のうちに手を隙間に伸ばしていてはっとした。慌てて腕を後ろに回す。待って、思ったより、溜まってるかも。

「はい、怪我はないです。ただ、連れが少し、気分が悪いみたいで」
『大変申し訳ありません。先ほど電気系統のトラブルが発生しまして、順番に対応しております。そちらにはお客様と、お連れ様と、お二人でしょうか』
『そうです』
『承知いたしました。ご迷惑お掛けして、申し訳ありません。スタッフが至急対応いたしますので、復旧まで暫くお待ち下さい』

絵に書いたような、テンプレ通りの〝ザ・事務対応〟。
京介は振り返って肩を竦めた。参ったなあ、とでも言いたげなのんびりとした表情だ。俺がパニックにならないように、だろう。京介のそういう気遣いを、俺は知っている。

……意地を張っているのが、ばからしくなってきた。

「……俺、別に気分なんて悪くないけど」

そりゃ爽快ってわけでもないけどな。明かりの一つもない、こんな狭い箱に閉じ込められているんだから。

「や、そう言った方が優先的に助けて貰えるんではないかとね」

しれっとそんな適当を言いながら、京介は床に腰を下ろした。
壁に背中を預け、大きく伸びをする。関節が軽く乾いた音を鳴らす。
そして隣をトントンと叩いた。ここに来なよ、の合図。

「立ってても無駄に疲れるだけだし。小さくなってた方が暖かそうじゃない」
「お前自分のサイズ考えろよ。全然、少しも、小さくなってねえ」
「はは」

そうは言っても、立っていては体力を消耗してしまうのも事実。肌寒いのも、また事実だった。

俺は言われた通り、京介の右側に座る。ぎゅうと膀胱が圧迫されて、思わず顔をしかめた。声が漏れそうで唇を噛む。暗闇で良かったと、ここで始めて思う。敏感になった水風船を刺激しないように、そっと膝を立てた。

どれくらいの時間が経っただろう。

「朔?」

名前を呼ばれて、はっと我に返る。
もうすっかり慣れた視界で、京介の表情もしっかりと見て取れる。怪訝そうに、心配そうに、彼の眉が下がっていた。

「……な、に」

声が上擦ってしまう。
体のなかに溜まった余分な水分が、老廃物が、出口を求めて大暴れしていた。それを宥めるのに必死で、京介の振る会話に噛み合っていない自覚はあった。下半身に神経をとがらせ過ぎて、気もそぞろになっていた。

「暗いの怖い?」
「……べつに」
「具合悪い?」
「いや……」

答えながらも、膝が揺れてしまうのを抑えられない。じっとしていることが何よりも辛かった。なけなしのプライドとありったけの羞恥心で、最小限の動きに留めていても、これだけ密着していたら心臓の鼓動さえ伝わりそうだ。

「じゃあ、トイレ、我慢してる?」
「……」

沈黙が、肯定を伝える。

「……あちゃ~~」
「笑うな」
「笑ってなんか」
「声が笑ってる」
「笑ってないって。……結構やばい?」
「……う、」

お見通しなくせに、分かってるくせに。俺は立てた膝に額を押し付けた。あまりに恥ずかしくて、京介の視線に耐えられなかったのだ。

黙りこくっていると、京介がぐいと肩を寄せた。やっぱり、暖めようとしてくれるらしい。おしっこがしたくてむしろ顔が熱いなんて言えないけど、なんだか泣けてきてその肩に頭を預けた。

京介はまるで子供をあやすように、「よしよし」と撫でる。

「朔、ぷるぷる震えてる」
「……だって、」
「じっとしてんの辛くない。動いてていいよ」
「……んなの、」
「はずかしいなんて言ってる場合じゃないでしょ。助けが来るまで、我慢しないと」

……そうなのだ。助けが来るまで、エレベーターが動くまで、扉が開くまで。我慢しなくてはいけないのだ。
分かっていたことだけど、改めてそう言われると気が遠くなる。もうだめかも、なんて、弱気な気持ちがむくむくと膨らむ。

けれど、実際、こんなところで漏らしたりなんてしたら大惨事だ。いくら俺に甘い京介でも、そんなことまで許容できるわけがない。勿論俺だって勘弁だ。それはもう、当然。絶対に。

膨らんだ膀胱の中で、ちゃぷんとおしっこが波打った、気がする。ゾクリと背中に悪寒が走る。下腹部がカッと熱を持つ。

「ひぁ」

意図せず、短く声が漏れた。閉じた膝をさらにきつく合わせ、祈るように擦り合わせる。波をやり過ごそうとして、全身ががくがく揺れた。もうはずかしいなんて、言っていられない。悔しいけど、京介の言う通りだ。

「ごめんね、朔のおしっこ半分もらえたらいいんだけど」

気の毒そうな声音で、京介は時々とんでもないことを口走る。
呆れた俺は返事もせず、少しでも気を紛らわすために立ち上がった。重力に従っておしっこが尿道口まで降りてきて、咄嗟に前を押さえる。

「う~~……」

前屈みで中途半端な中腰のまま、狭い箱の中をうろうろと動いた。端から端まで二歩あれば十分な狭さの中を、行ったり来たり。足踏みしたり。じっとしているよりずっと楽だけれど、座ったままの京介に、まるで実験動物を観察するように見上げられるのが落ち着かない。

「ん、何だよ……見んな」

ようやく波が引いて、背筋を伸ばせるようになった。俺は京介に抗議の声を上げる。両足でソワソワと足踏みをしている姿で言っても、少しも凄みは出ないだろうが。

「いや、そう言えば朔がおしっこ我慢してるのって、レアだなと思いまして」
「…………はあ?」
「飲み会でも、そういうこと全然言わないじゃん」
「……」
「でも朔、トイレ近いよね。いつもきつくならないように、計画的に行ってるの」
「…ちょっと今、トイレの話やめて……」
「ああ、ごめん」

京介が口を噤んだので、再び沈黙が訪れる。
俺の足音だけが、いたずらに響いて聞こえた。

***

じゃあ何か別の話題を、と思案して、京介は気がつく。今、俺たちはけんかの真っ最中だった。デートの話題はNGだ。もっとも今の状態をけんかと呼んでもいいものか、経験値というサンプルの少ない京介には分らない。

緊急事態に追いやられていた案件は、しかし揺るぎない事実としてそこに鎮座していた。

朔はトイレが近い。それは付き合う前から知っていた。

授業の間には必ずトイレに向かうし、二人で出掛けた時も。何かをする前と終わった後で用を足すのは、朔にとって習慣になっているようだった。

頻尿とも取れる体質で、それでもこんなに切羽詰まった朔を見るのは始めてだった。トイレに行けない状況でおしっこがしたくなる状況を、徹底的に避けていたかもしれない。そんな朔がいじらしくて、可愛いと思ってしまう。本人に伝えたら殴られそうだ。

朔は相変わらず小さく足踏みをして、かと思えば慌てたように足をぴったりとくっつけて体を揺らす。真っ暗なのとマフラーが邪魔をして表情までは見て取れないが、きっと苦悶の色を浮かべていることは容易に想像がついた。

可愛いが、そんな事を言っていられないくらい、気の毒だ。

京介はどちらかといえばトイレは遠い方で、こんな状態になるまで我慢したことがない。だから、今の朔の辛さを具体的に想像することさえできないのだ。

「……あぁ」

時々、くぐもった呻き声が沈黙に落ちる。弱々しい、切ない声。朔の細い指が太股を擦ったり、膝を撫でたり。

何度かそんな動作を繰り返していたのだが、今度は少し、様子がおかしい。

片手で前を押さえて、もう一方の手でお腹を抱えはじめたのだ。

「朔?」

黙ったまま何も言わない朔が心配になり、思わず声をかける。

消えそうな声で「きょうすけ」と呼ばれた。

「も、ヤバい……」
「朔」
「腹……痛くなってきた」

その語尾は、泣きそうだった。

ぎょっとして、立ち上がって朔の肩に手を回した。
小刻みなんてもんじゃなく、びくびくと震えている。寒さか尿意か、おそらく両方だろう。冷え性な朔の前髪は、汗でしっとりと張り付いていた。
朔は下半身を捩るように揺らしながら、両手で下腹部を守るように抱える。

「腹……っ、くるしい、」
「朔、取り敢えず座ろうか」
「……っ、痛、」
「ほら、ここでいいから、ちょっと落ち着け、な」

朔はちょっとでも膀胱を揺らさないように必死だった。震える膝を慎重に揃えて、ゆっくり腰を下ろす。
ぺたんと座って足を崩し、躊躇うことなく前を掴んだ。ゆるめのラフなズボンがぐしゃぐしゃになる。

寒さだけでも和らげようと、京介は着ていた上着を朔にかけた。それだけで、朔の背中は大きく跳ねた。

朔はその前を床に押し付けるように、ぐいぐいと押さえ込む。京介からしたら、そっちの方が痛そうだ。隣から、ずっと鼻をすする音が聞こえた。

腹痛まで起こしていて、このままでは本当にどうにかなってしまう。

京介は俄に焦りに包まれる。だって、こんなに辛そうだ。暗くて狭い、この状況にも参ってしまったのかもしれない。もぞもぞと不規則に動き、全身を震わせる。びくりと体を強ばらせ、細く息を吐く。

そうして、時間だけが過ぎていく。

電波の届いていないスマホを確認した。暗闇に画面の光は刺激的で、明るさを落として時計を見る。閉じ込められてから、かれこれ二時間近く経過していた。朔の尿意と腹痛は当然増すばかりで、息遣いはどんどん荒くなっていく。

もう、限界じゃないか。痛々しくて、見ているのもつらい。

朔がいつからトイレに行きたかったのかは分からないが、いつもの朔では考えられない位のおしっこを我慢していることは変わらなかった。

思い立って、もう一度非常用コールに向かう。人差し指で連打して、「もしもし、すみません」と呼び掛ける。

自分が焦っていると伝わったら、朔が不安になる。そうは思うのだが、非常事態で自分も神経が尖っていたのかもしれない。

今度はすぐに繋がった。先程とは違う女性の声が流れる。

「すみませんっ、エレベーターの復旧はまだですか。連れの具合が悪いんです」
『ご迷惑お掛けして本当に申し訳ありません。只今順番に対応しておりまして、順次復旧しております。救急スタッフも向かっていますので、もう暫く、お待ち下さい』

今度は本当に、平謝りの対応だった。各所から問い合わせが殺到しているのか、謝る声も枯れている。機械のトラブルが原因なら、この女性が悪いわけじゃないもんな、そんな風にも感じてしまう。お陰で少し冷静になった。

朔の隣にまた戻る。

京介は一向に改善の見えない現状に、溜め息をついた。

朔は俯いたまま一言も喋らない。まだ箱は開かないのだと、説明せずとも聞こえていたはずだ。

「朔、」

***

京介が立ち上がったのを見て、そろりと足の間に手を差し入れる。手のひらは、汗でじっとりと濡れていた。

トイレが近いという自覚はあったが、こんなに我慢を強いられたことはない。

インターホンの向こうで、申し訳ありませんと繰り返される。京介の落胆が見える。やり取りを聞いて絶望的な気持ちになった。シクシクと痛む腹を撫でながら、唇を噛んで俯く。あまりに苦しくて、声を上げて泣いてしまいそうだ。

伸びきった膀胱は、もういつ縮んでもおかしくないところまできていた。放出を求めて暴れる液体。爆弾を抱えている気分だった。

エレベーターが動いたとして、開いたとして、俺はちゃんと歩けるだろうか。力を込めすぎた両足は、緊張続きでじんと痺れていた。感覚も、あまりない。

「朔、」

戻ってきた京介は、開口一番俺の名前を呼んだ。

改まった声でそんな風に呼ばれると、嫌な予感しかしない。
次に彼の口から飛び出したのは、その直感を斜めに飛び越える言葉だった。

「朔のおしっこ、半分もらう」

京介は、時々、とんでもないことを口走る。

さあっと血の気が引いた。いやいやいや、ちょっと待て。

半分もらうって、どういうこと。何、言ってんの。理解が追い付くよりも早く、ぞっとして首をぶんぶんと振った。

急に動いたことで膀胱が揺れ、危うく漏らしそうになる。ほんとうに、すぐ先まで降りてきているのだ。背筋が震えた。気が狂いそうなほどの強い尿意に、情けない声が漏れる。

「朔、手退けて。俺、朔のだったら飲めますから」
「なっ、なっ、な、何、ばかなこと」
「本気だよ。このままじゃ朔、病気になる」
「ま、まだ、平気。だいじょうぶだから……」
「もう、限界って顔してる。漏らすよりもずっといいと思うんだよね」
「やっ、待って。きょ、すけ……っ」

きつく閉じた隙間に、京介の指が割って入る。京介、本気だ。粟立った全身に意図しない刺激が入り、電気でも流れたみたいにゾクッと背中が跳ねた。

もつれた糸をほどくように、俺の指を一本一本退かしていく。その度に、じゅっと下着が濡れた。押さえている手を取ったら、ほんとうに、溢れてしまう。

強烈な尿意で目の前がチカチカする。

「ひ、ぁ、……やっ、やだ。ね、出る、漏れるから、……」
「だから、漏らさないようにするんじゃん。今さらちんこ見せるくらい恥ずかしくないでしょ」

そうじゃないだろ!

心のなかで絶叫する。
こっちは抵抗力ゼロなのだ。冗談抜きで悲鳴を上げそうである。
おしっこしたい。トイレに行きたい。
頭の中には、その言葉だけがぐるぐると渦巻いている。

頼むからやめてくれ、触らないでくれという思いと、この爆発的な尿意から少しでも解放されるなら、と血迷った思いが葛藤を生む。

ついに京介の手によって、ズボンのホックが外された。ファスナーをそっと下ろされる。その直接的な刺激にぎゅうと膀胱が縮み、俺は反射的に前を押さえ込んだ。京介の手に、重ねて。

緊張が、ほんの一瞬、緩む。下着を濡らすおしっこが、じわじわと間隔を詰めて増していく。

「はっ、……は、……はぁっ、」

目尻に滲んだ涙が、一筋頬を流れる。

一度出口を見つけたそれは、もはや意思の力ではどうにも出来なかった。

やってしまった。大学生にもなって。こんなところで、お漏らし。死にそう。

「っ!」

鈍い痛みにはっとすると、京介の手が、なんと俺の代わりに根本を握っていた。湿った下着を下ろされて、むき出しになったちんこがそこにあるのだと思うと、ぞっとする。だって、ここは、エレベーターの中で。どうしてこんなことになってしまったのか。真っ暗で見えなくても、俺の漏らしたおしっこでぐっしょりと濡れていることは、想像に易かった。

冷静さを失った思考が、セーフ?なんて呑気な言葉を捻り出したのも一瞬。少し中身を出したことで、尿意は輪をかけて強烈な欲求に変わった。今までの尿意は、いったい何だったのだろうというくらいに。

「~~~~っ、……っ!……!」
「朔、大丈夫、」

臍の下でそわりと動く京介の指は、予測できないぶん酷い刺激だ。けれど京介の手を退かすには、まず俺の手を離さなくてはいけなくて。そんなことをしたら、あっという間に決壊だ。

もうどうしたらいいのか分からなくて、殆どパニックになっていた。でもこれだけは確実に言えるのは、半分だけ出して、そして止めるなんて、無理だ。
伸びきった筋肉は収縮することしか出来ない。

「ぁ、あぁ、……ぅ、」

腹を抱えながら、床に押し付けるように腰を揺らす。言葉に出来ない恥ずかしさと、暴力的な尿意。一瞬見えた排尿の快感は、すぐそこにあるのに。
先から堪えられない雫が溢れ、ポタポタと伝う。内股が震えた。
京介はというと、黙ったままで何も言わない。なんか話せよ、いや、やっぱり何も言うな。

「……っふ、」

詰めていた息を吐き出した時、とうとう、限界を迎えてしまった。

あっと思ったときにはもう遅い。
徐々に漏れだしたそれは、あっという間に勢いを増し、シャアシャアと床に広がっていく。湿った下着をさらに濡らして、ズボンに染み込み、京介の手と、そして俺の手を、熱い液体で汚していった。

どれくらいそうしていたのかなんて、考えたくもない。このまま止まらないんじゃないかとまで思った放尿は、ようやく、止まった。

空っぽになった膀胱は、疲れきったのかチクリと痛んだ。

「朔、全部出せた?」

解放感と快感は、京介の一言で一気に吹き飛んだ。現実が目の前に飛び込んでくる。
とんでもないことをしてしまった。顔から血の気が引いていくのが、自分で分かる。

「ごっ、ごめん、ごめんなさい、本当、」

京介の腕を掴もうとして、すぐに今の現状を思い出して引っ込めた。

だめだと思っても、涙が溢れてしゃくり上げてしまう。頬を流れてぱたぱたと落ちていくが、汚れた手では拭うことも躊躇われた。

京介は片手で鞄を手繰り寄せ、中からハンドタオルを取り出した。ハンカチ代わりに使っている、グリーンの太いストライプ模様を知っていた。

そのタオルでまず俺の涙を拭き、手のひらを拭い、おしっこで濡れた太股を拭き取った。情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて。色んな感情がない交ぜになって、俺は泣くことしかできない。

床の水溜まりを片付けるには、小さなハンドタオルでは足りなかった。

「朔、なんか拭くもんない?取り敢えずね。いちおうね」

問われて、自分だって、鞄の中にタオルを持っているじゃないかと思い出す。いつも入れているじゃないか。ハンカチの代わりにハンドタオルを使うのは、京介と同じだ。

慌てて鞄を開いて、底の方で丸まったタオルを引っ張り出す。失敗から目を背けたくて、床をごしごしと擦った。その手を、京介にやんわりと制される。

「あ、そうするよりも、こう、床に敷いて。吸いとった方がいいよ。たぶん」
「……」
「あ~ほら、泣かない。泣かない。よしよし」

床を完全に拭き取ることは、結果、出来なかった。

でも水溜まりがそのまま広がっているよりは、ずっとマシなんじゃないかと思う。混乱した頭は思考を放棄していて、投げやりにすらなってくる。水分を吸ってじっとりと湿った二枚のハンドタオルは、箱のすみに追いやった。
濡れた下着やズボンは、当然、そのままだ。

「仕方ない、仕方ない。頑張ったよ」

京介はそう言って宥めるけど、とてもじゃないが簡単には割りきれない。穴を掘りたい。頭を抱えてどこかに埋まってしまいたい。

「俺べつに、朔のおしっこ飲んでも良かったのに」
「……俺が困る」
「あはは」

ぽんぽん、と背中を叩かれる。
本当に、京介はずるくて。そういうところを、そういう部分こそを、好きになったんだ。

「……話を戻しますが」

途切れた会話を、少しだけ躊躇いがちに繋ぐ京介。話って、何の話を。戻すってどこに。

「明後日のデートですけどね」

──そうだ。もう何度目か分からない再確認だが、俺たちは今、けんかの真っ最中だった。

口論になりながらエレベーターに乗り込み、硬化した尖った態度で下っていき、そうして閉じ込められたのだ。お互いに言い争いをしていたことが遠い昔に思えてくる。

「予定何とか組んでみたんだけど、どうしても明後日は空けられなかったんだ」
「……も、いいって、」
「教授に頼まれた仕事だから、頼めば動かせるんだけど。でも明後日空けると、代わりに次の日、学校来なくちゃいけないんだ」
「………………次の日?」
「うん。日曜日。……やっぱり、記念日は、一緒に過ごしたいよ」
「………………ちょ、ちょっと待て」

話を遮られ、「どうかした?」と怪訝な様子の京介。
一年前を思い出す。「まさか」と、ひとつの可能性が浮かんできた。

電話をしながら、いつの間にか真夜中になっていて。「十二時過ぎちゃったな」と京介が笑って。

「きょ、京介さん」

思わず、居ずまいを正した。

京介もそれに乗って、「はい、何でしょう朔さん」なんて正座をする。

「俺たち、去年の二十日に、付き合ったんだよな」
「……去年の、二十一日に、電話で」
「………………うーわー……」

俺は文字通り、頭を抱えた。それはもう、両腕で。全力で。このまま落下してしまったっていい。

京介も、ようやく合点がいったようで「えっ、うわ」と動揺の声を漏らした。

今朝から続くけんかのやり取りを思い出し、2人の間に横たわる勘違いに辿り着く。つまり、俺たちは、同じことを考えていたのか。ただ、日付の認識が違っただけで。そして、その齟齬のために、揉めていた。

「……電話がかかってきたのは二十日」
「……電話を切ったのは二十一日」
「………………で、でも」
「俺、朔に付き合ってって言ったの、どっちの日?」
「………………知らん」
「……ですよね~」

二人は、同時に吹き出した。

「ああもう、どっちでもいいよ、バカみたいだな、俺たち」
「なんだ、そういう事だったんだ」
「じゃあ、二十一日ということにしておいて。そんで、二人で一日エロいことしてよう」
「それは勘弁」

狭い箱の中で、腹を抱えて大笑いする。とんでもない失敗も、近付かないとお互いに表情さえ確認できないような暗闇も、今はどうだっていい。

ひとしきり笑って涙まで滲んできたと思ったら、京介の唇が頬に触れた。女子のそれよりずっと薄くて、けれどさらさらと柔らかい京介の唇。

「本当、災難だったね。俺とけんかするし、エレベーターに閉じ込められるし。朔、お漏らししちゃうし」
「……ぅ」
「あー嘘、嘘。もう意地悪言わない。泣かないで」

乱暴に頭を撫でられて、髪の毛がぐしゃぐしゃになる。指が絡まって細い痛みが走った。
笑いながら、京介も泣き出すのだから驚いた。京介はこんなにでかい図体だが、それに似合わず、やはり涙もろい。

「っていうか、俺、朔に勇気を振り絞って告白したの、それよりも前だからね」
「……た、確かに」
「お互いに確認しておきましょう。俺たちは去年の五月二十一日に、付き合いました。オッケー?」
「うん、もう、それでいい。そうしよう」

結局、エレベーターが動いたのは、それから二十分後のことだった。

突然電気が復旧し、止まったときと同じように、ゆっくりと稼働を再開した。停止したのは一階で、扉が開くと警備会社や電気関係のスタッフ、救急隊員が待ち受けていた。

「大変お待たせしました」「怪我はありませんか」「体調を崩された方は」京介が緊急コールで繰り返し伝えたからだろう。矢継ぎ早にそう詰め寄られ、まさかおしっこを漏らしましたなんて言えるわけもなくて、俺は動揺して俯いた。

セーターの裾を伸ばして誤魔化したが、ズボンは所々濡れて変色している。京介のジーンズだって、きっと濡れてしまっている。

「あ、大丈夫です、帰って寝かせれば治ると思うんで。」

顔を覆うようにマフラーを巻かれ、俺は京介に引き寄せられる。

そういうわけにも、と食い下がるスタッフから逃げるように、その場をすり抜けた。彼らは彼らで、中から出てきた泣き笑いの成人男性二人に戸惑っている様子だ。足早に立ち去りながら、なんとなくおかしくなってきて、また笑いあった。

やっと、ようやく、帰宅時間だ。

記念日に向かうエレベータ―:END

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