2人の兄

天高く馬肥ゆる秋。
空気は澄み、夏よりもぐっと遠くなった空は茜色で、古人に言わせれば一番素晴らしいとされた夕暮れだ。外を歩けば金木犀の香りがそこら中に広がっている。
もっとも、朝から険悪なムードが漂うこの車内では、秋の風流など微塵も関係のない世界であったが。

「まだ着かねえのかよ、バカ兄貴」

ゆるやかな車の流れに痺れを切らし、後部座席から運転席をドカッと蹴る。
兄、隆生がやれやれと肩を竦めるのが見え、余計イライラが募る。

「まあまあ、理生ちゃんそんなにピリピリしないのー」

助手席から振り返ってへらりと笑うのは、兄の幼馴染みである幸哉だ。
小さい頃から隣に住んでいて、幸哉が一人っ子だったこともあり、隆生と幸哉と理生で三兄弟のようにして過ごしていた。アッシュグレーに染めた長めの髪に、耳元で光を弾くピアス。無駄に整った顔にぴったりとハマり、無国籍風の華やかさがある。
けれどそれも口を開くまで。

「ストレス溜まってるんじゃない?オレが気持ちいいことしてあげよっか。ねえ隆生、理生ちゃん一晩オレに貸してよ」
「こんなガリガリでよければ好きにしていいぞ」
「うるさいバカゆき!バカ兄貴!」

あはは、と笑って幸哉は前を向く。綺麗な顔に似合わず、とんでもない変態変人なのだ。守備範囲は老若男女問わず。

暁生がカーナビを操作し、渋滞情報を確認する。幸哉はステレオを弄り音楽を変えた。そんな二人の後ろで理生は、ふて腐れたように窓の外を見た。

だから兄と出掛けるのは嫌だったのだ。
就職先が決まり、そこは家から通うにはいささか不便な場所にあった。一人暮らしを決めてから数か月、最近になって引っ越し先が決まったため、理生の高校が休みの土日になると人手が足りないと連れ出される。お隣の幸哉も暇だからと手伝いに来て、ここ一ヶ月は全休日が兄の引っ越しに割かれている。
今日も朝からトランクいっぱいに組立式の家具を積み込み、新居に運んで組み立て配置。理生が文句を言っても、絵に書いたような傍若無人である兄は「オラ、働け」と笑うだけである。

後部座席に座る理生は、二人が前を向いたのを確認して、左手でそっと腹部を抱えた。
理生が苛ついているのには、兄の手伝いや渋滞以外にも理由があった。
今朝からずっと、腹が痛いのだ。

「でもいいなあー、隆生一人暮らしじゃん。オレも早く大学卒業してえ~」
「お前の場合卒業出来ても就職できるかが問題だろ」
「そうなんだよねぇ」

前の二人は呑気にそんな話をする。医学部に通う幸哉は、法学部所属の隆生よりも長い大学生活が待っているからだ。

外も十分涼しくなってきたというのに、がさつな兄は夏場の癖で冷房を効かせている。家具を運ぶからと動きやすさを重視して薄着だったことも要因となり、帰りの車内では痛みが増すばかりだった。
手のひらを押し付けるようにしてお腹を擦りながら、痛みが収まるのをただ祈る。
窓の外の景色は、さっきから殆んど変わっていない。赤いテールランプがフロントガラスの向こうに伸びるだけだ。理生はこっそり、溜め息をついた。

だんだん、痛みは我慢できる範囲を越えつつあった。
それどこかぐるぐると不穏な動きまで感じ始め、悪い予感に背筋が冷える。
俄に焦りに包まれた理生は、身を乗り出して兄の肩を叩く。腹圧がかかり、絞られるような痛みに頬が一瞬引きつった。

「なぁ、まだ動かねえの。高速降りた方が早いんじゃない」
「しゃーねーだろ、事故渋なんだから。何、小便?」
「なっ、んなわけないじゃん」

振り返った隆生の顔には意地悪い笑みが浮かんでいて、かっとしてそう否定してしまった。たった一言、トイレに行きたいと言えばいいのに、そうしなかったことをすぐに後悔する。けれど散々憎まれ口を叩いた兄に、自分の不調が知られることは、どうしても避けたかった。

車に乗る前にも、腹具合を心配して何度かトイレに行っている。結局出るものは無く、痛みも収まらないままだったのに、どうして今下ってきてしまうのか。
助手席の幸哉も首を少しだけ捻って様子を伺うので、気恥ずかしくなり何食わぬ顔で背もたれに体を預けた。

(……っ、何か変なもん食ったかな……)

少しでも体を暖めようと、必死で腹を擦る。お腹痛い。結構、やばい。せめて横になりたい。効きすぎた冷房は容赦なく体を冷やす。

痛みの波が少しだけ収まった所で顔を上げ、外の様子、車の動きを確認する。サービスエリアの案内を探したがそれらしき標識は見当たらず、延々と続く車の行列に気が遠くなっただけだった。

ぎゅる、と音がして、再び腹痛がぶり返す。腹の中を握って捻られたような痛み。先ほどより激しくなったそれに涙が滲んだ。遂にお尻の穴に確かな圧力を感じて、さっと青ざめる。これはまずい。かなりまずい。

「あっ、兄貴、」
「何だよ」

一度否定しておいて自分から縋るのは、顔から火が出るほど恥ずかしかったが、最悪の事態を招くよりもずっといい。なけなしのプライドがふたつ。天秤は一瞬で傾いた。
隆生は理生の窮地も知らず、ホルダーに入れていたコーヒーを飲む。

「ど、どっか……停めて……」
「はあ?お前、さっき……」

にやりと笑いながら振り返った隆生も、理生の様子を見てふざけている状態ではないと悟ったらしい。一瞬で顔が引き締まり、大丈夫かと真面目くさった声で言う。

「…………、大丈夫じゃ、ない……」

知られてしまったならとやけくそ半分、限界半分で、もう隠すことなく両手でお腹を抱えた。背筋を伸ばすなんて出来なくて、体を折って背中を丸めた。

「理生ちゃん?」

うとうとしていたらしい幸哉まで、欠伸を噛み殺した表情でこちらを向く。

「あー、悪い、お前冷房ダメだったな」

がしがしと頭を掻いて、冷房のスイッチをオフにする隆生。そういえば、昔はよく両親の運転する車でも腹を下していたっけ。自分でも忘れていた自分のことを、兄が覚えていたのは意外だった。

「隆生、ちょっと車停めて」

そう言ったのは幸哉だった。え?と隆生は答える。ちょうど車の流れが止まったのを良いことに、幸哉は助手席から抜け出し、そのまま後部座席に乗り込んできた。

いつものだらしなさは何処へやら、泣きそうな理生の顔を覗き込む。
大きな手で腰の辺りを擦られて、痛みが和らいだ、気がする。薄手のジャケットを脱いで、肩からかけてくれる。「だいじょうぶ?」と、あやすような口調の幸哉。いつも兄と一緒に自分をからかう幸哉が優しいなんて、なんか変。

「理生ちゃんしんどい?ちょっとごめんね」

刺激からガードするように腹を抱えていた両腕を剥がされ、隙間から幸哉の手が入ってくる。何、と思ったのも一瞬。これまでも腹痛で駆け込んだ病院で何度かやられたことがある、触診だ。
これまた顔に似合わず骨ばった左手が撫でるように擦り、時々一点を軽く押す。
その度に、ぎゅるると恥ずかしい音が立った。服の上からとはいえ、強い刺激に理生の体は悲鳴を上げた。

「いっ、いたい、幸哉いたい…っ」
「ごめんね、痛いね。もうちょっと我慢して」

労るような幸哉の声に涙が出そうになる。身を捩るようにして幸哉の手から逃れようにも、変に力を入れたら漏らしてしまいそうで。重力に従って、水っぽいものが押し寄せる感覚。少しでも筋肉を緩めたら、熱いものが溢れてしまいそうだ。
ようやく幸哉の手が離れる。さっきからひっきりなしにお腹が鳴っている。痛みの感覚も短く、鋭くなっている。

「隆生、多分変な病気じゃないし、ただの腹痛だと思うけど、理生ちゃんしんどそうだから急いで」
「分かってる。今トイレ借りられそうなとこ探してんだよ」

その言葉にはっとして外を見ると、車はいつの間にか高速を降り、スピードを上げて一般道を走っていた。

ガタン、と突然車が揺れた。
何かを踏んだのか、道路の段差か。いずれにせよぎりぎりまで張り詰めた理生には大きな振動だった。

「~~っ」

「悪い、理生」と、咄嗟に隆生が謝る。兄が謝るのなんて、始めて聞いたかもしれない。ただ、理生にはそんなことを気に留めている余裕は無かった。
ぷすぷすとガスが漏れた。羞恥で死にそう。においが分かって、涙で視界が揺れた。

体を揺らすのを抑えられない。小刻みに揺れながら、お尻の穴を必死で引き締める。視線を膝に落としながら、はやくはやくと祈った。

額に滲んだ脂汗を、幸哉がシャツの袖で拭ってくれる。張り付いた前髪を、その長い指が分けた。隆生はどこか立ち寄れる場所を必死に探してくれているらしく、二人に申し訳なさが募った。ごめん、二人とも。でも、腹痛いんだ、助けて。

「ひぁ……っ」

不意に強い波が襲い、ぎゅうっと内臓をわし掴みにされたような錯覚。もう無理もう無理もう無理。我慢できない。本当に、やばい。
みっともなく涙が零れた。お腹が痛くて泣くなんて、本当にみっともない。
お尻の穴が抉じ開けられる感覚がして総毛立つ。びくりと背中が跳ねた。危ない。最悪の事態が現実感を持って頭をよぎる。がたがたと震える理生に、幸哉は痛ましそうな視線を下ろした。

「あっ、コンビニ!」

道路の反対側にコンビニの看板を捉えた幸哉が、運転席に向かってそう声を上げる。その言葉にほっとするゆとりは、理生には残っていない。

「分かってる」隆生は告げ、右折のウインカーを出す。なかなか厳しい車線変更だが、この際対向車には大目に見て貰おう。車の速度が落ちるのを感じた。隆生は緩やかにハンドルを切る。普段はバックで停めたがる隆生も、さすがに今回ばかりは頭から駐車場に突っ込み、エンジンも切らずに飛び降りた。

「借りられるか聞いてくる」と言って立ち去る。
確かに今の理生にはコンビニに向かうだけで精一杯である。いざ降りてみて借りられなかった場合、そのまま店内で漏らしてしまいそうなほど、危機感は差し迫っていた。

けれどもしここで借りられなかったら、もうこれ以上我慢を続ける体力はない。痛みと強烈な排泄欲でぐちゃぐちゃになった思考回路は、マイナスなことばかり考えてしまう。

「……っあ、…………ひ……」

ぎゅるるる、と腹が限界を告げる。停車した車内でその音はやけに大きく聞こえた。これが幸哉にも聞こえていると思うと、情けなさでもう消えてしまいたい。バカ兄貴、とやり場のない怒りを、この場にはいない隆生にぶつける。痛い痛い痛い……っ。

隆生、と幸哉が呟いた。

外から窓が叩かれる。幸哉が腕を伸ばして窓を開ける。外の空気が入ってきて、それは随分久しぶりに感じられた。

「聞いてきた。借りられるって」
「だってよ理生ちゃん。もうちょっと、ね」

鼻を啜る。隆生が外からドアを開けてくれて、幸哉に支えられるようにして体を起こす。少しの刺激も致命的で、慎重に車を降りた。

「オレが理生ちゃん連れてくから、隆生は帰りの道調べててよ。」
「おう」

前屈みになってお腹を抱え、どこからどう見ても漏らしてしまいそうなことがバレバレで。それでも形振り構っている余裕は無い。幸哉がジャケットを掛けてくれて助かった。長身の幸哉の上着なので、お尻まですっぽりと覆われたからだ。恥ずかしさが若干、ほんの少し、緩和される。

「…………ゆっ、ゆき、……」

足を開くだけでも、限界まで下ってきた下痢便は穴をこじ開けようとする。
さっきから緊張しっぱなしの筋肉も、もう限界を予感していた。
一歩一歩が亀よりも遅くて、なかなかトイレまで辿り着かない。
お腹が痛くて痛くて、どうしようもなくて、その場にしゃがみ込みそうになる。痛みのもとを、早く出したい。排泄したい。

「もうちょっとだから、頑張ろ、理生ちゃん」

すれ違う客の気の毒そうな視線から庇うように、理生の左側に立つ幸哉。扉の前まで来たところで、理生の肩がびくりと大きく震えた。幸哉ははっとして、理生を個室に押し込む。ようやくトイレに辿り着き、理生は慌てて便座に腰かけた。水っぽいものが一気に決壊し、破裂音と共にぼたぼたと下痢便を排泄する。
理生は両手で顔を覆って泣き出した。

「大丈夫だいじょうぶ、理生ちゃんしんどかったねぇ。頑張った」
「…………っ、ぅう、……ごめん、なさ……っ」
「だーいじょーぶ。間に合ったからセーフでしょ」

それからいつまでも渋るお腹を抱え、結局一時間近くコンビニのトイレを占領してしまった。まだシクシクと痛みは残るが、もう出すものがない状態だった。
泣き顔のままトイレから出ると、雑誌コーナーをうろうろしていた隆生が飛んできた。

「ほら」と、ぞんざいにビニール袋を差し出す。理生が受け取り中身を見ると、買ったばかりのプリンが3つと、もうひとつ、何かが入っていた。
取り出して、かっと顔に血がのぼる。

「間に合った!バカ兄貴っ」

隆生が買っていたのは、男性用の下着だった。シンプルな黒のトランクス。
最近のコンビニはパンツも売ってるんだねえと呑気に笑うのは幸哉。ぜってー必要かと思ったと、からかい顔で隆生は笑う。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、なんだかもう、どうでもよくなってしまった。

2人の兄:END

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