通学電車 痴漢ネタ

出会いと別れの季節、4月。先月まで中学生料金で扱われていた俺も、今月からは高校生ぶんの対価を求められる。
足並み揃えた内申書と、灰色の受験勉強の結果である。
例年より気温が低く、まだ桜も咲ききらない今年の春はいつまでも冬の気配を引き摺っていた。こういう冬の過ぎたあと、夏は暑くなるのだと、田舎の祖父の言葉を思い出す。
あまつさえ雨も降り続き、どうにもすっきりしない天気だったが、予定通り入学式は執り行われた。うららかとは程遠い、曇天昨日の話だ。
校長や地元有力者、あとはよく分からない白髪頭の薄っぺらい熱弁の後、入試の首席が代表として高校生活への抱負を述べ、生徒会長があいさつをし、所謂よくある式次第。
校歌をブラスバンドの演奏と共に合唱して、昼過ぎには解散となった。

「姫野~、姫野裕一郎、いないか」

そして翌日。予め郵送されていた書類に、所属クラスも記載されていた。1年5組と印刷された明朝体を思い出す。
2年以上からは正門近くの掲示板で知らされるらしい。
あちこちで繰り返される始めましての自己紹介。クラスメートの緩い繋がりが作られていく中、俺は呑気にスマホをいじっていた。地元生まれ地元育ちの強みである。

突然ガラリとドアが開き、男性教師の低い声が響いたのは、そんな時だった。

クリップで纏められた手元の書類をやや乱暴に捲り、もう一度名前を呼ぶ。そうして教室をぐるりと見渡した。
該当者はいないらしく、教室内には「誰、それ」という空気。当然だ。今日は入学式翌日である。

姫野という芸名のように可愛らしい名字と、それに対して裕一郎という古風な名前のバランスが、なんとなく面白かった。

「まだ来てないのか、参ったなあ…」教師は黒板の前に立ち、チョークを掴んだ。トン、トン、と板面を打ち、白い粉が点になる。
がさつな雰囲気に似合わない綺麗な字で、学籍番号と姫野裕一郎の名前を書く。どうやら私信を残すらしい。一体何をやらかしたんだ、「姫野裕一郎」は。

「えっ?あー、それ、オレです、オレオレ」

明るい声と共に、ひょいっと教室に入ってきたのは、小柄な男子生徒。
誰もが彼にに注目した。 俺もその例に漏れず、つい視線で追ってしまう。彼が、「姫野裕一郎」だ。
姫野はきょろきょろと辺りを見回して、集まる視線に困惑しながらもどこか楽しんでいる様子で。
どこからか「えー、可愛い」と華やいだ呟きが飛んだ。
艶っぽい黒髪、くるりと丸い目。“姫野”の二文字は、やたらと彼の外見に似合っていた。

「ああ、良かった。君が姫野か」チョークを置き、安堵した声。「実はクラス組みに手違いがあって。姫野、本当は2組だったんだよ。すまんなあ」

首をカクカクと上下しながら(頭を下げているつもりらしい)、正しい書類を手渡す男性教師。
当人はきょとんとした顔で、えー、と間の抜けた声を出した。
書類を見て、教師を見て、それから教室を見る。

「あれっ、もしかしてオレ、お呼びでない?」

そして、おどけた様子でそう言ってのける。
そのフランクな対応は、教室中の笑いを誘った。
顔見知りかどうかなんて関係なく、彼には人を惹き付ける何かがあったのだ。

「あはは、どうも失礼しました~」

ひらひらと手を振り、来たときと同じ足取りで教室を出ていった。
姫野が去ったあとも、しばらくは笑いの余韻が残っていた。

「はーい静かに」

まだ笑いの含んだ声で、男性教師はパンパンと手を叩く。
全員が、若くて体格の良い教師に視線をやった。

「いやー、入学早々すまなかったなあ。よし、全員揃ったしホームルームを始める。俺が担任の──」

風のように去っていった彼、姫野裕一郎が学年のアイドル的存在になるのに時間はかからなかった。
いつだって、男女問わず輪の中心にいた。

1年の春のことだった。

彼と初めて話したのは、進級した夏のこと。
連日降り注ぐ強い紫外線。それは半日外に出ていた夜には皮膚がヒリヒリとするほどで、眩しさでどことなく白っぽい真夏日だった。青空、快晴、風もない。
クラスが離れていると、同学年でも一面識もないやつがごろごろしている。俺と姫野も、そんな間柄の一例だった。

それは最悪のシチュエーションだった。

先の駅で人身事故があり、その影響で大幅な遅延。
通勤通学ラッシュの最寄り駅は、いつにも増して混乱しきっていた。
辛うじてホームルームには間に合いそうな時間だったが、遅延証明はポケットにねじ込んでおく。あと3分!なんて、急ぎたくなかったから。

無理に駆け込むサラリーマンに押され、潰されそうな車内の中、すぐ近くに同じように詰め込まれる姫野の姿があった。
驚いた。同じ電車を使っていたんだ。
小柄な姫野は人に埋まっていて、何とか手すりを掴んだようだ。
身動きが取れないほど混雑した車内で、俺は姫野の斜め後ろに落ち着いた。姫野の後頭部と、ほんの少し覗く横顔が視界に入る。
俺はあくびを噛み殺した。

異変に気付いたのは、二駅ほど通過した時だった。

上り電車の乗客はさらに増え、蒸し暑い車内は酸素が薄く感じる。香水、整髪料、制汗剤。あとは、輸入物の柔軟剤と、ひとの体臭。
様々なにおいが混ざりあって胸の奥がモヤモヤする。何度経験しても慣れることはないし、不快極まりない。

そんな中、姫野が落ち着きなく視線を泳がせている。
ふと見た彼の顔色は、車内の気温に合わず真っ青で、一体どうしたんだとぎょっとした。
電車の揺れに負けそうになりながら、俯き、背中を丸める。ずいぶん、具合が悪そうだ。快速電車はびゅんびゅんと駅を飛ばしていく。

酔ったのかと真っ先に浮かんだ。酔ってもおかしくないほど、車内の空気は淀んでいたから。

けれど周囲を見渡し、明らかに様子のおかしいもう一名に、気が付く。

姫野の真後ろに立つ中年のオッサン。そいつの手は、姫野の下肢に伸びていた。欲望の色は、眠気を吹き飛ばすどんなカフェインよりも強烈だった。

(おいおいおいおい!マジかよ!)

生の痴漢なんて初めて見た。それに、姫野は男だ。それは制服で一目瞭然である。

男は薄ら笑いを浮かべながら、もぞもぞと手を動かす。
姫野は逃げようと身動ぎするが、混雑した車内では叶わない。どうしようか。姫野と話したこともないし、向こうは自分のことを知らないし、と逡巡していると、遂に男は姫野のベルトに手をかけた。

―――あ、まずい。

直感と同時に人の隙間から手を伸ばし、姫野の腕を掴む。彼を庇うように自分の方へ寄せた。
薄い肩は目に見えて分かるほどびくりと跳ねた。「大丈夫」という意味を込めて、肩をしっかりと支えた。姫野が横目でちらりとこちらを見た、気がした。
俺はすかさずスマホを取りだし、男の顔を撮影する。
男は慌てた様子で視線を逸らし、同時に両手で吊革を握った。

電車が停まる。
俯き、その場に崩れそうになっていた姫野を車外に押し出した。

『2番線、発車します──』

空気の抜ける音と共にドアが閉じ、大勢の人を乗せた箱は動き出す。
初めて降りる駅だった。人気はない。自動販売機とベンチだけが、アスファルトの上で乗客を見送っていた。
2面のホームが向き合っただけの小さな駅で、姫野はへたり込んだ。

「はっ、はぁっ、……っ」

背中を丸め、胸元を押さえる。強い日差しに照らされて、火傷しそうなほど熱い地面に、姫野はすれすれまで近付いた。
その呼吸があまりに苦しそうで、俺は慌てて膝をつき背中をさする。明るくて、誰からも好かれて、みんなのアイドルで。どこにいたって輪の中心にいるような姫野が、壊れそうなほどパニックになっている。触るのが少し怖かった。
点字ブロックの上に荷物が落ちる。

「姫野、息、吐いて。びびったなあ、さっきの。写真撮ったし、大丈夫だから」

「は、…はっ…、……んん」

大丈夫、大丈夫、と呪文のように言い聞かせる。
落ち着きを取り戻そうと、大きく深呼吸をしていた姫野だったが、吸って、吐いて、3回目。体を強張らせて息を詰めた。俺は、「えっ」と思う。そして、疑問は驚きに着地した。

アスファルトに、黒い染みが広がっていく。
それはどんどん大きくなって、姫野の制服と、スニーカーとを、じわじわと汚していく。姫野を中心に広がったそれは、俺の革靴まで侵略したところで、とまった。

姫野がおしっこを漏らしていた。

真ん中で、両手で顔を覆った姫野からは、静かに嗚咽が溢れる。
俺はどうしていいか分からなくて、姫野の頭を、肩を、腰を撫でた。
制服の下はチェック模様の深緑色だったが、おしっこに濡れてはっきりと変色している。
アンモニアのにおいがツンとした。

「…………何か、ゆってよ………」

沈黙に耐えられない、と言いたげな、消えそうなほど細い声。俺の思考は痺れていて、すぐには言葉を捕まえられなかった。
足を動かすと、靴底がピシャリと水面を鳴らした。

「……えー、ええと……、災難だったなあ、ほんと」

もっと気の効いたことが言えないのかと、俺は内心頭を抱えた。だって、考えてみてくれ。なんて声をかければいい?
華奢な背中が震えて、姫野はまた泣き出してしまった。泣かせたいわけじゃないのに、きっと姫野も感情をコントロールできないのだろう。
「俺、」と、掠れた声が聞こえた。

「…………すごく、小便、したくて。朝、寝坊して。…………トイレ、行けなくて。でも、す、すごい、行きたくて、も、我慢できないって、思って」

俺はただ、相槌を打つ。
次の電車が来るのだろう、ホームには人がまばらに増えていった。気にしないようにしていても、視線を時々、感じる。

「お、降りたくても、動けないし。迷ってたら、もう、動いたら、だめだって……。俺、さっき、だめだと思って。…………電車で、漏らすんだと、思って。…………だ、から、さっきの、がなくても、俺、きっと、……きっと」

片手の袖で涙を拭う。泣きじゃくる姫野は小さな子供みたいだった。幼い動作で、ごしごしと目元をこすった。
さっき。と姫野は言った。
痴漢にあいながら、頭のなかは溢れそうなおしっこのことでいっぱいだったのだろう。俯いた横顔。丸まった背中。一部始終を思い出して、俺は、いたたまれない気持ちになった。
電車に乗ってすぐ、爆発的な尿意を抱えたのだろうか。少しでも気を紛らわそうと、あらゆる方策を試したのかもしれない。快速電車は止まらないし、遅刻ギリギリの時間だし。
チリチリとなにかがくすぶる。どんな言葉をかけようか、声が出てこない。

だから、俺がしたことは、姫野を隠すことくらいだった。日差しから、集まり出した視線から、姫野自身が見下ろす失敗から。鞄から引っ張り出した指定ジャージを頭から被せる。
サイズが一回りも二回りも大きいものだから、小柄な姫野はすっぽりと覆われた。

濡れたままの制服で、姫野が冷えないか心配だった。
誰かが呼んだのだろう、人をかき分け、駅員が近付いてくるのが見えた。

通学電車 痴漢ネタ:END

1件のコメント

  1. ピンバック: 短編 – Lepsy02

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です