「あっつ!」
早川遼太はそう叫び、持っていたシャーペンを放り投げた。20の夏である。
「暑いって言うな。もっと暑くなる。」
葉山冬至も手を休め、呆れ顔で振り返る。冬生まれの冬至はまだ19歳である。コンビニでお酒は買えない。
だって、と机に突っ伏す遼太。
今日は全国で真夏日を記録するでしょうと、清純そうなお天気キャスターが言っていた。
背を向け合って座る二人の真ん中で、扇風機は健気に首を振っている。
「仕方ないとはいえ、さすがにこの季節にクーラーなしは堪えるな。」
手の甲で額に張り付いた前髪を上げる。遼太は呻き声のような気の抜けた返事を返した。
2人は同じ大学の寮にいた。
ベッドと机が左右対称に配置された、簡素な室内だ。トイレと小さなシンクはあるが、キッチンや風呂、洗濯関係のものは全て共用となっている。
そんな学生寮では一週間前、学生たちが夏休み期間に入るやいなや、空調メンテナンスが始まった。
メンテナンス期間中は一切の空調システムが使えないという、この時期にはとても相応しくない事態。
遼太と冬至は帰省もしないため、この蒸し風呂のような大学寮に残る他無いのだ。
あと三日、されど三日。
冬至は横目で遼太の様子を伺った。
苦学生の拠り所となるこの寮だが、遼太は「苦学生」とはほど遠い立場にいる。
本人にはっきりと聞いたことは無いが、学長の息子という噂もある。
それなのに寮生をやっている理由も、ななか複雑に拗れているらしい。
少なくとも出身高校を聞く限りでは、温室育ちのお坊ちゃん、といった印象だ。
もっとも、半袖Tシャツに飾り気のないジーンズで、机の上に顎を置いてのびている姿からは一ミリも想像できないが。
寮生でさえなければ今頃冷房の効いた室内で快適に過ごせているだろうに、気の毒な話である。
「そうだ冬至、図書館行こ。図書館。」
突然ぱっと顔を上げた遼太は、さも名案を思い付いたとでも言いたげな表情で振り返った。
勢いをつけすぎたのか、首を押さえて「イテテ」と顔をしかめる。
「図書館って、橋の向こうの?」
「そうそう。市立図書館、あったよね。そこなら涼しいし、課題も捗る!一石二鳥じゃね?」
もう長らく足を運んでいない図書館を思い浮かべる。最後に行ったのはいつだったか。
遼太は既に行く気満々なようで、バッグに課題や筆記用具を詰めている。少し迷ってゲームも入れた。
図書館に行くこと自体やぶさかでは無かったが、冬至には1つ気がかりがあった。
「けど、あそこ結構距離あるぞ。」
「んー?そうだっけ?でも、涼しい天国が待ってると思えば楽勝楽勝。」
「……」
(……お前の体力でってことだよ。)
そう言いたい気持ちをぐっと堪える。
遼太の体がまともじゃないということは、学部の中でも有名な話だった。
人数の多い学部なため遼太の名前までは知られていないにしろ、講義中に頻繁に体調を崩したり、学内で倒れる奴がいる、という話は大抵の人が知っているようだ。
普通ならめったにお世話にならない医務室や、場所すら知らないまま卒業する人も多い学内の健康センターにまで同室だからと呼び出され、真っ青な顔をした遼太を連れて帰ったことは数えきれないほどある。
だからなおさら、なぜこいつが寮生なんて不便な生活を強いられているのか、あるいは選んでいるのか不思議に思うのだ。
だが、どうやら遼太はそのことに言及されたくないらしい。
一度はぐらかされてからは、そういうものだと気にするのをやめた。
医務室等から連絡があっても迎えに行けないときは行けないし、遼太本人もそれでいいと感じている節がある。
つまるところ、知らない方がお互い気楽な付き合いが出来るのだろう。
本人が行くと言っているのだから、冬至にとっても涼しい図書館は魅力的だった。
「分かったよ。じゃ、行こうぜ。」
こうして、熱気と湿気の満ちた熱帯のような炎天下、二人で蒸し風呂を抜け出したのである。
「……やー、思ってたより、遠いね、図書館。」
遼太がそう呟いたのは、寮をを出てから15分、市内を流れる大きな川の上に架かる橋の半ばに差し掛かった頃である。
やっぱりな、と冬至は思う。
アスファルトからの照り返しで体力が余計に奪われる中、遼太の歩くペースがどんどん遅くなっていることに、少し前から気付いていたからだ。
「だから言ったじゃん。何、バテた?」
「まさか。ただ、もっと近かった気がして。」
口元は笑っていたが、俯き気味で明らかに無理がある。
橋渡ったらあと半分だよ、と言おうとして、やめた。
猫背になった遼太の息は乱れている。
図書館に着いたらまずこいつを休ませて……最悪、どこか休める部屋を借りて……と、考えてた時だった。
突然遼太の背中が傾いた。
バランスを失った体を慌てて支える。
「遼太!」
「……うわ、冬至ごめん、……急に目、回った。」
ごめんごめんと軽い口調で体勢を整えようとするも、危なっかしくて見ていられない。
冬至は無言で遼太の鞄を奪った。
驚いた青い顔が冬至を見る。
(……何で俺は、こいつの面倒見てるんだ。)
「ほら、行くぞ。」
「……うん。」
橋を渡っている間、遼太は何度かふらついた。その度に冬至の肩にぶつかり、冬至は気づかないふりをする。
河川敷のグラウンドでは小学生が野球をやっている。橋下の日陰で観戦している集団がいた。
自転車の交通量も多い橋で、冬至は歩道ですれ違う度に遼太を引き寄せた。
遼太がついに倒れたのは、橋を渡り、横断歩道の信号を待ち、少し歩いた先だった。
はっとして両脇を抱え、なんとか頭の激突は避けられたが、脱力しきった大の男を抱え起こすのは至難の業だ。
「おい、遼太、」
返事は無い。
代わりにくぐもった嘔吐きが聞こえ、まずいな、とにわかに焦りに包まれる。
「遼太、そこの日陰、公園あるから。そこまで歩け。」
しっかり立ててなんていなかったが、構わずに手を引く。
遼太はされるがままに、躓きながら冬至の後を付いていった。
掴まれていない左手が口元を覆っていて、自転車ですれ違った主婦が何事かと目を丸くしていた。
「うえっ、……っ、」
「遼太っ」
公園の敷地に入り、一目が無くなると同時に、遼太は突然嘔吐した。
吐きながら地面に蹲ってしまいそうで、冬至は遼太を支えながら背中を擦った。
2人分の鞄を放り投げて。
暑さのせいか、それとも他の理由のせいか、額を汗が流れ落ちる。
日陰になったとはいえ外は相変わらずの夏の日だ。
遼太の背中が不規則に波打って、その度に未消化の朝食が砂地に広がった。
酸のにおいが鼻につく。
「うっ、……は、はあっ、…………ふ、…」
「…あのベンチまで、動けるか。」
「…………ん、……」
ようやく呼吸を整え始めた遼太を、なんとかベンチまで連れていく。
とてもじゃないが、自分とほぼ体格の変わらない男を担ぐことは出来ない。
眩暈が酷いらしく両目をきつく閉じ、ふらつく様子を見ると気の毒に思うが仕方がない。
ベンチに倒れこんだ遼太の頭の下に、枕替わりと鞄を差し込む。
本当は足を高く上げた方が良いのだろうが、如何せん公園のベンチでは足まで収まりきっていない。
冬至は横の植え込みに腰かけ、下敷きで遼太を扇いだ。
遼太は仰向けのまま、両腕で日差しを避けている。
「……水、飲めそうになったら言えよ。」
「…………ごめん。」
「ほんとにな。」
冬至の悪態の裏にある心配が伝わり、遼太は思わず笑ってしまう。
何笑ってんだと下敷きの角で叩かれた。
全くメンテナンスなんてろくなもんじゃない。
春か秋、空調システムが使えなくても支障が出ない時にしてくれ、と冬至はため息をついた。
あと三日、暑さに耐性のないこいつと、どうやって乗り切ろうか。
くい、と袖が引かれる。
視線を落とすと、少しはましな顔色になった遼太がにやりと笑っていた。
「明日はさ、ファミレスにしよ。図書館より、近いし。」
「冗談じゃない。お前とはもう外出しない。」
「冬至~、そこを何とか。同室の仲じゃん。」
「勝手に行って勝手に倒れてろ、バカ。」
あと三日、外出したがりのこいつをどうやって止めて、どうやって乗り切るか。
考え事が増え、冬至は眉間を押さえた。
三日熱帯の計画:END