ダン、と、それはかなりの重量感を持った音だった。
未開封A4コピー紙の包み片手に、机を叩いたのは浅原重。クラス委員で生徒会書記、全国模試でも常に上位を維持する、先生方の覚えめでたき優等生だ。加えて、附属寮の管理委員なんて雑務もこなしている。
太陽を知らない白い肌、細く真っ黒な髪の毛は清潔な長さで整えられていて、いかにも〝線の細い男子校生〟然とした出で立ちだが──
「うるさいよ、君たち」
形の良い唇から飛び出すのは、氷点下の叱声。
浅原がクラス委員を務める三年C組には、問題児が集まっていた。
校則破りの髪色で、ピアス穴だってバスバス開け、言葉よりも先に手が出るような、そういう集団。でかい態度と声で周りを威圧し、肩で風をきって歩く。
全寮制で、生徒の自主性と自律を育てることに重きをおく、基本的には穏やかな私立高校。大人しい坊っちゃん嬢ちゃんばかりを相手にしていた教員たちは、突然変異のごとく現れた荒れてる世代に困惑した。
困った結果、そんな彼らを御せそうな生徒のいるクラスに、一塊で編成したのである。そこで憐れにも、勝手な都合で御者に選ばれてしまったのが、浅原だった。問題児は分散させるのが対処方法として一般的なのだが、いかんせん、不慣れだったのだろう。
そういう訳で、浅原はクラス委員として、今日もストレートに苦言を呈する。教室の後ろで固まって、くだらない話で大騒ぎしていた集団は、悪態を吐きながらじろりと浅原を睨んだ。
真ん中にどっかりと腰を下ろし、ピアスが大きく光るのは和島。左右に高橋、竹田。斜め前、購買のお握りの包みを開けようとしているのは、鷲宮。浅原の頭には、クラスメイトどころか学年分の顔と名前が入っている。
尖った視線も、攻撃的な態度も、浅原は涼しい顔で受け流す。全く、くだらない。内心では呆れ返っていた。
絶対零度の雰囲気を纏う浅原は、それが通常運転だ。
今だって、職員室のコピー機が用紙切れだとかで、補充を頼まれていたところだった。それくらい先生方で回してくださいと言いたくなるのをぐっと堪え、分かりましたと淡々と応じる。驚くべきことに、生徒会に舞い込む仕事の半分はこんな雑用だ。
印刷室から一包みコピー用紙を掴んできたら、何やら教室が騒がしい。
覗いてみると、まあ案の定、あの集団が大声で喋っている。ヒートアップして、胸ぐらを掴んだりしている。このままケンカだって始まりそうな雰囲気だ。
正義感とか、クラス委員としての責任感とか、そんな動機ではなく。ただ、うるさいから「うるさいよ」と告げる。浅原はそういう分別で生きていた。もっと言えば、「黙れタコ」くらい口にしてしまいそうである。
「……あ、ありがとう。助かったよ」
「別に」
去り際、彼らの前の席で困っていたクラスメイトがそっとやってくる。気弱そうに背中を丸める彼が、時々机に足まで乗せられて迷惑していることを浅原は知っていた。
しかし浅原に言わせてみれば、うるさいならうるさいと直接伝えればいいのだ。ため息を吐いて、教室を後にした。
その日の、放課後。誰もいない生徒会室。
浅原は黙々と作業をこなしていた。
「浅原くーん!」と、廊下の西から東に響き渡る声で教頭に呼び止められたのが、およそ一時間前。
教頭からは、「先週頼みそびれた書類が出てきた」「金曜日までに整理してほしい」という主旨の要望を矢継ぎ早に押し付けられた。ちなみに、今日は水曜日。その放課後に、金曜日までに、だなんて、一体どういう了見だ。
けれど、そんな不満をおくびにも出さないのが浅原重という人間だった。
いつも通り淡々と、粛々と。「承知しました」と段ボールいっぱいの書類を受けとる。年代順にファイリングして、行事絡みの書類は別枠でまとめて……頭のなかに、to do リストが作られる。
教頭の背中と、ハゲかかった後頭部を見送って、浅原はちらりと時計を見た。時間的に、今から生徒会役員を集めるのは無理そうだ。皆、もう寮に戻っているか、掛け持ちの部活動やサークル活動に精を出している頃だろう。
しょうがない。隠すことなく盛大にため息を落とした浅原は、その足で生徒会室へ向かった。
生徒会室は、教室棟の最上階、西端にある。
大きな窓が特徴的で、夕暮れ時は眩しいくらいの西日が差し込む、温室のような一部屋だ。観葉植物でも置いてみれば、きっとすくすくと育つだろう。
「はあ……」
一段落ついたところで、机に両肘をついて頭をのせた。三本指で眉間を揉む。テーブルに積まれた書類の山にうんざりとしながらも、右手を無意識に腹部に当てていた。
──今朝から、調子が悪い。
主に、腹の具合が。
意識しないようにしていた不調は、無視できないものになっていた。意思の力も時間切れ。だって本当なら、今頃ベッドで横になっている予定だったのだから。
目が覚めた時にはもう既に、なんだかおかしな調子だった。耐えられない程ではないが、看過し難い鈍痛。だからつまり、食べ物が原因ではない。たぶん。
冷えたか?そんなはずもないだろう。今は夏真っ盛りで、節電第一の校舎も寮内も蒸し暑いくらいだ。冷たいものも、傷んだものも食べていない。ならば胃腸にくる風邪、ストレス……と、考えられる原因を並べてみて、やめた。
原因なんてどうだっていい。ただ、今、「腹いた……」──思わず、呟いていた。
疼くような腹の痛みに、頬の筋肉が引きつった。
ゴポ…ゴポ…と、自分にだけ聞こえる大きさで、嫌な音が伝わる。不穏な蠕動を手のひらで感じて、脂汗がじわりと浮かんだ。
蒸してただでさえ汗ばんでいるのに、額が、腕が、べたついて気持ちが悪い。
(……下しそう)
一度気付いてしまうと、だめで。
腹の真ん中、奥の方。きゅうう、と細く悲鳴を上げたかと思えば、はっきりとした便意になって押し寄せてきた。息を詰める。浅原は思わず背中を丸めた。大丈夫、誰もいない、誰も見ていない。そう言い聞かせて、両手でお腹を抱える。
トイレに行かなきゃ、と思った。実のところ、今日は休み時間の度に向かっている。下痢未満に緩いそれを吐き出して、渋るお腹に不快感を覚えながらも、すっきりしないまま教室に戻る。……という流れを、幾度も重ねていた。
だからこそ、意識しないようにしていたのに。目の前に広がる雑務を憎々しく睨んでみても、状況は変わらない。調子の悪い内臓はさっきから、ひっきりなしに唸っている。
そうっと立ち上がった浅原は、階下の男子トイレに急いだ。
雨だ。
トイレから、一階上の生徒会室に戻る途中、階段の踊り場。浅原は天窓を見上げた。雨粒が窓ガラスをまばらに叩いてている。
トイレの男女が階で分かれているのは、創立当初に男子校だった名残らしい。
普段は何とも思わないこの配慮だが、今日ばかりは、勘弁してほしい。上り降りを三回繰り返して、個室で腹痛のもとを流す。シクシクと浸潤する痛みは、徐々に捻れるようなそれに変わっていった。下痢の間隔も狭まってきて、痛くて、辛くて。疲れて、へとへとになっていた。
もうだめだ、帰ろう。と判断したのは、手洗い場で痛いくらいに手を擦っていた時。鏡に映った自分の顔色が、あまりに酷いもんでぎょっとした。
大丈夫。もう、半分終わってるし。生徒会役員に連絡して、明日、皆でやればすぐに終わる。だから、大丈夫。
誰のための弁明なのか、誰のための励ましなのか。ぐちゃぐちゃになった思考はなんだか気持ち悪くて、目が回って、吐きそうだった。
後で悔やむと書いて、後悔。
浅原重はそれはもう、盛大に後悔していた。
何で、一人でやってしまおうと思ったんだろう。何で、体調が悪化してすぐに、帰らなかったんだろう。何で、天気予報を忘れていたんだろう。
窓を打つ本降りの雨を見て、気が遠くなる思いがした。
台風が本州に接近しています。今日の夕方には上陸するでしょう。お帰りの際は気をつけて、お出掛けには傘のご用意をお忘れなく──。今朝、食堂のテレビで耳にしたアナウンサーの言葉が、今頃になって甦る。
ふらつく足取りで生徒会室に戻り、片付けもそこそこに荷物を掴んだ。
傘は無い。どうしようか。突っ走ろうか。この体調で?考えながら、足を動かす。校舎には誰も残っていない。ひとつだけ響く浅原の足音には、焦りが滲んでいた。
「……っうぅ」
生徒玄関についてすぐ。下駄箱に手をかけた時、腹がぎゅるぎゅる鳴った。危険信号。耐え難い痛みに小さく呻いて、冷たい柱に寄り掛かる。下腹を鷲掴みにした。制服の下で、ごろごろとおかしいくらいに動いている。伸びかけの髪が頬を掠めて、視界が滲む。
腹が痛くて泣きそうなんて、はじめてだ。
また下ってくる前に、寮に戻らないと。早く、部屋に戻りたい。同室の奴には悪いけど、今日は別の部屋に移ってもらおう。こんな状態で、誰かと同じ空間にいるのが嫌だった。同室とはいえ、気の置けない相手ではない。二人部屋ではなにかと遠慮をするし、逆に向こうからも気も遣われる。そういう距離間の相手だった。具合の悪いルームメイトを気遣うのも面倒だろうし、一人で横になれるのなら、もう、何だっていい。
はやる気持ちを嘲笑うように、雨足は勢いを強める。
アスファルトを叩く大粒の雨。玄関から一歩、その先は滝。意を決して踏み出そうとしたその時、「おい」背後から、声をかけられた。
「何してんだ、委員長」
「…………鷲宮」
振り返ればそこには、下駄箱から面倒くさそうにスニーカーを取り出す、鷲宮がいた。朝、騒いでいた集団の中で、お握りの包みを捲っていた奴だ。
こんなに背が高いのに、最下段が指定だなんてそりゃあ面倒だろうな。
鷲宮は、硬そうな髪をかきあげて、オールバックで固めている。湿気のせいだろうか、朝よりもぺたりと落ち着いて見えた。
「何してんだ」
靴を履きかえ、もう一度同じ言葉を繰り返す。肩が並んだ。
「…………雨がひどいから。どうしようかと迷ってたんだよ」
「あぁ、雨な」
そう言う鷲宮の右手には、ビニール傘が握られていた。
天気予報なんて気にするタイプには見えないのに。怪訝に思っていたのが顔に出ていたのか、鷲宮は傘を掲げて「これ」と続けた。
「前に持ってきた時、晴れて。部室に置いてたのを思い出した」
「…………そう」
言葉を返すのも億劫で、けれど、そんなことを気にする相手ではなくて。加えて、そんな余裕もなくて。
さっさと行っちまえ、そう思っていた。なんで並んで雨を眺めなきゃいけないんだよ。お前は、傘持ってるのに。
スッと体温が離れ、ようやく鷲宮は玄関を出た。一振りして張り付いたビニールを剥がし、ワンタッチで傘を開く。
そして、不思議そうに浅原を振り返る。
「帰らねえのか」
「…………はあ?」
「ほら、傘」
「は…………ぁ、あぁ」
傘を半分、開けている。来ないのかよ、という顔。一緒に帰るって?冗談だろ?
そう言おうとして、途端、下腹が低く唸って。ゴポ……腸が嫌な具合に、動く。猛烈な痛みが浅原を襲い、その場にずるずるとへたり込んでしまった。口からは、情けない声が漏れる。
「浅原?」
呼ぶ声には困惑の色。視界の端で、足がこちらに向いたのが見えたので、浅原は片手を上げてそれを制した。手のひらには、「来るな」の意味
を込めて。
「…………腹、痛いんだよぉ……、」
膝に顔を埋めていたから、聞こえていたかは分からない。
ああもう、なんでこいつに、こんなこと。今朝、うるさいなんて注意して──実際、うるさかったのだから、あの行動は間違ってない──だから余計に、きまりが悪い。自分はこんな事を気にするタイプだったのかと、変なところに驚いた。
出すものも無いだろうに、ひどい下痢は治まってくれそうにない。下ってくる前に、帰りたかったのに。雨のせいで。雨の、せいで。
行き場の無い気持ちはぜんぶ空に投げた。暴投。知ってるよ、そんなこと。
………ぐる、ごぽ、そんな具合に、中で、ガスが動く。
もう少し、治まったら、痛みが引いたら、トイレに。
腹が捩れてしまいそうだ。下唇を噛み、息を止める。
隙間を見つけて呼吸する。祈るような気持ちで腹を擦った。痛くて痛くて仕方がなくて、どうしようもなくて、下腹を抱える腕も、痛いくらいに緊張していた。
幸い、一緒にあるのは男子トイレ。壁で体を支えながら廊下を引き返し、熱いものを吐き出した。
やつれた表情で浅原が戻ると、なんと鷲宮が残っていた。律儀に傘を半分開けて、さっきと同じ場所で立っていた。これは間違いなく、浅原を待っていたのだろう。
時々傘を外に向けて、ビニールに打ち付ける豪雨の勢いに「おぉ」なんて。変なやつ。
下駄箱を開ける音で気がついたのか、首だけひねって後ろを向く。目があった。
「ほら」
傘を揺らす。
全寮制、帰り道は一歩と違わず同じ通り。ここで別々に帰るのもおかしいし、正直、そんな意地を張る理由も、気力もなかった。
浅原は無言で頷き、肩を並べた。
両手で腹を擦りながら、のろのろと歩く浅原に合わせて進むものだから、いつまでたっても寮が近付いてこない。
背中を丸めているせいで、鞄が肩からずり落ちて。何度も掛けなおす浅原を見かねた鷲宮は、それを奪い取った。ほんとうに、奪うという言葉がぴったりなくらい、無骨な親切だった。
庭園に差し掛かったところで、浅原は一瞬迷った。ここを突っ切れば、寮への近道である。ただし、フェンスを越えての立ち入りは禁止。一人ならばこっそり抜けてしまうのだが、今は一人じゃない。横にいるのは、よりによって鷲宮。いつも、鷲宮のいる集団に向け「ルールを」「規律を」と諫めている身として、それは無いだろうという気もする。そんな逡巡を知ってか知らずか、鷲宮は寸刻迷わず庭園に足を踏み入れる。
雨足はさらに勢いを増していた。仕方がないんだ。やむを得ない。浅原の革靴は、一歩、土を踏んだ。
緑豊かな庭を抜けて、時々ぬかるみに足を取られそうになりながら、それでも何とか通りまで出てきた。靴底に感じるアスファルトの固さが懐かしい。それくらい、浅原の歩みは緩慢だった。
「…………ま、……待って」
庭園を仕切る柵を乗り越えたところで、浅原は鷲宮の袖を引いた。
お腹、まずいかも。そう思ったのは、実は、庭に入ってすぐだった。言い出せなかったのは、ここを抜ければすぐに寮だと知っていたからでもあり、言っても仕方がないと、諦めていたからでもある。
けど、ほんとに、まずい。
さあっと血の気が引いて、腹は限界を訴える。。ぎゅるぎゅると、さっきから休みなく動き続けていて、ぬめるような下痢がすぐそこまで、本当にすぐ、そこまで下りてきて。立ち止まった両足が震える
「~~~~っ…………っ、」
鷲宮は気付いていたのかもしれない。
体を折って、泣き出しそうな浅原を、何も言わずに見下ろした。傘を、全部明け渡して。鋭い痛みは容赦なく浅原を攻め立て、成す術なく、濡れたアスファルトにしゃがみ込んだ。鷲宮も屈んで、浅原の背中を擦りながら、「おい」「委員長」「浅原」呼び掛けを落とす。浅原はもう、泣けてきてしまって、嗚咽を堪えることができなかった。
「おい、浅原。もう少しだから。寮、そこだから。誰か呼ぶか。おい」
「…………ひっ、……う、……っ……」
「くそっ」
舌打ちをひとつ。鷲宮は自分のスポーツバッグと、浅原の鞄を地面に投げた。傘も放り出し、浅原の両脇に手を突っ込んだ。強引でも、なんとか寮まで連れていかなくては、そう思っていた。だって、このままじゃ、
「浅原、」
「……っ、……む、むり、……や…………待っ、」
浅原の全身に鳥肌が立つ。あっと思ったときには、熱いものが肛門を通っていた。比喩ではなく、目の前が真っ暗になった。ここまで我慢して、頑張って。それなのに、排泄している。外で。制服が。クラスメイトの前で。絶望的な感情をうまく処理することができなくて、浅原は声を上げて泣いた。
全部の神経を使って肛門を締めても、水っぽいそれは溢れ続ける。
「…………っ、ひっ………ぅ……、~~~~っ」
濡れるのも構わず、視線を合わせて座る鷲宮に、腕を引かれる。抱えられるようにして、下着の中に、制服の中で、泥みたいな下痢が落ちていく。鼻につくひどいにおいを、雨はかき消してはくれなかった。
鷲宮は、まるで小さい子供をあやすように背中を叩く。
どれくらい、そうしていたのだろう。一分のような気もしたし、三十分以上経っていたような気もした。
「…………もういいか」
雨の隙間から、鷲宮が尋ねる。浅原は、声の出し方を忘れてしまって、震えたまま頷いた。鷲宮の体は離れたけれど、浅原は動けないでいた。下着の中、ぬるついた感覚が気持ち悪かった。どっちに動いても、正解がない。
ばさりと何かがかけられて、視界を覆った。掴んでみると、それは指定のジャージだった。確認するまでもなく、胸元には鷲宮と刺繍が施されている。
「羽織ってろ。それから、これと、これ」
鷲宮のジャージは当然大きくて、腰回りもすっかり隠れた。次々にスポーツバッグから引っ張り出されるのは、タオルと、ジャージのズボンと。言わんとしていることが伝わり、浅原は慌てて首を降った。
「い、いいっ……そんな、……いい、………」
「いいって、そのままじゃ帰れねえだろ」
ミカンは青色です。と聞いて、何言ってんだ?と返すような、心底怪訝な声だった。
「とりあえず脱げって。気持ち悪ぃだろ。で、袋…………まあ、パンツくらい入るな」
コンビニ袋(小)を広げて、納得したように呟く。差し出されて腕を伸ばしたが、袋を掴んだ自分の指が震えていて、それにもまた、ショックを受けた。
俯くと、毛先から雨粒が滴った。頭のてっぺんから爪先まで絞れそうで、地面はとっくに真っ黒。灰色の雲は息もできないくらいに重たくて、改めて、ひどい雨だった。
気を使ったのだろう、鷲宮はくるりと背を向けた。スニーカーのロゴが見える。そんな風にされてしまたら、もう好意を受け取らないわけにはいかない。
雨が降っても、逆立ちしても、ミカンは橙色だった。
浅原はおそるおそる、ズボンに手をかけ、下着まで一気におろした。太股を、泥水みたいなそれが伝う。下着からぼたぼたと下痢が落ちて、地面を汚した。スコールの勢いが崩していく。
当然だけど、ものすごく躊躇って、だけどそれ以外にどうしようもなくて。受け取ったタオルで太股と、尻と、とにかく汚れたところを無心で拭った。
汚れた衣類、下着。におい。グロテスクな惨状に頭がくらくらする。情けなくて、恥ずかしくて。一度は止まった涙が溢れ、雨と一緒に流れていく。
もう全身濡れているのだから構わない。靴を脱いで、地面にそのまま立つ。鷲宮のズボンはもちろん、大きかった。押さえていないと落ちてしまうので、片手でゴムの所を掴みながら、ビニール袋に下着を突っ込んだ。
「なあ、」
ずっと黙っていた鷲宮が、突然口を開く。ぎょっとして、肩が強張った。
心臓がばくばく跳ねる。何を言われるのだろう。いつも偉そうに澄ましてるくせに。優等生ぶってるくせに。先生のご機嫌とり―遠い昔に言われたそんな言葉を、いつまでも忘れられずに、耳が覚えている。
「俺って、不良か?」
「………………は?」
恐れていた想像の斜め上、どころか、全く別の惑星から投げられた疑問符に、浅原は己の状況を一瞬忘れた。
そんなことはお構いなしに、向き直った鷲宮はもう一度繰り返す。
「おう、着替えたな。俺って不良なのか?」
「ああ、ええと、…………えーと、……は?」
「教頭に言われて。だけど、不良って、金髪で、制服切って、刺青入れて……あとは、あれだ、鉄パイプと。だから、俺はいつ不良になったんだと、思って」
いや、違う。ちょっと待て。途中確実にヤーの裏系ご職業が混ざりました。それからもぶつぶつと「不良」要素を並べていく。どうやら鷲宮の不良像は、九十年代前半の影響が大きいらしい。
思い返して見れば、いつもあの集団とつるんでいるが、鷲宮が率先して騒いでいるとろは、見たことがない気がする。
「…………だって、いつも、和島達と……」
「名簿が前後だった。…………和島は不良なのか?」
「…………もういい」
返した言葉は、きっと雨に紛れた。時代遅れの不良観をひたすらに繰り広げながら、鷲宮は浅原の頭を撫でる。ばかにすんなと言いかけて、飛び出したのは嗚咽だった。
ひっくり返った傘に水溜まりができる。
二人で、ずぶ濡れになった。
***
変だねえ。おかしいねえ。
時計を見上げ、八王子は呟いた。
今日は月に一度の寮管会議。
学園附属寮の管理委員会が召集され、例えば寮内の備品とか、生徒からあがった要望とか、そういったことを話し合う。ちなみに今日の議題は、倉庫の雨漏りについてだった。
生徒会長のくせに、寮長のくせに、八王子は雨漏り問題解決について消極的だった。
「だってさあ、予算出して直せばいいわけじゃん。なのにうちに頼むってことは、あの埃だらけの倉庫に行って、真っ黒になりながら日曜大工しろってことでしょ~やだやだ」
……というのが、彼の言い分。
時刻は丁度、集合時間を十分ほど過ぎていた。
八王子の呟きに、他のメンバーも各々時計を見やり首を捻る。会議室になっている和室、畳の上で、皆口々に心配の声を上げた。
名地はひとり状況が飲み込めなくて、横に座る八王子の腕を掴んだ。冗談みたいに整った顔が「なあに」と振り向く。困惑顔の名地を見て、八王子はそうかと合点する。
「ああ、そうだよね。なっちゃんは知らないよね」
「知らないっす。どうしたんですか」
「あのねえ、浅原ってのが来る予定なんだけどね、まだ来てなくて」
名地が(ほぼ強制的に)生徒会に加入し、(それに伴って強引に)寮の管理委員に加わることになったのは二ヶ月ほど前。さらに、名地以外の顔ぶれは全員三年生。
いくら成員六名の限界集団とはいえ、前回の集まりで軽く挨拶を交わした程度だ。顔と名前が一致していないのも無理はない。
「……で、浅原今まで遅刻なんてしたことがなくてね。連絡も無いみたいだし。無断で来ないなんて考えられない。なのに今、ここに居ない……なっちゃんならどう思う?」
「…………〝変だねえ、おかしいねえ〟」
「でしょ~~?」
連絡も無いみたいだし、の所でぐるりと室内を見渡し、顎に手を当て暫し思案。
──浅原先輩。確か、一番最後に挨拶した人。生徒会では書記の肩書だったはず。
名地は一か月前の記憶を手繰り寄せる。色が白くて、線が細くて──……
ふと顔を上げて、名地は「うわっ」と思わず声を上げた。
室内にいたから気が付かなかったが、窓の外は酷い雨になっていた。そういえば、購買のおばちゃんがそんなことを言っていたっけ。
木々が前後左右に大きく揺れているから、きっと風も強いのだろう。
「八王子先輩。浅原先輩、傘忘れて学校出られないとか、ないですかね」
思い付きを口にした名地に、おお、なるほど、いやしかし浅原だぞ……三年生からは様々なリアクションが返ってくる。
八王子は、名地を見て、外を見て、そうして唇の端を微かに上げ──要するに、すごく悪い、顔をした。もちろん、名地にしか見えない角度で。
「なっちゃん天才!それだ、それだ。浅原はああ見えて結構抜けてるところがあるんだよ。じゃ、オレたちで迎えに行ってくるから、雨漏り問題進めてて~!」
「え、俺も?」
「傘二本持ってきてね~。さ、行こう行こう」
こうして、王子は面倒な議題から抜け出した。
副会長兼副寮長から、とても歯切れのいい怒声が飛んでくる。
「おい!八王子!お前は!待て!」
スージング・ヘビー・レイン:END
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