「オイ嵯上。オメーその頭何色だ」
夏休みが終わって一週間。暑さを忘れない九月の頭、放課後。蒸されそうな湿度の相談室で、二人は顔を突き合わせていた。天井に設置された扇風機が、かたかたと首を回す。生徒指導担当の志間は、「頭だよ、あーたーま」自分の髪の毛を引っ張った。
休み中に調子に乗って羽目を外し、そのまま戻り方を忘れたような生徒が大量発生するのもこの時期だ。志間の下には連日、各学年主任が指導対象の生徒を引っ張ってきていた。
やれ体罰だ、暴力だとうるさい御時世である。生徒に触れるようなことは極力避けるようにと、頭髪の薄い校長から厳重に仰せつかっている。
向かい合った嵯上は学ランを盛大に着崩し、しかし悪びれる様子を微塵も見せず、男にしては長い髪をつまんだ。男にしては、なんて、それこそナンセンスな基準かもしれない。とにかく、光に溶ける毛先を揺らして、ええと、と記憶を手繰り寄せるように視線を動かす。
「アッシュグレーかな」
「……金髪じゃねえのか」
授業中以上に真面目な表情で、うんうん、と頷く嵯上。
金と白の中間のような、透けた灰色のような、とにかく志間のボキャブラリーでは形容できないその髪色も、はだけた学ランとその下に覗く色モノTシャツも、耳たぶで光るピアスも、何もかもが校則違反だ。
「ほらこれ、ちょっと緑も入ってんだよ」
「るっせえタコ。お前らみたいなちゃらんぽらんのせいで俺は連日残業なんだよ。せめて休み明けは染め直してこい」
「え~でもさあ、これ一昨日染めたばっかなの。もったいないから落ちるまで待ってよ、志間せんせ」
なぜ夏休み終了二日前に髪の毛を染めるのか。きっとそんな質問なんて、なんの意味も成さないのだろう。呆れも一周回って感心だ。うわ、なんだかすげえ、疲れてきた。
「とにかく」と、志間は指導を切り上げることにした。重力に逆らって整えられた頭をぱんと叩く。
「髪の毛。日本人の色にしてこい」
「わ、それヘンケン」
「あとピアス。明日つけてたらもぎ取るからな。制服の前は閉じろ。それから―」
すっと腕が延び、志間の耳をかすった。襟足をすくように、嵯上の指が動く。
「先生も染めようよ。ぜったい似合うよ、俺が染めたげよっか」
ダメだ。日本語通じない。ニッとえくぼのできる笑顔を向ける嵯上に、志間は宇宙人を見ている気分だった。
……呆れて、物も言えないとは、まさにこのこと。
嵯上が志間に対してあんなに気楽な態度を取れるのも、志間が嵯上をこんな風に雑に扱えるのにも理由があった。
二人は、いわゆるご近所さん。嵯上が小さい頃、よく面倒を見てくれた〝近所のお兄さん〟が志間だったのである。
嵯上が中学に上がる頃までその関係は続いた。少し離れた公立高校に採用が決まった志間が引っ越す時、嵯上は目に涙を浮かべて「行くなよ」なんて、可愛らしいことを言っていた。
実際、あの時の嵯上は可愛かったと志間は思い返す。髪の毛だって生まれ持った色だったし、耳に穴も空いてなかった。制服は少し、乱れてたけど。
それがどうだ。赴任先の高校に嵯上が入学してきて、久しぶりの再会を果たした時には、嵯上はすっかり変わってしまっていた。主に外見が。今年で四年目だし、俺もそろそろ移動かなと思っていた矢先に舞い込んできた生徒指導の役職。
嵯上はその指導の網に、これでもか言うほどばっちり引っ掛かっていた。
名前が書ければ誰でも受かる、地元で有名なアホ高校。嵯上以外にも、嵯上以上に指導の必要がある生徒はごろごろしている。
しかし高校ではある以上、どんなにアホ高であっても教育機関であり、したがって受験、なんて話も当然出てくる。
志間の担当は三年生。嵯上のいるクラスではないが、高三の夏といったらそりゃあ、進路指導も重い腰を上げる時である。
山のような生徒指導、受け持ちクラスの進路指導。その他諸々の事務作業と、志間の仕事は山積していた。その結果―
「ぶえっくしょい」
ボロいアパート全体に響くくらいの、盛大なくしゃみ。風邪だ。間違いなく風邪を引いた。睡眠不足が祟り、栄養不足が牙を剥いた。
「あ~くそっ、頭痛てぇ」
寝間着のままがしがしと頭を掻き、鍋に入れっぱなしだった昨日の味噌汁に火をつける。冷蔵庫から牛乳を取りだし、クッと一杯飲み干した。
玄関の真横に取り付けられた鏡を見る。酷い寝癖だ。三六〇度どこから見ても、三十路寸前の男の姿だった。
いっそこのまま出勤してしまおうか。体育教員なんて常にジャージで校内を闊歩している訳だし、ジャージも寝間着も大差ないだろう。
そう考えた所で、はっと今日の日付を思い出す。そして、イカンイカンと首を振る。今日は年に数回の研究授業の日。校長教頭のみならず、近隣校の教員ら、大学の教授、教育委員会のお偉いさん数名までもが揃い踏みなのである。
そんな面々を前にして、志間は〝いつも通り〟の授業をしなくてはならない。志間の担当は社会科だ。どうか生徒たちが空気を読んで、おとなしくしてくれますように。祈るのはそればかりである。
「っが、ゲホッゲホッ、」
沸騰した味噌汁の湯気に噎せる。喉の奥に嫌な気配。ざらついた感覚に、悪い予感しか浮かばない。
「さ、最悪だ……」
志間はシンクに手をかけ、がっくりと肩を落とす。ああ、なんだか目が回ってきた。
クローゼットから夏用のスーツを引っ張りだし、クリーニングのタグを切り、袖を通す。あまりにも風を通さなかったせいで、裾にはぽつぽつとカビが生えていた。応急処置として濡れタオルで拭き取って、見なかったことにする。
遠回りに車を走らせ、朝早くからやっているドラッグストアで咳止めを購入。風邪で一番厄介なのは、熱でも頭痛でもなく咳ではないかと志間は思う。気合いではどうにもならないからだ。
教員用の駐車場に入り、「効いてくれよ」と神仏に祈りながら錠剤を飲み込んだ。苦しいときのなんとやら。志間は車を降りた。渇を入れようと自分の頬を平手打ちしたら、勢いをつけすぎてくらくらした。間抜けだ、と嵯上の笑う顔が浮かぶようである。
「なーにしてんの志間せんせ。まぬけ~」
ははあ、幻聴まで降ってきた。どんだけ悩みの種なんだ、あの問題児。
(……って、)
ぐいっと顔を上げる。二階の窓から身を乗り出し、ひらひらと手を振る顔が見えた。幻聴じゃない。アッシュグレーとか言う髪の毛をきらきらさせて、志間を見下ろす。
「お前、髪の毛!ピアス!制服!放課後相談室に来い!」
左手でメガホンを作り、二階に向かって叫ぶ。突然の大声に駐車場にいた数人の教員や、廊下を歩いていた生徒達が一斉に志間を見た。目を丸くして「何事ですか?」という視線。すみませんね、問題児が見えたもので。志間は愛想笑いで会釈する。
当の嵯上はと言うと、ひえっと怖がるようなポーズだけ見せ、窓の向こうに引っ込んだ。ああもう、余計な体力を使ってしまった。頼むからオッサンを労ってくれ。
「ゲホ、げほっ」
乾燥しきった喉の痛みに顔をしかめながら、玄関をくぐった。
一番の山場は、なんとかやり過ごせたのではないか、と思う。朝買った咳止めは、無計画に選んだ割にはいい仕事をしてくれたようだ。授業中に何度か咳が込み上げてきたが、「いやあ、はは、チョークの粉がね」と誤魔化した。
嵯上のクラスで授業をした時も、うまくやれていたはずだったのだ。だからチャイムが鳴り、今日はここまでと廊下に出た時に腕を掴まれたのには驚いた。
「何か今日変だよ」
ムッとした表情の嵯上は言う。その手を払ってデコピンをお見舞い。つい、昔の癖が出てしまった。
「変なのはお前の頭だ。アッシなんたら?ブラックにしてから出直して来い」
「アッシュグレーだよ!」
不満そうな嵯上を残して、職員室へ足を運ぶ。自分の机にどかっと腰を下ろした時には、全身をはっきりとした倦怠感が包んでいた。
大健闘だった市販薬も、午後には効き目が切れていた。昼にも規定量を服薬したが、朝ほどの改善は見られない。
だんだん咳も抑えられなくなってきて、「志間先生、風邪ですか?」と同僚。それはもう、間違いなく。自覚してしまうと、どんどん病人のようになってくる。生徒にうつしてはいけないと、教育者としての立場を思い出す。
幸い、午前中で担当授業はすべて終わった。あとは今日のまとめとして提出する報告書を作成し、放課後の各種指導に備えるのみ。今日はさっさと切り上げて、早く帰って寝よう。飯を食うのも面倒くさい。
いつもより遅く感じる時間の流れに気が遠くなりながら、なんとか終業の夕方を迎えた。あまりにも咳と怠さが酷かったため、ホームルームは副担任に丸投げ。滅多に見せない弱った姿に、多方面から「お大事に」と声が飛び、いやあどうも、すみません、ありがとうございます、をローテーションで返していった。
しかし、どんなに心配を貰っても、仕事はいつも通り待っているのが大人である。取り分け今日の報告書だけは、今日中に仕上げなければまずいことになる。研究授業の実施報告。提出は今週中だが、それまで今日の内容を覚えていられる自信なんてなかった。かと言って他の教員もたくさん残っている職員室で、ゴホゴホと風邪菌を撒き散らす訳にもいかない。これも大人の責任だ。
迷った末、志間は書類とパソコンを相談室に移した。今日は生徒指導もお休みである。たった今決めた。
「ゴホッ、げほ、ゲホッ……あ~くそっ……」
咳をしてもひとり。悪態を吐いてもひとり。熱が上がって霞む視界に、パソコン画面の光は痛いほどしみた。
椅子を引いて机に伏せる。少しだけ……と体重を預けると、ひんやりとした机が心地良く、動く気力を削いでいった。ガンガンと内側から響く頭痛。咳のしすぎで肺が痛い。
(と、歳だ……)
肉体の衰えは弱った時にこそ痛感する。何度目か分からない溜め息を吐いた時、勢い良くドアが開いた。驚いて顔を向けると、校則を徹底的に無視した、見慣れた姿が立っていた。
「……何してんだ、お前」
カスカスのしゃがれ声は、間違いなく自分の口から溢れたものだった。
後ろ手でドアを閉め、ぺたぺたと内履きを引きずるようにして歩く嵯上。二つ隣の椅子に腰を下ろした。
「生徒指導、受けに来たんだよ」
「あー、それなら今日はナシだ。本日閉店。見てわかんねぇのか、仕事だ仕事」
「見るからに風邪引いてぶっ倒れてるようだけど」
「……」
ごもっとも。一ミリも否定できない。と、思い出したように咳が出てきて、反射的に背中を丸めた。
ぺたっと額に何かが触れる。気持ちいい程に冷たく感じるそれは、嵯上の手のひらだった。うーん?と首を捻りながら、自分の額と触り比べる嵯上。授業中でも見ないような真剣な顔で、額から首へ、骨の細い手のひらが移動する。しばらくそうしていて、突然「高熱!」と結論付けた。くわっと口を開いて叫ぶ。うん、知ってる。高熱だ。
「わーったらさっさと帰れ。俺も帰りたいんだよ」
「え、じゃあさ」
ウチに来ればいいじゃん。
名案とでも言いたそうに、満足そうににやりと笑う。やっぱりえくぼは刻まれる。
「はぁ?」
「母さんもひさびさに志間せんせに会いたがってたし。先生帰ってもどうせ一人っしょ?うち来ればご飯もあるし。決まりじゃん」
悔しいが、とてつもなく魅力的な提案だった。かつてよく通っていた、嵯上の家が脳裏に浮かぶ。共働きだった嵯上の両親が、留守中の息子を任せたのが志間だった。両親が迎えに来ても、まだ遊ぶと駄々をこねる嵯上を宥めながら、家まで送るのも志間の役割。そういう日は決まって夕食も一緒に過ごした。懐かしい記憶が、断片的な景色が、ぽつぽつと浮かび上がる。
きらきら光る頭と耳元、足首のアクセサリー。すっかり変わった外見で、けれど全く変わらないえくぼを見せながら、嵯上は立ち上がって志間の腕を引く。
「ほら決まり!帰ろ。うちの場所覚えてるでしょ?」
思考力の鈍った頭は誘われるがままに頷いてしまう。
「ちょ、ちょっと待て。荷物がな、」
パソコンを閉じる。書類を掴む。
「車だよね?ラッキー、俺今日荷物多くて」
「お前、車で帰りたいだけだろ」
「あはは」
笑いながら廊下を歩く、光る背中を追いかける。
懐かしい玄関にあいさつをする、少し前の話。
なおしてきなさい:END
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