学園寮の、朝のこと

知らない誰かが触ったもの。

知らない誰かが作ったもの。

どれだけきれいに見えたとしても、俺にとってはきたないものの、塊だった。

***

目覚まし時計が鳴った。振動とともに枕元で鳴り響くのは、スマートフォンのアラームだ。画面に指をスライドさせて音を止める。液晶画面は大きく七時半を表示していた。名地智宏は、布団を被ったまま体を起こした。
全寮制のこの学校では、八時に起きれば始業に間に合う。校舎と寮とは歩いて十五分くらい。男の身支度なんて五分あれば充分だ。
それなのに名地が毎日この時間に起きるのは、時にはもっと早い時間、六時前に目覚ましを設定しているのは、眠る王子に朝を教えるため。

「八王子先輩、起きてください。あーさーでーすーよー!」

名地は二段ベッドの上を覗き、布団をはぎ取る。「うう」と妙な呻き声を漏らしながら、寒がりの先輩は幾重にも重ねた布団の下でヤドカリのように身を縮める。
八王子幸。名地にとって、ひとつ上の先輩だ。〝王子〟なんて大層な言葉が名前に入っていたら、普通はちょっとしたネタになりそうなところ。けれどこの先輩はまさに王子の称号がぴったりな、そのままテレビの向こうにいてもおかしくないような、とにかくデタラメに見た目が良かった。
ここまで整っていると、もはやステータス異常。暴力的な華やかさを振り撒きながら、黄色い声で「王子先輩」なんて呼ばれているのを名地は知っている。

「んー……なっちゃん……?あとねえ、一時間」
「一時間は遅刻だっつってるじゃねーですか!起きてください!」

王子は朝がめっぽう弱い。それはこの世の常なのだろうか。
名地が早起きをしているのは、目を覚ますのに三十分の準備運動が必要な八王子先輩を起こすためだった。今度はうつ伏せになって寝ようとするものだから、名地はベッドを思い切り揺らした。二段ベッドは古い作りで、ミシミシと悲鳴をあげる。うわあと情けない声が聞えた。よし、あともう一押し。

「はい朝です朝です!先輩昨日、先生のとこ行くって言ってましたよね!」
「わぁ~~待って、なっちゃん、待って、これね、壊れるから……」
「じゃあ起きてください!」
「んん……起きるよ、起きるから……」

起きる、起きると寝言のように繰り返し、布団から覗く右手をパタパタと動かす。身長百八十センチの先輩には、ベッドが少し窮屈そうだ。のそりと起き上がり両目を擦る。それを見届けて、名地はようやく手を休めた。
普段はひとつにまとめている、肩につく長さの髪の毛は、寝癖でボサボサ。男の長髪なんてうざったいだけだと思っていたが、この顔に任せれば無国籍風のファンタジーな美形の出来上がりだ。そう思っていたら、その表情はあくびをかみ殺して不細工に歪んだ。

「あー、なっちゃん……今日もありがとねえ」

けれどそう言って微笑む時は、王子百%の通常運転。タレ目が憎い、鼻筋が憎い。というか、イケメンはずるい。
朝の一大ミッションを終えた名地は、梯子を降りて身支度に取り掛かった。
寮の部屋割りは年に一度組み直され、基本的には同学年が同室になる。名地だって一年の時は、別のクラスの同級生と共同生活をしていた。二年に進級した当初の部屋割りだって、原則通りの予定だったのだ。
それが今、こうやって低血圧を極めた先輩の下で眠り、先輩を叩き起こすことが毎朝の日課となっているのは、他でもない八王子先輩の計らいだった。

陽射しも柔らかな春、二年の四月。
前学期末に発表された今期の部屋割り表によると、名地の同室は留学生だった。寮の掲示板に貼られた表に、片仮名の横文字が並んでいて驚いたのを覚えている。手続きの都合で入寮が遅れているらしく、しばらくは一人部屋だと喜んでいた。日本語話せんのかな、仲良くなれんのかな、とぼんやり思っていた気がする。
だから、部屋割りだとか共同生活だとかは、全く問題ではなかったのである。
問題だったのは、部屋割り表の横に貼られた一枚のお知らせ。
前回発表を見に来た時から、掲示が増えていた。

『改修工事のため、五月一日まで臨時休業致します。学生購買部』

そう、太字のゴシック体で書かれていた。
一瞬、目が回って視界がくらりと狭まった。もう一度目を凝らす。当然文字列に変化はない。その張り紙が意味するところも、また然り。

「名地?どうかした」
呆然と張り紙を見上げる名地に、一緒に登校していた友人、島崎が怪訝そうに聞いてくる。不意に肩を掴まれ、思わずよろめいた。
「……あ、いや、」
「あー、同室?留学生?!」
「ん、ああ、……そうだなあ」

曖昧に返事をして、「頑張れよお」と面白がる島崎に笑って応じ、連れ立ってその場を離れた。適当な会話を表面だけで続けながら、頭の中は先程のお知らせでいっぱいになっていた。臨時休業。その四文字が、脳みその端から端までをいったり来たりする。

五月一日まで、つまりあと約一ヶ月程度、購買が開かない。

寮では、朝食と夕食は申し込み制。毎月配られるカレンダーのような申請書の、必要な日にだけマルを書き込んで提出するのである。ちなみに、提出しなかった日でもお金を払えば簡易メニューが格安で食べられる。確か、朝限定で白米と味噌汁、主菜副菜が一品ずつ。超健康的、かつ日本男子的メニューは三百円で提供されている。
そんな便利な食堂だが、寮には共用のキッチンもあるし、駅前まで行けばたくさんの店があるし……と、利用しない学生だってもちろん一定数存在する。名地も、そのうちの一人。そして昼食だが、それは普通の高校と変わらない三択だ。弁当、学食、購買。あ、早弁とか、食わないって選択肢は除いて。名地は入学当初からの購買ヘビーユーザー。否、それ以外の選択肢は、残っていなかった。

〝人の作ったものが食べられない〟

もう名地には当たり前になってしまったこの感覚。
うまい下手は問題でなく、味も、見た目も問題じゃない。
ビニールで包装された菓子パンや、プラスチックの容器に入ったコンビニ弁当、デパートの惣菜なんかは大丈夫。いかにも調理済みで、温めただけで提供しているようなファミレスが、ギリギリ許容範囲といった具合だ。
調子の悪いときはファミレスも不可となり、けれどその不調は行ってみて初めて気がつくものだから、名地の食生活は購買、コンビニかデパート、時々自炊の順に構成されていた。

小さい頃は、それが普通だと思っていた。皆、露骨な〝手作り〟を「気持ち悪いなあ」と思いながら食べているんだと思っていた。
けれどそうではないと気付いたのは、小学生の時、遠足の日。その日は抜けるような晴天で、行き先は学校近くの山だった。その頂で迎えたお昼の時間、全員で輪になって弁当を広げる。隣に座った友達が、「そのハンバーグと僕のエビフライ交換しよう」と嬉々として話しかけてきた衝撃を今でも覚えている。
名地にとって、見たこともない友達の母親が作ったものは、恐怖の塊だった。何を言っているんだと、目を丸くしてその友達を見た。そしてすぐに理解する。その友達には、悪意なんて少しもないことに。
「お腹いっぱいだからあげる」
とか、それに近いことを言って、結局交換はしなかったと記憶している。ただ、自分の弁当箱から摘ままれたハンバーグを友達が食べる瞬間は、見ることは出来なかった。
自分がおかしいのだと自覚してから、この感覚は徐々に悪化していった。
昔は大丈夫だった両親の手料理さえ、今では少し怖い。
両親は悪くない、食べ物に罪もない。それも分かっているからこそ〝気持ち悪い〟と感じることが辛かった。

全寮制の高校に入学したのも、突き詰めていけばそれが一番の理由だ。食べることに関してあれこれ悩むことに、疲れてしまったのである。ここなら朝は食べなくてもいいし、腹が減ったら購買に行けば良い。時間があればキッチンのトースターでパンを焼く。昼も購買があるし、夜もコンビニか、あるいは自炊か。三食購買で済ませることもざらだった。
名地の食生活は、購買によって成り立っていたと言っても過言ではない。店員のおばちゃんとも、もうすっかり仲良しだ。時々おまけもしてもらえる。
ところが、だ。
名地のライフラインとも言うべき購買が、一ヶ月も開かない。これは由々しき事態である。名地は昨日から、何度も頭を抱えている。男子高校生にとって、空腹は致命的だ。
夜はコンビニかどこかで買うとして、朝も夜のうちに買っておけばいい。キッチンもある。しかし、昼はどうしよう。昼の分も、前日の夜に買っておけばいいのだろうか。いや待て、そんなに時間のたった弁当って、どうなのよ。名地は混乱していた。
何の解決策も浮かばないまま授業は進み、昼休みを迎えた。いつもは購買に向かう友人達も、学食に行くという。

「名地ー、行こうぜ」

昼飯を抜こうか、でも腹は減ったな。そんな事を考えていたら、いつの間にかすっかり出遅れてしまっていた。教室の入り口から、大声で呼ばれる。

「あっ、ああ、行く」

未だ足を踏み入れたことの無い食堂を、異次元のように感じながら。黒い不安がムクムクと膨らむのを感じながら、名地も後を追った。

「学食はさあ、混むから嫌なんだよな」
「怖そうな先輩もいるしな」
「てか、ちょっと高いし。ギリまで食費は削りたい」
「でも美味しいよなあ。どうする、一ヶ月の間に学食の虜になったら」
「それは破産だわ~」
「……名地?」

盛り上がる皆から少し遅れ、浮かない表情を浮かべる名地に気が付いたのは島崎だった。後ろ歩きを二歩、名地と並ぶ。

「課題ヤバいの」
「それはお前だろ。違う」
「じゃ、何。具合でも悪いの。ずっと黙ってるからさあ」

そう問われて、名地は考える。具合が悪いのかと聞かれたら、そういうわけではない、と思う。どこも痛くはないし、痒くもない。腹は減っているのだから、食欲だってある。名地は「違う」と首を振った。
仮に昼飯を買って持参したところで、皆で学食に向かうなか自分だけコンビニの袋を下げていたら、変に思われる。ゆとりと協調性の十代、今日からひとりで適当に済ませます、なんてとても言えない。島崎の不思議そうな視線を受けて気が付いた。

——そろそろ、治さなくてはいけないと、思っていたんだ。

いっそ、これは良い機会なのかもしれない。
一ヶ月頑張れば、購買が再開する。それまでに克服できれば寧ろラッキーだ。

「眠かっただけ。なんでもない」

名地は顔を上げ、握り締めていた財布をポケットに捩じ込んだ。

***

「人生はチャレンジだ」と、どこかのスポーツ選手が言っていた。
まあ、確かにその通りだと思う。人生は選択と挑戦の繰り返しだ。
だが、と名地は心のなかでそっと異議を唱える。挑戦があるなら、失敗もあるのが人生だ。

(む、無理)

薄いピンク色のトレーに乗った丼。ほかほかと湯気を上げる親子丼を見下ろして、名地は固まっていた。職券を買う段階までは良かった。機械に五百円玉を投入し、ボタンを押した。おつりの三十円が返ってきた。
ガラスケースに並ぶ食品サンプルを見ても、さらに言えば食堂の中でうどんを啜る人を見たときも、何とも感じなかったのだ。
もしかして、もう大丈夫?なんて思ったりもした。
けれど、だめだった。
食券を出したカウンターの内側で、熟練のおばちゃんスタッフが、実に鮮やかな手さばきで注文をこなしていく様子を見てしまってから、だめだった。
自分の知らない誰か。でも確実に、人が作ったもの。触ったもの。
衛生面だとか汚いとか、そんな具体的な感情じゃない。
とにかく気持ちが悪くて耐えられないのだ。
一口運んでみた。
吐く、と確信に近い直感。
この感覚を、何と表現したら良いのだろう。
口に入れて一番始めに感じるのは、味ではなく食感。
それも食べ物の感覚ではなく、例えるなら紙粘土。小学校の授業で使ったような、ずっしりと重くてカチカチに固まる、鈍色のアレを想像してくれれば近い。
親子丼の味は知っているのだから、普通に考えればおかしな話だってことも分かっている。けれど、分かることと、納得できることは全く違う。
そしてその後は、漠然と〝何か気持ちの悪いもの〟が体の中に広がっていくイメージが襲う。細胞の間隙を縫って、舌に、喉を通って、食道を。ああ、そんなことを冷静に考える余裕なんてないんだ。一瞬で駆け上がった不快感は、瞬く間に全身を支配する。
きっと正しくはない。きっと酷いことを考えている。
でも、この感覚を表現する言葉を他に知らないから、こう言うしかない。「気持ちが悪い」。ただ、それだけ。

「おい、名地」

呼び掛けられてはっとする。
向かいの席に座る、島崎だった。島崎はハヤシライスをスプーンですくっている。半分ほど進んだその皿と、全く減っていない名地の丼を見比べた。気がつけば、他の友人にも怪訝な目で見られていた。

「な、……何、」
「何じゃねえって。食わねえの、食えねえの」

ぐっと、言葉に詰まる。 卵のてらてらと光る親子丼を見下ろした。

島崎に、みんなに、怒られているような気がした。

名地は箸を掴み、丼を持った。意を決し、「何でもないよ」という風に一口、二口と進めた。そのまま、咀嚼もろくにせず飲み込む。すぐに胃がムカムカしてきて、反射的に戻ってくるのを何とか抑えた。えずきそうになる前に親子丼を嚥下する。水をのみ、無理やりに食道に流し込んだ。

「悪い、俺やっぱ眠いみたい。学食うまくてハマりそう」

背中と脇は、嫌な汗でびっしょりだった。
吐きそう、気持ち悪い、吐く、むり、頭の中にはどろどろの感情が噴き出す。

「あー、俺も眠いわ。夜中ゲームしすぎた」
「俺いつも昼飯なんて二百円くらいなのに……すげえリッチなランチしてる」
「二百円で何買うの」
「パンとおにぎり」

みんなの話題が逸れてほっと胸を撫で下ろす。名地もおかしくて笑ったし、島崎も笑いながらハヤシライスに向かっていた。
丼一膳、完食。気持ちが悪くて、泣きそうだった。気付かれないようにしゃんと背を伸ばす。一刻も早く吐かないと、体の中に〝気持ちの悪いもの〟が広がってしまう。そんな強迫観念にも近い錯覚。生唾を何度も飲み下した。
教室に戻る途中、財布を忘れたと言って島崎達と別れた。特に変なところは無かったと思う。駆け込んだ先はトイレ。鍵を掛けるのも忘れて、胃の中のモノを便器に叩きつけた。やわやわとした不快感が胸に残る。

「オエッ……う……っ、……おえぇっ」

バシャバシャと未消化の中身が、さっきの親子丼が、形もそのままに無残な汚物になっていく。涙が浮かんできて、視界がぼやけた。吐いた物を見なくて済むのでほっとする。     
ほどんど胃に入れたばかりの逆流で、あの独特な酸っぱいにおいは薄い。分解された糖の、体温と等しい不快な甘さ。心臓の辺りがきゅうと痛んだ。
少し呼吸が落ち着いて、一度水を流す。それから思い出したように施錠した。シャツの袖を引っ張って目元を拭う。手洗い場で、顔を洗いたい。口を濯ぎたい。悪いものが体の中から出てきたことには、安堵していた。

「はっ……はーーっ、……はあ、」

足下がふらついてその場にへたり込む。便座をつかむ手が震えていた。
全部吐ききりたくて、名地は迷うことなく指を口のなかに突っ込んだ。舌の付け根、喉のさらに奥の一点を、指の腹でぐっと押す。
ぐわりと食道が広がって、胃の内容物が溢れた。

「……っ、…………オエッ、」

もうこれ以上は吐けない。そう分かっていても、指を抜くことはできなかった。
トイレの外から昼休み終了のチャイムが聞こえる。名地はぼんやりとレバーに手を伸ばす。渦を巻いて水が流れていくのを見て、気が遠くなる思いだった。

無情にも次の日はやってくる。
どんなに悩んでも、考えても、購買が開かない以上は仕方がない。昼休みには、昨日と同じメンバーで学食に向かって歩いていた。
どうせまた食べられないと腹をくくる。でもこれ、かなり不経済だ。何とか打開策を見つけないと、冗談抜きで破産である。一番安い、五目チャーハンの食券を買った。
作ってくれた人に申し訳ないとか、もったいないとか。そんなことはあまりにも大前提で、寧ろ考えていられなかった。苦行のような時間を過ごし、顔に出さないよう必死に吐き気に耐える。嫌な汗が背中を伝うのを、気付かないふりをして。
以前は飲み込む前に吐いてしまっていたから、心身が大人になったということなのかもしれない。こんなところで成長なんて、感じたくないけど。
他に理由が浮かばなくて、名地はまた財布を忘れたと告げた。「うっかりさんかよ」と笑われる。「明日は俺のも持ってて」と返した。
次移動だぞー、という声を背中に、昨日と同じトイレに駆け込む。個室に入るやいなや、堪えていたものを吐き出した。涙で、視界が揺れた。
転機が訪れたのは、その時だった。
コン、控え目なノックの音。名地はぎょっとして息が止まった。
扉の向こうからはわざとらしい咳払いが聞こえた。

「えー、おほん。君、昨日もここで吐いていた?」

—―バレていた!

心臓がばくばくして苦しい。こめかみに冷や汗が流れた。血の気が引いていくのを感じる。高校に入ってから、誰にも、誰にも気付かれたことないのに。
息をするのも恐ろしい。
このまま、消えてしまえればいいのに。

「あ、オレねえ、先生じゃないよ。だから安心して、ちょっとここ開けてごらん」

不信感の針は振り切れていたが、確かに教師の口調ではなかった。けど、吐いていた姿なんて誰であろうと見られたくない。名地は意地でも鍵を開けないつもりだった。

「……オレが助けてあげようか」

その言葉を、聞くまでは。
暗示にかかったみたいに、名地は鍵をはずしていた。左回りに半周。ガチャンと金属の音がして、ゆっくりドアが開いた。
そこにいたのは、先輩だった。
瞬時に理解したのは指定シャツの色が違ったからではなく、有名な先輩だったから。女子と一部の男子から「王子先輩」と呼ばれている、その人だったから。眉目秀麗、成績優秀。生徒会長も務める学園の華。近くで見たことは無かったが、なるほど王子だと納得した。これ以上に的確な表現を、名地は知らない。
鍵を開けようと立ち上がったせいだろうか。強い眩暈で視界が歪み、あっと思ったときには先輩の腕の中だった。
しまったと一瞬で目が覚める。口も、指も、吐いたものでベタベタだったから。

「おっと、だいじょうぶ……じゃあないね。歩ける?こっちにおいで」

先輩は汚れるのも構わず名地の手を握り、ゆっくり歩を進める。気付けば昼休みはとっくに終わっていた。何が、一体どうなっているんだ。

誘導された先は生徒会室だった。
名地は備え付けの水道で手を洗い、皮張りのソファの上に腰を下ろす。入学して以来、初めて入る部屋だ。

「麦茶と紅茶、どっちがいい?」
「あ、……麦茶で、」
「はぁい」

先輩は麦茶をグラスに注ぎ、はいと差し出した。両手でそれを受け取る。
グラスには細かいカットが施されていて、テーブルに光と影をゆらゆらと落とす。先輩も麦茶を飲みながら、戸棚に寄り掛かった。軽く腰に手を当てスラリと立つ姿は、それだけで雑誌の表紙を飾っていそうだ。

「オレはね、八王子幸」
「知ってます」
「ああ、王子って?」

嫌味ではなく、本当におかしそうに先輩は笑った。くっくっと笑い声に合わせて肩が揺れる。ああ、本物の王子だ。と、妙に納得できてしまう。しかし、麦茶を頂きにきたわけではないぞ、と名地は思う。のんびりした空気に痺れを切らして口を開いた。

「あ、あの!助けてくれるって」

こちらは本気だと言うのに、藁にも縋っているというのに、先輩はにやりと不敵な笑みを浮かべる。しかもコップに口をつけたまま。カリッとガラスを噛む音がした。そして、いつから持っていたのか、一枚の用紙をひらりと掲げた。

「うん、助けてあげる。でもその前に、事情を話してごらん。オレ、まだ君の名前も知らないから」

名地は迷った。誰かに話してもいいのか、判断しかねていた。気持ち悪いと思ってしまう自分が〝気持ち悪い〟と分かっていたから。待っているのは侮蔑だろうか、同情だろうか。目の前の瞳に、嫌悪の色が映るのが怖い。気の持ちようだと笑われるのは、もっと。
けれどもう仕方ない。ベタベタに汚れた手、ぐしゃぐしゃの泣き顔と、一番汚い姿を見られているんだ。それに「助け」の言葉はとても魅力的だった。
名地は、全て話した。
昔から人が作ったものを食べられないこと。気持ち悪いと感じること。
来月まで購買が開かないと、途方に暮れていること。
話を最後まで聞いた先輩は、深く息をついた。途中から先輩もソファに落ち着いていて、正面で身を乗り出すようにして聞いてくれた。

「はぁ~、それは、それは、大変だ」
「……そうなんですよ」

名地はもう、半分自棄くそである。

「コンビニとか、デパートのはいいの。お惣菜をさ、対面キッチンで作ってたら」
「ん……、それはちょっと、分かんないスね。試したこと無いんで」
「安全なものだけを選んできたんだね」
「……そうなりますね」

ゆっくりと噛み砕くような先輩の相槌。自分のことを、こんなに話したのは初めてだ。
触れたくないところ、隠してきたところ。それはいつまでも治らない瘡蓋をめくるようで、酷く体力と気力を使う作業だった。膿んだ血が滲んで、流れていく。

「じゃあねぇ、」
のんびりと、先輩は切り出した。さっきの紙を机上に滑らせる。慣れた手付きでボールペンを添えた。

「これに、サインして」
「……………………は?」

いやいやいや、ちょっと待て。ちょっと待て。何の悪徳商法だ、これは。
そんな疑念や困惑も何処吹く風。先輩は意気揚々と説明を続ける。

「ここに名前ね。名地智宏って、漢字で。あとは学年とー、クラスとー」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!何ですか、これ、」
「ええ?」

にっこりと、絵にかいたような微笑。それも小学生の落書きなんかではなく、高級絵画の作品だ。長く形の良い指が、用紙を指差す。名地は困惑しながらも、視線を落として指先に従った。答えは、太字ででかでかと印刷されていた。
そこには─—

『カレー愛好会 入部届』

「って、何でだよ!」

先輩は相変わらず呑気に笑っている。これが突っ込まずにいられるか!

「カレー愛好会ねぇ、オレ部長なんだけど。人数ぜーんぜん足りなくて、あと1人集めないと解散だったの」
「っつーか!生徒会じゃないのかよ!この流れ!」
「えっ!生徒会にも入ってくれるの!」
「言ってねえよ!」
「うわぁ、嬉しいなあ。じゃあねえ、こっちの用紙にもサインをねぇ」
「人の話を聞けー!」

強引に話を進める先輩から、やっとのことで聞き出した要点はこうだ。
カレー愛好会に入れば、部室(と言っても愛好会だけに与えられる部室はなく、同じく経営危機のビーフシチュー愛好会と共用の一室だ。合体してしまえよ、お前ら。)は使い放題。部室には電気ポットも簡単な調理器具もあるから、部活動として昼食をそこで取ればいい、というのが先輩の提案。部屋には誰かしらが居るだろうから、さみしくないよ、と付け足した。
名地は昼食問題が、先輩は部員問題を解決できて、ウィンウィンというわけ。

「ああ、生徒会は、ちょうどいいかも。そうだね、生徒会にも入ろうか、なっちゃん」
「ごめんなさい、俺、先輩のぶっ飛んだ思考、全くついて行けないです」
「同室の人ともう仲良くなった?」
「は?寮の?いや、留学生でまだ会ってないですけど」
「ナイス!それは最高だ!まあ任せてよ、なっちゃんに損はないからさ」
「なっちゃんやめてください」

先輩の得しかないんだろ、とは口に出さなかった。
あれよあれよという間に名地は二枚の用紙に名前を記入していた。たった今この瞬間から、カレー愛好会新入部員兼生徒会役員の誕生だ。二年なのに。
その日はもう一杯麦茶をご馳走になり、「これはいける?」とカップ麺を渡された。生徒会費で常備しているらしい。大丈夫かよ、この学校。
腹の虫は正直に空腹を訴える。お言葉に甘えることにした。

次の日から、事態は怒濤の展開を見せる。
まず登校して、教室で鞄を下ろすが早いか教員が飛び込んで来たのだ。それも、名地の名前を叫びながら。
ぎょっとして顔を上げると、なんと相手は教頭だった。ちょっと、ちょっとと忙しなく手招きをする。状況を飲み込めないまま、クラス中の視線を集めながら、名地は廊下に向かった。教頭はあいさつもそこそこに、名地の両手を握ってぶんぶんと振る。それはもう、風を切る勢いで、ぶんぶんと。腕がちぎれてしまいそうなほど、ぶんぶんと。

「なーちーくーん!いやあ、申し訳無い。実に、申し訳無い」
「は?!」
「いやあ、まさか君が生徒会を希望していたなんて。いやあ、良かった。これでわが校の生徒会は救われた」
「は?!はあ?」

確かに昨日、サインはした。名前を書いた。クラスも学籍番号も全部書いた。だからといって、何だ、この対応は。救われた?俺が、生徒会を救った?

「名地くーん」

間延びした穏やかな声は、八王子先輩だった。黄色い歓声をBGMに、教頭の後ろからゆったりと現れる。腕を振り回したりなんてしない。王族の余裕ってやつだろうか。声も体も大きい教頭と、黙っていても人を集める王子。名地の半径三メートルには、人払いをしたように余白ができていた。目立つ。あまりにも、目立つ。

「ごめんねぇ、オレの手違いで、貰ってた書類を先生に出してなくて。一枚だけだったから、紛れちゃってたみたい」
「あ、あの……?」

先輩の人差し指が、唇の前で立つ。教頭に見えない位置から、黙ってて、の合図だ。

「君がそんなミスをするなんて珍しい。まあ、良いんだ、まだ活動も始まってないわけだしな。全く、問題はない」
「本当ですか、良かったぁ。まさか今年、二年が誰も居なくなるなんて思ってもみませんでしたからね」
「いやはや、全くだ。まったく、生徒会存続の危機であった。我が校の長い歴史に傷が付くところだったよ」

カレー愛好会はまだしも、生徒会が存続の危機?名地の頭はキャパオーバーである。ただ一つ言えるのは、この学校はヤバい。

「まっ、名地くんが入ってくれてそんな危機も脱した訳だがな!いやあ、助かったよ。勇気ある行動に感謝する。これからも頑張ってくれたまえ」

分厚い掌で、再びちぎれそうな勢いの握手。あまりの勢いに頭がくらくらする。教頭は満足そうに笑いながら去っていった。嵐に呑み込まれた名地は呆気に取られてその背中を見送る。薄くなった頭髪がどんどん遠ざかっていった。
バーコード頭が見えなくなった頃、先輩はVサインをしてみせた。

「……あのね、去年教頭、役員の斡旋活動忘れちゃって。今二年生ゼロ……というか、3年生五人でやってるの、うち」
「……はい?」
「生徒会だから人数がどんなに少なくても無くなったりはしないんだけど。誰もいなかったら活動なんて無理じゃない。生徒会に任せてた仕事が戻ってくるって、先生たち大慌てだったんだよ~」

嵐の過ぎ去った廊下で先輩から、ことの詳細を聞く。それで、あのオーバーな歓迎ぶりか。名地はようやく合点した。
でね、と先輩は続ける。

「生徒会役員はね、寮の管理委員も兼ねてるの。ちなみに、オレ寮長」
「……は」
「寮管は同じ部屋になるように決まってて。その方が報告、連絡、相談、便利だからね。で、さっきも言ったように、今生徒会役員は5人。オレが一人部屋だったんだけど……。今日からなっちゃん、部屋移動だねえ」

唖然、とは、まさにこの事。
驚きすぎて言葉が出ない。開いた口が塞がらない。瞬きを忘れる。
どうなっているんだ。どういうことだ。
先輩はいかにも王子らしい仕草で、名地の手を取る。

「なっちゃん、早起きは?」
「…………苦手じゃないです」
「ますます最高!」

休み時間の話題は、名地にまつわる朝の騒動で持ちきりだった。

「……名地、教頭がお前に土下座してサインをねだったって、聞いたんだけど。お前有名人だったの」

ドン引きの表情でそう寄ってきたのは島崎。
動かせる所は全部振って、全力で否定しておく。んなわけねえだろ。

「……生徒会に、入ったんだけど。存続の危機?だったらしくて……」
「生徒会?!お前があ?」
「……何つうか、間違いというか、流れというか、不可抗力というか」

肩をすくめ、「何だそれ」とおどけた様子で島崎は言う。それはこっちの台詞だと、名地は内心言い返していた。
島崎同様の誤解は教室中に飛び火していて、休み時間のたびに、さらに尾ひれのついた噂を耳にすることになる。オーバーな言動の教頭と、ただでさえ目立つ王に囲まれていたのだから、当然人目を引いていたのだ。

「島崎ー名地ー、学食行くぞー」

大声で呼ばれて、ドキリとする。そうだ、今は、昼休みだ。
―—言わなくては。

俺、カレー愛好会に入ってさあ。昼に活動あるんだよ。だからちょっと、部室行ってくるな。あ、そこで昼も食べるんだ。だってカレー愛好会だからな。
そう言えなければ、なぜカレー愛好会に籍を置くとに決めたのだ。分かっているのに、喉が渇いて張りついて、音にならない。大丈夫。学食に行かないからって、変に思われたりはしない。誰も、俺の〝癖〟には気付かない。気味悪がられたり、しない。

「島─—、」

島崎、と言おうとして、しかしそれは黄色い声に掻き消される。
このBGMを持つ人なんて、名地の知ってる範囲では一人しかいない。

「なーちーくん!」

王子、先輩。
窓枠に体重を預け、片手をメガホンにして名地の名前を呼ぶ。
キラキラと空気が揺れる。

「名地くんお待たせ~、生徒会の仕事、昼に教えるって約束してたもんね。遅くなってごめんねえ」
「あっ、ハイ、今いきます」

心当たりなんてもちろん無かったが、咄嗟にそう答えていた。
名地は島崎達に断って、先輩の所へ急いだ。

向かった先は、今度はカレー愛好会の部室。部室棟の西端がそれだった。
IHコンロからフライパン、鍋、一通りの調理器具は揃っていた。調味料は塩と砂糖、それから無数のカレー粉。
もともとは本棚だったであろう背の高い棚には、綺麗に並べられたレトルトカレーがズラリと並んでいた。九州限定なんてものもある。よく見れば国内を飛び出して、見たことのない言語が躍るパッケージもある。賞味期限は、気にしないことにした。
どうやらビーフシチュー愛好会とは仲が悪いらしく、キッチンスペース以外は完全に区切られていた。完全にといっても、天井からむりやり吊るしたレールカーテンとか、パーテーションとか、卓球台とか、滅茶苦茶な住み分けである。仲良くやればいいのにと、名地は呆れてため息。
どこで買ったのか分からない、アジアンテイストのソファ。コルクの床にはペルシャ風絨毯が敷かれていて、至る所にトルコランプが飾られている。華やかな装飾で溢れる中、机だけはシンプルなガラスのローテーブルだった。北欧家具屋に売られていそうな、使い勝手が良いんだか悪いんだか分からない、あれ。カレー愛好会だよな、ここ。

「見てみて、昨日食材買い込んだんだ。明日から愛好会の活動やろう」

先輩は得意気に冷蔵庫を開く。確かに食材が所狭しと詰まっていたが、名地の知っているカレーには到底使われない食材ばかりだったのは気のせいだろうか。

「昼、ここで何か作る?食パンあるしねぇ、卵あるし、ウインナーあるし……」
「あ、」
「あ!オレの分も作ってくれる?オレも昼まだなんだよねぇ」
「……ホント、先輩人の話聞かないっすね……」

名地は諦め、先輩の後ろから冷蔵庫を覗き込んだ。これだけあれば、豪華なランチも夢じゃない。ただし、制限時間はあと三十分。
結局、ベーコンエッグとバタートーストを二人前用意した。
焼いただけだというのに先輩はえらく感動し、「カレー愛好会部長は君だ!」なんて握手を求めてきた。突っ込み所は多々あるが、少なくともカレーを食べてから言ってほしい。      
先輩は、いただきますと律儀に手を合わせた。

「…………先輩、気持ち悪いって、思わないんですか」

トーストをかじる先輩に、聞いてしまう。

「なにが?」
「俺の、……というか、人が作ったもの。というか……そう言ってる、俺……を、」
「大変だねぇとは思うけど」

ベーコンエッグをフォークで切り分ける。調理器具こそ揃っていたこの部室だが、スプーンとフォーク以外の食器が見当たらなかった。割り箸がどこかにあると先輩は言ったが、探す時間も無さそうなのでやめた。
形の良い舌が、唇の端から垂れた卵を舐めるのを、蜃気楼のように眺めた。

「ほら、卵おいしいし」

剥がれた瘡蓋からは、膿が流れて、そして塞がる。

「……俺、カレー愛好会、やっても。みんなのカレー……食えないっすよ」
「そしたらー、なっちゃんが作ってくれるんでしょう?」

やがて、元通りの皮膚になる。
苦しくないのに、辛くもないのに、泣けてきてしまった。

「愛好会のメンバーねぇ、カレーを愛してはいるんだけど。誰も料理出来ないの」
「…………」
「だから料理できる部員が増えて良かったあ」
「 …………そりゃ解散ですよ、愛好会」
「ひっどいなあ!」

先輩の笑い声は、真っ白な包帯みたいだと思った。

***

先輩はベッドを降りて大きく伸びをした。首を回して、独創的なストレッチ。

「うーん、本日快晴」

窓を大きく開け放つ。澄んだ外の冷気が押し寄せた。
冷たい空気に触れて完全に目を覚ましたらしい先輩は、干してあったフェイスタオルを掴んだ。部屋に洗面台や手洗い場はない。火や水を使うところは全て共用で、だから名地の部屋にある家電は冷蔵庫と電子レンジ、それから電気ポットくらいだ。

「じゃ、先輩は顔を洗ってー、食堂で三百円のモーニングをかきこんで来ますからね」
「どうぞどうぞ」
「……名地は?」

先輩の優しい、穏やかな視線。

「俺は」

備え付けの机に置かれた、コンビニの袋を指差す。

「これで」

先輩はうんうんと頷いた。名地の髪の毛をくしゃりと掴む。どうやら、頭を撫でているつもりらしい。

「じゃあ、今日もありがとね。名地も遅刻しないよーに」
「しませんよ!」

ひらひらと手を振って出ていく先輩。食堂には、寝巻き代わりの指定ジャージのままで行くらしい。時刻はちょうど、八時になったところだった。
名地は冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
椅子に腰掛け、メロンパンの包装を開けた。

学園寮の、朝のこと:END

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