呼吸と体温

何となく体調が悪いのは、自分で気付いていた。
胃の辺りがムカムカして、体が重かった。
人間は重力に逆らって生きているのだと、そんな変なことまで考えていた。
それでも何とか1日を過ごし、同棲している薙さんの作ってくれた夕飯を食べた。
家事は当番制にしていて、俺は今日洗濯をしなければならなかったが、こびりついた怠さに負けて放置してしまった。
薙さんは「大学忙しかった?」なんて言ったけど、2日分の洗濯を溜め込んでしまった罪悪感と、積まれている洗濯物の山に余計気分が悪くなった。

その夜、薙さんは翌日が休日だからと俺の服に手を忍ばせたが、とてもそんな気持ちになれなかった。
心配されるのは避けたくて、今日は眠いと一言告げ、寝返りを打って背中を向けた。
胃の中で、さっき食べた夕食がたぷんと動いた、気がした。
「そっか」呟いた薙さんは無理強いは絶対にしない。優しい人なのだ。
リモコンを操作して照明を消し、おやすみと布団に潜り込んだ。

本格的に体調が急降下したのは、気温のぐっと下がった夜中。

気持ち悪い。はっきりとそう感じ、強制的に眠りから起こされた。
それも、何となくなんて生ぬるいレベルじゃない。
「吐く」この2文字が鮮明に脳裏に浮かんだ。襲うのは、強烈な吐き気。

同棲を初めてからずっと、一つのベッドで一緒に眠っている。
部屋を決めて、最初に買った家具だ。
シンプルな木製の、ロータイプのダブルベッド。
毛の長いダークブラウンの掛け布団の下、薙さんは俺をしっかりと抱き締めていた。
いつもなら大好きな人の体温を直接に感じて安堵するのに、今日は状況が違う。

(あーーー…、……やばい…)

バクバクと心臓が脈打つ。
冷や汗が吹き出し、俺は何度も生唾を飲み込む。
少し身動いだだけじゃ、薙さんの腕は離してくれそうにない。

それに、体勢も悪かった。
背を丸めたいのに、薙さんの両腕は俺のお腹の辺りをがっちりホールドしていて、俺はさながら薙さんの抱き枕のようになっている。
自分の重みで胃が圧迫され、背中を曲げると薙さんの腕がぐいと食い込む。

薙さんを起こして、腕を離して貰おうかとも思ったが、一瞬でその考えを打ち消す。
薙さんはここ最近仕事が忙しく、まともに眠れていなかったはずだ。
漸く一段落ついて、今日は久しぶりにゆっくり寝られるって、夕食の時にも言っていた。
こんな勝手な理由で薙さんの睡眠を妨げることはしたくないし、絶対心配されてしまう。
それに、確実に吐いてしまう予感がする。
薙さんに自分が嘔吐する姿を見られたく無かった。汚い音も、聞かれたくない。

そろり、すんなりと伸びて絡まる腕を抜け出そうと、体を起こす。
その気配を感じたのか、薙さんは寝惚けたまま、俺をぐっと引き寄せた。
薙さんの手は、俺の鳩尾を直接に押した。

「……!!」

胃の中身が押し出される。
食道を逆流し、競り上がってきた内容物を慌てて飲み込んだ。

(やばいやばいやばいやばい……!)

再び布団に収まり、目を閉じて呼吸を整える。
目眩までしてきた。最悪だ。
じっと落ち着いていられなくて、裸足の足を世話しなく擦り合わせる。
寒いはずなのに全身緊張で汗ばんでいて、気持ちが悪かった。

一度抱き寄せたことで、薙さんと俺の距離はさらに近くなった。
殆ど密着していて、起こさないようにと思うと少しも動くことが出来ない。

(………どうしよう……)

両手で口元を覆う。こんなの、ほんの気休めにもならない。
こうしている間にも吐き気は確実に気力を削ぎ、小さな波が何度も体力を奪っていった。
背中越しに聞こえる薙さんの気持ち良さそうな寝息が遠くに感じる。
生理的な涙が溢れ、枕に染み込んだ。

―――息苦しい。

そして、唐突に自覚する息苦しさ。

浅い呼吸をずっと繰り返していたことに、そこで気が付く。
息が、出来ない。
この感覚を知っていた。

「はっ………」

マラソン大会の後、大切な大会の前、体育祭、そんな場面で何度も経験していた。

過呼吸。

過呼吸に、なりかけている。
頭の冷静な部分が、そう警告する。
どうやら自分は過呼吸になりやすい癖があるようで、激しい運動や過度な緊張を感じた際は、度々この症状を引き起こしている。
最近はその前兆を自覚できるようになって、本格的にパニックになる前に自分で何とか処理できるようにもなっていた。
今も、ちゃんと呼吸を整えれば大丈夫。深く息を吐いて、落ち着けば、大丈夫なはずなのである。

けれど、そんなことはお構い無しに、胃は中身をひっくり返そうと躍起になる。
気持ち悪さと息苦しさで、体がガタガタと震えた。
口を覆っていた手が頬に食い込み、片手は寝間着代わりのTシャツをぐしゃぐしゃに掴む。

「んぐっ」

本当に突然だった。突然、強い吐き気の波が襲い、頬が膨らんだ。
飛び起きて、堪えきれずに嘔吐する。あっと思う間も無かった。
生暖かい吐瀉物がシーツに、フローリングに飛び散った。

「夏樹?!」

静まり返った部屋に、俺がえずく音だけが響く。薙さんを起こしてしまった。当然だ。
ドキリとして息を止めたが、込み上げてくるものを我慢することは出来ない。
背後で薙さんが起き上がるのを感じた。スプリングが軋む。

「オエッ……げぇ、うぅっ」
「夏樹?ちょっと、どうしたの」

寝起きの声で薙さんが戸惑っている。
薙さんの作ってくれたクリームシチューや、デパートで買ってきたサラダがぐちゃぐちゃになって吐き出された。
救急車、と呟いた薙さんがスマホを探し始めたので、慌てて首を振った。

「ひっ、はぁっ、はぁっ…っ、ふ、ひぐ、っ…」

息が出来ない!

部屋の電気が点く。薙さんが背中を擦ってくれる。
薙さんは、俺の過呼吸を心得てる。
何を隠そう、初めて薙さんの前でこんな風になったのは、初めて薙さんに抱かれた夜なのだ。
思い出すだけで顔から火が出そうである。

「よしよし、息吐いて…、大丈夫だからなー……」

「ふっ、…んん、っ、ふ、」

薙さんの右手が、俺の手の隙間を縫って、俺の口を覆った。
吐いたものと唾液でべたべたになって、薙さんの手を汚す。
本当に病院に行かなくて大丈夫なのか、と薙さんは言った。

「吸って、吐いて、…吐いて、」
「ひっ、ふ、…、」

ああ、ぼんやりと薙さんの体温を感じる。
もう、大丈夫、きっと、大丈夫。
急に大量に吐いたせいで、唾液線の辺りがキュッと縮む。
ヒリヒリした喉の痛みより、締め付けられるような食道の不快感の方が勝っていた。

「…はーー、はぁ、…」
「落ち着いた?」

肩で息をしながら、薙さんの言葉になんとか頷く。
「水持ってくるから」薙さんの体温が離れた。

頭痛と目眩に顔をしかめながら目を開くと、ベッドから床までグロテスクな惨状が広がっていた。
間に合わなかった。やってしまった。
呼吸が少し落ち着いた今改めて思い知らされて、さっと血の気が引いた。

「ほら、水。飲める?」

薙さんの優しい声音に、泣けてきてしまう。
呆然としていると、蒸しタオルで顔が拭かれた。汚れた指の間も丁寧に拭いてくれる。
全身に力が入らなくて、薙さんのなすがままになった。

「なぎさん、………すみません……」

涙が滲み、声が震えた。
後始末をしなければ。床を綺麗にして、シーツを取り替えて、洗濯をして。…そうだ、洗濯。
積まれたままの洗濯物を再び思い出す。
そう思うのに、あまりの怠さに座っていることすらままならない。

薙さんが、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
水の入ったコップを受け取り、一息で飲み干す。

口の中の不快さが払拭されたのも束の間。
食道を通った水分を、体は反射的に戻そうとえずいてしまう。
もう寝室を汚したくなくて、鉛のような体に鞭打って床に足をつける。

(……嫌だ、)

「あー、そうだよね、無理か…。水分取って欲しかったんだけど。…トイレ行く?」
「……行く……」

薙さんの、心配そうな声を待たずにベッドから抜け出した。
背筋を伸ばせなくて、胃の辺りを庇うような猫背になる。
ふらついて足がもつれた。

これ以上の醜態はない。
“吐いても大丈夫な場所”以外でこれ以上吐き続けることに耐えられなかった。
体も辛いが、それ以上に精神的に参ってしまいそうだ。
ここまで盛大に汚しておいて、ただの意地だと分かっていても。

「ここで吐いても、誰も怒らないよ」そう言いながらも俺を支えるように付いて来てくれる薙さんは、本当に優しい。
迷惑かけてごめんね、薙さん。

便器を抱えて何度も嘔吐して、目の奥がチカチカしてきた頃、ようやく吐き気が治まってきた。
脱力して、すぐ後ろにいる薙さんに凭れかかった。
薙さんは長い腕を伸ばし、水を流す。
鼻の奥がツンとした。

目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
怠い腕を動かして、胃の辺りをそっと擦った。

「…あー…、死ぬかと、思った」
「苦しかったね、夏樹。死ぬかと思ったはこっちのセリフだよ」

薙さんもまた、安堵の溜息。
申し訳なくて、情けなくて。ごめんささいと呟くと、薙さんはぐっと俺の肩を掴んだ。「そうやって謝るのは禁止」なんて念押しをされ、引いていた涙が再び溢れた。
嗚咽が漏れる。また呼吸がおかしくなってしまわないように、しゃくり上げそうになるのを抑え意識して深呼吸をした。

「さ、て。眠れなくてもいいから、一度休もう。ここじゃ冷えるだけだよ。リビングに、お客さん用の布団敷いてあげるから。ソファにでも凭れるか横になってなさい。ね」

小さい子に言い聞かせるような口調でそう促され、よろよろと立ち上がる。
キッチンで口を濯ぎ、薙さんが布団を用意してくれている間、言われた通りにソファで毛布に包まった。
クローゼットに入るような、丸めて収納するような小さな敷布団で、なのに薙さんは潜りこんで手招きをする。

「具合悪くなったら気にしないで起こしていいからね。ほら、寝るよ」

薙さんのつま先が布団からはみ出ていて笑ってしまう。笑った拍子に、また涙が流れた。
この人のこういう所が、俺は大好きなんだ。

2人で狭い布団に身を寄せ合う。何となく面白くなって、同時に吹き出す。
薙さんの呼吸にリズムを合わせているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

呼吸と体温:END

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です