記念日の朝

昨日の夜、予定を立てた。

教授の手伝いを終えて帰ってきた京介と、少し遅めの夕飯を食べながら。閉店間際の駅ビルで買ってきた、割引済みの中華惣菜である。
朔は昨日から京介の家に泊まっている。何も気にせず、自由に行き来できるのは、互いに一人暮らしをしているメリットだ。
10時には起きて、ハンバーガーチェーンの朝セットを食べよう、とか。12時の回で、ずっと見たかった映画を見よう、とか。京介のスニーカーが履きつぶしてボロボロだから、新調がてら買い物にも行こう。夜はちょっといいつまみと、コンビニで適当にお酒を買って、のんびり過ごそうぜ。と。
特別なことがしたいわけじゃなかった。新しいことを試したいわけでもなかった。
付き合って2年目の記念日である。

しかし。しかしだ。
そんな計画は出だしから盛大に転んでしまった。
それはもう、ポッキリと折れてしまった。
ひっくり返ってはくれないかと、ありとあらゆる逆説を並べてみたくなるものである。だってあんまりじゃないか。

「腹痛いー」

朔は、ソファの上で膝を抱えた。
お腹はシクシクと、切なく痛みを訴える。

記念日がどうのと、あんなに大騒ぎしていたのに。
2人が付き合うことになったのは、深夜の電話。話ながら日付けを越えてしまって、お互いのスタート地点は認識を違えていた。
即ち、朔の思う記念日と、京介の思う記念日は、1日ずれていたのだ。それが原因でややこしいケンカをしてしまって、結局仲直りはできたものの、正直その時のことはあまり思い出したくない。
とにかく。勘違いは回収されて、正しい形に収まって。楽しい1日を過ごすはずだったんだ。

「だいじょうぶかぁ、朔」

朔がソファを占領しているために、床に座ることになった京介は、カフェオレを啜りながらそう尋ねた。
京介の家にはミル付きのコーヒーメーカーがあり、時間があるときには豆から挽いてドリップしてくれる。これがそこらのカフェよりも遥かに美味しいものだから、もともとインスタントでもおいしく飲めていたはずの朔でさえ、コーヒーに特化して舌が肥えてしまったのだ。
テーブルの上には「一応」と言って置かれた朔のカフェオレが湯気を揺らしている。
これも、朝から京介が繊細な手間をかけて淹れてくれたものだと、朔は知っていた。

今朝。それも、まだ夜も明けきらない早朝。
朔は捩れるような腹の痛みで目を覚ました。内臓をぜんぶ一緒くたに掴まれて、両手で絞られてるようだと思った。
寝ぼけた頭は事態を全く処理できず、朔は混乱のままに布団の中で丸まった。京介は隣のベッドで、微かに寝息を立てている。
暗い所を怖がる朔に合わせてつけた、オレンジ色の常夜灯が2人を見下ろす。
息もできない激痛を両手で抱え込んでみたものの、改善の見込みはない。膝が額にくっつくまで背を丸めて、数分がたっただろうか。
ぬるつく脂汗まで浮かんできて、ギリギリと暴力めいた痛みの圧力は、徐々にその居所を変えた。
要するに、次に朔を襲ったのは強い排泄欲だった。
布団から転げ出て、よろよろとトイレに向かう。京介を起こしてしまっただろうか。少しだけ、起きてくれればいいのにと、願っていた。暗くて、痛くて、すごく、心細い。

痛みの副産物を吐き出して、何とか部屋に戻ってきたが、京介はしっかりと熟睡していた。
そうだ。京介はこういう奴だった。明かりが煌々と照らしていても、テレビでサッカー中継が盛り上がっていても、一度眠ったら絶対に起きないのだ。
京介が穏やかな寝顔を見せる一方で、朔の腹は渋り続け、引き攣る痛みは眠気をどこかへ追いやった。ベッドに背中を預け、暴れまわる腹を必死に宥める。
朔が何度目かわからないトイレに立ちあがり、朝日が細く差し込む頃になって、京介はようやく目を覚ました。

「さく?」

まだ半分眠った声で名前を呼ばれて、疲れ切った気持ちはあっという間に糸を切った。「腹が痛い」そう訴えて、朔は涙を溢した。腹具合が悪くて号泣する
成人男子、かなり限界だ。些か落ち着きを取り戻した今なら、そう回想できる。

「朔、あんまり酷いようなら病院行くけど、どうする」

カフェオレを飲み終えた京介が、少し真剣なトーンでそう尋ねる。朔のマグカップは一口も進んでいない。
焦げた乳白色からは香ばしくて甘い香りがした。

体育座りをしているのもしんどくて、朔はずるずると体を倒す。このだるさは、血圧が上がらないせいでもあった。
病院。どうしようか。この調子だと、病院に行くほうが大変な気がする。
一瞬だけ迷ったのち、そう考えて首を横に振る。

「ふーーー……」

ぴーぴーに下っていた早朝から、なんとか小康状態まで落ち着いた腹を庇いながら、深く息を吐き出す。
寝不足も相まって、筋肉から精神まで、朔は限界まで疲弊していた。
瞼が重くて目を閉じた。眠れはしないと分かっていたが、それでも幾分か気持ちが楽になる。
京介には悪いが、今日は放っておいてもらおう。
せっかくの記念日なのに、一緒に過ごそうと思ってたのに、ごめんな。回復したら、ちゃんと謝るから――

「きょ、京介さん?」

……そう、思っていた。
ソファのスプリングが軋み、重心が傾いた。その淵ギリギリに寝ていたせいで、危うく転げ落ちそうになる。
京介は朔の腕を解き、ぐったりと横たわる朔を見下ろした。
たび重なる腹痛と下痢で顔面蒼白だった朔の表情から、さらに血の気が引く。あれ、何だか、組み敷かれてないか、これ。

「ふむ」

観察するように、しげしげと眺めてくる。朔はこの目を知っていた。実験の時、顕微鏡を覗いて培養中の微生物を数える時と同じ目である。

「……ちょっと、京介、なに」

抗議の言葉が終わらないうちに、なんと京介は朔の腹に耳を当て、あろうことか片手でゆるりと擦り始めたのだ。

……何度でも言うが、京介は変わっている。少しなんてものじゃなく、それはもう、盛大にズレている。
時々、とんでもないことを口走ったりもするし、とんでもないことを平気でやってのけたりする。
京介の名誉のために付け足しておくが、彼に自らが変わっているという自覚はない。したがって、これぽっちも、悪気はないのである。

外から刺激を受けて、収まっていた腹が再び動き出した。ぎゅる、嫌な悲鳴が上がる。鳥肌が立った。
京介にもそれは当然聞こえていて、「うわっ」と顔を上げる。うわ、じゃねえよ、うわ、じゃ。

「痛そうな音がする」
「ちょ、……きょ、すけ、…それ、」
「え?」

ぶり返してきた腹痛に、堪らずに体を丸くした。京介の肩を押しのける。

「それ、やめて……ってば、」

京介はそこで初めて、自分の行動が悪影響を及ぼしていたと思い当たったらしい。
慌てた様子で体を離す。両手を上げて、身の潔白を証明。いや、だからさ…と突っ込む気力も朔にはない。
歯を食いしばって、襲い来る波に耐えるだけだ。

「ごめん!温めたらいいかと思って」
「……っ、……っう」
「ほんとごめん、何かできること、」
「こ、こっちくんな……」
「ええ」

頼むから放っておいてくれ。いや、まるきり放っておかれたら、本当は寂しいんだけど。けど、お願いだから、今はどこにも触るな。近づくな。
掠れた声でステイを言い放ち、うつ伏せになって下腹部を抱える。
暫くおろおろと見守っていた京介は、寝室から布団を1枚持ってきた。それを朔に被せ、真正面に腰を下ろす。座布団を尻に敷くのも忘れない。
そして余って床についた布団に、足を突っ込んだ。こたつにすんじゃねえよ。もちろん、抗議する元気はない。

「やばくなったら言って。俺、テキトーに課題やってるから」

京介は変わっている。10人に尋ねたら9人は賛成するくらい、変わっている。残りの1人は京介と同じくらい、あるいはそれ以上の変人だ。

夜、暗がりが怖かった。明かりのないトイレはものすごく怖かった。
腹はいつまでも治らないし、夜が明けないのかと思うほど、それはそれは絶望的な気持ちだった。
それでも、こんな京介が横にいるって、それだけで安心して泣けてきてしまうのだ。
きっと、自分もじゅうぶん、変わってる。

記念日の朝:END

1件のコメント

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