研修車窓の帰り道

「仁見和彦っていいます。よろしくお願いします」

そう挨拶した瞬間を、下げられた頭のつむじを、俺は今でもはっきりと覚えている。
青空、快晴、クリーム色のカーテン。

五月。例年より少し早い時期の実習生の登場に、教室の温度はふわりと上がった。
大学の附属校であったため、実習生の受け入れには慣れている。というか、若干のマンネリすら感じるくらいの日常だった。短い期間とはいえ、それほど年の離れていない大学生が教鞭を執ることに抵抗を抱くクラスメイトだっていた。「またか」と作業のように流されてしまいそうな空気の中、仁見は自己紹介をはじめる。

「オレの担当する授業は英語になります。去年まで二年間、カナダに行っていたので、年はいつもの実習生より少し上になるかな。教科以外では、このクラスに入れてもらうことになりました。二週間、よろしくお願いします」

簡潔にのんびりと話して、今度は十五度のお辞儀。地毛らしい、色素の薄い髪の毛が頭の動きに合わせて揺れる。今回の実習生は、これまで来た学生とはまるきり違っていた。少なくとも、俺にとっては。
肩の力が抜けた、飄々とした口調と立ち振舞い。それに加えて柔らかな外見はたちまち女子生徒の注目を呼び、休み時間には担当外のクラスからも華やかな学生服が顔を見せるほどの賑わいとなった。

「先生、二年も留学してたってホント?」
「嘘ついてどうするの。本当だよ」
「じゃあ……えーと、先生、いくつなのー?」
「大学入る前、実は一年浪人してるからね。今二十五歳」

話し声は自然に耳に入ってくる。隣ではいくつもの問いかけが飛び交っていた。
脳みそがその往来の多くをいらない情報だと切り捨てられる中、二十五歳と答えた仁見先生の声だけが、いつまでも残って離れない。

二十五歳。

三十歳四十歳だと途方もなく、かといっていつも実習にくるような、自分と一、二歳しか変わらないような近さではない。
年齢の感覚はものすごく近眼で、近付くほど刻まれて遠ざかるほど粗くなる。
早く大人になりたくて、いつまでも子供でいたくて。少し先の未来が永遠に感じて、それでいて、いつの間にか巡る一週間。酸素はじゅうぶんにある。自由に動ける余白も。なのに時々息苦しくて、いつだって窮屈な毎日を、何でもないふりをしてやり過ごすのだ。
二十五歳というステージは、そんな不確かな十七歳の線上に飛び込んできた異分子だった。現実感をもってピントが結ばれる。
笑い声を上げた仁見先生の足が、俺の机にぶつかった。あっと声が出る。赤色のボールペンがカラカラと床に転がった。

「ごめん、ごめん。はい」

自分で手を伸ばすより早く、仁見先生はそれを拾い上げる。屈んで伸びた長い腕は、それだけでスマートに見えた。

「えーと、君は、」仁見の視線がぶつかった。
「三橋です」簡単に答えて目を逸らす。
「三橋君ね。よろしく。オレね、仁見和彦」
「……この前聞きました」
「あは、そうだよねぇ」

屈託なく笑うその人からペンを受け取る。ありがとうございますと一言言おうとして、なぜか言葉が詰まって、ガラリと空いたドアの音に遮られた。

「おーい、いつまで騒いでるんだ。予礼鳴っただろう。仁見先生も、実習中という自覚を持ってください」
「あっ、はい!すみません。戻ります」

教壇に立ったのは物理担当の江幡だった。

「えー残念」「先生またねぇ」

名残惜しそうな笑い声に見送られて、仁見先生は去っていった。江幡に会釈することも忘れない。頭を下げられた江幡はわざとらしくため息をついて、早く出ろと顎をしゃくった。
江幡は四月に赴任してきたばかりの教員で、確か仁見先生と同じ年か、ひとつ上。学生時代はサッカーをしていたという健康的に焼けた肌と、気さくな人柄。親しみ安い若々しさで生徒からの人気も高く―要するに少し、格好良かった。
それがものの一ヶ月で話題を奪われ、しかも実習に来た学生が自分と変わらない年だというのは、それはそれはやり辛いのだろう。時折見下したような話ぶりになる所には気付いていたし、人当たりの良い顔の裏、そびえ立つプライドを飼い慣らしているのかも――

「じゃあ、日直!三橋……えーと、三橋一真。号令」

名前を呼ばれて、走りかけていた思考は一時停止。他人のことをあれこれ詮索してしまうのは、俺の悪いくせだった。時々とんでもない方向に暴走してしまうから、もしかしたら妄想癖でも拗らせているのかもしれない。
俺は型通りの挨拶を揃え、大嫌いな物理の教科書を開いた。 

二週間は長いようであっという間で、仁見先生の実習期間は残すところ後二日となった。

今日は三限から、昼を跨いで県境のエネルギー施設に向かっていた。エネルギー研修という名目で、年に数回ある課外活動のひとつだ。山間部の広大な土地を生かした大規模なグリーンエネルギー機関で、そこで生まれた電力を利用した植物プラントが併設されている。
プラントは工場と言うより近未来的なラボラトリーに見え、白く直線的な空間は、例えば病院を彷彿とさせた。あるいは良く似た、それでいて大きく異なる親しい空間を、ずっと前から知っている。
瑞々しい若葉が人工的なLEDの光を浴びて薬品のように整列している。俺たちは横並びになって、分厚いガラス越しにそれを眺める。 どこまでもどこまでも清潔な空間だった。

昼食は施設内の社食で済ませる行程となり、学生たちにはプラントで栽培されたというイチゴが配られた。色も形もよく知るイチゴだ。トレーに並んだ赤い果物を、三橋はじっと見つめた。

「三橋、イチゴ嫌いだっけ」
「いや、めっちゃ好き」

「食べないのか」と問われて、俺はようやく一粒つまんでみた。眉をあげ不思議そうな顔で首をかしげるのは友人の遠見だ。弓道部のエースで、道着映えするしなやかな手足と身のこなしは学年を越えて有名だった。

後から考えればなぜあんなに躊躇っていたのか分からないが、そのときは何となく、怖いと思っていた。きっと、未知を恐れていたんだと思う。事実、味もよく知る普通のイチゴだった。土と太陽と、自然の水で育ったそれと、凡人には到底区別もつかない。
仁見先生は相変わらず大人気で、大勢の笑顔の中心でにこにこと座っていた。
眠たい午後を迎え、三橋達はぞろぞろと施設内を移動した。一般公開部分から中央の管理部へ、staff onlyと書かれた無機質な扉を押す。管理室では意外にも全員私服社員で(研究所のイメージで、白衣を想像していたのだ)、発電量や電力供給量がモニターでリアルタイムに追われていた。お行儀よく館内を一周し、最初の植物プラントに戻る。広報担当だという案内役の女性にお礼を言って全行程は終了した。
時計を見ると、時刻は午後三時半過ぎ。帰りのバスが停まっている駐車場に向かう途中、たくさんのため息が聞こえてきた。もちろん、俺も大きく重たい息を吐く。

「早く帰りてえけど、あの道がな~」
「最悪だよね」
「ここの人毎日使ってんのかな。ヤバ」

県境、山奥の施設。

広い県道に出るためには、道幅も狭く急勾配の坂道を、延々下らなければいけなかった。辛うじて舗装はされているものの、まばらな工事で一見して分かるほどにつぎはぎの道。古いアスファルトは白っぽく、新しく修繕されたところは黒っぽく。山を周回するようにぐるぐると曲がりくねるその道は、悪路と呼ぶに相応しいものだった。
行きの道では何人もの生徒が車酔いを訴え、こっちもヤバイあっちも吐きそうと車内はちょっとしたパニックになった。誰一人としてエチケット袋を使うような事態に陥らなかったのは幸いだったが、帰路も同じ道のりを辿るのだと思うと気が重くなる。

「酔いやすいやつは前座れー。酔ったら俺か仁見先生に言うように」
「はやめにね~」

バスの乗降口を背に担任と仁見先生が声を張る。仁見先生の方は手に持ったクリアファイルをフラッグのようにひらひらさせて、遅れている生徒たちの目印にした。副担任は最後尾につく。仁見先生を先頭に生徒たちは続々と車内に乗り込んで、最後に副担任、担任と続いた。生徒が揃っているか目視でざっと確認し、欠員はなく、担任は運転手に「お願いします」と告げた。畳まれていた乗車扉が開いて閉じる。

俺はちょうど真ん中辺りの座席で、隣には遠見が座った。遠見は「よっ」と右手を上げて、通路側に腰を下ろした。俺も同じように返して、すこしだけ身を避ける。空いてるから座って良いよ、と示すためだ。彼は荷台を見上げて少し迷って、荷物は結局足元に置かれた。プリントと筆箱、それから携帯電話しか入っていないようなぺらぺらのリュックだ。もちろん俺のカバンも似たようなもの。

窓の景色はゆっくりと流れ出した。大型バスはクジラの回遊みたいにぐるりと大回りして、駐車場出口から山道へ出る。雑談や笑い声で車内はたちどころに賑やかになった。

動き出してしばらくして、下り坂へさしかかってすぐのこと。
目を閉じて眠る体勢に入っていた遠見が背もたれから背中を離して、俺の肩を叩いた。

「うわ!びっくりした。寝てると思ってた」

窓の外をぼんやり眺めていた俺は驚いて振り返る。遠見はごめんごめんと両手を合わせながら困り笑顔で、「あのさぁ」と言いにくそうに口ごもる。

「何?どうした」
「ごめん、俺、ちょっと酔いそう。そっち代わってほしい」

そっち、と指先で窓を指す。窓側を代わってほしいという意味だと考えて間違いないようだ。よく見れば微かに青ざめた顔色が隣にあって、俺は自分の頬が強ばるのを感じていた。

「いいよ。大丈夫かよ」
「ごめんなぁ」
「いいって」

腰を浮かせて、狭い隙間で入れ替わる。自分の体温ではない温もりの残った座席はなんとなく居心地が悪かったが、それ以上に嫌な予感が全身を駆け巡って抜け出せない。腕に、背中に、太ももに、鳥肌の波が寄せる。

――嘔吐恐怖。

暗いところが怖いとか、高いところが怖いとか。恐怖を喚起するスイッチは色々なところに存在していて、俺は昔から、誰かが吐いているところを見るのが——もっと言うなら、誰かの吐いたグロテスクに白みがかったモノを見るのが、すごく、すごく怖かった。

道も悪けりゃ、運転も悪い。急カーブでは体が持っていかれるほど豪快にハンドルを切り、停止のブレーキも前につんのめりそうになるほどの荒っぽさだ。あちこちで花咲いていた談笑は徐々に尻すぼみし、車内には穏やかでない空気が流れ始める。
何度目かわからない曲がり道で、足元のカバンが倒れた。それを直しながら横目で遠見の様子を窺う。遠見は窓に頭を預け、若干の前傾姿勢で目を泳がせていた。俺の視線に気がついて、取り繕うように無理やり笑顔を作る。

「はは……ほんとにヤベー」

ゾワッと全身が粟立って、嫌な予感に息が苦しくなる。俺は乗り物には強い。乗り慣れない人んちの車のにおいも平気だし、コーヒーカップをぐるぐる回しても大丈夫。こんな風に荒い運転と蛇行する山道でも、小さい頃から車酔いとは無縁だった。

「……俺も、やばいかも」

俺はそう返した。遠見の顔は見れなかった。

細く下っていく山道はようやくようやく開け、車体の揺れも秩序を取り戻してきた。大きな通りに出ればすぐに高速道路の入り口だ。その頃には車内の何人もが吐き気を訴え、予定にはないサービスエリアに寄ることが決まっていた。すぐに停車しなかったのは高速に乗ればものの数キロでサービスエリアがあることと、一般道を進んでも路駐以外に大型バスの停車スペースがないことを知っている運転手の判断だった。
遠見は少し前から、ビニール袋に向かって空えずきを繰り返していた。袋は担任から渡されたなんの変哲も無い半透明のレジ袋だ。遠見が縋るようにそれを握りしめているから、座席に黒いエチケット袋がついてるよ、とは言えなかった。

「遠見。無理しないで、吐いていいんだぞ」

担任は通路に立って、即ち、三橋の横から声をかける。
冗談じゃない!三橋はそう叫びそうになった。得体の知れない恐怖が爪先から這い上がる。遠見はクラスメイトだが、友人だが、それとこれとは全く別の次元なのだ。

「三橋も、大丈夫か。袋持っておくか」

次に案じられたのは三橋の体調だった。実際、湧き上がる恐怖心で三橋のコンディションは最悪だったし、顔色は蒼白で車酔いの一人だと判断されても何ら不思議はない。三橋は担任の問いかけに無言で首を振った。前座席の窓から流れ込む風圧で前髪が乱される。ゆるやかになっていくバスの速度を窓からの景色で知る。くぐもった呻き声と共に遠見の背中がびくりと跳ねる。怖いのに、見たくないのに、どうしても焦点を合わせてしまう。彼の頬が膨らんで、白い喉が上下した。バスが止まる。

「酔った奴から先に降りろー」

後方の座席まで届くように担任は声を張った。事実、この車内で誰よりも限界が近いのは遠見だったのだと思う。中腹に座っていた遠目は一番に座席を立った。体を折って今にも嘔吐しそうな体勢で、担任に引っ張られていく。その様子を目で追うクラスメイトが「ヤバくね」「大丈夫?」と当てもなく呟く。
次に続くのは三橋だった。視線に押されるようにして通路に出る。なんとなく、遠見のリュックも掴んでしまった。三橋の後にもバスを降りる面々が立ち上がり、通路はまばらな列となった。荷物を持っている都合から三橋は遠見の背中を探す。
目的は、すぐに果たされた。
遠見は乗車口のタラップを降りてすぐ、三歩ほど横に進んで、前屈みに足を止めていた。担任が小脇に手を入れるようにして遠見の上体を支える。見ている必要はないと直感した。見ない方がいいと分かった。後ろからぞろぞろと人が流れてくる。外の空気を吸いに、用を足しに、菓子を買おうという声も聞こえた。でも、足が動かない。

「オエ゛ッ」

動けないでいるうちに、遠見は大きくえずいて体を折った。担任の慌てた声。消化の曖昧な半液体がバシャリとアスファルトに打ち付けられる。意外にも足元はしっかりしていて、崩れることなくもう一度肩が跳ねる。あ、吐いた。と半分固まった頭が記号として理解する。
吐いたものが遠見自身のスニーカーに落ちて、担任の革靴を汚すところまで、コマ送りみたいに強烈に拾っていた。

「なに、誰?」「遠見?」「大丈夫?」

遠見を心配する言葉が次々に飛び交い、三橋の背中を飛び越えていった。それに逆行するように、クラスメイトを押しのけて、三橋はバスから離れた。どさりと手から離れた遠見の荷物も置き去りにして。

***

「う゛っ……うぇっ、……っ」

低く呻いた抱えた背中が波打った。膝立ちになって便座を抱える。垂れた髪の毛が邪魔そうで、三橋は後ろから耳にかけてやる。

「流すよ、仁見さん」

微かに振り向いた頭が頷く。やや長めの髪から覗いた顔色は真っ白に血の気が引いていた。きっと今の自分も同じ顔色なのだろうと思いながら、三橋は水洗ボタンを押した。ざあっと一気に水が流れて、ぐるぐる回って一旦リセット。仁見は腕を突っ張るように伸ばし、脱力して三橋の足に背中を預ける。何度か息を吸って吐き出して、乱れた呼吸を整える。

「……ごめんねえ三橋。学校で流行ってて、もらっちゃった」
「部屋戻りましょ。なんか飲む?」
「やー……申し訳ない……」

便座の蓋に体重を乗せてなんとか立ち上がり、差し出された三橋の腕を掴む。平日水曜日の夕方五時、仁見は朝からずっとこの調子だった。三橋は会社に二時間休を出して帰ってきた。職場の同期には「恋人が風邪を引いてさ」と話している。この同期も以前、風邪でダウンした彼女から呼び出されていたのを知っていた。
仁見は三橋の恐怖心を知っている。だから、勤めている高校で胃腸にくる風邪が流行ったのを見て、決して移されるまいと予防に徹していたのだが。仁見は都内の私立高校で英語教師として働く傍ら、在籍していた大学に非常勤職員として登録し、教授の助手……もとい、雑用係として必要な時に呼ばれている。弾丸で海外にいく機会も少なくないから、もしかしたら感染元は高校ではないかもなぁと、そうだとしたらどこかなぁと、先週一泊したタイの景色を思い出す。風邪っぽいと気付いたのはいつだったか。いや、やはりタイミング的に高校からで間違いないだろう。仁見は思考だけは穏やかにベッドに伏せていた。
ガチャリとドアが開いて、グラスを持った三橋が入ってきた。

「レモン味。どーぞ」

塩レモンのシロップを水で割って、はちみつを垂らした飲み物は仁見のお気に入りだった。吐いた後で水分を摂りたい気持ちはあったから、だるい体に鞭打って起き上がり、ベッドの背に寄りかかる。三橋の手からガラスを受け取ると「はい」とストローが刺された。あまりに甲斐甲斐しいので笑ってしまうと、何だよと言いたげに睨まれる。

「……酷い顔色だ」三橋を見上げた仁見が言う。
「どっちがって話だよ。病人は仁見さんだからな」
「うん、だから、お互いにね」

誰かが吐いている姿は、未だに怖い。例えそれが仁見であっても、介抱したいはずの手は震えるし動悸がして逃げ出したくなる。ただ、この怖さを、自分が怖いと思っているその事実を了解してもらえているというのは大きな違いだと三橋は思った。恐怖と心配は並存しても良かったのだ。
吐いている姿は怖かったし、グロテスクな便器の中身を直視することは出来ない。でも、その怖さの根っこには心配がある。仁見がどうにかなってしまうんじゃないかという不安も。

「オレの経験から言うとねぇ、大丈夫。明日には治ります」

三橋の不安を知っているから、仁見はあえておどけてみせる。

「絶対だからな、仁見センセイ」

仁見の気遣いを知っているから、三橋も同じように応じる。

「……なに?先生って。何となく呼びたくなっちゃった?」ニヤリと口角が上がる。
「うん。そう」

きっと、先生と同じ顔をしている。

研修車窓の帰り道:END

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