あらしの夜に

マジかよ、ありえねえ、そんな悲鳴があちこちで繰り返される。
椅子に深く腰掛け、スマホを弄っていた平野翔太も例に漏れず、「マジかー」と、溜め息と一緒に吐き出した。肩甲骨を近付けるようにして、固まっていた背骨を伸ばす。目を閉じて首を回せば、軽い音を立てて関節が鳴った。

困惑はさざ波のように広がった。前の方で一人が帰り支度を始めたのを皮切りに、教室は一気に騒がしくなる。ひとり、またひとり廊下へ出ていった。

ほんの数分前まで、この大教室は授業を受けに来た大勢の学生で埋まっていた。

しかし、いつもなら十分前には到着している講師がいつまで経っても姿を見せない。これはいったいどういうわけだと全員が訝しがり、自主休講の判断を下した賢明な学生たちは教室を去り出した。数名が開け放しの扉を通ったころ、事務のオバチャンが急ぐでもなく悠然とやってきて、こう言ってのけたのだ。

「連絡が行き届かず今日は先生はいらっしゃいません。出席も取りませんので、本日この授業はお休みです」と。

一同、総ブーイングである。

連絡が行き届かずとはなんだ、ただの業務ミスだろう。せめて出席でも取れば来た甲斐があったものを。つーか、帰ってればよかった。待ち損じゃねえか。あいつら、ナイス判断だよな、全く。皆の心はひとつになった。

投げられた不平不満は宛先不明で、「本日休講」と書かれた黒板だけが、虚しく講堂を見守っていた。

「ひーらーのん」

自分も帰ろう。安息のマイルームでは、明後日に提出のレポートが待っている。書きかけのまま放置されたそいつを見るのも、ずいぶんご無沙汰だ。そう思って荷物をまとめ始めた時、不意打ちで後頭部に衝撃が落ちた。つむじの上で、何かがぼこんとへこむ音。

「うっわ!地味に痛てえ」
「わはは。おはようひらのん」

半分ほど中身の入った麦茶のペットボトル片手に、豪快に笑うのは同じ学部の笹原健。あだ名はササケンだ。ゆるくパーマのかかった髪を後ろに流し、前髪もかき上げている。髪型を変えるスパンが短いから、この姿もそろそろ見納めかもしれない。
あいさつ代わりに肩パンを見舞いながら席を立つ。薄いリュックを掴んだ。

「おはようっつーか、昼だけどな。つーか、帰るけどな」
「だよねぇ、せっかく来たのに俺らの午後を返せ~って感じ」
「ササケン帰り?」
「や~、バイトまで時間潰す」
「ふーん」

階段を下りながらすれ違った集団で、誰かが「今日雨降るらしいよ」と話している。「え~!傘持ってなーい」と別の誰かが返す。俺も傘、持ってないや。ササケンとの会話はだいたい適当なので、各々に全く別の事を考えていたりする。

人の流れに従って、気付いたら講義棟の出入り口だった。
自動ドアの前でじゃあなと手を上げると、笹原は「あ」という顔をした。

「そうだ、今日もニッシー来なかったな」
「ああー……確かに」
「マジで何の連絡も無いの?そろそろヤバイんじゃない?」

笹原は、神妙な表情と声でそう言った。彼の言うニッシーとは、やはり同じ学部の仁科和政のことで、俺と仁科は高校の同級生だった。
もっとも同じクラスになったのは高一の一年間だけで。けれど何となく馬が合い、だらだらと付き合いが続いている。大学まで一緒になったのは勿論偶然で、昨年の春、入学式の日にばったり出くわしお互いに驚いたくらいだ。腐れ縁と称するにはまだ足りない気もするが、付かず離れずといった距離感は何を置いても居心地がいい。

そんな仁科は、先週から大学に姿を見せていない。もう一週間近く、無断で欠席している。来週から試験期間に入るにも関わらず、だ。

仁科は不真面目なやつではないし、サボったりするキャラでもない。というよりかなりまっとうな大学生であり、そういえば、昨年度の成績優秀者として表彰までされていた。ちなみにその日は褒めろ崇めろとクソ高い定食を奢らされた。仁科和政とは、そういう男だ。

そんな事情を鑑みて、笹原は欠席を続ける仁科かなり心配しているようである。へらへらしているが、友達思いのいいやつなのだ。直接伝えるなんて、薄気味悪くてできないけれど。

もちろん俺だって、心配じゃないと言ったら嘘になる。しかしながら、仁科だって自分と同じ成人男子。できないことがあっても、何とか一人で生活できる年齢だ。まあ、試験までには来るだろうと、そこまで深刻に捉えていなかった。笹原は案じ顔で続ける。

「実はさ、教養でニッシーと一緒の授業があるんだけど。教授が学会とかで、今日テストだったんだよ。午前中。でもニッシー来てないからさ、受けてないわけ。教授も心配してたし、なあ、本当にあいつどうしたの?」
「ええ、テストにも来なかったのかよ!それはアホだ!」

笹原は、俺と仁科が常に連絡を取り合う仲だと勘違いしている節がある。当然そんなことは無いのだが、さすがに試験日にも無断で休んでいると聞くと心配に不安が刷けてやってくる。

「あー、じゃあさ。俺帰りに寄ってみるわ、あいつんち」

ほんの思いつきで浮かんだ提案に、笹原はぱっと明るい表情になる。やっぱり、良い友人だなあと改めて思う。

「ひらのんち、ニッシーの家の近くだっけ?」
「近くってか、あいつんち西門と目と鼻の先だからな。そっちから帰るよ」
「生存確認よろしく」
「おー」

友達思いの友人は、へらりと目尻に皺を作り、ペットボトルをリュックに押し込んだ。右手をひらひらさせながら、図書館の方へ向かっていく。きっとバイトの時間まで、オーディオルームで昼寝でもしているつもりだろう。半個室にソファと薄型テレビの完備されたオーディオルームは、イレギュラーな睡眠を求める若者の恰好の餌食となっていた。

(……さて)

予期せず空いて、同時に埋まった午後の予定。これから向かうと、連絡くらいはしといてやるか。むしろ仁科の方こそ何か連絡を寄越すべきなのだ。

「今家にいんの」メールを送る。予想外に、返事はすぐにきた。
『まあ うん』まあって何だ、まあって。
「これからお前んち行くから」
『は?今』
「今」

返事を待たずにスマホをポケットに差し込む。直ちに通知を知らせる振動を感じたが、無視だ。

古びた講義棟を出て、真っ直ぐに西門へ向かった。

「に~しな!俺、俺」

四階建て、各階二部屋の学生向けマンションに、仁科は住んでいる。警備員も居ないような狭い西門を抜け、道路を渡れば目の前にある。スチール製のドアをやや乱雑に拳で叩けば、カンカンと薄い音がこだました。

所々、錆びてざらつきのある表面が手に刺さる。近所迷惑も鑑みず、もう一度大声で仁科の名前を呼ぼうとした時、ガチャリとドアノブが下がった。

「聞こえてる」

安普請のワンルーム、ドアチェーンなんてもちろん無い。半開きのドアから覗くのは、久しぶりに見る学友の顔だった。不機嫌、三割増し。

「うわ、生きてた」

長袖のシャツにグレーのスウェットと、寝間着だか部屋着だかわからない服装に身を包み、「なに?」と玄関の壁に寄りかかる仁科。「寝てた?」「今何してた?」俺の問いかけは完全にスル―。迷惑だと言わんばかりのその調子に、そりゃあないだろうという気持ちになる。

「何じゃねーよ、何じゃ。一週間なんも言わないで休んでからに。ササケン心配してたぞ、お前の単位」
「あっ、そっか、テスト……」

その時まで、仁科は顔さえ上げずに相槌を打っていた。つま先に視線を落としながら、首の後ろを手持無沙汰に揉んでいた。「ササケン」と聞いて動きが止まり、続く「単位」でぱっと顔を上げた。弾き出された共通項は、一緒に受けているという教養科目と想像に易い。まったく、現金なやつだ。

「うわ~」

呻きながら髪の毛をかき回す。やや長めの猫っ毛が指に絡まったのか、微かに顔をしかめた。待ってくれ、何なんだこの反応は。なんだこいつ。慣れ親しんだ切れ味バツグンの毒舌は姿を潜め、脳みその回転はいつもの倍緩んでいる。

ふと、首筋に何か冷たいものが落ちた。首を捻って後ろを見やると、厚く黒い雨雲から、大粒の雨がパラパラと降り始めていた。

風に煽られ、屋根のある玄関口まで届いたらしい。雨足は徐々に勢いを増している。アスファルトの斑点はあっという間に広がった。

「ちょっと、とりあえず中入るぞ。雨降ってきた、濡れる」
「えっ」

軽い抵抗を無視して部屋に押し入る。「おい、待てよ」不満げな声が追いかけてきた。仕方ないだろ、俺の鞄は防水タイプじゃないんだ。濡れて困るものなんて、そんなに、入ってないけど。後ろ手で玄関を閉めると、部屋は真っ暗になった。

──電気、付けていなかったのか。

怪訝に思っていると、察しのいい仁科は腕を伸ばし、照明のスイッチを押す。目に飛び込んで着たのは散らかった室内と、ベッドの上の丸まった布団だった。

「……は?」

記憶にある、殺風景とさえ形容できるいつもの様子とあまりに異なり、思わず目を疑った。几帳面な彼は、何かをやりかけで放っておくなんてあり得ない。 
  
仁科は観念したように溜め息を吐き、「風邪引いてた、悪いか」と呟く。次に疑うのは聴覚だ。

「は!?風邪?お前が?」
「そー。だからテスト受けらんなかった、やっちまったなあ」
「いや、て言うかそれなら何か連絡しろよ。ササケンからメール来てただろ」

そう聞くと、返ってくるのはああとかうんとか、やけに歯切れの悪い返事。そもそも風邪は治ったのだろうか。オレンジ色の照明の下ではいまいち顔色が分からない。もっとも普段から色素の抜けたような肌色をしているから、どこであろうと判断なんて難しいのだけど。

「……それがさあ、実家戻ってたんだよね、昨日まで」
「はあ!?」
「うるさい、響く。追い出すぞ」

説明しろと問い詰めれば、先週の水曜日、仁科は朝から高熱で臥せっていたらしい。しかしさすがに独り暮らしの男子大学生、それくらいではへこたれない。病院にいこうなんて露ほども思わず、そのうち下がるだろうと高をくくって大人しく寝ていた。

けれどそう悠長に構えていられたのも昼過ぎまで。十二時をまわったころ、今までに経験したことのないような激しい腹痛と下痢に襲われた。貧血に脱水で目の前をチカチカさせながら、さすがに命の危険を感じ、やっとのことで一一九番をコールしたという。

「いや、このまま死ぬかと思った」

開き直った仁科はしみじみ呟く。

「え、おまえ救急車乗ったの」
「呼んだんだから乗るだろ、バカか」
「いやそうだけど」

はじめての一一九、はじめての救急搬送。少しもめでたくない初体験を、仁科青年はまな板の鯉よろしく通過していた。その後も一向に体調の回復を見せない仁科に対し、医者は保護者への連絡を勧めた。

ところが悪化した体調に吐き気まで追い討ちをかけ、とても電話なんて出来る状態ではない。やむを得ず、病院が彼の実家に連絡を取ったのだという。独り暮らしと体調不良、確かに最悪の組み合わせだ。

一報を受けた彼の家族は当然驚き、はるばる病院へと車を走らせた。身一つで慌ただしく強制送還された結果、連絡手段──すなわちスマートフォン──はこのマンションの留守番係になってしまったというわけ。

「それでなんの連絡も出来なかったと」
「そーいうこと」
「風邪治ったの」
「…………熱は下がった」
「…………あ、そう」

生真面目にひねくれた返答は、いかにも彼らしいものだった。具合が悪いなら寝てろと意を込め、ベッドに向けて顎をしゃくる。ム、と口を結んだ仁科だったが、やはり体はきついのか、素直に布団に潜り込んだ。
「あー、気持ち悪ぃ」と、くぐもった声で呟く。

まったく、どうせ休むなら全快するまで実家に居ればいいものを。
そう考えて、仁科の一家の構成を思い出す。
仁科は今日び珍しい五人兄弟の長男である(ちなみに、弟三人と妹一人。下の弟は双子だ。)。両親含めて七人家族。ファミリー向けのアパートをもってしても、部屋数が圧倒的に足りていないのだ。さしずめ熱が下がったなら部屋を開けなさいとお達しが出たのだろう。下町育ちだという仁科母の快活な笑い声が頭に浮かぶ。

「だぁーいじょうぶ、寝てりゃあ治るわよ。風邪菌なんて打てば出てくんだから」と、病人の背中をバシバシ叩きながら、医学的根拠ゼロの診断を下すのだ。

ともかくそんな家庭で逞しく育った仁科だったが、それ故に自分の健康というものをどうにも過信している節がある。カビたパンでも「千切ればいける」と軽率に口にするのだから、こいつは本当はとんでもない馬鹿なのではないかと疑うときがある。それでこれまでに何回も食あたりで苦しんでいるのを、どうして学習しないのだろう。もっとも基本的に頑丈なのか、病院送りになるほど悪化したなんて聞いたことはない。と、言うことは、仁科母の健康理念はあながち間違ってはいないのかもしれない。中らずと雖も遠からず、といったところか。但し、仁科家の血筋に限る、と注釈もつけておこう

「そうだ、お前、なんか食ったの」
「……あーー、えーと、なんか麺みたいなやつ」
「いやマジで意味わかんねえわ」
「母さんの創作料理なんだよ 」
「あぁ、あの焼きそば刻んだやつか」
「昨日は煮込んであった」

……ちょっと病人仕様じゃないか。

そう突っ込もうとして、いや待てよと振り返る。

「昨日?」

確信的な嫌な予感がして、デスク横のキッチンエリアへ。断りもせずに冷蔵庫をバクンと開くと、中に入っていたのはお茶と清涼飲料、なぜか冷やされている処方薬、そして干からびたキュウリだった。

「まさか、昨日からなんも食ってねえの」

すっかりさわり心地の変わった野菜片手にそう声を飛ばす。「食欲ない」薄目で眉間にシワを寄せた仁科の顔が、布団からのぞいた。語尾が掠れる。

「食欲あったとしても食うもんねえだろここ」
「出たら買いにいくよ」
「ああもう、しゃあねえな、ちょっとコンビニでなんか見てくるから待ってろ」
「は?いいよそんな」
「そしたら帰るから黙って寝てろ」

制止の声を半ば強引に抑え──実際にクッションを押し付けたのだが──俺は財布を掴んだ。踵を踏んだスニーカーに足を突っ込み、玄関を開ける。途端流れ込んできたのは湿った土の匂いだった。

冷たい空気に撫でられて、部屋の中は随分と暖かかったことに気が付く。そして、どうやらこの数分間で、雨はずいぶんと勢いを増していたらしい。立て掛けてあった紺色の傘を勝手に拝借し、横殴りの滝の中へ足を踏み出した。

大学近くなだけあって、小売店には事欠かない。少し下った所にあるコンビニで、プリンやゼリー、お握りをいくつかカゴに放り込む。後で自分も食べようと、新発売のスナック菓子もレジに通した。

その帰路、すれ違った車に水を跳ねられ、ジーパンとスニーカーが犠牲となる。歩行とすれ違う時には減速、徐行。全国の自動車学校はその点もっと強調して頂きたい。とりわけ雨の日の爆走は、有罪級の迷惑運転である。数分とかからず再び仁科の部屋に辿り着いた時には、全身ずぶ濡れになっていた。

「あー、濡れた濡れた!あのワゴン容赦ねえなぁ」

ビニール袋をがさがさ言わせながら、もはや我が物顔で部屋に入る。濡れた靴下は、フローリングの床に足跡をつけていた。廊下を汚すなと怒られるかもしれない。仁科には潔癖な所がある。そんな懸念に反して、返ってきたのは沈黙だった。

おや、と首を捻る。てっきりうるさいとか汚ないとか、そんな非難が飛んでくると思っていた俺は拍子抜けしてしまった。さらに奥へ進む。煌々と光を落とす蛍光灯の下、仁科はベッドにうつ伏せになって眠っていた。

水を吸った衣類の重さにうんざりしながら、そろりそろり近付くと、物音に気が付いたのか指先がぴくりと動く。

「……あ?」
「ワリ、起こしたな」
「ん、……いや、」

言葉は何も続かなかったので、俺は買ってきたものを片付けることにした。これまた勝手に冷蔵庫を全開にして、ゼリーやプリンを並べていく。
隙間にいつのか分からないチーズを一包み発見して、ドン引きして指で弾く。在庫処分だ捨ててやろうとつまんだ時、「あのさあ」と芯の無い声で呼び掛けられた。

「やっぱ熱下がってなかったみたい」

仁科はもぞ、と寝返りをうつ。
眉間にシワを寄せた決して穏やかとは言えない表情が、半分のぞく。
彼は何かを言おうと口を動かした、が─雷鳴が轟いたのは、その時だった。

「うわっ」「!」

バリバリと腹の底に響くように大きな音。振動が家具や窓ガラスに伝わった。電気が点滅し、一度消えて、なんとか持ち直した。
途端激しさを一層増す雨の音。建物全体に叩き付けるような、当たったら痛そうだなんて思うくらいの。

「……う~わ~これはどっか落ちたかもなぁ」
「……」
「つーかこれ、俺帰れんのか」
「……テレビ、つけていいよ」

布団の中からぬっと腕を伸ばし、テレビのリモコンをこちらに放る。左手でキャッチ、俺はそのまま赤い電源ボタンを押した。
真っ暗だった液晶は、主婦向けのワイドショーを映した。「すごぉ~い!おいしい~!」と、話題のグルメに舌鼓を打つタレントの頭に重なるようにして、事務的なテロップが流れる。

「警報でてんじゃん。うわ、サイアク」
「何て?」
「大雨警報。外出を控えろってさ。それに電車が動いてねぇ。電気系統のトラブルで上下線運転見合わせ……これ、ぜってぇさっきの雷だろ」

……困ったことになった。コンビニで取りあえずの食料を調達してやったら帰ろうと思っていたのに、交通手段を断たれてしまったではないか。先のコンビニで自分のためにと買ったスナックが、ビニールから飛び出していた。

どうしたものかと思案する視界の端で、仁科がむくりと起き上がった。そういえば、こいつは何かを言いかけてはいなかったか。

「何、起きるの?」
「いや、……何か、うつ伏せになってると、吐きそう」
言いながら、壁を背に両膝を抱え込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
「……だから、熱下がってなかったっぽいって……」

うっ、と突然息を詰め、慌てた様子で口元を覆う。身を縮めるようにして、仁科は浅い呼吸を繰り返した。それから、言い聞かせるような長い溜め息。

「……俺今日、泊まってこうかな」

口から飛び出した思い付きは殆ど反射のようなもので、驚いた顔を見合わせたのは二人同時だった。ぽかんと間の抜けた顔を、仁科はすぐに引っ込め、一秒後には迷惑そうな表情に変わっていた。こっちの方が万倍見慣れている。

「はあ……?帰れよ、見るからにお前のスペースねぇよ」
「酷っ!この雷雨の中帰れって?電車も動いてねーのに!」
「足、生えてる」
「足違いだ、アホ。二時間かかるわ」

言葉尻に重なるようにして、再び響く雷の音。風も強くなったのか、ざあっと雨粒が騒ぐのが聞こえた。
そしてびくりと緊張に跳ねる仁科の肩。
雷に驚いたのかと思ったが、こいつにそんな繊細な心があるわけが無かった。

「っ、ふ、袋……!なんか、……っ、袋、取って、」

喉の奥に抑えたような声。ぐ、と息を詰め、背中を丸める。突然の要求に「えっ」と聞き返すと、青ざめた表情で睨まれた。

「なん、でもいいから、早く……!」

両手で覆った頬が、膨らんだ。「んん、」こもった呻き声は、限界の近さを訴えていてぎょっとする。状況を理解し、咄嗟に辺りを見渡した。角にあるごみ箱には結構な量の紙くずやちりが溜まっているし、あっちにあるのは紙袋、しかも服が入っているからダメ。足下にあるのは、ああ、これでいいじゃん。これでいい。

「ほら!袋!」

中に入っていた菓子を放り出し、まだ雨で少し濡れているコンビニの袋を差し出した。それを奪うように掴む仁科。受け取るが早いか、彼は低くえずいた。

「おえっ……、っ……、おえ……っ」

ビニール袋の中に、ばたばたと吐瀉物が落とされる。さすがに昨日から何も食べていないと言うだけあって、固形物はひと欠片も無い。辛うじて胃に入れていた水分が、濁った色になって吐き出された。

空っぽの胃から出てくるものなんてそれくらいで、もう何も出すものは無いだろうに、仁科の嘔吐反射は治まらない。乱れた呼吸はひきつけでも起こしたようだった。

薄い唇の端から、唾液が糸をひいて落ちる。喉が締まるようなえずきを繰り返すその様子に、どうにかなってしまうんじゃないかと、ぞっと背筋が冷えた。

「おい、大丈夫か、マジで」

がたがたと震える仁科の手に代わって、袋を掴む。脱力して、手を離してしまいそうだったから。視線を落とすと、寒い室温ではないのに鳥肌が立っていた。背中を擦ろうと腕を回すも、身を捩って避けられてしまう。無駄な肉の無い、薄い背中の感覚だけが手のひらに残った。浮いた背骨を感じたが、それはここ数日の話ではないだろう。背骨くらい、自分だって触れる。

「……背中、は、いい、……」

乱れた呼吸を整えながら、息も絶え絶えにそう絞り出す。そのまま、ぐったりともたれ掛かってきた。猫っ毛の毛先が頬を掠める。体温の高い仁科の重みがかかってくる。ゲロ袋と化したコンビニのビニールがするりと落ちそうになり、慌てて取り上げた。ちゃぷ、と中身が揺れる。微かに酸のにおいがした。

(……おいおいおい、これ、マジで)

やばいんじゃないの。

こんなに弱った仁科を、というか、こんなに弱った人間を見たことがなくて、じわじわとインクの滲むように焦りが募る。

風邪は、叩けば治るんじゃなかったのか、仁科母よ。

これはもしかして、また救急車か。そうだ、まず水分を取らせないと。でももしかして、飲んだらまた吐いてしまうんじゃ。

麻痺した頭で最善策を思案する。少しも働いていない思考が「一度叩いてみたらひょっとしたら」と確実に正解ではない解答を閃いた時、ちょっと、と掠れた声で呼ばれる。俯いたままの仁科が、横目の視線だけで見上げていた。

「……おかしなこと、考えただろ、おい」
「えっ、いやそんな、別に」

ぎくりとするも、不愉快そうに眉根を寄せた仁科を見て、内心は安堵で胸を撫で下ろす。良かった、ちゃんと生きてる。

「お前、少し横になってろ。コレ、捨ててきてやるから」
「……ん、……悪いな」

ぞんざいな口調こそ通常運転に近くはあるが、やはり発熱に嘔吐と弱っているのは変わらずで。まるで吊っていた糸がゆるむようにベッドに倒れ込む。
でも心なしか、表情は穏やかだ。吐いてスッキリしたのだろうか。あとは仁科持ち前の健康な肉体に頑張ってもらおうじゃないか。

「あ、」吐いたものを流そうと、トイレのドアノブを掴んだとき、背後からそう声が上がった。

「何だよ?」
「あー……、いや、……なんでもない」
「ハァ?」
「……お前がコンビニ行ってる時、一回吐いたから。におったらごめんって、言おうと、思ったんだけど」
「ああ、意味ねぇな。つーか、コレだからな」
「うん。ごめん」
「換気しといてやるよ」
「うん」

ほぼ水分だけとはいえ、胃のなかでごちゃ混ぜになってどろりとした吐瀉物を、ビニールから便器へ流す。酔っ払いのゲロ掃除より何倍もましだ。居酒屋でバイトをしていれば、後始末は毎回のことだった。

手洗い場でビニールを洗って、少し迷って丸めてプラごみに分別。ワンルームゆえにキッチンも兼ねた一室に戻ると、仁科がうとうとと半分眠りに足をかけていた。俺が出てきた物音で引き戻してしまったようで、ゆるりと目を開く。

「……ぁ、……悪い、ごめん」
「だから良いって。寝ろよ、悪ぃ起こしたな」
「ん、」

幾分平常な呼吸。間隔の長い瞬き。
日も落ちてきて、悪天候のせいで一層暗がりの部屋に、豆電球だけ点けておく。弱まることを知らない雨音の勢いと、時々響く雷。

脱力しきった仁科が横たわる、背の低いベッドに寄りかかって、俺はテレビを眺めていた。

勿論、音は消してある。

本当は真っ暗にして然るべきなのかもしれないが、仁科はテレビが点いていようと構わずに眠れるタイプだと知っていたし、何より俺が退屈すぎて、死にそうだったのだ。無音画面の向こうで、タレントがクイズに答えていた。

全快していない仁科が寝るまでは、しっかり目を覚ましている必要がある。そんな使命感、あるいは責任感を感じていた。これは定食どころじゃない恩義である。治ったら絶対に焼き肉奢らせてやろう。あ、でも、病み上がりで焼き肉はないか。

(ま、別にいつでもいいか)

どうせこれからも同じ大学、同じ教室に通うのだから。
突然震えるスマホ。はっと目を開ける。俺、寝てた?
眩しく明るい画面を見ると、笹原だった。

『ニッシーどうだった?いた?』

そういえば何の連絡もしていなかった。ふと仁科を見ると、規則正しい寝息を立てていた。ようやく、ようやく落ち着いたらしい。指先を動かして操作する。

「それが風邪引いて地元戻ってたらしくて。一応落ち着いたらしいけど、明日も行けるか分かんねえな」

送信ボタンを押す前に、手から抜けたスマホはゴトリと床に転がった。
テレビの明かりがぼんやりと、軽快カラフルに照らす部屋で、いつの間にか、眠りに落ちていた。

あらしの夜に:END

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  1. ピンバック: 短編 – Lepsy02

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