八時五十分、一限の授業が始まる。聞きなれたチャイムを耳が捉え、やばい!と頬が引きつった。両足にいっそう力を込めて走る。脚力には自信がある。高校の陸上部では短距離選手だった。この足には過去幾度も遅刻の危機を救われている。
講義棟の階段を二段飛ばしで駆け上がり、途中の連絡通路を全速力で走り抜ける。遅刻常習犯ゆえに知り尽くした最短ルートで教室に急いだ。
息を切らして教室に滑り込む。どんなに気が急いていても、音を立てて扉を開け放つような真似はしない。目立たないように後ろのドアから。ちょうどアシスタントの院生が、出席カードを片付けようとしている所だった。お願いしますと懇願のポーズ。無事カードを手に入れ、ようやくほっと息をつく。
この授業は既に三回欠席していて、あと一度休んだら即単位とはさよならだ。意地の悪い……もとい、厳格な院生が手伝いだとカードを貰えないこともある。十分の遅刻までは誤差の範囲にして欲しいところだ。学生だって、朝はたいへんなのだから。
前の方から詰めて着席よう指示するタイプの先生なので、後ろの方ががら空きだったのは助かった。首尾よく一番後ろの列に座る。鞄を開き、ルーズリーフとペンケースを取り出していると、「ギリギリじゃん」横で笑い声が揺れた。
「げ、南先輩」
「おはよ」
「先輩もこの授業取ってたんですか」
「あいさつくらい返しなさい、こら」
背中をばしんと叩かれて、間延びしたおはようございますを返す。学年共通、学部共通のこの講義は、一年生から四年生までのあらゆる学生が揃っている。
南先輩は、学部は違うがひとつ年上の、サークルの先輩だ。俺が遅刻常習犯であることをネタにしていじってくるから、今はあんまり会いたくない人だった。
「小倉、この授業ヤバイの?」
楽しそうににやりと笑いながらそう問う先輩。前から資料のプリントが回ってきた。
「うっさいです。しょうがないんです、一限だから」
プリントを受け取りながら、先輩はふうんと笑った。「来年頑張らないとだったりして」なんて、余計なお世話である。一限だからしょうがない、この一言に、俺の苦悩が全部詰まっている。言い訳だと思われようが、開き直りだと思われようが、ほんとうに仕方がないのだからどうしようもないじゃないか。
九時三十分。机に伏して背中を丸める。もう「しょうがない」と諦めた、けれど本当に勘弁してほしい体質が本領を発揮してくるのは、いつもこの時間帯だ。おまけに、今日は走ったから。遅刻を避けようと全力疾走したせいで、腸の動きも活発になったのかもしれない。
「小倉?」
横に座る先輩にも、怪訝な声と視線を向けられる。
「……なんですかぁ」
「なあに、また腹痛いの?」
「うー……」
それは、物心付いたときから悩まされる下痢体質。大会前やテストの前に、決まってトイレに駆け込む奴、クラスに一人はいただろう。それが俺。朝は大抵下しがちだし、好物の揚げ物やスパイスの効いたエスニック料理もこの胃腸は断固拒否。好きだから時々食べてしまうけど、後で苦しむのも自分だった。
小学校の時は個室がハズカシイとか思ったりもした気がするけど、今は全然……とまでは言えずとも、毎日のことだと図太くなって、もういっそどうでも良くなってくる。緊急事態です、スミマセンね、と。だってお腹痛いし。
一限に間に合わないのは、まあ寝坊ってせいもあるんだけど、朝の下痢で家から、というよりトイレから出られないのが一番大きな要因だ。
今日は寝坊もしたし、そのせいで朝、トイレに行く時間が無かったし。
活動中や飲み会でもしょっちゅう腹痛を訴えて引っ込んでるから、サークルで俺の腹痛は、もはやお家芸のようなものだった。遅刻と並んでいじられる材料になっていたけど、これまた事実だからしょうがない。こっちは本気でくるしいんだから、放っといてくれと思う。
もう朝晩は涼しくなってきたというのに真夏と同じ勢いで稼働する冷房も、容赦なく内臓を冷やしていく。走った汗も冷えきって、じわじわと痛みを増す腹痛に拍車をかけた。
枕にしていた両腕を腹に回す。伏せているから額に机のあとが付いてしまうが、それを恥ずかしいなんて言っていられない。
うんうん唸ってなかなか顔を上げない俺に、さすがに冗談ではないと感じたのか、先輩は横から肩をつついて「もしもし」なんて言ってきた。
「そんなにきついの?薬とか飲んでみたら」
「……もう、飲んでますー……」
「……あ、そう」
愛用している(全くもって不本意だが)整腸剤は、対処療法というより予防線だ。やばいな、と直感した時とか、どうしても下痢を避けたい時にあらかじめ飲んでおく。飲み過ぎると効かなくなるってよく聞くから、下したくないのはそりゃ通年二十四時間なのは当然だけど、タイミングを見極める必要がある。
「……っ、……うぅ……」
ぎゅるっとお腹が鳴った。真ん中がごろごろと不穏に動く。まずい気配。本格的に下ってきてしまった。緊張しきったお尻の内側に、早く出せと軟らかくなったうんちが押し寄せる。危険信号。爪先で床を蹴る。お腹、痛い。
「お腹鳴ってる。だいじょうぶ?」
そんなの、無論、大丈夫なわけがない。でももう、返事を返す余裕もないくらい、頭のなかはトイレのことでいっぱいだった。少しだけ体を起こして、スマホの画面を起動。ロック画面には九時四十五分と表示された。
「……おなかいたい」
ため息と同時に弱音がこぼれた。下を向いていたから鼻水が流れてきて、ズッと鼻をすする。泣いてると思われたらどうしよう。でも実際、痛くてたまらなくて泣きそうだ。
全身に鳥肌が立ってちくちくした。
肛門に加わる圧力が、時間の経過と、それから痛みに比例してどんどん積み重なっていく。毎日経験していれば、じっとしていればやり過ごせる痛みと、そうでない痛みの区別が感覚で分かるようになってくる。経験値が貯まり、少しも嬉しくないスキルはかなりの精度で磨かれている。ほんとに全然、嬉しくない。
今日のこれは、後者。まずい方。息をするのもしんどい痛みと、整腸剤を無視した下痢。
「……一回トイレ行ってきたら。行けば治るんでしょ」
普段からかってくるくせに、急に気遣われると調子が狂う。息がかかるくらいに顔を寄せ、そう尋ねる先輩に首を振る。確かに先輩のいる時に、これほどひどい痛みに苦しめられたことは無かったかもしれない。しばらくトイレに籠って痛みの元凶を出しきれば、けろっと戻っていたから。けどその時だって、痛みは真剣なものだったのだ。ただ笑って誤魔化す余裕も残っていただけのこと。
「……たぶん、行ったら戻ってこれない……。出席、してないと、単位がぁ……」
言い終わらないうちに、絞られるような痛みに襲われ語尾が情けなく消える。水っぽい音がお腹から響いたの、きっと先輩にも聞こえたと思う。ああ、無理。これは、無理なやつ。
血圧がぐんぐん下がっていく感覚がした。ひどい顔色をしていると思う。痛くて、動けない。このままじゃ、ほんとうに。
「カードと感想、適当に書いて出しておいてあげるから、ちょっと出てきなさい。ね、小倉」
「……、……っ……」
「動けない?」
「……動き、ます……」
先輩とのやり取りが聞こえたのか、前や横の席から何事かと視線が飛んでくる。緊急事態なんです。あんまり見ないでください。心のなかでそう断りを入れる。
出席に厳しいこの先生の授業で、そんなことが通用するのか分からなかったが、とにかく今はトイレに行きたい。単位と、人間としての尊厳を天秤にかける。刺激しないようそっと立ち上がると、重力に従って溶けきったうんちがずるっと動いた気がした。お尻の穴が開いてしまいそうになって、びくりと体が強張る。
大教室で良かった。最後列で助かった。いくら体質と割り切って付き合っているとはいえ、この年でうんちを漏らしそうだなんて気付かれたいわけがない。目立たない場所に座れたのは遅刻のお陰だった。
腰が引けた姿勢のまま、よろよろと教室を抜け出す。緊張した太股が、足を動かす度に痙攣するようだった。廊下の端に、男子トイレはある。焦る気持ちとは反対に、一歩の幅はどんどん狭くなっていく。ゴポ、ゴポ、と腸が蠕動するのを全身で感じて、嫌な汗が背中を伝った。その感覚も気持ち悪い。
いくら体質だからって、痛みに強くなるわけじゃない。腹痛には慣れないし、情けなさは重なる一方だし、涙で視界がぼやけた。
「……ぁ……!」
トイレが見えた途端、お腹は今日一番の悲鳴を上げた。捩れるような痛みも、一番。廊下の壁にもたれてお腹を両手で抱える。しゃがみ込んで、しまいそう。でも今、床に腰を落としたら、確実に漏らす。水っぽい音がしてガスが漏れて、さっと血の気が引く。どろどろになったうんちが、お尻の穴を抉じ開けるすぐそこまで、すぐ手前まで、下りてきた、感覚。
ぶしゅ、括約筋の力ではどうしようもなくなって、ガスと一緒に少しずつ、熱いものも通った。誰か、と辺りを見渡すも、授業中だ。だれも歩いていない。近くの教室から英語でも日本語でもない言語が聞こえてきた。つまり、助けはこない。
一歩、一歩、気力を振り絞って足を運ぶごとに、決壊は大きくなっていく。半べそだった。いい年なのに。成人してからこんな、こんなことになるなんて、思ってもいなかった。転がるように飛び込んだ個室。鍵をかけるのも忘れて、ガチャガチャとベルトを外す。お腹はやっぱり、何かが暴れているようにジクジクと痛む。焦ってうまく外れない。
無理矢理下ろした下着とズボンはべったり汚れてしまっていて、酷いにおいにげんなりする。けれどそれも一瞬で、熱い下痢便がさらに、肛門に押し寄せた。
破裂音と共に我慢してきたものを吐き出したのは、便座に腰を下ろすのと同時。羞恥と、痛みと、あらゆる感情が混乱して嗚咽が溢れた。お腹に力を入れなくても、ぼたぼたと便器に落ちていく。
嫌だ。嫌な体質だ。ほんとうに、嫌だ。
お腹のものを出しきっても、いつまでも痛みは渋って引かない。冷えて、体が震えた。そっと下腹に手をやると、驚くほど冷たかった。
ぐるぐると動くのを手のひらに感じて、まだ下しそうな予感にぞっとした時、コンコンと扉が叩かれた。「小倉ー?」聞こえたのは先輩の声。孤独な戦いから解放された気がして、安堵で体温が少しだけ上がった。これも、そんな気がするってだけだけど。
「せんぱいぃ……」
喉が渇いてくっついてしまっていて、久しぶりに出した自分の声は予想以上に情けなかった。扉の向こうに先輩の気配を感じる。
「あ~はいはい、小倉くん大丈夫ですかー?なんかいるもん、ある?」
「……ズボンと、パンツ……」
「よしよし。頑張りました。先輩がプレゼントしてあげましょう」
普段からかってばかりのくせに。またお腹ですかってふざけて突っついたりしてくるくせに。先輩はやっぱり先輩だった。一つしか違わないのに、甘えていいなんて。
購買で先輩が買ってきたのは、黒いボクサーパンツと灰色のスウェットだった。スウェットには大きな文字で大学名がプリントされている。下痢止めと水も袋に入っていた。
脱いだものをそのまま袋に突っ込んで、ようやく個室の外を見る。トイレから出ると、先輩が壁に寄りかかってスマホをいじっているのが見えた。気恥ずかしさから顔を見られないでいると、先輩が頭をぽんぽんと軽く叩いてきた。身長縮みそうだからやめてくれって、いつも言ってるのに。チビなの気にしてるんだから。
そこで、はっとする。
「出席!」
チャイムはまだ鳴ってない。つまりまだ授業時間のはずだ。
この授業は必修で最後に残った一限なのだ。今期で取りきって、来期からは一限のない生活をしたいと、そのために毎週早起きと、腹痛と戦っていたのだから。
先輩はあら~とのんびりした笑い顔。まさか。
「また来年頑張ろうか」
「~~!」
もう、何を怒っていいのか分からない。先輩に頼んだのに。でも先輩が来てくれなかったらトイレから出られなかったし。でも来年、それは本当にいやだ。もうどうしろっていうんだ。ああ、またお腹痛くなってきた。
「なんてね」
あはは、と 思いっきり笑い飛ばされる。「真っ青!小倉、ほんとにやなんだね」髪の毛をぐしゃぐしゃに掴まれて、言っている意味がよく分からなくて、俺はただ先輩を見上げる。
「うそうそ。二枚とも前のやつに押し付けてきた。うまいことやってあげたでしょ」
「なっ……!」
「ま、ダメだったらもう一回ね。実は俺も今リーチだったから、一緒に受けよ」
一気に脱力。これだってもう、仕方がない。と言うか、先輩だってリーチだったら、人のことなんて言えないじゃないか。
ぐいっと何かを押し付けられたと思ったら、俺の鞄だった。荷物も、しっかりまとめられている。講義のプリントも入ってるよ、と付け足される。
「先輩は次の時間実験だから。じゃあねえ小倉~」
ぽん、と一度頭に手をのせ、先輩はスタスタ行ってしまった。
その背中に、お礼を言えていなかったことを思い出す。次会ったときに、ちゃんとありがとうを言おう。神様、願わくば一限のない来期を恵んでください。
十時二十分。終業のチャイムが聞こえた。
先輩:END
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