窓の外を見ると、どうやら雲行きがあやしい。
傘があったかと考えて、折り畳みを持ってきていたことを思い出す。キャリーケースから出した記憶はないから、きっとどこかに紛れて入っているのだろう。
一昨日、突然言い渡された関西への出張。超がつくほどのお得意先が、新商品の広告案を突然白紙に戻すと言い出したのだ。ラフからデザインまでほぼ決定していたうちとしては、何としてでも白紙化の撤廃に漕ぎ着けなくてはいけない。三橋一真は二時間の残業の後、大慌てで荷物を詰めた。
もっとも、男ひとりの一泊二日。たいした荷物なんてあるわけもなく、黒のイノベーターには替えのワイシャツと髭剃りと、思い付くものを適当に放り込んだ。取引書類だけは、一番最後、無意味に丁寧にそっと置いた。
そうして、三橋は翌朝地下鉄で東京駅に向かった。ラッシュ前の地下通路には、ぬるい空気が流れ込む。
果たして契約は、無事に成立した。
そもそも白紙化というのも、社長が新しい広告代理店を探してコンタクトを取っているという噂がまことしやかに囁かれたからであり、つまるところ単なる思いつきであった。それを、三橋の勤めるビオ広告が過剰反応しただけ。権力者の気まぐれで西へ東へ奔走させられる一兵卒の身にもなって欲しい。
望まれている報告を出せる安堵感とともに取引先を後にする。地下鉄に乗り込んですぐ、スマートフォンの充電器を忘れたことに気がついて、モバイルバッテリーを求めて駅のコンビニに立ち寄った。
経費だからとささやかな思い切りで指定席を取った三橋は、発車時間のギリギリに新幹線に乗り込んだ。三橋は新幹線や飛行機といった、頑丈な座席が詰まった乗り物がどうも苦手で、なんとなく腰が重かったのだ。満員電車で通勤しているのだから、圧迫感や人の体温には慣れているはずなのだが。
向かいから歩いてくる大荷物の旅行客に、通路を譲ってすれ違う。スミマセン、と会釈の三連続。いえいえ、と三橋も顎を引いた。
思うに、微妙な等間隔はエンリョというものを生み出すのだろう。それも、この空間だけに通じる、特殊で過敏な遠慮だ。だってそうだろう、普通に道ですれ違って、こんな風にペコペコお辞儀の応酬が見られるか?そんな世の中なら、殺伐とした満員電車は存在しない。
過敏な遠慮が生まれるということは、常に緊張を強いられるということだ。三橋はとりわけ、この緊張が嫌いで。したがって、極力滞在時間を減らそうと、地味で微かな抵抗をしているのだった。
座席は12列のCだった。指定は窓側から埋まっていくが、通路側が好きな三橋にとってはありがたいことだった。
A席とB席には、既に先客が座っていた。
窓側に座るのはヤンキー風な少年。ブリーチを繰り返したような明るい髪を、パーカーのフードから覗かせて眠っている。
真ん中には、自分と同い年くらいの男がいた。青年と呼べるほど瑞々しくはなく、中年と呼ぶには若すぎる、ラベルを持たない成人男性の世代。疲れたような横顔に、三橋は親近感さえ覚えた。彼は前座席の背中にあるラックから、土産物情報誌や車内販売の案内を抜き取って、さして興味もなさそうに眺めている。
発車のアナウンスが流れた。行先と停車駅の確認、自由席の案内を聞いて、三橋は腰をおろす。キャリーケースを膝と前座席で挟むように置き、売店で買ったお茶で喉を潤した。
新幹線は、空気抵抗を減らしたそのなめらかな車体の計算通り、揺れもせずにゆったりと滑り出した。四角く縁取られた景色は、矢のように後ろに流れていく。
発車から数分。横の男は早くも飽きてきたようで、情報誌をラックに戻して無遠慮にあくびをした。
一体この男は、普段何をしている人なんだろうと、三橋は考える。
平日の夕方に乗っているわりには、観光帰りの雰囲気ではない。かといって自分のような、仕事帰りの雰囲気とはますます違う。第一服装がとんちんかんなのだ。モスグリーンのチノパンに、上はくたびれたジャージで、さっきまで羽織っていたらしいコートは荷台に丸めて放られていた。
実家が関西にあるとか。なんとなく、バックパッカーの雰囲気がないこともない。いや、そんな生命力はないか。
奥の少年も謎である。友達同士で旅行に行くような年代だろうが、周囲にそれらしき連れはいない。独り旅行か、あるいは直前の指定で友人と座席が離れたか……。ああ、遠距離の彼女に会いにいくとか、そういう可能性もあるのかもしれない。
そこまで考えたところで、カーブで車体が大きく傾き、キャリーケースが通路に流れてしまった。三橋ははっとして取っ手を掴む。
元の位置に収めると同時に、さっきまでの妄想を頭から振り払った。人の素性をあれこれ勝手に想像してしまうのは、三橋の悪い癖だった。つまり、それほどまでに暇だったということなのだが。
通路側に動くことがないように、三橋は左足をストッパーにした。大学時代に買ったキャリーはさすがのイノベーターで、わりとぞんざいな扱いでも目立った傷はない。機内持ち込みのできるサイズであり、これひとつで海外旅行に行ったこともあった。ファスナーのロックが鈍くなっているからそろそろ引退時なのかもしれないが、愛着もあってしばらくは手放せそうにない。
新幹線は、あと二時間で東京に着く。
流線形になだらかな車体は京都を通り、そうしてまた進んでいた。
三橋は凝り固まった肩を回し、シートのリクライニングを倒した。持て余した時間は寝るに限る。
明日のゴミはプラスチックだったか。そういえば、コンポの電源を入れっぱなしだった気がする。昨日は雨だったらしいから、自転車を雨ざらしにしてしまったなあ。
目を閉じて、部屋の中の様子をぼんやりと回想する。冷蔵庫の中身を思い出して、緩やかに眠りに落ちていった。
肩を揺すられて目を覚ます。
あれ、もう着いたのか。いやまさか。車体はまだ走行中だ。意識が浮かんでくるにはもう少し時間が必要だった。思いの外熟睡していたらしい。
「お休みのところすみません」
そう謝るのは、B席の男だった。どうやら自分を揺すり起こしたのは彼らしい。ちぐはぐで気だるそうな格好に反して、まともに落ち着いた言葉だった。腰を浮かせた様子にピンとくる。
「ああ、いえ。あっ、前通りますか」
「はい。あ、こっちが」
そう言いながら体をずらし、奥の少年が立ち上がる。なるほど、一番奥の彼が抜けたいのだろう。電話か、トイレか。
三橋は「ちょっと待ってくださいね」と立ち上がり、キャリーを片手で固定しながら座席を空けた。次いでC席の男が抜けて、ようやくA席の少年が通路に出た。ぺこりと頭を下げてデッキに向かっていく。
着崩していて気づかなかったが、少年は制服姿だった。耳にはピアスが光り、きっとあらゆる校則を素通りしているはずだが、校章入りのジャケットにスラックスといった出で立ちは間違いなく制服と呼べる代物だろう。
戻ってくるまで立っているのもおかしいので、男が座席に戻るのに従って三橋も元のシートに腰を沈めた。微妙な緊張(実際はそんなものはなくて、勝手に感じているだけなのだろう)から、なんとなく気まずくなって、三橋はイヤホンを耳に突っ込んだ。iPodからは一昔前の邦ロックが流れ出す。
少年がA席に戻ってきたのは、三曲めの途中だった。
再び肩を揺すられて、呼び掛けられて、自分がうたた寝していたことに気がつく。耳元ではちょうど、お気に入りの8ビートが夢を歌っていた。片耳だけ抜いて、三橋は横を向く。真ん中B席の男の顔を、もうすっかり覚えてしまった。
「はい」
「すみません何度も。また前良いですか」
「はい、はい」
今度も抜けるのは奥の学生だった。
さっきは気が付かなかったが、この二人は連れらしい。男は「ほら行ってこい」と少年の背を叩いたし、少年は「分かってるよ」とそれを払った。その気安さから、二人は兄弟だろうか?なんて、また想像を広げてしまう。
彼が戻ってきたのはそれから十分後だったのだが、丸めた背中と引けた腰に、三橋は直感した。気の毒に、腹を下してしまったのかもしれない。席に座った少年はしんどそうに腹を擦っている。
一度言葉を交わしてしまうと、すぐに音楽に戻るのも感じが悪い気がして、三橋は両耳からイヤホンを外した。ろくに巻き取りもせずポケットに突っ込む。絡まると面倒なのに、いつも適当にまとめてしまう。
隣二席では、抑えた声でぼそぼそと会話が続いていた。
「おい嵯上。治まんねえか」
「…………薬も効かないし……さいっあく……」
「まったく、お前、腹でも出して寝てたんじゃねぇだろうな」
「出してない!」
「わーったから。ほら、これ掛けとけ」
名字で呼んでいるところを見ると、どうやら二人は兄弟ではないらしい。素性を詮索する癖は昔からで、いつもは結構良い線を突くのだが、今日はことごとく想像が外れている。
B席の男は、嵯上という少年にコートを被せてやる。ぞんざいな口調とは裏腹な優しさに、二人の距離の近さが垣間見える。
嵯上はシートに体重を預けて横を向く。今時の若者らしい、薄い背中がこちらを向いた。彼は靴を脱ぎ、シートの上で体育座りになっていた。
気になって横目で様子を窺うと、膝掛けになったコートの下、嵯上の手が何往復も行き来しているのが分かった。かなり、辛そうだ。かわいそうになあ、と、他人事の気安さで同情してしまう。
男は彼を相当案じているようだった。背もたれには一ミリも触れていない。
新幹線は東へと上っていく。
それからまた十分くらいして、三橋は退屈さから船を漕いでいたのだが、隣の座席が動くのがわかった。見ようとしなくとも視界に映る、それくらいの間隔だ。
「……せん、せ」
窓枠に額を押し付けるように丸まっていた嵯上が体を起こし、真ん中の男の袖を引く。何よりも先に、その呼称に耳を疑う。野次馬精神といったらそれまでだが、だって仕方
ないだろう。聞こうとしなくても、耳に入ってくるのだから。横でこんな風に話が進んだら、関心を持つなと言われる方が難しい。
(せ、先生?!この男、教員?)
とすれば、嵯上少年は男の教え子ということになる。先生と生徒、二人で新幹線に乗る状況にはなかなか思い当たらない。
それに三橋の周りには、こんな風にぞんざいな物言いをする「先生」はいなかった。先生というより兄貴と呼ばれた方が違和感のない、そんな雰囲気がある。
——なんだか今日は本当に、予想が外れてばかりだ。
押し殺した声から、彼の訴えるものが何かは想像に易かった。
ああ、これはまた退いた方がいいだろうな。でも自分から「どきましょうか」なんて割り込む度胸というか、勇気というか。あと一息が三橋には難しい境界線だった。
都会の人は冷たいなんて言われるけれど、他人に踏み込むハードルの高さがなすものだと、三橋は思う。人間の本質なんて本当は大差なくて、環境が壁を高く高く積み上げるのだ、きっと。
先生と呼ばれた男は三橋の方を振り返り、申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「どうもすみません、」
「はい、いえ」
三橋はいそいそと席を立った。近くの座席から、何事かと視線が飛んでくるのを感じる。
前の座席に掴まり、揺れる車体に足元をふらつかせながら、嵯上はもう一度通路に出た。一回りも二回りも大きな、先生のコートを肩に引っかけて、丸まった背中が離れていく。先生も付いていってやりたいだろうに、荷物を残しては出られないのだろう。
「…………席、変わりましょうか」
座席に戻ったタイミングで、三橋は男に話しかけた。
えっという顔で目が開かれた後、「よろしいでしょうか。申し訳ない」男は膝に手を乗せ頭を下げた。その言葉の抑揚とか、細かな動きはなるほど先生といった印象で。そういえばこういう先生もいたかもなあ、なんて、遠い高校時代を思い出す。
かくして三連席は入れ替わり、A席に三橋、通路側C席に嵯上少年、真ん中は変わらずに先生が座る運びとなった。浮かない表情で戻ってきた少年が驚きの色を見せたのも当然のことだった。彼が顔をあげたので初めて視線が合ったのだが、小さな顔にくっきりとした二重瞼の、まさに今時の若者らしい風貌が推測できた。推測というのは、今その顔色は真っ白で決して健康的なものではなく、双眸はしんどそうに眇められているためである。
ため息に近い投げやりな息遣いが、窓側まで聞こえてきた。
車体が揺れて、ぐったりと体重を預けていた少年の頭がガクンとシートから外れる。先生はその肩を引き寄せて、自分の方に凭れさせた。ぐいっと引かれた嵯上少年は、先生の肩に頭を押し付けるようにして寄り掛かった。
終点まで、あと一時間。
一度言葉を交わしただけなのに、どうにも気になって仕方がない。
一向に回復しない嵯上少年の容態が気がかりだった。
座りが悪そうに何度も体勢を変えて、さっきまでは背面テーブルに突っ伏していた。眠っているのかと思うほど静かだったが、数分前むくりと顔を上げ、何も言わずにフラフラと出ていってしまった。
薄い背中を見送った先生が大きく伸びをして、その肘が少しぶつかって。スミマセンと 目を合わせたのを契機に、三橋は話しかけた。
「あの、彼、大丈夫ですか。ずいぶん辛そうですね」
「いやあ、かわいそうですが参ったもんです。すみません落ち着かなくて」
「いえ、それは全然、気にしないでください」
先生は浅く頭を下げて、突然あっと声を上げた。至近距離の、存外に良く通る声に面食らってしまう。広い会議室でも、マイクなしで十分通用する声だ。
「申し遅れました。私、志間といいます。高校の教員をしていまして、こいつは嵯上です」
こいつ、と言いながら隣の空席を叩く。三橋も慌てて居住まいを正した。
「こちらこそご挨拶もせずに。不躾にすみません。三橋一真と申します。会社員をしております」
名前のつかないお辞儀をしあって、暫しの沈黙。
「ということは、彼は志間先生の教え子?」三橋は興味本位で聞いてみた。
「まあ、一応、そういうことになりますね」
「ずいぶん仲が良さそうだったんで、兄弟かと思っていたんですよ。盗み聞きしていたみたいで、何だかすみません」
「あー、いやあ、そうですよねえ。いえ実は、あいつのことは、あいつがチビの時から知っていて。昔近所に住んでいたことがあって、家族ぐるみで付き合ってたんですよ」
「はあはあ、なるほど。そういう訳だったんですねえ」
「一昨日から修学旅行だったんですが、あのアホは昨日からあの調子で。気の毒ですが、先に帰すことになったんです。外来にも行ったんですが、まあ抗生物質が出るくらいですよね。まったく、バカは風邪もひかないくせに、気の毒だ」
バカだのアホだのずいぶんな物言いに、そうですねえと頷くわけには勿論いかず、三橋は曖昧に笑って返した。
「かわいそうに」
それでも思わず同情の言葉がこぼれ、志間は眉間に皺を寄せて頷いた。「先生」の顔をしてちらちらとデッキを気にしている。手洗いが混んでいるのか、それともまだ出てこれる状態まで落ち着かないのか、嵯上少年はなかなか戻ってこない。何度か扉が開いたが、すべて席を探す乗客だった。
新幹線は新横浜を通過した。
「おっ」と志間が声をあげ、嵯上少年がいつの間にか座席の隣に立っていた。家族連れに紛れて戻ってきたので、気が付かなかったのだ。
「吐いた」
よろけながら座った嵯上は、開口一番そう言った。語尾が微かに揺れて消える。明るい髪色が俯いて鼻をすすった。
志間はそうかと一言答えて、それきり言葉が続かない。どういう対応をするのが最善か、きっと考えを巡らせているのかもしれない。
大袈裟に心配するのも、かえって不安にさせてしまうし。大丈夫かと問われれば、大丈夫と頷くに決まってる。途中で降りても帰宅が遅くなるだけだ。ツアー券だとしたら、途中下車も難しいだろう。
「まだ気分悪ぃか。腹はどうだ」
「…………わかんない、」
「また吐きそうになったら言え。袋くらい持ってるから」
「も、やだ、せんせえ、疲れたぁ……」
「分かった、分かった。もう少し頑張れ。できるか」
弱音をぽつぽつ落とす様子が、まるで駄々をこねる子供みたいで。二人はきっと、ずっと前からこの関係なのだろう。それこそ、チビだったという小さな頃から。嵯上少年は甘えかたを知っていたし、志間もよく心得ていた。
三橋はこういう繋がりを知っている。
またあれこれと妄想してしまいそうになって、三橋ははっとしてブレーキをかけた。こんな風に思考が拡散してしまうのは、当事者ではないからだ。
『まもなく、終点、東京です——』
アナウンスが聞こえて、三橋と志間は同時に顔を上げた。
二人で顔を見合わせ、ほっと胸を撫で下ろす。少し前から俯く嵯上の顔色が目に見えて真っ青で、もたないかもしれないとヒヤヒヤしていたのだ。二人の間には奇妙な連帯感が生まれていた。
永遠に停まらないんじゃないかとさえ思えた新幹線はようやく終点に到着し、動き出しと同じくゆるやかに停車した。 志間は伏せる嵯上の腕を引く。
「ほら、着いたぞ。よくがんばった。もう少し頑張れるか」
「志間先生、荷物持ちますよ。生徒さんのも」
「いいんですか」
「どうせ、帰るだけですから。気にしないでください」
「申し訳ない。助かります。……おい立てるか」
問いかけに、嵯上少年は顎を引いて頷いた。
近くの乗客もさすがに状況を察していたらしく、どうぞと先を譲られた。無言の親切と、同情と心配の半々になった視線に頭を下げながら、三人連なって新幹線を降りる。冷えた外の空気が懐かしく思えるほど、長い時間だった。彼らにとってはもっとだろう。対照的な二つの背中を追いながら、三人ぶんの荷物を運ぶ。
「ご、めん、待って……」
改札を抜け、乗り場の階段を降りたとき、嵯上少年がそう言って立ち止まった。えっと振り向く志間の腕を掴んだまま、彼はその場にしゃがみ込んだ。
「おい、どうした。しんどいか」
電車を降りてから、わりとしっかりとした足取りだと思っていたのに、突然動けなくなった嵯上にぞっとした。両手で覆って表情が見えないのも、また怖い。志間の声も焦っていた。三橋も思わず「大丈夫ですか」声をかけた。
「や、……ちょっと、目が、……待って、」
くぐもった声で、目が回るのだと告げる。
そういえば、彼はあんなに吐き下していたのに、水分を取っていただろうか。恐らくもどってくるのが怖くて、少しも取っていなかったのではないか。脱水か、貧血か。気にしてやれればよかったと、もはや他人事ではなくなった距離感で後悔する。
幸い広告柱の前だったので、柱に荷物を寄せて脇に立った。志間は蹲る嵯上を隠すように、一歩ずれる。
「……志間先生、志間先生」三橋は呼びかけた。
「はい?」
「ここからどのように帰られるんですか」
「うーん……タクシー捕まえますよ。うちの方が近いんで、俺……いえ、私の家に一旦……」
こんなに具合の悪そうな生徒を連れて、これからさらに動くことなんてできるのか。そもそも、嵯上がこれ以上の電車移動に耐えられるとは思えない。そう思って尋ねたのだが、志間は突然あっと声をあげて話を止めた。ポケットからスマートフォンを取り出して、「しまった」という顔。
「ど、どうしましたか」
「職場から着信が。しかも4件」
志間は画面を睨み、足元の嵯上に視線を落とし、最後に三橋をちらりと見て、難しい顔で画面に戻った。
三橋は胸ポケットから名刺を抜き取った。
「彼、僕が見てますんで、電話してきてください。これ、僕の名刺です」
「えっ。そんな、いいんですか、ご迷惑をおかけして」
「大丈夫ですよ。荷物も見てますんで」
「申し訳ない。そしたら少し、電話出てきます。こいつの親と、あと学年主任にも連絡してきますんで」
そう言いながら、志間はスマホを耳に当てつつ離れていく。邪魔にならないような通路の壁沿い、駅弁屋の隣で話している様子が窺える。荷物を靴の指先ですこしいじって、爪先を見た。昨夜磨いた革靴は、もうずいぶんくたびれて見えた。
学生の時は、行き交う大人の履いている革靴がやけにかっこよく見えた。大人の世界の通行証のようにも思えていた。これを履けば、自分もかっこよく働く大人になって、颯爽と街を歩けるのだと。
実際には、スーツも靴もワイシャツも、自分にとってはただの入れ物で。三橋はもう学生靴を履いていない。ただそれだけ。これもまた、想像をあっさりと裏切っていた。
俯く嵯上少年のうなじが学生服から伸びている。
丸まった背中。線の細い、無駄のない肉付き。
「…………」
「……君っ、大丈夫?」
その肩が微かに跳ねた気がして、三橋は腰を屈めた。少し迷って背中を擦りながら、横顔を覗き込む。頬が膨らみ、必死で口元を押さえていた。床にくっついてしまいそうなほどに背中が丸まっていくので、三橋は膝をつき慌てて鞄を開く。何か、袋。何か。
「……う、……うぇ、…………ぅぅ」
「君、これっ」
コンビニでバッテリーを買ったときのビニール袋が、無造作に内ポケットに突っ込まれていた。三橋がそれを広げると、嵯上は奪うように掴みとる。手の甲に爪がかする。前髪の隙間から、涙の絡んだ睫毛が見えた。
「オエッ、っう、………ぐ、」
空えずきを幾度か繰り返してようやく、水気の足りない粘性の塊がバタバタとビニールに落とされる。重みが袋の内側から透けた。何か、何か飲ませた方がいい。彼は飲み物を持っていないのだろうか。三橋の鞄にはホテルで買ったミネラルウォーターが入っていたが、口が開いているので突然ためらった。
吐いている。
喉の奥から押し出される淡黄色。
自然にあり得ないその有り様に、胃の辺りがぐっと重くなる。
手を震わせ苦しげに喉を締める嵯上を見て、三橋は成す術なく固まっていた。雑踏が素通りしていく。ヒールの爪先が、革靴の光が、泳ぐようにすれ違う。
「嵯上!」
三橋が声をかけるのも忘れて呆然としていると、電話を終えた志間が駆け寄ってきた。
「三橋さんすみません。お待たせしました。……おい嵯上、おい」
嵯上、嵯上と呼び掛けながら、志間は手提げ鞄からペットボトルを抜き取った。麦茶のロゴラベルが見える。
「飲みかけだが我慢して飲め。そんで吐いて、口ゆすげ」
「うぇ、気持ちわりぃ、」
「だから水飲めって言ってんだろ」
「……んん」
嵯上の口調は掠れつつもはっきりと聞き取れて、そのことに三橋は安堵した。通りすがりの男性が立ち止まり、「駅の人呼びましょうか」と声をかけてきた。嵯上が首を横に振ったので、志間は丁寧にお礼を述べて断った。男は会釈して立ち去り、志間も頭を下げる。そのまま、志間は「三橋さん」と顔を向けた。
「本当に申し訳ないんですが、売店か自販機で水と、ジュースか何か買ってきてくれませんか。冷たいやつ。こいつに。」
「はっ、はい。ええと、スポーツドリンクとかの方がいいですかね」
「ああ、そうですね。お願いします」
「はい」
立ち上がろうとして、膝がすこし、震えていた。
志間が一瞬、怪訝な顔をする。
その視線から隠れたくて、足早に売店を目指した。
***
兄のように思えた先生。そういえば、こういう先生もいた。
高校二年生の五月、三橋のクラスに教育実習にやってきた大学生がいた。
その人は浪人と留学をしていたとかで、二十五歳の教育実習生というイレギュラーなイベントはたちまち話題となった。当時の自分にとって、その人はすごく大人に見えて。すごく大きくて。憧れとも妬みとも、あるいは劣等感とも呼べる苦い感情を持て余し、三橋はみんなが囲むその人にひとり距離を取っていた。
実習期間中、圏外のエネルギー施設を見学する課外研修があった。道中は大型バスには向かない悪路で、運転手の運転の粗さもあり、大勢が乗り物酔いを訴えた。三橋は乗り物には強く、少しも酔った感覚はなかったが、別の理由で冷や汗が止まらなかった。
人が吐いている姿を見るのが、ものすごく怖かったのだ。
担任の申し出により、予定になかったサービスエリアに立ち寄ることになった。飲み物やお菓子を買いに行く人、気分転換に外の空気を吸いにいく人、トイレに駆け込む人。目的は異なれど皆バスの一時停車に安堵していた。
三橋の隣に座る同級生は、バスに乗ってすぐ体調を崩していたのだが、何人かに心配されながら車を降りたその場で大きく体を折った。白いラインの引かれたアスファルトに、胃からせりあがってきた未消化の内容物がドバっと広がる。低い呻きとともに口から溢れるその中身が目に飛び込んだ瞬間、三橋の全身に鳥肌が立った。
彼を心配する「大丈夫」の問いかけを背に、気の利いた言葉をかけることもなく、三橋はその場を離れていた。
逃げるように向かった喫煙所近くのベンチに腰を下し、両手で口元を押さえる。
深い深い呼吸をして、激しい動悸を何とか落ち着かせようと、きつく目を閉じた。
震えは少しも治まらなくて、あまつさえ腹の底、喉の奥に不穏な違和感までくすぶり始め、三橋は俄かに焦りに包まれた。
どうしよう。どうしよう。
袋もない。
立ち上がれない。
五件目のどうしようが頭を巡った時、肩にポンと手が置かれた。どきりとして顔を上げると、あの教育実習生がいた。よいしょ、と呟いて体が動き、ベンチが軋む。
「三橋くんだっけ。大丈夫?」
教育実習生——仁見和彦は、そう言いながら三橋の顔を覗き込んだ。
仁見自身も、顔色を青くしながら。
「酔った?それとも、もらっちゃった?実は、オレ、乗り物全般ダメでさあ。ひどい道だったね、今の」
宥めるように背中を擦られ、諭されている気分になってくる。そして、仁見の穏やかな口調に、張り巡らされていた緊張が一度に解けた。
「……俺、昔から、誰かが吐いてるの見んの怖くて。さっきのバス、気が気じゃなかった。……おかしくなるかと思いました」
「そっかそっか。おんなじだ。オレも、誰も吐くんじゃねえぞって思ってたもんな」
しばらく一緒に座ってようか。そう誘われて、吐き気も鳥肌も恐怖も全て、膜に覆われて小さくなっていくような、そんな気がした。
***
売店で水とスポーツドリンク、それから志間にとカフェオレを買い、三橋は人混みの中ふたたび広告柱のもとへ戻った。
嵯上の体調は、顔を上げられるくらいには回復していて、血の気の引いた顔でペットボトルを受け取った。膝に顔を埋めるようにお辞儀をする。いえいえ、と三橋は返した。
お役御免だと感じたので、またそれはおそらく事実であり、三橋は帰路につくことにした。彼ら二人がどうやって帰るのかはわからない。
丁寧にお礼を繰り返し、志間は何度も頭を下げた。ずっと黙っていた嵯上も立ち上がってお辞儀をしようとしたので、志間と二人で同時に制する。叱られた小さな子供みたいな表情で大人二人を見上げる嵯上に、三橋は思わず笑ってしまう。
お大事にしてくださいと言い残して、三橋は14番ホームへ足を動かした。愛用のイノベーターはカラカラと滑らかについてくる。
電車に揺られること十五分。住宅地を歩くこと十分。三橋は自宅の賃貸マンションに戻り着いた。エレベータ―に乗り込み、三階へ。三〇三号室には明かりがついていた。鍵を差し込んで百八十度回転させる。施錠音に気が付いたのか、中から足音が聞こえた。
「おかえり、三橋」
もう見慣れた穏やかな笑い皺。
「ただいま、センセイ」
ジャケットを脱ぎ、鞄を下しながらそう言うと、奇妙なものでも見るように視線が眇められた。「何、急に」と、ふたつの目が疑問を投げかけてくる。
「……なんか顔色悪いね。酔っ払いのゲロでも見た?」
「別に、そんなことはないでしょ。ただ疲れただけ。仁見センセイ、帰ってたんだね」
「うん。昼の飛行機で。まだ時差ボケしてるよ。……それで何、先生って。何かあったの」
「なんとなく、そう呼びたくなっただけ。おかえり、お疲れ様」
「そう呼ばれると、なんだか懐かしい気がするね。三橋も出張お疲れ」
「……うん。そうだね」
東京行き新幹線、指定席十二列。
隣に座った二人のことを少しだけ、頭の端のほうで思い出しながら、長い出張が終った。
指定席東へ車窓から:END
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