真夏の日

「高瀬」

そう呼ばれて、目が覚める。光、音、それから頬に触れるシーツの冷たさ。意識が水面に向かう気泡のようにゆっくりと浮上する。何か夢を見ていた気がしたが、冴えてくる現実の感覚に追い出されてしまった。
ぼんやりとした感覚を繋ぎたくて薄目を明ける。飛び込んできた光があまりに眩しくて、思わず顔を背けた。鼻が沈む枕も、ひんやりと体温を吸い取っていく。

「馬鹿、カーテン閉めてろって言っただろ」

ぶっきらぼうな男の声が降ってきて、無造作に投げられたタオルが視界を遮る。僕はそれを引っ張って、目だけを覆いから覗かせた。瞬きを数回、ようやく光に目が慣れる。

窓の外に降り注ぐのは真夏の日差し。乱反射で眩しく白んだ空と、距離感のつかめない蝉の鳴き声が夏の盛りを雄弁に語る。風の少ない最高気温は大抵の人の体温を越えているそうだ。朝からずっと冷房の効いた室内に居るせいで、どこか他人ごとだった。

「水分取ったか」

そう聞きながら、男の視線は枕元のペットボトルを捉える。冷えすぎだと噂の一階の自動販売機で売っているものだ。日当たりのない室内にあるためか、利用者が少ないためか。ラベルにアルプス山脈が描かれたそれは、確かにキンキンに冷えていた。
枕に並んで横たえたミネラルウォーターは結露がシーツを濡らすだけで、中身は少しも減っていないのが見て取れる。案の定、といったところだが、男は呆れて溜め息を吐いた。

「ほら、ちょっと体起こせ」

差し込まれた大きな手で背中を支えられ、僕は何とか起き上がる。手足に全く力が入らなくて、まるで全身に鉛でも埋め込まれたようだった。あるいはいつだったかテレビで見た、数キロの重りが入ったウェイトバンドを思い出す。筋骨隆々のプロボクサーがトレーニングに使っていた、あれ。

視界が回って、頭がぐらついた。

ぽとり、手の甲に水滴が落ちる。放置していたペットボトルが差し出され、飲み口のくぼみの部分を掴んだ男―先生の目は「飲め」と促していた。丁寧に、キャップを緩めてくれている。両手で親切を受け取った。
傾けてみるもしかし、いきなり流れ込んだ水分に寝起きの筋肉はすっかり驚いてしまった。飲み込むことができなくて、気管に入って思いきり咽せる。

「ゲホッゲホ、ぇほ、けほ」
「……っと、おいおい、危ねえな。よこせ」

口に含んだほとんどを吐き出してしまい、胸元、シーツ、掛布団と、すっかりぬるくなった液体が広がる。手から落ちそうになったペットボトルは先生が慌てて取り上げた。硬度六〇ミリグラム。視界はラベルの文字を拾って追いかける。

高校三年生、受験生、最後の夏休み。難関校対策の夏期講習に参加していた高瀬は、二講目の古典の時間に倒れた。意識を失い気絶したわけではない。机から転がり落ちたシャーペンを拾おうとして、そのまま動けなくなってしまったのだ。ジリジリと照りつけてくるのは日差しだけではなかった。 

高瀬が通うのは、駅前の、比較的大きな受験予備校。塾の窓には、外に面して去年の合格実績がでかでかと宣伝されている。ピックアップされるのは国公立大学と有名私大、それから医学部医学科だ。公表されている人数には一度きりの模擬試験受験者や講習生も計上されており、その事実を知り鼻白む者も少なくない。
とにかく、そんなカラクリを内包するビルの教室では、一日最低十時間は机に向かえ、鉛筆を動かせと、何度も何度も聞かされる。かりそめに快適な箱の中で、皆一心不乱に課題をこなしていくのだ。ささくれ立った心で見れば、全員が鋭利なナイフを隠し持っている。

ストレスと睡眠不足に加えて連日続く猛暑のせいで、暑さに弱い高瀬の体は完全に参ってしまっていた。

「今日も記録的な暑さとなるでしょう。ただし湿度は低いので、カラッとした夏晴れになりそうです」……今朝のニュースで、そんな言葉を聞いていた。

校舎があるのは駅前七階建てビルの四階、五階部分。休憩室として使える部屋も完備されていて、突然倒れた高瀬に周囲が騒然とする中、古典担当の久高は高瀬を抱えて運んだ。

当然、久高には他の生徒もいる。特にこの時期、対価の発生する一分一秒には生徒も、それ以上に保護者が敏感だ。そのため、ベッドの上に高瀬を下ろした後、久高は急ぎ足で持ち場に戻って行った。丸まった背中に「終わったらまた寄る」とだけ言い残して。途中思い立って、例の冷えすぎる自販機に足を止めて。

落ちてきたペットボトルは眠気が吹き飛ぶくらい冷たかった。それを届けた久高は、去り際にカーテンを閉めるよう言っていた。それを許さなかったのは、鉛のような酷い倦怠感だ。指一本動かすのも億劫で、いつの間にか眠りに落ちていた。

「どうだ、ちょっとは気分良くなったか」

ペットボトルのキャップを閉じながら、先生は僕の目を見て尋ねる。

「……ええ」
「なるほど、回復してねえ訳な。……いいよ、体倒してろ」

軽く肩を押されると、自分でも驚くほどあっさりとひっくり返ってしまった。全身が重たく、熱に浮かされたように怠い。ズキン、ズキン、脈動に呼応して、頭が鈍く痛んだ。

「……ぅ、」
「吐けそうか」

意図せず漏れた呻き声を、先生は敏感に拾う。

「……吐きません」

視線を感じて、布団を被ってそれから逃げた。相変わらず目は回るし気分は最悪だが、今すぐに戻してしまうような危機感は、だいぶ遠く感じられた。

そうかよ、と先生は呟く。金属が擦れあって軋む音が聞こえて、先生は腰を回して伸びをしていた。授業中にもよく見せる癖だ。言葉は、あくびと一緒に続いた。

「お前、今日は帰ったらどうだ」

何気なく発せられた言葉。ここに居られても邪魔だ、と言われているみたいで、何だか無性に悲しかった。そんな自分にちょっとだけ驚いて、先生に気付かれたくなくて。

「そうします」

体を起こして、ぐしゃりと乱れた服を整え出した僕を、先生は苦笑しながら制止した。

「いやいやいや、ちょっと待て。一人で帰れなんて言ってねえよ。大体、お前今外出て歩いてみろ、また倒れるぞ」

「倒れません」

決めてかかった言い草にむっとして言い返すと、また笑われた。

「じゃあ、電車に乗れるか?夏休みだし混んでるぞ」
「電車……」

想像してみて、やめた。
塾から自宅の最寄り駅まで三十分。込み合う繁華街のターミナル駅、悪くすれば座れないかもしれない上り電車に耐えられる自信が無かったのだ。黙りこくった僕に先生は「ほらな」とでも言いたげに笑い、ずいっと手のひらを向けた。

「親に電話してやるよ。携帯貸せ」
「……共働きだから、」
「あーそうか。なんか前言ってたな、そんなこと」

長い指はすぐに引っ込んでしまった。先生に家族の話なんてした記憶は無かったが、言ってどうなるわけでもないので黙っておいた。

「じゃーどうすっかなあ」

先生は頭を乱暴に掻き、それから少し長めの髪をかきあげた。癖が強い髪質で、すぐにもとに戻ってしまう。スマートフォンの画面を睨む。意味もなく液晶を切ったり、入れたり。ボタンをカチカチといじる音が聞こえるくらい、静かな室内だった。

──ごめんなさい、迷惑かけて。

喉元まで出掛けた言葉を意識して飲み込む。
こういう時に謝罪を述べると、決まって困った顔をされるのは、経験から分かっていた。

「おっし」

掛け声とともに、膝を打って先生は立ち上がった。今度は大きく体を伸ばす。関節が鳴るのが聞こえて、自分のことではないのに思わず顔をしかめる。

「よし、じゃあ俺が送ってくわ。家どの辺だっけ」
「えっ」
「おい起き上がんな。どうせもう授業無いし。俺車だし」
「いや、そんなの、いいです。自分ひとりで……」
「はいはい。分かった分かった。荷物教室か?」

先生の提案は、もう、決定事項だった。有無を言わさぬ調子に押されて、広げっぱなしで置いてきた荷物はあっという間に用意された。先生が部屋を出たり入ったりするのを横目に、起き上がって緩めていたベルトを締めた。

断り切れなかったのは、この体調で融通の効かない乗り物に乗るのが怖かったのもあるし、どこかで先生に送って貰えるのを嬉しく思っていたのだ。

「車取ってくるから、ここで待ってろ」
「はい」

そう言われたのは、予備校の入ったビルのエントランス。受付には一人職員が座っていて、隣にはパンフレットやチラシの挟まったラックが並ぶ。エレベーターの前には長椅子が置かれていたが、同じように迎えや友達を待つ受講生で埋まっていた。

夏期講習の選択授業を終えた数名がちらほらと階段を下りてくる。

動いたせいでくすぶっていた吐き気がじわじわ押し寄せてくる気配があって、背筋を真っ直ぐ伸ばせなくなっていた。

……トイレに、行っておこうか。

吐きそうな訳ではない。でも、吐いても大丈夫だという場所に行きたい。吐かなければ、それでいいんだし。
意味もなく鳩尾の辺りをさすった。長椅子の前を横切って、TOILETと書かれたピクトグラムのプレートにむかって足は動く。
ドアに手を掛けた時、中から話し声が聞こえて心臓が跳ねた。
話題に上がっているのは、僕の名前だった。

「……でも、高瀬のあれはねーな」
「あー午前の」
「倒れたんだっけ。大分お疲れじゃん」
「そういうことして注目集めようとすんの。ほら、最近成績下降気味だから」
「ずっとトップだったのにな」
「構ってちゃんかよ」

膨らんで弾ける大きな笑い声。

耳に張り付いたその声から、逃げるように背を向けた。

後ずさりした足で走って外に出る。

熱気が、湿気が、肌に纏わりつく。日差しに刺される。

激しい動悸に、息が出来なかった。

「は、っはあ、はぁっ……!」

ずるずるとその場にしゃがみ込む。
植え込みの緑が頬を擦った。
苦しい。気持ち、悪い。
なんだか、こんな景色、前にも……

「おいおいおい高瀬!何で外にいんだよ!」

バタンとドアの閉まる音がして、先生の慌てた声が近付いてきた。

「……せんせい、」
「お前、顔色ヤバいぞ。……一回吐いてこい。待っててやるから」

先生の声と、蝉の輪唱。周囲の雑踏と蒸し暑い空気が全部混ざって五感をかき回す。僕を立たせようと差し出された手に縋るように掴まって、首を横に振った。

「平気です。大丈夫……。大丈夫です」
「大丈夫って顔色じゃねえだろうが。意地張ってねえで……」

そこで先生は口を噤んだ。
ガラスを押し開けて学生が出てくる。さっきの数名の声がした。どうやらトイレから出て帰路につくらしい。
先生はそれを見て何かを察したようで、溜め息と共に僕の髪の毛をぐしゃりと掴んだ。

「じゃあほら、行くぞ」

先生は後部座席を開けてくれた。効き始めの冷房のにおいが冷気と一緒に流れ出る。
しっかりと腰を落ち着かせるなんてとても無理で、乗り込むなり図々しくも横になってしまった。置かれていた僕の鞄を枕にする。

「ほら」

先生が差し出したのは、どうやら買ったばかりの、小さいお茶のペットボトル。

「首の辺り冷やしてろ。あああと、袋。ヤバくなったら使え」

座席の下、ビニール袋に紙袋を重ねた、所謂エチケット袋が置かれた。
紙袋は予備校近くのシアトル系コーヒーショップのもので、ビニール袋は薬局のもの。横になった僕の目はそんなどうでもいい情報を拾った。

「狭くて悪いな。……ってか、お前案外でかいのな。ガリガリだから気付かなかった」

でかいとか言いながら、それでも先生と比べたら相当低い。頭一つ分は違うのに。

「……僕のことそんなにチビな印象だったんですか」
「はは、睨むなよ。……動くぞ、酔ったら直ぐ言え」

その言葉に頷いてからほんの数分後。

胸の辺りでもやもやしていた閉塞感は、完全に吐き気に変わっていた。
最初はあれこれ話し掛けていた先生も、僕が寝たと判断したのか安全運転に集中した。何で気付かないんだよ、と理不尽な怒りまで湧いてくる。どうしようもなく混乱していて、下にした右目に涙が溜まる。先生が掛けてくれたブランケットの下、もう何度目かの強い波をやり過ごした。

左手を、口元から離せなくなっていた。

呼気のふれる手のひらはがくがくと震える。唇が押されるくらい必死に口を塞いで、こみ上げる不快な塊が溢れないようにきつく閉じる。
空調はじゅうぶん効いているのに、全身に嫌な汗をかいていた。

喉の奥が熱い。

先生を呼ぼうにも、声を出したらそのまま吐いてしまう気がして。
喉の薄い皮膚の下、食道が無理やり広がった。
その感覚はあまりに突然で、咄嗟に手を伸ばしていた。先生のシャツを引く。

「……ん、ぅ……っ」
「高瀬っ」

振り返った先生がハンドルを切って路肩に寄せ、車が停まった。

「……っ、……っ!」

体を起こしながら、込み上げてくる胃酸を何度も何度も飲み込んだ。
それは酷く苦しい作業で、きりがなくて、その度に背中が跳ねた。
両手できつく口を覆う。
車から降りた先生が後部座席に回り込んで、足元に転がっていた袋を僕に手渡した。
背中をさすられ、あっと思った時にはもう、声を抑える間もなく大きくえずいていた。

「おえ、っ、ええっ……っ」

胃の中身がどっと溢れ、袋の重さが増すのを感じた。
酸の臭いにまた催して、座席に座ったまま、おかしいくらい吐き続けた。

「ゲホッゲホッ、ゲホ、っは、……っん、んん、ぅ、」
「高瀬、落ち着け、酸欠になるぞ」
「はっ、ぅ、……っく、ゲホッげほ、げほ」
「熱出て来たかもな」

先生の手が僕の頬や額、首に触れる。
ひんやりしていて気持ちいい。

「はっ、はぁ、……ぅ、……っ」

何か言わなければ、そう思って息を吸い、また咽せた。

「げほ、っ……げほ、けほ……」
「あーほら、無理に話そうとすんな。大丈夫」

先生がまるであやすように僕の背中を撫でるので、何だか泣けてしまって視界が揺れた。蜃気楼みたいにゆらゆら、ゆらゆら、光が拡散していく。

「向かいの、ほら、コンビニまで歩けるか」
問われて顔を上げると、確かに反対車線にコンビニはあった。
「歩きます」

久しぶりに聞いた自分の声は、思ったよりずっとしわがれていた。

何度かクラクションを鳴らされながら無理やりに横断し、ようやくコンビニへ辿り着く。
どうしようかとずっと握っていた袋を、入り口前で躊躇無く先生は掴んだ。そしてビニール袋の口を固く縛り、外に面して並んだゴミ箱に放り込む。
背筋を伸ばすことはやっぱり出来なくて、猫背のままよろよろと歩く自分は相当情けない顔をしていたと思う。

「トイレ行ってろ。口濯ぎたいだろ」と先生は言う。

言われた通り個室に入ると、しばらくして先生がコンビニ袋片手に入ってきた。いくつかの買い物をしたらしい。がさがさと袋から取り出されたのは五百ミリペットの水だった。

「鍵くらい掛けとけよ。危なっかしいな。……ほら、水。半分で口濯いで、残りは全部飲め。脱水症状起こすぞ」

買ったばかりの水で口を濯ぐなんてそれは抵抗があったけど、それでも口の中の気持ち悪さには勝てなくて、素直に頷く。
洗面台に水を吐き出していると、唐突に先生は話し出した。

「高瀬、海見に行くか」
「……はい?」
「よしっ、決まり!」

パンッ、と、小気味良い音が響いた。
先生が手を叩いたのだ。

「回復したか?今日は勉強なんて忘れて気分転換しようぜ」

向かいの鏡にはぽかんと間抜け面の僕の顔が映った。海?気分転換?耳に入った言葉をゆっくり咀嚼する。予備校講師としてそりゃあないだろうと思ったが、そんな先生の強引な誘いはきらきらと魅力に満ちていた。

海が特別好きな訳ではない。

でもこの時は、広い場所に立って真っ青な海でも眺めたら、すごく気持ち良いだろうと思ったのだ。

「じゃあ……よろしくお願いします」

かくして二人で再び広い道路を渡り、またクラクションを鳴らされて、車に戻った時には何となくおかしくて笑い合った。大人しく僕らを待っていた紺色の車には、鍵は置きっぱなし、エンジンは付けっぱなしで、先生は大袈裟に肩をすくめる。

「危なっかしいって、高瀬のこと言えねえな」
「あは、ほんとに」

今度は助手席に座り、さっきのコンビニで買った炭酸飲料を少し飲んだ。
泡の弾ける感覚が気持ち良い。
僕を気付かってか、先生の車はびっくりするくらい遅かった。遙か遠くに青がかって見える山々はなだらかに並走し、近くのガードレールや建物は進行速度で後ろに流れる。
何台もの車に追い越され、何台ものバイクにも抜かれていった。
ちょうど大きな川を跨ぐ橋の上に差し掛かった時、僕は周囲の景色に違和感を覚えた。

「せっ、先生?」思わず呼び止めてしまう。
「海に行くんじゃないんですか」

海が近いこの地域は、駅前からでも十五分とかからずに海岸に出る。
この橋を渡って直進、だんだん道幅が狭くなり、カーブの向こうに海岸が見えてくる道筋を憶えていた。小さい頃の記憶だ。しかし今進んでいる方向は海の反対。このまま走れば、海はどんどん離れていく。
先生はにやりと笑みを浮かべた。

「海を見に行く、って言っただろ?」

「ちょっと……ほんとにどこに行くんですか」

鼻歌混じりの先生の車は、駅を離れ、住宅街を抜け、僕の知らない坂道を登っていた。

少しだけ、道が悪い。
舗装されてはいるが、林の中を通っているようだった。一方通行の道で、対向車が下ってきたら一旦停車。ハイキングのような恰好をした中高年ともすれ違う。いったい、どこに向かっているんだろう。さっきのコンビニで先生はミントタブレットを買っていて、「いるか」と聞くので首を振った。先生の手に二粒出してやる。
不規則な振動に酔ってしまいそうで、俯いて顔を背けた。

「悪ぃ、ぶり返したか」
「……っ、」

炭酸飲料に手を伸ばし、気を紛らわそうと一飲みする。
どこでもいいから、早く着いて欲しかった。
そうでないと、また。

「着いたぞ」

その声と同時に車が停まった。
どこに、という疑問より先に、早く外の空気が吸いたくて、ドアを開けて飛び出した。地面に足を下ろし、ふらつき、車体にぶつかる。
向かい風が前髪を流して、開けた視界に顔を上げて、息を飲んだ。

「わっ、……わぁ……」

眼下に広がるのは、一面の青だった。

「すげえだろ」
「何で先生が得意気なんですか」
「はは、元気出ただろ?」

落ち着いて辺りを見回してみると、ここは公園だった。「展望公園散歩コース」と書かれた看板には、園内のマップが係れている。

木製の古いベンチと、柵しかない公園。高台にあって海をぐるりと一望できる。足元のタイルはモザイク調で、芝も刈られて整備が行き届いているがほんとうに何にもない一帯だった。それだけに、海が映える。
太陽の光を弾く水面が、溶けそうな程綺麗だった。
街の建物がジオラマのミニチュアみたいに小さく見える。

「あ、ベンチ空いた。倒れたりしたら勿体無いし、座ろうぜ」
「だから倒れませんって」

意外にも、結構な人数がそこにはいた。離れた散歩コースを団体が歩いている。円形に平らに作られたこの頂上にはカップルが一組、家族連れが一組、写真を撮っているのは二人で、その内の一人は三脚まで用意して、なかなか本格的な装いだった。

先生に促されてベンチに深く腰掛ける。
ささくれた背もたれが軋んだ。
先生は欄干に寄りかかり、煙草を吸おうとして、やめた。
ポケットから頭を覗かせたパッケージは、すぐにその白い角を引っ込めた。

「吸ってもいいですよ」
「ばーか。病人に配慮してんだろうが」
「……誰が病人ですか」
「お前以外に居るか?とにかく、具合悪かったらまず休め。体力切れると乗り切れねえぞ」

腐っても予備校講師。突然真面目な声を出されると、調子が狂ってしまう。

「……今日は、いつもより暑かったから、」

 言い訳めいて聞こえるが、ありがとうございますと返せる器用さは持ち合わせていない。

「暑いのだめなんだっけ、相変わらずだな」と背中を向けたまま先生は言う。

ここに来る前にも感じた引っ掛かりを再び感じた。

「さっきも言おうと思ってたんですけど、僕、先生とそんな話したことありましたか?」

僕の言葉に先生は振り返り、怪訝そうな表情を浮かべた。

「まさか、覚えてねえのか。ってか気付いてねえのか」
「え?」

意味深な先生の笑みに、頭の中には混乱が渦巻く。先生はそりゃそうかと納得顔で、勝手に終わらせようとする。余裕の態度に子供じみた苛立ちがぽつぽつ湧き出す。

「え?ちょっと、どういう事ですか」
「いーや、何でも。よし、そろそろ帰るか」

先生は欄干を離れ、車に向かって歩き出す。
長い腕を空に掲げて大きく伸びをした。そんなはずはないのに、関節の鳴る音が聞こえた気がする。

「ちょっと、待ってくださいよっ。そんな言い方されたら気になります」

歩幅が広いので慌ててその後ろ姿を追いかけ、並んだと思ったらまた髪の毛をぐしゃりと掴まれた。そうして、がしがしと乱暴に掻き回す。
まさか、この人僕の頭を撫でている?

「そんなに突っ張んなよ。折れるぜ」
「な……」

車のロックを解除し、「ほら」僕に助手席を促す。
シートベルトをしていると、先生も運転席に腰を下ろした。重みで車体が揺れる。

「酔わねえコツはな、運転手の気分になる事だ。車の動きに合わせて顔でも動かしてろ」
さっきの話をはぐらかされたようで、少しむっとする。
「そんな事より、さっきの、どういう意味ですか」
「よーし、出発だ」
「先生!」 

先生の笑い声と共に車は走り出した。駐車場でぐるりと方向転換して、もと来た林道を下っていく。二車線の公道へ抜けるまで、帰りは誰ともすれ違わなかった。

車内に置き去りだった炭酸飲料はすっかりぬるくなっていた。

日が傾き、影は長く伸びている。

夕日の光がホルダーのペットボトルと、炭酸の気泡に拡散する。

僕はもう先生の追及が面倒になってしまって、途中から問い詰めるのを止めた。

「気分転換になったか?」

おもむろに先生が口を開く。
何でも見透かされていたようで癪だったが、正直にあの景色は綺麗だった。

「ありがとうございました」

先生の目を見てそう言うと、先生は満足そうに笑い、頷いた。

「疲れたらまた行こうぜ。あ、俺が疲れた時も付き合えよ」
「受験が終わってからならいつでも」
「……まーたそういう事を。今日の恩を忘れたのか」

そう言いつつも先生の顔は嬉しそうで。
ここに来る前に感じていた閉塞感なんてどこかに消えた。
明日からも、また代わり映えのしない毎日を、生きていけそうな気がしていた。

***

蝉の声がうるさくて仕方ない。

駅前の予備校で勤務し始めて一年目の夏。
俺が担当しているのは古典の講義で、日によっては昼過ぎには帰宅する。
それだけで生計を立てるなんてとても無理な話で、これからバイト先に向かおうと、その前にコンビニで何か冷たい飲み物でも買おうと、歩を進めている時だった。

煉瓦を模した歩道で、蹲る薄い肩を見た。自転車が邪魔そうに避けていく。
声をかけたのはほんの気まぐれだった。

「おい、大丈夫か」

無視しても良かった。他の大勢と同じように避けて歩いても。目的のコンビニはすぐ目の前に旗を揺らしている。それなのにどうして話しかけていたのか、今となっては自分でも分からない。
不審そうに俺を見上げる小さな顔。その病的な白さに思わず見入ってしまった。

「……平気です、ごめんなさい」
「そうじゃなくて。携帯貸せよ、親呼んでやるから」

目線の高さを合わせようと、地面に膝をついた。
目の前の彼は、しんどそうな表情を浮かべながら首を横に振った。
夏の日差しに照らされて、長い睫毛が頬に影を落とす。

「……共働きなんです、うち。ごめんなさい、本当に大丈夫なんで……」

よろよろと立ち上がって膝を払う。鞄を肩にかけなおす。その挙動ひとつひとつが今にも倒れそうなくらい危なっかしくて、慌てて腕を掴んだ。
少し、嫌そうな顔をされたのは気のせいではないだろう。

「病気?」

思わず、尋ねてしまった。
事実、眉間に皺を寄せて見返す彼は、病気だと言われてもなんら不思議のないほど弱って見えた。もし発作か何かを起こして動けなくなっていたのなら、この暑さだし、ますます放っておくことはできない。それは俺が善人だからとか、そういう話ではなく、どこかで倒れて搬送なんてされていたら俺の寝覚めが悪いだろうという極めて独善的な理由で。
けれど不思議そうに首を傾げるその様子からして、恐らくそうではないらしい。

「……暑いの、駄目なんです。すいません、ありがとうございました」

すっと立ち上がってお辞儀を一度。急に動くからこっちがひやりとしてしまう。

何に対する感謝なのか、何に対する謝罪なのか。

華奢な背中は湯気の立ちそうな雑踏に消えていった。
やけに睫毛の長い子だった。

彼を再び見かけるのは、一年後の事である。

真夏の日:END

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