保健室の先生は夏になると、決まって体調を崩す。近づけない二人の話。
「あのーー……失礼します」
控えめに開けたドアの隙間から、そっと中を窺う。洞穴を覗く小動物のような動作だが、気の弱そうな笑顔を見せるのは、180センチを超える白衣の男だ。
「有江先生、どうしたんですか」
担当授業、会議、出張……各自それぞれの仕事に出払った職員室は人影まばら。呼びかけると、有江先生はすぐに気が付いた。対角線に視線を伸ばす。俺は書類の入ったファイルを戸棚に収めていた。
「ああ、良かった。長谷川先生」
有江先生は、ほっと一息安堵を溢し、猫背をさらに丸めて手招きする。
薄々感づいてはいたが、どうもこの人は職員室が苦手らしい。ドアレールを踏まないように、扉の向こうで待っていた。
入ってくればいいのに、と言ったら、「ここは僕の職場じゃない気がして」と返されたことがある。ソワソワしちゃって落ち着かないんだよね、と続けた。どうやら彼にとって、この内側は聖域らしい。
「長谷川先生、ごめんね。次、授業ありますか」
「いや、今日はもう。ホームルームまで明日の準備でもしていようかと思ってたところです」
「ああ、そうだったんだ。お疲れさま」
上背はほとんど変わらないはずなのに、猫背のせいで一回り……もしかしたら二回りくらい、小さく見える。いかにも文系らしい、筋肉量の乏しそうな体系も、そうさせているのかもしれない。
さて、職員室嫌いの彼がこうして訪ねてきたということは、何か用事があるのだろう。だいたい予想はついているが、俺は「どうしたんですか」ともう一度聞いてみた。
有江先生は情けない表情で笑いながら、人差し指で頬をかく。
血の気の引いた顔色、乾いた唇。壁に寄り掛かる仕草さえ、予想を支持するものだった。
「ちょっと、保健室、お願いしてもいいですか」
有江先生は、保健室の先生だ。
***
「いやーー、すみませんね、毎度毎度」
「はいはい、別にいいですけどね。枕一つでいいですか」
「うん。ありがとう」
謝罪と感謝を繰り返しながら、白衣を脱いで横たわり、備品のタオルで顔を覆った。照明がまぶしいのだという。
長身の有江先生に、保健室のパイプベッドは窮屈そうだ。
「こんな姿、生徒には見せられないなあ」
それを独り言と捉えた俺は、何も言わずに椅子に腰を下ろす。放置してあった日誌をパラパラとめくる。来室記録や使った消耗品を、生真面目な筆跡が追っている。昨日は絆創膏、一昨日は経皮吸収型鎮痛……貼るタイプの鎮痛剤が使われていた。
今日の分の記録はない。『有江先生:休憩』なんて書いたら怒るだろうか。
半分だけ開いたカーテンの隙間からは、有江先生の足が見える。やはり狭いのだろう、両膝を立てていた。
有江先生は夏になると、決まって体調を崩す。1週間は調子が悪く、そのうちの2日間は、保健室の業務すらままならない。
それほどハードな業務ではないし、何とかなると出勤のち、こうやってダウンしてしまうのも例年のことだった。
いつからか、俺はそんな有江先生の代打を務めるようになっていた。
分厚い窓ガラスを隔て、遠くにセミの輪唱を聞きながら、俺は課題の採点を始めた。マルとバツしかない数字の世界はシンプルで、それゆえに難解だった。
机とベッドの真ん中で、扇風機が部屋中を見まわしている。冷房は、僭越ながら弱めさせてもらった。有江先生がいつだったか、空調の風が苦手だと呟いていたことを覚えていたからだ。
去年の夏もこうやって、眠ってしまいそうに静かな時間を過ごしていた。
その時の有江先生はすこぶる不調で、ベッドの上で、何度も嘔吐した。呼ばれたのも1通のメールで、それも職員トイレだった。
水分を取らせてもすぐに戻してしまうから、俺はまったくお手上げだったのだ。確かその時もセミは騒がしく鳴いていた。
『いやあ……はは、年かなあ……見苦しくてごめんね』
そんなことを、言っていた記憶がある。
俺とそんなに変わらないじゃないですか、と言おうとして、その時からさらに1週間ほど前の会話がよみがえる。
グラウンドを縦横無尽に転げまわるサッカー部の練習を遠目に見ながら、『やー、高校生は元気でかわいいね』『かわいいですか。クソガキですよ』『まあ、僕の息子でもおかしくない年頃だから』……そういう会話をした。
自分はそれに、なんと返したのだろうか。
「有江先生っていくつなのかしらね」職員室で度々持ちあがる話だ。
とにかく、そんな去年に比べたら、今年は落ち着いているようだ。
ガタンと物音がして、はっと我に返る。
振り返れば、有江先生が体を起こしていた。ベッド脇のテーブルからスマホを落としてしまったらしい。
拾い上げようと体を傾ける有江先生を制して腰を上げた。
冷蔵庫から出して、常温にしていたペットボトルの水を掴んでカーテンを越える。
「具合どうですか」
「いや、……ちょっと、あんまり」
ペットボトルを受け取ったものの、口を開こうとはしない。
手のひらで転がして中身を揺らすだけだ。小さな水泡が、上下にいったりきたりする。
転がったスマホはメールの作成画面だった。見てはいけないだろうと、背面にして手渡す。有江先生は、やはり「ありがとう」と微笑んだ。
「……ごめんね、何でもいいから、袋貰ってもいいかな」
俺はぎょっとして彼を見下ろした。そんなに具合が悪いようには、とても見えない。誤魔化すのがうまいのか、安心のためか。
「吐きそうですか」その質問には答えない。
口をつぐんだまま、指先に視線を落としていた。子供みたいだ、とぼんやり考える。自分よりもきっと、ずっと年上の相手に対して。
俺は黒いビニール袋を引っ張り出して、ペットボトルを代わりに受け取った。
ガラガラと無遠慮に扉が開いたのはその時だった。「せんせぇー」と間延びした声。
今、ここで代打の「先生」は俺だ。反射的に、2人同時に顔をあげた。
「おう、何だなんだ」
カーテンから出てきた俺に、男子生徒は首を傾げた。そりゃそうだろう。俺は古典の担当だ。
「あれ、長谷川先生?」
「俺だって先生だろ」
「そうだけど」
「で、どうした」
「バスケしてたらアキヤマが転んで。捻ったかもって」
「まーったくお前らは元気だなあ。体育館か」
保健室の扉を後ろ手で閉めながら、俺は思い出してた。
いつかの、夏の日。会話の続きだ。
『ご結婚されているんですか』
そうだ、確か、俺はそう返したんだ。その時ちょうど、壁に立てかけていたポスターが倒れ、机の上の筆記用具も巻き込まれて転がった。
慌てて拾い集めながら、しかし、有江先生は会話を続けることはなかった。彼の手に指輪はない。
赴任してきた初日、『保健室の先生が、こんなオジサンでごめんねえ』と、軽い調子で笑う有江先生を覚えている。挨拶用のマイク片手にやっぱり頬をかいていた。。
「有江先生っていくつなのかしらね」職員室で、度々持ちあがる話だ。
hold back…:END
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