『教室で自習!』
黒板の真ん中、担任の字が走っていた。クラス委員の西和田が教壇上で手を叩く。雑談でざわついた教室は、なかなか静かにならなかった。くだらない話が、噂が、室内に飛び交っていた。「かったるい」と誰かがぼやく。
「静かに、静かに!先生から自習課題を預かっている。今から配るから、終わった人から——」
悪い奴では無いのだが、真面目すぎるのがタマに傷。空回りしがちなクラス委員は、細いフレームの眼鏡を神経質そうに押し上げた。前列にプリントをまとめて手渡していく。後ろに回せと指示を出した。
「まーた西和田ちゃんだよ。大声出せば良いってもんじゃないのに。ねえ、芦原? 」
隣に座る三浦が、にっと笑みを浮かべ囁いた。同意を求められた芦原高弥は、曖昧に頷き返す。
(うるっせえな、面倒くさい……)
心の中では、そう毒づきながら。
悪いやつではないが、好ましいやつでもない西和田を疎ましく思う人は、きっと一定数以上いる。この三浦だって、何かと口うるさい西和田をやや穿ち過ぎた見方で捉える一人だ。そうは思うも、芦原にはそれを肯定するつもりも訂正するつもりも無かった。面倒なことには首を突っ込みたくないというのは、人間の性だろう。芦原と三浦の座る最後列までプリントが回ってきた。三浦はひらりと用紙をつまむ。
「クラス委員、芦原がなるべきだったんだよ」
「……え?」
「なんたって、入試以来常に首席なんだからさ」
プリントを息でゆらゆらと揺らしながら、「常に」を強調して三浦はそう言う。感情の読めない目だけを芦原に向けた。顔には笑顔が張り付いている。
「そんなことないよ」
芦原は視線を落として微笑んだ。この教室には、敵しかいない。無意識のうちに、胃を押さえていた。
芦原は、朝から胃の辺りの不快感に苛まれていた。意識しなければ気にならない程度のチクチクとした痛み。そういえば、何となく体も怠いような、気がする。机に肘をつき、俯いて眉間を揉む。気付かれないように小さく溜め息。
「どっかプリント余ってねえー?」
誰かがそう声を上げる。はっと手元を見ると、重なった二枚が目に写る。重複の皺寄せは最後列が被るものだった。。
「あ、ここに一枚あるよ」
そう言いながら、片手を上げるクラスメイトの元へ届けようと立ち上がった時だった。
ぐらりと歪む視界。床に沈んでしまいそうな、突然の暗転。
あっと思った時には、膝から床に崩れ落ちていた。一瞬遅れて、半身に鈍い痛みが走る。大袈裟なくらい派手な音を立てて椅子が倒れた。
「芦原?」「芦原くん!」
途端沸き起こる周囲のざわめきと肩の痛みが、どこか他人事のように感じる。頬に伝わるタイルの冷たさだけがやたら現実的で、全身が恐ろしく重たかった。目が回る。起き上がろうとして、肘に体重を掛けるのが限界だった。
「芦原、大丈夫か」
駆け寄って来たのは、西和田。膝をついて顔を覗き込む。西和田は無遠慮に芦原の額に触れた。彼はうわっと声を上げて、その左手を首筋に移す。
「芦原!すごい熱、高いぞ」
「……ええ?」
「起きられるか、保健室行った方が」
頼むから大声で騒がないでくれ。西和田の正義感がうっとうしくて、無理に体を起こす。ぐらぐらと視界が揺れた。堪らずに片手で目を覆う。教室の後ろで倒れた芦原に、心配や好奇のあらゆる視線が集まっていたのだと、そこで気がついた。
「……大丈夫だよ、椅子に引っ掛かっただけだから」
「いや、熱がある。自習の間くらい休んでろ」
熱だなんて言われたら、途端に力が抜けてしまう。「だから、大丈夫だって」そう言おうとして、口を動かすのも億劫になってしまった。忘れていた胃の痛みを思い出す。
もういい、どうせ自習なら、休んでしまおう。面倒なことが大嫌いな、芦原の本質が頭をもたげる。……ああでも、保健室はちょっとなあ。
そんなことを考えていると、あれよあれよという間に西和田に肩を回されていた。倦怠感に包まれ、されるがままに立ち上がる。
「芦原くん、大丈夫ー?」
入り口近くで、女の子がそう言う。それに片手をひらひらさせて応じながら、怠さに任せて教室を出た。廊下の方が、数段新鮮な空気が流れている。芦原は深く息を吐いた。見上げた窓の向こうは快晴だ。
頭の芯の鈍痛や、この目眩は貧血のせいかと思っていたが、これも熱かと思うと何となく面白い。西和田は律儀に背中を支えてくれる。
いいや、一時間くらい。全うな理由でサボってやろう。足を引き摺るようにして廊下を進む。時々、「大丈夫か」と西和田。無言で頷く。
誰かに付き添われて保健室に行ったことなんてなかったから、この様子を見たら、あの口の悪い養護教諭は何て言うだろう。「またサボりか」って、笑うかな。
中庭に抜けられるよう、一面ガラス戸になっている渡り廊下を抜けて、静まり返った校舎を歩く。そうだ、今授業中だもんなあ、そんな当たり前のことを改めて実感した。
床が揺れるような感覚は抜けない。刺すような腹部の痛みに、気づかない振りをする。
「失礼します」
西和田が、白い扉をノックする。円形の磨りガラスの向こう、影が動くのが見えた。
***
始業のチャイムが鳴り響く。相澤は大きく伸びをした。窓の外をちらりと伺い、人気の無いのを目視で確認。クリーム色のカーテンがかかる窓に寄りかかり、胸ポケットからタバコを取り出す。引き出しに手を伸ばし、ライターを掴んだ。
「失礼します」
だから、突然飛び込んできたノックとドアの向こうの声には、ぎくりと背筋を冷やされた。同時に開く扉と二つの人影。ネクタイの色を確認して、学年を把握する癖がついていた。慌ててタバコの火を指で揉み消す。チリリとした痛みが親指に走った。
「お、おう、どうした」
「先生、ここ学校ですよ、しかも保健室!」
「あー、まあ、そうだな」
「信じられない」
生真面目を絵に描いたような細縁眼鏡の彼は、相澤の喫煙を咎めながら、俯くもう一人に「大丈夫か」と声をかけた。後ろから猫背気味に入ってきたそいつを見て、一気に脱力する。
「ええっと、どうしたんだ?そいつは?貧血か?」
半ば笑いを堪えながら、一応、形式としてそう尋ねる。細縁眼鏡は芦原をソファに腰かけさせた。
「ちょっと先生、真面目にやってるんですか。芦原君は病人ですよ」
顔に浮かんだ笑みが気取られたのか、物凄い形相で睨まれる。校長のワンマン経営が顕著なこの私立校、こいつが権力者の息子なり孫なりなら大変だ。この職に特に思い入れがあるわけではないが、クビになったら路頭に迷うのは目に見えている。面倒な世界だ、と相澤は肩を竦めた。
口を開いたのは、芦原だった。
「えー……と、大丈夫。もう、戻っていいよ、西和田。ありがとう」
そう言って、やんわりと微笑む。相澤には、芦原のその笑顔がよそ行きの作り物だとすぐに分かった。なるほど、こいつはこうやって笑っているのか。西和田と呼ばれた細縁眼鏡の彼は「そうか」とか、「お大事に」とか呟いて、保健室を出ていった。神経質で頭は固そうだが、良いやつじゃないか。
足音が遠ざかって、静寂が訪れる。ややあって相澤は吹き出した。
「おっ前、名演技だなあ!西和田?だっけ、今時あんな熱いやついるんだな」
ケラケラと笑い声を上げる相澤。当たり前のようにスムーズにタバコを取り出した。新しい一本に火を付け、煙を吐き出す。芦原は、嘆息してソファに凭れた。
そう、これなのだ。だから保健室は気が進まなかったのだ。
成績良し、人当たり良し、運動神経良しと三拍子そろった芦原は、その実、とんでもないサボり魔だった。それも出席を取らない自習や課外活動などを狙って、計画的に休んでいる。芦原の普段の行動や、生来の線の細さを認めるクラスメート達は、誰もその不正に気付かない。
そして芦原がサボり場所に決めたのは保健室で、退屈しのぎに選んだのは、養護教諭である相澤だった。理由なんて特にない。ただ、全てが面倒で、全てから、逃げ出したかっただけだ。
普段の態度を知られている相澤には、弱った姿を見せたくなかった。それは殆ど意地のようなもので、自分のプライドなのだと芦原は自覚していた。不正を看過して貰う以上のことを、求めてはいけない。芦原は怠い体に鞭打って、ソファから立ち上がる。
「……そーです、いつものサボりです。センセ、ベッド、借りますね」
「おい、ちょっと待て」
相澤は、しかしそれでも養護教諭で、芦原の様子がいつもとは違うことにようやく気が付く。すいっと横を通りすぎようとした芦原の腕を掴んだ。咥えタバコの煙が細く揺れる。
「顔色悪ぃな、まさか本当に具合……」言いながら、相澤の手は芦原の頬に触れていた。その手が冷たくてあまりに気持ちが良いので、芦原は振り払うことも忘れて目を閉じた。相澤はぎょっとした声を上げる。
「熱っつ!熱!お前よくこれで学校来たな。さっさと布団入ってろ。早退だ、早退」
「……」
ばたばたと急に職務を思い出したような相澤は、壊れんばかりの勢いでカーテンを引き、ベッドを整えた。一瞬だけ名残惜しそうにタバコを見て、携帯灰皿に捩じ込む。バレてしまったのならと、芦原は観念してジャケットを脱いだ。悪寒がして、全身が総毛立った。
濃紺の名簿のファイルを片手に体温計を差し出す相澤。芦原は、黙ってそれを受け取った。というより、強がって悪態をつく体力も気力も、芦原にはもう無かったのだ。
「これが保健室の正しい使い方なんだよ、分かったか」
「……はーい」
「今家に連絡してやっから。迎え来てもらえ。んで、とっとと帰れ」
名簿を見ながら、デスクの電話を引き寄せる。相澤は保護者連絡先の欄を見ながら数字を押した。
「……ムリだと思うけどなぁ……」
「ああ?何だって?」
コール音がして、数秒後。保健室に着信を知らせるメロディが響いた。
ちょうど、芦原の上着のポケットから。
怪訝な表情を浮かべた相澤が受話器を置く。それに対応して、メロディも止まった。嫌な予感が走った相澤は、芦原が枕元に丸めたジャケットを引っ掴み、ポケットの中からスマホを取り出した。「着信一件」という、ディスプレイの表示。青いランプが点滅する。
「お前まさか……」
「うん、それ、俺の番号」
「親の番号は」
「知らない。全員海外だし、連絡なんて取らない」
呆れて物も言えないとは、まさにこのこと。タイミングよく、ピピ、と電子音が沈黙を埋める。芦原はごそごそと体温計を取り出した。
腕を動かす些細な動作でさえ、怠くて仕方がない。体温の残る体温計を受け取った相澤は、表示を見てがりがりと頭を掻いた。
「八度五分……やっぱ高ぇな。お前、じゃあ、一人暮らしか」
「手伝いの人が、週に三回来るけど……基本的には」
両親が今どこにいるかなんて、芦原にとっては気にしても仕方のないことだった。それはもう、小さい頃から、そういうものだったからだ。
父親は今アジア圏のどこかに居るらしいが、母親に至っては皆目検討もつかない。三つ上の兄はワシントンの田舎に住んで大学に通っているらしい。 芦原は彼ら〝家族〟の所在に少しの関心も無かったし、それはきっと、向こうだって同じはずだ。
「俺みたいな落ちこぼれには、興味無いんだ、うち」
相澤は絶句した。この学校は、内部体制に若干の問題はあるものの、近隣では決して低いレベルではない。それに、教科に携わらない相澤でも、芦原が入学以来常に首席を維持していることは知っていた。
「金持ちのエリートも大変なんだな」溜息とともにそう呟く。中流階級で育った庶民の正直な感想だ。
芦原はそれには答えず、枕に顔を埋めた。発熱による倦怠感に加え、刺すような腹部の痛みがさっきからじわじわと増しつつあった。何となく、気持ち悪いような気もして、それらを忘れるために早く寝てしまいたかったのだ。
「……ちょっと休んだら、自分で帰ります。次の時間になったら、起こして……」
言い終わらないうちに、髪の毛をぐしゃくゃに揉まれる。相澤の大きくて冷たい手は、火照った体にとても気持ち良かった。
「言っとくが、俺が冷たいんじゃなくてお前が熱いんだからな。分かったから、さっさと寝ろ」
「……はい、」
くぐもった返事。意識は、微睡みに溶けていった。
浅い眠りから強制的に起こされたのは、突き上げるような激しい吐き気のせいだった。
「……っ!」
ぼんやりとした意識は一気に現実に引き戻され、芦原は布団の中で背中を丸めた。これは、やばい。焦りで心拍数が跳ね上がる。生唾を何度も飲み込み、落ち着け、落ち着け、と頭の中で繰り返す。
そんな努力も虚しく、徐々に危機感は迫った。刃こぼれしたナイフのような、鈍く鋭利な相反する感覚。胃の辺りが掴めそうなほどはっきりとムカムカして、喉に確実な
圧迫感を感じた。
(あー、まずい、これ……)
えずきそうになるのを何とか堪え、のそりと起き上がる。胃の中身が食道を逆流してくる不快感は、耐えがたいものだった。緩慢な動作で毛布をよけ、よろよろとベッドから降りた。酷く、目が回る。
「相、澤……」
カーテンを掴み、その向こうに座る背中を呼ぶ。書類整理をしていた相澤は、掠れた声にはっと振り返った。カーテンの隙間から覗く真っ青な顔を見て、瞬時に状況を理解する。
「だーっ!ちょっと待て、ちょっと待て。今袋、いや洗面器……」
「う……」
目眩と、吐き気と、とにかく全身の怠さに立っていることも叶わず、ずるずるとしゃがみ込んでしまう。口元を押さえ、ひくっとしゃくり上げる。
相澤がとっさにゴミ箱を取る。それを受け取るやいなや、芦原は激しく嘔吐した。相澤が上下に擦る薄い背中が、びくりと不規則に上下する。
「オエッ、うっ……、うう……」
「ああ、もう、ほら大丈夫か、よしよし」
「げほっげほ、ゲホ……ッ、っは、」
吐き気が、収まらない。いくら吐いても胃のムカつきは消えず、吐瀉物がゴミ箱のビニールに叩きつけられる。酸の臭いが鼻に付き、余計に吐き気を助長する。床に跳ね、ああ、消毒、と妙に潔癖な意識が働く。
「……ゲホッ、っあー、気持ち悪ぃ……」
ぐったりと脱力する芦原。相澤は手早く袋を閉じた。手の甲を芦原の額に当てる。
「あー、なかなか酷いな。お前、次の時間も休んどけ。ってか、誰か迎え頼めねえのか、その、お手伝いさんとやらに」
芦原は俯いたまま曖昧に唸る。そして、別の違和感にも、そこで気が付く。
忘れていた腹部の不快感。それが突如、腸を捻るような痛みとなって芦原を襲った。
「~~~っ」思わず両手で腹を抱える。じわりと嫌な汗が噴き出した。皮膚の下、臓器が不穏に蠕動するのを感じて血の気が引く。これはやばい、本当に、やばい。反射的
に肛門を締めるも、水っぽいそれはじわじわと芦原を追い詰める。
「……おい、芦原?腹か」
「……ちょっと、トイレ……」
腰を折って、いかにも「漏れそうです」という体勢で。でも、そんなことを気にしている余裕もないほど芦原の欲求は切迫していた。隣に設けられたトイレに駆け込み、溢れそうだったものを吐き出す。
明らかに下しているその音に、後を追った相澤は痛ましげにドアを見つめた。
何度か水を流す音がして、ようやく芦原は個室から出てきた。ふらつきながら壁に手を付くその様子は、一回りも二回りもやつれて見える。
「かなり酷いな。ほら、保健室戻るぞ。横になってろ」
「……ふ、相澤が優しい、へんなの」
「頭緩んだか。気持ち悪いな。相澤〝先生〟だろ、センセイ」
一音一音区切るように「先生」を強調して、相澤は芦原の両肩を支える。発熱に続く吐き下しで、芦原は一人では真っ直ぐ歩くこともできないほど弱りきっていた。
再びベッドに収まるも、強烈な吐き気と腹痛、下痢が容赦なく芦原の体力を削った。保健室とトイレを往復し、その合間に倒れるように眠る。
このままだと脱水症状を引き起こしてしまう。そう危惧した相澤が経口補水液を飲ませたが、それもすぐに吐いてしまった。ベッドの横にはビニールに包まれた洗面器が常備された。
もう吐いたもののなかに固形物は殆どなくて、相澤が半ば強制的に摂らせた水分と苦い胃液だけをひたすら吐き続けた。吐き気が一瞬治まったと思えば、ぎゅる、と腹が警鐘を鳴らす。同様に水のようなそれを下し続けて、お尻の穴がヒリヒリした。あまりの苦しさに、芦原は生理的な涙が止まらなかった。唇の端を噛みすぎて、血の味がした。
腹部を庇うように抱えて、布団の下で背を丸める。相澤は熱い息を吐く芦原を気の毒そうに見下ろしながら、毛布の位置を直した。
「……っ……ふ、……」
「お前……この様子だと、十中八九ノロウイルスだな。三組で流行ってるの、聞いてないのか?」
「……なにそれ、……初耳」
「さっきお前のクラスの三浦?が、荷物持ってきてくれたぞ。お前、友達居るんじゃん」
「……あれは、……」
三浦の父親は、芦原の父親が経営する会社の、子会社の社長だ。そこにあるビジネスパートナーとしての主従関係は火を見るより明らかで、三浦もきっと、父親の背中を見ている。芦原の父親に頭を下げ、献身的な接待を続ける、父親の姿を。
今はクラスメイトである芦原との関係は将来的には対等なものではなく、その分別があるからこそ、三浦の態度は読めないのだ。
クラス委員の西和田は、芦原達のような中等部からの持ち上がりではなく外部組で、その辺の事情がひしめく教室をいまいち把握しきれていないのだろう。
そう説明したかったが、言葉を一言発するのも辛くてやめた。目を閉じて枕に顔を伏せる。何かを察したのか、相澤はもう一度「金持ちのエリートも大変なんだな」と哀れみを込めて呟いた。
「……さて、もう昼休みだけど、ちったあ良くなったか」
「どうだろう……気持ち悪いし、腹は痛い、けど……」
「それは悪化してんだよ、バカ。もう一度聞くが、誰か迎え頼めねえのか、お手伝いさんとやらには」
その突き放したような言い方に、芦原は沈黙した。感染力の強いウイルス保菌者には、学校に居て欲しくないということか。
いつもふらりとサボりに行って、最初こそ叱責されたものの、今では「またお前か」「うるさいなあ、いいでしょ」と軽口を交わせるようになった。過干渉してこないその関係が心地よくて、知らず知らずのうちに甘えていた。けれど今、相澤の言葉は全て〝帰れ〟と暗に意味している気がして、何だかもう色んなしんどさがごちゃ混ぜになって、ボロボロと涙が溢れてきた。体調が悪いと涙腺が馬鹿になって困る。
突然泣き出した芦原に、驚き慌てたのは相澤だった。
「あーもう、何で泣いた?泣くほどしんどいか?あ?」
「……って、……相澤、帰れって……」
「はぁ?そんなこと一言も言ってねーだろうが。分かった。誰も来れねえんだな。よし、じゃあちょっと辛いかもしんねぇが、起きろ」
「……え……?」
「病院行くんだよ、ビョーイン」
俺が連れてってやる、と、相澤は白衣の上着を脱いでコートを羽織った。芦原は状況が飲み込めないまま、体を起こした。とりあえず、セーターの上に枕元のジャケットを着る。ベッドから下りようとして、床が歪むあの感覚。窓に頭から激突してしまう。
その音を聞いて、カーテンの隙間から相澤がひょこっと顔を出した。
「あー、悪い悪い。歩くのしんどいよな」
また両肩を支えるようにして芦原を連れる。相澤が優しいなんて、やっぱりへんだ。そんなことを考えていると、急に動いて刺激されたのか、芦原の腹は何度目か分からない悲鳴を上げた。
眉間に皺が寄る。無意識のうちに、猫背になる。「車で行くから、出る前にもっかいトイレ行っとくか」芦原の様子を見て、相澤は声を落としてそう言った。それも芦原のプライドを気遣ってのことで、やっぱりこんなに優しい相澤はおかしかった。
トイレに向かう途中吐き気までぶり返して来て、堪えきれず手荒い場で吐いた。むせ返って、喉が痛む。職員玄関から駐車場に抜け、相澤の車に乗り込む頃には満身創痍といった様子だった。後部座席に荷物を置き、助手席に座る芦原。早退の手続きは、相澤が全てやってくれた。
「じゃ、行くか。坂の下の市民病院でいいよな。あとほら、これ、持ってろ」
「ん」
手渡されたのは紙袋とビニール袋を組み合わせた、いわゆるエチケット袋。保険証持ってるか、と尋ねるので、頷いて応じる。確か学生証と一緒に持ってきているはずだ。
ゆるやかに車は滑り出す。病院までの道のりは片道十分。その間に、もし吐き気の波がきたら。もし、トイレに、行きたくなったら。そう考えるとそれだけで動悸がする。
案の定、半分も過ぎないうちに口の中に酸っぱいものが込み上げてきた。車酔いもあるのかもしれない。芦原はもともと乗り物に強くない。
胸の辺りがもやもやする。芦原はエチケット袋を握りしめた。「吐くか?」芦原の異変に気付いた相澤が、信号待ちの間に尋ねる。カーラジオの音量を下げたが、芦原は車内に流れていた音声や音楽に、そこで初めて気が付いた。
「……吐かない」
「別に、無理すんな」
もう吐くもんもないのに、吐きたくない。というか、これ以上何を吐かせようとしてんだ、この体は……って、ウイルスか、そうだよな。支離滅裂な思考回路と、治まらない胃の収縮。生唾を飲み下す。
さらに最悪なことに、また、下しそうな予感がしてきた。もぞ、とシートの上で体勢を変える。嫌な予感で、全身に鳥肌が立った。捻れるような腹の痛みが、じわじわと強さを増していく。背中を丸めたいけど、そうしたらきっと吐いてしまう。
「……あ、相澤……っ、あと、どれくらい」
「もうすぐだから、角曲がったら。辛いな、もうすぐ停まるから」
吐きそうで、それだけでなく漏らしてしまいそうで、芦原は殆どパニックだった。切羽詰まった声で相澤を呼ぶ。病院の広い駐車場に入るやいなや、施錠もそこそこに相澤は助手席から芦原を連れ出した。
芦原がトイレに籠っている間に、受付手続きをこなしておく。さすがに平日の昼間、待合室は空いていた。設置されたテレビは通販番組を宛てもなく流していたが、気に留めている人はいない。中央のソファに腰をおろして問診票を眺めていると、トイレから出た芦原がよろよろと向かってきた。少しは、落ち着いたのだろうか。顔色は漂白したように真っ白で、普段から色の白い奴だと思ってはいたものの、さすがに不安になる。
真っ直ぐにこちらへ来て、すとんと真横に座った。「はー」と深い溜め息。
カーディガンを脱いで、その薄い肩に掛けてやる。一瞬ちらりと視線を向けたが、すぐに怠そうに目を伏せた。長い睫毛が、頬に影を落とす。
(……素直にしてりゃあ、可愛げもあるのに)
吐き下した疲労からか、芦原がうとうとと船を漕ぎ始めたころ、ようやく名前が呼ばれた。まだ若い医者はいくつかの質問を投げ掛け、簡易なベッドに横になった芦原の胸や背中に聴診器を当てた。芦原は身じろぎもせず、きつく目を閉じる。渋る腹に冷たい金属を滑らされ、かわいそうなくらいである。
診察の最中にも、芦原は一度戻した。看護婦が慣れた手付きで膿盆を取り出すのを、相澤は為す術もなくただ眺めていた。保健室の先生なんて、無力なものである。下された診断は、やはりノロウイルスだろうという所見だった。
「えー、午前中から嘔吐と下痢があるということで、脱水症の恐れもありますから、点滴しておきましょうか。吐き気止めと、下痢止め……あと、解熱剤ですね、出しておきます。」
「……はあ」
「とりあえず脱水が治まれば、ちょっとは楽になると思うのでね。後は安静第一にして、ウイルスが外に排出されるのを待ちましょう。お大事にしてください」
比較的短い方だった待ち時間の、さらに三分の一程度の早さで診察は終わった。点滴室に移され、細い腕には管が通される。低いパイプベッドに体を預け、芦原は頭上で揺れる生理食塩水をぼんやりと見上げた。貧血だろうか、目がチカチカする。ああ、もう、情けない。
「……お前、コレ、終わったらどーすんだ」
これ、と点滴のパックを指で弾く。どこからか持ってきた丸椅子にどかっと腰掛けた。細い音を立てて、その脚がきしむ。
「あー、どーしましょうか……ね……」
「家、誰も居ねえんだろ」
「………」
確かに、小康状態に落ち着いた体調で、考えるべきは病院を出た後のことだった。今家に帰っても、当然誰もいない。けれどそれは仕方のないことで。
あれは小学校のころだったか。
登校してすぐに高熱で倒れた出した芦原は、保健室で休んでいた。パステルカラーの内装が特徴的だったその部屋で、早退の迎えを待つ。保健室の先生から、「今お母さんが迎えに来てくれるって、良かったねえ」と伝えられて、驚いたのを覚えている。
両親が仕事を抜けて自分を迎えに来てくれるなんて、思ってもいなかったからだ。朝起きたときには両親は既に仕事に出ていて、お手伝いさんしかいなかった。驚いたと同時に、いつも忙しい両親の関心を引けたことが、すごく嬉しかった。布団の中でも、体は熱くて怠いのに、なぜかわくわくして眠れなかった。
けれど、迎えに現れたのは父親でも母親でも、お手伝いさんでもなく、一度も会ったことのないスーツ姿の女性だった。その人は、「遅くなってすみません、アシハラタカミの母です」と言って頭を下げる。呼ばれた名前が自分のものだと気付くのに、少しだけ時間が必要だった。
これまでの経験から、芦原は幼心に分かっていた。〝大人同士の嘘には合わせた方がいい〟と。だから小さかった芦原はその一面識もない女性を「お母さん」と呼んだし、その人に連れられて帰宅した。家には相変わらず、お手伝いさんだけがいた。
あの女性は父の秘書で、父から「母親の振りをして迎えに行ってやってくれ」と頼まれていたのだと知ったのは、その後の話。防犯上の都合から、両親或いはそれに順当する保護者以外の迎えが認められていなかったためである。
その時、芦原は両親にとっての自分と仕事の優先順位を肌で悟った。勉強を頑張ったら、と一時期は思ったけれど、出来の良い兄と比べられるだけだった。
小さい頃から、そういうものだった。期待してはいけない。期待する価値のない子どもである自分が。
誰もいない家に帰るのは、慣れている。
「ウチ来るか」
突然降ってきた予想も期待もしていなかった提案に、芦原は文字通り目を見開いた。少しも変わらない声のトーンで、ぶっきらぼうに投げられたその言葉に、なぜだか泣けてきてしまった。気付かれないように何度も瞬きをする。
「え……?」
「だから、俺んちに泊めてやる。お前、この体調で一人でどうする気だよ。学校にバレたら色々厄介だから、うまく誤魔化せよ」
「い、いいの。あんたの家に行っても」
「言っとくけど庶民の狭い賃貸だからな。文句言うなよ」
言わない、言わない、と慌てて首を振る。人がいる部屋に帰る。家に帰ったら、人がいる。
——きっと自分は、ずっと寂しかったのだ。
斯くして点滴を終えた芦原は、再び相澤の車に戻った。その頃には、体は随分楽になっていた。車に揺られて三十分、停まったのは木造三階建てのマンションの前だった。学生向けに貸し出している物件らしいが、不動産関係に勤める友人のツテで安く入れてもらったのだとか。
芦原を先に下ろし、相澤は契約している駐車場まで車を動かす。相澤が小走りで戻ってきたので、芦原は思わず笑ってしまった。
部屋は八畳ほどの縦長なワンルーム。男の一人暮らしにしては片付いているのと、オリエンタル調の家具類の背が低く統一されているお陰で、少しも狭さを感じない。正面のベランダから夕日が赤く差し込んでいる。もうそんな時間か、と芦原は思った。
「ベッド使ってろ。嫌じゃなければな」
相澤が、部屋の暖房にスイッチを入れながらながらそう言う。多少回復したとはいえ、怠さの残る芦原には有り難かった。腹の痛みも、まだくすぶっている。そろりと布団に潜ると、相澤のにおいがした。気休めに腹部を抱えて横になる。いつの間にか、ぬるま湯のような眠りに落ちていた。
どれくらい眠っていたのか。物音がして、目が覚める。「起きたか」覗き込むようにして相澤が言った。照明が染みて、目を擦る。
「ん」
「卵粥とすりリンゴがある。食えそうだったら食え」
そう言ってパッと離れてしまう。寝惚けた頭で言葉を反芻して、芦原は吹き出した。すりリンゴ!目の前でノートパソコンに向かうこの男がリンゴをすりおろす姿はどう
頑張っても想像できない。って言うか、この人、料理なんてするんだ。考えが顔に出ていたらしく、すぐに相澤に睨まれた。
「うるせえ、俺は姪っ子の看病しかしたことねぇんだよ!」
一方相澤は枝豆やチーズを摘まんでいて、完全にお酒のつまみだというのに、ミネラルウォーターのペットボトルが置かれている。学校でも人目を盗んで喫煙するほどのヘビースモーカーなのに、灰皿に使われた形跡はない。今、自分は彼の日常に割り込んでいるのだと、唐突に自覚した。
「……相澤、先生、」
「……何だ」
「俺、寂しいって知らなかったんだ」
「……」
「そういうもんだと思ってた。ずっと。……けど、寂しくない時を知らないと、寂しいって分からないもんだね。やっと、分かった。俺、寂しかったんだ、たぶん」
相澤は否定も肯定もしなかった。そして無言で立ち上がった相澤に、ぐいと引かれて起こされる。差し出された底の深いガラス皿にあるのは、食べやすくすりおろされたリンゴ。プラスチック製のスプーンが添えられている。驚いて、目を丸くして容器と相澤を交互に見やる。
「食え」
「……何か食べたら、……吐くかも」
「そしたら寝ろ。……何のためにウチに来たんだ」
「え?……休むため……?」
「看病されに来たんだろ、アホ」
ああ、と思う。一人じゃないって、こういうことか。緩んだ涙腺でやっぱり鼻がツンとしたが、今度はもう隠さなかった。相澤が頭をぐしゃぐしゃと撫でる。相澤のベッドに座って食べたリンゴは少し酸っぱくて、卵粥は大雑把な、とても優しい味がした
ジョハリの窓に、羊がふたり
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