答えのない話

──ドアが閉まります、閉まる扉にご注意ください…

アナウンスが流れ、ゆっくりと電車が動き出した。
「よっこらせ」とでも言いたげな重い動作で、鉄の塊は動き出す。
三谷は最終車両に乗り、背中を壁に預けていた。
少し首を動かせば、無人の操縦室越しに線路が伸びている。
滑らかに連結されたいくつもの線路はやがて分かれ、一本だけが残される。
今、僕はこの上を走っている。

線路脇のコスモスが揺れていた。流れていく風景、眠たい温度。遠くのビル群を追いかけた。
足元に視線を戻す。
脇の下に嫌な汗をかいていた。
マスクの位置を整えた三谷は、息を殺して電車の揺れに身を任せる。右手で左の手の甲をつねった。
侵入してくる嫌な記憶、嫌な思考に蓋をするために。

三谷が引き籠るようになったのは、もう一年も前の事だった。

下駄箱の中の泥、墨汁に浸されたノート、破かれたジャージ。思い出すだけで吐き気がするような、動物の死骸。
そして授業中、背中に刺さる画鋲。
痣や切り傷は絶えることなく、ある朝靴を履こうとして、突然息の仕方を忘れてしまった。

もう限界だと、思った。

翌日から登校を諦めた僕に、父親は何も言わなかった。興味を持たれることはなかった。
「好きにしなさい」背中を向けたまま、そう一言。言いながら父は確か、スーツを脱いでネクタイを外していた。

担任からの電話が度々かかってきた。留守電に担任の声が溜まっていく。
「お前はそんなやつじゃないだろう」「先生に話してくれないか」「いったいどうしたんだ」
善意と責任感の押し付けが鬱陶しくて、三谷は電話線を抜いた。どうせ家族は固定電話なんて殆ど使わない。
繋がらないコードを見て、突然酷い目眩に襲われた。
壁を伝って、這うようにしてトイレに向かう。溢れた胃液に喉が焼けるようだった。

季節は流れ、終業式にも始業式にも出ないまま、2年生に進級していた。
やたら雨の多い、湿った春だった。
三谷は相変わらず決まった時間に起床して、部屋から出ることなく勉強して、排泄をして眠る。人間として最低限の生活は、ギリギリ保たれていた。
生きているから腹は減るのだが食欲はなく、父親の作った弁当の残りや、コンビニの惣菜やパンを適当につまんだ。
悪意のある落書きで埋まった教科書は、時々三谷を現実に引き摺り出した。このままじゃいけない。一体いつまでこうしているんだ。学校に行かないと。思考の弾丸が縦横無尽に飛び回る。

「…………!、はっ……はぁっ」

全身が心臓になったような、激しい動悸。ずるずるとへたり込んで、部屋の隅で震えが治まるのをじっと待った。酸素が、薄い。
涙が勝手に流れてきて、なんて惨めなんだと、頭が割れそうに痛んだ。
ふらふらと引き出しに近付いて、頭痛薬のシートをすがるように掴む。がたがたと震える手で錠剤を押し出し、ミネラルウォーターで何度も飲み下す。
気が付いたら、箱は空っぽになっていた。

「うっ」

突き上げるような、強い吐き気。倒れ込んだベッドの上、枕に顔を押し付けて丸まった。逆流してきたものを嚥下する。金属音に近い甲高い耳鳴りに大音量で包まれて、覚えたのは安堵だった。

大丈夫、僕はここにいる。苦しさに甘えて、何も考えなくていい。それだけになれる。

雨続きの金曜日。そろそろ本格的に単位が危ない、せめて登校だけでもしてくれれば出席になるから、といった旨の手紙が届いた。
ソファに腰掛け、担任の手書きの文字を視線で追った。

ぼんやりと宙を見上げる。手紙はヒラリと床に着地する。
天窓には雨が勢いよく打ち付けられ、シーリングファンは冷たく三谷を見下ろした。

と、固定電話の着信音が鳴り響く。びくりとして全身が硬直した。
数ヵ月前三谷が抜いた電話線は、その翌日には直されていた。

恐る恐る、受話器を取る。
「…………はい」震える声で応答する。相手はやはり、担任だった。

「!三谷か。良かった、また、繋がらないかと思ったよ。中原だ。」
「…………中原先生」
「ポストに入れておいたんだが、読んだか」
「……はい」
「それなら話は早い。とにかく、一度学校で話そう。このままだと三谷、卒業も厳しいぞ」

善意の押し付け、正義感のモデルは時に無遠慮で残酷な針になるのだと、その時実感した。
共感を求めていたわけではない。同情だってそうだ。
卒業出来ない、その言葉はいやがおうにも三谷を現実へ呼んだ。
選択肢は少ない。学校へ行かなくては、いけない。
心臓がバクバクと脈打って、冷や汗が止まらなかった。
汗でぬめる受話器を何度も持ち直す。気付かれないように深呼吸。

「……はい」
「平日じゃなくてもいいんだ。そうだな、明日はどうだ。土曜日なら、殆ど人は居ないし」
「……はい」
「来てくれるか!じゃあ明日、13時に相談室で待ってるからな。気を付けて来いよ」

ガチャリと電話は切れた。受話器から耳を離しても、不通音は微かに鼓膜を揺さぶった。

「……あしたの、13時、……相談室、……」

放心したように、三谷はそう繰り返した。
そこにあるのは静寂のみ。
思い出したように、雨音が聞こえてきた。

翌日、重い足で学校へ向かう。制服に袖を通すのも、電車に乗るのも、全てが久しぶりだった。鬱屈とした気分で歩を進めた。
流れていく風景に、かつての記憶と共通点を見つける度、胃が刺すように痛んだ。吐き気と動悸、色々なものが洪水のように押し寄せる。
最寄りに着く頃には、三谷は腹を抱えて蹲っていた。誤魔化すように、ジャケットの上から鳩尾の辺りをぐいぐいと押す。シャツには皺が刻まれた。俯いて膝に視線を落とす。
乗客の少ない時間帯で良かった。そんなことをふと考える。
よろよろと駅のトイレに転がり込み、胃の痛みと吐き気が治まるのをじっと待った。腕時計をちらりと確認する。時刻は13時を回っていた。

結局何とか校門をくぐったのは、約束の時間から30分後。
下駄箱を見て、一度は落ち着いていた吐き気がぶり返してきた。
──泥ならまだいい。落書きだって全然いい。生き物の死骸だけは、やめてほしい。
錆びた音を立てて空いた下駄箱には、自分の内履きが揃えて並んでいるだけだった。

話し合いの内容は、手紙にあった通りだった。
保健室でもいいから、登校はした方が良いということ。
放課後の補講と、受けなかったテストの追試を特別に認めるということ。
そして、何かクラスで問題があったのなら、伝えてほしいということ。

何か答えなければと思うのに、飛び出したのは嗚咽だった。

担任の中原も、突然泣き出した三谷にぎょっと目を見開いた。
「三谷?どうした?」と繰り返す。
止めどなく溢れる涙で、両手はぐしゃぐしゃになった。袖口まで流れ込む。

「ひっ、……うぅっ、……」

こんな、先生の前で、人前で、学校で。言葉にならない位に泣きじゃくって、そんな自分の気色悪さに耐えられなかった。
惨めで間抜けで仕方がない。恥ずかしい。このまま、消えてしまいたい。

(みっともない…………!!)

この日はまともな話し合いにならないまま、解散となった。

その後も中原は折を見て三谷を学校に呼んだ。補講と追試で何とかなるギリギリのラインまで、粘ろうと思っていた。
三谷にもその気持ちは伝わっていたが、学校という場所は三谷にとって恐怖の塊であり、その恐怖に負けていつまでもたたらを踏んでいる自分は憎むべき対象だった。

それでも何とか、前を向かなくてはいけない。時間は猛スピードで三谷を追い越す。

いつからか三谷は、登校する日の朝、大量の風邪薬を服薬するようになっていた。
フワフワとした浮遊感で、過去が磨りガラスに覆われるからだ。
みっともなく、泣かなくて済む。人前で泣くのは酷く恥ずかしくて、弱みを握られたような、そんな錯覚がやってくる。

だから今日も家を出る前、いつもの風邪薬を30錠ほど、ミネラルウォーターで飲み干してきた。
気休め程度に瓶ごとカバンの中に入れている。お守りのようなものだった。
ずれてきたマスクの位置をもう一度直す。

電車が停まった。
空気の抜ける音と共に、ドアが開く。
学校に、行かなければ。

薄くぼんやりとした秋空に見下ろされて、三谷は校門をくぐる。
風邪薬のお陰で、嫌な気分にはならない。話し合いの最中にも、泣かずに済んだ。
来週から、保健室登校をすることに決まった。
追試や補講も徐々に始めてくれるらしい。
地に足が着かないまま、先生の提案をただ受け入れた。
「三谷、前向きになってきたな」中原はそう言って、満足そうに頷いた。

どこか感覚を麻痺させて、相談室を後にした。胃の辺りが、なんとなくムカムカする。
消灯された、人気のない廊下を歩いている時だった。

「あれっ?」

突然響いた、誰かの声。ぎくりとして、心臓が飛び出るほど。浮遊感は雲のように消え去った。
玄関で靴を履きながら、三谷を見上げたのはかつてのクラスメートだった。え?と口が動く。

「お前、──三谷……?」

視線が交わる。

反射的に、逃げ出していた。

「はっ、はあっ、ぁ、ひっ」

体育館に繋がる渡り廊下で、三谷は立ち止まった。まばらな外出、走ったのなんて、遠い昔が最後だ。呼吸を整えようと、息を吸って、吐く。
壁に寄りかかり、背中を折った。狂った呼吸は少しも落ち着かない。
あれは、誰だっけ。でも、名前を呼ばれた。きっと、同じ教室にいた。

(気持ち悪い…………っ)

吐く、と思う間もなく、口の中に酸っぱいものがこみ上げてきた。逆流してきた吐瀉物で頬が膨らむ。
こんな所で、吐きたくない。もう帰りたい。はやく、ここから出たい。
左手で必死に抑えながら、角のトイレに駆け込む。
個室に飛び込んで、堪えていたものをドッと吐き出した。目の奥が、チカチカした。

「オエッ、……う、っ、うぇっ、……ゲホ、ゲホッ……っ」

便器に落ちた吐瀉物は、錠剤の糖衣で真っ白だった。
カバンに手を伸ばし、飲み物なんて持ってきていなかったのだと思い出す。

自分は、いつまで、こんな事を繰り返すんだろう。

何も考えたくない。
死にたくてたまらない。

帰りはいつも使わない地下鉄に乗った。
少しでも記憶を重ねないように。
薬を吐き出してしまったからか、電車に揺られながら泣きそうになった。

夜はまだ、明けない。

答えのない話:END

1件のコメント

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