叩きつけるような雨の音が、微かに聞こえる。
岩崎はキーボードを叩く手を止め、大きく伸びをした。
関節がポキポキと鳴った。
時計の針は10時を回っている。今日は終電で帰れるだろうか。
斜め前……といっても広いオフィスなので一列分の距離を空けて……のデスクに座る上司、皆川の様子を窺う。
端正な顔はいつも通り涼しげで、特段苛ついていたり不機嫌な雰囲気は感じられない。
岩崎は内心ほっと胸を撫で下ろす。
もちろんポーカーフェイスの裏側でどう思われているかなんて、少しも分からないのだけど。
岩崎がこんなに上司の顔色を窺うのには、もちろん理由がある。
この残業は岩崎のミスが招いたもので、直属の上司である皆川は、義務感から会社に残ってくれているのだ。要するに、サービス残業である。
氷のように厳しい人だと思っていたので、新人のミスを見抜けなかった上司の責任だと言われた時は、自分一人の落ち度だなんて驕りだったと恥じ入った。
そんな皆川はというと。明日の仕事の準備を黙々と続けていたが、実は激しい欲求に襲われていた。
尿意、である。
昼過ぎから感じていたその欲求は、しかしトイレ清掃や会議などが重なり、タイミングを逃したまま確実に膨らんでいた。
その整った表情にはおくびにも出さないが、デスクの下で足を組み、せわしなく動かしていた。
生来トイレが遠い皆川は我慢に強く、まだ我慢できる範囲だと考えていたのと、取りかかった作業が一段落するまで席を離れたくないという拘りで、こんな時間まで尿意を引きずってしまったのだ。
厚い窓ガラスを越え、豪雨の音は続く。
夕方から降り始めた雨は衰えを知らず、きっと電車もダイヤに乱れが生じていることだろう。
皆川がパソコンを操作する音や、紙をめくる音、それから空調の音。つまり静まり返ったこの部屋に、普段ならどんなに激しくても聞こえないであろう雨の音。
早く終らせて皆川に謝ろう、そう思い再び画面に向き合った瞬間、地響きにも似た低い音がして、窓の外が一瞬だけ光った。
「うわっ」
思わず声を上げた岩崎。雷だと気付いた時には、オフィスは一斉に照明を落としていた。
バッテリーの残っているパソコンの光で、岩崎と皆川だけが暗闇に浮かんでいる。
さすがの皆川も驚いたようで、怪訝な顔をして窓の向こうを見やる。
「……雷、ですね。近くに落ちたのかも」
呆気に取られたままぼんやりとそう呟くと、はっとしたように皆川がこちらを見た。
「バッテリーが生きてるうちにデータ保存しとけ。無駄骨なんて御免だぞ。」
「あっ、すみません、そうですよね。」
慌ててデータを上書き保存する。一時的な停電なら良いのだが、いかんせん社内に残っているのは岩崎と皆川だけであり、いつ対応されるのか、電気が復活するのか想像もつかない。
青みがかかったグレーのスーツの下、尿意が皆川の下腹部を刺激した。
慎重に立ち上がり、オフィスの出入り口に向かう。
ノブに手をかけたが、上下左右に少しも動かなかった。
しまった、と青ざめる。オートロックの出入り口、開閉を制御するのは電気だ。
「皆川さん?」
ドアの前で立ち尽くす皆川を不信に思ったのか、岩崎が声を掛ける。
振り返りため息をつく皆川。
「電気がやられて鍵が開かない。……閉じ込められたみたいだ。」
岩崎の表情がひきつる。嘘だろ、と小さく呟いた。
それが事実だということは、デスクに戻る皆川の姿が物語っていた。
「まずいことになったなぁ……」
空調も止まり、雨の音だけがいっそう侵入してくる。
椅子を引いて体をほぐした岩崎は、皆川の様子が少しおかしいことに気付いた。
背筋を曲げて俯き、片手で顔の半分を覆っている。
具合が悪いのだろうか。
「皆川さん、大丈夫ですか。」
慌てて歩みより、背中に手を掛ける。皆川は、びくりと肩を強ばらせた。
大丈夫だと、繕う余裕は無いらしい。ぴったりと閉じられた太股が微かに震えている。
その様子を見て、岩崎は瞬時に了解した。
「それは……参りましたね……」
背中を擦ろうとした手は所在なく泳ぎ、行き場のなくなった岩崎は皆川の隣の席に腰を下ろした。
皆川が横目でこちらを見る。苦し気なその表情にドキリとしてしまった。
皆川の中では、溜まりに溜まった老廃物が出口を求めて暴れ、羞恥心が思考を占めていた。
さっきまではまだ我慢できると思っていたのに、行けないと思うと急に切迫してくるのはなぜだろう。
後輩に気付かれてしまった恥ずかしさと、爆発的な欲求が葛藤し、だが尿意の方がより危機的だった。
「……っ」
尿意の波が襲い、思わず息を詰めてしまう。
じっとしていようと思っても、腰が揺れてしまう。
少しでも気を紛らわそうと、立ち上がってオフィスの中をうろうろと歩いた。
普段落ち着き払った皆川が、こんなに切羽詰まった様子を見せるなんて、心配よりも先に驚きを感じてしまう。
窓際を行ったり来たりする皆川の足取りは覚束ない。
このまま、漏らしてしまうんじゃないだろうか。
いつからおしっこを我慢しているのか知らないが、この様子だと相当溜めこんでいたのかもしれない。
岩崎は、早く電気が点かないかと、天井を見上げため息吐いた。無表情な蛍光灯は静かにオフィスを見下ろす。
どれぐらいの間そうしていただろう。
皆川はいよいよ余裕が無くなってきたようで、椅子に戻りぐったりと背中を丸めてている。
隠すことなく不規則な貧乏ゆすりを繰返し、時々緊張が走る。
皆川さん、と呼ぶと、力なく曖昧な相槌が返ってきた。
「皆川さん、大丈夫ですか、ほんと。」
「……大丈夫じゃ、ない……、」
くぐもった声でそう答えた皆川は、どうしようと小さく呟いた。
そうしている間も下半身は揺れ、足を組んだまま遂に前を押さえ始める。
眉根は苦しげに寄せられ、泣きそうな表情である。
普段のスマートな様子からは想像も出来ない。
なんかこの人可愛いなあ、なんて思ってしまう。怒られるだろうか。
川なもう、決壊寸前だった。背筋を伸ばすことすら出来ない。
トイレに行きたい。このままだと、まずい。それだけしか考えられない。
椅子の上で全身を震わせ、ただ暗闇を呪うだけである。
皆川さん、と岩崎は呼ぶ。
「本当、こんな時間まで、俺のせいですみません。我慢、体に悪いですよ。俺は気にしないし片付けもするんで、ここで、しちゃってください。」
その提案に、ぎょっとして顔をあげる皆川。
「何、バカなこと……」
「冗談じゃないです、本気ですよ。」
ほら、と言いながら、岩崎の長い腕が伸びる。
皆川の下腹部、欲求で限界まで膨らんだ膀胱の当たりに手を添えた。
何をしようとしているのか、すぐに察しがついた。
少しの刺激にも耐えられず、皆川は声を漏らした。
「やっ、……やめ、待って、…………」
必死に岩崎の手を退かそうと掴むが、力が全く入らない。
岩崎には、皆川の顔が青ざめていくのが暗闇でも分かった。
助長された排泄欲に堪らず、下半身は一層激しく揺れる。
がたがたと震え、太股を絶え間なく擦りあわせる皆川。
足踏みする動きを岩崎は片手で押さえ、閉じられた太股をこじ開けた。
「っあ……、やだ、止め、」
「大丈夫ですって、皆川さん。」
「バカ言え……っ!」
「俺、小学校の時膀胱炎になったんすよ。トイレ学校で行けなくて。あれ、ほんと辛いんですよね。気持ち悪いし、痛いし。オフィス、俺しか居ないし、防犯カメラの電源も落ちたみたいだし、大丈夫です。」
膨らんだ下腹部を押す力を強める。
皆川の背がびくりと強張った。
「岩崎……っ!」
細い声。
名前を呼ばれることが、こんなに興奮することだとは。
皆川の体から力が抜けていくのを感じた。
嗚咽が聞こえた。
ブルーグレーのスーツに吸いきれなかったおしっこが、床に広がる。
暗闇に包まれたまま、オフィスに光が戻るのはそれから30分後のことだった。
雷のあとで:END