海岸道路に乗って

「おめでとうございまーす!」

赤いはっぴを着た女性がハンドベルを鳴らす。手を頭上の高さまで上げて、もう片方の手をメガホンにして。

「お兄さん方、一等でーす!」

女性が声高らかにそう張りあげると、どよめきが低いうねりとなって湧き上がる。すげえ、一等だってよ、そんな囁きが口々に飛び交った。カランカラン。ベルの音は後方まで飛んでいく。女性は景品を取りに後ろへ下がっていった。長く並ぶ列の先頭で、松倉一は目を瞬かせた。

「ど、どうしよう市瀬。五等取れなかった」

一気に華やいだ空気に乗り遅れ、松倉は隣に立つ市瀬成海に救いを求める。市瀬はさすが、落ち着いたもので、少しも動じていなかった。「一等ならいいじゃねえか」どんな時でもふてぶてしいまでに冷静な、市瀬の冷ややかな視線が突き刺さる。
この視線に、いったい何人の女性が虜になるのだろう。

市瀬の職業はモデルだ。
すらりと伸びた長身に、絶妙なバランスで引き締まった体躯。肉の薄いシャープな輪郭はまるでミリ単位に計算されたかのようで、切れ長の瞳は一度見たら忘れられない、絶対的な引力を持った魅力がある――らしい。

らしい、というのは、松倉にとって市瀬の容姿は市瀬を構成する要素のただひとつにすぎなかったから。雑誌でそう評されているのを見つけ、そうして市瀬のことを改めて眺めてみると、なるほど美しい男だと分かったのだ。
市瀬は市瀬であって、それ以下でもそれ以上でもない。もちろん松倉の目には、市瀬は飛びぬけて輝いて見える。集団で歩いていても、バランスの整った市瀬は後ろ姿でも普通の人とは違っている。けれどそれは、市瀬が松倉の特別だからであって、つまり他人にとやかく言われなくても、そんなことは自力で、自分ひとりでも気付けた事実なのだ。いくら自分がバカだって、誰よりも先に正解に辿り着ける自身があった。もしかしたら自分は、市瀬のファンと張り合っているのかもしれない。松倉はそんな風に俯瞰する。

(でも、これは俺のだから)

ファンであって、ファンではない。市瀬と松倉は大学入学直後に知り合って、三年の時に付き合った。その間には、松倉の気味が悪いくらいの猛アタックがある。恋愛に嫌な思い出のある市瀬は手強かった。四年で一度は別れ、けれど卒業の日、二人は元の鞘に収まる。卒業と同時に同棲を始めて、今年で二年目。大学時代からモデルをしていた市瀬はその世界に本腰を入れ、最近では俳優の仕事も始めるようになった。松倉は高校教師となり、近くの公立高校で国語を教えている。

はっぴの女性が封筒を持って戻ってきた。年の瀬の近づいた商店街では、福引大会が行われていたのだ。

一時間ほど前のこと。トイレットペーパーと卵の特売を目当てに商店街にやってきて、賑やかな人だかりを見つけた。テントの真ん中にはあのガラガラと回す抽選機が設けられており、多くの人は粗品を貰って帰っていく。まあ、こんなもんだよな、と少し心惜しそうに。ちょうど手元には、精肉店で豚肉を買った時に貰った抽選券を一枚持っていた。五等の棚にトイレットペーパーが並んでいるのを見つけたのは市瀬だ。

「丁度いいじゃん。やってこうぜ」

市瀬はそう言って、ずんずん行列に向かっていく。普段は人混みが大嫌いで、パーソナルスペースを侵されるような所には、絶対に進んで行ったりしないのに。こういう現金さも市瀬のおもしろく、魅力的なところだった。

「こちら、一等の旅行券になりまーす!」

それが、まさか本当に、それも一等を当ててしまうなんて。差し出された封筒には、大きく「一等賞」の文字。一等、旅行券?五等目当てで並び始めて、そういえば他の景品をひとつも確認していなかった。松倉は封筒と、女性と、交互に見比べる。

「えっ!旅行券なんですか」
「はい。一等は、二泊三日、熱海若松亭ペアチケットです」

まさかトイレットペーパーが欲しくて並んでいたなんて、想像だにしないのだろう。一等の景品を歓喜とは違った驚きで受け取る松倉に、女性は困惑顔を浮かべている。呆れた市瀬が封筒を奪い取り、にっこりと余所行きのスマイル。
ダメ押しのようにハンドベルが鳴り響き、拍手に背中を押されて会場を後にした。

結局、トイレットペーパーも卵も買わず、二人で暮らす1LDKに戻ってきた。折角買い物に出たというのに、持ち帰ってきたのは豚肉二百グラムだけだ。リビングのテーブルに封筒を置き、向かい合って腰を下ろした。

「市瀬、熱海だって。どうする」
「まさか一等当たるとは思わなかったよなあ」
「トイレットペーパーが欲しかったのになー。あっ、そういえば、買ってない」
「卵もな。お前、何気に強運だよな」

微妙に噛みあっていない会話が封筒の上を飛び交う。市瀬の長い指がそれを摘まみ、中からチケットを取り出した。中身は本当に旅館の宿泊券で、「うわ、マジだ」思わずそんな呟きがこぼれる。

「市瀬これ、一月末までだって」

向かいから裏側を見ていた松倉が言う。ひっくり返して見ると、確かに有効期限が一月三十一日と明記されていた。景品だというのに随分と差し迫った期限である。小さな商店街の福引大会だ。景品の経路に事情が隠れていても頷ける。

「俺、今週オフだ」

市瀬はスマホのスケジュール画面を開く。土日がちょうど、狙ったように、空いている。振り返ってみれば付き合い始めてから、これといって旅行や観光なんてしたことはなかった。市瀬の気持ちは今週末に定まっていた。勿論、運転は松倉である。市瀬は「行くだろ?」と、顎を引いて目の前の恋人を見る。にっと口角を上げて。いつになくテンションの高い市瀬に、松倉はすっかり有頂天になっていた。

「行こう!行こう熱海!うわ~楽しみだなあ」
「運転お前だからな」
「当たり前じゃん。市瀬の運転なんて怖くて乗れないよ」
「おい、どういう意味だよ」

こうして、週末二泊三日の熱海旅行が決まった。水曜日の夕方のことである。

次の日から、松倉は毎日天気予報を気にしていていた。晴れマークが続いていたが、再確認の意味も込めて毎朝の天気予報をチェックする。迎えた当日は予報を裏切ることなく、澄んだ青空で絶好の観光日和となった。
男二人の旅行、荷物なんてたかが知れている。二人分の荷物を入れたボストンバッグと、手持ち鞄を後部座席に積み込んで、愛車のコンパクトカーは駐車場から滑り出した。メタリックブルーの国産車は、二年前に松倉が中古で買ったものだ。勤務先の高校は、マンションから離れている。

国道から西湘バイパスに乗り込んで、湘南方面に車は走る。途中で道の駅に立ち寄りながら、正味二時間で観光地までやってきた。市瀬は途中でうつらうつらと船を漕いだが、海沿いのビーチラインは絶景で、相模湾の向こうに伊豆大島が浮かぶほどに快晴である。十二月も末、海岸は閉鎖されていたが、散歩中の観光客をそこかしこに確認できる。チェックインを済ませて荷物を置いた二人は、また車に戻って出発した。

初めての旅行に浮かれた松倉は、近場の二泊三日にもかかわらず、しっかりとガイドブックを用意していた。帰るまでが遠足、帰るまでが旅行。それなら、事前の準備からも旅行は始まっている。楽しみの延長こそ、旅行の醍醐味だと、松倉は思っている。

もちろん市瀬だって上機嫌だ。珍しく顔にも表れるくらい、久しぶりのオフを楽しんでいた。雑誌の撮影でこの辺りまで来たことはあったが、こうやって自由に観光するのは初めてだった。

山側の観光地を車で巡り、熱海駅隣の駐車場に車を停めて海の方へ下っていく。車で走って来た(市瀬はうたた寝していたが)海岸をふらりと歩き、見つけた食堂で遅い昼食を済ませた。味のある木造の小さな店だったが、壁には著明な芸能人のサインがいくつも飾られていた。「市瀬も書いたら」とからかうと、氷柱の視線で睨まれた。

中途半端な時間なためか、店内に客は自分たち二人しかいない。松倉は海鮮丼、市瀬は刺身定食を注文した。久しく目にしていなかったブラウン管のテレビが置かれていて、何を話すでもなくぼんやりと眺めているうちに御膳が運ばれてきた。

「おい、これやる」

市瀬は盛り合わせのイカを箸で掴み、松倉の丼にのせる。

「市瀬、イカ苦手だっけ?」
「昔あたったんだよ。生は食わないようにしてる」
「いいよ、食べらんないやつのせて」
「もう無い」

会計の時、市瀬が「市瀬成海」だと気が付いた若い店員が奥から出てきて、市瀬はサインを頼まれた。現在放送中のドリンクのCMで見て、ファンになったのだという。誰よりも驚いたのは市瀬本人だ。モデルの活動は長いが、テレビに出るようになったのは本当に最近だ。「応援してくれてありがとう」と、完璧に整った微笑みで彼女の私物にサインを残していた。色紙を差し出されたのだが、さすがにそれは、と頭を振って辞退。市瀬の俺様な振る舞いも、傍若無人な態度も、それは松倉だけのもので。いつもとは違うオフィシャルモードの市瀬を見て、優越感に浸る瞬間も松倉だけの特権だ。

帰りは急勾配の坂道で、日も落ちてきたこともありバスで駅近くまで移動した。駅までは商店街を散歩したり、買い物をしたり、あっという間に時間は過ぎていった。

ホテルに帰り、直行したのはホテル内の温泉だった。団体客とタイミング良く入れ違い、殆ど独占状態で湯船に浸かることができた。「やっぱりお前、強運」呆れた口調の市瀬も笑っていた。程よく温まり、後でまた入ろうと話しながら部屋に戻る。ボストンバッグから荷物を仕分けていると、仲居が夕食を運んできてくれた。夕食のメニューは、カキフライの懐石料理だ。

その後は、もう一度温泉に浸かって露天風呂も満喫し、戻った時にはすでに布団が敷かれていて。一日歩き回って疲れきっていた二人は、並んだ布団に潜り込み、溶けるように眠りに落ちた。

市瀬が体調の異変を訴えたのは、翌朝朝食を済ませ、寝間着のまま二日目の観光計画を練っている時だった。
松倉の広げるガイドブックを覗き込んでいた市瀬だったが、相槌が消え、突然、机に伏せってしまった。
松倉は慌てて机の反対側へ回る。

「市瀬?どうしたの」
「……なんか、急に、目が」

貧血だろうか、ぐらぐらと視界が揺れ、胃の辺りに不快感を憶える。眉間を揉みながら治まるのを待ったが、一向に良くならない。それどころか、徐々に目を開けていられないくらいの、酷い眩暈に変わっていった。

急激な体調の悪化に、市瀬は混乱していた。松倉は市瀬を半ば抱えながら移動して、布団に横たえさせた。市瀬は崩れるように倒れ込む。どうしてこんな、急に。それに、今は旅行中なのに。
松倉の大きな手が、ゆったりと背中を擦ってくれる。
敷きっぱなしにしている布団で松倉のにおいに包まれて、ほっとしたのもつかの間。今度は捩れるような腹痛が襲い、市瀬は悲鳴を上げそうになった。背中を丸め、両腕で腹を庇う。あまりの痛みに呼吸を忘れていた。

混乱しているのは松倉も同様だった。

「市瀬、大丈夫じゃないよね。ちょっと、フロントで薬か何か、」

そう言って腰を浮かせるのを、市瀬は腕を伸ばして引き留めた。松倉の服を掴む。

「……それ、いい、から……」
「でも、」
「後で、それ……。置いてくな」

ぐいっともう一度、服の裾を引っ張った。一人にしないでくれ。それをそのまま言葉にできるほど、市瀬は素直な性格ではなかった。
でも、今、この部屋にひとり残されることだけは、どうしても嫌だった。
言わんとしていることも松倉には伝わったようで、頷いてもとの場所に落ち着いた。
その時下腹部に激痛が差し込み、市瀬は歯を食いしばった。

市瀬が突然体調を崩してから、十五分。この短い間に、市瀬の具合は転げるように悪化していった。
布団の下で腹を抱えて蹲っていたが、数分前からは下ってきてしまったようで、もう何回も、ふらつきながらトイレへ駆け込んでいる。酷く下している音が部屋にも聞こえ、松倉は焦りを隠しきれない。トイレから出てきた市瀬の顔色は蒼白で、片手で腹を押さえて壁伝いに戻ってくる。松倉は、その薄い背を支えた。

さっき市瀬がトイレに籠っている間に、布団を移動していた。机をよけて、座椅子を壁に寄せ、敷布団をトイレの近くに。寒い寒いと訴えるので、掛布団は二枚だ。市瀬は二枚の布団にくるまって、苦しそうな呼吸を繰り返す。こんなに寒がっているのに市瀬は大量の汗をかいていて、額から汗がぽたぽたと床に滴った。

「いっ……た、痛い、」
「市瀬、何か、心当たりある。思いつくもの、何でもいいから」
「……なに、……」

最初腹痛を感じた時は、冷えたのかとも考えた。けれどこんな風に下ってきて、明らかに冷えとは性質が違う。

朝食の時は、何ともなかった。もともと朝はそんなに食べないから、ビュッフェ形式のレストランでコーヒーと果物をいくつかつまんだだけだったけれど、特に違和感もなかった。いつも通りだった。だとすると、その前、夕食——。

ぎゅるる、低い唸りが腹から響く。耐えがたい痛みが同時に市瀬を襲った。もう腸の中身は、きっと出し切っていて、なのにさらにと押し寄せる感覚に、頭が真っ白になる。このままじゃ、まずい。

「ふ、……ぁ、……っく」
「市瀬、起きられる?トイレ、一緒に入るから」

そんなの、やめてくれという思いと、一人にしないでくれという願いと。原因の分からないものほど怖いものはない。もとより、床がスポンジのように歪んで感じられて、一人ではトイレはおろか、立ち上がることもできなかった。
朦朧とした様子の市瀬をトイレまで連れていき、なんとか便座に座らせる。市瀬の腹は、水っぽい音をひっきりなしに立てていた。ぶしゃっと下痢便が爆ぜる。綺麗な顔は苦悶の表情に歪んでいた。

「……カキ、かも」

暫く治まらなかった下痢がようやく落ち着いてきて、一呼吸ついた後、市瀬がそう呟いた。動けるだけの体力の回復とまではいかず、便座に腰かけ松倉にしがみついたままの体勢で。市瀬の声を久しぶりに聞いた気がして、松倉は耳を寄せた。

「カキ?」
「昨日の、夕飯の、」

 言わんとしていることが、松倉にも伝わった。

「……まさか、当たった?」

カキに限らず二枚貝は、食当たりの危険と常に隣りあわせだ。昨晩の夕飯のカキフライ。あれに、当たってしまったというのだろうか。でも、同じものを食べた松倉には、何の異常もない。そういえば市瀬は昔、イカの刺身に当たったと言っていた。もしかしたら魚介類と相性が悪いのかもしれない。

「分かんねえ、けど。それくらいしか……」

何とか腹具合が落ち着いてきたら、今度は横になりたかった。松倉の袖を引く。松倉は承知済みで、脇から支えて立ち上がらせてくれる。そのまま体重を預け、布団まで運ばれる。横向きで丸まっていると、松倉に肩を叩かれた。

「市瀬、脱水しちゃう。水、飲んで」

その手には、ペットボトルが握られている。「熱海の天然軟水」と、パッケージにある。きっと旅館の冷蔵庫にあったものだろう。

「……いらん」
「いらなくない。必要です」
「…………んん、」

こういう時の松倉はてこでも動かない。やっとのことで起き上がり、ペットボトルを受け取った。自分の手が震えていることに、市瀬はショックを受けた。しっかり掴むことができなくて、松倉の大きな手が重なる。
傾けて喉を潤すも、水を一口含んだ瞬間に吐き気が突き上げ、そのまま吐き出してしまった。

「ウッ、……う˝えっ、おえっ」
「市瀬っ」

水だけじゃなく、今朝のコーヒーが、果物が、繊維だけの残骸となって口から溢れた。どろっとした粘性の水分が布団に広がった。差し出された松倉の両手にも。鼻につくのは独特のにおい。さあっと血の気が引く。やってしまった。汚して、しまった。

「だいじょうぶ、俺から、ちゃんと説明するから。無理に飲ませた、ごめん市瀬」
「ま、つ、……まつくら、」

市瀬の体が、おかしいくらい熱い。滴る汗も異常なほどだ。掴めそうなほど小さな頭を枕に埋めて、朦朧と松倉の名前を繰り返す。何とかまともに動けるまでに回復したのは、十二時を過ぎてからだった。

当然二日目以降の予定なんて全て返上して、安全運転で無事に帰宅することが最大の目的となった。松倉は旅館の仲居に事情を説明し、汚したもののクリーニングを申し出た。しかしその提案はあっさりやんわりと却下され、お大事に、安静に、と、ペットボトルの温かいお茶や貸し出し用のブランケットなど、是非使ってくれと次々に渡された。実は仲居のうちの何人かは、市瀬が「市瀬成海」だと気付いていたというのだ。

一足先に後部座席で休んでいた市瀬に、貰ったものをいくつか手渡す。市瀬はお茶で指先を温めた。

「気分悪くなったら、すぐ言ってね。すぐだよ」
「わかったって」

昼過ぎ、上りの道路は来た時よりも空いていた。ビーチラインは変わらずに絶景で、市瀬は「これ、行きと同じ道?」と首を傾げた。

「そりゃ、市瀬寝てたもん」

松倉は運転席から後ろに返す。窓の外を見やる市瀬の顔色はほんの少し血の気が戻っていて、松倉はほっとバックミラーを戻した。

海岸道路に乗って:END

1件のコメント

  1. ピンバック: 短編 – Lepsy02

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です