スージング・ヘビー・レイン

ダン、と、それはかなりの重量感を持った音だった。

未開封A4コピー紙の包み片手に、机を叩いたのは浅原重。クラス委員で生徒会書記、全国模試でも常に上位を維持する、先生方の覚えめでたき優等生だ。加えて、附属寮の管理委員なんて雑務もこなしている。

太陽を知らない白い肌、細く真っ黒な髪の毛は清潔な長さで整えられていて、いかにも〝線の細い男子校生〟然とした出で立ちだが──

「うるさいよ、君たち」

形の良い唇から飛び出すのは、氷点下の叱声。

浅原がクラス委員を務める三年C組には、問題児が集まっていた。

校則破りの髪色で、ピアス穴だってバスバス開け、言葉よりも先に手が出るような、そういう集団。でかい態度と声で周りを威圧し、肩で風をきって歩く。

全寮制で、生徒の自主性と自律を育てることに重きをおく、基本的には穏やかな私立高校。大人しい坊っちゃん嬢ちゃんばかりを相手にしていた教員たちは、突然変異のごとく現れた荒れてる世代に困惑した。

困った結果、そんな彼らを御せそうな生徒のいるクラスに、一塊で編成したのである。そこで憐れにも、勝手な都合で御者に選ばれてしまったのが、浅原だった。問題児は分散させるのが対処方法として一般的なのだが、いかんせん、不慣れだったのだろう。

そういう訳で、浅原はクラス委員として、今日もストレートに苦言を呈する。教室の後ろで固まって、くだらない話で大騒ぎしていた集団は、悪態を吐きながらじろりと浅原を睨んだ。

真ん中にどっかりと腰を下ろし、ピアスが大きく光るのは和島。左右に高橋、竹田。斜め前、購買のお握りの包みを開けようとしているのは、鷲宮。浅原の頭には、クラスメイトどころか学年分の顔と名前が入っている。

尖った視線も、攻撃的な態度も、浅原は涼しい顔で受け流す。全く、くだらない。内心では呆れ返っていた。

絶対零度の雰囲気を纏う浅原は、それが通常運転だ。

今だって、職員室のコピー機が用紙切れだとかで、補充を頼まれていたところだった。それくらい先生方で回してくださいと言いたくなるのをぐっと堪え、分かりましたと淡々と応じる。驚くべきことに、生徒会に舞い込む仕事の半分はこんな雑用だ。

印刷室から一包みコピー用紙を掴んできたら、何やら教室が騒がしい。
覗いてみると、まあ案の定、あの集団が大声で喋っている。ヒートアップして、胸ぐらを掴んだりしている。このままケンカだって始まりそうな雰囲気だ。

正義感とか、クラス委員としての責任感とか、そんな動機ではなく。ただ、うるさいから「うるさいよ」と告げる。浅原はそういう分別で生きていた。もっと言えば、「黙れタコ」くらい口にしてしまいそうである。

「……あ、ありがとう。助かったよ」
「別に」

去り際、彼らの前の席で困っていたクラスメイトがそっとやってくる。気弱そうに背中を丸める彼が、時々机に足まで乗せられて迷惑していることを浅原は知っていた。
しかし浅原に言わせてみれば、うるさいならうるさいと直接伝えればいいのだ。ため息を吐いて、教室を後にした。

その日の、放課後。誰もいない生徒会室。

浅原は黙々と作業をこなしていた。

「浅原くーん!」と、廊下の西から東に響き渡る声で教頭に呼び止められたのが、およそ一時間前。

教頭からは、「先週頼みそびれた書類が出てきた」「金曜日までに整理してほしい」という主旨の要望を矢継ぎ早に押し付けられた。ちなみに、今日は水曜日。その放課後に、金曜日までに、だなんて、一体どういう了見だ。

けれど、そんな不満をおくびにも出さないのが浅原重という人間だった。

いつも通り淡々と、粛々と。「承知しました」と段ボールいっぱいの書類を受けとる。年代順にファイリングして、行事絡みの書類は別枠でまとめて……頭のなかに、to do リストが作られる。

教頭の背中と、ハゲかかった後頭部を見送って、浅原はちらりと時計を見た。時間的に、今から生徒会役員を集めるのは無理そうだ。皆、もう寮に戻っているか、掛け持ちの部活動やサークル活動に精を出している頃だろう。

しょうがない。隠すことなく盛大にため息を落とした浅原は、その足で生徒会室へ向かった。

生徒会室は、教室棟の最上階、西端にある。

大きな窓が特徴的で、夕暮れ時は眩しいくらいの西日が差し込む、温室のような一部屋だ。観葉植物でも置いてみれば、きっとすくすくと育つだろう。

「はあ……」

一段落ついたところで、机に両肘をついて頭をのせた。三本指で眉間を揉む。テーブルに積まれた書類の山にうんざりとしながらも、右手を無意識に腹部に当てていた。

──今朝から、調子が悪い。

主に、腹の具合が。
意識しないようにしていた不調は、無視できないものになっていた。意思の力も時間切れ。だって本当なら、今頃ベッドで横になっている予定だったのだから。

目が覚めた時にはもう既に、なんだかおかしな調子だった。耐えられない程ではないが、看過し難い鈍痛。だからつまり、食べ物が原因ではない。たぶん。

冷えたか?そんなはずもないだろう。今は夏真っ盛りで、節電第一の校舎も寮内も蒸し暑いくらいだ。冷たいものも、傷んだものも食べていない。ならば胃腸にくる風邪、ストレス……と、考えられる原因を並べてみて、やめた。

原因なんてどうだっていい。ただ、今、「腹いた……」──思わず、呟いていた。

疼くような腹の痛みに、頬の筋肉が引きつった。
ゴポ…ゴポ…と、自分にだけ聞こえる大きさで、嫌な音が伝わる。不穏な蠕動を手のひらで感じて、脂汗がじわりと浮かんだ。
蒸してただでさえ汗ばんでいるのに、額が、腕が、べたついて気持ちが悪い。

(……下しそう)

一度気付いてしまうと、だめで。

腹の真ん中、奥の方。きゅうう、と細く悲鳴を上げたかと思えば、はっきりとした便意になって押し寄せてきた。息を詰める。浅原は思わず背中を丸めた。大丈夫、誰もいない、誰も見ていない。そう言い聞かせて、両手でお腹を抱える。

トイレに行かなきゃ、と思った。実のところ、今日は休み時間の度に向かっている。下痢未満に緩いそれを吐き出して、渋るお腹に不快感を覚えながらも、すっきりしないまま教室に戻る。……という流れを、幾度も重ねていた。

だからこそ、意識しないようにしていたのに。目の前に広がる雑務を憎々しく睨んでみても、状況は変わらない。調子の悪い内臓はさっきから、ひっきりなしに唸っている。 

そうっと立ち上がった浅原は、階下の男子トイレに急いだ。

雨だ。

トイレから、一階上の生徒会室に戻る途中、階段の踊り場。浅原は天窓を見上げた。雨粒が窓ガラスをまばらに叩いてている。

トイレの男女が階で分かれているのは、創立当初に男子校だった名残らしい。

普段は何とも思わないこの配慮だが、今日ばかりは、勘弁してほしい。上り降りを三回繰り返して、個室で腹痛のもとを流す。シクシクと浸潤する痛みは、徐々に捻れるようなそれに変わっていった。下痢の間隔も狭まってきて、痛くて、辛くて。疲れて、へとへとになっていた。

もうだめだ、帰ろう。と判断したのは、手洗い場で痛いくらいに手を擦っていた時。鏡に映った自分の顔色が、あまりに酷いもんでぎょっとした。

大丈夫。もう、半分終わってるし。生徒会役員に連絡して、明日、皆でやればすぐに終わる。だから、大丈夫。

誰のための弁明なのか、誰のための励ましなのか。ぐちゃぐちゃになった思考はなんだか気持ち悪くて、目が回って、吐きそうだった。

後で悔やむと書いて、後悔。

浅原重はそれはもう、盛大に後悔していた。

何で、一人でやってしまおうと思ったんだろう。何で、体調が悪化してすぐに、帰らなかったんだろう。何で、天気予報を忘れていたんだろう。

窓を打つ本降りの雨を見て、気が遠くなる思いがした。

台風が本州に接近しています。今日の夕方には上陸するでしょう。お帰りの際は気をつけて、お出掛けには傘のご用意をお忘れなく──。今朝、食堂のテレビで耳にしたアナウンサーの言葉が、今頃になって甦る。
ふらつく足取りで生徒会室に戻り、片付けもそこそこに荷物を掴んだ。

傘は無い。どうしようか。突っ走ろうか。この体調で?考えながら、足を動かす。校舎には誰も残っていない。ひとつだけ響く浅原の足音には、焦りが滲んでいた。

「……っうぅ」

生徒玄関についてすぐ。下駄箱に手をかけた時、腹がぎゅるぎゅる鳴った。危険信号。耐え難い痛みに小さく呻いて、冷たい柱に寄り掛かる。下腹を鷲掴みにした。制服の下で、ごろごろとおかしいくらいに動いている。伸びかけの髪が頬を掠めて、視界が滲む。

腹が痛くて泣きそうなんて、はじめてだ。

また下ってくる前に、寮に戻らないと。早く、部屋に戻りたい。同室の奴には悪いけど、今日は別の部屋に移ってもらおう。こんな状態で、誰かと同じ空間にいるのが嫌だった。同室とはいえ、気の置けない相手ではない。二人部屋ではなにかと遠慮をするし、逆に向こうからも気も遣われる。そういう距離間の相手だった。具合の悪いルームメイトを気遣うのも面倒だろうし、一人で横になれるのなら、もう、何だっていい。

はやる気持ちを嘲笑うように、雨足は勢いを強める。
アスファルトを叩く大粒の雨。玄関から一歩、その先は滝。意を決して踏み出そうとしたその時、「おい」背後から、声をかけられた。

「何してんだ、委員長」
「…………鷲宮」

振り返ればそこには、下駄箱から面倒くさそうにスニーカーを取り出す、鷲宮がいた。朝、騒いでいた集団の中で、お握りの包みを捲っていた奴だ。

こんなに背が高いのに、最下段が指定だなんてそりゃあ面倒だろうな。

鷲宮は、硬そうな髪をかきあげて、オールバックで固めている。湿気のせいだろうか、朝よりもぺたりと落ち着いて見えた。

「何してんだ」

靴を履きかえ、もう一度同じ言葉を繰り返す。肩が並んだ。

「…………雨がひどいから。どうしようかと迷ってたんだよ」
「あぁ、雨な」

そう言う鷲宮の右手には、ビニール傘が握られていた。
天気予報なんて気にするタイプには見えないのに。怪訝に思っていたのが顔に出ていたのか、鷲宮は傘を掲げて「これ」と続けた。

「前に持ってきた時、晴れて。部室に置いてたのを思い出した」
「…………そう」

言葉を返すのも億劫で、けれど、そんなことを気にする相手ではなくて。加えて、そんな余裕もなくて。
さっさと行っちまえ、そう思っていた。なんで並んで雨を眺めなきゃいけないんだよ。お前は、傘持ってるのに。

スッと体温が離れ、ようやく鷲宮は玄関を出た。一振りして張り付いたビニールを剥がし、ワンタッチで傘を開く。
そして、不思議そうに浅原を振り返る。

「帰らねえのか」
「…………はあ?」
「ほら、傘」
「は…………ぁ、あぁ」

傘を半分、開けている。来ないのかよ、という顔。一緒に帰るって?冗談だろ?
そう言おうとして、途端、下腹が低く唸って。ゴポ……腸が嫌な具合に、動く。猛烈な痛みが浅原を襲い、その場にずるずるとへたり込んでしまった。口からは、情けない声が漏れる。

「浅原?」

呼ぶ声には困惑の色。視界の端で、足がこちらに向いたのが見えたので、浅原は片手を上げてそれを制した。手のひらには、「来るな」の意味
を込めて。

「…………腹、痛いんだよぉ……、」

膝に顔を埋めていたから、聞こえていたかは分からない。

ああもう、なんでこいつに、こんなこと。今朝、うるさいなんて注意して──実際、うるさかったのだから、あの行動は間違ってない──だから余計に、きまりが悪い。自分はこんな事を気にするタイプだったのかと、変なところに驚いた。

出すものも無いだろうに、ひどい下痢は治まってくれそうにない。下ってくる前に、帰りたかったのに。雨のせいで。雨の、せいで。

行き場の無い気持ちはぜんぶ空に投げた。暴投。知ってるよ、そんなこと。

………ぐる、ごぽ、そんな具合に、中で、ガスが動く。
もう少し、治まったら、痛みが引いたら、トイレに。
腹が捩れてしまいそうだ。下唇を噛み、息を止める。
隙間を見つけて呼吸する。祈るような気持ちで腹を擦った。痛くて痛くて仕方がなくて、どうしようもなくて、下腹を抱える腕も、痛いくらいに緊張していた。
幸い、一緒にあるのは男子トイレ。壁で体を支えながら廊下を引き返し、熱いものを吐き出した。

やつれた表情で浅原が戻ると、なんと鷲宮が残っていた。律儀に傘を半分開けて、さっきと同じ場所で立っていた。これは間違いなく、浅原を待っていたのだろう。

時々傘を外に向けて、ビニールに打ち付ける豪雨の勢いに「おぉ」なんて。変なやつ。
下駄箱を開ける音で気がついたのか、首だけひねって後ろを向く。目があった。

「ほら」

傘を揺らす。
全寮制、帰り道は一歩と違わず同じ通り。ここで別々に帰るのもおかしいし、正直、そんな意地を張る理由も、気力もなかった。
浅原は無言で頷き、肩を並べた。

両手で腹を擦りながら、のろのろと歩く浅原に合わせて進むものだから、いつまでたっても寮が近付いてこない。

背中を丸めているせいで、鞄が肩からずり落ちて。何度も掛けなおす浅原を見かねた鷲宮は、それを奪い取った。ほんとうに、奪うという言葉がぴったりなくらい、無骨な親切だった。

庭園に差し掛かったところで、浅原は一瞬迷った。ここを突っ切れば、寮への近道である。ただし、フェンスを越えての立ち入りは禁止。一人ならばこっそり抜けてしまうのだが、今は一人じゃない。横にいるのは、よりによって鷲宮。いつも、鷲宮のいる集団に向け「ルールを」「規律を」と諫めている身として、それは無いだろうという気もする。そんな逡巡を知ってか知らずか、鷲宮は寸刻迷わず庭園に足を踏み入れる。

雨足はさらに勢いを増していた。仕方がないんだ。やむを得ない。浅原の革靴は、一歩、土を踏んだ。

緑豊かな庭を抜けて、時々ぬかるみに足を取られそうになりながら、それでも何とか通りまで出てきた。靴底に感じるアスファルトの固さが懐かしい。それくらい、浅原の歩みは緩慢だった。

「…………ま、……待って」

庭園を仕切る柵を乗り越えたところで、浅原は鷲宮の袖を引いた。

お腹、まずいかも。そう思ったのは、実は、庭に入ってすぐだった。言い出せなかったのは、ここを抜ければすぐに寮だと知っていたからでもあり、言っても仕方がないと、諦めていたからでもある。

けど、ほんとに、まずい。

さあっと血の気が引いて、腹は限界を訴える。。ぎゅるぎゅると、さっきから休みなく動き続けていて、ぬめるような下痢がすぐそこまで、本当にすぐ、そこまで下りてきて。立ち止まった両足が震える

「~~~~っ…………っ、」

鷲宮は気付いていたのかもしれない。

体を折って、泣き出しそうな浅原を、何も言わずに見下ろした。傘を、全部明け渡して。鋭い痛みは容赦なく浅原を攻め立て、成す術なく、濡れたアスファルトにしゃがみ込んだ。鷲宮も屈んで、浅原の背中を擦りながら、「おい」「委員長」「浅原」呼び掛けを落とす。浅原はもう、泣けてきてしまって、嗚咽を堪えることができなかった。

「おい、浅原。もう少しだから。寮、そこだから。誰か呼ぶか。おい」
「…………ひっ、……う、……っ……」
「くそっ」

舌打ちをひとつ。鷲宮は自分のスポーツバッグと、浅原の鞄を地面に投げた。傘も放り出し、浅原の両脇に手を突っ込んだ。強引でも、なんとか寮まで連れていかなくては、そう思っていた。だって、このままじゃ、

「浅原、」
「……っ、……む、むり、……や…………待っ、」

浅原の全身に鳥肌が立つ。あっと思ったときには、熱いものが肛門を通っていた。比喩ではなく、目の前が真っ暗になった。ここまで我慢して、頑張って。それなのに、排泄している。外で。制服が。クラスメイトの前で。絶望的な感情をうまく処理することができなくて、浅原は声を上げて泣いた。

全部の神経を使って肛門を締めても、水っぽいそれは溢れ続ける。

「…………っ、ひっ………ぅ……、~~~~っ」

濡れるのも構わず、視線を合わせて座る鷲宮に、腕を引かれる。抱えられるようにして、下着の中に、制服の中で、泥みたいな下痢が落ちていく。鼻につくひどいにおいを、雨はかき消してはくれなかった。
鷲宮は、まるで小さい子供をあやすように背中を叩く。

どれくらい、そうしていたのだろう。一分のような気もしたし、三十分以上経っていたような気もした。

「…………もういいか」

雨の隙間から、鷲宮が尋ねる。浅原は、声の出し方を忘れてしまって、震えたまま頷いた。鷲宮の体は離れたけれど、浅原は動けないでいた。下着の中、ぬるついた感覚が気持ち悪かった。どっちに動いても、正解がない。
ばさりと何かがかけられて、視界を覆った。掴んでみると、それは指定のジャージだった。確認するまでもなく、胸元には鷲宮と刺繍が施されている。

「羽織ってろ。それから、これと、これ」

鷲宮のジャージは当然大きくて、腰回りもすっかり隠れた。次々にスポーツバッグから引っ張り出されるのは、タオルと、ジャージのズボンと。言わんとしていることが伝わり、浅原は慌てて首を降った。

「い、いいっ……そんな、……いい、………」
「いいって、そのままじゃ帰れねえだろ」

ミカンは青色です。と聞いて、何言ってんだ?と返すような、心底怪訝な声だった。

「とりあえず脱げって。気持ち悪ぃだろ。で、袋…………まあ、パンツくらい入るな」

コンビニ袋(小)を広げて、納得したように呟く。差し出されて腕を伸ばしたが、袋を掴んだ自分の指が震えていて、それにもまた、ショックを受けた。

俯くと、毛先から雨粒が滴った。頭のてっぺんから爪先まで絞れそうで、地面はとっくに真っ黒。灰色の雲は息もできないくらいに重たくて、改めて、ひどい雨だった。

気を使ったのだろう、鷲宮はくるりと背を向けた。スニーカーのロゴが見える。そんな風にされてしまたら、もう好意を受け取らないわけにはいかない。
雨が降っても、逆立ちしても、ミカンは橙色だった。

浅原はおそるおそる、ズボンに手をかけ、下着まで一気におろした。太股を、泥水みたいなそれが伝う。下着からぼたぼたと下痢が落ちて、地面を汚した。スコールの勢いが崩していく。

当然だけど、ものすごく躊躇って、だけどそれ以外にどうしようもなくて。受け取ったタオルで太股と、尻と、とにかく汚れたところを無心で拭った。

汚れた衣類、下着。におい。グロテスクな惨状に頭がくらくらする。情けなくて、恥ずかしくて。一度は止まった涙が溢れ、雨と一緒に流れていく。

もう全身濡れているのだから構わない。靴を脱いで、地面にそのまま立つ。鷲宮のズボンはもちろん、大きかった。押さえていないと落ちてしまうので、片手でゴムの所を掴みながら、ビニール袋に下着を突っ込んだ。

「なあ、」

ずっと黙っていた鷲宮が、突然口を開く。ぎょっとして、肩が強張った。
心臓がばくばく跳ねる。何を言われるのだろう。いつも偉そうに澄ましてるくせに。優等生ぶってるくせに。先生のご機嫌とり―遠い昔に言われたそんな言葉を、いつまでも忘れられずに、耳が覚えている。

「俺って、不良か?」
「………………は?」

恐れていた想像の斜め上、どころか、全く別の惑星から投げられた疑問符に、浅原は己の状況を一瞬忘れた。
そんなことはお構いなしに、向き直った鷲宮はもう一度繰り返す。

「おう、着替えたな。俺って不良なのか?」
「ああ、ええと、…………えーと、……は?」
「教頭に言われて。だけど、不良って、金髪で、制服切って、刺青入れて……あとは、あれだ、鉄パイプと。だから、俺はいつ不良になったんだと、思って」

いや、違う。ちょっと待て。途中確実にヤーの裏系ご職業が混ざりました。それからもぶつぶつと「不良」要素を並べていく。どうやら鷲宮の不良像は、九十年代前半の影響が大きいらしい。
思い返して見れば、いつもあの集団とつるんでいるが、鷲宮が率先して騒いでいるとろは、見たことがない気がする。

「…………だって、いつも、和島達と……」
「名簿が前後だった。…………和島は不良なのか?」
「…………もういい」

返した言葉は、きっと雨に紛れた。時代遅れの不良観をひたすらに繰り広げながら、鷲宮は浅原の頭を撫でる。ばかにすんなと言いかけて、飛び出したのは嗚咽だった。
ひっくり返った傘に水溜まりができる。
二人で、ずぶ濡れになった。

***

変だねえ。おかしいねえ。
時計を見上げ、八王子は呟いた。

今日は月に一度の寮管会議。
学園附属寮の管理委員会が召集され、例えば寮内の備品とか、生徒からあがった要望とか、そういったことを話し合う。ちなみに今日の議題は、倉庫の雨漏りについてだった。
生徒会長のくせに、寮長のくせに、八王子は雨漏り問題解決について消極的だった。

「だってさあ、予算出して直せばいいわけじゃん。なのにうちに頼むってことは、あの埃だらけの倉庫に行って、真っ黒になりながら日曜大工しろってことでしょ~やだやだ」    

……というのが、彼の言い分。
時刻は丁度、集合時間を十分ほど過ぎていた。
八王子の呟きに、他のメンバーも各々時計を見やり首を捻る。会議室になっている和室、畳の上で、皆口々に心配の声を上げた。
名地はひとり状況が飲み込めなくて、横に座る八王子の腕を掴んだ。冗談みたいに整った顔が「なあに」と振り向く。困惑顔の名地を見て、八王子はそうかと合点する。

「ああ、そうだよね。なっちゃんは知らないよね」
「知らないっす。どうしたんですか」
「あのねえ、浅原ってのが来る予定なんだけどね、まだ来てなくて」

名地が(ほぼ強制的に)生徒会に加入し、(それに伴って強引に)寮の管理委員に加わることになったのは二ヶ月ほど前。さらに、名地以外の顔ぶれは全員三年生。
いくら成員六名の限界集団とはいえ、前回の集まりで軽く挨拶を交わした程度だ。顔と名前が一致していないのも無理はない。

「……で、浅原今まで遅刻なんてしたことがなくてね。連絡も無いみたいだし。無断で来ないなんて考えられない。なのに今、ここに居ない……なっちゃんならどう思う?」
「…………〝変だねえ、おかしいねえ〟」
「でしょ~~?」

連絡も無いみたいだし、の所でぐるりと室内を見渡し、顎に手を当て暫し思案。
──浅原先輩。確か、一番最後に挨拶した人。生徒会では書記の肩書だったはず。
名地は一か月前の記憶を手繰り寄せる。色が白くて、線が細くて──……
ふと顔を上げて、名地は「うわっ」と思わず声を上げた。
室内にいたから気が付かなかったが、窓の外は酷い雨になっていた。そういえば、購買のおばちゃんがそんなことを言っていたっけ。
木々が前後左右に大きく揺れているから、きっと風も強いのだろう。

「八王子先輩。浅原先輩、傘忘れて学校出られないとか、ないですかね」

思い付きを口にした名地に、おお、なるほど、いやしかし浅原だぞ……三年生からは様々なリアクションが返ってくる。
八王子は、名地を見て、外を見て、そうして唇の端を微かに上げ──要するに、すごく悪い、顔をした。もちろん、名地にしか見えない角度で。

「なっちゃん天才!それだ、それだ。浅原はああ見えて結構抜けてるところがあるんだよ。じゃ、オレたちで迎えに行ってくるから、雨漏り問題進めてて~!」
「え、俺も?」
「傘二本持ってきてね~。さ、行こう行こう」

こうして、王子は面倒な議題から抜け出した。
副会長兼副寮長から、とても歯切れのいい怒声が飛んでくる。

「おい!八王子!お前は!待て!」

スージング・ヘビー・レイン:END

記念日の朝

昨日の夜、予定を立てた。

教授の手伝いを終えて帰ってきた京介と、少し遅めの夕飯を食べながら。閉店間際の駅ビルで買ってきた、割引済みの中華惣菜である。
朔は昨日から京介の家に泊まっている。何も気にせず、自由に行き来できるのは、互いに一人暮らしをしているメリットだ。
10時には起きて、ハンバーガーチェーンの朝セットを食べよう、とか。12時の回で、ずっと見たかった映画を見よう、とか。京介のスニーカーが履きつぶしてボロボロだから、新調がてら買い物にも行こう。夜はちょっといいつまみと、コンビニで適当にお酒を買って、のんびり過ごそうぜ。と。
特別なことがしたいわけじゃなかった。新しいことを試したいわけでもなかった。
付き合って2年目の記念日である。

しかし。しかしだ。
そんな計画は出だしから盛大に転んでしまった。
それはもう、ポッキリと折れてしまった。
ひっくり返ってはくれないかと、ありとあらゆる逆説を並べてみたくなるものである。だってあんまりじゃないか。

「腹痛いー」

朔は、ソファの上で膝を抱えた。
お腹はシクシクと、切なく痛みを訴える。

記念日がどうのと、あんなに大騒ぎしていたのに。
2人が付き合うことになったのは、深夜の電話。話ながら日付けを越えてしまって、お互いのスタート地点は認識を違えていた。
即ち、朔の思う記念日と、京介の思う記念日は、1日ずれていたのだ。それが原因でややこしいケンカをしてしまって、結局仲直りはできたものの、正直その時のことはあまり思い出したくない。
とにかく。勘違いは回収されて、正しい形に収まって。楽しい1日を過ごすはずだったんだ。

「だいじょうぶかぁ、朔」

朔がソファを占領しているために、床に座ることになった京介は、カフェオレを啜りながらそう尋ねた。
京介の家にはミル付きのコーヒーメーカーがあり、時間があるときには豆から挽いてドリップしてくれる。これがそこらのカフェよりも遥かに美味しいものだから、もともとインスタントでもおいしく飲めていたはずの朔でさえ、コーヒーに特化して舌が肥えてしまったのだ。
テーブルの上には「一応」と言って置かれた朔のカフェオレが湯気を揺らしている。
これも、朝から京介が繊細な手間をかけて淹れてくれたものだと、朔は知っていた。

今朝。それも、まだ夜も明けきらない早朝。
朔は捩れるような腹の痛みで目を覚ました。内臓をぜんぶ一緒くたに掴まれて、両手で絞られてるようだと思った。
寝ぼけた頭は事態を全く処理できず、朔は混乱のままに布団の中で丸まった。京介は隣のベッドで、微かに寝息を立てている。
暗い所を怖がる朔に合わせてつけた、オレンジ色の常夜灯が2人を見下ろす。
息もできない激痛を両手で抱え込んでみたものの、改善の見込みはない。膝が額にくっつくまで背を丸めて、数分がたっただろうか。
ぬるつく脂汗まで浮かんできて、ギリギリと暴力めいた痛みの圧力は、徐々にその居所を変えた。
要するに、次に朔を襲ったのは強い排泄欲だった。
布団から転げ出て、よろよろとトイレに向かう。京介を起こしてしまっただろうか。少しだけ、起きてくれればいいのにと、願っていた。暗くて、痛くて、すごく、心細い。

痛みの副産物を吐き出して、何とか部屋に戻ってきたが、京介はしっかりと熟睡していた。
そうだ。京介はこういう奴だった。明かりが煌々と照らしていても、テレビでサッカー中継が盛り上がっていても、一度眠ったら絶対に起きないのだ。
京介が穏やかな寝顔を見せる一方で、朔の腹は渋り続け、引き攣る痛みは眠気をどこかへ追いやった。ベッドに背中を預け、暴れまわる腹を必死に宥める。
朔が何度目かわからないトイレに立ちあがり、朝日が細く差し込む頃になって、京介はようやく目を覚ました。

「さく?」

まだ半分眠った声で名前を呼ばれて、疲れ切った気持ちはあっという間に糸を切った。「腹が痛い」そう訴えて、朔は涙を溢した。腹具合が悪くて号泣する
成人男子、かなり限界だ。些か落ち着きを取り戻した今なら、そう回想できる。

「朔、あんまり酷いようなら病院行くけど、どうする」

カフェオレを飲み終えた京介が、少し真剣なトーンでそう尋ねる。朔のマグカップは一口も進んでいない。
焦げた乳白色からは香ばしくて甘い香りがした。

体育座りをしているのもしんどくて、朔はずるずると体を倒す。このだるさは、血圧が上がらないせいでもあった。
病院。どうしようか。この調子だと、病院に行くほうが大変な気がする。
一瞬だけ迷ったのち、そう考えて首を横に振る。

「ふーーー……」

ぴーぴーに下っていた早朝から、なんとか小康状態まで落ち着いた腹を庇いながら、深く息を吐き出す。
寝不足も相まって、筋肉から精神まで、朔は限界まで疲弊していた。
瞼が重くて目を閉じた。眠れはしないと分かっていたが、それでも幾分か気持ちが楽になる。
京介には悪いが、今日は放っておいてもらおう。
せっかくの記念日なのに、一緒に過ごそうと思ってたのに、ごめんな。回復したら、ちゃんと謝るから――

「きょ、京介さん?」

……そう、思っていた。
ソファのスプリングが軋み、重心が傾いた。その淵ギリギリに寝ていたせいで、危うく転げ落ちそうになる。
京介は朔の腕を解き、ぐったりと横たわる朔を見下ろした。
たび重なる腹痛と下痢で顔面蒼白だった朔の表情から、さらに血の気が引く。あれ、何だか、組み敷かれてないか、これ。

「ふむ」

観察するように、しげしげと眺めてくる。朔はこの目を知っていた。実験の時、顕微鏡を覗いて培養中の微生物を数える時と同じ目である。

「……ちょっと、京介、なに」

抗議の言葉が終わらないうちに、なんと京介は朔の腹に耳を当て、あろうことか片手でゆるりと擦り始めたのだ。

……何度でも言うが、京介は変わっている。少しなんてものじゃなく、それはもう、盛大にズレている。
時々、とんでもないことを口走ったりもするし、とんでもないことを平気でやってのけたりする。
京介の名誉のために付け足しておくが、彼に自らが変わっているという自覚はない。したがって、これぽっちも、悪気はないのである。

外から刺激を受けて、収まっていた腹が再び動き出した。ぎゅる、嫌な悲鳴が上がる。鳥肌が立った。
京介にもそれは当然聞こえていて、「うわっ」と顔を上げる。うわ、じゃねえよ、うわ、じゃ。

「痛そうな音がする」
「ちょ、……きょ、すけ、…それ、」
「え?」

ぶり返してきた腹痛に、堪らずに体を丸くした。京介の肩を押しのける。

「それ、やめて……ってば、」

京介はそこで初めて、自分の行動が悪影響を及ぼしていたと思い当たったらしい。
慌てた様子で体を離す。両手を上げて、身の潔白を証明。いや、だからさ…と突っ込む気力も朔にはない。
歯を食いしばって、襲い来る波に耐えるだけだ。

「ごめん!温めたらいいかと思って」
「……っ、……っう」
「ほんとごめん、何かできること、」
「こ、こっちくんな……」
「ええ」

頼むから放っておいてくれ。いや、まるきり放っておかれたら、本当は寂しいんだけど。けど、お願いだから、今はどこにも触るな。近づくな。
掠れた声でステイを言い放ち、うつ伏せになって下腹部を抱える。
暫くおろおろと見守っていた京介は、寝室から布団を1枚持ってきた。それを朔に被せ、真正面に腰を下ろす。座布団を尻に敷くのも忘れない。
そして余って床についた布団に、足を突っ込んだ。こたつにすんじゃねえよ。もちろん、抗議する元気はない。

「やばくなったら言って。俺、テキトーに課題やってるから」

京介は変わっている。10人に尋ねたら9人は賛成するくらい、変わっている。残りの1人は京介と同じくらい、あるいはそれ以上の変人だ。

夜、暗がりが怖かった。明かりのないトイレはものすごく怖かった。
腹はいつまでも治らないし、夜が明けないのかと思うほど、それはそれは絶望的な気持ちだった。
それでも、こんな京介が横にいるって、それだけで安心して泣けてきてしまうのだ。
きっと、自分もじゅうぶん、変わってる。

記念日の朝:END

先輩

八時五十分、一限の授業が始まる。聞きなれたチャイムを耳が捉え、やばい!と頬が引きつった。両足にいっそう力を込めて走る。脚力には自信がある。高校の陸上部では短距離選手だった。この足には過去幾度も遅刻の危機を救われている。
講義棟の階段を二段飛ばしで駆け上がり、途中の連絡通路を全速力で走り抜ける。遅刻常習犯ゆえに知り尽くした最短ルートで教室に急いだ。

息を切らして教室に滑り込む。どんなに気が急いていても、音を立てて扉を開け放つような真似はしない。目立たないように後ろのドアから。ちょうどアシスタントの院生が、出席カードを片付けようとしている所だった。お願いしますと懇願のポーズ。無事カードを手に入れ、ようやくほっと息をつく。
この授業は既に三回欠席していて、あと一度休んだら即単位とはさよならだ。意地の悪い……もとい、厳格な院生が手伝いだとカードを貰えないこともある。十分の遅刻までは誤差の範囲にして欲しいところだ。学生だって、朝はたいへんなのだから。
前の方から詰めて着席よう指示するタイプの先生なので、後ろの方ががら空きだったのは助かった。首尾よく一番後ろの列に座る。鞄を開き、ルーズリーフとペンケースを取り出していると、「ギリギリじゃん」横で笑い声が揺れた。

「げ、南先輩」
「おはよ」
「先輩もこの授業取ってたんですか」
「あいさつくらい返しなさい、こら」

背中をばしんと叩かれて、間延びしたおはようございますを返す。学年共通、学部共通のこの講義は、一年生から四年生までのあらゆる学生が揃っている。
南先輩は、学部は違うがひとつ年上の、サークルの先輩だ。俺が遅刻常習犯であることをネタにしていじってくるから、今はあんまり会いたくない人だった。

「小倉、この授業ヤバイの?」

楽しそうににやりと笑いながらそう問う先輩。前から資料のプリントが回ってきた。

「うっさいです。しょうがないんです、一限だから」

プリントを受け取りながら、先輩はふうんと笑った。「来年頑張らないとだったりして」なんて、余計なお世話である。一限だからしょうがない、この一言に、俺の苦悩が全部詰まっている。言い訳だと思われようが、開き直りだと思われようが、ほんとうに仕方がないのだからどうしようもないじゃないか。
九時三十分。机に伏して背中を丸める。もう「しょうがない」と諦めた、けれど本当に勘弁してほしい体質が本領を発揮してくるのは、いつもこの時間帯だ。おまけに、今日は走ったから。遅刻を避けようと全力疾走したせいで、腸の動きも活発になったのかもしれない。

「小倉?」

横に座る先輩にも、怪訝な声と視線を向けられる。

「……なんですかぁ」
「なあに、また腹痛いの?」
「うー……」

それは、物心付いたときから悩まされる下痢体質。大会前やテストの前に、決まってトイレに駆け込む奴、クラスに一人はいただろう。それが俺。朝は大抵下しがちだし、好物の揚げ物やスパイスの効いたエスニック料理もこの胃腸は断固拒否。好きだから時々食べてしまうけど、後で苦しむのも自分だった。
小学校の時は個室がハズカシイとか思ったりもした気がするけど、今は全然……とまでは言えずとも、毎日のことだと図太くなって、もういっそどうでも良くなってくる。緊急事態です、スミマセンね、と。だってお腹痛いし。
一限に間に合わないのは、まあ寝坊ってせいもあるんだけど、朝の下痢で家から、というよりトイレから出られないのが一番大きな要因だ。
今日は寝坊もしたし、そのせいで朝、トイレに行く時間が無かったし。
活動中や飲み会でもしょっちゅう腹痛を訴えて引っ込んでるから、サークルで俺の腹痛は、もはやお家芸のようなものだった。遅刻と並んでいじられる材料になっていたけど、これまた事実だからしょうがない。こっちは本気でくるしいんだから、放っといてくれと思う。
もう朝晩は涼しくなってきたというのに真夏と同じ勢いで稼働する冷房も、容赦なく内臓を冷やしていく。走った汗も冷えきって、じわじわと痛みを増す腹痛に拍車をかけた。
枕にしていた両腕を腹に回す。伏せているから額に机のあとが付いてしまうが、それを恥ずかしいなんて言っていられない。
うんうん唸ってなかなか顔を上げない俺に、さすがに冗談ではないと感じたのか、先輩は横から肩をつついて「もしもし」なんて言ってきた。

「そんなにきついの?薬とか飲んでみたら」
「……もう、飲んでますー……」
「……あ、そう」

愛用している(全くもって不本意だが)整腸剤は、対処療法というより予防線だ。やばいな、と直感した時とか、どうしても下痢を避けたい時にあらかじめ飲んでおく。飲み過ぎると効かなくなるってよく聞くから、下したくないのはそりゃ通年二十四時間なのは当然だけど、タイミングを見極める必要がある。

「……っ、……うぅ……」

ぎゅるっとお腹が鳴った。真ん中がごろごろと不穏に動く。まずい気配。本格的に下ってきてしまった。緊張しきったお尻の内側に、早く出せと軟らかくなったうんちが押し寄せる。危険信号。爪先で床を蹴る。お腹、痛い。

「お腹鳴ってる。だいじょうぶ?」

そんなの、無論、大丈夫なわけがない。でももう、返事を返す余裕もないくらい、頭のなかはトイレのことでいっぱいだった。少しだけ体を起こして、スマホの画面を起動。ロック画面には九時四十五分と表示された。

「……おなかいたい」

ため息と同時に弱音がこぼれた。下を向いていたから鼻水が流れてきて、ズッと鼻をすする。泣いてると思われたらどうしよう。でも実際、痛くてたまらなくて泣きそうだ。
全身に鳥肌が立ってちくちくした。
肛門に加わる圧力が、時間の経過と、それから痛みに比例してどんどん積み重なっていく。毎日経験していれば、じっとしていればやり過ごせる痛みと、そうでない痛みの区別が感覚で分かるようになってくる。経験値が貯まり、少しも嬉しくないスキルはかなりの精度で磨かれている。ほんとに全然、嬉しくない。
今日のこれは、後者。まずい方。息をするのもしんどい痛みと、整腸剤を無視した下痢。

「……一回トイレ行ってきたら。行けば治るんでしょ」

普段からかってくるくせに、急に気遣われると調子が狂う。息がかかるくらいに顔を寄せ、そう尋ねる先輩に首を振る。確かに先輩のいる時に、これほどひどい痛みに苦しめられたことは無かったかもしれない。しばらくトイレに籠って痛みの元凶を出しきれば、けろっと戻っていたから。けどその時だって、痛みは真剣なものだったのだ。ただ笑って誤魔化す余裕も残っていただけのこと。

「……たぶん、行ったら戻ってこれない……。出席、してないと、単位がぁ……」

言い終わらないうちに、絞られるような痛みに襲われ語尾が情けなく消える。水っぽい音がお腹から響いたの、きっと先輩にも聞こえたと思う。ああ、無理。これは、無理なやつ。  
血圧がぐんぐん下がっていく感覚がした。ひどい顔色をしていると思う。痛くて、動けない。このままじゃ、ほんとうに。

「カードと感想、適当に書いて出しておいてあげるから、ちょっと出てきなさい。ね、小倉」
「……、……っ……」
「動けない?」
「……動き、ます……」

先輩とのやり取りが聞こえたのか、前や横の席から何事かと視線が飛んでくる。緊急事態なんです。あんまり見ないでください。心のなかでそう断りを入れる。
出席に厳しいこの先生の授業で、そんなことが通用するのか分からなかったが、とにかく今はトイレに行きたい。単位と、人間としての尊厳を天秤にかける。刺激しないようそっと立ち上がると、重力に従って溶けきったうんちがずるっと動いた気がした。お尻の穴が開いてしまいそうになって、びくりと体が強張る。
大教室で良かった。最後列で助かった。いくら体質と割り切って付き合っているとはいえ、この年でうんちを漏らしそうだなんて気付かれたいわけがない。目立たない場所に座れたのは遅刻のお陰だった。
腰が引けた姿勢のまま、よろよろと教室を抜け出す。緊張した太股が、足を動かす度に痙攣するようだった。廊下の端に、男子トイレはある。焦る気持ちとは反対に、一歩の幅はどんどん狭くなっていく。ゴポ、ゴポ、と腸が蠕動するのを全身で感じて、嫌な汗が背中を伝った。その感覚も気持ち悪い。
いくら体質だからって、痛みに強くなるわけじゃない。腹痛には慣れないし、情けなさは重なる一方だし、涙で視界がぼやけた。

「……ぁ……!」
トイレが見えた途端、お腹は今日一番の悲鳴を上げた。捩れるような痛みも、一番。廊下の壁にもたれてお腹を両手で抱える。しゃがみ込んで、しまいそう。でも今、床に腰を落としたら、確実に漏らす。水っぽい音がしてガスが漏れて、さっと血の気が引く。どろどろになったうんちが、お尻の穴を抉じ開けるすぐそこまで、すぐ手前まで、下りてきた、感覚。
ぶしゅ、括約筋の力ではどうしようもなくなって、ガスと一緒に少しずつ、熱いものも通った。誰か、と辺りを見渡すも、授業中だ。だれも歩いていない。近くの教室から英語でも日本語でもない言語が聞こえてきた。つまり、助けはこない。
一歩、一歩、気力を振り絞って足を運ぶごとに、決壊は大きくなっていく。半べそだった。いい年なのに。成人してからこんな、こんなことになるなんて、思ってもいなかった。転がるように飛び込んだ個室。鍵をかけるのも忘れて、ガチャガチャとベルトを外す。お腹はやっぱり、何かが暴れているようにジクジクと痛む。焦ってうまく外れない。
無理矢理下ろした下着とズボンはべったり汚れてしまっていて、酷いにおいにげんなりする。けれどそれも一瞬で、熱い下痢便がさらに、肛門に押し寄せた。
破裂音と共に我慢してきたものを吐き出したのは、便座に腰を下ろすのと同時。羞恥と、痛みと、あらゆる感情が混乱して嗚咽が溢れた。お腹に力を入れなくても、ぼたぼたと便器に落ちていく。
嫌だ。嫌な体質だ。ほんとうに、嫌だ。

お腹のものを出しきっても、いつまでも痛みは渋って引かない。冷えて、体が震えた。そっと下腹に手をやると、驚くほど冷たかった。
ぐるぐると動くのを手のひらに感じて、まだ下しそうな予感にぞっとした時、コンコンと扉が叩かれた。「小倉ー?」聞こえたのは先輩の声。孤独な戦いから解放された気がして、安堵で体温が少しだけ上がった。これも、そんな気がするってだけだけど。
「せんぱいぃ……」
喉が渇いてくっついてしまっていて、久しぶりに出した自分の声は予想以上に情けなかった。扉の向こうに先輩の気配を感じる。
「あ~はいはい、小倉くん大丈夫ですかー?なんかいるもん、ある?」
「……ズボンと、パンツ……」
「よしよし。頑張りました。先輩がプレゼントしてあげましょう」
普段からかってばかりのくせに。またお腹ですかってふざけて突っついたりしてくるくせに。先輩はやっぱり先輩だった。一つしか違わないのに、甘えていいなんて。
購買で先輩が買ってきたのは、黒いボクサーパンツと灰色のスウェットだった。スウェットには大きな文字で大学名がプリントされている。下痢止めと水も袋に入っていた。
脱いだものをそのまま袋に突っ込んで、ようやく個室の外を見る。トイレから出ると、先輩が壁に寄りかかってスマホをいじっているのが見えた。気恥ずかしさから顔を見られないでいると、先輩が頭をぽんぽんと軽く叩いてきた。身長縮みそうだからやめてくれって、いつも言ってるのに。チビなの気にしてるんだから。
そこで、はっとする。

「出席!」

チャイムはまだ鳴ってない。つまりまだ授業時間のはずだ。
この授業は必修で最後に残った一限なのだ。今期で取りきって、来期からは一限のない生活をしたいと、そのために毎週早起きと、腹痛と戦っていたのだから。
先輩はあら~とのんびりした笑い顔。まさか。

「また来年頑張ろうか」
「~~!」

もう、何を怒っていいのか分からない。先輩に頼んだのに。でも先輩が来てくれなかったらトイレから出られなかったし。でも来年、それは本当にいやだ。もうどうしろっていうんだ。ああ、またお腹痛くなってきた。

「なんてね」

あはは、と 思いっきり笑い飛ばされる。「真っ青!小倉、ほんとにやなんだね」髪の毛をぐしゃぐしゃに掴まれて、言っている意味がよく分からなくて、俺はただ先輩を見上げる。

「うそうそ。二枚とも前のやつに押し付けてきた。うまいことやってあげたでしょ」
「なっ……!」
「ま、ダメだったらもう一回ね。実は俺も今リーチだったから、一緒に受けよ」

一気に脱力。これだってもう、仕方がない。と言うか、先輩だってリーチだったら、人のことなんて言えないじゃないか。
ぐいっと何かを押し付けられたと思ったら、俺の鞄だった。荷物も、しっかりまとめられている。講義のプリントも入ってるよ、と付け足される。

「先輩は次の時間実験だから。じゃあねえ小倉~」

ぽん、と一度頭に手をのせ、先輩はスタスタ行ってしまった。
その背中に、お礼を言えていなかったことを思い出す。次会ったときに、ちゃんとありがとうを言おう。神様、願わくば一限のない来期を恵んでください。
十時二十分。終業のチャイムが聞こえた。

先輩:END

通学電車 痴漢ネタ

出会いと別れの季節、4月。先月まで中学生料金で扱われていた俺も、今月からは高校生ぶんの対価を求められる。
足並み揃えた内申書と、灰色の受験勉強の結果である。
例年より気温が低く、まだ桜も咲ききらない今年の春はいつまでも冬の気配を引き摺っていた。こういう冬の過ぎたあと、夏は暑くなるのだと、田舎の祖父の言葉を思い出す。
あまつさえ雨も降り続き、どうにもすっきりしない天気だったが、予定通り入学式は執り行われた。うららかとは程遠い、曇天昨日の話だ。
校長や地元有力者、あとはよく分からない白髪頭の薄っぺらい熱弁の後、入試の首席が代表として高校生活への抱負を述べ、生徒会長があいさつをし、所謂よくある式次第。
校歌をブラスバンドの演奏と共に合唱して、昼過ぎには解散となった。

「姫野~、姫野裕一郎、いないか」

そして翌日。予め郵送されていた書類に、所属クラスも記載されていた。1年5組と印刷された明朝体を思い出す。
2年以上からは正門近くの掲示板で知らされるらしい。
あちこちで繰り返される始めましての自己紹介。クラスメートの緩い繋がりが作られていく中、俺は呑気にスマホをいじっていた。地元生まれ地元育ちの強みである。

突然ガラリとドアが開き、男性教師の低い声が響いたのは、そんな時だった。

クリップで纏められた手元の書類をやや乱暴に捲り、もう一度名前を呼ぶ。そうして教室をぐるりと見渡した。
該当者はいないらしく、教室内には「誰、それ」という空気。当然だ。今日は入学式翌日である。

姫野という芸名のように可愛らしい名字と、それに対して裕一郎という古風な名前のバランスが、なんとなく面白かった。

「まだ来てないのか、参ったなあ…」教師は黒板の前に立ち、チョークを掴んだ。トン、トン、と板面を打ち、白い粉が点になる。
がさつな雰囲気に似合わない綺麗な字で、学籍番号と姫野裕一郎の名前を書く。どうやら私信を残すらしい。一体何をやらかしたんだ、「姫野裕一郎」は。

「えっ?あー、それ、オレです、オレオレ」

明るい声と共に、ひょいっと教室に入ってきたのは、小柄な男子生徒。
誰もが彼にに注目した。 俺もその例に漏れず、つい視線で追ってしまう。彼が、「姫野裕一郎」だ。
姫野はきょろきょろと辺りを見回して、集まる視線に困惑しながらもどこか楽しんでいる様子で。
どこからか「えー、可愛い」と華やいだ呟きが飛んだ。
艶っぽい黒髪、くるりと丸い目。“姫野”の二文字は、やたらと彼の外見に似合っていた。

「ああ、良かった。君が姫野か」チョークを置き、安堵した声。「実はクラス組みに手違いがあって。姫野、本当は2組だったんだよ。すまんなあ」

首をカクカクと上下しながら(頭を下げているつもりらしい)、正しい書類を手渡す男性教師。
当人はきょとんとした顔で、えー、と間の抜けた声を出した。
書類を見て、教師を見て、それから教室を見る。

「あれっ、もしかしてオレ、お呼びでない?」

そして、おどけた様子でそう言ってのける。
そのフランクな対応は、教室中の笑いを誘った。
顔見知りかどうかなんて関係なく、彼には人を惹き付ける何かがあったのだ。

「あはは、どうも失礼しました~」

ひらひらと手を振り、来たときと同じ足取りで教室を出ていった。
姫野が去ったあとも、しばらくは笑いの余韻が残っていた。

「はーい静かに」

まだ笑いの含んだ声で、男性教師はパンパンと手を叩く。
全員が、若くて体格の良い教師に視線をやった。

「いやー、入学早々すまなかったなあ。よし、全員揃ったしホームルームを始める。俺が担任の──」

風のように去っていった彼、姫野裕一郎が学年のアイドル的存在になるのに時間はかからなかった。
いつだって、男女問わず輪の中心にいた。

1年の春のことだった。

彼と初めて話したのは、進級した夏のこと。
連日降り注ぐ強い紫外線。それは半日外に出ていた夜には皮膚がヒリヒリとするほどで、眩しさでどことなく白っぽい真夏日だった。青空、快晴、風もない。
クラスが離れていると、同学年でも一面識もないやつがごろごろしている。俺と姫野も、そんな間柄の一例だった。

それは最悪のシチュエーションだった。

先の駅で人身事故があり、その影響で大幅な遅延。
通勤通学ラッシュの最寄り駅は、いつにも増して混乱しきっていた。
辛うじてホームルームには間に合いそうな時間だったが、遅延証明はポケットにねじ込んでおく。あと3分!なんて、急ぎたくなかったから。

無理に駆け込むサラリーマンに押され、潰されそうな車内の中、すぐ近くに同じように詰め込まれる姫野の姿があった。
驚いた。同じ電車を使っていたんだ。
小柄な姫野は人に埋まっていて、何とか手すりを掴んだようだ。
身動きが取れないほど混雑した車内で、俺は姫野の斜め後ろに落ち着いた。姫野の後頭部と、ほんの少し覗く横顔が視界に入る。
俺はあくびを噛み殺した。

異変に気付いたのは、二駅ほど通過した時だった。

上り電車の乗客はさらに増え、蒸し暑い車内は酸素が薄く感じる。香水、整髪料、制汗剤。あとは、輸入物の柔軟剤と、ひとの体臭。
様々なにおいが混ざりあって胸の奥がモヤモヤする。何度経験しても慣れることはないし、不快極まりない。

そんな中、姫野が落ち着きなく視線を泳がせている。
ふと見た彼の顔色は、車内の気温に合わず真っ青で、一体どうしたんだとぎょっとした。
電車の揺れに負けそうになりながら、俯き、背中を丸める。ずいぶん、具合が悪そうだ。快速電車はびゅんびゅんと駅を飛ばしていく。

酔ったのかと真っ先に浮かんだ。酔ってもおかしくないほど、車内の空気は淀んでいたから。

けれど周囲を見渡し、明らかに様子のおかしいもう一名に、気が付く。

姫野の真後ろに立つ中年のオッサン。そいつの手は、姫野の下肢に伸びていた。欲望の色は、眠気を吹き飛ばすどんなカフェインよりも強烈だった。

(おいおいおいおい!マジかよ!)

生の痴漢なんて初めて見た。それに、姫野は男だ。それは制服で一目瞭然である。

男は薄ら笑いを浮かべながら、もぞもぞと手を動かす。
姫野は逃げようと身動ぎするが、混雑した車内では叶わない。どうしようか。姫野と話したこともないし、向こうは自分のことを知らないし、と逡巡していると、遂に男は姫野のベルトに手をかけた。

―――あ、まずい。

直感と同時に人の隙間から手を伸ばし、姫野の腕を掴む。彼を庇うように自分の方へ寄せた。
薄い肩は目に見えて分かるほどびくりと跳ねた。「大丈夫」という意味を込めて、肩をしっかりと支えた。姫野が横目でちらりとこちらを見た、気がした。
俺はすかさずスマホを取りだし、男の顔を撮影する。
男は慌てた様子で視線を逸らし、同時に両手で吊革を握った。

電車が停まる。
俯き、その場に崩れそうになっていた姫野を車外に押し出した。

『2番線、発車します──』

空気の抜ける音と共にドアが閉じ、大勢の人を乗せた箱は動き出す。
初めて降りる駅だった。人気はない。自動販売機とベンチだけが、アスファルトの上で乗客を見送っていた。
2面のホームが向き合っただけの小さな駅で、姫野はへたり込んだ。

「はっ、はぁっ、……っ」

背中を丸め、胸元を押さえる。強い日差しに照らされて、火傷しそうなほど熱い地面に、姫野はすれすれまで近付いた。
その呼吸があまりに苦しそうで、俺は慌てて膝をつき背中をさする。明るくて、誰からも好かれて、みんなのアイドルで。どこにいたって輪の中心にいるような姫野が、壊れそうなほどパニックになっている。触るのが少し怖かった。
点字ブロックの上に荷物が落ちる。

「姫野、息、吐いて。びびったなあ、さっきの。写真撮ったし、大丈夫だから」

「は、…はっ…、……んん」

大丈夫、大丈夫、と呪文のように言い聞かせる。
落ち着きを取り戻そうと、大きく深呼吸をしていた姫野だったが、吸って、吐いて、3回目。体を強張らせて息を詰めた。俺は、「えっ」と思う。そして、疑問は驚きに着地した。

アスファルトに、黒い染みが広がっていく。
それはどんどん大きくなって、姫野の制服と、スニーカーとを、じわじわと汚していく。姫野を中心に広がったそれは、俺の革靴まで侵略したところで、とまった。

姫野がおしっこを漏らしていた。

真ん中で、両手で顔を覆った姫野からは、静かに嗚咽が溢れる。
俺はどうしていいか分からなくて、姫野の頭を、肩を、腰を撫でた。
制服の下はチェック模様の深緑色だったが、おしっこに濡れてはっきりと変色している。
アンモニアのにおいがツンとした。

「…………何か、ゆってよ………」

沈黙に耐えられない、と言いたげな、消えそうなほど細い声。俺の思考は痺れていて、すぐには言葉を捕まえられなかった。
足を動かすと、靴底がピシャリと水面を鳴らした。

「……えー、ええと……、災難だったなあ、ほんと」

もっと気の効いたことが言えないのかと、俺は内心頭を抱えた。だって、考えてみてくれ。なんて声をかければいい?
華奢な背中が震えて、姫野はまた泣き出してしまった。泣かせたいわけじゃないのに、きっと姫野も感情をコントロールできないのだろう。
「俺、」と、掠れた声が聞こえた。

「…………すごく、小便、したくて。朝、寝坊して。…………トイレ、行けなくて。でも、す、すごい、行きたくて、も、我慢できないって、思って」

俺はただ、相槌を打つ。
次の電車が来るのだろう、ホームには人がまばらに増えていった。気にしないようにしていても、視線を時々、感じる。

「お、降りたくても、動けないし。迷ってたら、もう、動いたら、だめだって……。俺、さっき、だめだと思って。…………電車で、漏らすんだと、思って。…………だ、から、さっきの、がなくても、俺、きっと、……きっと」

片手の袖で涙を拭う。泣きじゃくる姫野は小さな子供みたいだった。幼い動作で、ごしごしと目元をこすった。
さっき。と姫野は言った。
痴漢にあいながら、頭のなかは溢れそうなおしっこのことでいっぱいだったのだろう。俯いた横顔。丸まった背中。一部始終を思い出して、俺は、いたたまれない気持ちになった。
電車に乗ってすぐ、爆発的な尿意を抱えたのだろうか。少しでも気を紛らわそうと、あらゆる方策を試したのかもしれない。快速電車は止まらないし、遅刻ギリギリの時間だし。
チリチリとなにかがくすぶる。どんな言葉をかけようか、声が出てこない。

だから、俺がしたことは、姫野を隠すことくらいだった。日差しから、集まり出した視線から、姫野自身が見下ろす失敗から。鞄から引っ張り出した指定ジャージを頭から被せる。
サイズが一回りも二回りも大きいものだから、小柄な姫野はすっぽりと覆われた。

濡れたままの制服で、姫野が冷えないか心配だった。
誰かが呼んだのだろう、人をかき分け、駅員が近付いてくるのが見えた。

通学電車 痴漢ネタ:END

記念日に向かうエレベータ―

「だから悪かったって言ってるだろ」
「もういい。好きにしろよ」

そんな風に尖った言葉を交わして、エレベーターに乗り込んだ。扉が開くと同時に対面した鏡が俺と京介を映して、微妙な距離が見えてしまう。俺はどかどかと端へ行き、京介は一階のボタンを押した。

閉じようとした時、事務員らしき女性が一人駆け込んできて、「どうぞ」と笑顔で扉を押さえる京介。「すみませんね」と女性。京介のこういうスマートさも、今はむかつく。

研究棟の六階から、箱は下降していく。次の階で女性は降りていった。

扉が閉まる間、京介は首だけ振り返って俺を見た。俺は、気付かないふりをしてそっぽを向く。

けんかの原因は、きっと京介からしたらくだらないことなのかもしれない。明後日、土曜日のデートの約束を、キャンセルされてしまったのだ。

俺と京介が付き合い始めたのは、大学2年の春だった。もともと会えば話すような、つるんで遊びに行くような友達だったのだが、同じ研究室に配属された。そんな、よくあるきっかけで。

もともと男が好きだったわけではない。その時に付き合っていた彼女もいた。けれど京介と会うたび、話すたび、今までに感じたことのないような、辞書には載っていないような、そんな感情に溢れていった。

以外と涙もろいこと。実は生き物の世話が好きなこと。居眠りするとき、たまに白目をむいていること。そういう発見の積み重ねは、今思えば恋だったのだろう。甘酸っぱい響きにくすぐったくなる。

ある日実験の道具を片付けていると──その日はネズミの解剖だったのだが──京介が急に、俺の名前を呼んだ。

「朔」
「なに」

京介は俯き、拳を握りしめていた。思い詰めたその様子に、思わず身構える。こんな風に、改まって話しかけられたことなんてなかった。声が固くなる。

「俺、ゲイなんだ」

衝撃のカミングアウトである。体感気温はマイナス2度。俺は試験管を落とした。薄いガラスの割れる音が、やけに大きく聞こえた。

「朔のこと、すきなんだ」

語尾は、嗚咽に消えた。

ごめんね、ごめんね、と京介は繰り返す。そうしないと、呼吸が出来ないというみたいに。言うつもりじゃなかった、ごめんね。

一方で俺は、鐘を頭から被せられて思い切り叩かれたような、揺れる感情を処理できずにいた。呪文をかけられたように体が動かない。舌が、指先が、ピリピリと痺れる。
けれど頭の冷静な部分はこれまでの想いをかき集めて、それに恋とラベルを付けた。きらきらとラッピングに包まれたようなその言葉は、誇らしげに光っていた。

「泣くなよ」と、やっとのことで俺は言ったと思う。
その時は、ありがとうと返したのだ。好きと言ってくれて、ありがとう。振り返るたびに残酷な返事だったと反省する。

けれどもっと残酷なことに、俺はその瞬間、彼女のことを考えていたのだ。

それから程なくして、俺たちは付き合うことになった。お互いの意思確認は真夜中の電話だ。くすぐったくなるような中身のない会話をして、十二時過ぎちゃったな、と京介が笑ったのを覚えている。

その時、俺は彼女と別れていて(「他に好きな人ができたんでしょ?」と気付かれた。女の勘は鋭い。円満な別れだったと思うが、男のエゴだろうか。)、もう一度春を迎えた。明後日が、ちょうど一年の記念日だったのである。

記念日を待ち遠しく思うなんてまるで女子みたいだけど、俺とってはどうしたって特別な日だった。

ブン、と機械の動く音がして、二人を乗せた箱が下降する。古い研究棟にあるのは旧式のエレベーター一台だけ。繁華街に立ち並ぶ、居酒屋が入った細長いビルのそれを想像してくれればいい。いや、それよりはさすがに大きいか。 

冬は明けたとはいえ朝晩はまだ肌寒く、コートを着るほどではないが冷えるのはいやなのでマフラーをぐるぐる巻いている。「朔は冷え性だな」というのは京介の言葉。そう言われて初めて自分の指先か冷たいことに気が付いた。

横目に京介の視線を感じる。女性が降りてからずっと、何かを言いたそうに俺の隣に立っていた。萎れたようにも見えるその様子に、俺は半ば意地になってしまった。ぜったい口を開くもんかとムキになっていた。

古いエレベーターは外気と変わらぬ室温だ。身震いしてマフラーに顔を埋めた。少し、さむい。そっぽを向いて、カウントダウンしていくランプをじっと見つめていた。

エレベーターが止まったのは、そんな時だった。 

あまりに自然に停止したので、異常な音もなくゆっくりと動きを止めたので、誰かが乗って来るのだと思い壁に身を寄せた。

京介も同じ判断をしたようで、真ん中をあけて一歩下がった。ふたりの間には絶対的な距離が生まれる。
けれど、いつまでたっても扉は開かない。機械の箱は時間が止まったように静まり返っていた。京介の息遣いすら聞こえる。

おかしいなと思ったのも、京介と同時だった。

「おい、朔」

京介が前を向いたままそう呼ぶので、反射的に顔を上げる。京介は階数表示を指差していた。

何、と思って視線を動かすと、なんと表示が消えていた。ランプはどの階にも点灯していなかった。まさか、これって。嫌な予感に胸がざわざわと騒ぐ。

さっき見たときは3階だったから、少なくとも今は1階か2階か、それともその中間か、とにかくその辺りにいるのだろう。そう分かった所で、どうしようもないのだけど。

悪いことはさらに続く。照明が点滅して、消えた。真っ暗闇だ。ひっと情けない声が漏れる。思わず身を縮めてしまう。非常用ボタンだけは電源が別なのか、仄かにオレンジ色に光っていた。

棒立ちのまま動かない俺に変わって、京介の腕がすっと伸びてきた。橙色の丸ボタンを押す。

「すみません、聞こえますか。すみませーん」

インターホンに唇が触れそうになりながら、それくらいの近さで呼びかける京介。音声が聞こえてくるであろう放送口からは沈黙だけが返ってきた。京介がボタンをガチャガチャさせる音が聞こえる。京介が焦ってる。珍しい。

「だいじょうぶか」

その言葉が自分に向けられたものだと分かるのに、少しだけ時間が必要だった。「だいじょうぶか、朔」もう一度投げられて、ようやく顔を上げる。

暗闇に目が慣れず、京介の人影がぼんやりと見えるだけだ。

「……平気だよ」

渋々、口を開く。言い争った後でこんな風に気遣われるのは癪だったけど、無視をするのも感じが悪い。
京介は、俺が暗いところを怖いと思っていることを、知っている。

小さい頃物置に閉じ込められたことがあって、それがトラウマになっているんだと、自分では思う。遊んでいたら偶然見つけて、好奇心のままに扉を開けた。秘密基地みたいだと喜んだ俺は、その戸を閉めて中をぐるぐると見渡した。

そこは祖父が趣味で集めている骨董品の保管庫だった。
骨董品の品評が趣味というより収集それ自体が趣味だったらしい祖父は、お気に入りだけを自室に飾り、それ以外は古い土壁の物置に並べていた。多くは木箱に収まっていたが、むき出しで置かれている彫刻の埃をすくってみたり、恐る恐る、蓋をはずして中の瀬戸物を覗き込んでみたり。そんな風に、時間はあっという間にすぎていった。

やがて日は暮れ、夕暮れを迎える。そろそろ戻ろうと引き返して、扉がびくともしないことに気が付いた。

古い物置だったから、立て付けが悪かったのかもしれないし、何かが引っ掛かっていたのかもしれない。今となっては真相は定かではないが、俺は薄暗い物置に閉じ込められてしまった。隙間明かりを頼りに照明はなく、ただでさえ暗かった室内は、徐々に完全な暗闇になる。

泣いても叫んでも助けは来なくて、泣きすぎて息が苦しくなったのを覚えている。辺りはすっかり日が落ちて、夕飯の時間になっても戻らない俺に、一家は大騒ぎになったそうだ。

泣き疲れた所を父親に発見されるまで、それは永遠にも思える時間だった。

もちろんこれは物心がつくかつかないかの頃の話で、こんな風に詳細に覚えているのは、家族から笑い話として繰り返し聞かされたからだ。

暗いところが怖いのは、これが原因かと納得した。

俺の怖がりは京介も了解済みで、京介の部屋で眠る時も、常夜灯を点けてくれる。京介はもともと部屋を真っ暗にして寝るタイプで、俺もそれに慣れようと思っていたけれど、冷や汗が出てどうしても眠れなかった。

俺はどんなに眩しくても寝られるから、と言った京介の言葉に嘘は無いようだった。京介は煌々とした照明の下であっても、テレビで賑やかにサッカーの中継をしていようとも、眠いときは寝る。

ようやく、目が慣れてきた。

エレベーターはうんともすんとも言わない。

爪先から、指先から、徐々に体温が奪われていく。

服の隙間から這い上がる冷気に、下半身がきゅんとした。

(……ちょっと、トイレ行きたくなってきた)

からだが冷えると、尿意を催す。生理的なものだけど、この状況では勘弁してほしかった。感じてしまった違和感を小さく丸めて、頭の隅に追いやる。少しでも暖をとろうと、胸の前で指をすり合わせた。

その時、ずっと俯いている俺に何を誤解したのか、京介にぐいと身を引き寄せられた。突然の引力に足がもつれる。それから、大きな手で肩から腕をごしごしと擦られた。摩擦熱のつもりだろうか。

「建物の停電なら、すぐに戻るだろ」

京介の体温と、息遣い。「分かってるよ」とでも言いたげな。くそ。いつも、こいつはずるい。何だか悔しくなってきた。

それきり、お互いに一言も話さない。非常用コールも繋がらない。しんと冷たい沈黙が下りてきて、あまりの気まずさに呼吸が止まりそうである。

セーターの袖を伸ばしたり、指の関節をいじったり、意味のない動作を繰り返していた。京介は相変わらず、俺を少しでも暖めようと密着している。無言なのも、変わらないが。

ひとの体は不思議なもので、すぐには行けないのだと自覚してしまうほど、なぜか行きたくなってくる。気にしなければいい話なのに、それだけが頭から離れなくなる。

さっき思い出したように感じた尿意は、この数分ではっきりとした欲求に変わっていた。気付くのがあと数分早ければ、エレベーターに乗る前に済ませたのに。ああでも、一階で行けばいいやとやっぱり行かなかったかもしれない。面倒なことを先延ばしにするのは俺の悪いくせだ。

ぱっと取り出して掴めそうなほど、膀胱が張っているのを感じた。

少しでも動ければ気が紛れそうだけど、京介がこんなにくっついていたら身動きも取れない。京介に変に勘ぐられるのが嫌だった。別に具合が悪いわけでも、どこかが痛いわけでもない。エレベーターが動けばいい、それだけなんだから。

『エレベーターご利用のお客様、お怪我はありませんでしょうか』

ザザッと砂嵐の音が聞こえたかと思うと、突然インターホンから音声が響いた。「おっ」と京介が期待色の歓声を上げる。体が離れて、途端にひんやりとした空気に包まれた。膀胱が縮んだ。一瞬で緊張が走り、俺は慌てて身を捩った。下腹部がむずむずする。無意識のうちに手を隙間に伸ばしていてはっとした。慌てて腕を後ろに回す。待って、思ったより、溜まってるかも。

「はい、怪我はないです。ただ、連れが少し、気分が悪いみたいで」
『大変申し訳ありません。先ほど電気系統のトラブルが発生しまして、順番に対応しております。そちらにはお客様と、お連れ様と、お二人でしょうか』
『そうです』
『承知いたしました。ご迷惑お掛けして、申し訳ありません。スタッフが至急対応いたしますので、復旧まで暫くお待ち下さい』

絵に書いたような、テンプレ通りの〝ザ・事務対応〟。
京介は振り返って肩を竦めた。参ったなあ、とでも言いたげなのんびりとした表情だ。俺がパニックにならないように、だろう。京介のそういう気遣いを、俺は知っている。

……意地を張っているのが、ばからしくなってきた。

「……俺、別に気分なんて悪くないけど」

そりゃ爽快ってわけでもないけどな。明かりの一つもない、こんな狭い箱に閉じ込められているんだから。

「や、そう言った方が優先的に助けて貰えるんではないかとね」

しれっとそんな適当を言いながら、京介は床に腰を下ろした。
壁に背中を預け、大きく伸びをする。関節が軽く乾いた音を鳴らす。
そして隣をトントンと叩いた。ここに来なよ、の合図。

「立ってても無駄に疲れるだけだし。小さくなってた方が暖かそうじゃない」
「お前自分のサイズ考えろよ。全然、少しも、小さくなってねえ」
「はは」

そうは言っても、立っていては体力を消耗してしまうのも事実。肌寒いのも、また事実だった。

俺は言われた通り、京介の右側に座る。ぎゅうと膀胱が圧迫されて、思わず顔をしかめた。声が漏れそうで唇を噛む。暗闇で良かったと、ここで始めて思う。敏感になった水風船を刺激しないように、そっと膝を立てた。

どれくらいの時間が経っただろう。

「朔?」

名前を呼ばれて、はっと我に返る。
もうすっかり慣れた視界で、京介の表情もしっかりと見て取れる。怪訝そうに、心配そうに、彼の眉が下がっていた。

「……な、に」

声が上擦ってしまう。
体のなかに溜まった余分な水分が、老廃物が、出口を求めて大暴れしていた。それを宥めるのに必死で、京介の振る会話に噛み合っていない自覚はあった。下半身に神経をとがらせ過ぎて、気もそぞろになっていた。

「暗いの怖い?」
「……べつに」
「具合悪い?」
「いや……」

答えながらも、膝が揺れてしまうのを抑えられない。じっとしていることが何よりも辛かった。なけなしのプライドとありったけの羞恥心で、最小限の動きに留めていても、これだけ密着していたら心臓の鼓動さえ伝わりそうだ。

「じゃあ、トイレ、我慢してる?」
「……」

沈黙が、肯定を伝える。

「……あちゃ~~」
「笑うな」
「笑ってなんか」
「声が笑ってる」
「笑ってないって。……結構やばい?」
「……う、」

お見通しなくせに、分かってるくせに。俺は立てた膝に額を押し付けた。あまりに恥ずかしくて、京介の視線に耐えられなかったのだ。

黙りこくっていると、京介がぐいと肩を寄せた。やっぱり、暖めようとしてくれるらしい。おしっこがしたくてむしろ顔が熱いなんて言えないけど、なんだか泣けてきてその肩に頭を預けた。

京介はまるで子供をあやすように、「よしよし」と撫でる。

「朔、ぷるぷる震えてる」
「……だって、」
「じっとしてんの辛くない。動いてていいよ」
「……んなの、」
「はずかしいなんて言ってる場合じゃないでしょ。助けが来るまで、我慢しないと」

……そうなのだ。助けが来るまで、エレベーターが動くまで、扉が開くまで。我慢しなくてはいけないのだ。
分かっていたことだけど、改めてそう言われると気が遠くなる。もうだめかも、なんて、弱気な気持ちがむくむくと膨らむ。

けれど、実際、こんなところで漏らしたりなんてしたら大惨事だ。いくら俺に甘い京介でも、そんなことまで許容できるわけがない。勿論俺だって勘弁だ。それはもう、当然。絶対に。

膨らんだ膀胱の中で、ちゃぷんとおしっこが波打った、気がする。ゾクリと背中に悪寒が走る。下腹部がカッと熱を持つ。

「ひぁ」

意図せず、短く声が漏れた。閉じた膝をさらにきつく合わせ、祈るように擦り合わせる。波をやり過ごそうとして、全身ががくがく揺れた。もうはずかしいなんて、言っていられない。悔しいけど、京介の言う通りだ。

「ごめんね、朔のおしっこ半分もらえたらいいんだけど」

気の毒そうな声音で、京介は時々とんでもないことを口走る。
呆れた俺は返事もせず、少しでも気を紛らわすために立ち上がった。重力に従っておしっこが尿道口まで降りてきて、咄嗟に前を押さえる。

「う~~……」

前屈みで中途半端な中腰のまま、狭い箱の中をうろうろと動いた。端から端まで二歩あれば十分な狭さの中を、行ったり来たり。足踏みしたり。じっとしているよりずっと楽だけれど、座ったままの京介に、まるで実験動物を観察するように見上げられるのが落ち着かない。

「ん、何だよ……見んな」

ようやく波が引いて、背筋を伸ばせるようになった。俺は京介に抗議の声を上げる。両足でソワソワと足踏みをしている姿で言っても、少しも凄みは出ないだろうが。

「いや、そう言えば朔がおしっこ我慢してるのって、レアだなと思いまして」
「…………はあ?」
「飲み会でも、そういうこと全然言わないじゃん」
「……」
「でも朔、トイレ近いよね。いつもきつくならないように、計画的に行ってるの」
「…ちょっと今、トイレの話やめて……」
「ああ、ごめん」

京介が口を噤んだので、再び沈黙が訪れる。
俺の足音だけが、いたずらに響いて聞こえた。

***

じゃあ何か別の話題を、と思案して、京介は気がつく。今、俺たちはけんかの真っ最中だった。デートの話題はNGだ。もっとも今の状態をけんかと呼んでもいいものか、経験値というサンプルの少ない京介には分らない。

緊急事態に追いやられていた案件は、しかし揺るぎない事実としてそこに鎮座していた。

朔はトイレが近い。それは付き合う前から知っていた。

授業の間には必ずトイレに向かうし、二人で出掛けた時も。何かをする前と終わった後で用を足すのは、朔にとって習慣になっているようだった。

頻尿とも取れる体質で、それでもこんなに切羽詰まった朔を見るのは始めてだった。トイレに行けない状況でおしっこがしたくなる状況を、徹底的に避けていたかもしれない。そんな朔がいじらしくて、可愛いと思ってしまう。本人に伝えたら殴られそうだ。

朔は相変わらず小さく足踏みをして、かと思えば慌てたように足をぴったりとくっつけて体を揺らす。真っ暗なのとマフラーが邪魔をして表情までは見て取れないが、きっと苦悶の色を浮かべていることは容易に想像がついた。

可愛いが、そんな事を言っていられないくらい、気の毒だ。

京介はどちらかといえばトイレは遠い方で、こんな状態になるまで我慢したことがない。だから、今の朔の辛さを具体的に想像することさえできないのだ。

「……あぁ」

時々、くぐもった呻き声が沈黙に落ちる。弱々しい、切ない声。朔の細い指が太股を擦ったり、膝を撫でたり。

何度かそんな動作を繰り返していたのだが、今度は少し、様子がおかしい。

片手で前を押さえて、もう一方の手でお腹を抱えはじめたのだ。

「朔?」

黙ったまま何も言わない朔が心配になり、思わず声をかける。

消えそうな声で「きょうすけ」と呼ばれた。

「も、ヤバい……」
「朔」
「腹……痛くなってきた」

その語尾は、泣きそうだった。

ぎょっとして、立ち上がって朔の肩に手を回した。
小刻みなんてもんじゃなく、びくびくと震えている。寒さか尿意か、おそらく両方だろう。冷え性な朔の前髪は、汗でしっとりと張り付いていた。
朔は下半身を捩るように揺らしながら、両手で下腹部を守るように抱える。

「腹……っ、くるしい、」
「朔、取り敢えず座ろうか」
「……っ、痛、」
「ほら、ここでいいから、ちょっと落ち着け、な」

朔はちょっとでも膀胱を揺らさないように必死だった。震える膝を慎重に揃えて、ゆっくり腰を下ろす。
ぺたんと座って足を崩し、躊躇うことなく前を掴んだ。ゆるめのラフなズボンがぐしゃぐしゃになる。

寒さだけでも和らげようと、京介は着ていた上着を朔にかけた。それだけで、朔の背中は大きく跳ねた。

朔はその前を床に押し付けるように、ぐいぐいと押さえ込む。京介からしたら、そっちの方が痛そうだ。隣から、ずっと鼻をすする音が聞こえた。

腹痛まで起こしていて、このままでは本当にどうにかなってしまう。

京介は俄に焦りに包まれる。だって、こんなに辛そうだ。暗くて狭い、この状況にも参ってしまったのかもしれない。もぞもぞと不規則に動き、全身を震わせる。びくりと体を強ばらせ、細く息を吐く。

そうして、時間だけが過ぎていく。

電波の届いていないスマホを確認した。暗闇に画面の光は刺激的で、明るさを落として時計を見る。閉じ込められてから、かれこれ二時間近く経過していた。朔の尿意と腹痛は当然増すばかりで、息遣いはどんどん荒くなっていく。

もう、限界じゃないか。痛々しくて、見ているのもつらい。

朔がいつからトイレに行きたかったのかは分からないが、いつもの朔では考えられない位のおしっこを我慢していることは変わらなかった。

思い立って、もう一度非常用コールに向かう。人差し指で連打して、「もしもし、すみません」と呼び掛ける。

自分が焦っていると伝わったら、朔が不安になる。そうは思うのだが、非常事態で自分も神経が尖っていたのかもしれない。

今度はすぐに繋がった。先程とは違う女性の声が流れる。

「すみませんっ、エレベーターの復旧はまだですか。連れの具合が悪いんです」
『ご迷惑お掛けして本当に申し訳ありません。只今順番に対応しておりまして、順次復旧しております。救急スタッフも向かっていますので、もう暫く、お待ち下さい』

今度は本当に、平謝りの対応だった。各所から問い合わせが殺到しているのか、謝る声も枯れている。機械のトラブルが原因なら、この女性が悪いわけじゃないもんな、そんな風にも感じてしまう。お陰で少し冷静になった。

朔の隣にまた戻る。

京介は一向に改善の見えない現状に、溜め息をついた。

朔は俯いたまま一言も喋らない。まだ箱は開かないのだと、説明せずとも聞こえていたはずだ。

「朔、」

***

京介が立ち上がったのを見て、そろりと足の間に手を差し入れる。手のひらは、汗でじっとりと濡れていた。

トイレが近いという自覚はあったが、こんなに我慢を強いられたことはない。

インターホンの向こうで、申し訳ありませんと繰り返される。京介の落胆が見える。やり取りを聞いて絶望的な気持ちになった。シクシクと痛む腹を撫でながら、唇を噛んで俯く。あまりに苦しくて、声を上げて泣いてしまいそうだ。

伸びきった膀胱は、もういつ縮んでもおかしくないところまできていた。放出を求めて暴れる液体。爆弾を抱えている気分だった。

エレベーターが動いたとして、開いたとして、俺はちゃんと歩けるだろうか。力を込めすぎた両足は、緊張続きでじんと痺れていた。感覚も、あまりない。

「朔、」

戻ってきた京介は、開口一番俺の名前を呼んだ。

改まった声でそんな風に呼ばれると、嫌な予感しかしない。
次に彼の口から飛び出したのは、その直感を斜めに飛び越える言葉だった。

「朔のおしっこ、半分もらう」

京介は、時々、とんでもないことを口走る。

さあっと血の気が引いた。いやいやいや、ちょっと待て。

半分もらうって、どういうこと。何、言ってんの。理解が追い付くよりも早く、ぞっとして首をぶんぶんと振った。

急に動いたことで膀胱が揺れ、危うく漏らしそうになる。ほんとうに、すぐ先まで降りてきているのだ。背筋が震えた。気が狂いそうなほどの強い尿意に、情けない声が漏れる。

「朔、手退けて。俺、朔のだったら飲めますから」
「なっ、なっ、な、何、ばかなこと」
「本気だよ。このままじゃ朔、病気になる」
「ま、まだ、平気。だいじょうぶだから……」
「もう、限界って顔してる。漏らすよりもずっといいと思うんだよね」
「やっ、待って。きょ、すけ……っ」

きつく閉じた隙間に、京介の指が割って入る。京介、本気だ。粟立った全身に意図しない刺激が入り、電気でも流れたみたいにゾクッと背中が跳ねた。

もつれた糸をほどくように、俺の指を一本一本退かしていく。その度に、じゅっと下着が濡れた。押さえている手を取ったら、ほんとうに、溢れてしまう。

強烈な尿意で目の前がチカチカする。

「ひ、ぁ、……やっ、やだ。ね、出る、漏れるから、……」
「だから、漏らさないようにするんじゃん。今さらちんこ見せるくらい恥ずかしくないでしょ」

そうじゃないだろ!

心のなかで絶叫する。
こっちは抵抗力ゼロなのだ。冗談抜きで悲鳴を上げそうである。
おしっこしたい。トイレに行きたい。
頭の中には、その言葉だけがぐるぐると渦巻いている。

頼むからやめてくれ、触らないでくれという思いと、この爆発的な尿意から少しでも解放されるなら、と血迷った思いが葛藤を生む。

ついに京介の手によって、ズボンのホックが外された。ファスナーをそっと下ろされる。その直接的な刺激にぎゅうと膀胱が縮み、俺は反射的に前を押さえ込んだ。京介の手に、重ねて。

緊張が、ほんの一瞬、緩む。下着を濡らすおしっこが、じわじわと間隔を詰めて増していく。

「はっ、……は、……はぁっ、」

目尻に滲んだ涙が、一筋頬を流れる。

一度出口を見つけたそれは、もはや意思の力ではどうにも出来なかった。

やってしまった。大学生にもなって。こんなところで、お漏らし。死にそう。

「っ!」

鈍い痛みにはっとすると、京介の手が、なんと俺の代わりに根本を握っていた。湿った下着を下ろされて、むき出しになったちんこがそこにあるのだと思うと、ぞっとする。だって、ここは、エレベーターの中で。どうしてこんなことになってしまったのか。真っ暗で見えなくても、俺の漏らしたおしっこでぐっしょりと濡れていることは、想像に易かった。

冷静さを失った思考が、セーフ?なんて呑気な言葉を捻り出したのも一瞬。少し中身を出したことで、尿意は輪をかけて強烈な欲求に変わった。今までの尿意は、いったい何だったのだろうというくらいに。

「~~~~っ、……っ!……!」
「朔、大丈夫、」

臍の下でそわりと動く京介の指は、予測できないぶん酷い刺激だ。けれど京介の手を退かすには、まず俺の手を離さなくてはいけなくて。そんなことをしたら、あっという間に決壊だ。

もうどうしたらいいのか分からなくて、殆どパニックになっていた。でもこれだけは確実に言えるのは、半分だけ出して、そして止めるなんて、無理だ。
伸びきった筋肉は収縮することしか出来ない。

「ぁ、あぁ、……ぅ、」

腹を抱えながら、床に押し付けるように腰を揺らす。言葉に出来ない恥ずかしさと、暴力的な尿意。一瞬見えた排尿の快感は、すぐそこにあるのに。
先から堪えられない雫が溢れ、ポタポタと伝う。内股が震えた。
京介はというと、黙ったままで何も言わない。なんか話せよ、いや、やっぱり何も言うな。

「……っふ、」

詰めていた息を吐き出した時、とうとう、限界を迎えてしまった。

あっと思ったときにはもう遅い。
徐々に漏れだしたそれは、あっという間に勢いを増し、シャアシャアと床に広がっていく。湿った下着をさらに濡らして、ズボンに染み込み、京介の手と、そして俺の手を、熱い液体で汚していった。

どれくらいそうしていたのかなんて、考えたくもない。このまま止まらないんじゃないかとまで思った放尿は、ようやく、止まった。

空っぽになった膀胱は、疲れきったのかチクリと痛んだ。

「朔、全部出せた?」

解放感と快感は、京介の一言で一気に吹き飛んだ。現実が目の前に飛び込んでくる。
とんでもないことをしてしまった。顔から血の気が引いていくのが、自分で分かる。

「ごっ、ごめん、ごめんなさい、本当、」

京介の腕を掴もうとして、すぐに今の現状を思い出して引っ込めた。

だめだと思っても、涙が溢れてしゃくり上げてしまう。頬を流れてぱたぱたと落ちていくが、汚れた手では拭うことも躊躇われた。

京介は片手で鞄を手繰り寄せ、中からハンドタオルを取り出した。ハンカチ代わりに使っている、グリーンの太いストライプ模様を知っていた。

そのタオルでまず俺の涙を拭き、手のひらを拭い、おしっこで濡れた太股を拭き取った。情けなくて、悔しくて、恥ずかしくて。色んな感情がない交ぜになって、俺は泣くことしかできない。

床の水溜まりを片付けるには、小さなハンドタオルでは足りなかった。

「朔、なんか拭くもんない?取り敢えずね。いちおうね」

問われて、自分だって、鞄の中にタオルを持っているじゃないかと思い出す。いつも入れているじゃないか。ハンカチの代わりにハンドタオルを使うのは、京介と同じだ。

慌てて鞄を開いて、底の方で丸まったタオルを引っ張り出す。失敗から目を背けたくて、床をごしごしと擦った。その手を、京介にやんわりと制される。

「あ、そうするよりも、こう、床に敷いて。吸いとった方がいいよ。たぶん」
「……」
「あ~ほら、泣かない。泣かない。よしよし」

床を完全に拭き取ることは、結果、出来なかった。

でも水溜まりがそのまま広がっているよりは、ずっとマシなんじゃないかと思う。混乱した頭は思考を放棄していて、投げやりにすらなってくる。水分を吸ってじっとりと湿った二枚のハンドタオルは、箱のすみに追いやった。
濡れた下着やズボンは、当然、そのままだ。

「仕方ない、仕方ない。頑張ったよ」

京介はそう言って宥めるけど、とてもじゃないが簡単には割りきれない。穴を掘りたい。頭を抱えてどこかに埋まってしまいたい。

「俺べつに、朔のおしっこ飲んでも良かったのに」
「……俺が困る」
「あはは」

ぽんぽん、と背中を叩かれる。
本当に、京介はずるくて。そういうところを、そういう部分こそを、好きになったんだ。

「……話を戻しますが」

途切れた会話を、少しだけ躊躇いがちに繋ぐ京介。話って、何の話を。戻すってどこに。

「明後日のデートですけどね」

──そうだ。もう何度目か分からない再確認だが、俺たちは今、けんかの真っ最中だった。

口論になりながらエレベーターに乗り込み、硬化した尖った態度で下っていき、そうして閉じ込められたのだ。お互いに言い争いをしていたことが遠い昔に思えてくる。

「予定何とか組んでみたんだけど、どうしても明後日は空けられなかったんだ」
「……も、いいって、」
「教授に頼まれた仕事だから、頼めば動かせるんだけど。でも明後日空けると、代わりに次の日、学校来なくちゃいけないんだ」
「………………次の日?」
「うん。日曜日。……やっぱり、記念日は、一緒に過ごしたいよ」
「………………ちょ、ちょっと待て」

話を遮られ、「どうかした?」と怪訝な様子の京介。
一年前を思い出す。「まさか」と、ひとつの可能性が浮かんできた。

電話をしながら、いつの間にか真夜中になっていて。「十二時過ぎちゃったな」と京介が笑って。

「きょ、京介さん」

思わず、居ずまいを正した。

京介もそれに乗って、「はい、何でしょう朔さん」なんて正座をする。

「俺たち、去年の二十日に、付き合ったんだよな」
「……去年の、二十一日に、電話で」
「………………うーわー……」

俺は文字通り、頭を抱えた。それはもう、両腕で。全力で。このまま落下してしまったっていい。

京介も、ようやく合点がいったようで「えっ、うわ」と動揺の声を漏らした。

今朝から続くけんかのやり取りを思い出し、2人の間に横たわる勘違いに辿り着く。つまり、俺たちは、同じことを考えていたのか。ただ、日付の認識が違っただけで。そして、その齟齬のために、揉めていた。

「……電話がかかってきたのは二十日」
「……電話を切ったのは二十一日」
「………………で、でも」
「俺、朔に付き合ってって言ったの、どっちの日?」
「………………知らん」
「……ですよね~」

二人は、同時に吹き出した。

「ああもう、どっちでもいいよ、バカみたいだな、俺たち」
「なんだ、そういう事だったんだ」
「じゃあ、二十一日ということにしておいて。そんで、二人で一日エロいことしてよう」
「それは勘弁」

狭い箱の中で、腹を抱えて大笑いする。とんでもない失敗も、近付かないとお互いに表情さえ確認できないような暗闇も、今はどうだっていい。

ひとしきり笑って涙まで滲んできたと思ったら、京介の唇が頬に触れた。女子のそれよりずっと薄くて、けれどさらさらと柔らかい京介の唇。

「本当、災難だったね。俺とけんかするし、エレベーターに閉じ込められるし。朔、お漏らししちゃうし」
「……ぅ」
「あー嘘、嘘。もう意地悪言わない。泣かないで」

乱暴に頭を撫でられて、髪の毛がぐしゃぐしゃになる。指が絡まって細い痛みが走った。
笑いながら、京介も泣き出すのだから驚いた。京介はこんなにでかい図体だが、それに似合わず、やはり涙もろい。

「っていうか、俺、朔に勇気を振り絞って告白したの、それよりも前だからね」
「……た、確かに」
「お互いに確認しておきましょう。俺たちは去年の五月二十一日に、付き合いました。オッケー?」
「うん、もう、それでいい。そうしよう」

結局、エレベーターが動いたのは、それから二十分後のことだった。

突然電気が復旧し、止まったときと同じように、ゆっくりと稼働を再開した。停止したのは一階で、扉が開くと警備会社や電気関係のスタッフ、救急隊員が待ち受けていた。

「大変お待たせしました」「怪我はありませんか」「体調を崩された方は」京介が緊急コールで繰り返し伝えたからだろう。矢継ぎ早にそう詰め寄られ、まさかおしっこを漏らしましたなんて言えるわけもなくて、俺は動揺して俯いた。

セーターの裾を伸ばして誤魔化したが、ズボンは所々濡れて変色している。京介のジーンズだって、きっと濡れてしまっている。

「あ、大丈夫です、帰って寝かせれば治ると思うんで。」

顔を覆うようにマフラーを巻かれ、俺は京介に引き寄せられる。

そういうわけにも、と食い下がるスタッフから逃げるように、その場をすり抜けた。彼らは彼らで、中から出てきた泣き笑いの成人男性二人に戸惑っている様子だ。足早に立ち去りながら、なんとなくおかしくなってきて、また笑いあった。

やっと、ようやく、帰宅時間だ。

記念日に向かうエレベータ―:END

学園寮の、朝のこと

知らない誰かが触ったもの。

知らない誰かが作ったもの。

どれだけきれいに見えたとしても、俺にとってはきたないものの、塊だった。

***

目覚まし時計が鳴った。振動とともに枕元で鳴り響くのは、スマートフォンのアラームだ。画面に指をスライドさせて音を止める。液晶画面は大きく七時半を表示していた。名地智宏は、布団を被ったまま体を起こした。
全寮制のこの学校では、八時に起きれば始業に間に合う。校舎と寮とは歩いて十五分くらい。男の身支度なんて五分あれば充分だ。
それなのに名地が毎日この時間に起きるのは、時にはもっと早い時間、六時前に目覚ましを設定しているのは、眠る王子に朝を教えるため。

「八王子先輩、起きてください。あーさーでーすーよー!」

名地は二段ベッドの上を覗き、布団をはぎ取る。「うう」と妙な呻き声を漏らしながら、寒がりの先輩は幾重にも重ねた布団の下でヤドカリのように身を縮める。
八王子幸。名地にとって、ひとつ上の先輩だ。〝王子〟なんて大層な言葉が名前に入っていたら、普通はちょっとしたネタになりそうなところ。けれどこの先輩はまさに王子の称号がぴったりな、そのままテレビの向こうにいてもおかしくないような、とにかくデタラメに見た目が良かった。
ここまで整っていると、もはやステータス異常。暴力的な華やかさを振り撒きながら、黄色い声で「王子先輩」なんて呼ばれているのを名地は知っている。

「んー……なっちゃん……?あとねえ、一時間」
「一時間は遅刻だっつってるじゃねーですか!起きてください!」

王子は朝がめっぽう弱い。それはこの世の常なのだろうか。
名地が早起きをしているのは、目を覚ますのに三十分の準備運動が必要な八王子先輩を起こすためだった。今度はうつ伏せになって寝ようとするものだから、名地はベッドを思い切り揺らした。二段ベッドは古い作りで、ミシミシと悲鳴をあげる。うわあと情けない声が聞えた。よし、あともう一押し。

「はい朝です朝です!先輩昨日、先生のとこ行くって言ってましたよね!」
「わぁ~~待って、なっちゃん、待って、これね、壊れるから……」
「じゃあ起きてください!」
「んん……起きるよ、起きるから……」

起きる、起きると寝言のように繰り返し、布団から覗く右手をパタパタと動かす。身長百八十センチの先輩には、ベッドが少し窮屈そうだ。のそりと起き上がり両目を擦る。それを見届けて、名地はようやく手を休めた。
普段はひとつにまとめている、肩につく長さの髪の毛は、寝癖でボサボサ。男の長髪なんてうざったいだけだと思っていたが、この顔に任せれば無国籍風のファンタジーな美形の出来上がりだ。そう思っていたら、その表情はあくびをかみ殺して不細工に歪んだ。

「あー、なっちゃん……今日もありがとねえ」

けれどそう言って微笑む時は、王子百%の通常運転。タレ目が憎い、鼻筋が憎い。というか、イケメンはずるい。
朝の一大ミッションを終えた名地は、梯子を降りて身支度に取り掛かった。
寮の部屋割りは年に一度組み直され、基本的には同学年が同室になる。名地だって一年の時は、別のクラスの同級生と共同生活をしていた。二年に進級した当初の部屋割りだって、原則通りの予定だったのだ。
それが今、こうやって低血圧を極めた先輩の下で眠り、先輩を叩き起こすことが毎朝の日課となっているのは、他でもない八王子先輩の計らいだった。

陽射しも柔らかな春、二年の四月。
前学期末に発表された今期の部屋割り表によると、名地の同室は留学生だった。寮の掲示板に貼られた表に、片仮名の横文字が並んでいて驚いたのを覚えている。手続きの都合で入寮が遅れているらしく、しばらくは一人部屋だと喜んでいた。日本語話せんのかな、仲良くなれんのかな、とぼんやり思っていた気がする。
だから、部屋割りだとか共同生活だとかは、全く問題ではなかったのである。
問題だったのは、部屋割り表の横に貼られた一枚のお知らせ。
前回発表を見に来た時から、掲示が増えていた。

『改修工事のため、五月一日まで臨時休業致します。学生購買部』

そう、太字のゴシック体で書かれていた。
一瞬、目が回って視界がくらりと狭まった。もう一度目を凝らす。当然文字列に変化はない。その張り紙が意味するところも、また然り。

「名地?どうかした」
呆然と張り紙を見上げる名地に、一緒に登校していた友人、島崎が怪訝そうに聞いてくる。不意に肩を掴まれ、思わずよろめいた。
「……あ、いや、」
「あー、同室?留学生?!」
「ん、ああ、……そうだなあ」

曖昧に返事をして、「頑張れよお」と面白がる島崎に笑って応じ、連れ立ってその場を離れた。適当な会話を表面だけで続けながら、頭の中は先程のお知らせでいっぱいになっていた。臨時休業。その四文字が、脳みその端から端までをいったり来たりする。

五月一日まで、つまりあと約一ヶ月程度、購買が開かない。

寮では、朝食と夕食は申し込み制。毎月配られるカレンダーのような申請書の、必要な日にだけマルを書き込んで提出するのである。ちなみに、提出しなかった日でもお金を払えば簡易メニューが格安で食べられる。確か、朝限定で白米と味噌汁、主菜副菜が一品ずつ。超健康的、かつ日本男子的メニューは三百円で提供されている。
そんな便利な食堂だが、寮には共用のキッチンもあるし、駅前まで行けばたくさんの店があるし……と、利用しない学生だってもちろん一定数存在する。名地も、そのうちの一人。そして昼食だが、それは普通の高校と変わらない三択だ。弁当、学食、購買。あ、早弁とか、食わないって選択肢は除いて。名地は入学当初からの購買ヘビーユーザー。否、それ以外の選択肢は、残っていなかった。

〝人の作ったものが食べられない〟

もう名地には当たり前になってしまったこの感覚。
うまい下手は問題でなく、味も、見た目も問題じゃない。
ビニールで包装された菓子パンや、プラスチックの容器に入ったコンビニ弁当、デパートの惣菜なんかは大丈夫。いかにも調理済みで、温めただけで提供しているようなファミレスが、ギリギリ許容範囲といった具合だ。
調子の悪いときはファミレスも不可となり、けれどその不調は行ってみて初めて気がつくものだから、名地の食生活は購買、コンビニかデパート、時々自炊の順に構成されていた。

小さい頃は、それが普通だと思っていた。皆、露骨な〝手作り〟を「気持ち悪いなあ」と思いながら食べているんだと思っていた。
けれどそうではないと気付いたのは、小学生の時、遠足の日。その日は抜けるような晴天で、行き先は学校近くの山だった。その頂で迎えたお昼の時間、全員で輪になって弁当を広げる。隣に座った友達が、「そのハンバーグと僕のエビフライ交換しよう」と嬉々として話しかけてきた衝撃を今でも覚えている。
名地にとって、見たこともない友達の母親が作ったものは、恐怖の塊だった。何を言っているんだと、目を丸くしてその友達を見た。そしてすぐに理解する。その友達には、悪意なんて少しもないことに。
「お腹いっぱいだからあげる」
とか、それに近いことを言って、結局交換はしなかったと記憶している。ただ、自分の弁当箱から摘ままれたハンバーグを友達が食べる瞬間は、見ることは出来なかった。
自分がおかしいのだと自覚してから、この感覚は徐々に悪化していった。
昔は大丈夫だった両親の手料理さえ、今では少し怖い。
両親は悪くない、食べ物に罪もない。それも分かっているからこそ〝気持ち悪い〟と感じることが辛かった。

全寮制の高校に入学したのも、突き詰めていけばそれが一番の理由だ。食べることに関してあれこれ悩むことに、疲れてしまったのである。ここなら朝は食べなくてもいいし、腹が減ったら購買に行けば良い。時間があればキッチンのトースターでパンを焼く。昼も購買があるし、夜もコンビニか、あるいは自炊か。三食購買で済ませることもざらだった。
名地の食生活は、購買によって成り立っていたと言っても過言ではない。店員のおばちゃんとも、もうすっかり仲良しだ。時々おまけもしてもらえる。
ところが、だ。
名地のライフラインとも言うべき購買が、一ヶ月も開かない。これは由々しき事態である。名地は昨日から、何度も頭を抱えている。男子高校生にとって、空腹は致命的だ。
夜はコンビニかどこかで買うとして、朝も夜のうちに買っておけばいい。キッチンもある。しかし、昼はどうしよう。昼の分も、前日の夜に買っておけばいいのだろうか。いや待て、そんなに時間のたった弁当って、どうなのよ。名地は混乱していた。
何の解決策も浮かばないまま授業は進み、昼休みを迎えた。いつもは購買に向かう友人達も、学食に行くという。

「名地ー、行こうぜ」

昼飯を抜こうか、でも腹は減ったな。そんな事を考えていたら、いつの間にかすっかり出遅れてしまっていた。教室の入り口から、大声で呼ばれる。

「あっ、ああ、行く」

未だ足を踏み入れたことの無い食堂を、異次元のように感じながら。黒い不安がムクムクと膨らむのを感じながら、名地も後を追った。

「学食はさあ、混むから嫌なんだよな」
「怖そうな先輩もいるしな」
「てか、ちょっと高いし。ギリまで食費は削りたい」
「でも美味しいよなあ。どうする、一ヶ月の間に学食の虜になったら」
「それは破産だわ~」
「……名地?」

盛り上がる皆から少し遅れ、浮かない表情を浮かべる名地に気が付いたのは島崎だった。後ろ歩きを二歩、名地と並ぶ。

「課題ヤバいの」
「それはお前だろ。違う」
「じゃ、何。具合でも悪いの。ずっと黙ってるからさあ」

そう問われて、名地は考える。具合が悪いのかと聞かれたら、そういうわけではない、と思う。どこも痛くはないし、痒くもない。腹は減っているのだから、食欲だってある。名地は「違う」と首を振った。
仮に昼飯を買って持参したところで、皆で学食に向かうなか自分だけコンビニの袋を下げていたら、変に思われる。ゆとりと協調性の十代、今日からひとりで適当に済ませます、なんてとても言えない。島崎の不思議そうな視線を受けて気が付いた。

——そろそろ、治さなくてはいけないと、思っていたんだ。

いっそ、これは良い機会なのかもしれない。
一ヶ月頑張れば、購買が再開する。それまでに克服できれば寧ろラッキーだ。

「眠かっただけ。なんでもない」

名地は顔を上げ、握り締めていた財布をポケットに捩じ込んだ。

***

「人生はチャレンジだ」と、どこかのスポーツ選手が言っていた。
まあ、確かにその通りだと思う。人生は選択と挑戦の繰り返しだ。
だが、と名地は心のなかでそっと異議を唱える。挑戦があるなら、失敗もあるのが人生だ。

(む、無理)

薄いピンク色のトレーに乗った丼。ほかほかと湯気を上げる親子丼を見下ろして、名地は固まっていた。職券を買う段階までは良かった。機械に五百円玉を投入し、ボタンを押した。おつりの三十円が返ってきた。
ガラスケースに並ぶ食品サンプルを見ても、さらに言えば食堂の中でうどんを啜る人を見たときも、何とも感じなかったのだ。
もしかして、もう大丈夫?なんて思ったりもした。
けれど、だめだった。
食券を出したカウンターの内側で、熟練のおばちゃんスタッフが、実に鮮やかな手さばきで注文をこなしていく様子を見てしまってから、だめだった。
自分の知らない誰か。でも確実に、人が作ったもの。触ったもの。
衛生面だとか汚いとか、そんな具体的な感情じゃない。
とにかく気持ちが悪くて耐えられないのだ。
一口運んでみた。
吐く、と確信に近い直感。
この感覚を、何と表現したら良いのだろう。
口に入れて一番始めに感じるのは、味ではなく食感。
それも食べ物の感覚ではなく、例えるなら紙粘土。小学校の授業で使ったような、ずっしりと重くてカチカチに固まる、鈍色のアレを想像してくれれば近い。
親子丼の味は知っているのだから、普通に考えればおかしな話だってことも分かっている。けれど、分かることと、納得できることは全く違う。
そしてその後は、漠然と〝何か気持ちの悪いもの〟が体の中に広がっていくイメージが襲う。細胞の間隙を縫って、舌に、喉を通って、食道を。ああ、そんなことを冷静に考える余裕なんてないんだ。一瞬で駆け上がった不快感は、瞬く間に全身を支配する。
きっと正しくはない。きっと酷いことを考えている。
でも、この感覚を表現する言葉を他に知らないから、こう言うしかない。「気持ちが悪い」。ただ、それだけ。

「おい、名地」

呼び掛けられてはっとする。
向かいの席に座る、島崎だった。島崎はハヤシライスをスプーンですくっている。半分ほど進んだその皿と、全く減っていない名地の丼を見比べた。気がつけば、他の友人にも怪訝な目で見られていた。

「な、……何、」
「何じゃねえって。食わねえの、食えねえの」

ぐっと、言葉に詰まる。 卵のてらてらと光る親子丼を見下ろした。

島崎に、みんなに、怒られているような気がした。

名地は箸を掴み、丼を持った。意を決し、「何でもないよ」という風に一口、二口と進めた。そのまま、咀嚼もろくにせず飲み込む。すぐに胃がムカムカしてきて、反射的に戻ってくるのを何とか抑えた。えずきそうになる前に親子丼を嚥下する。水をのみ、無理やりに食道に流し込んだ。

「悪い、俺やっぱ眠いみたい。学食うまくてハマりそう」

背中と脇は、嫌な汗でびっしょりだった。
吐きそう、気持ち悪い、吐く、むり、頭の中にはどろどろの感情が噴き出す。

「あー、俺も眠いわ。夜中ゲームしすぎた」
「俺いつも昼飯なんて二百円くらいなのに……すげえリッチなランチしてる」
「二百円で何買うの」
「パンとおにぎり」

みんなの話題が逸れてほっと胸を撫で下ろす。名地もおかしくて笑ったし、島崎も笑いながらハヤシライスに向かっていた。
丼一膳、完食。気持ちが悪くて、泣きそうだった。気付かれないようにしゃんと背を伸ばす。一刻も早く吐かないと、体の中に〝気持ちの悪いもの〟が広がってしまう。そんな強迫観念にも近い錯覚。生唾を何度も飲み下した。
教室に戻る途中、財布を忘れたと言って島崎達と別れた。特に変なところは無かったと思う。駆け込んだ先はトイレ。鍵を掛けるのも忘れて、胃の中のモノを便器に叩きつけた。やわやわとした不快感が胸に残る。

「オエッ……う……っ、……おえぇっ」

バシャバシャと未消化の中身が、さっきの親子丼が、形もそのままに無残な汚物になっていく。涙が浮かんできて、視界がぼやけた。吐いた物を見なくて済むのでほっとする。     
ほどんど胃に入れたばかりの逆流で、あの独特な酸っぱいにおいは薄い。分解された糖の、体温と等しい不快な甘さ。心臓の辺りがきゅうと痛んだ。
少し呼吸が落ち着いて、一度水を流す。それから思い出したように施錠した。シャツの袖を引っ張って目元を拭う。手洗い場で、顔を洗いたい。口を濯ぎたい。悪いものが体の中から出てきたことには、安堵していた。

「はっ……はーーっ、……はあ、」

足下がふらついてその場にへたり込む。便座をつかむ手が震えていた。
全部吐ききりたくて、名地は迷うことなく指を口のなかに突っ込んだ。舌の付け根、喉のさらに奥の一点を、指の腹でぐっと押す。
ぐわりと食道が広がって、胃の内容物が溢れた。

「……っ、…………オエッ、」

もうこれ以上は吐けない。そう分かっていても、指を抜くことはできなかった。
トイレの外から昼休み終了のチャイムが聞こえる。名地はぼんやりとレバーに手を伸ばす。渦を巻いて水が流れていくのを見て、気が遠くなる思いだった。

無情にも次の日はやってくる。
どんなに悩んでも、考えても、購買が開かない以上は仕方がない。昼休みには、昨日と同じメンバーで学食に向かって歩いていた。
どうせまた食べられないと腹をくくる。でもこれ、かなり不経済だ。何とか打開策を見つけないと、冗談抜きで破産である。一番安い、五目チャーハンの食券を買った。
作ってくれた人に申し訳ないとか、もったいないとか。そんなことはあまりにも大前提で、寧ろ考えていられなかった。苦行のような時間を過ごし、顔に出さないよう必死に吐き気に耐える。嫌な汗が背中を伝うのを、気付かないふりをして。
以前は飲み込む前に吐いてしまっていたから、心身が大人になったということなのかもしれない。こんなところで成長なんて、感じたくないけど。
他に理由が浮かばなくて、名地はまた財布を忘れたと告げた。「うっかりさんかよ」と笑われる。「明日は俺のも持ってて」と返した。
次移動だぞー、という声を背中に、昨日と同じトイレに駆け込む。個室に入るやいなや、堪えていたものを吐き出した。涙で、視界が揺れた。
転機が訪れたのは、その時だった。
コン、控え目なノックの音。名地はぎょっとして息が止まった。
扉の向こうからはわざとらしい咳払いが聞こえた。

「えー、おほん。君、昨日もここで吐いていた?」

—―バレていた!

心臓がばくばくして苦しい。こめかみに冷や汗が流れた。血の気が引いていくのを感じる。高校に入ってから、誰にも、誰にも気付かれたことないのに。
息をするのも恐ろしい。
このまま、消えてしまえればいいのに。

「あ、オレねえ、先生じゃないよ。だから安心して、ちょっとここ開けてごらん」

不信感の針は振り切れていたが、確かに教師の口調ではなかった。けど、吐いていた姿なんて誰であろうと見られたくない。名地は意地でも鍵を開けないつもりだった。

「……オレが助けてあげようか」

その言葉を、聞くまでは。
暗示にかかったみたいに、名地は鍵をはずしていた。左回りに半周。ガチャンと金属の音がして、ゆっくりドアが開いた。
そこにいたのは、先輩だった。
瞬時に理解したのは指定シャツの色が違ったからではなく、有名な先輩だったから。女子と一部の男子から「王子先輩」と呼ばれている、その人だったから。眉目秀麗、成績優秀。生徒会長も務める学園の華。近くで見たことは無かったが、なるほど王子だと納得した。これ以上に的確な表現を、名地は知らない。
鍵を開けようと立ち上がったせいだろうか。強い眩暈で視界が歪み、あっと思ったときには先輩の腕の中だった。
しまったと一瞬で目が覚める。口も、指も、吐いたものでベタベタだったから。

「おっと、だいじょうぶ……じゃあないね。歩ける?こっちにおいで」

先輩は汚れるのも構わず名地の手を握り、ゆっくり歩を進める。気付けば昼休みはとっくに終わっていた。何が、一体どうなっているんだ。

誘導された先は生徒会室だった。
名地は備え付けの水道で手を洗い、皮張りのソファの上に腰を下ろす。入学して以来、初めて入る部屋だ。

「麦茶と紅茶、どっちがいい?」
「あ、……麦茶で、」
「はぁい」

先輩は麦茶をグラスに注ぎ、はいと差し出した。両手でそれを受け取る。
グラスには細かいカットが施されていて、テーブルに光と影をゆらゆらと落とす。先輩も麦茶を飲みながら、戸棚に寄り掛かった。軽く腰に手を当てスラリと立つ姿は、それだけで雑誌の表紙を飾っていそうだ。

「オレはね、八王子幸」
「知ってます」
「ああ、王子って?」

嫌味ではなく、本当におかしそうに先輩は笑った。くっくっと笑い声に合わせて肩が揺れる。ああ、本物の王子だ。と、妙に納得できてしまう。しかし、麦茶を頂きにきたわけではないぞ、と名地は思う。のんびりした空気に痺れを切らして口を開いた。

「あ、あの!助けてくれるって」

こちらは本気だと言うのに、藁にも縋っているというのに、先輩はにやりと不敵な笑みを浮かべる。しかもコップに口をつけたまま。カリッとガラスを噛む音がした。そして、いつから持っていたのか、一枚の用紙をひらりと掲げた。

「うん、助けてあげる。でもその前に、事情を話してごらん。オレ、まだ君の名前も知らないから」

名地は迷った。誰かに話してもいいのか、判断しかねていた。気持ち悪いと思ってしまう自分が〝気持ち悪い〟と分かっていたから。待っているのは侮蔑だろうか、同情だろうか。目の前の瞳に、嫌悪の色が映るのが怖い。気の持ちようだと笑われるのは、もっと。
けれどもう仕方ない。ベタベタに汚れた手、ぐしゃぐしゃの泣き顔と、一番汚い姿を見られているんだ。それに「助け」の言葉はとても魅力的だった。
名地は、全て話した。
昔から人が作ったものを食べられないこと。気持ち悪いと感じること。
来月まで購買が開かないと、途方に暮れていること。
話を最後まで聞いた先輩は、深く息をついた。途中から先輩もソファに落ち着いていて、正面で身を乗り出すようにして聞いてくれた。

「はぁ~、それは、それは、大変だ」
「……そうなんですよ」

名地はもう、半分自棄くそである。

「コンビニとか、デパートのはいいの。お惣菜をさ、対面キッチンで作ってたら」
「ん……、それはちょっと、分かんないスね。試したこと無いんで」
「安全なものだけを選んできたんだね」
「……そうなりますね」

ゆっくりと噛み砕くような先輩の相槌。自分のことを、こんなに話したのは初めてだ。
触れたくないところ、隠してきたところ。それはいつまでも治らない瘡蓋をめくるようで、酷く体力と気力を使う作業だった。膿んだ血が滲んで、流れていく。

「じゃあねぇ、」
のんびりと、先輩は切り出した。さっきの紙を机上に滑らせる。慣れた手付きでボールペンを添えた。

「これに、サインして」
「……………………は?」

いやいやいや、ちょっと待て。ちょっと待て。何の悪徳商法だ、これは。
そんな疑念や困惑も何処吹く風。先輩は意気揚々と説明を続ける。

「ここに名前ね。名地智宏って、漢字で。あとは学年とー、クラスとー」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ!何ですか、これ、」
「ええ?」

にっこりと、絵にかいたような微笑。それも小学生の落書きなんかではなく、高級絵画の作品だ。長く形の良い指が、用紙を指差す。名地は困惑しながらも、視線を落として指先に従った。答えは、太字ででかでかと印刷されていた。
そこには─—

『カレー愛好会 入部届』

「って、何でだよ!」

先輩は相変わらず呑気に笑っている。これが突っ込まずにいられるか!

「カレー愛好会ねぇ、オレ部長なんだけど。人数ぜーんぜん足りなくて、あと1人集めないと解散だったの」
「っつーか!生徒会じゃないのかよ!この流れ!」
「えっ!生徒会にも入ってくれるの!」
「言ってねえよ!」
「うわぁ、嬉しいなあ。じゃあねえ、こっちの用紙にもサインをねぇ」
「人の話を聞けー!」

強引に話を進める先輩から、やっとのことで聞き出した要点はこうだ。
カレー愛好会に入れば、部室(と言っても愛好会だけに与えられる部室はなく、同じく経営危機のビーフシチュー愛好会と共用の一室だ。合体してしまえよ、お前ら。)は使い放題。部室には電気ポットも簡単な調理器具もあるから、部活動として昼食をそこで取ればいい、というのが先輩の提案。部屋には誰かしらが居るだろうから、さみしくないよ、と付け足した。
名地は昼食問題が、先輩は部員問題を解決できて、ウィンウィンというわけ。

「ああ、生徒会は、ちょうどいいかも。そうだね、生徒会にも入ろうか、なっちゃん」
「ごめんなさい、俺、先輩のぶっ飛んだ思考、全くついて行けないです」
「同室の人ともう仲良くなった?」
「は?寮の?いや、留学生でまだ会ってないですけど」
「ナイス!それは最高だ!まあ任せてよ、なっちゃんに損はないからさ」
「なっちゃんやめてください」

先輩の得しかないんだろ、とは口に出さなかった。
あれよあれよという間に名地は二枚の用紙に名前を記入していた。たった今この瞬間から、カレー愛好会新入部員兼生徒会役員の誕生だ。二年なのに。
その日はもう一杯麦茶をご馳走になり、「これはいける?」とカップ麺を渡された。生徒会費で常備しているらしい。大丈夫かよ、この学校。
腹の虫は正直に空腹を訴える。お言葉に甘えることにした。

次の日から、事態は怒濤の展開を見せる。
まず登校して、教室で鞄を下ろすが早いか教員が飛び込んで来たのだ。それも、名地の名前を叫びながら。
ぎょっとして顔を上げると、なんと相手は教頭だった。ちょっと、ちょっとと忙しなく手招きをする。状況を飲み込めないまま、クラス中の視線を集めながら、名地は廊下に向かった。教頭はあいさつもそこそこに、名地の両手を握ってぶんぶんと振る。それはもう、風を切る勢いで、ぶんぶんと。腕がちぎれてしまいそうなほど、ぶんぶんと。

「なーちーくーん!いやあ、申し訳無い。実に、申し訳無い」
「は?!」
「いやあ、まさか君が生徒会を希望していたなんて。いやあ、良かった。これでわが校の生徒会は救われた」
「は?!はあ?」

確かに昨日、サインはした。名前を書いた。クラスも学籍番号も全部書いた。だからといって、何だ、この対応は。救われた?俺が、生徒会を救った?

「名地くーん」

間延びした穏やかな声は、八王子先輩だった。黄色い歓声をBGMに、教頭の後ろからゆったりと現れる。腕を振り回したりなんてしない。王族の余裕ってやつだろうか。声も体も大きい教頭と、黙っていても人を集める王子。名地の半径三メートルには、人払いをしたように余白ができていた。目立つ。あまりにも、目立つ。

「ごめんねぇ、オレの手違いで、貰ってた書類を先生に出してなくて。一枚だけだったから、紛れちゃってたみたい」
「あ、あの……?」

先輩の人差し指が、唇の前で立つ。教頭に見えない位置から、黙ってて、の合図だ。

「君がそんなミスをするなんて珍しい。まあ、良いんだ、まだ活動も始まってないわけだしな。全く、問題はない」
「本当ですか、良かったぁ。まさか今年、二年が誰も居なくなるなんて思ってもみませんでしたからね」
「いやはや、全くだ。まったく、生徒会存続の危機であった。我が校の長い歴史に傷が付くところだったよ」

カレー愛好会はまだしも、生徒会が存続の危機?名地の頭はキャパオーバーである。ただ一つ言えるのは、この学校はヤバい。

「まっ、名地くんが入ってくれてそんな危機も脱した訳だがな!いやあ、助かったよ。勇気ある行動に感謝する。これからも頑張ってくれたまえ」

分厚い掌で、再びちぎれそうな勢いの握手。あまりの勢いに頭がくらくらする。教頭は満足そうに笑いながら去っていった。嵐に呑み込まれた名地は呆気に取られてその背中を見送る。薄くなった頭髪がどんどん遠ざかっていった。
バーコード頭が見えなくなった頃、先輩はVサインをしてみせた。

「……あのね、去年教頭、役員の斡旋活動忘れちゃって。今二年生ゼロ……というか、3年生五人でやってるの、うち」
「……はい?」
「生徒会だから人数がどんなに少なくても無くなったりはしないんだけど。誰もいなかったら活動なんて無理じゃない。生徒会に任せてた仕事が戻ってくるって、先生たち大慌てだったんだよ~」

嵐の過ぎ去った廊下で先輩から、ことの詳細を聞く。それで、あのオーバーな歓迎ぶりか。名地はようやく合点した。
でね、と先輩は続ける。

「生徒会役員はね、寮の管理委員も兼ねてるの。ちなみに、オレ寮長」
「……は」
「寮管は同じ部屋になるように決まってて。その方が報告、連絡、相談、便利だからね。で、さっきも言ったように、今生徒会役員は5人。オレが一人部屋だったんだけど……。今日からなっちゃん、部屋移動だねえ」

唖然、とは、まさにこの事。
驚きすぎて言葉が出ない。開いた口が塞がらない。瞬きを忘れる。
どうなっているんだ。どういうことだ。
先輩はいかにも王子らしい仕草で、名地の手を取る。

「なっちゃん、早起きは?」
「…………苦手じゃないです」
「ますます最高!」

休み時間の話題は、名地にまつわる朝の騒動で持ちきりだった。

「……名地、教頭がお前に土下座してサインをねだったって、聞いたんだけど。お前有名人だったの」

ドン引きの表情でそう寄ってきたのは島崎。
動かせる所は全部振って、全力で否定しておく。んなわけねえだろ。

「……生徒会に、入ったんだけど。存続の危機?だったらしくて……」
「生徒会?!お前があ?」
「……何つうか、間違いというか、流れというか、不可抗力というか」

肩をすくめ、「何だそれ」とおどけた様子で島崎は言う。それはこっちの台詞だと、名地は内心言い返していた。
島崎同様の誤解は教室中に飛び火していて、休み時間のたびに、さらに尾ひれのついた噂を耳にすることになる。オーバーな言動の教頭と、ただでさえ目立つ王に囲まれていたのだから、当然人目を引いていたのだ。

「島崎ー名地ー、学食行くぞー」

大声で呼ばれて、ドキリとする。そうだ、今は、昼休みだ。
―—言わなくては。

俺、カレー愛好会に入ってさあ。昼に活動あるんだよ。だからちょっと、部室行ってくるな。あ、そこで昼も食べるんだ。だってカレー愛好会だからな。
そう言えなければ、なぜカレー愛好会に籍を置くとに決めたのだ。分かっているのに、喉が渇いて張りついて、音にならない。大丈夫。学食に行かないからって、変に思われたりはしない。誰も、俺の〝癖〟には気付かない。気味悪がられたり、しない。

「島─—、」

島崎、と言おうとして、しかしそれは黄色い声に掻き消される。
このBGMを持つ人なんて、名地の知ってる範囲では一人しかいない。

「なーちーくん!」

王子、先輩。
窓枠に体重を預け、片手をメガホンにして名地の名前を呼ぶ。
キラキラと空気が揺れる。

「名地くんお待たせ~、生徒会の仕事、昼に教えるって約束してたもんね。遅くなってごめんねえ」
「あっ、ハイ、今いきます」

心当たりなんてもちろん無かったが、咄嗟にそう答えていた。
名地は島崎達に断って、先輩の所へ急いだ。

向かった先は、今度はカレー愛好会の部室。部室棟の西端がそれだった。
IHコンロからフライパン、鍋、一通りの調理器具は揃っていた。調味料は塩と砂糖、それから無数のカレー粉。
もともとは本棚だったであろう背の高い棚には、綺麗に並べられたレトルトカレーがズラリと並んでいた。九州限定なんてものもある。よく見れば国内を飛び出して、見たことのない言語が躍るパッケージもある。賞味期限は、気にしないことにした。
どうやらビーフシチュー愛好会とは仲が悪いらしく、キッチンスペース以外は完全に区切られていた。完全にといっても、天井からむりやり吊るしたレールカーテンとか、パーテーションとか、卓球台とか、滅茶苦茶な住み分けである。仲良くやればいいのにと、名地は呆れてため息。
どこで買ったのか分からない、アジアンテイストのソファ。コルクの床にはペルシャ風絨毯が敷かれていて、至る所にトルコランプが飾られている。華やかな装飾で溢れる中、机だけはシンプルなガラスのローテーブルだった。北欧家具屋に売られていそうな、使い勝手が良いんだか悪いんだか分からない、あれ。カレー愛好会だよな、ここ。

「見てみて、昨日食材買い込んだんだ。明日から愛好会の活動やろう」

先輩は得意気に冷蔵庫を開く。確かに食材が所狭しと詰まっていたが、名地の知っているカレーには到底使われない食材ばかりだったのは気のせいだろうか。

「昼、ここで何か作る?食パンあるしねぇ、卵あるし、ウインナーあるし……」
「あ、」
「あ!オレの分も作ってくれる?オレも昼まだなんだよねぇ」
「……ホント、先輩人の話聞かないっすね……」

名地は諦め、先輩の後ろから冷蔵庫を覗き込んだ。これだけあれば、豪華なランチも夢じゃない。ただし、制限時間はあと三十分。
結局、ベーコンエッグとバタートーストを二人前用意した。
焼いただけだというのに先輩はえらく感動し、「カレー愛好会部長は君だ!」なんて握手を求めてきた。突っ込み所は多々あるが、少なくともカレーを食べてから言ってほしい。      
先輩は、いただきますと律儀に手を合わせた。

「…………先輩、気持ち悪いって、思わないんですか」

トーストをかじる先輩に、聞いてしまう。

「なにが?」
「俺の、……というか、人が作ったもの。というか……そう言ってる、俺……を、」
「大変だねぇとは思うけど」

ベーコンエッグをフォークで切り分ける。調理器具こそ揃っていたこの部室だが、スプーンとフォーク以外の食器が見当たらなかった。割り箸がどこかにあると先輩は言ったが、探す時間も無さそうなのでやめた。
形の良い舌が、唇の端から垂れた卵を舐めるのを、蜃気楼のように眺めた。

「ほら、卵おいしいし」

剥がれた瘡蓋からは、膿が流れて、そして塞がる。

「……俺、カレー愛好会、やっても。みんなのカレー……食えないっすよ」
「そしたらー、なっちゃんが作ってくれるんでしょう?」

やがて、元通りの皮膚になる。
苦しくないのに、辛くもないのに、泣けてきてしまった。

「愛好会のメンバーねぇ、カレーを愛してはいるんだけど。誰も料理出来ないの」
「…………」
「だから料理できる部員が増えて良かったあ」
「 …………そりゃ解散ですよ、愛好会」
「ひっどいなあ!」

先輩の笑い声は、真っ白な包帯みたいだと思った。

***

先輩はベッドを降りて大きく伸びをした。首を回して、独創的なストレッチ。

「うーん、本日快晴」

窓を大きく開け放つ。澄んだ外の冷気が押し寄せた。
冷たい空気に触れて完全に目を覚ましたらしい先輩は、干してあったフェイスタオルを掴んだ。部屋に洗面台や手洗い場はない。火や水を使うところは全て共用で、だから名地の部屋にある家電は冷蔵庫と電子レンジ、それから電気ポットくらいだ。

「じゃ、先輩は顔を洗ってー、食堂で三百円のモーニングをかきこんで来ますからね」
「どうぞどうぞ」
「……名地は?」

先輩の優しい、穏やかな視線。

「俺は」

備え付けの机に置かれた、コンビニの袋を指差す。

「これで」

先輩はうんうんと頷いた。名地の髪の毛をくしゃりと掴む。どうやら、頭を撫でているつもりらしい。

「じゃあ、今日もありがとね。名地も遅刻しないよーに」
「しませんよ!」

ひらひらと手を振って出ていく先輩。食堂には、寝巻き代わりの指定ジャージのままで行くらしい。時刻はちょうど、八時になったところだった。
名地は冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。
椅子に腰掛け、メロンパンの包装を開けた。

学園寮の、朝のこと:END

あらしの夜に

マジかよ、ありえねえ、そんな悲鳴があちこちで繰り返される。
椅子に深く腰掛け、スマホを弄っていた平野翔太も例に漏れず、「マジかー」と、溜め息と一緒に吐き出した。肩甲骨を近付けるようにして、固まっていた背骨を伸ばす。目を閉じて首を回せば、軽い音を立てて関節が鳴った。

困惑はさざ波のように広がった。前の方で一人が帰り支度を始めたのを皮切りに、教室は一気に騒がしくなる。ひとり、またひとり廊下へ出ていった。

ほんの数分前まで、この大教室は授業を受けに来た大勢の学生で埋まっていた。

しかし、いつもなら十分前には到着している講師がいつまで経っても姿を見せない。これはいったいどういうわけだと全員が訝しがり、自主休講の判断を下した賢明な学生たちは教室を去り出した。数名が開け放しの扉を通ったころ、事務のオバチャンが急ぐでもなく悠然とやってきて、こう言ってのけたのだ。

「連絡が行き届かず今日は先生はいらっしゃいません。出席も取りませんので、本日この授業はお休みです」と。

一同、総ブーイングである。

連絡が行き届かずとはなんだ、ただの業務ミスだろう。せめて出席でも取れば来た甲斐があったものを。つーか、帰ってればよかった。待ち損じゃねえか。あいつら、ナイス判断だよな、全く。皆の心はひとつになった。

投げられた不平不満は宛先不明で、「本日休講」と書かれた黒板だけが、虚しく講堂を見守っていた。

「ひーらーのん」

自分も帰ろう。安息のマイルームでは、明後日に提出のレポートが待っている。書きかけのまま放置されたそいつを見るのも、ずいぶんご無沙汰だ。そう思って荷物をまとめ始めた時、不意打ちで後頭部に衝撃が落ちた。つむじの上で、何かがぼこんとへこむ音。

「うっわ!地味に痛てえ」
「わはは。おはようひらのん」

半分ほど中身の入った麦茶のペットボトル片手に、豪快に笑うのは同じ学部の笹原健。あだ名はササケンだ。ゆるくパーマのかかった髪を後ろに流し、前髪もかき上げている。髪型を変えるスパンが短いから、この姿もそろそろ見納めかもしれない。
あいさつ代わりに肩パンを見舞いながら席を立つ。薄いリュックを掴んだ。

「おはようっつーか、昼だけどな。つーか、帰るけどな」
「だよねぇ、せっかく来たのに俺らの午後を返せ~って感じ」
「ササケン帰り?」
「や~、バイトまで時間潰す」
「ふーん」

階段を下りながらすれ違った集団で、誰かが「今日雨降るらしいよ」と話している。「え~!傘持ってなーい」と別の誰かが返す。俺も傘、持ってないや。ササケンとの会話はだいたい適当なので、各々に全く別の事を考えていたりする。

人の流れに従って、気付いたら講義棟の出入り口だった。
自動ドアの前でじゃあなと手を上げると、笹原は「あ」という顔をした。

「そうだ、今日もニッシー来なかったな」
「ああー……確かに」
「マジで何の連絡も無いの?そろそろヤバイんじゃない?」

笹原は、神妙な表情と声でそう言った。彼の言うニッシーとは、やはり同じ学部の仁科和政のことで、俺と仁科は高校の同級生だった。
もっとも同じクラスになったのは高一の一年間だけで。けれど何となく馬が合い、だらだらと付き合いが続いている。大学まで一緒になったのは勿論偶然で、昨年の春、入学式の日にばったり出くわしお互いに驚いたくらいだ。腐れ縁と称するにはまだ足りない気もするが、付かず離れずといった距離感は何を置いても居心地がいい。

そんな仁科は、先週から大学に姿を見せていない。もう一週間近く、無断で欠席している。来週から試験期間に入るにも関わらず、だ。

仁科は不真面目なやつではないし、サボったりするキャラでもない。というよりかなりまっとうな大学生であり、そういえば、昨年度の成績優秀者として表彰までされていた。ちなみにその日は褒めろ崇めろとクソ高い定食を奢らされた。仁科和政とは、そういう男だ。

そんな事情を鑑みて、笹原は欠席を続ける仁科かなり心配しているようである。へらへらしているが、友達思いのいいやつなのだ。直接伝えるなんて、薄気味悪くてできないけれど。

もちろん俺だって、心配じゃないと言ったら嘘になる。しかしながら、仁科だって自分と同じ成人男子。できないことがあっても、何とか一人で生活できる年齢だ。まあ、試験までには来るだろうと、そこまで深刻に捉えていなかった。笹原は案じ顔で続ける。

「実はさ、教養でニッシーと一緒の授業があるんだけど。教授が学会とかで、今日テストだったんだよ。午前中。でもニッシー来てないからさ、受けてないわけ。教授も心配してたし、なあ、本当にあいつどうしたの?」
「ええ、テストにも来なかったのかよ!それはアホだ!」

笹原は、俺と仁科が常に連絡を取り合う仲だと勘違いしている節がある。当然そんなことは無いのだが、さすがに試験日にも無断で休んでいると聞くと心配に不安が刷けてやってくる。

「あー、じゃあさ。俺帰りに寄ってみるわ、あいつんち」

ほんの思いつきで浮かんだ提案に、笹原はぱっと明るい表情になる。やっぱり、良い友人だなあと改めて思う。

「ひらのんち、ニッシーの家の近くだっけ?」
「近くってか、あいつんち西門と目と鼻の先だからな。そっちから帰るよ」
「生存確認よろしく」
「おー」

友達思いの友人は、へらりと目尻に皺を作り、ペットボトルをリュックに押し込んだ。右手をひらひらさせながら、図書館の方へ向かっていく。きっとバイトの時間まで、オーディオルームで昼寝でもしているつもりだろう。半個室にソファと薄型テレビの完備されたオーディオルームは、イレギュラーな睡眠を求める若者の恰好の餌食となっていた。

(……さて)

予期せず空いて、同時に埋まった午後の予定。これから向かうと、連絡くらいはしといてやるか。むしろ仁科の方こそ何か連絡を寄越すべきなのだ。

「今家にいんの」メールを送る。予想外に、返事はすぐにきた。
『まあ うん』まあって何だ、まあって。
「これからお前んち行くから」
『は?今』
「今」

返事を待たずにスマホをポケットに差し込む。直ちに通知を知らせる振動を感じたが、無視だ。

古びた講義棟を出て、真っ直ぐに西門へ向かった。

「に~しな!俺、俺」

四階建て、各階二部屋の学生向けマンションに、仁科は住んでいる。警備員も居ないような狭い西門を抜け、道路を渡れば目の前にある。スチール製のドアをやや乱雑に拳で叩けば、カンカンと薄い音がこだました。

所々、錆びてざらつきのある表面が手に刺さる。近所迷惑も鑑みず、もう一度大声で仁科の名前を呼ぼうとした時、ガチャリとドアノブが下がった。

「聞こえてる」

安普請のワンルーム、ドアチェーンなんてもちろん無い。半開きのドアから覗くのは、久しぶりに見る学友の顔だった。不機嫌、三割増し。

「うわ、生きてた」

長袖のシャツにグレーのスウェットと、寝間着だか部屋着だかわからない服装に身を包み、「なに?」と玄関の壁に寄りかかる仁科。「寝てた?」「今何してた?」俺の問いかけは完全にスル―。迷惑だと言わんばかりのその調子に、そりゃあないだろうという気持ちになる。

「何じゃねーよ、何じゃ。一週間なんも言わないで休んでからに。ササケン心配してたぞ、お前の単位」
「あっ、そっか、テスト……」

その時まで、仁科は顔さえ上げずに相槌を打っていた。つま先に視線を落としながら、首の後ろを手持無沙汰に揉んでいた。「ササケン」と聞いて動きが止まり、続く「単位」でぱっと顔を上げた。弾き出された共通項は、一緒に受けているという教養科目と想像に易い。まったく、現金なやつだ。

「うわ~」

呻きながら髪の毛をかき回す。やや長めの猫っ毛が指に絡まったのか、微かに顔をしかめた。待ってくれ、何なんだこの反応は。なんだこいつ。慣れ親しんだ切れ味バツグンの毒舌は姿を潜め、脳みその回転はいつもの倍緩んでいる。

ふと、首筋に何か冷たいものが落ちた。首を捻って後ろを見やると、厚く黒い雨雲から、大粒の雨がパラパラと降り始めていた。

風に煽られ、屋根のある玄関口まで届いたらしい。雨足は徐々に勢いを増している。アスファルトの斑点はあっという間に広がった。

「ちょっと、とりあえず中入るぞ。雨降ってきた、濡れる」
「えっ」

軽い抵抗を無視して部屋に押し入る。「おい、待てよ」不満げな声が追いかけてきた。仕方ないだろ、俺の鞄は防水タイプじゃないんだ。濡れて困るものなんて、そんなに、入ってないけど。後ろ手で玄関を閉めると、部屋は真っ暗になった。

──電気、付けていなかったのか。

怪訝に思っていると、察しのいい仁科は腕を伸ばし、照明のスイッチを押す。目に飛び込んで着たのは散らかった室内と、ベッドの上の丸まった布団だった。

「……は?」

記憶にある、殺風景とさえ形容できるいつもの様子とあまりに異なり、思わず目を疑った。几帳面な彼は、何かをやりかけで放っておくなんてあり得ない。 
  
仁科は観念したように溜め息を吐き、「風邪引いてた、悪いか」と呟く。次に疑うのは聴覚だ。

「は!?風邪?お前が?」
「そー。だからテスト受けらんなかった、やっちまったなあ」
「いや、て言うかそれなら何か連絡しろよ。ササケンからメール来てただろ」

そう聞くと、返ってくるのはああとかうんとか、やけに歯切れの悪い返事。そもそも風邪は治ったのだろうか。オレンジ色の照明の下ではいまいち顔色が分からない。もっとも普段から色素の抜けたような肌色をしているから、どこであろうと判断なんて難しいのだけど。

「……それがさあ、実家戻ってたんだよね、昨日まで」
「はあ!?」
「うるさい、響く。追い出すぞ」

説明しろと問い詰めれば、先週の水曜日、仁科は朝から高熱で臥せっていたらしい。しかしさすがに独り暮らしの男子大学生、それくらいではへこたれない。病院にいこうなんて露ほども思わず、そのうち下がるだろうと高をくくって大人しく寝ていた。

けれどそう悠長に構えていられたのも昼過ぎまで。十二時をまわったころ、今までに経験したことのないような激しい腹痛と下痢に襲われた。貧血に脱水で目の前をチカチカさせながら、さすがに命の危険を感じ、やっとのことで一一九番をコールしたという。

「いや、このまま死ぬかと思った」

開き直った仁科はしみじみ呟く。

「え、おまえ救急車乗ったの」
「呼んだんだから乗るだろ、バカか」
「いやそうだけど」

はじめての一一九、はじめての救急搬送。少しもめでたくない初体験を、仁科青年はまな板の鯉よろしく通過していた。その後も一向に体調の回復を見せない仁科に対し、医者は保護者への連絡を勧めた。

ところが悪化した体調に吐き気まで追い討ちをかけ、とても電話なんて出来る状態ではない。やむを得ず、病院が彼の実家に連絡を取ったのだという。独り暮らしと体調不良、確かに最悪の組み合わせだ。

一報を受けた彼の家族は当然驚き、はるばる病院へと車を走らせた。身一つで慌ただしく強制送還された結果、連絡手段──すなわちスマートフォン──はこのマンションの留守番係になってしまったというわけ。

「それでなんの連絡も出来なかったと」
「そーいうこと」
「風邪治ったの」
「…………熱は下がった」
「…………あ、そう」

生真面目にひねくれた返答は、いかにも彼らしいものだった。具合が悪いなら寝てろと意を込め、ベッドに向けて顎をしゃくる。ム、と口を結んだ仁科だったが、やはり体はきついのか、素直に布団に潜り込んだ。
「あー、気持ち悪ぃ」と、くぐもった声で呟く。

まったく、どうせ休むなら全快するまで実家に居ればいいものを。
そう考えて、仁科の一家の構成を思い出す。
仁科は今日び珍しい五人兄弟の長男である(ちなみに、弟三人と妹一人。下の弟は双子だ。)。両親含めて七人家族。ファミリー向けのアパートをもってしても、部屋数が圧倒的に足りていないのだ。さしずめ熱が下がったなら部屋を開けなさいとお達しが出たのだろう。下町育ちだという仁科母の快活な笑い声が頭に浮かぶ。

「だぁーいじょうぶ、寝てりゃあ治るわよ。風邪菌なんて打てば出てくんだから」と、病人の背中をバシバシ叩きながら、医学的根拠ゼロの診断を下すのだ。

ともかくそんな家庭で逞しく育った仁科だったが、それ故に自分の健康というものをどうにも過信している節がある。カビたパンでも「千切ればいける」と軽率に口にするのだから、こいつは本当はとんでもない馬鹿なのではないかと疑うときがある。それでこれまでに何回も食あたりで苦しんでいるのを、どうして学習しないのだろう。もっとも基本的に頑丈なのか、病院送りになるほど悪化したなんて聞いたことはない。と、言うことは、仁科母の健康理念はあながち間違ってはいないのかもしれない。中らずと雖も遠からず、といったところか。但し、仁科家の血筋に限る、と注釈もつけておこう

「そうだ、お前、なんか食ったの」
「……あーー、えーと、なんか麺みたいなやつ」
「いやマジで意味わかんねえわ」
「母さんの創作料理なんだよ 」
「あぁ、あの焼きそば刻んだやつか」
「昨日は煮込んであった」

……ちょっと病人仕様じゃないか。

そう突っ込もうとして、いや待てよと振り返る。

「昨日?」

確信的な嫌な予感がして、デスク横のキッチンエリアへ。断りもせずに冷蔵庫をバクンと開くと、中に入っていたのはお茶と清涼飲料、なぜか冷やされている処方薬、そして干からびたキュウリだった。

「まさか、昨日からなんも食ってねえの」

すっかりさわり心地の変わった野菜片手にそう声を飛ばす。「食欲ない」薄目で眉間にシワを寄せた仁科の顔が、布団からのぞいた。語尾が掠れる。

「食欲あったとしても食うもんねえだろここ」
「出たら買いにいくよ」
「ああもう、しゃあねえな、ちょっとコンビニでなんか見てくるから待ってろ」
「は?いいよそんな」
「そしたら帰るから黙って寝てろ」

制止の声を半ば強引に抑え──実際にクッションを押し付けたのだが──俺は財布を掴んだ。踵を踏んだスニーカーに足を突っ込み、玄関を開ける。途端流れ込んできたのは湿った土の匂いだった。

冷たい空気に撫でられて、部屋の中は随分と暖かかったことに気が付く。そして、どうやらこの数分間で、雨はずいぶんと勢いを増していたらしい。立て掛けてあった紺色の傘を勝手に拝借し、横殴りの滝の中へ足を踏み出した。

大学近くなだけあって、小売店には事欠かない。少し下った所にあるコンビニで、プリンやゼリー、お握りをいくつかカゴに放り込む。後で自分も食べようと、新発売のスナック菓子もレジに通した。

その帰路、すれ違った車に水を跳ねられ、ジーパンとスニーカーが犠牲となる。歩行とすれ違う時には減速、徐行。全国の自動車学校はその点もっと強調して頂きたい。とりわけ雨の日の爆走は、有罪級の迷惑運転である。数分とかからず再び仁科の部屋に辿り着いた時には、全身ずぶ濡れになっていた。

「あー、濡れた濡れた!あのワゴン容赦ねえなぁ」

ビニール袋をがさがさ言わせながら、もはや我が物顔で部屋に入る。濡れた靴下は、フローリングの床に足跡をつけていた。廊下を汚すなと怒られるかもしれない。仁科には潔癖な所がある。そんな懸念に反して、返ってきたのは沈黙だった。

おや、と首を捻る。てっきりうるさいとか汚ないとか、そんな非難が飛んでくると思っていた俺は拍子抜けしてしまった。さらに奥へ進む。煌々と光を落とす蛍光灯の下、仁科はベッドにうつ伏せになって眠っていた。

水を吸った衣類の重さにうんざりしながら、そろりそろり近付くと、物音に気が付いたのか指先がぴくりと動く。

「……あ?」
「ワリ、起こしたな」
「ん、……いや、」

言葉は何も続かなかったので、俺は買ってきたものを片付けることにした。これまた勝手に冷蔵庫を全開にして、ゼリーやプリンを並べていく。
隙間にいつのか分からないチーズを一包み発見して、ドン引きして指で弾く。在庫処分だ捨ててやろうとつまんだ時、「あのさあ」と芯の無い声で呼び掛けられた。

「やっぱ熱下がってなかったみたい」

仁科はもぞ、と寝返りをうつ。
眉間にシワを寄せた決して穏やかとは言えない表情が、半分のぞく。
彼は何かを言おうと口を動かした、が─雷鳴が轟いたのは、その時だった。

「うわっ」「!」

バリバリと腹の底に響くように大きな音。振動が家具や窓ガラスに伝わった。電気が点滅し、一度消えて、なんとか持ち直した。
途端激しさを一層増す雨の音。建物全体に叩き付けるような、当たったら痛そうだなんて思うくらいの。

「……う~わ~これはどっか落ちたかもなぁ」
「……」
「つーかこれ、俺帰れんのか」
「……テレビ、つけていいよ」

布団の中からぬっと腕を伸ばし、テレビのリモコンをこちらに放る。左手でキャッチ、俺はそのまま赤い電源ボタンを押した。
真っ暗だった液晶は、主婦向けのワイドショーを映した。「すごぉ~い!おいしい~!」と、話題のグルメに舌鼓を打つタレントの頭に重なるようにして、事務的なテロップが流れる。

「警報でてんじゃん。うわ、サイアク」
「何て?」
「大雨警報。外出を控えろってさ。それに電車が動いてねぇ。電気系統のトラブルで上下線運転見合わせ……これ、ぜってぇさっきの雷だろ」

……困ったことになった。コンビニで取りあえずの食料を調達してやったら帰ろうと思っていたのに、交通手段を断たれてしまったではないか。先のコンビニで自分のためにと買ったスナックが、ビニールから飛び出していた。

どうしたものかと思案する視界の端で、仁科がむくりと起き上がった。そういえば、こいつは何かを言いかけてはいなかったか。

「何、起きるの?」
「いや、……何か、うつ伏せになってると、吐きそう」
言いながら、壁を背に両膝を抱え込んだ。
「おいおい、大丈夫かよ」
「……だから、熱下がってなかったっぽいって……」

うっ、と突然息を詰め、慌てた様子で口元を覆う。身を縮めるようにして、仁科は浅い呼吸を繰り返した。それから、言い聞かせるような長い溜め息。

「……俺今日、泊まってこうかな」

口から飛び出した思い付きは殆ど反射のようなもので、驚いた顔を見合わせたのは二人同時だった。ぽかんと間の抜けた顔を、仁科はすぐに引っ込め、一秒後には迷惑そうな表情に変わっていた。こっちの方が万倍見慣れている。

「はあ……?帰れよ、見るからにお前のスペースねぇよ」
「酷っ!この雷雨の中帰れって?電車も動いてねーのに!」
「足、生えてる」
「足違いだ、アホ。二時間かかるわ」

言葉尻に重なるようにして、再び響く雷の音。風も強くなったのか、ざあっと雨粒が騒ぐのが聞こえた。
そしてびくりと緊張に跳ねる仁科の肩。
雷に驚いたのかと思ったが、こいつにそんな繊細な心があるわけが無かった。

「っ、ふ、袋……!なんか、……っ、袋、取って、」

喉の奥に抑えたような声。ぐ、と息を詰め、背中を丸める。突然の要求に「えっ」と聞き返すと、青ざめた表情で睨まれた。

「なん、でもいいから、早く……!」

両手で覆った頬が、膨らんだ。「んん、」こもった呻き声は、限界の近さを訴えていてぎょっとする。状況を理解し、咄嗟に辺りを見渡した。角にあるごみ箱には結構な量の紙くずやちりが溜まっているし、あっちにあるのは紙袋、しかも服が入っているからダメ。足下にあるのは、ああ、これでいいじゃん。これでいい。

「ほら!袋!」

中に入っていた菓子を放り出し、まだ雨で少し濡れているコンビニの袋を差し出した。それを奪うように掴む仁科。受け取るが早いか、彼は低くえずいた。

「おえっ……、っ……、おえ……っ」

ビニール袋の中に、ばたばたと吐瀉物が落とされる。さすがに昨日から何も食べていないと言うだけあって、固形物はひと欠片も無い。辛うじて胃に入れていた水分が、濁った色になって吐き出された。

空っぽの胃から出てくるものなんてそれくらいで、もう何も出すものは無いだろうに、仁科の嘔吐反射は治まらない。乱れた呼吸はひきつけでも起こしたようだった。

薄い唇の端から、唾液が糸をひいて落ちる。喉が締まるようなえずきを繰り返すその様子に、どうにかなってしまうんじゃないかと、ぞっと背筋が冷えた。

「おい、大丈夫か、マジで」

がたがたと震える仁科の手に代わって、袋を掴む。脱力して、手を離してしまいそうだったから。視線を落とすと、寒い室温ではないのに鳥肌が立っていた。背中を擦ろうと腕を回すも、身を捩って避けられてしまう。無駄な肉の無い、薄い背中の感覚だけが手のひらに残った。浮いた背骨を感じたが、それはここ数日の話ではないだろう。背骨くらい、自分だって触れる。

「……背中、は、いい、……」

乱れた呼吸を整えながら、息も絶え絶えにそう絞り出す。そのまま、ぐったりともたれ掛かってきた。猫っ毛の毛先が頬を掠める。体温の高い仁科の重みがかかってくる。ゲロ袋と化したコンビニのビニールがするりと落ちそうになり、慌てて取り上げた。ちゃぷ、と中身が揺れる。微かに酸のにおいがした。

(……おいおいおい、これ、マジで)

やばいんじゃないの。

こんなに弱った仁科を、というか、こんなに弱った人間を見たことがなくて、じわじわとインクの滲むように焦りが募る。

風邪は、叩けば治るんじゃなかったのか、仁科母よ。

これはもしかして、また救急車か。そうだ、まず水分を取らせないと。でももしかして、飲んだらまた吐いてしまうんじゃ。

麻痺した頭で最善策を思案する。少しも働いていない思考が「一度叩いてみたらひょっとしたら」と確実に正解ではない解答を閃いた時、ちょっと、と掠れた声で呼ばれる。俯いたままの仁科が、横目の視線だけで見上げていた。

「……おかしなこと、考えただろ、おい」
「えっ、いやそんな、別に」

ぎくりとするも、不愉快そうに眉根を寄せた仁科を見て、内心は安堵で胸を撫で下ろす。良かった、ちゃんと生きてる。

「お前、少し横になってろ。コレ、捨ててきてやるから」
「……ん、……悪いな」

ぞんざいな口調こそ通常運転に近くはあるが、やはり発熱に嘔吐と弱っているのは変わらずで。まるで吊っていた糸がゆるむようにベッドに倒れ込む。
でも心なしか、表情は穏やかだ。吐いてスッキリしたのだろうか。あとは仁科持ち前の健康な肉体に頑張ってもらおうじゃないか。

「あ、」吐いたものを流そうと、トイレのドアノブを掴んだとき、背後からそう声が上がった。

「何だよ?」
「あー……、いや、……なんでもない」
「ハァ?」
「……お前がコンビニ行ってる時、一回吐いたから。におったらごめんって、言おうと、思ったんだけど」
「ああ、意味ねぇな。つーか、コレだからな」
「うん。ごめん」
「換気しといてやるよ」
「うん」

ほぼ水分だけとはいえ、胃のなかでごちゃ混ぜになってどろりとした吐瀉物を、ビニールから便器へ流す。酔っ払いのゲロ掃除より何倍もましだ。居酒屋でバイトをしていれば、後始末は毎回のことだった。

手洗い場でビニールを洗って、少し迷って丸めてプラごみに分別。ワンルームゆえにキッチンも兼ねた一室に戻ると、仁科がうとうとと半分眠りに足をかけていた。俺が出てきた物音で引き戻してしまったようで、ゆるりと目を開く。

「……ぁ、……悪い、ごめん」
「だから良いって。寝ろよ、悪ぃ起こしたな」
「ん、」

幾分平常な呼吸。間隔の長い瞬き。
日も落ちてきて、悪天候のせいで一層暗がりの部屋に、豆電球だけ点けておく。弱まることを知らない雨音の勢いと、時々響く雷。

脱力しきった仁科が横たわる、背の低いベッドに寄りかかって、俺はテレビを眺めていた。

勿論、音は消してある。

本当は真っ暗にして然るべきなのかもしれないが、仁科はテレビが点いていようと構わずに眠れるタイプだと知っていたし、何より俺が退屈すぎて、死にそうだったのだ。無音画面の向こうで、タレントがクイズに答えていた。

全快していない仁科が寝るまでは、しっかり目を覚ましている必要がある。そんな使命感、あるいは責任感を感じていた。これは定食どころじゃない恩義である。治ったら絶対に焼き肉奢らせてやろう。あ、でも、病み上がりで焼き肉はないか。

(ま、別にいつでもいいか)

どうせこれからも同じ大学、同じ教室に通うのだから。
突然震えるスマホ。はっと目を開ける。俺、寝てた?
眩しく明るい画面を見ると、笹原だった。

『ニッシーどうだった?いた?』

そういえば何の連絡もしていなかった。ふと仁科を見ると、規則正しい寝息を立てていた。ようやく、ようやく落ち着いたらしい。指先を動かして操作する。

「それが風邪引いて地元戻ってたらしくて。一応落ち着いたらしいけど、明日も行けるか分かんねえな」

送信ボタンを押す前に、手から抜けたスマホはゴトリと床に転がった。
テレビの明かりがぼんやりと、軽快カラフルに照らす部屋で、いつの間にか、眠りに落ちていた。

あらしの夜に:END

答えのない話

──ドアが閉まります、閉まる扉にご注意ください…

アナウンスが流れ、ゆっくりと電車が動き出した。
「よっこらせ」とでも言いたげな重い動作で、鉄の塊は動き出す。
三谷は最終車両に乗り、背中を壁に預けていた。
少し首を動かせば、無人の操縦室越しに線路が伸びている。
滑らかに連結されたいくつもの線路はやがて分かれ、一本だけが残される。
今、僕はこの上を走っている。

線路脇のコスモスが揺れていた。流れていく風景、眠たい温度。遠くのビル群を追いかけた。
足元に視線を戻す。
脇の下に嫌な汗をかいていた。
マスクの位置を整えた三谷は、息を殺して電車の揺れに身を任せる。右手で左の手の甲をつねった。
侵入してくる嫌な記憶、嫌な思考に蓋をするために。

三谷が引き籠るようになったのは、もう一年も前の事だった。

下駄箱の中の泥、墨汁に浸されたノート、破かれたジャージ。思い出すだけで吐き気がするような、動物の死骸。
そして授業中、背中に刺さる画鋲。
痣や切り傷は絶えることなく、ある朝靴を履こうとして、突然息の仕方を忘れてしまった。

もう限界だと、思った。

翌日から登校を諦めた僕に、父親は何も言わなかった。興味を持たれることはなかった。
「好きにしなさい」背中を向けたまま、そう一言。言いながら父は確か、スーツを脱いでネクタイを外していた。

担任からの電話が度々かかってきた。留守電に担任の声が溜まっていく。
「お前はそんなやつじゃないだろう」「先生に話してくれないか」「いったいどうしたんだ」
善意と責任感の押し付けが鬱陶しくて、三谷は電話線を抜いた。どうせ家族は固定電話なんて殆ど使わない。
繋がらないコードを見て、突然酷い目眩に襲われた。
壁を伝って、這うようにしてトイレに向かう。溢れた胃液に喉が焼けるようだった。

季節は流れ、終業式にも始業式にも出ないまま、2年生に進級していた。
やたら雨の多い、湿った春だった。
三谷は相変わらず決まった時間に起床して、部屋から出ることなく勉強して、排泄をして眠る。人間として最低限の生活は、ギリギリ保たれていた。
生きているから腹は減るのだが食欲はなく、父親の作った弁当の残りや、コンビニの惣菜やパンを適当につまんだ。
悪意のある落書きで埋まった教科書は、時々三谷を現実に引き摺り出した。このままじゃいけない。一体いつまでこうしているんだ。学校に行かないと。思考の弾丸が縦横無尽に飛び回る。

「…………!、はっ……はぁっ」

全身が心臓になったような、激しい動悸。ずるずるとへたり込んで、部屋の隅で震えが治まるのをじっと待った。酸素が、薄い。
涙が勝手に流れてきて、なんて惨めなんだと、頭が割れそうに痛んだ。
ふらふらと引き出しに近付いて、頭痛薬のシートをすがるように掴む。がたがたと震える手で錠剤を押し出し、ミネラルウォーターで何度も飲み下す。
気が付いたら、箱は空っぽになっていた。

「うっ」

突き上げるような、強い吐き気。倒れ込んだベッドの上、枕に顔を押し付けて丸まった。逆流してきたものを嚥下する。金属音に近い甲高い耳鳴りに大音量で包まれて、覚えたのは安堵だった。

大丈夫、僕はここにいる。苦しさに甘えて、何も考えなくていい。それだけになれる。

雨続きの金曜日。そろそろ本格的に単位が危ない、せめて登校だけでもしてくれれば出席になるから、といった旨の手紙が届いた。
ソファに腰掛け、担任の手書きの文字を視線で追った。

ぼんやりと宙を見上げる。手紙はヒラリと床に着地する。
天窓には雨が勢いよく打ち付けられ、シーリングファンは冷たく三谷を見下ろした。

と、固定電話の着信音が鳴り響く。びくりとして全身が硬直した。
数ヵ月前三谷が抜いた電話線は、その翌日には直されていた。

恐る恐る、受話器を取る。
「…………はい」震える声で応答する。相手はやはり、担任だった。

「!三谷か。良かった、また、繋がらないかと思ったよ。中原だ。」
「…………中原先生」
「ポストに入れておいたんだが、読んだか」
「……はい」
「それなら話は早い。とにかく、一度学校で話そう。このままだと三谷、卒業も厳しいぞ」

善意の押し付け、正義感のモデルは時に無遠慮で残酷な針になるのだと、その時実感した。
共感を求めていたわけではない。同情だってそうだ。
卒業出来ない、その言葉はいやがおうにも三谷を現実へ呼んだ。
選択肢は少ない。学校へ行かなくては、いけない。
心臓がバクバクと脈打って、冷や汗が止まらなかった。
汗でぬめる受話器を何度も持ち直す。気付かれないように深呼吸。

「……はい」
「平日じゃなくてもいいんだ。そうだな、明日はどうだ。土曜日なら、殆ど人は居ないし」
「……はい」
「来てくれるか!じゃあ明日、13時に相談室で待ってるからな。気を付けて来いよ」

ガチャリと電話は切れた。受話器から耳を離しても、不通音は微かに鼓膜を揺さぶった。

「……あしたの、13時、……相談室、……」

放心したように、三谷はそう繰り返した。
そこにあるのは静寂のみ。
思い出したように、雨音が聞こえてきた。

翌日、重い足で学校へ向かう。制服に袖を通すのも、電車に乗るのも、全てが久しぶりだった。鬱屈とした気分で歩を進めた。
流れていく風景に、かつての記憶と共通点を見つける度、胃が刺すように痛んだ。吐き気と動悸、色々なものが洪水のように押し寄せる。
最寄りに着く頃には、三谷は腹を抱えて蹲っていた。誤魔化すように、ジャケットの上から鳩尾の辺りをぐいぐいと押す。シャツには皺が刻まれた。俯いて膝に視線を落とす。
乗客の少ない時間帯で良かった。そんなことをふと考える。
よろよろと駅のトイレに転がり込み、胃の痛みと吐き気が治まるのをじっと待った。腕時計をちらりと確認する。時刻は13時を回っていた。

結局何とか校門をくぐったのは、約束の時間から30分後。
下駄箱を見て、一度は落ち着いていた吐き気がぶり返してきた。
──泥ならまだいい。落書きだって全然いい。生き物の死骸だけは、やめてほしい。
錆びた音を立てて空いた下駄箱には、自分の内履きが揃えて並んでいるだけだった。

話し合いの内容は、手紙にあった通りだった。
保健室でもいいから、登校はした方が良いということ。
放課後の補講と、受けなかったテストの追試を特別に認めるということ。
そして、何かクラスで問題があったのなら、伝えてほしいということ。

何か答えなければと思うのに、飛び出したのは嗚咽だった。

担任の中原も、突然泣き出した三谷にぎょっと目を見開いた。
「三谷?どうした?」と繰り返す。
止めどなく溢れる涙で、両手はぐしゃぐしゃになった。袖口まで流れ込む。

「ひっ、……うぅっ、……」

こんな、先生の前で、人前で、学校で。言葉にならない位に泣きじゃくって、そんな自分の気色悪さに耐えられなかった。
惨めで間抜けで仕方がない。恥ずかしい。このまま、消えてしまいたい。

(みっともない…………!!)

この日はまともな話し合いにならないまま、解散となった。

その後も中原は折を見て三谷を学校に呼んだ。補講と追試で何とかなるギリギリのラインまで、粘ろうと思っていた。
三谷にもその気持ちは伝わっていたが、学校という場所は三谷にとって恐怖の塊であり、その恐怖に負けていつまでもたたらを踏んでいる自分は憎むべき対象だった。

それでも何とか、前を向かなくてはいけない。時間は猛スピードで三谷を追い越す。

いつからか三谷は、登校する日の朝、大量の風邪薬を服薬するようになっていた。
フワフワとした浮遊感で、過去が磨りガラスに覆われるからだ。
みっともなく、泣かなくて済む。人前で泣くのは酷く恥ずかしくて、弱みを握られたような、そんな錯覚がやってくる。

だから今日も家を出る前、いつもの風邪薬を30錠ほど、ミネラルウォーターで飲み干してきた。
気休め程度に瓶ごとカバンの中に入れている。お守りのようなものだった。
ずれてきたマスクの位置をもう一度直す。

電車が停まった。
空気の抜ける音と共に、ドアが開く。
学校に、行かなければ。

薄くぼんやりとした秋空に見下ろされて、三谷は校門をくぐる。
風邪薬のお陰で、嫌な気分にはならない。話し合いの最中にも、泣かずに済んだ。
来週から、保健室登校をすることに決まった。
追試や補講も徐々に始めてくれるらしい。
地に足が着かないまま、先生の提案をただ受け入れた。
「三谷、前向きになってきたな」中原はそう言って、満足そうに頷いた。

どこか感覚を麻痺させて、相談室を後にした。胃の辺りが、なんとなくムカムカする。
消灯された、人気のない廊下を歩いている時だった。

「あれっ?」

突然響いた、誰かの声。ぎくりとして、心臓が飛び出るほど。浮遊感は雲のように消え去った。
玄関で靴を履きながら、三谷を見上げたのはかつてのクラスメートだった。え?と口が動く。

「お前、──三谷……?」

視線が交わる。

反射的に、逃げ出していた。

「はっ、はあっ、ぁ、ひっ」

体育館に繋がる渡り廊下で、三谷は立ち止まった。まばらな外出、走ったのなんて、遠い昔が最後だ。呼吸を整えようと、息を吸って、吐く。
壁に寄りかかり、背中を折った。狂った呼吸は少しも落ち着かない。
あれは、誰だっけ。でも、名前を呼ばれた。きっと、同じ教室にいた。

(気持ち悪い…………っ)

吐く、と思う間もなく、口の中に酸っぱいものがこみ上げてきた。逆流してきた吐瀉物で頬が膨らむ。
こんな所で、吐きたくない。もう帰りたい。はやく、ここから出たい。
左手で必死に抑えながら、角のトイレに駆け込む。
個室に飛び込んで、堪えていたものをドッと吐き出した。目の奥が、チカチカした。

「オエッ、……う、っ、うぇっ、……ゲホ、ゲホッ……っ」

便器に落ちた吐瀉物は、錠剤の糖衣で真っ白だった。
カバンに手を伸ばし、飲み物なんて持ってきていなかったのだと思い出す。

自分は、いつまで、こんな事を繰り返すんだろう。

何も考えたくない。
死にたくてたまらない。

帰りはいつも使わない地下鉄に乗った。
少しでも記憶を重ねないように。
薬を吐き出してしまったからか、電車に揺られながら泣きそうになった。

夜はまだ、明けない。

答えのない話:END

呼吸と体温

何となく体調が悪いのは、自分で気付いていた。
胃の辺りがムカムカして、体が重かった。
人間は重力に逆らって生きているのだと、そんな変なことまで考えていた。
それでも何とか1日を過ごし、同棲している薙さんの作ってくれた夕飯を食べた。
家事は当番制にしていて、俺は今日洗濯をしなければならなかったが、こびりついた怠さに負けて放置してしまった。
薙さんは「大学忙しかった?」なんて言ったけど、2日分の洗濯を溜め込んでしまった罪悪感と、積まれている洗濯物の山に余計気分が悪くなった。

その夜、薙さんは翌日が休日だからと俺の服に手を忍ばせたが、とてもそんな気持ちになれなかった。
心配されるのは避けたくて、今日は眠いと一言告げ、寝返りを打って背中を向けた。
胃の中で、さっき食べた夕食がたぷんと動いた、気がした。
「そっか」呟いた薙さんは無理強いは絶対にしない。優しい人なのだ。
リモコンを操作して照明を消し、おやすみと布団に潜り込んだ。

本格的に体調が急降下したのは、気温のぐっと下がった夜中。

気持ち悪い。はっきりとそう感じ、強制的に眠りから起こされた。
それも、何となくなんて生ぬるいレベルじゃない。
「吐く」この2文字が鮮明に脳裏に浮かんだ。襲うのは、強烈な吐き気。

同棲を初めてからずっと、一つのベッドで一緒に眠っている。
部屋を決めて、最初に買った家具だ。
シンプルな木製の、ロータイプのダブルベッド。
毛の長いダークブラウンの掛け布団の下、薙さんは俺をしっかりと抱き締めていた。
いつもなら大好きな人の体温を直接に感じて安堵するのに、今日は状況が違う。

(あーーー…、……やばい…)

バクバクと心臓が脈打つ。
冷や汗が吹き出し、俺は何度も生唾を飲み込む。
少し身動いだだけじゃ、薙さんの腕は離してくれそうにない。

それに、体勢も悪かった。
背を丸めたいのに、薙さんの両腕は俺のお腹の辺りをがっちりホールドしていて、俺はさながら薙さんの抱き枕のようになっている。
自分の重みで胃が圧迫され、背中を曲げると薙さんの腕がぐいと食い込む。

薙さんを起こして、腕を離して貰おうかとも思ったが、一瞬でその考えを打ち消す。
薙さんはここ最近仕事が忙しく、まともに眠れていなかったはずだ。
漸く一段落ついて、今日は久しぶりにゆっくり寝られるって、夕食の時にも言っていた。
こんな勝手な理由で薙さんの睡眠を妨げることはしたくないし、絶対心配されてしまう。
それに、確実に吐いてしまう予感がする。
薙さんに自分が嘔吐する姿を見られたく無かった。汚い音も、聞かれたくない。

そろり、すんなりと伸びて絡まる腕を抜け出そうと、体を起こす。
その気配を感じたのか、薙さんは寝惚けたまま、俺をぐっと引き寄せた。
薙さんの手は、俺の鳩尾を直接に押した。

「……!!」

胃の中身が押し出される。
食道を逆流し、競り上がってきた内容物を慌てて飲み込んだ。

(やばいやばいやばいやばい……!)

再び布団に収まり、目を閉じて呼吸を整える。
目眩までしてきた。最悪だ。
じっと落ち着いていられなくて、裸足の足を世話しなく擦り合わせる。
寒いはずなのに全身緊張で汗ばんでいて、気持ちが悪かった。

一度抱き寄せたことで、薙さんと俺の距離はさらに近くなった。
殆ど密着していて、起こさないようにと思うと少しも動くことが出来ない。

(………どうしよう……)

両手で口元を覆う。こんなの、ほんの気休めにもならない。
こうしている間にも吐き気は確実に気力を削ぎ、小さな波が何度も体力を奪っていった。
背中越しに聞こえる薙さんの気持ち良さそうな寝息が遠くに感じる。
生理的な涙が溢れ、枕に染み込んだ。

―――息苦しい。

そして、唐突に自覚する息苦しさ。

浅い呼吸をずっと繰り返していたことに、そこで気が付く。
息が、出来ない。
この感覚を知っていた。

「はっ………」

マラソン大会の後、大切な大会の前、体育祭、そんな場面で何度も経験していた。

過呼吸。

過呼吸に、なりかけている。
頭の冷静な部分が、そう警告する。
どうやら自分は過呼吸になりやすい癖があるようで、激しい運動や過度な緊張を感じた際は、度々この症状を引き起こしている。
最近はその前兆を自覚できるようになって、本格的にパニックになる前に自分で何とか処理できるようにもなっていた。
今も、ちゃんと呼吸を整えれば大丈夫。深く息を吐いて、落ち着けば、大丈夫なはずなのである。

けれど、そんなことはお構い無しに、胃は中身をひっくり返そうと躍起になる。
気持ち悪さと息苦しさで、体がガタガタと震えた。
口を覆っていた手が頬に食い込み、片手は寝間着代わりのTシャツをぐしゃぐしゃに掴む。

「んぐっ」

本当に突然だった。突然、強い吐き気の波が襲い、頬が膨らんだ。
飛び起きて、堪えきれずに嘔吐する。あっと思う間も無かった。
生暖かい吐瀉物がシーツに、フローリングに飛び散った。

「夏樹?!」

静まり返った部屋に、俺がえずく音だけが響く。薙さんを起こしてしまった。当然だ。
ドキリとして息を止めたが、込み上げてくるものを我慢することは出来ない。
背後で薙さんが起き上がるのを感じた。スプリングが軋む。

「オエッ……げぇ、うぅっ」
「夏樹?ちょっと、どうしたの」

寝起きの声で薙さんが戸惑っている。
薙さんの作ってくれたクリームシチューや、デパートで買ってきたサラダがぐちゃぐちゃになって吐き出された。
救急車、と呟いた薙さんがスマホを探し始めたので、慌てて首を振った。

「ひっ、はぁっ、はぁっ…っ、ふ、ひぐ、っ…」

息が出来ない!

部屋の電気が点く。薙さんが背中を擦ってくれる。
薙さんは、俺の過呼吸を心得てる。
何を隠そう、初めて薙さんの前でこんな風になったのは、初めて薙さんに抱かれた夜なのだ。
思い出すだけで顔から火が出そうである。

「よしよし、息吐いて…、大丈夫だからなー……」

「ふっ、…んん、っ、ふ、」

薙さんの右手が、俺の手の隙間を縫って、俺の口を覆った。
吐いたものと唾液でべたべたになって、薙さんの手を汚す。
本当に病院に行かなくて大丈夫なのか、と薙さんは言った。

「吸って、吐いて、…吐いて、」
「ひっ、ふ、…、」

ああ、ぼんやりと薙さんの体温を感じる。
もう、大丈夫、きっと、大丈夫。
急に大量に吐いたせいで、唾液線の辺りがキュッと縮む。
ヒリヒリした喉の痛みより、締め付けられるような食道の不快感の方が勝っていた。

「…はーー、はぁ、…」
「落ち着いた?」

肩で息をしながら、薙さんの言葉になんとか頷く。
「水持ってくるから」薙さんの体温が離れた。

頭痛と目眩に顔をしかめながら目を開くと、ベッドから床までグロテスクな惨状が広がっていた。
間に合わなかった。やってしまった。
呼吸が少し落ち着いた今改めて思い知らされて、さっと血の気が引いた。

「ほら、水。飲める?」

薙さんの優しい声音に、泣けてきてしまう。
呆然としていると、蒸しタオルで顔が拭かれた。汚れた指の間も丁寧に拭いてくれる。
全身に力が入らなくて、薙さんのなすがままになった。

「なぎさん、………すみません……」

涙が滲み、声が震えた。
後始末をしなければ。床を綺麗にして、シーツを取り替えて、洗濯をして。…そうだ、洗濯。
積まれたままの洗濯物を再び思い出す。
そう思うのに、あまりの怠さに座っていることすらままならない。

薙さんが、俺の背中をぽんぽんと叩いた。
水の入ったコップを受け取り、一息で飲み干す。

口の中の不快さが払拭されたのも束の間。
食道を通った水分を、体は反射的に戻そうとえずいてしまう。
もう寝室を汚したくなくて、鉛のような体に鞭打って床に足をつける。

(……嫌だ、)

「あー、そうだよね、無理か…。水分取って欲しかったんだけど。…トイレ行く?」
「……行く……」

薙さんの、心配そうな声を待たずにベッドから抜け出した。
背筋を伸ばせなくて、胃の辺りを庇うような猫背になる。
ふらついて足がもつれた。

これ以上の醜態はない。
“吐いても大丈夫な場所”以外でこれ以上吐き続けることに耐えられなかった。
体も辛いが、それ以上に精神的に参ってしまいそうだ。
ここまで盛大に汚しておいて、ただの意地だと分かっていても。

「ここで吐いても、誰も怒らないよ」そう言いながらも俺を支えるように付いて来てくれる薙さんは、本当に優しい。
迷惑かけてごめんね、薙さん。

便器を抱えて何度も嘔吐して、目の奥がチカチカしてきた頃、ようやく吐き気が治まってきた。
脱力して、すぐ後ろにいる薙さんに凭れかかった。
薙さんは長い腕を伸ばし、水を流す。
鼻の奥がツンとした。

目を閉じたまま、ゆっくりと息を吐く。
怠い腕を動かして、胃の辺りをそっと擦った。

「…あー…、死ぬかと、思った」
「苦しかったね、夏樹。死ぬかと思ったはこっちのセリフだよ」

薙さんもまた、安堵の溜息。
申し訳なくて、情けなくて。ごめんささいと呟くと、薙さんはぐっと俺の肩を掴んだ。「そうやって謝るのは禁止」なんて念押しをされ、引いていた涙が再び溢れた。
嗚咽が漏れる。また呼吸がおかしくなってしまわないように、しゃくり上げそうになるのを抑え意識して深呼吸をした。

「さ、て。眠れなくてもいいから、一度休もう。ここじゃ冷えるだけだよ。リビングに、お客さん用の布団敷いてあげるから。ソファにでも凭れるか横になってなさい。ね」

小さい子に言い聞かせるような口調でそう促され、よろよろと立ち上がる。
キッチンで口を濯ぎ、薙さんが布団を用意してくれている間、言われた通りにソファで毛布に包まった。
クローゼットに入るような、丸めて収納するような小さな敷布団で、なのに薙さんは潜りこんで手招きをする。

「具合悪くなったら気にしないで起こしていいからね。ほら、寝るよ」

薙さんのつま先が布団からはみ出ていて笑ってしまう。笑った拍子に、また涙が流れた。
この人のこういう所が、俺は大好きなんだ。

2人で狭い布団に身を寄せ合う。何となく面白くなって、同時に吹き出す。
薙さんの呼吸にリズムを合わせているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。

呼吸と体温:END

2人の兄

天高く馬肥ゆる秋。
空気は澄み、夏よりもぐっと遠くなった空は茜色で、古人に言わせれば一番素晴らしいとされた夕暮れだ。外を歩けば金木犀の香りがそこら中に広がっている。
もっとも、朝から険悪なムードが漂うこの車内では、秋の風流など微塵も関係のない世界であったが。

「まだ着かねえのかよ、バカ兄貴」

ゆるやかな車の流れに痺れを切らし、後部座席から運転席をドカッと蹴る。
兄、隆生がやれやれと肩を竦めるのが見え、余計イライラが募る。

「まあまあ、理生ちゃんそんなにピリピリしないのー」

助手席から振り返ってへらりと笑うのは、兄の幼馴染みである幸哉だ。
小さい頃から隣に住んでいて、幸哉が一人っ子だったこともあり、隆生と幸哉と理生で三兄弟のようにして過ごしていた。アッシュグレーに染めた長めの髪に、耳元で光を弾くピアス。無駄に整った顔にぴったりとハマり、無国籍風の華やかさがある。
けれどそれも口を開くまで。

「ストレス溜まってるんじゃない?オレが気持ちいいことしてあげよっか。ねえ隆生、理生ちゃん一晩オレに貸してよ」
「こんなガリガリでよければ好きにしていいぞ」
「うるさいバカゆき!バカ兄貴!」

あはは、と笑って幸哉は前を向く。綺麗な顔に似合わず、とんでもない変態変人なのだ。守備範囲は老若男女問わず。

暁生がカーナビを操作し、渋滞情報を確認する。幸哉はステレオを弄り音楽を変えた。そんな二人の後ろで理生は、ふて腐れたように窓の外を見た。

だから兄と出掛けるのは嫌だったのだ。
就職先が決まり、そこは家から通うにはいささか不便な場所にあった。一人暮らしを決めてから数か月、最近になって引っ越し先が決まったため、理生の高校が休みの土日になると人手が足りないと連れ出される。お隣の幸哉も暇だからと手伝いに来て、ここ一ヶ月は全休日が兄の引っ越しに割かれている。
今日も朝からトランクいっぱいに組立式の家具を積み込み、新居に運んで組み立て配置。理生が文句を言っても、絵に書いたような傍若無人である兄は「オラ、働け」と笑うだけである。

後部座席に座る理生は、二人が前を向いたのを確認して、左手でそっと腹部を抱えた。
理生が苛ついているのには、兄の手伝いや渋滞以外にも理由があった。
今朝からずっと、腹が痛いのだ。

「でもいいなあー、隆生一人暮らしじゃん。オレも早く大学卒業してえ~」
「お前の場合卒業出来ても就職できるかが問題だろ」
「そうなんだよねぇ」

前の二人は呑気にそんな話をする。医学部に通う幸哉は、法学部所属の隆生よりも長い大学生活が待っているからだ。

外も十分涼しくなってきたというのに、がさつな兄は夏場の癖で冷房を効かせている。家具を運ぶからと動きやすさを重視して薄着だったことも要因となり、帰りの車内では痛みが増すばかりだった。
手のひらを押し付けるようにしてお腹を擦りながら、痛みが収まるのをただ祈る。
窓の外の景色は、さっきから殆んど変わっていない。赤いテールランプがフロントガラスの向こうに伸びるだけだ。理生はこっそり、溜め息をついた。

だんだん、痛みは我慢できる範囲を越えつつあった。
それどこかぐるぐると不穏な動きまで感じ始め、悪い予感に背筋が冷える。
俄に焦りに包まれた理生は、身を乗り出して兄の肩を叩く。腹圧がかかり、絞られるような痛みに頬が一瞬引きつった。

「なぁ、まだ動かねえの。高速降りた方が早いんじゃない」
「しゃーねーだろ、事故渋なんだから。何、小便?」
「なっ、んなわけないじゃん」

振り返った隆生の顔には意地悪い笑みが浮かんでいて、かっとしてそう否定してしまった。たった一言、トイレに行きたいと言えばいいのに、そうしなかったことをすぐに後悔する。けれど散々憎まれ口を叩いた兄に、自分の不調が知られることは、どうしても避けたかった。

車に乗る前にも、腹具合を心配して何度かトイレに行っている。結局出るものは無く、痛みも収まらないままだったのに、どうして今下ってきてしまうのか。
助手席の幸哉も首を少しだけ捻って様子を伺うので、気恥ずかしくなり何食わぬ顔で背もたれに体を預けた。

(……っ、何か変なもん食ったかな……)

少しでも体を暖めようと、必死で腹を擦る。お腹痛い。結構、やばい。せめて横になりたい。効きすぎた冷房は容赦なく体を冷やす。

痛みの波が少しだけ収まった所で顔を上げ、外の様子、車の動きを確認する。サービスエリアの案内を探したがそれらしき標識は見当たらず、延々と続く車の行列に気が遠くなっただけだった。

ぎゅる、と音がして、再び腹痛がぶり返す。腹の中を握って捻られたような痛み。先ほどより激しくなったそれに涙が滲んだ。遂にお尻の穴に確かな圧力を感じて、さっと青ざめる。これはまずい。かなりまずい。

「あっ、兄貴、」
「何だよ」

一度否定しておいて自分から縋るのは、顔から火が出るほど恥ずかしかったが、最悪の事態を招くよりもずっといい。なけなしのプライドがふたつ。天秤は一瞬で傾いた。
隆生は理生の窮地も知らず、ホルダーに入れていたコーヒーを飲む。

「ど、どっか……停めて……」
「はあ?お前、さっき……」

にやりと笑いながら振り返った隆生も、理生の様子を見てふざけている状態ではないと悟ったらしい。一瞬で顔が引き締まり、大丈夫かと真面目くさった声で言う。

「…………、大丈夫じゃ、ない……」

知られてしまったならとやけくそ半分、限界半分で、もう隠すことなく両手でお腹を抱えた。背筋を伸ばすなんて出来なくて、体を折って背中を丸めた。

「理生ちゃん?」

うとうとしていたらしい幸哉まで、欠伸を噛み殺した表情でこちらを向く。

「あー、悪い、お前冷房ダメだったな」

がしがしと頭を掻いて、冷房のスイッチをオフにする隆生。そういえば、昔はよく両親の運転する車でも腹を下していたっけ。自分でも忘れていた自分のことを、兄が覚えていたのは意外だった。

「隆生、ちょっと車停めて」

そう言ったのは幸哉だった。え?と隆生は答える。ちょうど車の流れが止まったのを良いことに、幸哉は助手席から抜け出し、そのまま後部座席に乗り込んできた。

いつものだらしなさは何処へやら、泣きそうな理生の顔を覗き込む。
大きな手で腰の辺りを擦られて、痛みが和らいだ、気がする。薄手のジャケットを脱いで、肩からかけてくれる。「だいじょうぶ?」と、あやすような口調の幸哉。いつも兄と一緒に自分をからかう幸哉が優しいなんて、なんか変。

「理生ちゃんしんどい?ちょっとごめんね」

刺激からガードするように腹を抱えていた両腕を剥がされ、隙間から幸哉の手が入ってくる。何、と思ったのも一瞬。これまでも腹痛で駆け込んだ病院で何度かやられたことがある、触診だ。
これまた顔に似合わず骨ばった左手が撫でるように擦り、時々一点を軽く押す。
その度に、ぎゅるると恥ずかしい音が立った。服の上からとはいえ、強い刺激に理生の体は悲鳴を上げた。

「いっ、いたい、幸哉いたい…っ」
「ごめんね、痛いね。もうちょっと我慢して」

労るような幸哉の声に涙が出そうになる。身を捩るようにして幸哉の手から逃れようにも、変に力を入れたら漏らしてしまいそうで。重力に従って、水っぽいものが押し寄せる感覚。少しでも筋肉を緩めたら、熱いものが溢れてしまいそうだ。
ようやく幸哉の手が離れる。さっきからひっきりなしにお腹が鳴っている。痛みの感覚も短く、鋭くなっている。

「隆生、多分変な病気じゃないし、ただの腹痛だと思うけど、理生ちゃんしんどそうだから急いで」
「分かってる。今トイレ借りられそうなとこ探してんだよ」

その言葉にはっとして外を見ると、車はいつの間にか高速を降り、スピードを上げて一般道を走っていた。

ガタン、と突然車が揺れた。
何かを踏んだのか、道路の段差か。いずれにせよぎりぎりまで張り詰めた理生には大きな振動だった。

「~~っ」

「悪い、理生」と、咄嗟に隆生が謝る。兄が謝るのなんて、始めて聞いたかもしれない。ただ、理生にはそんなことを気に留めている余裕は無かった。
ぷすぷすとガスが漏れた。羞恥で死にそう。においが分かって、涙で視界が揺れた。

体を揺らすのを抑えられない。小刻みに揺れながら、お尻の穴を必死で引き締める。視線を膝に落としながら、はやくはやくと祈った。

額に滲んだ脂汗を、幸哉がシャツの袖で拭ってくれる。張り付いた前髪を、その長い指が分けた。隆生はどこか立ち寄れる場所を必死に探してくれているらしく、二人に申し訳なさが募った。ごめん、二人とも。でも、腹痛いんだ、助けて。

「ひぁ……っ」

不意に強い波が襲い、ぎゅうっと内臓をわし掴みにされたような錯覚。もう無理もう無理もう無理。我慢できない。本当に、やばい。
みっともなく涙が零れた。お腹が痛くて泣くなんて、本当にみっともない。
お尻の穴が抉じ開けられる感覚がして総毛立つ。びくりと背中が跳ねた。危ない。最悪の事態が現実感を持って頭をよぎる。がたがたと震える理生に、幸哉は痛ましそうな視線を下ろした。

「あっ、コンビニ!」

道路の反対側にコンビニの看板を捉えた幸哉が、運転席に向かってそう声を上げる。その言葉にほっとするゆとりは、理生には残っていない。

「分かってる」隆生は告げ、右折のウインカーを出す。なかなか厳しい車線変更だが、この際対向車には大目に見て貰おう。車の速度が落ちるのを感じた。隆生は緩やかにハンドルを切る。普段はバックで停めたがる隆生も、さすがに今回ばかりは頭から駐車場に突っ込み、エンジンも切らずに飛び降りた。

「借りられるか聞いてくる」と言って立ち去る。
確かに今の理生にはコンビニに向かうだけで精一杯である。いざ降りてみて借りられなかった場合、そのまま店内で漏らしてしまいそうなほど、危機感は差し迫っていた。

けれどもしここで借りられなかったら、もうこれ以上我慢を続ける体力はない。痛みと強烈な排泄欲でぐちゃぐちゃになった思考回路は、マイナスなことばかり考えてしまう。

「……っあ、…………ひ……」

ぎゅるるる、と腹が限界を告げる。停車した車内でその音はやけに大きく聞こえた。これが幸哉にも聞こえていると思うと、情けなさでもう消えてしまいたい。バカ兄貴、とやり場のない怒りを、この場にはいない隆生にぶつける。痛い痛い痛い……っ。

隆生、と幸哉が呟いた。

外から窓が叩かれる。幸哉が腕を伸ばして窓を開ける。外の空気が入ってきて、それは随分久しぶりに感じられた。

「聞いてきた。借りられるって」
「だってよ理生ちゃん。もうちょっと、ね」

鼻を啜る。隆生が外からドアを開けてくれて、幸哉に支えられるようにして体を起こす。少しの刺激も致命的で、慎重に車を降りた。

「オレが理生ちゃん連れてくから、隆生は帰りの道調べててよ。」
「おう」

前屈みになってお腹を抱え、どこからどう見ても漏らしてしまいそうなことがバレバレで。それでも形振り構っている余裕は無い。幸哉がジャケットを掛けてくれて助かった。長身の幸哉の上着なので、お尻まですっぽりと覆われたからだ。恥ずかしさが若干、ほんの少し、緩和される。

「…………ゆっ、ゆき、……」

足を開くだけでも、限界まで下ってきた下痢便は穴をこじ開けようとする。
さっきから緊張しっぱなしの筋肉も、もう限界を予感していた。
一歩一歩が亀よりも遅くて、なかなかトイレまで辿り着かない。
お腹が痛くて痛くて、どうしようもなくて、その場にしゃがみ込みそうになる。痛みのもとを、早く出したい。排泄したい。

「もうちょっとだから、頑張ろ、理生ちゃん」

すれ違う客の気の毒そうな視線から庇うように、理生の左側に立つ幸哉。扉の前まで来たところで、理生の肩がびくりと大きく震えた。幸哉ははっとして、理生を個室に押し込む。ようやくトイレに辿り着き、理生は慌てて便座に腰かけた。水っぽいものが一気に決壊し、破裂音と共にぼたぼたと下痢便を排泄する。
理生は両手で顔を覆って泣き出した。

「大丈夫だいじょうぶ、理生ちゃんしんどかったねぇ。頑張った」
「…………っ、ぅう、……ごめん、なさ……っ」
「だーいじょーぶ。間に合ったからセーフでしょ」

それからいつまでも渋るお腹を抱え、結局一時間近くコンビニのトイレを占領してしまった。まだシクシクと痛みは残るが、もう出すものがない状態だった。
泣き顔のままトイレから出ると、雑誌コーナーをうろうろしていた隆生が飛んできた。

「ほら」と、ぞんざいにビニール袋を差し出す。理生が受け取り中身を見ると、買ったばかりのプリンが3つと、もうひとつ、何かが入っていた。
取り出して、かっと顔に血がのぼる。

「間に合った!バカ兄貴っ」

隆生が買っていたのは、男性用の下着だった。シンプルな黒のトランクス。
最近のコンビニはパンツも売ってるんだねえと呑気に笑うのは幸哉。ぜってー必要かと思ったと、からかい顔で隆生は笑う。
ぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、なんだかもう、どうでもよくなってしまった。

2人の兄:END