キャラクター

■登場人物■
・内藤良(ないとう りょう)
 営業サラリーマン。南央とは大学で知り合い、節約のためにルームシェアを始める。高校時代は留年した環と同じクラスで、航平の後輩。今でも環のことは「須野原さん」、航平のことは「(航平)先輩」と呼ぶ。
・益之宮南央(ますのみや なお)
 フリーランスのコピーライター。訳あって実家とは絶縁状態。居心地が良いのでルームシェアに乗っている。のんびりマイペース。環や航平とも良を通じて面識があり、特に環とは馬が合う。環のことは「環さん」、航平のことは「航平さん」と呼ぶ。

・町田航平(まちだ こうへい)
 環の幼馴染で恋人。物心ついた時から環は特別な存在だったが、恋心を自覚したのは環よりも後。良と南央がルームシェアをしているアパートと同じ市内に2人で暮らしている。
・須野原環(すのはら たまき)
 航平の幼馴染で恋人。生まれつき心臓が悪く、手術のために高校を1年留年している。そのため、良のクラスメイトとして高校時代を過ごした。和風な美貌の持ち主だが、性格は大雑把で言葉遣いもやや粗雑。良と南央の野次馬をすることが楽しいし、うまくいってほしいと思っている。

梅雨の晴れ間に

関東は先週梅雨入りした。

梅に雨。ばいう、と書いてつゆと読む。実はその語源ははっきりしていないのだと、現国の先生が言っていた気がする。高校時代の霞んだ記憶だ。

今年の梅雨は全国的に大気が不安定で、梅雨入り後は長雨、雷雨、カンカン照り、ところにより雹まで降って。気温も今日と明日で十度近く違うような、なんだか妙な空模様である。

いずれにせよ、今日は雨。朝から降りだして、遂に一日晴れ間を見ることはなかった。風は少なくほとんど角度のつかない雨粒が、絶え間なく都会の街を濡らしている。

鉛色の水溜まりを踏んだ。泥が跳ねたが、通勤スーツの裾にはとっくに雨水が染み込んでいる。これはクリーニング必至だと諦めたのは、急ぎ足で退勤してからものの五分としない頃だった。

アパートの軒下に小走りで駆け込んでビニール傘を閉じる。コンビニで五百円で買ったビニール傘は案外丈夫で、壊れることもなく、なくすこともなく、もう長くこの一本を使っている。

閉じた傘の水を払っていると、ガチャリと錠前の開く音がした。それはちょうど左手、十五号室の扉だった。 

「内藤さん。こんばんは」

良を視界に認め、老人は「おや」目を少しだけ見開く。出てきたのは十五号室の住人、吉峰──峰さんだ。峰さんは還暦をとっくに迎えたような御年の、小柄で、おおらかで、感じの良いおじいさんだ。グレイヘアと呼ばれるような豊かな白髪を後ろに流して、鼻下で揃えた髭まで白い。入居の挨拶に回った時から、「峰さんと呼んでくれ」と笑って握手を交わしていた。

「こんにちは。これから出るんですか」
「いやいや、この雨では。郵便屋の音がしたんでね」

そう言ってポストを開けると、確かに封筒や葉書がぱらぱらと入っていた。取り出して両手でトントンと揃える。

「おや、風邪ですか」

じゃあ、と会釈して階段を上りかけた時、峰さんに聞かれた。振り返れば視線は手元のビニール袋に向けられている。中身は冷えピタの箱と、レトルト粥、それからいくつかの市販薬。近くのドラッグストアで貰った半透明の袋は中身が透けていて、なるほど確かに風邪引きだと苦笑した。

「俺じゃないんですけどね。一緒に住んでるのが、ちょっと」
「はあはあ。ええと、確か挨拶に来てくださった」
「あっ、そうです。こう、ひょろ~っとした、白っぽい感じの」
「ええ、ええ。確か、ええと、ます──益之宮さん」
「うわ!すげえ。峰さん覚えてたんですか。益之宮南央っす」
「名前を覚えるのは得意でしてね。ご近所ですし」

峰さんは得意そうに笑い、それに珍しい名字だと付け足した。言われてみれば、ナイトウなんていう凡庸……いや、凡庸というほどありふれてはいないだろうが、大体において初耳ではない苗字とは違い、益之宮性の知り合いは南央が初めてで、今のところ後続はない。

「ああそうだ。少し待っていなさい」
「え?」

何かを思い付いた顔をした峰さんは、待て、と手のひらを向けながら部屋に入っていった。ややあって再びドアノブが回り、錆びたスチール扉が開く。そこから出てきた峰さんの手にはプラスチックのパッケージが収まっていた。

「若者暮らしでは持っとらんでしょう。新しいやつだから、良かったら使いなさい」

目を細めて差し出されたのは体温計だった。それも何やら最新式で、額でも耳でも測定できる、とゴシック体。赤外線体温計というのだと、書かれた文字を追って知る。良は慌てて頭を振った。

「いやそんな、悪いっす、大丈夫です」
「景品で貰ったんですよ。どうせ使い方は分からないし、昔から使ってるのがまだまだ使えるからね」

峰さんの推測通り、良と南央、どちらも体温計なんて持っていない。そのことには、実は帰り道のドラッグストアで気付いていたのだが、五千円の値札を見て躊躇したのだ。

いやいやいや、五千円?体温計ってこんなに高いの?小さな店舗にはこの一種類しか並んでいない。隣のラックにもう少し安いものがあったようだが品切れ中で、いずれにせよ税込五千円超の値札では二の足を踏んでしまう。なあ南央、体温計、いる?売り場をうろつきながら、心の中で尋ねていた。

峰さんは年長者の柔らかい強引さで、新品の体温計を通勤鞄の外ポケットに差し入れた。

「ほらほら、持って帰りなさい」
「でも」

例え平熱だろうと、四十度だろうと、測定値を知ったところで仕方がない。しんどいのも、そうでないのも、本人の感覚だけが事実だ。そんな風に半ば屁理屈で正当化して店を出たことすら、峰さんには見越されてしまったように感じる。

「例えばね、救急車を……例えばですよ。救急隊をね、呼ぶようになった時、ただ、熱が高いんで来てくれーって呼ぶのとね、四十度の熱が昨日から、って言うんじゃね、医者に、伝わり方が違うでしょう。感覚をね、目に見える数字にするのがこれなんだから、持って帰りなさい」

「……はい」
「使わなければ捨ててもいいんだから」

そんな大袈裟な、と、返すことは出来なかった。峰さんの存外に強い口調に気圧されてしまったのと、何よりも「捨ててもいい」と念押しながら、品のいい老人は部屋の中に引っ込んでしまったからだ。

「いただいていきます!」

有り難く観念して、閉じたドアの向こうに呼び掛ける。それから、袋を持ち直して鉄階段を上った。申し訳程度の滑り止めも、すっかり錆びた階段だ。ふわっと何かが香って、コーヒーの匂いだと気づく頃には湿った空気に流されていた。

そういえば、峰さんの部屋からはいつも、コーヒーの香りがしている。

***

二十一号室。塗装の剥げたプレートに、これまた古びた……良く言えば、歴史を感じる書体で漢数字が振られている。
良はただいまも言わずにそっと扉を開けた。南央が寝ていると思ったからだ。

物音がしたので安心して開け放ち、いつも通りの気安さで靴を脱ぎ、「うおっ」驚いてたじろいだ。

台所の流しの前、南央はぺたりと座って歯磨きをしていたのだ。電気も付けず、カーテンも開けずに。

「おいおい、何してんだ」
「ほかぁり」
「口入れたまま喋んな」

靴を脱ぎ、だらしなく伸びた南央の足を跨いでリビングに。空調は除湿になっている。良は買ってきたものと通勤鞄を畳に置いた。 

「南央、お前具合大丈夫なの」
「んん」

かったるそうにシャコ、シャコ、と歯ブラシを動かしていた南央は、引き続いて緩慢な動作で立ち上がり、適当なコップを掴んで口を濯いだ。一度、三度と水を吐き、四度目は少しだけコップを傾けて、一口飲んだ。南央は意外にも平気で東京の水道水を飲むのだ。もちろん、俺も気にしないけど。

「なんか食ったの」ジャケットをハンガーにかけながら聞いた。歯磨きの手前に想像するのは食事だからだ。
「食ったというか……」

洗面所から出て、暖簾をくぐった南央はのそのそ居間に戻り、敷きっぱなしの布団に腰を下ろす。そして、「というか、吐いた」言いにくそうに、続けた。「少し」と、申し訳程度に補足する。

「うそ、マジかよ」
「ごめん」
「良いけど、そうじゃなくて。そうじゃなくて、大丈夫じゃねえじゃん」
「んー」
「熱は。今も吐く感じあんの」

良は意識せず早口になっていた。今週の南央は月曜日から調子が悪そうで、ついに今日は仕事を休んだ。南央は普段からシャキッとしているタイプではないし、テキパキ動く姿なんて見たことがない。だから「ちょっと変かも」と呟いた時もまるでいつもの調子で、夏バテじゃねえの、なんて、最初は悠長に構えていたのだ。半分冗談のような口振りで。

それが今朝、南央は布団に臥せたまま起き上がれなかった。「えー、なんか、変」今度も南央はいつもの口調で、苦笑いでうつ伏せになっていた。触ってみると、体はかなり熱い。

いつも以上にふにゃふにゃした様子の南央をせっついて欠勤連絡を促し、いつから開いているのか分からない風邪薬を取り敢えず飲ませ、冷蔵庫に食パンやハム、トマト──つまり、そのまま食べられるような食材──が入っているのを目視で確認。「ヤバくなったら病院行けよ」玄関先でそう言い残し、良は仕事に向かった。湿った空気ともくもく膨らんだ雨雲の下、帰りに薬局に寄ってやろうと思いながら。コンビニのビニール傘を持って。

「今は、ない」

返答に間があったので、良は何を言われたのかすぐには分からなかった。今吐きそうかと尋ねたことへの返事だった。

「そうか」
「そぉです」
「明日行けんの?」

明日。少し躊躇って、それでも気になって聞いてしまう。明日ねえ、と呟き、壁に背中を預けた体勢で、南央は足の爪をいじった。

明日、土曜日、南央は朝から実家に帰る予定だ。南央の祖父さんだか、ひい祖父さんだかの法事に呼ばれているらしい。

『本家の人間はみんな招かれるみたいだから、行かないと』

そうだ、確かそんな風に言っていた。

実家に「招かれる」って何だそれはと思ったけれど、同時にああやっぱりと妙に納得してしまった。南央が実家と距離を取っていることに薄々気付いていたからだ。そもそもこいつはこんな築ウン十年のボロアパートに住むような人間じゃないのだと知ったのは、ルームシェアを初めた後のことだった。

「行くって言っちゃったし」
「でもさぁ」
「いいじゃん。俺が行くって言ったら行くんだよ」
「お前へんなとこで譲らないよな……」

南央が不満そうにむくれたので、行くか否かの論争は収束させることにした。南央が行くと言ったなら、行くのだ。

「泊まり?」
「まさか。昼まで出たら帰る」
「了解」

これ以上続ける言葉はなく、空腹を感じた良は台所へ立った。少し考えて、居間の暖簾の向こうへ呼び掛ける。

「南央、なんか食う?」
「うどん」
「うどんな」
「半分」
「おー」

聞いておきながら、吐いたばかりでよく物を食えるな、と若干引いた。歯みがき粉のシトラスミントもまだ忘れちゃいないだろうに。
こいつはそういうやつだ。ピンポイントでちょっと潔癖な気を見せることはあれど、そのほか全般的に無頓着なのだ。自分にも、他人にも。少なくとも、良のよく知る南央はそういう人間だった。

リクエストに応えるべく、冷凍うどんを取り出して包丁で無理矢理に二等分した。残った半分は冷凍庫に戻す。小鍋に火をかけ、冷蔵庫からめんつゆと油揚げを外に出した。

良はというと、今朝炊いた半ば水分の抜けた白米をフライパンに落とし、炒飯を作ることにした。具材はネギとウインナー、それから卵だけの簡単な、炒飯と名乗って良いのか微妙な飯炒め。長ネギはうどんにも使えるし、一本出しても良いだろう。

「なお~たまごは」
「いらなぁい」
「はいはい」

そんな感じで、食卓にはうどんと炒飯が並んだ。卓上に置かれていた広告やダイレクトメールの束を床に下ろして。

油揚げを切る前に念のためと南央に聞いたら、それもいらないと言うので、結局刻んだネギだけのうどんである。より火が通っているほうを好むと知っているから、ネギは麺よりも先に鍋に入った。見映えは悪いが、それでも南央は「どうも」と言って笑った。

炒飯だって見た目は悪いが、うまいものをうまい組み合わせで炒めたわけで、当然、不味いわけがなかった。

「あち」

ろくに冷まさずに麺を啜った南央は、熱さに舌先を出した。おおよそ成人男性には似つかわしくない仕草である。ちらっと覗いた舌は口元のほくろのあたりを掠める。良は飲みかけの冷えた麦茶を渡す。

「落ち着いて食えって」
「うん」

南央はコップを受け取り、麦茶を飲み、小さくなった氷を口に含んだ。消音のテレビの光に照らされた部屋で、聞こえるのは二人分の食器が当たる音だけ。

しばらくは片膝を立てた粗雑な体勢で食べ進めた南央だったが、結局三口めくらいで箸を置いた。良はとっくに炒飯の皿を空けていたので、きっと食べきれないんだろうとなんとなく気付いていた。

「大丈夫か」

南央は何も言わずに頷くので、良は自分の焦りを無視できなくなった。いつも通りに振る舞うことで、いつも通りだ、大丈夫だと思っていたかったのだ。

「食わなくていいよ、それ」

口には出せない焦燥を纏った強がり。声が固くなる。

「ごめんね。ありがとね」
「いいって」
「別に、ゲロ出そうとかじゃないから。でも、ちょっとやめとく」
「わーったって」

ごめんねだとかありがとうだとか、耳慣れないフレーズにゾワゾワする。

良は、南央の残したうどんを平らげた。風邪っぴきの食べ残しを食べるのはどうなのかと迷いはしたが、自分の頑丈さには自信があった。抵抗よりももったいない精神が勝ったのだ。

「シャワー浴びてこいよ」

壁にもたれ、うつらうつらと船を漕ぎはじめた南央を見て言う。

「昨日も入ってないだろ」

普段なら、明らかに具合の悪い病人を捕まえて、風呂に行けなんて絶対に言わない。けれど、明日の南央には一家一堂に会する大事な用事があって、朝も早い。二日もシャワーすら浴びていない状態で向かうのはさすがにないだろう。

「りょぉ、入れて。介護介護」
「アホぬかせ」
「冗談だってば」
「ほら立て。な」

立たせてやろうと腕を掴むとやはり熱い。干してあった洗濯物からバスタオルと下着を掴んで汗ばんだ背中を押した。

「寝間着は持ってってやるから。とりあえずシャワー浴びてこい。そんで早く寝ろ」
「うーん。ありがと」
「いーから」

南央を浴室に押し込んで、しばらくするとシャワーの水音が聞こえてきた。良はこれまた洗濯物のハンガーから、おそらく南央の寝間着と思しきTシャツとハーフパンツを手にバスルームに向かう。「置いとくぞ」一声かけてドアのすぐ脇に置いてやったが返事はなかった。シャワーの音にかき消されて聞こえなかったのかもしれない。まあいい。開ければ気付くだろうし、気付かなくてもそのまま出てくるだろう。下着一枚を恥じらうようなやつではない。

半分眠った顔で風呂場から出てきた南央は、その後すぐに眠りに落ちた。固いせんべい布団に猫の赤ちゃんのように丸まって。熱い湯は吐き気まで洗い流してはくれなかったようで、ゴミ箱の袋を入れ替えて傍らに置いていた。自分の体調を案じられるようになったのは、南央にしたら大進歩かもしれない。

***

翌朝、南央は夜明けに呼ばれて静かに起き上がった。良はまだ寝ているはずだ。

カーテンの隙間から溢れる薄い朝日で目を覚ましてしまうくらい、浅い眠りだった。

視界に映るのは昨夜寝落ちたままの部屋の景色。ほとんど寝返りをうたなかったみたいだ。体の節々が固まって軋む。背伸びのついでに手の甲で自分の額に触れてみた。

(…………ぬるい)

自分では、熱が下がったのかどうか判断つかない。

それもそうかと下ろした手のひらを開いて、握って、何度かそれを繰り返す。

同じ一室に眠る良を起こさないよう、そうっと起き上がって洗面台に向かう。
良は狭いと言うけれど、古い作りの功名か、1Kにしては結構広い間取りじゃないかと南央は思う。布団は余裕をもって二枚敷けるし、自分は一度寝たら起きないし、仕事はフリーランスで融通がきく。会社勤めの良と共同生活を送るのに、今のところ、とくに不自由は見当たらない。
だだっ広いお屋敷で一人過ごすより、よっぽど落ち着く生活だ。

突如、世界が回るような眩暈に襲われたたらを踏んだ。咄嗟に壁に手をつき目を閉じる。

────ぐらぐらする。

これ、熱、きっと下がってないな。

耳元で心臓が鳴ってる気がする。たぶん、ここで無理に動いたら、胃からなんか出そう。

昨日の失敗を思い出す。昨日は、吐き気を覚えてせめてトイレにと動こうとして、廊下を一度汚してしまった。

耳鳴りと足下の浮遊感に耐え、全身に血液が巡るのをじっと待つ。

しばらくそうして、ようやく治まって。
身支度を整えた南央は、仕切りの長押に引っかけた礼服を羽織って家を出た。

最寄りから地下鉄に乗ってターミナル駅に向かう。通勤ラッシュにはまだ早い時間だが、それでも駅構内は人で溢れていた。出張だろうか、キャリーケースを引いたビジネスマンが多いかんじ。
フォーマルスーツに身を包んだ南央も、慌ただしい朝の喧騒に違和感なく溶け込んでいた。

ずり落ちてきたマスクを引き上げ、咳払いひとつ。
なんだか喉の奥に詰まったような感覚がある。
それが吐き気だと気がついて、南央はあわてて水を飲んだ。気分の悪さはうっすらと、膜を張ったように離れてくれない。

六時二十分発の山手線に乗り込めば次の乗り換えがスムーズになる。人の流れに従って詰め込まれた車内。座席を確保できたのはラッキーだった。これからトータル二時間超の道程と、その後に続く気の重い親族の集まりを考えたら、少しでも体力を削りたくなかったから。

乗客の隙間から、車窓の景色がぼんやりと流れていく。こんなに大きな駅に来たのに、空の色は古びた家の窓から見えるものと変わらなくて、なんだか不思議な気分になる。曇天。分厚い雲に挟まれて、太陽の光は届かない。

フリーランスという職業柄、南央はほとんど遠出をしない。契約中の広告代理店はあるが、それだってやり取りは概ねオンラインで事足りる。気分転換に近所のカフェやワーキングスペースに出ることはあっても、都心まで来るのはずいぶん久しぶりだった。実家に向かうのなんて、それよりもっと遠い昔。

ああ。これからあの家に帰るのか。

いつの間にか、眠りに落ちていた。
淡い意識が戻ってくる。人が動いている。電車は停まっている。はっとして外を見ると、乗り換えの駅だった。

「あ、すいませんっ。降りますっ」

発車メロディの響く中、乗客をかき分け隙間を縫う。
乗り降りのタイミングを逃してしまったせいで、発車直前に急ぎ降りようとする南央には迷惑そうな視線が向けられた。
ホームに降り立つやいなや車両扉は滑らかに閉まり、背後で規則正しく発車していった。
南央は、その場にしゃがみ込んだ。

急に動いたからだろうか。湿気たっぷりの外気と人混みにあてられて、朝の吐き気が再び牙を剝いていた。

膝に乗せた両腕に顔を埋める。
そうだ、俺、人混み、嫌いだった。良と暮らすようになって、そんなことも忘れていた。
動かなきゃ。次の電車、待ち時間はあったけど、そんなに先じゃない。乗り換え、何番線だっけ。階段を降りて、探さなきゃいけないのに。

「…………だ、だいじょーぶですか?駅員さん呼びます?」

不意に声が降ってきて、顔を上げるとチェック柄のスラックスが見えた。

「うわっ。ちょっと顔色、すごいっすよ。俺の声、聞こえますか」

スラックスの膝を床について、南央の顔を覗き込んできたのは制服姿の男子高生だった。
風を感じると思ったら、もう一人、女の子がクリアファイルを団扇に扇いでくれている。スカートのチェック柄が同じパターンだから、同じ高校のふたり組なのだろう。

「えー…………、と……。えっ、うわ、うわわ。ごめんね。暑くて、立ち眩みしただけ。もー大丈夫」

気付けば周囲には数人が足を止めていた。心配そうな、怪訝そうな視線に全身を撫でられているようで落ち着かない。
大げさな感じになったらいやだ。
眉間を揉みながら立ち上がれば、幸か不幸か今にも戻しそうな感覚は引いていて、体も動かせてしまう。

「きみたち、学校遅れない?ごめんね。俺もう大丈夫だから」
「や、でも、顔色……」
「ほんと、大丈夫なんだ。ありがとう。俺も行くから、ふたりも」

外行きの、お行儀の良い笑顔を作っていることに、自分で気付いていた。
他でもない生まれ育った家に近づいている。そのことが南央からあらゆる現実感を遠ざけていることも、疑いようのない事実だった。

短髪の男子高生の顔には、「いや、ほんとかよ」と疑いの色がありありと浮かんでいる。ボブカットの女子高生の眉毛は、心配そうに下がっている。
それらの優しさに念押すようにもう一度お礼を告げると、彼らはじゃあと言って足早に去って行った。
制服の背中が見えなくなったのを確認して、南央も同じ階段を駆け下りた。

***

地下鉄から乗り換え、さらに揺られ、辿り着いた地方都市の最寄り駅。
良い思い出はない、こともないけど、嫌な記憶の方が大きいし強い。すすんで来たい場所ではなかった。けれど着いてしまえば、この体調でよくもまあ無事に着いたものだと達成感が先に立つ。
自分は今、「益之宮南央」の顔をして、ここにいるのだろう。

北口のロータリーでタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
曾祖父の大法要だ。おそらく既に何人も運んでいるのだろう、初老のドライバーは「ああ、益之宮さんのお屋敷ね」と、ナビも入れずに走り出した。

時間を見ようとスマホを出すと、通知を知らせるランプが点滅していた。
『具合どうだ』『××線遅れてるらしい』『着いたら連絡しろよ』……エトセトラ。全部、良からのメッセージ。
既読も付かないのに送り続けるのが良らしくて、変な表現だけど、心配が心地良い。

電車の運行情報とか、天候とか、そんなニュートラルな話題を続けながら、「具合はどうだ」の一言に返信を待っているんだってこと、俺にも分かる。良は俺のことを、ぼんやりしたやつだとか、抜けたやつだと思っているんだろうけど、良の不器用な気遣いが分からないほどバカじゃない。というか、良が相当分かりやすい性格をしていることに、良自身が気付いていないのかも。

(……すきだなあ。良のこと)

ぽんぽんと並んだ良からのメッセージを指で撫でながら、画面の眩しさに目を細める。

いつだったか、環さんに聞かれたことがある。「内藤のこと、好きなんだろ」。綺麗な顔がいたずらっぽく笑って、にやりと上がる口角が不思議と似合っていて、ちょっと見とれてしまった。「どうなんだよー」と華奢な拳でつつかれる。からかいと本気を絶妙なバランスで混ぜ合わせた問いに、南央は頷いて応じた。友人とか、腐れ縁とか、そういう定義に収まらないほうの「好き」だ。

(言わないけどね)

今はいないみたいだけど、良には彼女がいたこともあった。自分と違って、良はノーマルだ。
航平さんと環さんのことがあるから偏見はないだろうが、同居人から自分がそんな風に見られていると知ったら、きっといい気はしないだろう。

だから、言わない。
言わなければ、このままでいられる。
広い屋敷は嫌。良との関係が変わるのも嫌。
俺はたぶん、すごい我が儘なんだと思う。

「お客さん、雨強くなってきましたよ。傘お持ちですか」

つと、前から話しかけられて我に返る。言葉通り、大きな雨粒がフロントガラスを叩いていた。

「折りたたみがあるので、大丈夫です」南央はバックミラー越しに微笑んでみせる。嘘。本当は傘なんて持っていない。

それは良かったと言って、ドライバーはまた口を閉じた。小さな音でカーステレオが鳴っていることに、そこで初めて気がついた。

「最寄りついたよ。今タクシー」「また連絡する」良からのメッセージにはそれだけ返信して、画面を閉じる。
体調については、あえて返信しなかった。
大丈夫ではないことを「大丈夫」とは、良には言いたくなかったし、ぬるま湯のような心地良い心配を、もう少しだけ、自分だけに向けていてほしかったから。

実際、腹の底のほうで嫌なむかつきが燻っていて、じわじわと体力を削っていた。
本調子じゃないから気持ちも参ってるみたいだ。今ならどんなに無理な我が儘も、体調のせいにして許されはしないだろうか。

車は二十分ほど市街地を走り、閑静な住宅街にさしかかる。
そのうちに突如として現れる、城郭建築で見るような土塀。その内側にはささやかな日本庭園が造られていることを、南央は知っていた。晴れていれば、目隠しの生け垣が緑も鮮やかに塀から覗いていたはずだ。
この辺りから区画一帯、益之宮家の敷地である。

黒々とした瓦屋根の門構え。その数メートル手前で車を止めた。
現金で支払いを済ませて外に出る。乗ってきたタクシーが走り去っていく音を背後に、水たまりを踏まないよう急ぎ足で門庇をくぐる。
そこで、足が止まった。

ここまで来ていまさら引き返せない。分かっているのに、進むしかないのに、足がすくんで動かない。

───母屋と渡り廊下で繋がった離れには、地下牢のような折檻部屋がある。

───出来の良い兄たちと違って、俺はうまくできなかったから、ことあるごとにあの地下室に入れられていた。

───厳格でまるで人間味のない、機械のような父親の命令で。

「……………………っ、は、………」

吐き出す息が揺れる。強く握った指先は冷えて震えていた。

(…………どーしよ……。気持ち悪……)

瓦を伝った雨水が襟足を、上着の背中を濡らしていく。目を閉じてもなおぐらぐらと世界が回る。
足元から昏く沈み込んでいくような感覚。こんなところで立ち止まっていたら変に思われる。警備員を呼ばれるかもしれない。動かないと………。

「南央さん?南央さんですよね?」

不意に名前を呼ばれ、南央は肩を跳ねさせる。
水たまりを踏むバシャバシャという足音が近付いてくる。

「ああ、やっぱり南央さんだ。いらしていたんですね」

濡れるのも構わず駆け寄ってきたその人に、南央は見覚えがあった。

「………ヒロ兄……佐伯さん」
「名前でいいですよ。ご無沙汰しております。南央さん、大きくなりましたねえ」

しみじみとそう微笑まれて、張り詰めていた緊張がゆるやかにほどけていく。

佐伯さんは、庭師兼家事手伝いとしてこの屋敷に住み込む使用人だ。周りから「ヒロくん」と呼ばれていたから、南央はヒロ兄と呼んで懐いていた。
記憶の中ではいつも作業服を着ていたが、さすがに今日ばかりは襟付きである。染めてところどころ色の変わった長髪を、後ろで輪をつくってまとめている。

もともと庭師を担っていたのは佐伯さんのお祖父さんで、南央が高校生になった年に孫の佐伯さんに引き継いだ。南央がはじめて会った時にはすでに上の兄よりも年上で、時々お祖父さんに付いて庭仕事を見に来ていた。ぐーんと長く伸びたはさみを使って生け垣を整えていくお祖父さんを、よく二人並んで下から見上げたものである。

兄のように……と言ったらうそになる。それ以上に、こんな兄さんがいたらいいのにと慕っていた。屋敷の中ではどこにも見当たらなかった落ち着く居場所を、この庭園ではすぐに見つけられた。そんな風に思っていたからこそ、「なお」と呼んでくれていた彼からいつしか「南央さん」と呼ばれるようになったことが、ひどく寂しかったのを覚えている。

今でも佐伯さんは年二回、年賀状と暑中見舞いを律儀に送ってくれている。時には旅先からポストカードが届くこともある。この家で得られた関係の中で、唯一と言っていいあたたかな繋がりだ。

「そっちがさん付けなのに、俺だけ名前で呼んだらへんでしょ」
「そうでしょうか」
「それに、十八から身長伸びてないし、大きくはなってない」
「それは、そうですけど。雰囲気の話ですよ。大人になられたなあと」

自然と頬も緩み、ようやく楽に呼吸ができる。そうなると今度は濡れた背中が気になってきて、南央は一歩軒下に入り込む。

「あの………南央さん、お加減でも?」

遠慮がちに、佐伯さんが問う。その穏やかな声音に、ここにきてはじめて懐かしさを覚えた。

自転車がまっすぐ乗れなかった時、箸がうまく使えなかった時、家庭教師をつけてみても、どうしたって成績が奮わなかった時。南央が地下室に閉じ込められていたことは、屋敷中が知っていた。けれどそのことを悲しんでくれたのは、南央の知る限り庭師のおじいさんだけだったし、怒ってくれたのはまだ若かった佐伯さんだけだった。

「それに傘は?お持ちじゃないんですか」

頷く。この雨続きに?信じられない。驚いて目を見張る佐伯さんの顔に、そう書いてある。

「実はちょっと、熱ある」
「えっ」
「大丈夫。法要だけ出たら、すぐ帰る」
「ご無理なさらぬよう。後で長傘お持ちします」

礼を告げると、佐伯さんは言いにくそうに「それから」と続ける。

「坊っちゃん方も、みなさん殆どお揃いです。そろそろお入りになったほうが……」

佐伯さんは、南央の兄らを「坊っちゃん」と呼ぶ。お祖父さんがそう呼んでいた名残だろう。

「………ん。ありがとね、佐伯さん」

同じ厳格な家庭の子として生まれ、同じく窮屈な思いをしてきた兄らにとって、出来の悪い弟の存在には価値があった。
南央を見て、あいつよりはできると自尊心を保ち、怒られたって、地下室にいるあいつよりはマシだと自身を慰めることができたから。

ここまで来たんだ。行くしかない。行って、さっさと帰ればいいんだから。
良が待つ、あのナツメ荘を考えてみると、少しだけ息苦しさがやわらいだ。

***

視線を感じる。
それも、あまり心地よくない類の。

会場となった大広間で、豪勢に設えられた祭壇の前、最前列に益之宮の直系が並んだ。南央に与えられた席はその左端だ。

その後ろには一度も顔を合わせたことのないような遠縁から、地元企業の重役なんかが大人しく肩を並べている。既に顔見知りらしい兄二人に挨拶に来た彼らは、横に座る南央を見てみな一様に上座の顔色を窺った。上座には、定規をあてたように真っ直ぐな背筋を立てて、南央たち兄弟の父──益之宮高嗣(たかつぐ)が座る。

高嗣は彼らの”お伺い”を無視した。きっと気付いていただろうに、一瞥もくれないことで「そいつは取るに足らない愚息です」と、無言の圧をくれて寄越したのだ。

由緒正しき屋敷を飛び出した奔放な三男。勘当同然に処せられた、出来の悪い末息子。そんなふうに評されていることを、南央は知っていた。

結果、秘書連れでへこへこと頭を下げにきた男達は、表面的には南央を居ないものとして扱ったし、高嗣に対するパフォーマンスのように素通りした後、無遠慮に好奇の視線を向けた。
判を押したようだった会場の雰囲気は、益之宮の集まりにほとんど顔を見せないいわく付きの末子が現れたことで、均衡が大きく歪んでいた。

(………………きもちわるい)

腹の真ん中がむかむかする。息を細く吐き出して、視線だけを膝の上に置いた拳に落とした。
一挙手一投足が視線に晒され、あれやこれやと詮索される。もう十分に冷ややかな注目を集めていた。南央にできることは、一刻も早いお開きを、息を殺して願うことだけ。

読経、焼香と形式通りに事は運び、法要は滞りなく幕引きとなった。
南央は会場を飛び出した。

「…………っ、………ぉえ゛………ッ…………げえぇっ………」

駆け込んだ先は一番近くにあった客用の手洗場。南央は便器に顔を突っ込んでいた。

「………は、……………はっ、…………は……」

こんなに気持ちが悪いのに、うまく吐けない。舌を突き出すように空嘔が続く。口の端からたらたらと垂れていくのは、無色透明な唾液だけ。
喉元を押さえたら嗚咽が溢れた。

──法要の最中、息の詰まるような空気と線香のにおいに包まれて、燻っていた吐き気が形を持った。不快な存在感が無視できない不調に変わるのはあっという間で、南央は礼服の下、濡れるほどの冷や汗を流していた。

大広間にいた面々は、そのまま会食に向かっていく。当然席次も決まっているから、順に案内されているのは分かっていた。曽祖父の思い出話なんかに花を咲かせる要人達が、誰一人として急いでなんかいないことも知っていた。けれど、そんなことを斟酌する余裕は、南央には残っていなかった。

──人混みをかき分け早足で駆ける。ゆったりと談笑しながら広間を出ようとしていた参列者達は、あっけに取られて立ち止まった。なんだあれはと、怪訝と不快を混ぜ合わせたような顔が南央の背を見送る。

抜け出さないと、あの場で、曽祖父の仏前で、吐いてしまいそうだったから。

(…………も、しんど……)

苛立ち任せに、叩くように水洗ボタンを押す。ままならない最悪の気分。
ため息さえ震えた。

もう帰ろう。帰りたい。帰ってしまおう。

トイレを出て、重い足取りで客間に向かっていた南央だったが、はたとその歩みを止めた。こんな具合で、食事なんてできるわけがない。よく考えなくたって分かることじゃないか。
それに、もう会食はとっくに始まっている頃だろう。賑やかな歓談の声が微かに聞こえる。途中で入っていくなんて、そんな目立つこと、したくない。

ふらつく足で踵を返し、客間とは反対に歩いていく。屋敷をぐるりと囲む長廊下に灯りは少ない。日が落ちて薄暗くなった面廊は、どこまでも続く果てしないあわせ鏡みたいだ。

熱、上がってる。
そういえば、解熱剤、朝飲んだきりだ。

靴を履こうと暗がりの玄関に腰掛けたら、もうどうにも動けなくなった。見えない木の根が細く長く伸びてきて、全身絡め取られてしまったような錯覚。だから、「南央」そう呼ばれて返事と同時に立ち上がったのは、ほとんど反射みたいなものだった。あるいは、幼少期から染み付いた習慣。

「そこで何をしている」
「………父さん」

体調が優れないので今日は帰ります。その一言が出てこなくて、代わりに何度も空気を呑んだ。

高嗣が何かを言っていることは分かった。なにか大きな音がした。けれど朦朧とした意識では立っていることで精いっぱいで、言葉として結ばれない。

南央は足元に視線を落とした。

そうだ、前にもこんなことがあった。
どうしてもこの家を離れたくて、勝手に進路を決めたことがバレた時。高嗣の逆鱗に触れた南央は、先も見えないような大雨の中、外に閉め出された。あの日も酷い雨降りだった。屋根があるぶん地下牢のほうが幾分かましだと、その時ばかりはそう思った。

「お前は益之宮の恥晒しだ!」
「!」

いきなり衝撃が生まれた。こめかみの辺りに固いものがぶつかって、それは高嗣の拳だった。南央は床に崩れ、そうして同時に、胃の中身がひっくり返った。

腹の真ん中辺りから酸っぱい唾液があふれてきて、ばたばたと口から溢れていく。
空っぽの胃袋から薄く濁ったものを吐き出す南央に、高嗣は舌打ちを落とした。

「この、出来損ないが」

もう一度、高嗣の拳が上がるのが気配で分かる。思い出す。あの時も、こうやって殴られた。ロボットみたいな父親には、時々、こうやって暴力的なエラーが起こる。

「南央!」

そんなわけない。あり得ないと、耳を疑う。

飛び込んできたのは、聞きたかった声。

***
[newpage]

良はタクシーに揺られていた。

今朝、起きたら南央はいなかった。スマホを見ると、時刻は八時を少し過ぎたところ。上着を引っ掛けていたハンガーが、そのままぷらりと長押にかかっていた。

寝返りを打って二度寝に入ろうとして、やめた。
安普請を揺らすような強い風。その音がやけに耳障りで、寝付けそうになかったから。

日当たりの悪い立地なうえにこの曇天だ。まだ朝だというのに薄暗い。灰色の部屋に電気をつけて、両手で顔を擦る。眠い。顔を洗うために起き上がるのもおっくうだった。

南央のやつ、熱は下がったんだろうな。
だんだん目が醒めてきて、座卓隣の南央の寝床を見やる。傍らのゴミ箱は昨夜のままそこにあるから、少なくともゴミ箱が必要な事態には至らなかったようだ。

枕元でスマホが震えた。開くとニュースアプリからの通知がいくつか。南央からの連絡はなかった。

「具合どうだ」メッセージを送ってみる。既読はつかない。

昨夜の南央の、熱っぽい体温を思い出す。いつもよりも明らかに血色を良くした頬と、ぼんやりと宙を見る溶けたような目。

フリーランス、在宅勤務、出不精と、インドアを極めたような男だ。多少熱でもあったほうが人間みのある顔色に見えた。日に焼けていない真っ白な普段の肌色は、人間というより造り物に近い。

本人に言ったらきっとすごく嫌な顔をするんだろう。俺はこんなにタイヘンなのに、と、むくれた声まで聞こえてきそうである。

惰眠をむさぼり、思考はまだらに膨らんでいく。

造り物らしさと言ったら、真っ先に浮かぶのは須野原さんだ。須野原さんの浮き世離れした顔立ちは、高校の時から人目を引いていた。喋らずに、例えばヴィンテージもののソファなんかに座らせてみたら、十人中、たぶん八人くらいは良くできた人形だと思うだろう。

南央のそれは、須野原さんとは少し違う。
顔の美醜は正直よくわからない。学生の時、南央の連絡先を聞いてくる女子は学部学年問わずに何人もいたから、人目を引くというか、好かれやすい外見をしているんだと思う。

須野原さんに感じるような人形らしい印象は、南央には抱かない。あいつはわりとよく食うし、変なところでガサツだし、よく眠る。よく知らないが、性欲だって人並みにあるんだろう。

だけど時折、本当にたまに、近未来SF映画を観た後なんかは特に、こいつはひょっとしたらアンドロイドなんじゃないだろうかと思うときがある。食欲も、勝手気ままに見える振る舞いも、そうするようにプログラムされていて、突然ふと、その活動の一切をやめてしまいそうな危うさが、南央にはある。

──ピンポン。
チャイムの音で我に返る。
待て待て。何を考えているんだ。何が楽しくて俺は、同居人の、しかも男の顔について考えているんだ。

──ピンポン。
もう一度チャイムが鳴る。

「はあい、います、今出ます!」

することがないからだ。暇だからだ。だからこんな、しょうもないことを考えてしまう。布団から這い出て玄関に急ぎながら、良はこれまでの思案を退屈と理由付けた。だってそうだ。機械ならゲロを吐いたりしない。

「すんません、内藤です──」

慌ただしく玄関扉を開けると、そこにいたのは峰さんだった。郵便か配達だろうと思っていた良は面食らって瞬きする。

「えっ。え、峰さん?」
「お休みにすみませんね。次出なければ帰ろうと思っていたんですが」

綿シャツにベスト姿の峰さんを見て、寝間着姿が急に恥ずかしくなってくる。おまけに顔さえ洗っていない。

「いやね、益之宮さん、具合はどうかと思って。もう帰っているんでしょう」
「え?」
「どうにも気になって。知り合いからもらったりんごがあるんですよ。口がまずい時はりんごがいいですから」

そう言って、峰さんはビニール袋を掲げた。言葉どおり、大きなりんごの赤が透けている。

「あ………えーと、まだあいつ、帰ってないんです。ちょっと出かけてて。たぶん帰りは夕方になるんじゃないかな」

えっと驚いたのは、今度は峰さんの方だった。眉を顰め、怪訝な顔でりんご入りの袋を下げる。

「夕方?」
「あっ、でも、せっかくなんで、いただきます。あいつも喜ぶと思うんで」

昨日から度々すみません、と続けた言葉は、峰さんの手が遮った。

「あんな具合で、まだ戻らないんですか。今、誰か一緒にいるんですか」

「あんな具合」?「もう帰っているんでしょう」と、峰さんは言った。どうして、峰さんは南央が出かけていることを知っているんだろう。どこで南央と会ったのだろう。

穏やかな峰さんの声音に、俄かに困惑と焦りが滲む。そのままの固さで「今朝ね」と峰さんは言う。

「新聞取って外に出ましたらね、そこの角のところ、益之宮さんが見えて」

言いながら、りんごの入った袋を差し出す峰さん。
聞けばアパートの敷地を出たところ、細い通りに面した塀のそばで座り込む南央を見かけたらしい。今朝、六時半頃のことだという。

『益之宮さん、益之宮さん』

南央が風邪っぴきだと聞いていた峰さんは、そう声をかけたそうだ。呼ばれてのろのろと上がった顔色の悪さに、峰さんは目を疑う。こんな具合で、なぜ外にいるのかと。

『どうしたんですか、こんな朝から。ご用事ですか』

峰さんの問いに、南央は苦笑いで首を振る。

『いや、ちょっと、かったるくて』
『それなら一度部屋に戻ったらどうです。雨も降りそうですし』

南央はうーんと首を傾げる。

『でも、今日は行かないと』

そう言って、南央は峰さんにスマホの画面を見せた。『それにもう、タクシー着きそうなんで』と続く。峰さんにはそれが何の画面だか分からなかったが、この辺りの地図上に車のマークが動いて近付いてきていることは見て取れ、なんとなく南央の言わんとしていることを理解した。

『ちょっと出て、すぐ戻るつもりなんで』

南央は立ち上がり、ちょうど、通りの向こうから黒い車体。見送られる年ではないだろうと納得した峰さんは、『では、お気をつけて』車が着く前にその場を離れた。

南央の反応は聞かなくても分かる。はぁとかへぇとか気の抜けた返事をして、少しむず痒そうに笑うのだろう。ぼんやりしてるくせに(あるいは、それゆえに)図々しくて、我儘なやつだが、不意打ちの親切に弱いところがある。ついでに言えば、褒められることにも。

大学時代のいつだったか、厳しいことで有名な教授にレポートの出来を褒められて、やつはみんなの前で目を丸くしていた。その時のリアクションはまさに、今朝の峰さんが見たものと同じはずだ。

「それからどうも気になって。貰い物のこれを思い出したんで、お見舞いにでもと……」

これ、と言って、峰さんは俺の手にあるりんごを指した。俺の両手はりんごを受け取った形のまま、まるで俺と峰さんの橋渡しをしているようだった。
俺の知らない南央の時間。俺の知らない南央と峰さんの会話。

「連絡はつくんですか。あんな朝早くから、益之宮さんはどこに行ったんでしょう。どこかで、倒れてやいないといいんですが」

どこかで、倒れて。

ターミナル駅の往来で、ぐったりと横たわる南央のイメージが脳裏に浮かぶ。そんな馬鹿な。そんなわけないと否定したかったが、昨日の南央の様子を思えばむしろ現実味を強めていく。

「あ」

雨。
ポツポツと外廊下に染みができて、とうとう雨があたってきた。
廊下に屋根はなく、「降ってきましたね」二人で空を見上げて言った。

「年寄りのおせっかいですみませんね。取り越し苦労なら、それがいちばんですが」

峰さんはそう言って、りんごだけ残して帰っていった。

俺はひとまずその袋ごと冷蔵庫に入れて、なにもないシンクを見下ろした。南央は朝飯も食べずに出ていったはずだ。俺が起きる二時間近く前に、ひっそりと。

そういえば、とスマホを掴む。起きてからいくつかメッセージを送っていた。開けば南央からの返信を知らせる通知が届いていて、人差し指で触れてみる。

『最寄りついたよ。今タクシー』
『また連絡する』

簡潔に、短い吹き出しが並んでいた。
それはいつも通りの馴染みのやり取りに見えて、ほっと肩の力が抜ける。

最寄りに着いたということは、少なくとも駅構内なんかでぶっ倒れている心配はないということ。
それに安心したのもつかの間、次には具合はどうだと聞いた質問には返答がないことが気になってくる。筆まめなやつではい。むしろ全ての問いかけに律儀にレスポンスを返す方が”らしく”ない。だけど気になってしまうと、もうとても二度寝に入る気分じゃない。

気が重い親戚連中の集まり。
週の頭からすぐれない体調。
丸一日寝込んでいた、昨日。

どこかで倒れていないといい、そう言った峰さんの心配顔が俺を急かす。
人の往来で蹲る南央の姿が思い浮かんでしまう。

「あー!っとに!世話の焼ける!」

どうにも落ち着かなくなって、嫌な想像ばかりが膨らんで、峰さんが帰ってからおおよそ三十分後。
今度は、俺がアパートを後にしていた。

***

そういうわけで、良はタクシーに揺られていた。
家を出た時は小降りだった雨も、都内を出る頃には土砂降りになった。大粒の雨が激しくフロントガラスを叩いている。

「お客さん。道混んでるんで、迂回してよろしいですか。益之宮さんのお屋敷ですよね」

雨音の隙間、運転席から声が飛ぶ。

「あっ、ハイ。それでいいです。もう、着くなら何でも」

ワイパーは絶え間なく動いているが、降りしきる雨粒はそれも追いつかないくらいの勢いだ。
片道三時間。

(本当にここまで来たんだろうな…………?)

深く腰掛け、長い溜息を吐く。

実家の最寄りに着いたという連絡があったのだから、ほぼ間違いなくこの道のりを辿っているのだが、分かっていても簡単には信じられない。

迎えに行ってやろう。
半ば恩着せがましくそう決めて、そこではたと足が止まる。自分は、南央の行き先さえ知らないことを思い出したから。
実家は、確か北関東の方だったと聞いた記憶があるが、それだけだ。洗ったばかりの顔も拭かずに途方に暮れていると、居間の床に置きっぱなしになっているダイレクトメールの束が目に入る。

まさかな。でも、もしかしたら。
顎から水滴を落としながら一つ一つ見ていくと、あった。益之宮家、三十三回忌法要の開催を知らせる葉書。差出人で住所が分かる。見つけた。

──そこから、電車を乗り継ぎ、タクシーに飛び乗り、もう三時間だ。
葉書をカバンに突っ込んで、身支度もそこそこに家を出てきた。疲労から船を漕ぎつつ降り立った地方都市。タクシーがすぐに捕まったのは幸いだった。

(………それにしても、”お屋敷”かぁ)

いったい、あいつ、どんな家の生まれだよ。
手持ち無沙汰にスマホを開く。南央からの連絡はない。

打ち付ける雨の隙間からは大きな一軒家が並びが見える。車はだいぶ住宅地まで来たようだ。角を曲がると白塗りの塀が続いていて、その向こうには緑が覗く。公園かなと思っていたら、車が止まった。

「──円ですね。お支払いは?」

どうやら、ここが目的地のようだった。

「すいません。帰りもお願いしたいんで、少し待っててもらえますか。迎えなんです」

そう言いながら、良の左手はドアにかかっていた。気付いた運転手が扉を開ける。少しの隙間から雨が吹き込んできた。
メーターを止めておくという運転手の申し出に会釈して、良はアスファルトに降り立った。威圧感さえ覚えるような、重厚な造りの門構えがそこにある。

ここが、南央の生家。

傘を広げながら息を呑んだ。まさに広壮な日本邸宅。なんともまあ、見事な造りだ。
さっきの運転手が「お屋敷」と言ったのも頷ける。見本のような中流家庭育ちの自分には、とても民家とは思えない。

良は敷地に足を踏み入れて辺りを見回した。傘の下で意味もなく身を縮める。
車一台が余裕で通れる広さがあったから、この門が正面玄関で間違いない……とは思う。人気のなさが、良の心細さを駆り立てた。おい、本当にここで合ってるんだろうな。

雨に濡れた飛び石を踏み、足は玄関に向かう。安い革靴は平たい石の上を滑りそうだ。おまけに何年も履き倒している。靴底なんてきっとぺらぺらだろう。

「なにか御用ですか」

突然背後から声がして、良は文字通り飛び上がった。踵が滑り、慌てて踏ん張りなおす。振り返ると、小走りでやってくるスーツ姿の男がいた。その顔には、怪訝と不信が同じくらいの割合で混ざっている。

「法要は終わりましたが……」
「あ、すみません。違うんです。いや、違うは、違うか。ええと……」

長髪を後ろで一纏めにした彼は、慣れた足取りで庭を横切っていた。きっとこの家の身内だ。隣に立つ距離まで来た男に、良はしどろもどろになる。ここまできて、怪しいなんてつまみ出されたら嫌だ。

「迎えに来たんです。益之宮南央、来てると思うんですが」
「迎え?南央さんの?」
「えっと俺、内藤といいます。南央の、その、友人で」
「ああ!あなたが、内藤さん。内藤良さんですね」

合点したように大きく頷く彼。敵意のない声音でフルネームを呼ばれて拍子抜けしてしまう。

「自分は佐伯尋武(さえき ひろむ)といいます。この家の庭師をしていて。内藤さんの名前は、南央さんから聞いています」

よろしくと会釈を交わして、佐伯は「それで」と声を落とした。
傘を傾ける。大粒の水滴がビニール滑り落ちていく。

「南央さんを迎えに、と仰いましたね」
「あ、ハイ。そうなんです。約束はしてないんですけど、あいつ、月曜からずっと具合、悪かったんで」
「月曜日から………」

佐伯は信じられないとでも言いたげに眉根を寄せた。

「泊まりじゃないとは聞いてたんで、そろそろ終わるかなと思って来てみたんですけど。もしまだ中にいるようだったら、外で待ってます」
「ああ。会は終わったんですが、ちょうど食事会が……」

途中、振動音が挟まれた。「失礼します」そう断って、佐伯が内ポケットからスマホを取り出す。眉間にすっと皺が寄る。
佐伯の目が、画面と良を交互に見やる。その視線がなんだかただ事ではない気がして、一体何だと良は内心首を捻る。

「一緒に来ていただけますか」

問われて、直感する。南央になにかあったんだ。

***

佐伯が早足で歩を進めるので、良は何度か足を滑らせた。ぬかるみにはまって靴もズボンも泥だらけだ。法要、なんてたいそれた場所に行くんだし、それにどうせクリーニングに出すのだからと、仕事用のスーツで着たことを後悔していた。

「実は、自分も南央さんのところに行こうとしていたんです」

少し前を行く佐伯の背中がそう言った。二人は正面玄関からぐるりと回って、建物に沿って敷地を歩いていた。どこに向かっているのか良には分からない。ただ、だだっ広い古風な庭園に圧倒されていた。南央はどこにいるんだと、そしてこの男は誰なんだと、なんだか腹が立ってくる。「南央さん」と丁寧ながらも親しげな呼び方。年は、十は変わらないように見える。そういえば、「内藤良」とフルネームを呼ばれた。南央から聞いていると言って。生家と距離を取っていたはずなのに、この庭師とは連絡を取り合っていたということだ。

「その途中であなたがいたので……。驚かせましたよね、すみません」
「いえ……」
「中の者から連絡があったんです。南央さんが帰るかもしれないと」

染められた長髪、少し浮世離れした面立ちに反するような物腰の低さが落ち着かない。ひとまず、良は浮かんだ苛立ちをこの鬱陶しい雨のせいにした。

「さっきの玄関は来客用なんです。家の者はこっち側の玄関を使うことが多くて」

これほど立派なお屋敷だ。出入り口がいくつかあったっておかしくない。
「こっち」と手のひらが指した先には、正面の玄関よりは些か小作りとはいえ、四枚建ての引き戸がそこにある。

南央は、と問おうとして、大きな物音に遮られた。佐伯と二人、はっとして首を回す。何か重量のあるものが割れる音。扉のほうだ。聞き取れない男の怒声が続く。嫌な予感に、良は弾かれた。

「南央!」

無遠慮に扉を開け放って、そこに見たのは目を疑う光景だった。
拳を振り上げる男。足もとに散らばる割れた破片。おそらく壺と思しき焼き物のパーツを辿り、三和土に蹲る南央の姿を認め、思わずその名前を叫んでいた。

「な……っにやってんだ、あんた」
「誰だ、君は。どこから入った」

睨み上げると男の顔は不愉快そうに歪んだ。それでも、拳が下りたことにほっとする。あの手で南央を、たぶん、殴っている。
「旦那様、落ち着いてください」
後ろからこの光景を目にした佐伯が、南央と男の間に割って入る。良は、庇うように南央の肩を寄せた。なぜか、そうしなきゃいけない気がしていた。

「おい、南央。だいじょうぶか」

良の膝が破片を踏む。南央は蒼白な顔色で目を見開いていた。自分が幽霊みたいな顔をしておきながら、まるでお化けでも見たようなリアクションじゃないか。

「えっ……なんで……?良、ほんもの……?」
「なんだそれ。俺の偽物がいるのかよ」

ぽかんと開いた口の端が唾液で汚れている。見れば、床についた手元の辺り、吐物が点々と落ちていた。

「益之宮先生」と、家の奥から知らぬ女の声がした。足音とともにまた人が一人増える。良は咄嗟にジャケットを脱いで、南央の頭から被せていた。真っ青な顔をした南央を、これ以上人目に晒したくないと思ったから。

やってきた女は、仁王立ちで立ちはだかる男に何やら耳打ちをした。先生と呼ばれた、南央と同じ名字のその男は、何事もなかったかのように平然と言葉を交わす。

「──分かった。すぐ戻る。……南央。お前はもう、勝手にしろ。二度とその顔を見せるな」

ジャケットを被っているから、南央がどんな顔でその言葉を聞いたのか分からない。
「まったく、とんだ失敗作だ」そう吐き捨ててその場を去っていった男は南央の父親なのだろうと、その時にはぼんやりと気付いていた。

暴力的な嵐は、あっけなく過ぎ去った。

「…………南央。帰るぞ」

南央は緩慢な動きでジャケットを引っ張り、顔を出す。その頭がこくりと頷いたのを見て、内心胸を撫で下ろした。

「……これ、湿ってる」
「つまむなつまむな。濡れたんだよ、ここに来るまでに」

失礼なやつだと言いかけたが、上着をつまんでみせる指先が微かに震えているのが分かって口を噤む。南央が感じているのが恐れか、落胆か、それともそれ以外の感情なのかは知らないが、少なくともポジティブなものではないことくらい分かる。平静でない中、なんとか平常に振る舞おうとしているのなら、それに従ってやることくらいできる。

「南央さん。ここは片付けておきますんで、お帰りになってください」佐伯が言った。
「……ん。そぉする」
「お荷物は?」
「持ってる」

南央が佐伯と話しているのを、良は不思議な思いで聞いていた。そもそも、良は南央が誰かと喋っている姿をそんなに知らない。大学時代を思い返してみても、特定の誰かと個人的に盛り上がる、みたいなことはなかったんじゃないかと思う。目的のあるやり取りはできても、いわゆる“他愛のない会話”みたいなものが苦手なのだ。「だって、何話すの」と、いつだったか酒を飲みながら言っていた。タレのかかった焼き鳥を咀嚼しながら。近所の炉端焼き屋のカウンターで。

『何って……。何話すんだろうな。今俺たち、何話してたっけ』
『俺、良と話すから良いよ』
『良くはないだろ、良くは』

そうだ。確かそんな会話をした。
須野原さんとは、気が合うみたいで二人でよく出かけてる。航平先輩とも、四人で集まることが多いから、なんだかんだ自然に話している。けれどそれ以外の、つまり自分の知らないどこかの誰かと、こんな風に普段の調子で話す南央を、俺は知らない。

「内藤さん。南央さんの手荷物です」
「──あっ、はい」

名前を呼ばれてはっとする。腰をかがめた佐伯が鞄を差し出していた。見覚えがある。南央の鞄だ。
荷物を持って玄関にいたということは、南央はまさに帰ろうとしていたのだろう。それで、どういうわけか、父親に殴られて今に至る。

「預かります。──ほら、南央。立てるか。帰ろうぜ」

すれ違いにならなくて良かった。と。そう思うことにした。

「佐伯さん、ごめん」

南央の謝罪は、面倒ごとに巻き込んだことか、割れ物の片付けか、あるいは吐いたものの後始末をさせることか。おそらく、本人にも判然としていないままの言葉だろう。横に触れる体温が想像よりもずっと高くて、熱っぽい瞳は今にも閉じてしまいそうだったから。

***

来た道をそのまま戻って、良は南央をタクシーに詰め込んだ。運転手に行き先を告げ、車は動き出す。
南央はぐったりと背もたれに体を預けていた。大きく胸を上下させて、息一つするのも大仕事のように。

(……これ、家まで帰るのは無理そうだな)

「――すみません。行き先、やっぱり××駅にしてもらえませんか」

来る途中に見た記憶だが、この近辺には泊まれる場所も病院もなさそうだった。それなら少し離れて大きな駅前に出た方が動きやすいだろう。視線を感じて横を見れば、南央の目が半分ほど開いていた。熱のためか涙の膜が光っていて、動いたらぽろりと一粒落ちてしまいそうだ。

「駅……ちがう」掠れてカサついた南央の声。
「いーんだよ」良の手元は、今から駆け込める病院を検索していた。
「ふうん……?」

南央はふたたび目を閉じた。病院を探して、ホテルも取らなければ。南央も服を替えた方が良いだろうし、濡れて気持ち悪いから、自分の着替えも調達したい。

──おまえ、俺とか須野原さん以外にも喋るんだな。

忙しくタスクを考えることで、浮かんだ言葉を無かったことにしたかった。目尻から涙を拭ってしまいそうで、良にはやるべきことが必要だった。
ふと、座席に置いた通勤鞄を見ると、外ポケットに見慣れないパッケージが差し込まれていた。そうだ、慌ただしく家を出たから、鞄も通勤用のビジネスバッグのままだった。取り出してみて思い出す。昨日、峰さんからもらった体温計じゃないか。

感覚を、目に見える数字にする。峰さんの言葉も同時に思い出されて、良はプラスチックのパッケージを開けた。電源は──入った。

まったく冷静なんかじゃなかった。
良には理性が必要で、やるべき正解が必要で、直近で思いつくのが峰さんの助言だったのだ。
良は最新式の体温計に電源を入れて、南央の額に近づけた。

「っ!」

が、その手は、止まった。
眠ったようにも見えた南央の両腕が、頭を庇うように上げられたからだ。ひょっとしたら普段よりも遙かに素早い動きで。
体温計が座面に落ちる。対象を失った液晶には、ややあってエラーが表示される。

「あれ……ごめん」
「や、こっちこそ……」

動いた本人にも意図せぬ動きだったようで、南央はぱちぱちと瞬きをしながら掲げた腕と良を見比べる。
峰さんから体温計を貰ったこと、鞄に入れっぱなしで来てしまったことをかいつまんで説明しているうちに、幾分か頭が冷えてきた。南央は聞いてるんだか聞いてないんだか、ぼんやりとした顔で手を握ったり開いたりしている。

「俺、親父さんじゃないからな」

少し迷って、言うことにした。

「──ん。わかってる」

南央は、朦朧とした意識の中に近付いてくる気配を、父親の拳と錯覚していた。そして良は良で、その混同に南央自身で気付いたことに、気付いていた。
体温計はもう一度鞄に収まった。すんません峰さん。貰ったりんごは、帰ったら食わせます。心の中で峰さんにお辞儀する。

寝てて良いぞ、と告げようとして、「あ、ねえ」南央に袖を引っ張られた。その指先が進行方向を指さす。

「むこう、ちょっと晴れてる」

フロントガラスの向こう、確かに淡く青空が覗いていた。滝のようだった大雨もいつの間にか小降りになっている。

「そーだな」

南央の口角が満足そうに上がっていて。それなら、このままでいい。今は、しばらくは、このままでいよう。
正面を向いて座り直して、ようやく肩の荷が下りた気分だ。なにせ、長旅だった。

言葉もなく、触れることもなく。窮屈な空気を抜けて。
梅雨の晴れ間に連れ出した。

梅雨の晴れ間に:END

nekogumi

「じゃあちょっと、行ってくるから。南央困らせないようにな、環」
「南央、須野原さんに迷惑かけんなよ」

そんな風に言い残し、二人は揃って出掛けていった。環と南央は顔を見合わせ苦笑する。
足音は遠ざかって然るもしかし、チノパンとTシャツという軽装だった航平は一度離した玄関扉が閉まる前に体を捩じ込んで、「環!なんか羽織るもん」と呼び掛けた。紅茶を淹れようとティーポットを温めていた環だったが、仕方ないなあとキッチンを出る。

「これでいい?」

環は壁に掛けてあった紺色のマウンテンパーカーをハンガーから外す。

「なんでもいい。サンキュー」

片腕を通して半回転するので、環はもう片方の腕にも肩を合わせる。あまりに自然なその流れに「新婚みたいっすね」と声を挟むのは内藤、すなわち良だ。良はドアの向こうで航平を待ちつつ靴の踵を履きなおしている。それは決して新婚ごっこのようだと二人を揶揄するものではなく、二十年以上近くにいてもなお、昔からのこの調子が変わらないことに感心しての呟きだった。

「南央~俺にもそのパーカーくれよ」

外はやはり、少し肌寒い。良もまた、ジーンズにグレーの綿シャツ一枚という軽装だ。航平の背中越しに部屋の中にいる南央を呼ぶ。椅子に座っていた南央は「えぇ」とむくれた顔をして、パーカーの胸元をしっかりと掴んだ。

「絶対やだ」

スウェット生地で裏側起毛のパーカーは南央のお気に入りだったが、良の記憶が正しければそれはもともと良のワードローブに入っていた一着である。

「やだってなぁ……それ俺のだと思うんだけど」
「そぉだっけ?」

渡すもんかとそっぽを向く南央に、「貸してやれって」と環は笑う。「俺の服貸してやるから」そう環に諭され、渋々といった様子でパーカーを脱いだ南央は、ふてぶてしくも汚すなよ、なんて添えて手渡した。受け取った良の大きなため息と航平の笑い声は同時に部屋を出ていって、二人ぶんの足音がいなくなる。

「南央も飲む?あったかくなるよ」

環が湯気の昇るマグカップをふたつ運んできた。二人がいた玄関の方をちらりと横目にカップを置いて椅子に座る。南央はその細い指先を見る。

「飲む。なに?」
「ジンジャーティー。はちみつもあるぜ」

机の上のマグカップに顔を近づけ、すんと鼻を鳴らすと確かに生姜の香りがした。環がカップを傾けたので、南央は「いただきまぁす」と手を合わせた。
「南央って意外とお行儀良いよね」環は感心して目を開く。
そういう環さんは意外と口が悪いですよね――浮かんだ言葉は、紅茶と一緒に飲み込んでおいた。
ややあって、環は「ごめんね」と呟いた。マグカップを両手で包むように持って、視線はゆらゆら浮かぶ湯気に落として。南央はやっぱり何も言わないで、カップの縁にそろそろと口をつける。さっきの一口で舌を少し火傷してしまったのだ。

環と航平、南央と良。四人の休みが重なった祝日、航平の運転で遊びに行こうと話が出た。行き先は鎌倉辺りで良いんじゃないかと航平が言い、運転手の意向に全員が乗り気になって、南央なんかはネットで紅葉情報を検索してみたりと珍しくうきうきした様子だった。
しかし当日、結局その計画はお流れとなってしまう。環が熱を出したのだ。
熱といっても平熱プラス一度の微熱であり、環本人も違和感すら自覚のない変化だったのだが、体温計は素直に七度五分とデジタル表示。毎朝の検温は主治医の勧めだ。
こうなると、テコでも動かないのはむしろ航平であり、良だった。微熱のある環を人混みに連れていくなんてもっての他だし、二人は口を揃えて自宅待機の絶対安静を言い渡した。南央ももちろん、それに賛成する。

男四人でドライブの予定はなくなったが、揃った休日であることに変わりはない。せっかく出掛ける準備をしていたんだから、家に来たらと提案したのは環だ。寒くなってきたし鍋でもつつこう、自宅なら酒も飲めるから、と。それで、南央と良は狭く古いアパートを出て、並んで歩いて橋を渡り、二人が暮らす仲睦まじい1LDKのチャイムを押したのだ。
航平と良は鍋の材料と日用品の買い出し係に、環と南央は留守番で、こうやってのんびりお茶を飲んでいる。
環は、自分が心配されている自覚がある。皆が心配するのも、それはそうだろうと分かるから、だから無理をしようとは思わないし、反対を押しきって出掛けようとも思わない。仕方がないのだと諦めることは、とっくの昔に学んでいた。
だけど。自分のせいで計画が流れて、楽しみにしていた南央はこうして部屋に残っていて。少なからず残念な気持ちはあるだろうに、誰も少しの素振りも見せない。そういうもの全てに心苦しくなって、自分のことなのに自分ではどうにもできないことが悔しくて、環はいつも泣きそうになる。もう、いい大人なのに。
ごめんねと謝ってみたけれど、返事が欲しいわけではない。肯定も否定もいらなかった。流し見していた音量六のテレビ番組がしっかりと聞きとれる。環が今朝回した洗濯機の音も。南央も口数の多い方ではない。

ピーッと音が響いて洗濯の完了を知らせた。重く落ちかけていた沈黙が流れる。環が腰を浮かせたので、南央は「おれがやる」と肩を押さえて座らせた。

「お言葉に甘えて」環は深く座り直す。
「紅茶一杯ぶんの働きはね」南央はぺたぺたと風呂場に向かった。
「じゃあ、もう一杯で風呂掃除もやってもらおうかな」
「いいよ。良がやる」
「内藤、かわいそうなやつ」

口ではかわいそうなんて言いながら、環はけらけらと笑った。南央もつられ笑いで二人ぶんの洗濯物を抱え戻ってきた。ステンレスワイヤーの洗濯カゴには取っ手がないので、持ち運びには少し苦労する。ベランダ側の壁にあるフックを起こして物干しロープを引っ掛ける。タオル類はベランダの物干しに、さらに空いたスペースには厚手の服を干した。

「……あ、」

黙々と洗いたての服をハンガーにかけていた南央だったが、カゴから掴んだ一枚に動きが止まった。カゴに戻そうと一度は腕を下ろし、干さなきゃなあとまた上げた。「どうしたんだよ」環は身を乗り出してその手元を覗き、

「…………あぁ」

同じように、動きを止めた。

「まぁまぁ、そういうこともあるって!な?」

結局、残っていた三枚の衣類は環が干した。その後に保温ポットからお湯を出して、もう一度紅茶を入れる。

「思い出した……さいあくだ……死にたい」

椅子の上で膝を抱え丸くなる。そんな南央に、環はまあ飲めとマグカップを押し付けた。
南央が掴んだのは、航平が部屋着にしているスウェットだった。無地でグレーのよくあるスウェットパンツ。南央はこのゆるいシルエットに見覚えがあった。

夏の盛りのこと。
同じマンションの階下に住む知人から、旬で食べ頃のスイカを一玉貰った。暑さにうだっていた二人にとってよく冷えた瑞々しさはすこぶる魅力的で、調子に乗ってまるまる平らげてしまう。その結果、南央は腹痛に見舞われ下してしまった。自業自得と言えばそれまでだが、災難だったのはタイミングの悪さだ。マンションに繋がる水道管が破裂し、一帯が断水していたのである。台所も、洗面台も、もちろんトイレも。ピンチの南央は自転車の荷台にニケツして、断水を免れていた環と航平のマンションまで運ばれた。トイレを貸してもらうためだ。運転はもちろん良。

南央の腹痛は本当にひどい状態で、でも、どうしても諦められなくて。自転車がマンションについてからも、南央は唇を噛んで後ろを押さえた。腹の中では濁流が暴れ、一歩一歩と進むたびに、ガスと一緒に溢れていった。足元もふらつき、良は嗚咽を漏らす南央の体を寄せた。ハーフパンツの後ろに土色の染みが広がり、太股を伝って落ちていく。自転車を降りて五歩くらい歩いた時、南央の腹が悲鳴を上げた。南央は堪らずに体を折って、肩を支えていた良を突き飛ばして、その場にしゃがみ込む。南央の限界は駐輪場の屋根下だった。

良は電話で顛末を話して二人を下まで呼び出した。呼吸があやしく乱れた南央の背を擦る。その役割を引き継いだのは環で、動こうとしない南央をなんとか引っ張って連れていってくれた。残った良と航平は、汚れたアスファルトに水を流して片付けた。
南央のハーフパンツはもう履けなかったので、下着と一緒にビニールに入れて口を結んだ。代わりの下着は環のもので、「まだ使ってないからあげるよ」と渡された。ズボンの代わりが、このスウェットだったのだ。

洗濯カゴからひっぱり出したそれによって、顔から火が出る苦い記憶がまざまざと蘇り、南央は頭を抱えるしかない。弁償するから捨ててって言ったのに。同じものを新品で返すから処分させてくれって、言ったのに。

「洗ったしまだ履けるんだから問題ないだろ、だって。航平の言葉ね」
「そぉゆう問題じゃない……!」 

南央はさらに背中を丸くして、もういっそ紅茶に溶かして飲み干したいと、浮かんでくる記憶も小さく小さく丸める。

「いい年して、も、漏ら…………も、死にたい…………」

大きく溜め息をついて唸る南央のつむじを、環は苦笑して突っついた。テーブルに両腕を置いて、その上に顎をのせて「なーお」言い聞かせるように名前を呼ぶ。

「ぶっちゃけ話そう。俺もある。大人になってから失敗したこと」

突然の打ち明け話に南央はえっと顔を上げる。ちょっと珍しいくらい綺麗な顔がいたずらっぽく笑っていた。仕方ないなあ、聞く?という顔。

「いつだったかな。そんな前じゃないよ、去年の頭とか……寒かったから、冬かもな」

記憶を辿るように、大きな瞳がぐるりと視線を巡らす。

「ちょっと調子悪くて、五日くらい入院したんだよ。熱結構高くて、点滴打って。そしたら、夜、すげぇ腹痛くなっちゃってさぁ。点滴もうすぐ終わりそうだったし、外す
ときに連れていって貰おうって思ってて」「でも、だんだん、ヤバいなって、なってきて。もう無理だって思って、トイレ行こうとして……四人部屋だったから起こさないよ
うにって、外のに行こうとしたんだよな。見舞い客も使えるやつ」「すぐそこ、ほんとにすぐ手前まで来たんだけど、あと少しってところで目が回って動けなくなっちゃって。そこで、床で、アウトだった」

環は、眉を下げるようにして笑っている。参っちゃうよね、とでも言いたげに。

「…………それは、それは……」

環があまりにあっけらかんとしているから、南央は相槌に続く言葉が見つけられない。

この人はいつもそうだ。押したら倒れてしまいそうな、風が吹いたらするするほどけて
飛ばされてしまいそうな、そんな印象を誰もが抱く。淡い光にすら溶けてしまいそうで、時々背筋がヒヤリとする。なのに話してみて中身を知ると、誰よりも強かで優しくて、男らしい気質が「須野原環」を構成していると気付くのだ。

「だから!何が言いたいかっつうと、ビョーインで、万全の態勢で、トイレなんて目の前にあって……もちろん断水なんてしてねぇぞ。そんな時だってうまくいかないときはいかないんだよ。そういうこともある」

うんうんとおどけた調子で頷いて、環は試すように首を傾げた。

自分と環じゃ状況が違うだろうとか、こっちは断水とはいえ自業自得だとか。赤と緑の愉快なコントラストを思い浮かべたりしたのだが、同意を促す環の顔は、そんな些末な懸念を気にも留めていなかった。

「……そぉいうこともあるね」
「だろ?」

だから、南央もようやく体育座りから膝をもどし、環と同じ口調で頷いた。すっかり冷めた紅茶に手を伸ばす。マグカップは冷たくなっても生姜の香りは仄かに残っていた。

「この話、航平には内緒だから。内藤にも言うなよ」
「おれのことは知られてるのに。ずるい」
「紅茶二杯ぶんのお代かな~?」
「なにそれ」

不満を溢しつつも南央はカップをあおってぐいと一飲みする。環は南央の、この無頓着さが好きだった。航平や良だとこうはいかない。環が一番弱っていた時期を知っているから、気にするなと言っても二人にとってはとても無理な話。航平のことも良のことも好きだけど、付き合いが長い分気の置けない相手だけど、南央は別種の気楽さを環にくれる。

「……ねぇ、環さんと航平さんってさ、いつからこういう感じだったの」

突然切り替わった話題に、環は一瞬置いていかれた。

「は?」
「だからぁ、純愛韓流ドラマみたいな」
「……見たことねぇけど」
「じゃあ、いつから、好きだった」

珍しく饒舌な南央の口から思いがけない問いが飛び出してくる。環は茶化して返そうとして、ふと真面目に考えてしまう。いつから。いつからって、いつからだろう―

「…………たぶん、最初から」

手元のマグカップはとっくに空だ。紅茶に逃げることはできない。

「航平がどうかは知らねーけどな。俺には最初から、小さいときから、航平しかいなかったから」

噛み締めるように紡がれる言葉。南央はぱちぱちと瞬きをして続きを聞いた。

「だから、俺は航平と一緒にいないっていう将来を考えらんなかった。そうなったら多分、俺はだめだったと思う」

言葉にしたら、なおさらその通りな気がしてきた。自分の言葉をもう一度咀嚼して飲み込んでみる。すとんと腑に落ちて舌触りの良い事実だった。

「一緒に住もうっていうのは?」

南央は独り言を呟くときと同じ音量で小さく尋ねる。

「こーへいの言葉。あいつ、最初からそのつもりで広い部屋に一人暮らししてたって、笑っちゃうよな」

環はそれに、はにかみをほころばせて答えた。世界が祝福するような笑顔だ。神様が今か今かと待ち受けて、天使を巡回させている。
その話なら、良から以前聞いていた。良は航平から聞いたのだろう。一年遅れて環が卒業したら一緒に暮らせるように、大きめの部屋を借りたのだと。

「……航平さんがあぁなったの分かる気がする。こんなキレーな顔がずーっと隣にあったら麻痺するよ」
「…………なーんだそれ」

わけがわからない飛躍に環は吹き出した。顔を褒められたこと、無いと言ったら嘘になる。顔の造りに対して特別な感情は無かったが、この顔のお陰で航平が麻痺してくれたのなら、遺伝子に感謝しなくてはいけない。南央の言う「麻痺」が何を指すのか、いまいちピンとこなかったけど。

――ねえ、南央はどうなの。内藤とは、ただの同居人なの。あの部屋は、ほんとにルームシェアのつもりなの。 

喉元まで出かかった言葉は、突然響いたインターホンのチャイムに遮られた。液晶画面を見ると、四隅が緩く丸まった映像で航平と良が映っている。買い物から帰ってきたらしい。オートロックのマンションなので、室内から解除しないとエントランスに入れないのだ。

「帰ったみたい。案外早かったね」ロックを開けて、環は椅子に戻る。
「あ、ちょっと前にメッセージ来てた。そろそろ帰るって」スマホの画面が掲げられる。
「じゃあコンロ出さないと。南央、手伝えよ」
「ん」

南央はマグカップを流しに運んだ。環が収納棚からカセットコンロとガスボンベの一式を引っ張り出していると、ガチャリとハンドルが回って扉が開いた。ビニール袋でガサガサ音を立てながら、長身の二人組が入ってくる。

「ただいま」
「お邪魔しまーす」

二人は両手にビニールをぶら下げていた。鍋の材料を揃えたとはいえ、どう見ても四人分ではない食材だ。おかえりと迎えた環が目を丸くしていると、南央も同じ感想を持ったようで、袋の中を疑わしげに覗き込んだ。

「食べきれる?こんな量。大学生の胃袋じゃないんだぞ」
「いやいや、鍋なら案外いけるんだって。航平先輩と選んでたらさ、どれもうまそうで決めらんなくって」
「なんの理論、それ……」

白菜、長ネギ、キノコ類。豚肉につみれ等、いかにも鍋らしい材料を机に並べる。食べ過ぎに嫌な思い出のある南央は、せっかく萎んでいた記憶がまた膨らんできたのを感じてジトっとした目で良を見る。突然睨まれて見当のつかない良は、「なんだよ」と南央の鼻をつまんだ。南央はむっとしてその手を払う。コートを脱いだ航平と、それを受け取る環。二人は年下の二人を微笑ましく見守った。

「甘い匂いがする」

ふわりと漂った甘い香りに気が付いたのは環だ。

「あ!そうそう。これ買ったんでした。須野原さん、これ好きですか」
 
良は慌ただしくエコバックを開いて、中から新聞紙の包みを取り出した。ガスボンベの半分くらいの大きさのそれはちょうど四つある。航平は自分の分として自分で掴んで、残った三つから一つずつ留守番の二人に手渡した。残った一つが良の分だ。

「焼き芋。商店街で売ってたんすよ。うまそうだったんで買っちゃいました。鍋の前ですけど、あったかいうちに食いません?」

賛成を示して航平が頷く。航平の手はすでに新聞紙を開いて紫色の皮を剥きかけていた。それを見て、南央はあっと声を上げる。

「手、洗う!航平さん、良も!」

普段の倍の声量と活舌で南央の正論が飛ぶ。外から来た二人はひえっと肩を竦めて包みを置いた。そして、いそいそと洗面台に向かっていく。このやりとりはもう数えきれないほど展開されていて、おかしくなって環は声を上げて笑った。

「あー、おかしい。南央。俺たちも洗っとこ。俺、焼き芋、今年初だ。早く食いたい」
「そのつもり。うん、おれも好き」

ハンドソープを泡立てる航平の後ろに良が待ち、その後に環、南央と続いて並んだ。「何してんだ、お前ら」航平は若干引き気味だ。手を洗って口をゆすいだら、四人で座って焼き芋を食べよう。食べ終わったやつから鍋の準備。夜になったら、酒を飲みながらふつふつと煮立つ鍋を囲むのだ。環はそんなこれからの数時間を想像して、何気ないことなのに、浮足立っている自分に気付いた。南央の頬も緩んでいる。航平と良は、見なくても分かる。こういう時間は、それぞれがどういう関係だって問題ない。
環の番が回ってきた。
芋が冷めるから早くしろと急かされて、環は苦笑しながら蛇口を捻った。

nekogumi:END

西瓜の日和

酷暑続きの七月中旬、エアコンが故障した。
築三十年のアパート「ナツメ荘」はかつて社宅として貸し出されていたもので、当時の精密機器工場がなくなってからは賃貸物件となっていた。
工場併設で建てられたため駅からの立地は悪く、近くに便利な店もない。再開発の潮流によって周囲には高層ビルやマンションが建ち並び、したがって陽当たりも最悪だった。そびえ立つガラスとコンクリートの箱は鋭く太陽を迎え撃つので、拡散する光の下を俺たちは目を細めて通り過ぎるしかない。
そんな環境の物件なので、当然買い手を見つけるのは至難の技。近くには便利で新しいアパートが山ほどあるし、単身ならなおのことこの物件は適さない。築ウン十年と過ぎていようと、リフォームやリノベーションで新築さながらに生まれ変わったりするのだ。あえて三十年前にタイムスリップした住空間を選ぶなんて、よほどの訳ありか変わり者だ。

「ただいまー」

赤く錆びて塗装のはげかけた階段を上り、21号室が俺の部屋。階段同様、雨風にあてられてざらついたドアノブを掴む。鍵の調子が悪くスムーズに回らないことが増えたため、最近は少しの外出なら施錠せずに出てしまっている。

「おかぁりぃ」

古びた木造1K21号室は、俺たちの、家だった。

***

「のびてんなぁ。ほら、ちょっとよけて」
「だって暑い!エアコン効かないなんて、こんな、あり得ない……」
「あり得てるから現実なの」

持っていた買い物袋をドサドサと下ろす。
室内の温度も湿度も、外とほとんど大差なかった。直射日光に当てられないだけまだ柔らかいが、快適とは程遠い蒸し暑さだ。

「来る途中さ、凄かったよ。水道管かな?アスファルトから水噴き出してて。そこだけ涼しいんだけど、工事の人も大変だよなあ」

冷蔵庫に買ってきた食材を並べながら、良はついさっき見てきた光景をとりとめもなく呟く。老朽化した水道管が度々水漏れして問題になっているのは、ここ最近の話ではない。良も何度か耳にしたし、水道管由来の水溜まりと工事業者の制服も見ている。けれどあんな風に噴水のごとく迸発しているのを見たのは初めてだ。スーパーからの帰宅途中、すぐそこの出来事だった。
南央はふぅんと興味のなさそうな相槌を返した。反応があるだけましかもしれない。関心のないときの南央は、平気ですっぱりと無視をする。

小さな広告代理店でコピーライターとして働く南央と、見渡せばどこにでもいるようなサラリーマンの良。二人の共通点は地元を離れて進学し、ともに朝が弱いということだった。
取り立てて出来のいい頭でもなく、かといって救いようのないアホでもなく。夢も目的もなかったが、他の多くの十八歳がそうするようにモラトリアムを延長した。進学したのは都内の中堅私大である。
講義で組まれたグループで知り合ってから意気投合……というわけでもなかったのだが、なんとなく一緒にいる時間が増え、昼飯を食い、酒を飲み、つかず離れずの距離感でここまできた。
就職先が地理的に近く、「ルームシェアしねえ?」と誘ったのは、都心の単身住宅相場に目を剥いていた良。特に迷うことなく「いーよ」と頷いたのは、暑い暑いと唸る南央。立地の悪いオンボロアパートを紹介したのは、実家の建設会社を継ぐ(予定の)従兄だった。なんでも今月中に入居が埋まらないとまずいそうで、ただでさえ安い家賃をさらに値引いてもらっている。
南央の腕がゆらゆら揺れて、タオルで汗を拭う良を手招く。

「エアコンの修理さ、いつ?」
「時期で予約詰まってるんだと。来週には来てくれるってさ」
「来週かぁ」

居間の畳にタオルケットを敷き、南央はオーバーサイズのTシャツとボクサーパンツなんて、外には出られない軽装だ。音を立てて首を回す扇風機の、可動域に合わせて寝転がる。良いとこ育ちの南央だから、両親が彼のこんな姿を見たら卒倒するかもしれない。

「来週かぁ」

南央はもう一度、寝言のように繰り返す。
伸びる手足はまるで日差しを知らないように真っ白で。体温の低そうな外見も相まって一見涼しげにも見えるその実、額には汗の粒が浮かんでいる。
立地も悪けりゃ設備も悪い。入居当初からだいぶ古びていたエアコンは、先日ついに寿命を迎えた。修理の予定は、先ほどの会話の通りである。
集合住宅は熱がこもる。あっという間に蒸し風呂の完成だ。
意外にも衣食住にたいしたこだわりのない南央だって、今回ばかりは我慢ならないようだった。

「ぐえっ」

良は南央の腹の上に、炎天下運んできた荷物を落とした。カエルに似た奇声が足元からあがる。南央は飛び起きた。

「何、なにこれっ」
「スイカ。トミさんから貰ったんだよ。冷えてるから食おうぜ」
「トミさん?」
「下の階の冨井さん。さっき階段のとこで会ってさ。トミさんの実家、すいか農園らしいぜ」

そう言いながらまな板と包丁を用意する良を、南央はきっと睨んで指差した。

「手、洗う!切る前に!」
「うへ、ごめんごめん」

良は慌てて流しに向かう。包丁落としそうになったじゃないか。
南央にはすこし潔癖なところがあって、例えば外から帰ったら手洗いだとか、バスタオルは毎日洗濯だとか、食卓はアルコール除菌とか(南央に言わせれば当たり前だそう。いや、俺だって手を洗わないわけじゃない。もちろんちゃんと洗っている。ただちょっと、後回しになるだけなのだ)。パンくずを畳に落とした日には、さらにそれを手で払ったりなんてした日には、それはすごい形相で怒られる。
汚いのが嫌だとか、神経質なのとはちょっと違う……というのは良の見解。現に南央は下着一枚でうろうろするし、まあまあ存在感のある虫でも素手で掴んで窓の外に放り投げる。きっと南央の中には明確な基準があって、それに従って白と黒を選別しているのだろう。
とりあえず、そんなプチ潔癖の南央のお陰で、築三十年あばらなる蔵である我が家の衛生は見事に保たれている。引っ越して荷物を運び込んでからの一週間が大掃除に費やされたのは、その布石のようなものだった。

「あれ」

手を洗おうとして、良は首を傾げる。
蛇口を捻れど水が出ない。わずかなぬるい一筋が手のひらに落ちて、それからピタリと止まってしまった。あれ、いつもどっちに回していたっけ。試しに反対回りに回してみる。やはり、蛇口は沈黙を貫いていた。

「なあ南央、水出ない」
「はぁ?」
「ほら、見て」

文句を呟きながら南央はかったるそうに立ち上がり、ぺたぺたと足音が近づく。仕切りにしているベージュの麻暖簾をくぐって、良の背後から流しを覗きこんだ。ぬっとのびた腕が蛇口を左右に捻りまわす。

「おい南央、暑いって。くっつくな」
「本当だ。凍る時期でもないのに。なんだろう」
「故障?」
「エアコンの次は水道ぉ?ライフラインがったがただなー」
「ま、出ないもんはしょうがないし。とりあえず……」

――スイカでも食うか。
良はウェットティッシュを取り出した。気になったときに使えるようにと、ファミリーサイズで玄関に常設してある。円柱形の容器にはでかでかと除菌の青い文字。
この夏初めてのスイカは、渡された時キンキンに冷えていた。どうせならつめたく美味しいうちにかじりつきたい。良は少しだけ塩を振りたいのだが、南央は味が尖るから嫌だという。お子さまめ、と心のなかで笑うのは毎年のことだった。

「そのうち復活するでしょ」
「そぉかなぁ」

手洗い代わりのアルコールティッシュで、南央はしぶしぶ了承した。
顔には出ないが南央はスイカに上機嫌らしい。俺が切ってあげると包丁を握るので、良は慌ててそれを奪い取った。ろくに手入れもせずに使い続けているのは一般的な三徳包丁で、固く大きく丸いものを切るのにはとても向いていない。力加減も難しい。冬にカボチャを切ろうとした南央が刃先を滑らせ、左手をスッパリと切ってしまったことを思い出したのだ。

「切るのは俺!」
「ん」

その時の不便を覚えている南央はすんなりと持ち手を譲り、代わりに食卓の準備をはじめた。起きっぱなしのティッシュ箱や本に文具を適当に下ろし、食器棚からガラスの大皿を引っ張り出す。いつだったか近所で開催していた骨董市で買ったものだ。目利きは、もちろん南央担当。
台所の狭いスペースに四苦八苦しながらもスイカは二等分され、さらに半分に切り分けられた。上から見ると膨らんだ三角形にも見える夏色のコントラストに、暑さにうだっていた南央も歓声をあげる。はやく食べようと良のシャツを引っ張った。

「いただきまぁす」
「トミさんごちです!」

カタカタと動く扇風機の影、すこしだけはやく目覚めたセミ達の輪唱。もう少しして、真夏が混声合唱団だとしたら、今はデュエットの時期かもしれない。
それらの音を耳のすみっこで聞きながら、ふたりで瑞々しい赤色にかぶりついた。

「つめたぁ」

南央は爪の先でちょんちょんと種を落とし、ある程度の範囲取りきったら大きく一口かじる。良は種なんてお構い無しに一口二口と頬張って、頬にたまった種をまとめてはきだす。それを見ると南央は決まって「でかいハムスターだ」と揶揄するのだ。
つめたい、おいしい、と呟く南央の隣、良は心の中でトミさんに万歳していた。
産地直送家庭菜園のスイカは微かに青い味がして、それが今期の西瓜初めとしてはたいへん相応しく感じられた。舌と上顎でクシャッとほどける強い甘味と冷たさを飲みほす。スイカは九割水分でできているというから、食べるというより飲むと言った方が近いのかもしれない。
じゅっと果実を吸いながら、南央が「そういえば」と口を開く。

「スイカって食べるとこ、実じゃないよね。なんていうの?皮?」
「知るか。うまいとこを食うんだよ」
「そぉか」
「えっ、南央、ふたつめ?」

いつの間にか南央はひとつを食べきっていて、テーブル真ん中並んだふた切れに手を伸ばしていた。驚いてそう言うと南央はむっと唇を尖らせる。スイカの果汁が唇から顎に伝っていて、ちょっとやらしい。

「いいじゃん。残しとくつもりだった?」
「いいけどさ、食いきれんの?」
「当たり前じゃん」
「……って!お前まだそれ食えるから!もったいな!」

ふと見た南央の手元には食べきったというスイカひと切れがあるのだが、良からすれば、まだまだ十分可食部が残っている。勿体ないと非難すると、南央はますます険しい顔で良を睨んだ。

「うまいとこを食うんだよ」

うまいとこを、と変な節をつけて伸ばし、したり顔の南央はにやりと笑う。スイカのふたつ並んだ皿からより大きなほうを奪い取る。満足気な南央がおかしくて思わず吹き出してしまい、種を飛ばして思いきり叩かれた。
苦味を感じるぎりぎりまで食べ進めた良は、南央から三口遅れてふたつめに手をつけた。

***

丸々とした一玉は、あっという間にふたりの胃袋に収まった。それほど喉が乾いていた自覚は無かったが、暑さで水分を欲していたのかもしれない。

「腹いっぱい~苦しい~」
「そりゃ、お前、スイカ半玉食ったからな」
「手ぇベタベタする」

不快そうに手をひらひら揺らす南央。そう言われて、そういえば水道は生き返ったのだろうかと思い出す。夕飯の支度もあるし、そろそろ水を使いたい。
ウェットティッシュを適当に何枚か抜き取って手のひらを拭く。台所に向かって蛇口を捻ってみるも、相変わらずうんともすんとも言わなかった。

「ええっ」

まだ水出ねえぞ。そう言おうとして、南央の驚嘆が先に飛んできた。「りょぉ、りょぉ」と、通りの悪いこもった声が焦っている。一体どうした何だ何だと居間に戻ると、南央が良のスマホを掲げていた。

「おい南央、勝手にいじんな」
「だって通知。みえちゃったんだってば」
「お前なあ……で、何だって?」
「ほら、環さんからメッセージ」
「――須野原さん?」

次に驚嘆するのは、良の方だった。

須野原さん。須野原環さん。

高校の時の、一つ年上の同級生だ。
生まれつき心臓に問題があった須野原さんは、入学直後に一年休学。結果、良の同級生となり、良と座席が前後になった.
須野原さんには大好きな幼馴染が居て、その彼(そう、彼女ではなく、彼なのだ)は良の先輩にあたる。それが、町田航平先輩。航平先輩、と呼んでいたその人は、良が高1の年ひとつ上の高校二年生で、ストレートに順当に卒業していった。
そして、何度も卒業が危ぶまれた須野原さんも三年の三月、良と同じ卒業式を迎えた。最後の年には須野原さんの体調はずいぶん安定していて、高校生活最後の体育祭にも参加した。初めての体育祭だと喜んでいた顔を思い出した。

そんな須野原さんとは卒業式の日に連絡先を交換し、大学生になっても社会人になっても、一か月に一度はあいさつを送るような関係が細く長く続いていた。地元に残った須野原さんは、卒業同時に航平先輩と一緒に暮らし始めた。航平さんとしては、最初からそのつもりで一人暮らしをしていたらしい。少し広めのマンションに須野原さんの荷物を運び、ベッドや机の組み立てを手伝ったことも、懐かしく思い出せる。
そんな仲睦まじいふたりは去年、良たちの住む市内へと引っ越してきた。それも、橋をひとつ挟んでかなり近くだ。須野原さんの主治医がこの市内にある系列病院へ移動になり、通院への利便性と安心のために居を移したのである。
良は再び引っ越しの荷ほどきを手伝いに馳せ参じ、その時には人手として南央も連れて行った。南央と須野原さんはなぜか波長があったようで、二人で買い物に行くような仲になっている。良は須野原さんと呼び、南央は環さんと呼ぶので、航平先輩からはどっちかにしろと笑われる。
須野原さんは相変わらず「内藤」と呼びかける。藤をちょっと伸ばして、「ナイトー」と。

「須野原さん、何だって?」
「ここ、断水だって。あ、画面消えちゃった。開いて」
「断水?」

聞き慣れているようで少しも飲み込めない言葉に、思わず耳を疑った。南央からスマホを受け取り、指紋認証でロックを解除し、須野原さんとのトーク画面を開く。

『内藤のとこ、断水してるらしいな』
『回覧まわってきた』
『俺のとこは出るよ』
『大丈夫?』

ぽんぽんと並ぶ短いメッセージを目で追って、「あっ」今朝見た光景がひらめきと同時に浮かんで声が出た。

「南央!水道管だよ、水道管。今朝の。俺見たわ。あれかぁ~」

そうだ。確かに今朝、アスファルトの亀裂を見ていた。迸って地に滲む水流を見ていた。水が止まっているのは、そのせいか。
良は指先をトーク画面から通話へ動かした。
着信メロディ四コールのち、ちょっと戸惑ったような声で須野原さんが応えた。

『え?もしもし、内藤?』
「あ、もしもし内藤です。すんません電話で。こっち断水ってマジっすか」
『うん。え、今家じゃないの?』
「いや、家なんすけど。そういや昼前から水出なくて」
『じゃあビンゴじゃん。なんだよ』
「いつまでとか聞いてますか」
『いや。橋のそっちで断水だってことしか。あ、でも、夕方には復旧するんじゃないかって話は聞いてるぜ』

夕方。
今が十四時だから、夕方というのはいつからだろう。良は礼を言って電話を切った。

「断水、夕方までは続くかもってさ」

スマホをポケットに差し込みながら、居間の座卓に寄りかかって座る南央を見る。足の指でリモコンをいじっていた。動かないエアコンのリモコンだ。電話する良を見上げていた南央だったが、「えぇ」と唇を尖らせて不満げだ。

「なんとかしてよ」
「無茶いうな」

スイカの皮はゴミ袋に落として、洗い物は水道が復旧してからだ。冷蔵庫には水も麦茶も冷えているし、飲み物には困らないだろう。良は台所以外の水まわりを確認し始めた。
他に水道を使うのは、風呂とトイレと洗面台。風呂場の水道をダメもとで点検していた時、「ねぇ」と背後から呼びかけられた。控えめな声に振り返ると、困った顔をした南央が扉の外に立っている。

「大変言いにくいんだけどさぁ……その、ちょっと、腹痛い」

言いながら、右手で腹を押すようにゆっくりと撫でる。
いたずらが見つかった子どものように、南央は顎を引いてちらりと視線を泳がせた。

「……お、ま、え、な~……だから食いきれんのかって言ったんだよ」
「だってさぁ……」

何かを言いかえそうとして、しかし開いた口からは呻き声が零れる。俯いて腰を曲げ、へろへろと居間に戻っていく。
食い過ぎだ、自業自得だと呆れた良だったが、まさかそんなにひどいのかと慌ててその背中を追った。居間の暖簾をあげると、南央は壁にもたれて背を丸めている。扇風機は相変わらずカタカタと回っているが、その先には誰もいない。

「おい、おい、マジでやばい?大丈夫か」
「うぅん」
「どっちだよ」
「んー……」

扇風機の音、一匹で独唱するセミの鳴き声。その隙間にきゅぅと切ない音が立つ。南央は小さく呻いた。ずるずる体勢が崩れて、腹を抱えて畳に横になる。暑さのせいか、それとも他に理由があるのか、たらり、額から一筋汗が流れた。
良はぎょっとして、枕になるよう座布団を頭の下に差し入れた。いや、違うだろこれは。頭の中でツッコミが空振りする。

「な、なあ。トイレ、大丈夫か。水、出ないけど」

恐る恐る、そんなことを聞いてしまう。
大学時代、飲み会の途中で腹を壊した南央に「漏れる?」なんて聞いてしまって、うるさいと叩かれた帰り道を思い出した。また叩かれるかと身構えたが、手は飛んでこなかった。指も手のひらも腹を押さえ、南央は体折ってを身を縮める。

「……そうゆう感じじゃない」

くぐもった返事はとても気弱そうで、ひやりと背筋が冷えるのは良の方だった。
どこかでトイレを借りる?一階のトミさんちとか。いやダメだ、うちが断水なら、トミさんの部屋だってしっかり水が止まっているはずだ。須野原さんの家は免れているというが、断水はどの程度の範囲で続いているのだろう。
南央の頭が動いて、顔色を覗き込んでいた良と視線が合わさる。

「……気にしなくていーよ。そんな、やばい感じじゃ、ないし。見られてると……ちょっと、やだ」
「そ、そりゃそうだよな、悪い」

誰だって、腹が痛い様をまじまじとは見られたくないだろう。南央の言葉はもっともで、それもそうだと慌てて良は体を離した。
南央は再び座布団に顔を埋め、強く腹を抱えなおす。「そういう感じ」じゃないと口では言うが、恐らく、きっと、結構まずい具合なんじゃないだろうか。ピクピクと不随意に緊張する瞼、睫毛が広がるほどきつく閉じた目。唇を噛んで強張った頬に、先回りした最悪の事態を想像せざるを得ない。
どうすることも出来なくて、所在なくて、ただし水道は使えなくて。良は仕方なく干しっぱなしにしていた洗濯物を取り込むことにした。
変わらずにTシャツと下着の姿で丸まる南央に干したてのバスタオルをかけ、部屋着の薄っぺらなハーフパンツを投げやる。汗ではりつく前髪の隙間、蒼白な横顔が震えていた。
窓の外は、憎らしいくらいの晴天だ。

***

一週間ぶんの洗濯物を、収納し終えてしまった。
そうしてしまうと、もうこの狭い室内で出来ることなんて無いに等しくて、結果、南央の隣に腰を下した。南央はいて欲しいとも来るなとも、何も言わない。
陽の匂いが残る洗濯物をたたんでいる最中、南央の背中はどんどん丸まっていった。今はもう、膝と額がくっつきそうなほど、小さくなって耐えている。
するべきことも出来ることも、何一つ浮かんでこなかった。
南央の隣でSNSを開いて、市名と断水のキーワードで検索をかけてみる。市役所からの現状報告と、今朝の出来事を見ていた誰かの一言。それから、良が見たものと同じ光景を撮影した動画がいくつか。腹痛で苦しむ青年を救える情報は流れていなかった。
薄い腹から、低く唸るような音が響く。

「っ、い……っ」

南央が不調を訴えてから、一時間近く経過している。
食いしばった歯が擦れて嫌な音を立てた。
扇風機は相変わらず、明後日の方向に風を送っている。
南央が小さく呻いてから、水っぽい音はひっきりなしに鳴り続けて止まらない。その度に南央は座布団に額を押し付けて、バスタオルの下、両手で腹を擦り続けた。
なあ南央―、そう声掛けようとした時、南央はむくりと体を起こした。

「りょ、う」

声を絞り、泣きそうな目で良を見上げる。

「……やっぱ、やばそ、……腹痛い、どうしよう、」
「南央、落ち着け、」
「どぉし、よ、も……、もう、漏れそ……お腹、痛、……っ」

南央の言葉は途切れ途切れで、どうしたらいいんだと良の頭は真っ白になって。その時突然、スマホが振動した。メッセージの受信通知だ。

『まだ復旧しないらしいな。暑いけど大丈夫か?』

送信者は、航平先輩だった。
良ははっとして通話に指をすべらせる。

『内藤?どうした?』航平先輩はすぐに応答した。
「先輩っ、今、家にいますか」
『は?いるけど、どうした。何かあったか』
「南央が、腹痛くて。ちょっとやばそうで、すみません、先輩の家、トイレ借りにいっていいですか」
『大丈夫。それは全然、いいけど、大丈夫だけど。南央、ひどいのか』

電話の向こう、須野原さんの声で「どうしたの」と聞こえた。「内藤から電話」と先輩が応じる声も入っている。
ここから直近のコンビニまで、自転車で五分はかかる。それに橋のこちら側だから、コンビニまで断水していないとは限らない。コンビニまで耐えて、悲惨にもトイレが使えないなんて事態になったらたまらない。
航平先輩の家、同時に須野原さんの家までは、コンビニよりは若干遠いがそれでも十分とはかからない。あちらは上下水道生きていると分かっているし、へたに探すよりも確実だと思ったのだ。
ただし、南央が、自転車に乗っていられれば。

「これから、南央にがんばってもらって、俺自転車で連れていくんで。先輩すんません、お邪魔します」
『わかった。待ってるから、気を付けろよ』
「はい」

通話が切れる。
良は腹部を庇って固まる同居人の名前を呼んだ。

「南央、今、自転車の後ろ乗れる?先輩んち、トイレ借してくれるって」
「……じ、自転車……?」
「うん。俺が漕ぐから。ええと、無理そうだったら、えっと、」

どうしようかなんて、考えてない。
南央にとっても、迷っている余裕はなかったらしい。よたよたと立ち上がって、良の胸をぐいと押す。

「ほ、ほんとに、きついから、早く連れてけ……!」

なんて横暴!
押されるままに後退していったら踵で何かを踏んでしまい、前を向いたら今度は背中をつつかれた。くすぐったいと思ったら、爪の先で急かされていた。

「連れてくから!押すなって」

良は財布と鍵を引っ掴んで、床に放られていたエコバッグに突っ込んだ。今朝の買い物に使ったやつだ。保険会社のロゴが入った、絶妙にださくて、しかし絶妙に使い勝手の良いMサイズ。
他にいるものは無いよな、先輩の家まで走るだけだ。そのまま玄関先まで出てしまいそうだったが、ちらっと後ろの様子を確認して、これはマズイと居間へ駆ける。慌てて畳から拾い上げたのは、部屋着のハーフパンツだ。猫背のまま、顔をしかめる南央に押し付ける。

「せめて下は着ろ!」

マンション裏の駐輪場から自転車を押してくると、南央は花壇のブロックに腰かけていた。両手というより両腕で腹を抱え、不安そうに視線を泳がせる。ざりざりと車輪が地面を擦る音に気が付いて、ぱっと顔をあげた。
チェーンカバーがフルタイプでないせいか、最近ブレーキの度に甲高い金属音を立てる愛車は、引っ越しから使い続けているママチャリだ。サドルに跨り、荷台を叩く。呼ばれた南央はフレームに触れるも、青い顔で苦笑した。

「はは……これ、今、乗れるかな」

そうおどけてみせる南央の指先は微かに震えていて、頬を伝った汗がアスファルトに落ちた。体の真ん中、やわらかい部分を庇い続けていた腕をそうっと離して、恐る恐るといった様子で荷台に跨った。
足を開いたとき、びくりと強張った南央の手が咄嗟に後ろを押さえた。見てはいけないものを見てしまった気がして、良は思わず目を逸らす。は、は、と短く吐き出す息も、また震えていた。

「そうしてるの、辛かったら、横向きでもいいけど」
「んん……そっちの方が、落ちそうで怖い」
「分かった」
「……腰、掴んでいい?」
「おう」

南央の腕が腰に回った。日差しは殺人的な鋭さで降り注ぎ、息をするのも苦しい気温だ。
腰に触れる細い腕も汗ばんでいて、体温のくっついた背中はもっと熱かった。

「良」掠れた声で名前を呼ばれる。
「止まれって言ったら、止まって」

それは、今まで聞いたどの言葉よりも、弱々しく消えそうな懇願だった。背中に、南央の頭が押し付けられる。
良は頷いてペダルを踏み込んだ。

こんなに焦っているのに、こんなに急いでいるのに、世間は苛立ってしまうくらいいつも通りの進行だった。
「困っちゃうわよねえ」という世間話とすれ違う。「夕方には流れるらしいわよ」と話す飲料水のおすそ分けとすれ違う。どうやら断水は現実だ。
補装の甘い道では自転車は不安定に揺れ、南央は息を詰めた。汗で濡れて不快だろうに、回した腕に力がこもる。ぎゅうと背中に南央の体温がくっついて、悲鳴のような、嗚咽のような呼吸が後ろに流れていった。「止まれ」とは言われない。良はつま先まで緊張させて、必死に自転車を走らせた。

橋が見えた。
推定一〇〇mで左折。橋を直進。住宅地に入って、二ブロック先を左折。
あと少しで、先輩の家に着く。

西瓜の日和:END