並んで歩いて向き合って

二限が終わった休み時間。次の時間までの十分の間に、俺は生徒玄関に向かう。開け放たれた玄関から吹き抜ける北風が冷たくて身をすくめた。くしゃみをひとつ。
制服のポケットからティッシュを取りだして、人気が無いのをいいことに盛大に鼻をかんだ。 喉もイガイガして不快だし、どうやら風邪を引いてしまったらしい。
先週までの暑さは何処へやら、急に秋めいたここ数日。季節の変わり目である。

玄関のロッカーに寄りかかり、時計を見上げた。針は十時五十二分を指している。三限が始まるのは十一時ちょうど。環は今週、この時間に登校していた。
急激な気温の変化で万年健康優良児の俺ですら風邪気味なのに、環が弱らないわけがない。登校前にいつもの病院に寄り、抗生物質の点滴をしているらしい。本格的に体調を崩す前に、予防策のようなものだと言っていた。

環にとって、風邪等のウイルス性疾患は相性が悪い。弱った心臓の働きを機械が助けているのだ。心臓の中で血液が逆流しないようにする部分、環のそれは生まれつき脆かった。だから環は高校進学時に受けた手術で、生来のものを機械と取り替えた。

他の誰のためでもなく、環自身が生きるために。

機械は半永久的に機能する性能を持っているが、機械という人工物であることに変わりはない。特にウイルスには弱く、ただの風邪でも菌が心臓で炎症を起こしたら大変なことになる―これが、環が復学する際、環の主治医に聞いた話だ。退院前日に見舞いに行った時である。
家族でもない他人が患者の個人情報を聞き出すのは大変だった。守秘義務が、と渋る主治医に頭を下げ、土下座でもする勢いで頼みこんだ。結局、俺が環の家族よりも多く見舞いに来ていたことを覚えていた看護師が折れ、主治医に口を利いて貰えたのだ。
とにかく、最悪の場合再手術も考えられる、とまだ若い医者は気の毒そうに言っていた。
環に風邪をうつすわけにはいかない。何としても避けなくてはいけない。

(……俺の風邪が治るまで、近付かない方がいいかもな)

「航平?」

突然呼びかけられて、はっと我に返る。首を傾げた環がそこにいた。
いつのまにか傍まで来ていた環は、既に靴を履き替えていた。不思議そうな顔で覗き込まれる。くしゃみが出そうになって思わず顔を背けた。
環の胸元には、一年生のピンバッジが光る。

「悪ぃ、ぼーっとしてた。おはよ環」
「はは、変なやつ」

特に示し合わせることなしに、二人で並んで歩き出す。玄関の段差をひょいと越えたその肩があまりにも薄くて、いたたまれない気持ちに襲われた。
特にこれといって会話をするわけでもなく、ただお互いの体温を、気配を感じている。少なくとも、俺はそうやってようやく安心を得る。
三階、二年の教室がある階についた。環の教室はこのひとつ上だ。

「じゃ、航平、次の授業頑張って」

トントン、と階段を昇る環の背中が軽やかに遠ざかる。

「あのさ」呼び掛けると振り返り、数段高い位置から見下ろされた。天窓からの逆光で表情はよく分からない。「なんだよ」と首を傾げるのは見てとれた。

「俺、明日からちょっと課題で忙しいんだわ。この時間出てこれないかも。悪ぃな」

風邪をうつしたくない、なんて言ったら、環は罪悪感を感じてしまうだろう。早く風邪を治して、来週には戻れればいい。そう思いつつも、心のどこかで「少しは残念がってくれないかな」なんて、ささやかに期待していた。
環に対するこの感情は、付き合いの長さを抜きにしても、他のクラスメイトに感じる親しさとは違っている。名前を見つけることは、まだできない。

「なーんだ、そんなことかよ」

期待はあった。けれど、環はあっけらかんとそう言う。

「もともと俺、頼んでないし。忙しいのに悪かったな。てか、お迎えなくても教室くらい行けるって」

あはは、環はいつもの調子で笑った。確かに玄関まで迎えに行くのは、別に頼まれたわけじゃない。俺が、学校に来る環の姿を確認したかっただけ。
それでも、寂しがり屋の環はそれを望んでいるんじゃないか、そんな自負もあった。

「たまき」思わず名前を呼ぶ。
「なに?」真っ直ぐな環の声。

表情は見えない。

――環は、思ったより俺を必要としていないのかもしれないな。
そう気付くや否や、落胆や虚しさがせめぎあって溢れてきた。
何でもない。そう告げて片手を上げた。

***
「須野原さーん、そろそろかな?」

処置室のドアが開き、看護師が一人入ってきた。武井由美子というベテランだ。朝の点滴は毎回この人にお願いしている。血管が出にくいという自分の腕に一発で刺してくれるのだから、武井は点滴が上手いのだろう。以前は内出血や青あざの絶えなかった左腕も、武井が担当するようになってからはすっかり綺麗だ。

「はい。終わりました」
「じゃあ、ゆーっくり起き上がってくださいねえ」

馴れた手付きで針を抜かれ、点滴が外されていくのをぼんやりと眺める。
登校前に点滴をするようになって、一週間が経った。
もともと「とりあえず十日間」と言われていたので、順調なら今日を入れてあと三日。つまり、あと二回の点滴で治療は終了だ。ほとんど自覚症状のない風邪の治療だなんて変な話だが、この厄介な心臓がそれを求めるのだから仕方ない。

「あらどうしたの、元気ないわね」
「えっ」

突然言い当てられ、どきりとする。
何かあったの、と尋ねられた。点滴前の検温で、武井は俺が平熱だと知っている。不調があるとしたら精神面だと踏んだのだろう。
心当たりは、無いと言ったら嘘になる。
先週の水曜日以降、航平に会っていないのだ。
点滴が始まってから、航平は俺の登校時間に合わせて一階の生徒玄関まで来てくれていた。航平が待っているという事実は、俺が学校に足を運ぶ大きな動機だった。その事を謝ると、航平は嫌がる。だから心の中に泣けそうなほどのありがとうを隠しながら、いつも通り笑ってみせていたのに。

水曜日、「しばらく来れない」と航平は言った。課題が忙しくなるのだという。強がって、何気ない風を装ってはみたが、本当は、すごくショックだった。

仕方ないとは思う。

航平の生活より自分を優先して欲しいなんて思わないし、毎日会いたいなんてそんな我が儘を言える立場じゃない。一階から三階までを歩くためにわざわざ来て貰うのは悪いと思っていたから、それは別に良かったのだ。仕方ないと納得できた。
けれどそれよりもショックだったのは、そしてこうやって気分が落ち込むまでに引き摺っているのは、航平が昼休みにも姿を見せなくなったことだ。
いつも通りのあの良く通る声で、「たまき」と呼ばれるのを待っていた。馴染めていない教室から連れ出してくれるのを。けれどいくら待っても、昼休みが半分過ぎても、航平は来ない。賑やかな教室でただ一人じっとしていることに耐えられなくて、教室を抜け出した。
階段を降りて特別棟へ。一階の購買で売れ残っていたたまごサンドを買い、適当な空き教室でもそもそもと胃に押し込んだ。
航平の来ない昼休みは次の日も変わらずで、もう教室を出るのも億劫になってしまい、行きにコンビニで買ったゼリー飲料を飲んで机に伏せた。なぜだかとても、疲れていた。
そうして朝も昼も航平に会えないまま、金曜日が終わり、土日を挟み、月曜日が憂鬱を連れてやって来た。よく晴れた朝日を重たく感じるのは久しぶりだった。

(……面倒に、なったんだろうな)

そりゃあそうだろう。俺と違って友達の多い航平が、高校で留年なんてレアなことをした友人を気にかける理由なんて存在しないのだ。
航平が優しいのは今に始まった事じゃないし、俺に限った話ではない。

「幼馴染みと、けんか……しちゃって」

実際は、けんかにすらなっていない。俺が勝手に期待して、勝手に落胆しただけだ。
武井はあらあらと大袈裟に反応した。

「珍しいわねえ、須野原くんがそんなに落ち込むの。もしかして、その幼馴染みって須野原くんの好きな女の子だったりして」

嬉しそうに顔をほころばせる武井。武井は俺の小さい頃を知っているから、時々母親みたいなことを言う。俺と同い年の息子がいると聞いたこともある。答えられないでいると沈黙を肯定と受け取ったらしく、次に浮かぶのはにやりと噂好きの笑みだった。

「あらあ、やっぱり?でもだめよ、そんなに落ち込んじゃ。免疫力が下がっちゃうわ。はやく仲直りして、デートでもしなさいな」
「……」
「はい、点滴おしまい。学校行くんでしょう?」
「あっ、はい」
「本当は微熱もあるし、大事をとって欲しいって先生も言ってるんだけど……。行けるときは、行きたいわよねえ」

無理はしないこと、と念を押し、その他に細々とした注意を残し、武井は処置室を出ていった。白衣の背中が扉の向こうに消える。俺は武井がいなくなった後も、しばらくその出入り口を眺めていた。
荷物を持って、会計をして。学校に行かなくてはならないのだが、どうにも動く気が起きない。ベッドに腰掛けたままぼんやりと瞬きを繰り返す。
学校、休んでしまおうか。そんな考えまで浮かんでくる。
だって、学校に行っても、航平には会えない。

航平には言っていなかったが、普通に点滴を受けていたら、終わって学校に着くのはどんなに急いでも三限の途中になる。二限終わりの休み時間に着けるように、航平に会えるように、クレンメを弄って滴下速度を上げていたのだ。少しくらい速くなっても体に影響は出ないし、入院していたときに得た知恵である。

けれどもう、それもやめた。休み時間に間に合うように着く理由がない。

心のどこかで、航平の「特別」だったらと思っていた。
俺が幼馴染みで、他の人より、体が丈夫じゃないから。だから、優しい航平は他と「区別」して俺を扱ってくれる。じゃあ、俺が幼馴染みじゃなかったら?俺の体がフツウだったら?もし、俺の心臓が、治ったら?

「……っ」

悔しくて涙が滲んできた。
拳で胸を思い切り叩く。
目頭が熱い。

***

(今日も、だ……)

いつもつるんでいる仲間と窓際に固まって、下らない話をしながら昼食を取る昼休み。内藤は菓子パンを頬張る手を休め、入り口前の席に視線をやった。今日の昼は購買で買ったばかりのカレーパンと、メロンパンだ。
「どうしたんだよ」気付いた友人が、訝しげにそう尋ねる。

「須野原さん、今日もここで昼食ってる」

あー?と間延びした声を出しながら、友人も須野原さんの方を振り返った。
須野原さんは先週から、昼休みを教室で過ごしている。今までは、あの背の高い先輩が迎えに来て、連れ立ってどこかへ行っていたのに。
航平、と須野原さんは呼んでいた。名字までは分からない。

「いつも二年の先輩がさ、迎え来てたじゃん」
「ああ、確かに。ケンカでもしてんじゃねーの。なに、内藤、あの人と仲良かったっけ?」
「仲良いまでいかないよ。後ろの席だから、たまに話すけど」

興味もなさそうにふうんと返し、友人は提出期限の迫る英語の課題に話を移した。
学校を休みがちな須野原さんは、年下ばかりの一年の教室に、全くといっていいほど溶け込んでいない。浮世離れしたその容姿も、近付きがたい印象を与えるらしい。
もし席が遠かったら、自分も卒業まで話さなかったかもしれないな、と内藤は考える。
ゼリー飲料とパックのカフェオレという食事ですらない昼食を終えると、須野原さんは机に伏せた。そのまま寝ようとしているのか、薄い背中が規則的に上下する。

最近、須野原さんは痩せた。

もともと作り物のように細くて、あれ以上どこに痩せる余地があったのか分からないが、確実に痩せた。やつれた、と言った方が正確かもしれない。
先週から一限、二限の授業は来ていないし、今日も三限の途中から教室に入ってきた。また、どこか調子が悪いのだろうか。それなら航平さんは、何をやっているのか。なぜ、須野原さんの所に来ないのか。
お節介な苛立ちが頭をもたげる。

友人の話題が昨夜のバラエティ番組に移り、ペットボトルのコーラが空になった頃、チャイムが昼休みの終了を告げた。皆各々の席に戻っていく。俺は、須野原さんの前の席に。
このうるさい教室内で本当に眠れたのかは分からないが、須野原さんは既に体を起こしていた。机の上には教科書や筆箱が用意されている。
ふと顔色を窺って、思わずぎょっとした。
どこを見ているのか分からない目で、どうしようもなく思い詰めた表情をしていたからだ。悲壮感に近いような、どこか鬼気迫る必死さを感じた。

「はーい、授業はじめるぞー」先生が教室に入ってきた。現代文の時間だ。
俺も慌てて教科書を引っ張り出して、姿勢を一応、整える。睡魔と闘う午後一番、すぐに眠気に負けてしまうだろうと想像できた。形式通りの号令があり、授業は始まった。

須野原さんの異変に気付いたのは、授業が半分ほど過ぎた時だった。

「……おい……内藤……」

斜め後ろから、小声で呼び掛けられる。俺は想像通りの睡魔にやられ、目を半分閉じかけていた。名前を呼ばれてゆるやかな夢路からいっぺんに授業中という現実に引き戻される。
どうせ、消ゴム貸せとか、シャーペンの芯をくれとか、そういうお願いだろう。隣の席に須野原さんがいるのに、クラスの人は基本的に須野原さんには話しかけない。首だけ捻って目線で「何?」と問う。この先生は私語に厳しいのだ。
斜め後ろに座る友人は、焦った表情で身を乗り出していた。どうやら筆記具の無心ではないらしいと直感する。

「内藤……、なんか、……須野原さんの様子……」
「えっ?」

先生に睨まれないよう抑えられた声は聞きづらかったが、それでもすぐに理解する。
慌てて体ごと振り返り、

「須野原さんっ」

飛び出た大声に、教室中の注目が刺さった。
須野原さんは、俯いたまま目を見開き、その大きな瞳からは大粒の涙がぼろぼろと零れていたのだ。両腕で抱かれた体は、微かに震えている。

「先生!」

立ち上がって須野原さんの肩を掴む。ぐらりと抵抗もなく上体が揺れた。須野原さんの視界に俺は写らない。

「須野原さんを、保健室に連れていきます」

教室を抜けた須野原さんはされるがまま、俺に腕を引かれて廊下を歩く。良いとも悪いとも、何の意思表示もない。涙は一向に止まらなくて、床にぱたぱたと落ち続けた。
一体、どうしてしまったのか。
壊れた人形みたいだ。そんなことを考えた時、突然須野原さんが体を折った。壁にもたれてなんとか立っている、といった様子で、しかし彼は相変わらず言葉を発さない。
咄嗟に立ち止まって、そのまま倒れてしまわないよう彼の薄い肩を支えた。

「……うぅっ、……っ」

絞り出すくぐもった声。喉の奥に堪えるような仕草ではっとする。

「吐く?」

直感して返事を待たず、目の前の男子トイレに押し込む。手の甲を口に押し付けてえずく須野原さんは個室まで間に合わなくて、入ってすぐの手洗い場に嘔吐した。あまりにも突然の出来事で、鏡に映った俺は情けないほど明らかに狼狽していた。

「は、っ……うぇっ……、」

相変わらず涙を流したまま、ずるずるとタイルの床にしゃがみ込む。がたがたと震える須野原さんは、このまま、死んでしまいそうなほど不安定に見えた。

「須野原さんっ……、落ち着いて下さい。保健室まで、行きましょう、ね?」

とにかく、早く休ませなくては。震えているのも、寒いからなのではないか。布団に入れて、暖かくしていないと。少なくともこんな冷たいタイルの上ではなく。だって、須野原さんの体は俺みたいに頑丈じゃない。詳しいことは何も知らなくても、彼が何も言わなくても、そんなことは誰もが気付いている。だから今の不調もだって、俺には想像もできないほど深刻な事態かもしれないのだ。俺は深呼吸して呼びかける。
しかし、須野原さんは嫌々をするように首を振った。

「嫌だ……っ、嫌……っ、」
「どうしてですか!具合悪いんじゃないですか」
「や……っ、嫌だ……」
「だから、何で……!」

焦れったくなって、つい声を荒げてしまう。

――須野原さんは。

俺の知っている須野原さんは、一歳年上で、ちょっと珍しいくらい綺麗な顔で、でもその外見に反して内面は案外雑な、ずぼらな面もあって。話してみれば普通に続くのに、自分から誰かに話しかけたりしないから、年下ばかりのクラスでは浮いていて。
背の高い幼馴染みの話をする時は、すごく嬉しそうで。

「……航平、…来ないもん……!ひ、一人はやだ……!」

怖い、と絞り出した細い声は、まるで悲鳴のようだった。
目の前で震えるこの人は、今まで見てきたどの須野原さんとも違う。きっとどの須野原さんも本物で、嬉しいとか寂しいとか、怖いとか、そういう揺らぎがちゃんとある。近寄りがたさは須野原さんじゃなくて、俺たちが勝手に作った隔壁だった。
まずはここから動こうと、そして後ろから須野原さんを支えようと腰を浮かせた時、須野原さんの指がぱっと俺の袖を掴んだ。それは全く無意識の行動だったらしく、「あっ」とすぐに指を引っ込めた。が、例え一瞬でも、求められたことに確かな充足感。

須野原さんが縋りたい相手は、俺ではない。ここにいてほしい相手は一人しかいない。

「須野原さん、お願いだから保健室行きましょう。もう、保健室じゃなくてもいいっすから、とにかくここじゃなくて、横になってください」

そして、続ける。

「航平さんは、来ますから。」

***

自習の時間、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。教員がいないのを良いことに、広げたノートの上に肘を置き、行儀悪く頬杖をつく。

(……たまき)

先週は、あれから環と会わず仕舞いだった。入院していた時でさえほぼ毎日見舞っていたから、こんなに顔を見ないなんていつ以来か、思い出すのも難しい。
先週の金曜日には悪化のピークを迎えた俺の風邪は、週末ですっかり回復した。一時は三十八度まで上がった熱も平熱に戻り、くしゃみや鼻水も止まった。完全復活である。
気がかりなのは、環のこと。
今日、いつもの休み時間に迎えに行ったが、環は玄関に姿を見せなかった。
欠席なのだろうか。休んだのなら、それはつまり環の具合が良くないということ。
昼休みになったら教室に行ってみよう。そう思い、だるい自習を寝て過ごすために目を閉じる。じきにやってきたまどろみは、突如教室に響いた一声で一気に吹き飛んだ。

「航平先輩!」

バァンと大きな音を立ててドアが開き、叫ばれたのは俺の名前。反射的に声の方を向くと、見覚えのある顔が怒りのオーラを全開にして睨んでいた。頬杖から顎がずり落ちる。
一瞬で教室は静まり返り、クラスメイトから「呼ばれてるぜ」と視線が集まってくる。横に座る友人は、「お前だよ」と言いたげに親指で出入り口を指す。

(……確か、環のクラスの……?)

話したことはないが、見たことのある顔だった。記憶を辿る。内藤、と言っただろうか。
彼は靴音を立ててこちらに来る。ずんずん近づいて、ついに目の前に立った。
何が起こっているのか分からない。困惑して見上げると、内藤の鋭い眼光が刺さった。

「航平先輩、何、してるんですか!」
「……何って、……お前が何だよ、何の用……」
「須野原さんが倒れたんですよ!」

ダンッと机を叩き俯く内藤。須野原、環の名字。
一瞬で血の気が引く。

「おい、廊下出るぞ。」

好奇の視線に晒されながら、内藤を廊下に押し出した。

「環はどこに」
「なんとか、保健室まで連れていきました」

倒れたと言っていたが、環は今どこにいるのか。具合はどうか。保健室で休んでいるのだろうか。内藤に問い質したいことがまだ残っていたが、とにかく今は一刻も早く駆けつけたい。教室の戸を閉めるが早いか走り出した。内藤が飛び込んできた時と同じくらい、それよりももっと派手な音を立てて扉が閉まる。反動で少し開いたのだが、二人はそんなことに構わず廊下を駆ける。
それにしてもなぜ、内藤はこんなに怒っているのか。どうして俺は怒られているのか。

「ありがとな」

いずれにせよ、環を保健室まで連れていき、二年の教室まで伝えに来てくれたことには変わりがなない。素直に感謝を告げると、内藤は虚を突かれたような顔をした。不機嫌そうに眉根を寄せて正面を向く。
「別に」内藤は歩幅を広げる。航平はそれを追った。

「環!」

階段を駆け下りた一階、保健室。叩きつけるようにドアを開ける。古い蝶番が軋んで甲高い音を立てた。大股で保健室に飛び込む。
環はソファに腰掛け、腕を枕に中央のテーブルに伏していた。養護教諭はいない。突然名前を叫ばれて、びくりと肩を震わせた。
ぱっと顔を上げ、航平を視界に捉える。驚きに見開いた表情はみるみる歪んでいく。

「こっ……こう、へ……」

赤く充血した瞳。頬には涙の跡がある。
その跡を辿るように、一筋、また一筋と涙が溢れた。
会いたくて、仕方のなかったひと。

「なあ、環」

床に膝をつき、環と視線を合わせる。
航平は、いつもとは違う何かを感じていた。いつものように、寂しくて、自分が来ると知って保健室に逃げ込んだとか、そういうものではない何か。
ベッドで横になってないということは、体調はそれほど悪くないのだろうと推測する。
ならばどうして、こんなにも環は不安定になっているのか――……

「たまき、どうしたんだよ、お前」

深く考えるのは向いていない。どんなに大切だって、他人の気持ちなんていつでも自分の想像を超える。分からないなら、聞くしかないのだ。
航平は直球で尋ねる。環はひくっとしゃくりあげた。

「……こうへい、来ないから……、き、嫌われたと、思っ……」

流れる涙をそのままにして、構わずに環はずっと吐き出したかった言葉を繋ぐ。
途切れ途切れに続いた言葉に航平はがく然とした。

「課題忙しいって……、分かるけど……!昼も来ねぇんだもん……!も、……俺のこと、……め、面倒になったのかって、俺……」
「環」

思わず、薄い肩を引き寄せていた。
環は腕の中にすっぽりとおさまって、一瞬の強張りもすぐにほどける。環は抵抗しない。
環の吐く息が首筋に触れ、涙がシャツの襟を濡らした。
耳元で嗚咽が漏れる。空気が揺れる。
久しぶりに感じる環の体温。

昼休み明けの授業中、環は看護師の武井が言っていた言葉を思い出していた。

『もしかして、その幼馴染みって須野原くんの好きな女の子だったりして 』

幼馴染みとけんかをした。呟いた時、武井はそう言ってからかった。

(……好き)

渡された言葉の意味を反芻する。ゆっくりと咀嚼する。
そして、唐突に理解する。
女の子ではないけれど、でも、航平が好きだ。好きでいっぱいになって、息が出来なくなるほど。環はそう自覚した。
でも、航平は自分の方を向いていなくて。昼も、もう一緒に食べられないのかもしれない。幼馴染みという切り札は、諸刃の剣だった。
幼馴染みだからああして「区別」してくれて、でも、「特別」になれなかったら、それはただの足枷だ。こぼれた刃は自分の手も傷つける。

(……お前が、好きなんだよ、俺)

そう思ったら目頭が熱くなり、あっと思った時には涙が止まらなくなっていた。
異変に気付いた内藤が腕を引かれて教室を出る。目まぐるしい感情の波に吐き気がして、途中で一度吐いた。立っているのも難しいほどに世界が回った。保健室に行こうと言う内藤の言葉に、強情になって首を振る。
保健室にはどうしても行きたくなかった。
朝も昼も航平は来なくて、もし保健室にも来てくれなかったら、俺はどこにも居場所がない。環はそう考えていた。
保健室に行って、航平が来ないことを確認したくなかったのだ。
だから、賑やかな教室で不安や寂しさに襲われても、少しくらい具合が悪くなっても、保健室に足は向かなかった。

「ごめんな。環ごめん」

背中に手を回し、厚みのない背中を撫でながら、航平は何度も謝る。

「俺、先週風邪引いてて。お前にうつすのはやべえって、思ってたんだよ。だから、治るまでは会わないでおこうって……」
「……んなの、言えよ、バカ」
「だって言ったらさあ、お前絶対気にすんだろ」
「何も言われない方がもっと怖い……!」

環の声に再び涙が滲み、航平は慌てて抱き締める腕に力を込めた。これ以上強く抱いたら折れてしまいそうだと不安になると、それを打ち消すように環の腕が背中に回った。ぐいと寄せられて、存外な力強さに環の意思を確認する。

「あー、だから、悪いって。俺が悪かったって、頼むから泣くな、な?」

昔からこの涙には弱かった。たくさん我慢して笑ってきたことを知っているから、全てを投げうって降参したくなる。環の我が儘も、横暴さも、それらの根っこにある弱さも、全部自分のものにしたかった。頭を撫でるつもりで、環の髪の毛をぐしゃぐしゃと掴む。
何となくおかしくなって、航平の体温をいっぱいに感じながら環は笑う。

苦しいくらい、お前が好き。
心臓がそう叫ぶ。
いつか、ちゃんと伝えられたら。そう思いながら、環は航平の肩に頭を預けた。

***

環が寝たのを確認して、握っていた指をほどいた。相当疲れが溜まっていたらしい環は、ベッドで横になるとすぐに眠りに落ちた。穏やかな寝息に安堵して胸を撫で下ろす。ストレスの原因が自分だったと思うと頭を殴りたくなる。
音を立てないようにそうっとベッドを離れ、静かに保健室を出ると、内藤が廊下の壁に寄りかかってスマホを弄っていた。航平は、そこで初めて内藤が保健室に入っていなかったことに気が付く。気を利かせてくれたらしい。何となく気恥ずかしくなって頭を掻いた。
視線に気付き、内藤は会釈する。微妙な沈黙が訪れた。

「俺、」口を開いたのは内藤だ。
「文句言ってやろうと思ってたんスよ、航平先輩に。けんかしたのか知らないけど、あんなに具合悪そうな須野原さん放ってて」
「……風邪、あいつにうつしたくなかったんだよ」
「はい。立ち聞きしてました。……事情も知らずに、教室に押し掛けて、怒鳴って、すみません」

終業のチャイムが鳴ったが教室に戻る気持ちは無くなっていた。二人とも動かない。
内藤は言いにくそうに続ける。

「須野原さんが悪いの、心臓ですよね。俺、ばあちゃんも心臓悪かったんで、なんとなく分かります」

航平は言葉に詰まった。
環の個人的な話を、本人の許可なく勝手に話していいものかと迷う。自分しか知らない環のことを他人と共有することに、子供じみた抵抗があったのも事実だ。だが、そんな悠長なことも言っていられない。環の抱える問題を知っている人が誰もいない所に、環が一人でいたと思うと背筋が冷えた。

「あいつ……環の心臓は生まれつきだ。留年したのも、手術で入院してたからなんだよ。で、俺とは……」
「幼馴染み、ですよね」
「環から聞いてたのか?」
「はい。俺、須野原さんの笑顔見たことなかったんですけど、須野原さん、航平先輩の話するときだけ、笑ったんですよね」

そう言いながら目の前で寂しそうに笑うのを見て、さすがの航平も内藤の内心を察した。

(こいつ、環が好きなんだ)
「そういや内藤、お前、俺の名前……」
「それも、須野原さんから。俺は航平さんの名字まで知りません。航平さんだって、俺の名前、須野原さんから聞いたんでしょう」

ゆるゆると頭を振る。口元には諦めの笑み。そこに、敵意は無い。

(……違うな…、好き「だった」んだ)

「……悪いな」航平は、内藤の目を見る。
「俺、環が大切なんだ。環が、特別なんだよ」

聞きながら、何を言い出すんだと内藤の目が見開かれる。内藤は一気に耳まで赤くして、わーっと大声を上げる。泣くかな、という予想は完膚なきまでに裏切られた。足を、思いっきり、踏まれた。

「ああもう!のろけないでくださいよ!そんなの、知ってます、気付いてます!須野原さんだって、航平さんだけが好きなんですよ!恥ずかしげもなくそんな宣言、俺にしないでくださいっ」

早口になって一息で続ける内藤。聞き捨てならないフレーズが聞こえた気がして、思わず横に並んだ両肩を掴んだ。

「おいちょっと待て、環が、何だって?」
「はあ!?あんたまさか気付いてないんですか!?」

信じられないと内藤は絶句した。年下にあんた呼ばわりされているが、そんなことはどうだっていい。俺は、何に気付いていないんだ。

「二人とも似た者同士ですよ!心配して損した!どうぞお幸せに!」

腕を振りほどき、肩を怒らせずんずん廊下を歩き出す内藤。航平は、その背中を慌てて追いかける。

「ちょ、ちょっと待て。どういう事だ。あっお前、教室で環見てろよ、頼んだからな。あいつが無理する前に休ませろよ」
「何で俺に頼むかなあ……!もう勝手にしてくださいっ」

廊下に二人分の声が響き渡る。何事かと職員室から顔が覗いた。

たまき。
誰が何と言おうと、あいつは俺の、特別だ。

END

手を握ろう

教室内に不思議な空気を連れて、彼は今日も登校してきた。彼が教室に一歩踏み入れると、話をしていた人もふざけていた人も、彼をどこかで意識してしまうのだ。話をやめるわけではなく、ふざけてペンケースを投げたり机に座ったり、いつも通りを続けるのだが、皆が一瞬彼に視線を奪われているのはすぐに分かる。

十七歳で一年生をやり直している彼。「須野原 環」は高校二年生の年齢で、去年までは中学生だった俺達のクラスにいる。

最初はサボりで留年したのかと誰もが思ったが、始業式から一ヶ月もしないうちに、どうやらそういう素行不良の類とは違うらしいと気付き始める。
時々しか参加できない体育の授業。クラス行事のキャンプにも来なかった。何かの装置を腰につけて登校してきたこともある。朝は教室に居たのに昼前にはいなくなっていることなんてざらで、どうやら保健室で休んでいるらしい。
彼はどこか体の具合が悪いのだろう、という認識が、いつの間にか出来上がっていた。
だが、彼が視線を集めてしまうのはその特殊な事情だけではない。
とにかく顔立ちが整ってるのだ。
身長は平均より少し低いくらいだが、体の薄さは他の比ではない。ひょろりと薄っぺらくて、風が吹いたら飛ばされてしまいそうだ。それだけならガリガリだと気持ち悪く見えてしまうのだろうが、恐ろしく綺麗な顔が乗っていれば繊細さを際立たせるアクセントになる。

「須野原さん、おはよ」

机に荷物を置いた音がして、俺は振り返る。彼は俺の後ろの席だ。
一番入り口に近場所に彼の席を設けたのも、考えてみれば体調が悪くなったらすぐに退室できるようにという配慮なのかもしれない。

「あ、内藤」

このクラスで彼と話す人はほとんど居ない。その中で比べるなら俺はわりと話す方なのかもしれないが、話しかけられることはまずなかった。名前だってちゃんと覚えられているのかどうか怪しいところである。
線の細い繊細な外見に反し、彼が存外ぶっきらぼうで、雑な性格をしているのを俺は知っている。年上だからといって偉ぶることもなく、もっと外向的になればすぐに馴染んで溶け込めるはずである。
もっとも、彼はそれを必要としていないのかもしれないが。

「須野原さん、今日俺と日直です。日誌の分担、どうします?」
「……俺、自分の字嫌いだから書きたくねぇ」
「じゃあ俺書きますから、号令お願いしますね」
「ん」

眠そうに気のない返事をして、彼は廊下の外に視線をやった。
首から顎に繋がるラインがあまりに綺麗で思わず見とれてしまう。
白い肌は光を弾く。

——きっと、「あの人」を探しているんだろう。
二年生の年齢だとはいえ、二年生と親しいかと言うとそうではないらしく、部活の先輩の中には須野原さんの存在を知らない人もいた。一度も登校していないクラスメイトがいる事実は知っていても、その名前までは把握していない……というのが大半。
そんな須野原さんだが、一人だけ心を許している相手がいる。
背の高い、快活な印象の先輩だ。昼休みになるとわざわざ階段を上ってこのクラスまで来て、良く通る声で「たまき」と須野原さんを呼び、教室から連れ出していく。
その時の須野原さんの顔が本当に嬉しそうだから、この教室では決して見せることのない笑顔だから、きっと二人は長い付き合いなのだろう。
須野原さんの号令で授業が始まり、須野原さんの声で終わる。須野原さんの声はイメージしていたよりも低くハスキーだ。
須野原さんは、結構適当でマイペースに生きている。それは例えば英語の時間。須野原さんは居眠りをしていたらしく、ふと後ろを振り返ったとき、船を漕ぐノートの文字がぐちゃぐちゃに踊っているのが見えた。そういう瞬間は、何度もあった。
 

休憩時間のうちに日誌を片付けたい。日誌と言ってもそれほど大したものではなく、時間割の表を埋め、担当教員を書き、授業の内容をざっくりとメモするだけである。大したものではないだけに、地味に時間を取られてしまう。実際、この作業が本当に必要なのかどうかは一考の余地があると、きっと皆が思っている。
ペンを持って一限の内容を思い出そうと記憶を辿った時、「ないとぉー」と間延びした声に呼ばれた。顔を上げると、黒板の前でたむろしていた数名がひらひらと手を振っている。

「内藤、次の化学、モリコんとこ行くんじゃなかった?」友人の親指が扉を指す。
「うわっ、やべ、そうじゃん。忘れてた」俺ははっとして立ち上がった。
「あっぶねー!モリコキレんぞ、はよせい」
「うん」

モリコというのは化学担当の森山の事で、代々モリコというあだ名で呼ばれている。前回の授業から教室で軽い実験を行っていて、日直は化学準備室まで実験器具を取りに行かなければならないのだった。俺はまた振り返り、座っている須野原さんに呼び掛ける。須野原さんもこのやり取りを聞いていたらしく、顔を上げて腰を浮かせていた。

「須野原さん、行こう。休み時間あと五分だ」
「俺も忘れてた、悪い」

教室を飛び出して、小走りで廊下と階段を抜ける。化学室は特別棟の一階だ。
ふと、須野原さんが走っていることに不安を覚える。
どこが悪いのかは知らないが、体育を殆ど見学していることを考えると、あまり体を動かしてはいけないのかと思ってしまう。とはいえ先週のバレーには参加していた気がするから、そう神経質にならなくてもいいのかもしれないが。

渡り廊下を駆け、階段は二段飛ばしで、化学室の前に立った時には随分息が上がっていた。教卓横の扉で繋がる準備室の入り口は鍵がかかっておらず、抵抗なく開いた。

「何が必要なんだっけ?」

器具を運ぶためのカゴを机に置きながら須野原さんが尋ねる。

「えーと……あ、そこのプリント」
「ん、」須野原さんは頷く。

カチャカチャと器具を移しながら、授業五分前のチャイムを聞いた。やべ、と須野原さんが呟いた。棚からカゴへと動かす手を早める。

「須野原さん、あの背の高い先輩、幼馴染みかなんかですか?」

ふと、尋ねていた。
須野原さんは、不意を突かれた様子で俺を見る。ガラスのぶつかり合う音がぴたりと止まり、瞬き三回分の沈黙があった。

「航平のこと?」
「いや、名前は知らねっすけど」
「うん、家が近所だったんだ」

何気なく応じながら、須野原さんが、微笑んだ。
俺はもちろん彼から笑顔を向けられたことなんてなくて、初めて真正面に表れたそれがあまりに幸せに満ちていて。思いがけず飛び込んできた繋がりに息を飲んだ。
幸福の象徴はあっという間にはにかんだ照れ笑いに変わり、その次にはいつも通りの、作り物みたいな初期設定に戻っていた。須野原さんが作業を再開したので、俺も背を向けてフラスコを掴む。白昼夢のような一瞬だった。

負けたな、と思う。

勝負事ではないし何に負けたのかなんて分からないのだから、敗北感を覚えるのも変な話だ。けれどその笑顔と、笑顔を引き出せる相手との繋がりには、理由を考える前に白旗を上げたくなった。負けたけど、白旗だけど、不思議と悔しくはない。 
その時唐突に、ガラスの割れる音が響いた。ゴンっという鈍い音も。我に返って振り返り、ぎょっとして息を飲んだ。
須野原さんが、割れた試験管の破片の中で蹲っていたからだ。

「須野原さん?」

慌てて駆け寄り肩を支える。床に倒れてしまったら、広がるガラスの一帯に顔から突っ込むことになる。この顔に傷がつくのは恐ろしかった。手の下で丸まった背中は痙攣するように小刻みに上下して、左手はぐったりと投げ出されている。

「……ちょっと目が、回っただけ……、大丈夫」

抑えられた細い声が震えている。
大丈夫という言葉はどういう意味だったかと考える。少しも、全然、大丈夫じゃない。
目をきつく閉じた須野原さんの口元が、微かに笑みを作ったのが見えた。その唇は血の気が引いて紫色だ。須野原さんの身に何が起きているのか、一瞬で推測した。

「誰か、呼んでくる」

さっきまで流れていたのんびりとした空気や、少しの敗北感なんてどこかへ消えた。緊張で背筋が冷えていくのが分かる。須野原さんから、返事はない。

***

さあっと血の気が引いていく。
襟首に太い注射器を当てられて、一気に何リットル分かの血を抜かれてしまったような、そんな錯覚。世界が真っ逆さまに落ちてくる。
このまま意識を失うかと思うほどの、強い目眩に襲われた。
持っていた試験管をケースごと落として、同時に床に座り込んでしまった。ガラスが割れるすごい音がした。「貧血?」と一瞬だけ思い、耳鳴りと共にそうではないと自覚する。
これは、きっと発作だ。

「須野原さん!」

内藤のぎょっとした声も膨張して聞こえる。甲高い耳鳴りの向こう側に音の壁がある。
心配しなくても、大丈夫。すぐに収まる。少し休めば、すぐに。
そう伝えたいのに、何か言葉にすれば戻してしまいそうな吐き気に負けてしまう。
もう、喉の奥まで胃酸が迫り上がってきているのだ。

「……ちょっと目が、回っただけ……、大丈夫」

親切にも体を支え、背中をさすってくれる内藤。大きな手のひらに撫でられて、飛びそうな意識が何とか現実に足をつける。彼は俺の言葉を信じてくれただろうか。この言葉を信じたいのは、他でもなく俺自身だ。
動悸が激しい。体のどこで鼓動を感じているのか、これは自分の心臓なのか、自分の心臓はちゃんと動いてくれるのか――ぐちゃぐちゃな思考が浮かんでは消える。
ぼんやりとした頭は焦りに包まれた。

(……怖い……っ)

航平。

***

夢を見ていた。
クリスチャンである母親に連れられ、教会へ行ったときのこと。これは記憶だ。

「この子は本当に愛らしいですね。きっと神様のご加護がありますよ」

シスターが微笑んで言う。
母親に抱かれた俺はまだ掴まり立ちも出来ないころで、手を伸ばして空中を掴む。
幸運を願うシスターの祈りを「でも、」と遮り、母親は俺の心臓にある欠陥を伝える。
これは記憶であり夢であると不思議と自覚していた俺は、その様子を協会の外からぼんやりと眺めていた。ポーチを進んでタイル張りの正面扉に一歩ずつ近づく。母親が振り返ったら、俺の姿が見えてしまうだろう。けれど母親は振り返らない。俺はそれを知っている。
天窓のステンドグラスから光が落ちて、教会全体がきらきらと揺れている。
姿の見えないパイプオルガンが一度だけ鳴った。
シスターは嘆く。

「ああ、きっとこの子は神様に愛され過ぎてしまったのね」

母親のすすり泣く声、嗚咽。
何もわからない小さな俺は、泣かないでと母親の髪の毛を引っ張った。
神様に愛されなくても、航平が居てくれればいいのにな、と、俺は光の外から考える。
そんな夢。

***

目を開けると、白い天井が視界に映った。視界が明るさに慣れなくて思わず目を細める。ここはどこだろう。何をしていたんだっけ。眠くて眠くて、瞼が開かない。
ピッ、ピッ、ピッ……と、規則正しい電子音だけが聞こえた。
体が信じられないくらい重たくて、寝返りひとつ打てなかった。それでもやっとの思いで横向きになり、布団に潜りなおす。だってあまりに眩しいのだ。

「須野原さんー?目、覚めましたか?」

すると身動きする音が聞こえたのか、カーテンの隙間から看護師が一人顔を覗かせた。布団から顔を出すと目が合った。ワゴンを引いてきた彼女は、にっこりと微笑んで仕切りの中に入ってくる。カルテの紙面を捲りながらボールペンを走らせる姿が見えた。

「点滴終わったら心電図検査しましょうね。どこか痛いところはありますか?」

そう言われてようやく、自分が点滴に繋がれていることに気が付いた。下から見上げた点滴パックはゆらゆら揺れていて、水越しに歪む天井をぼんやり眺める。夢で見たステンドグラスの光に少しだけ重なった。
目を閉じて首を降る。
思い出せる強烈な吐き気は嘘のように引いていて、うるさい耳鳴りや狂ったような動悸も収まっていた。熱を測れば平熱を示したが、寝ている間にちょっと驚くくらい汗をかいたようだった。額やシャツがしっとりと湿っている。蒸しタオルで顔や首筋を拭いてもらった。
満身創痍、といった感じだ。
どこもかしこも痺れたように重くて、怠かった。
点滴の速度を弄り、終わる頃にまた来ますねと言い残して、彼女はワゴンと一緒に去っていった。背中が薄い仕切りの向こうへ消える。カーテン一枚隔てて、とても孤独だ。
ふと顔を動かしてみる。
切り取られた窓の向こうは夕焼けだった。
こんなことがいつまで続くのだろう。こんな体がどこまでもつのだろう。赤く染まった空のせいで、いつもよりも感傷的な気分になる。
神様、俺は贅沢すぎますか。
思考が自己嫌悪の領域まで伸びようとしたその時、ガンッと大きな音が聞こえた。 「いてっ」という声と、靴が床を蹴る音も続く。
足音は俺のカーテンの前で止まり、薄い隔たりの向こう側に人影が立った。人指し指でカーテンを少しだけ開き、そっと中を覗き込む。その視線を知っていた。

「こーへい」

俺が起きているとは思わなかったらしい。横になったままベッドから名前を呼ぶと、航平は大袈裟なほど大きな溜息をこぼした。

「なんだ、案外元気そうじゃねえか」

遠慮なくカーテンを引いて中に入り、備え付けのパイプ椅子にどかっと腰を下ろす航平。雑な所作には安堵がありありと見えていて、それに気づいて胸が痛んだ。
「心配かけたね」と言おうとして少し迷って。航平の顔を見て、あれ、と思った。
学校から病院まではバスで十五分程。乗り継ぎも要らないうえにバス停も近く、俺が入院したときはいつも帰りに立ち寄ってくれていた。だから、今回もバスで来てくれたのだろうと思っていた。が、どうだろう。
目の前に座る航平は、肩で大きく息をしていて、額が濡れるほどの汗をかいている。

「……まさか航平、走って……?」

何も言わない視線がぶつかる。
痛いほどの心配を感じて、あえて気付かないふりをする。航平が何も言わないから、俺もあえて大丈夫だと強調したりしない。
大丈夫、分かってるよ、伝わってるよ。心の中でそう思う。

「学校から丁度いいバスがなかったんだよ。駅前までバスで出て、そこからな。……こっちは、一日、ひやひやしてた。……救急車が学校に停まったときは、こっちの心臓が止まるかと思った」
「え、俺、救急車で運ばれたの」
「呑気だなあー」

航平は真面目くさった顔でそう言ったが、覚えていないもんは覚えていない。事の次第を聞けばどうやら俺は化学準備室で倒れ、そのまま救急車で運ばれたらしい。確かに自力で病院まで来たとは思っていなかったが、どうやってここまで来たのかなんて少しも考えていなかった。

「授業始まってすぐに救急車の音がして、近くで停まった時から嫌な予感してたんだよ。窓際のやつとか外見てたし。で、休憩時間にお前の教室行っても居ない、保健室行っても居ない。先生つかまえて聞いたらやっぱりさっきの救急車はお前だって聞いて、でも俺が学校抜けてまで病院に行くまっとうな理由がないだろ。それで、一日ずっとひやひやしながら過ごしたのに、バスねえし」

時系列を追って独り言のように続ける航平に、うん、うん、と相槌を打つことしか出来ない。本当は泣けてしまうくらい嬉しいのに、俺は素直になんてなれないのだ。

倒れる前、航平の事考えたよ。
夢の中でも航平の事考えてたよ。
きっとこの言葉は重すぎる。

「俺、救急車、実際乗ったの初めてかも。覚えてないの勿体ないなあ」
「人の気も知らないで呑気な奴だ」
「あは。でも大丈夫、ちゃんと会えたし」

重たい言葉を飲み込んで笑う。航平の眉間に皺が寄る。
どーもありがと、そう言うと、その皺はますます深くなった。
もうすぐ点滴が終わる。
俺はベッドから手を伸ばして、航平の手に触れた。あの時空中を掴むことしかできなかった手のひらは、今、ちゃんと航平をつかまえている。

「相変わらず冷てぇな」不満顔で航平が言った。
「相変わらずあったかいね」俺はその温かさを奪う。

最後の一滴が落ちるまで、こうやってお互いの体温を交換していよう。
それまでは、誰もこのカーテンを開けませんように。

END

名前を呼ぼう

「たまき?いるんだろ」

そう言いながら、保健室のドアを引く。年季の入った重厚な作りの木製開き戸だ。
まるでどこかのコンサートホールのような、漆喰の艶が残る観音扉はこの校舎の至る所に見られる。高校の建物としてはきっと珍しいこの設計は、明治の有名な建築家が残した古い洋館を増改築して作られたためと校史にあった。はめこまれた三連窓、彫りの細やかな窓枠、レンガとモルタルの外壁……かつて洋館であった面影は、確かに各所で確認できる。古くなった扉の蝶番が軋むのもその一つだ。
保健室は柔らかな光に満ちていた。窓から差し込む光が木漏れ日を床にうつす。
一歩足を進める。前髪が微かに揺れて、室内なのに風を感じる。視線を動かすと、換気のためか窓がほんの少し開いているのが分かった。改めて見上げるとそれは縦長の上げ下げ式で、ここにも洋館らしさは残っている。
空調も効いていて、外の空気も入ってきて、贅沢な温度だな、と一瞬だけ思う。
クリーム色のカーテンがはためいて、俺に居場所を知らせた。

「たまき」

最奥の一角まで真っ直ぐに足を運び、半分だけ開いていたカーテンを一息に開く。
ベッドに横になって、顔を半分枕に埋めた環が視界に飛び込んできた。環は眠るとき、膝を抱えて小さく横になる。昔から変わらない環のクセだ。

「こーへい」

俺を視界に捉えて、嬉しそうに顔をほころばす。

「お前、また仮病かよ」

半ば呆れながら、いたずらっぽい笑顔を浮かべる環の髪の毛をくしゃりと掴んだ。

環は留年した。
理由は、出席日数の大幅な不足だ。
生まれた時から体が丈夫じゃなかったらしい環は、心臓に病気を抱えていた。小学校、中学校と、今までなんとか折り合いをつけて生活していた環に、ついに手術の話が持ち上がったのは昨年の話。
主治医と散々話し合った結果、環と環の家族は手術を選んだ。その後待っていた検査入院の段階で休学手続きを取ったため、丸々一年分欠席ということになる。
結果、環はもう一度一年生をやっている。
手術は無事に成功したとはいえ、今でも全ての授業に出られるわけではないし、検査や治療があれば当然学校なんて後回しになる。一歳年下の同級生に馴染めず、寂しくなるとこうやって保健室へ逃げ込むのも、環のクセ。
そうすれば、俺が来ると知っているからだ。

「……いや、だってさあ、無理でしょ。俺、超腫れ物だぜ?」

悪びれる様子もなく、あっけらかんとそんな風に言ってのける。
掴みどころのない飄々とした言動の裏、環はそれはすごい寂しがりやだ。小さい頃から家が近く、ずっと幼馴染だった俺と環だが、俺の記憶の限り環はいつも俺にくっついていた。
小学校の図工室にあるような木の角椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。授業の始まりを知らせるチャイムが聞こえた。俺は四限をサボることになりそうだ。

「お前の教室言ったら居なかったからさ、えーと、誰だっけ、斎藤?内藤?お前のクラスの茶髪……に聞いたんだよ」余韻を残してチャイムが鳴り終える。「そしたら保健室行ったって言うからさ。いい加減馴染めよ」
「サイトーでもダイソーでもどっちでもいいよ。俺航平が居ればいいもん」
「もんじゃねーよ、もんじゃ。可愛くねえ」
「はは」

もぞもぞと身じろぎし、布団から環の手が覗いた。髪を耳にかけるその指は、同級生の誰よりも細い。折れてしまいそうな手首はすぐに毛布に引っ込んだ。

「腫れ物って……お前がそういう風に振る舞うからだろ」
「やーだよ。だって去年までは後輩だもん」

 拗ねたようにそう言う環。ふいっと顔を背けるのも「拗ねています」というポーズだ。

「一歳しか違わねーだろ」

そっぽを向いた顎を掴んでこっちを向かせる。両頬が挟まれて不細工に唇がつぶれた。たちまち不機嫌そうな顔になるので、最後に一度だけむに、とつまんで手を離した。

俺の方が先に卒業して、そしたら環はどうするんだろう。環の未来を考えるのはいつでも苦くて、少しだけ怖くて、意識して無視し続けていた。
本当は、保健室に行ったと聞くたびに、背筋がひやりとしている。
学年が違えばそう簡単に会うことはできない。それは去年だってそうなのだが、去年の環は病院にいたわけで、何かあっても大丈夫だという安心感があった。
だけど、ここではそうはいかない。
仮病だと知りたくてこうやって保健室に急いでいるなんて、環は思ってもいないんだろう。仮病かよ、と念を押すことで、自分を安心させているのだ。
廊下を誰かが話しながら通っていった。授業時間中だから、移動か、教員か。笑い声が遠ざかる。階上では、椅子がガタガタと動く音がする。沈黙になった隙間に腹の虫が鳴いて、顔を見合わせて笑い合った。

「昼、どこで食う?学食?」
「んー、あそこは人が多いから嫌だなあ」
「じゃあ、購買で何か買うかな」
「航平適当に買ってきてよ。俺たまごサンド食べたい」
「パシってんじゃねえよ、アホ」

軽く額を小突くと、環はにやりと笑った。
その時、ヒュウッと高い音がして、窓の隙間から風が吹き込んできた。カーテンの向こう、机上の書類が飛ばされる音が聞こえた。何かが落ちたような軽い音も続く。

「うわっ、やべ」

片付けなければ、そんな使命感に腰を浮かせて立ち上がり、その視界の隅で環は布団に潜って丸くなった。まさか、と嫌な予感が胸をよぎる。

「たまき寒いの?」

指で少しだけ毛布を捲ると、ぐしゃぐしゃになった前髪から白い顔が覗く。
さっきまでは全く気付かなかったが、確かに少し顔色が悪いような、気もする。なにせいつも真っ白な顔をしているから、なかなか違いが分からないのだ。

「……や、んー、ちょっとね」くぐもった語尾が笑う。

室内は一般的な温度で、決して寒さは感じない。窓が開いているとはいえ空調も効いているし、ジャケットを脱いでも良いくらいだ。環は指定のセーターまで着こんで、毛布にすっぽりくるまれてもなお寒いと言う。
環が弱っている証拠だ。

「お前、仮病じゃなかったのかよ」

俺は慌てて窓を閉める。ジャケットを脱いで環の布団の上に被せる。他のベッドから布団を持ってこようか。室温を上げようか。様々な懸念が思考を駆けて、一番優先すべきことは何か、何をするのが最善か、断片的に次々浮かんで泡になる。

「航平!」

名前を呼ばれてはっとした。にわかに焦りだした俺を、環は起き上がって呼び止める。そんな些細な動作でさえ俺を不安にさせるには十分で。
出来れば、環には学校になんて来て欲しくなかった。
絶対に大丈夫だと言われるまで、環の状態が落ち着いたと太鼓判を押されるまで、どこかに閉じ込めておきたいと本気で願うほどである。

「大丈夫だって。大したことない 」

環の視線が、まっすぐに俺を捉える。長い睫毛が光を弾いていた。
環のことを言えないくらい、俺が寂しがりやなことを、環はきっと知らない。
背中にくっついてくれるから、俺は環の居場所を確認できるのだ。

「ヘンな顔するなよ、具合悪かったら休むから」

ほっそりと伸びた指先が、俺の首に触れる。頬までのぼって、仕返しだとつままれる。
冷たい指。
環の心臓は、ちゃんと指先まで血を送っているのだろうか。
冷たいと感じるこの瞬間、環の指は俺の体温を奪っている。
指が離れる。
たまき、と名前を呼ぶ。
うん、と返事が返ってくる。
名前が呼ばれる。

END