雑談

「西沢ぁー、どっか寄って帰る?」

チャイムが鳴り響いて間もない頃、薄い鞄を肩にかけた友達にそう声を掛けられた。

「んー、今日はいいや。直帰してゲームしたい」

昨夜使用し、そのままの状態で残っているゲームの山を思い浮かべながらそう答える。

「そっか。じゃ、また明日」
「またあした~」

ひらひらと手を振る。
目線だけで彼等を見送り、何となく入り口に目をやった時、

「・・・あれ、」

そこに立っていたのは和泉だった。

和泉が一人でこっちのクラスに来た事なんて、今まで無かった。
というか、そもそも来た事があったっけ。

「和泉っ」

無意識のうちに声に出していた。
驚いた様子の和泉と目が合う。

「どしたの?」

正直、和泉は何を考えているのか分からない。
それでも、どうしてかやたらに興味が引かれるのも事実だった。

和泉は遠慮がちに教室内へ踏み込む。

「・・・橋葉を、捜していて」

騒がしい教室では、和泉の声は聞き取り辛い。

「橋葉?橋葉なら、生徒会じゃないのー?」
「生徒会?」

無表情とも取れた和泉の顔に、ぴくりと感情の刺激が滲んだ。

「え、和泉知らなかったの?橋葉生徒会役員だよ。今朝、集まるようにーみたいな放送流れてたじゃん」
「・・・生徒会なんて、あったんだ」

真顔でそんな事を言うから、思わず吹き出してしまった。

「ええ?うそ、マジで?ああでも、あれか、うちの生徒会超小規模だからね」
「?どうして、」
「どうしてって言われても・・・選挙とかしないし、そこまで目立った活動もしないしね」
「・・・意外」
「あは、僕もそれ思ってたよ!・・・あ、和泉椅子座ったら?隣の奴もう帰ったし」

そう言いながら椅子を引き、和泉を促す。
和泉は一瞬躊躇ったが、そのまま腰を下ろした。

不思議な事に、そこで初めて和泉とコミュニケーションを取れた気がしたのだ。

目線の高さが同じになった和泉は、落ち着かない様子で浅く腰掛けている。

「アホみたいに大きな学校なのにね、驚くよ、生徒会役員は、何と5人!」

「ご、・・・っ!?」

さすがの和泉も、驚きを隠しきれない様子だった。

「ほんとほんと。驚くよね~。選挙とかもしないの。ボランティアみたいなもんだよね」
「・・・選挙も、しないの」
「うん。みんな忙しいからね~。学年末とかそれどころじゃないし。でも更に驚いた事に会長は役員の指名権持ってるから、指名された人は半強制的にやんなきゃなんないの。あ、橋葉とかまさにそのパターン」

相槌の代わりに、和泉はぱちぱちと瞬きをした。

長い睫毛が頬に落とす影に見入ってしまった。

同じ男とは思えない程綺麗な顔。

「橋葉とあと一人・・・誰だったかな、忘れちゃったけど、・・・が、指名されて、あと会長とボランティア二名で成り立ってるんだよ」
「へえ・・・」
「だから万年人手不足らしいよ。橋葉に聞けばもっと詳しく聞けるよ」

和泉はふと首を傾げた。
ぼんやりとした様子で、同じ事を誰か別な人にされたら少なからず不愉快だろうに、和泉相手にそんな感情は生まれなかった。

「和泉、大丈夫?」

あの噂を思い出して、つい聞いてしまった。

「なにが?」

時間がゆっくり流れている。

「はは、なんでもなーい」

沈黙が訪れたのを契機に、和泉は「じゃあ・・・」と言って、席を立った。

「じゃあね、ばいばい」

手を振る。

「・・・うん」

手を振り返しては貰えなかった。

和泉は教室の外へ消えた。

「帰るかぁー」

大きく伸びをして見た窓の外、飛行機雲が定規で引いたような軌跡を残していた。

>>雑談:END

それは、恋

ここ数日、どことなく空気がおかしい。
具体的に指摘出来るほど顕著なものでは無かったが、明らかにどこか浮ついていた。
それでいて浮き出てくるものをなんとか抑え付けている、そんな不自然さも漂っていた。

実害は無かったし、大して気にも留めてなかった。
だから、西沢から話を振られるまで、全く気が付かなかったのだ。

「ね、和泉大丈夫なの?」

そんな事を突然聞かれた昼休み。

「大丈夫、って?」

当然何の話か見当も付かず、そう聞き返した。

西沢は眉を潜め、それから周りを見渡した。
手には昼食後にも関わらず菓子パンが握られている。

「・・・知らないの?」
「・・・何を?」

そんな風に勿体ぶられたら興味が湧く。
和泉に関する話だったというのも、言うまでも無く原因の一つだった。

「・・・和泉が目ぇ付けられたって話」
「は!?」
「しーっ、声大きい!」

西沢は慌てて持っていた菓子パンで俺の口を塞いだ。

「うちのクラスじゃ、凄い噂になってるよ」

「・・・目を付けられたって、誰に?」

様々な予想を思い浮かべ、結果首を捻るしか無かった。
和泉が上級生とトラブルを起こしている姿なんて、どうにも想像に難い。

「柴田だよ。・・・心当たりある?」

「柴田・・・」

心当たり、と言われて、思い当たる節は一つしかない。

「その顔、あるんだね」

西沢はパンを頬張りながらも、真面目くさった表情で推察した。

柴田、といえば、以前廊下で倒れた和泉に暴力を振るおうとした奴だ。
その時の話をすると、西沢は合点が言ったように大きく頷いた。

「それだよ!それ。柴田の話知ってるでしょ?理由には十分だよ。あいつのプライドの高さといったらエベレストもびっくりなんだから」
「・・・声、大きいけど」
「・・・あ、」

柴田慶斗。
大手商社社長の一人息子で、いわゆる我が儘坊ちゃん。
プライドの高さは折り紙つきだ。
しかも厄介なことに、この学校柄仕方の無い事だが、親の仕事繋がりの取り巻きも少なくない。
子は親を見て育つ。
将来大事なビジネスパートナーないしは雇い主になる相手なのだから、それも仕方のない事だった。

「・・・なるほどね~・・・。ちょっと予想外だったよ。全然気が付かなかった」
「まー確かに橋葉の居る前で和泉に嫌がらせは出来ないよね。橋葉に睨まれる方がおっかないもん」
「なにそれ?・・・とにかく、その噂について教えて」

西沢は残りのパンを口に詰め込んだ。
声を一層潜め、そして続ける。

「なんかね、ちょっと前から色んなところで悪口はいってたみたいだよ。孤立させたかったのか知らないけど、でもさあ、和泉ってそもそも孤立するだけのコミュニティーが無いじゃん?だから鬱憤が溜まったみたいで・・・。この前すれ違いざまに和泉にぶつかってるの見たんだ。・・・あれ、絶対わざと!」

人を悪く言うことの少ない西沢が、ここまで腹立たしげに評するとは。

「その時、和泉は?」

「思いっきりふらついて、廊下の壁に激突」

思わず眉を顰めた。

体当たりを受けた和泉の姿を想像してしまったからだ。

でもね、と西沢は続ける。

「和泉も・・・ちょっと変だった。ぶつかってきた柴田を気にもしてないっていうか。びびってるとかじゃなくて、ああ、何かにぶつかったな、程度にしか捉えてないみたいだった」
「・・・」
「実際、ちらっとも柴田を見なかったよ。明らかにわざと体当たりされたのに、そのまま歩いていったし」

「・・・柴田としたら、おもしろくないだろうな」
「そう思う」

和泉は他人に対する興味が極端に希薄だ。

閉ざされたその向こう側が余りに遠くもどかしい程に。

(・・・というか、)

「西沢、和泉と仲直りしたの?」

え?という顔をされた。

「いや、仲直りとかそういうレベルでも無いけど・・・何か・・・微妙な空気になってただろ」

「ああ!あー、うん、あれか!あれは・・・もう、大丈夫」

西沢は、意味無く指先を弄る。

「何考えてるか分かんなくて・・・ちょと苦手だったんだけど・・・」

和泉は、

「この前廊下で会ってさー、この前ごめんって、和泉が言ってきたんだ」

「和泉が?」

「うん。その時なんてもうその事忘れてたんだけどさ。なんかほんとーに可愛いね!和泉って!」

俺が居なくても過ごしているじゃないか。

(・・・何となく、俺が守ってやらなきゃ、とか、思ってた・・・)

「あは、そうだね」

知らない和泉を、西沢は知っている。
そう思っただけで、頭が割れそうな程痛んだ。

>>それは、恋:END

ache

「…このとき、この式は関数ととれるから、…」

コツコツと音を立てて板書が進む。
それを写そうと筆記具を握るも、ぐるぐるとした不快感に集中力を削がれてしまった。

授業が始まった時から、何となく気分が悪かった。
喉の詰まるような不快感が吐き気だと気付くのに、そう時間は掛からなかった。

板書の早さに定評のあるこの数学教師は、さっき書いたばかりの文字をおざなりに消して、また新しい文字を並べ始めてしまった。

早く、写さないと。

何度も生唾を飲み込みながら必死に右手を動かす。
時々迫り上がってくる吐き気に、文字が揺れた。

「…じゃあ、教科書の問題を解いてみてくれ。今から5分取る」

静まり返った教室に、鉛筆を走らせる音だけが聞こえる。

教師は神経質そうにタイマーをセットし、教室を回り始めた。

(…吐きそ、…)

もし、我慢できなかったら。
もし、ここで吐いてしまったら。

最悪の事態を想定して、ぞっと血の気が引いた。
胸の辺りを擦り、何とか吐き気を宥めようとするも、大した効果は無かった。

(…橋葉)

隣に座る橋葉の様子を横目で伺う。
真剣な面持ちで問題に取り掛かっていた。

迷惑を、掛けたくない。

突如電子音が鳴り響く。
どうやら5分が経過したようだ。

それはあまりにも唐突なそれに、一瞬緊張を緩めてしまった。

「…っ」

食道が押し広げられる独特の感覚に全身が粟立った。
慌てて左手で口元を覆い、右手は無意味に喉を押さえた。

冷房の効いた室内だというのに、嫌な汗が首筋を伝った。

きつく目を閉じて俯く。
授業時間は後少し。
頼むから、収まってくれ――…

「じゃあ、最初から、和泉。」

突然の指名。

ぎょっとして顔を上げると、教員と目が合った。

きっと、この教師はおれが手を動かしていない所をしっかり見ていたのだろう。
寝ている生徒、内職している生徒を好んで指名する、嫌な所のある人だった。

胃の辺りから喉の際まで、鉛の様な不快感が広がっていた。

こんな状況で、答えられる訳がなかった。
問題だって、一問も解けていない。

いつまで経っても口を開かないおれに苛立ったのか、教師に訝しげな調子で名前が呼ばれた。

「口頭でいいから答えなさい」

言葉を発したら、そのままもどしてしまいそうだ。

「…わかり、ません…」

そう呟くだけで精一杯。

正面を向く事が出来なくて、俯いたまま自分の膝に向かってそう言った。

そして教師が何か言葉を発する前に、チャイムが響いた。

「じゃあ、解散。次回までに次の演習もやっておくように」

そう不満そうに教師が告げ、皆が音を立てて席を立つのと同時に教室を抜け出した。

廊下は人で溢れていた。
ざわめく話し声や笑い声が、どこか遠くの方で響いているように聞こえた。

人の流れに逆らって、真っ直ぐ階段を目指す。

さっき、
座っていることも辛かった。

保健室に行って、少しだけ、横にならせて貰おう。

吐き気はあるが、じっとしていれば、そのうちに収まるかもしれない。
吐かずに済むなら、その方が何倍も楽だった。

ふらつく足取りで何とか一階にたどり着き、目の前の引き戸をノックする。

その途中も吐き気は断続的に込み上げ、喉の奥には酸の苦さがこびり付いた。

「はい、どうしましたか…、って、和泉君!」

中から出てきた南条先生に、慌てた様子で肩を掴まれた。

「酷い顔色です。奥のベッド、空いてますから」
「…」

背中を柔らかく押されて、そのままベッドに潜り込む。

入室記録を書く必要があると分かっていたが、中途半端な体勢で居るのがこの上なく辛く、柔らかな枕に顔を埋めた。

「吐きそうですか?」

腰を屈めた南条先生に覗き込まれ、首を振った。
その表情が心配している時のそれで、申し訳なさが滲んだ。

これ以上誰かに迷惑を掛けたくない。
頭の中で、何度も謝罪の言葉を繋ぐ。

胃が、内容物を押し出そうと蠢いているのを感じた。

「…っく、」

胃液がすぐそこまで逆流してきて、反射的に嚥下した。
息を止めて、何とかやり過そうと必死に祈る。
喉が、食道が、ひりひりと痛んだ。

布団の中で、身体を丸める。

横で洗面器やビニール袋が用意される音を聞きながら、吐きたくない、と、恐怖にも近い感情が湧き上がっていた。

気付いたのは、和泉が数学教師に指名された時。

単純な計算問題で、和泉が解けていない訳が無いのに、和泉は無言だった。

それが気になって視線を動かすと、そこには驚く程青い顔をした和泉。

机の所為で教師は気付いて居ないだろうが、和泉の左手はシャツをぐしゃぐしゃに掴んでいた。

明らかに具合の悪そうな和泉は、それでも懸命に教科書を目で追う。
吐き気が込み上げて来るのか、時々眉間に皺を寄せ、目をきつく閉じる。

「口頭でもいいから答えなさい」

教師は苛立ちを隠そうともせず言い放つ。

「…わかり、ません」

それに対し和泉は辛そうに姿勢を崩し、搾り出した様な細い声で応じた。

チャイムが響くのは同時だった。

解散の合図と同時に和泉は席を立ち、足早に教室を出て行ってしまった。

(一言くらい、俺を頼ってくれてもいいのに…)

憮然とした思いが横切ったが、やはり和泉が心配で、その後を追った。

「橋葉!」

が、しかし、廊下に出た所で呼び止められる。

無視してしまおうかとも思ったが、向かってきた相手は先輩で、同じ生徒会役員――しかも会長――だった。

「どうしましたか?」

和泉を見失ってしまう事への焦燥感を感じながら、書類のファイルを抱えた先輩と対峙する。

「それがさ、例の合同体育祭の件なんだけど、相手校が送ってきたデータをプリントした書類がまとめて無いんだ。橋葉何か知らない?」
「ああ、それだったら体育顧問の折田先生が。教員用の原本にするから、生徒会用のはUSBからもう一度プリントアウトしてくれって。…報告が送れて申し訳ありません」

先輩は気にする風でもなく相槌を打った。

「あっ、そうだったんだ。あー良かった、無くなったんじゃなくて。でも困ったな、そういう連絡は俺にしてくれないと…」

軽く言葉を交わし、挨拶をして別れる頃にはチャイムの鳴る2分前。
和泉を追いかけるのは諦めた。

もしかしたら、次の時間には戻ってきているかもしれない。

そんな期待もしていたが、けれど和泉が姿を見せる事は無かった。

心配ばかりが募って、次の授業はやたらと長く感じられた。

終了の号令と同時に、小走りで保健室へ向かった。

ノックもそこそこに保健室のドアを開けた。

「橋葉くん、」

はっとした様な声で南条は俺を呼んだ。
手には清涼飲料のペットボトル。

カーテンの閉まったベッドが目に映った。

南条の声のトーンが抑えられていて、反射的にそれに倣う。

「和泉は?」
「さっきまで何度かもどしていたんですけど、今ようやく落ち着いたみたいで、眠っています」
「…何度か?」

そんなに具合が悪いなら、どうして、

「洗面器や、袋も用意しているんですけど、どうしても抵抗あるみたいで、そのつど起きてトイレに向かうんです。脱水症状も起こしかけてて、ふらふらな状態なのに。…だから、きっとまた直ぐに目を覚ましてしまうのではないかと思うのですが…」

南条の読みは正しかった。

カーテンの奥から、押し殺す様に咳き込む音が聞こえたからだ。

南条はペットボトルを机の上に放り、カーテンへ向かう。

それよりも先に、弾かれた様に和泉の所へ動いていた。

「和泉、大丈夫?」

和泉は涙で虚ろな目を俺を捉え、一瞬表情が動く。

「は、…し、っ…。何で、」

と、和泉がえずき、身を捩じらせた。

左手をしっかりと口元に宛がったまま、和泉はベッドを降りようとする。

「和泉、洗面器あるから、ここに吐いちゃいなよ。ね?」

そう言いながらベッドの横に置かれた洗面器に手を伸ばすも、和泉は首を横に振って抵抗した。

何度もえずいて、喉の奥から濁った音まで聞こえたが、和泉は懸命に耐えている。

その様子があまりにも苦しそうで、結果的に和泉の意思を無視することになってしまった。
もっともベッドから出しても、この様子でトイレまで歩いていけるとは思えない。

洗面器を顔の下に来る様に置き、背中を上下に擦った。

「んっ…やっ、やだ、嫌…」

吐き気の波が襲ってきたのだろう。
がくりと状態を傾かせた和泉は、けれど尚も吐かなかった。
震えるまでに歯を食いしばって、身体を強張らせている。

見ているこっちが苦しい。

見かねた南条がすっと反対側に回り込み、和泉の腹部を押すように擦った。

下から上へまるで吐き気を助長するかのように。

吐きそうな時にそんな事をされたら、もう抗う術はない。

背中を俺、腹部を南条に擦られ、あっさりと和泉は決壊した。

「げほっ、…う、ぇっ、ううっ」

ばたばたと静かに胃液まみれの吐瀉物を吐き出して、それから盛大に咳き込んだ。

「げほ、ぅ、ゲホッゲホッ、ううっ…げほ、っ、ゲホ」

吐いて、咳き込むの繰り返し。

「和泉…」

和泉は苦しげに息をし、涙が頬を伝っていた。

睫毛に絡んだ涙は瞬きの度にぱたりと落ちる。

こんなに苦しいなら、俺が変われたらいいのに。

心の底から、痛いくらいにそう思った。

>>ache:END

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南条の調べ物

*

湿度未だ高く、じっとりと不快に汗ばむ気候の中、南条は休日返上で働いていた。

「正確な個人情報の徹底管理」という大義名分の下、恋人の為――正しくは恋人の親友の為、である。

今までに手に入れた情報をノートに箇条書きにし、それを繋げていく。
こういう時、即ち脳内を整理したい時、パソコンで打ち込むよりも自分の手で実際に書いた方が向いているのは言うまでも無い。

昨日、南条は元同僚に電話をかけていた。

その元同僚である坂本が、和泉の通っていた中学校に勤めていると知ったからだ。

―――――――――――――――

『もしもし』

相手が出るまで、8コールも待った。

「南条です。お久しぶりです」

名乗ると、受話器の向こうでえっと息を飲むのが聞こえた。

『南条!?うわーお前元気か?ディスプレイに表示されてさ、まさかと思ったんだけど。すっごい久しぶりだなー』

「お陰様で。坂本は?元気にやっていますか」

『相変わらずな。・・・って、何か用事があるんだろ?お前の事だから、無駄話する為に電話なんか掛けないだろうし』

幸喜の友人が橋葉くんだというなら、自分にとってはこの坂本かもしれない。
そんな事を考える自分が可笑しくて、ふと笑っていた。

「助かります。・・・実は、そちらの学校の生徒に関する話なのですが」

『生徒に?いいけど、お前今高校教員だろ?知ってるだろうが、うちは中学校だぞ』

「ええ。正しくは、そこの生徒だった人と、当時の教員なんですが」

『?何か回りくどいな。ストレートに言えよ。今俺自宅だし、寂しい事に相変わらず一人身だから』

「・・・そちらの学校に、2年前まで、和泉直矢という生徒が通っていませんでしたか?」

『2年前?うわ、俺その時居ねえじゃん。赴任されたの、去年からなんだよ』

公立は移勤多くて・・・と呟く坂本に、やっぱりな、という気持ちで溜息を吐いた。

毎年学校に送られてくる近隣校の学校向け案内で、坂本の名前を見かけた。
けれどそれは今年の冊子だけで、それ以前の冊子には載っていなかった。

「ちょっと待ってろ、過去の生徒名簿、貰ってたはずだから」

続けて、ガタガタと物を引っくり返す尋常で無い音が聞こえた。

「さ、坂本?わざわざ探して貰わなくても、他の誰かに・・・」

慌ててそう告げると、軽い笑い声が鼓膜を揺すった。

『でも、お前は俺を頼ったんだろ?お前に頼られるなんて今後ないだろうから、ちょっと満喫させてよ』

「ありがとうございます・・・。お言葉に、甘えます」

『ははっ。これ、昔の知り合いに自慢できるな。・・・あっ、あった!あった!』

「・・・どうです?」

『和泉直矢、だろ・・・?3年2組・・・その前は2年1組?』

「すいません、そこまでは・・・。でも、見つかったんですね」

『この生徒がどうかしたのか?何か、問題児には、見えないけど』

「今、うちの生徒なんです。・・・ちょっと、気になる事があって。今度お話します」

『ああ、別に、いいよ。気になるけど、無理には』

「・・・」

『・・・さっき、生徒だった人と当時の教員の事が知りたいって言ってたよな?残ってる教員の事ってのは?』

ありがとうございます、と心の中で感謝を述べる。

「その彼・・・和泉くんが学校に通っていた時に居た先生って、今も居ますか?」

『2年前から勤めてる先生だろ?うーん・・・今直ぐには分からないな。後でメールするよ、分かったら。アドレス変わった?』

「いいえ、以前のままです。それで、もし見つかったら私とコンタクト取らせて貰えませんか」

『勿論!そのつもりで話してたよ。・・・じゃあ、また』

「はい。宜しくお願いします」

坂本から連絡があったのは、その二日後だった。

携帯が震えたのは保健室で書類整理をしている時。

メールによると、どうやら、当然といったら当然だが、二年前から勤めている教員なんてたくさんいたそうだ。
その中に、和泉の担任をしたことのある教員の連絡先を知っている人がいた。
なんと坂本はその教員と連絡を繋いでくれただけでなく、実際に会う約束まで取り付けてくれたのだ。

本当に、気の利く奴。

約束は今日の夜8時に、この保健室で。

わざわざ出向いて貰うつもりなど皆無だったので、場所を指定されたときは驚いた。
中間地点を選びましょうと思わず電話を掛けた程だったが、何やら向こうには負い目があるようで、頑として引かなかった。

正直、来て貰えるに越した事はない。

「では、お待ちしています」と、早々に引き下がった。

外はもう暗い。

備え付けのケトルでお湯を沸かし、来客を待つ。

黙認されて居るとはいえ、そしてたかが保健室一室とはいえ、校舎を私用で使うのはやはり気が引ける。

時刻は7時55分。

車のライトが見えた。

「あの、初めまして。長谷川です」

開口一番、彼はそう言った。
スポーツ刈りの頭の所為かひどく若く見えるが、恐らくさほど年齢は変わらないだろう。

「初めまして。お電話させて頂いた南条です。…どうぞ、お掛けになってください」
保健室備え付けの白い木製椅子を指すと、長谷川は恐縮仕切った様子で腰を下ろした。

「応接室とかでなくて申し訳ありません。それに、わざわざお越し頂いて…」
「そんな!とんでもないです。どうせ帰り道ですから」

「これ、良かったら。インスタントですけど」

事務室から持ち出した来客用のティーカップにコーヒーを淹れ、ミルクと砂糖を添えて長谷川に差し出す。

どうしてか、長谷川は益々身を縮めた。

この様子からして早く本題を切り出した方が良さそうだ。

「もうご存知とは思いますが、今日伺いたいのは和泉くんの事です。和泉直矢…覚えていらっしゃいますか」

長谷川はカップに掛けていた手を引っ込めて、何度も頷いた。

「ええ、勿論、覚えています。二年間副任をして、一年は担任もしましたから」

それに…と、彼は続ける。

「彼は、その…色々、ありましたから」
「色々、というと」

間髪入れずに口を挟む。

「例えば、どんな事でしょう」

目を見据えてそう言うと、長谷川は、たまらない、といった風にうなだれた。

「…申し訳ないです。あんなことになったのは…俺の、いえ、私の責任です」

予想とは違った答えだったが、無言で続きを促した。

長谷川は迷っているような素振りを見せる。
依然、無言を貫いた。

「和泉くんが虐めを受けている事は知っていました。何か手を打たなければと思っていた矢先に彼は教室に来なくなって…教室内の雰囲気も改善されたので、そのままに。それに、和泉くんが拒食気味だったことにも気付いていたんです。和泉くんが家族から…暴力を、受けていたことも」

「家族というと、彼の叔父、叔母あと…その息子、でしょうか」

妹尾貴樹の顔を思い浮かべ、それはないな、と、どこかで考えていた。
目の前の長谷川は無言で顎を引いた。

「ところで、先ほど仰っていたあんなこと、…って、具体的には」

長谷川は視線を泳がせる。
きっと彼の頭には、余計な事を零してしまった自責の念が渦巻いていることだろう。
あの…と、長谷川は控え目に切りだした。
「南条さんの話は?何か聞きたい事がある、と伺っているのですが」

長谷川の疑問は的確だった。

聞きたい事がある、と呼ばれているのに、肝心の内容も分からずフリートークを促されたら、誰だってそう思うだろう。

それもそうかと合点し、南条は姿勢を正した。

「聞きたい事は二点です」

先ほど長谷川が零した¨あんなこと¨。
予想が正しければ、推測の限りでは、きっとその概要を、自分は知っている。

「山辺という生徒と、岩林という生徒について教えて頂けますか」

彼らの仲間の話も。
そう付け足すと長谷川は驚いた様に目を見開き、そして溜め息を付いた。

「ご存知なんですね、

あの動画のこと」

直球で確信を突かれたのが予定外で、思わず口を噤んでしまった。
そんな自分を叱咤し、沈黙を生むまいと言葉を繋いだ。

「ええ、偶然」

「…見掛ける度に、削除申請しているんですが…インターネットは難しいですね」

長谷川のうなだれた様子は、諦めという言葉が的確だった。

「…あの映像に映っていた加害者サイドの生徒達で、岩林と呼ばれた生徒以外は、和泉くんの先輩です」

「何となくそんな気がしていました」

「岩林くんは、和泉くんとはクラスが違いましたが、凄く仲の良い友人でした」

「友人?」

「岩林くんも、その…友達は多い方ではありませんでしたから、それだけに直ぐわかりましたよ。和泉くんが教室に来なくなっても、ずっと保健室に通っていたみたいでした」

はあ、と曖昧な返事を返す。

「そんな仲良しな友達をどうして?」

すると長谷川は、一瞬躊躇う視線を見せた。
それには気付かない振りをして、話を促す。

「・・・岩林くんは、山辺くんら上級生から虐めを受けていたんですよ」

苦虫でも噛み潰した様な顔。

「軽犯罪なら幾つも犯しています。和泉くんは同級生から、岩林くんは上級生から、それぞれ酷い扱いを受けていたんです」

「・・・・」

言葉を見つけられないでいると、長谷川は今までの恐縮ぶりは何処へやら、矢継ぎ早に話を進めていった。

「誰が流したのかは今だに分かっていませんが、その時和泉くんの周りにはおかしな噂が立っていました。あの映像でも、ちらっと触れていたでしょう。その噂については、教務室でも話題に上がる程だった。会議の議題ではなく、休憩時間の雑談の格好のネタとして。そんな最低な同僚も少なくなかった。当の本人は知らずに無防備で。・・・俺達当時の教員には、あの事件が起こる事を予測するヒントが沢山あった筈なんです。その後和泉くんの入院を聞いて・・・後悔しない人は居なかった。」

「・・・和泉くんに会いましたか」

会って、謝罪の言葉を述べたのか。
会って、許しを請うたのか。
傍観という重罪を認めたのか。

「会って話を聞きたかったんですけれど・・・彼の親戚の、貴樹?とかいう人に猛抗議されてしまって」

燻っていた苛立ちが頂点に達した。

荒っぽく椅子を引き、長谷川を見下ろす。

「もう結構です。わざわざお越し頂きご迷惑をお掛けしました」

そんな南条の様子を長谷川は飲み込めなかった。
一体何が南条の怒りに触れたのかすら分かっていなかった。

「な、南条さん?一体・・・?」

「自分に責任がある、後悔している、なんて言いながら、結局は臭いものに蓋。あなたは責任を感じても居ないし、後悔もしていない。そうでしょう」

核心を突かれた長谷川は肩を落とし、南条を睨み上げた。
落ち着き払った南条の目に、全て見透かされている気がして気分が悪い。
どうせ見抜かれているなら、と長谷川は開き直った。

「・・・責任は感じていますし、後悔もしていますよ。ただそれに保身を含んでいるのも事実です。南条さん、あなたはそこをおっしゃっているんでしょう」

無言で視線を返した。

「・・・今更、そんな話を持ち出されたから・・・裁判にでも掛けられるんじゃないかと思ったんですよ。あの時、向こうからの要求は無いに等しかったもので。警戒するのも当然ですよ」

ついでだから、と饒舌になった長谷川はこうも続けた。

「恐らくお気づきでしょうがあの映像に出てきた”山辺”という生徒、お宅の前任の校長先生のご子息で間違い無いですよ。年上の悪い集団とも付き合っていて、正直良い噂を聞きませんでした。我関せずとばかりに息子を遠ざけていた山辺さんも、自信に火の粉が飛ぶ危険性を鑑みたら息子の不祥事の後始末までしてしまうんですね。・・・まあ、当時の和泉くんの成績ならどこでも通用出来たでしょうけど、そこはお互いに方向性は違えど甘かった訳ですよね。それでも山辺さんの方が幾分か狡猾だ」

それは長谷川自信の言い訳も孕んだ言葉だった。
長谷川自身、口を動かしている内に本来の目的を失っていた。

南条は、ともすれば眼前の長谷川に掴みかかってしまいそうで、理性の力で必死にそれを堪えていた。

それを察したのだろう。
長谷川は椅子を引き軽く礼をするとそのまま帰り支度を始めた。

帰り際、消え入りそうな声でこう呟いた。

「本当に、申し訳ありませんでした。無駄かもしれませんが、動画サイトの運営者に削除申請をしておいてください」

「・・・言われなくともその予定でいました。加えて、謝罪相手を間違えています」

「はは、本当に、そうだ・・・」

力なく笑い、長谷川は保健室を出て行った。

南条には見送る気など毛頭無かった。

(・・・可愛そうな人だ)

ひどく疲れた。

こんなときは、今すぐに、彼に会いたい。

「・・・もしもし、幸喜ですか」

>>繋げる:END

mailing

和泉からメールが届いた。

『学校に一番近い駅って?』

非常に短い簡潔なそれは、初めて和泉から送られてきたメール。

自分からは昨日、一度送っていた。
和泉が欠席すると知って、今日は来れるのかな、と一通。
もちろんそんなの薄い言い訳で、何でも良いから手にしたアドレスを使ってみたかっただけである。

断言してテクノ依存ではない。

メールも電話も無意味に使ったりはしない。
そもそも殆どが翌日顔を会わせる様な相手なのに、わざわざ小さい画面で繋がる必要性が感じられなかったからだ。

けれど昨日、初めてメールの内容を考えた。
初めて文面を推敲した。

半分覚悟していた通り、返事は無かった。

和泉のことだから・・・と、都合の良い理由を捏ねていただけに、朝机の上で携帯が振動した時には心底驚いた。

表示された名前を見て、図らずして心臓が跳ねた。

その時俺は朝食を食べ終えたばかりで、ぼんやりと雑誌を眺めていた。

携帯のバイブレータの振動音。

液晶画面が『和泉』と表示する。

「!」

慌てて雑誌を閉じる。

急いで携帯を開き、どういう訳かそれは電話だと勝手に判断していて、画面一面に表示されるメールマークのグラフィックに無性に恥ずかしくなった。

『sub.(notitle)』
『>学校に一番近い駅って?』

「・・・和泉、今日学校来るんだ・・・」

無意識のうちにそう呟いていた。

(・・・って、あれ、)

和泉は、確か車で通学していたはず。

駅の事を聞くという事は、もしかして今日は電車に乗って来るのだろうか。
文面から判断するに、電車通学の経験は無いに違いない。
あの時間帯の電車は、通勤中のサラリーマンや通学中の学生でかなり混み合う。
和泉が、そんな状態の電車に、一人で?

国籍、性別さえ疑わしいあの外見も相まって、和泉にはどこか浮世離れした所がある。

丁度いい言い訳を見つけた脳は、考えるより先に指を動かした。

『sub.おはよう』
『へえ~、電車で来るんだ。何時頃のに乗るの?』

数分待って、手の内に振動。

『>8時過ぎ』

「藤ヶ谷だよ・・・と」

学校の最寄駅を打ち込みながら、和泉が乗るであろう電車の当たりを付ける。

和泉の乗る駅を聞けば一番早いのだろうけれど、それを聞き出す切り口が見つからなかった。
一緒に登校してくれと頼まれた訳でも、ましてやそんな話をした事がある訳でもない。

和泉との距離感が掴めなくて、お節介に、煩わしく思われそうで、それ以上用件外の雑談は出来なかった。

そんな風に小心な考えを巡らす一方、頭の片隅では時間の逆算をしていた。

和泉がいつも教室に来るのは8時25分頃。
電車で登校するにしても、恐らくその時間は変えないだろう。
学校から最寄の駅まで徒歩10分近く。
という事は8時15分頃には駅に着いているはずである。
それ位の時刻に到着する電車は・・・

「あーっ、だめだ、無理無理!」

急に恥ずかしさが込み上げてきて、勢い良くベッドに倒れ込んだ。

そんなアバウトな時間帯で和泉の乗る電車が絞り込める訳がない。
まずどの方角から和泉が来るのかさえ、検討もつかないのだから。

(うわー、恥ずかしいっ!何やってんだよ俺・・・)

五十嵐に言われた言葉がじわじわと実感を持って染み出す。

(ああもう、どうかしてる・・・!)

突然、携帯の振動。

驚いてして飛び起きると、和泉からのメールが一件。

『>ありがと』

その四文字を見た瞬間、今日の予定が決まった。

と、ベッドの脇の固定電話が鳴る。
内線専用の、その白い子機に手を伸ばした。

「はい、章です」
「お車の準備が整いましたが・・・」

時計を見ると、普段なら車に乗り込む時間をとっくに回っていた。

「すいません、今行きます。あ、今日は駅までで結構です、と、伝えて貰えませんか」
「は?」

何年も前から雇われている家政婦、民代は怪訝そうな声を上げる。

「今日は電車で登校します」

受話器の向こうで再び疑問の声が聞こえたが、「よろしくおねがいします」と言い切り通話を切った。

別に同じ電車に乗れなくても構わない。
駅で会いさえすれば、もしかしたらそこから一緒に登校できるかもしれない。
学校に行くには必ず駅の東口を抜けるののだから、そこで待っていればいい。

(・・・まるでストーカーだな)

自嘲的にそんな事を考えながら、部屋を後にした。

「・・・凄い人」

通学に使う電車は、予想より遥かに混んでいた。

くたびれたスーツに身を包んだ、疲れた様な顔の人。
それとは対照的な、エネルギー満タンの若者。

様々な制服の学生も入り乱れる。
カラフルな頭に携帯電話。
かと思いきや黒くて眼鏡で参考書といった集団も居る。

(・・・これ、毎日って相当キツいなあ・・・)

既に座席は一杯で、真っ直ぐ立つ事も難しい。

あまりの混雑ぶりに苦笑しながらも、やっとの事で座り、二駅目。

(・・・あ、)

知っている顔なんてもう随分乗ってきただろうに、今までそんな事気にもしていなかった。

――――和泉、だ。

こんな混雑した電車とは無縁そうで、とても似合わない。
駅で会えればいいや、とか、その程度だったのに、まさか同じ電車の、同じ車両に乗れるなんて。
和泉と自分の乗る駅が、それほど離れていないのも驚きだった。

人に紛れて良く見えないが、乗り口すぐの仕切りに寄りかかって俯いている。

不安そうに何度も頭上の路線図を見上げる。

(・・・ってか和泉、こういう所だめそう)

そんな考え通り、和泉の顔色は見るからに悪くなっていった。
電車の揺れに足元を奪われそうだ。
手すりにつかまり何度もふらついているのが見える。

それでも、席を譲りに行くには遠いし・・・などと考えていた時だった。

丁度、下車する一駅前。

和泉は崩れるように倒れ込み、膝をついた。

咄嗟に立ち上がってしまった。

周りに立っている人や、座っている人は、手を貸すでもなくじろじろと和泉を見ている。
その中には、知った顔も少なくない。

「・・・何、こいつ」「おい大丈夫かー」「え、どうするべき」

そんな声まで聞こえてきて、苛立ちが湧く。

「すいません、どいてくださ・・・、和泉!」

人混みを掻き分け、和泉の所へ着く。
壁に手を付け、蹲る和泉。

「は、しば?」

眉間に皺を寄せた和泉の顔がのろのろと俺を視界に捉えた。
顔色は最悪で、目には涙が溜まっている。

「和泉っ、どうしたの?大丈夫・・・じゃないね、立てる?」

「・・・っ」

返事の代わりに、小さな呻き声。
肩を震わせ、口元を手で押さえている所を見る限り、相当、まずい。
華奢な指の隙間から、きつく閉じられた唇が覗く。

『次は、藤ヶ谷、藤ヶ谷―。お出口は右側・・・』

停車を知らせる音が鳴り、空気の抜ける音と共にドアが開いた。

外の喧騒が一気に流れ込んでくる。

「とにかく、駅着いたから降りよう?・・・西沢!」

近くに居た西沢に声をかける。
気付かれていないと思っていたのか、驚いた顔で此方を見返した。

「遅れるって、言っといて」

「わ、分かった・・・」

焦った様に、きまり悪そうにそう言う西沢を見て、申し訳ない様な気持ちになる。
後で何とかしとく、と言った村野は具体的に何をどうしたのだろうか。

西沢はいそいそと電車を降りていった。

ふらつきながら前屈みで電車を降りた和泉は、不意に俺の袖を引いた。

「橋、葉・・・ちょっと・・・、」

消え入りそうな掠れた声。

何、と聞き返そうとしたその時、和泉の体から力が抜けた。

糸でも切れたかの様にがくりと体を折った。

「っぅ、ゲホッ、ぇっ・・・」

「和泉っ」

指の隙間から吐瀉物が溢れ、地面に広がる。

同時にその場に膝をつき、激しく咳き込む。

直ぐ脇の自動販売機を使っていた誰かが「うわっ」と声を上げると、それにつられる様に好奇心を孕んだ悲鳴がいくつも聞こえた。

そんな視線から和泉を隠そうと、和泉の後ろに回り背中を擦る。

丸まった背中は、不規則に上下する。

「ゲホッ、・・・ぅ、ぐ、っげほっげほ、げほ」

和泉は汚れていない方の手で咽喉の辺りを押さえ、苦しげに咳き込んだ。

「和泉・・・」

荒い呼吸を繰り返し、何度もえずく。

見てる事しか出来ないなんて、余りにも歯がゆい。

「っは、はあっ、・・・ふ、はぁ、・・・」

徐々に呼吸が落ち着いてきて、和泉の背筋が少し伸びる。
ずっと俯いたままだと目の前の吐瀉物に催すだろうから、できればタオルで顔を覆ってあげたかった。

「あの、大丈夫ですか?」

突如聞こえた声に顔を上げると、誰かが呼んでくれたのか駅員が一名心配そうに此方を窺っていた。

「救護室お貸ししましょうか。ここは片付けておきますから」

「すいません。お願いします」

ぐったりとした和泉の代わりにそう答える。

人の多いホームで休ませるよりも、何倍も良いだろう。

「和泉、立てる?」

こくりと頷く和泉。

「・・・ご、ごめん、橋葉、・・・お、れ」

涙声で、口にするのは謝罪の言葉。

凄く辛いだろうに、そんな最悪な体調で、真っ先に。

和泉の口についていた吐瀉物を、ハンカチで拭ってやる。

「だから、俺は大丈夫だって」

安心させようと微笑んだのに、和泉はより一層泣きそうな顔になった。

駅の救護室。

よほど具合が悪かったらしい和泉は、もう一度戻した。
和泉の薄い背中を擦っていると、見かねた駅員はティッシュペーパーやビニール袋、洗面器等を次々に持ってきてくれた。
「君の友達電車酔い?珍しいね・・・辛そうだけど平気?」と、聞かれた程だ。

「・・・和泉落ち着いた?ほらお茶・・・俺のだけど」

ようやく落ち着いたらしい和泉に和泉に、わざと軽くそう言ってやる。

「口んなか気持ち悪いでしょ。洗面器あるし、これでゆすいでいいよ」

「えっ、・・・で、も」

「いいのいいの。どうせ俺買おうと思ってたし」

案の定和泉は躊躇ったが、申し訳無さそうに一口含む。

「・・・和泉さ、何で今日は電車だったの?」

非難に感じたのか、和泉は肩を強張らせ俯いてしまった。
慌てて付け足す。

「や、そうじゃなくて、・・・珍しいな、と思って。駅も知らない位だから、初めてでしょ」

一瞬顔を上げ、目が合うも、直ぐに伏せてしまう。
そのまま、ぽつりと呟く様に話し出した。
本当に、自分の事を話したがらない。

「いつも・・・貴樹の車なんだけど・・・。今日は休めって、言われてて」

「休めって、貴樹さんに?」

微かに頷く。

『自我とか無いのか、こいつ』

俺が和泉を初めて見たときに抱いた感想だ。

「熱も下がったし、・・・大丈夫かなって、思ったんだけど」

ただでさえ小さい声が、消え入りそうに細くなる。

青白い顔に、驚くほど赤い唇が、俯いているので凄く目立ち、綺麗としか言い様がなかった。

沈黙に、駅員の話し声が聞こえた。

学校か家に電話して、車を出して貰うべきじゃないか。そんな事を話し合っている。

和泉にもそれは聞こえたらしく、はっと顔を上げる。

「橋葉、もう、大丈夫。」

「え!?」

全く大丈夫そうには見えないが、和泉はふらつきながらも立ち上がって、救護室を出ようと行ってしまう。
急に動き出した和泉を、駅員の怪訝そうな視線が追う。

「えーっと、すいません、お世話になりましたっ」

それだけ言って、和泉を追いかけた。

「何、和泉連絡されたく無かったの?」

小走りで追いかけながらそう問いかける。
和泉は走って立ち去った訳では無かったので、直ぐに肩を並べる事ができた。

「・・・帰らないと」

数瞬の後、思い詰めた様な鬼気迫った声が返ってきて、ぎょっとする。

「・・・貴樹の言った事、守らなかった。早く、帰らないと・・・」

「和泉・・・?」

「どうしよう、どうしよう・・・!」

細い指で、髪の毛をぐしゃぐしゃに掴む。

微かに震えている。

ともすればまたしゃがみ込んでしまいそうで、慌ててその腕を掴んだ。

「和泉、落ち着いて!別にどこか怪我した訳じゃないんだし、学校に行こうとした位で怒られたりしないよ」

「違、・・・違う、おれ、・・・っ」

はっと我に返った和泉と目が合う。
不安定に揺れていた瞳が、焦点を定めるのを見て胸を撫で下ろす。

「ごめん、橋葉・・・どうかしてた。・・・でも、帰る」

「・・・体調回復したなら、何も帰ること無いんじゃ・・・。保健室に居ればいいんだし、」

―――未練がましく、和泉を引きとめようとする自分に、嫌気が差した。

ゆるゆると首を振る和泉。

「・・・ごめん、橋葉。あの・・・有難う、ほんとに」

もう一度、ごめんと呟き、和泉はふらふらと歩きだした。

殆ど反射的に、その肩を掴んでいた。

びくりと体を震わせ、振り返る和泉。

「送る」

「え?」

「家まで送る」

もう、どうにでもなれ。

「な、何言って・・・。おれの所為で、凄い遅刻・・・」

「いまさら大して変わんないよ。・・・心配だし、送らせて」

和泉の家がどこにあるのか知りたい。

そんな下心もあった。

空いた車内、冷房の効いた車内。

特に話すことも無くお互い無言で、俺は和泉の後をただ追った。

(・・・強引だった、かな)

和泉の思っている事を探ろうにも、相変わらずの無表情で。

和泉の足が向かった先は、勿論”あの”坂の上の家では無く、ごく普通の、それより数段階か位の高そうな、そんなアパートだった。

立体駐車場付き。

「和泉、何階?」

「・・・5階。あの、本当にごめん。こんな所まで・・・」

「午前中の授業かったるいものばっかだったから、丁度良かった~」

和泉は足元に目を落とす。

その姿は、泣きそうに見えた。

凄く悪い事をしてしまった様に感じて、いたたまれなさを感じた。

そんな空気を押し切って、半歩下がる。

「じゃあ、お大事にね」

「うん」

そう言って手を振ると、和泉も遠慮がちに振り返す。

今は、これだけで十分。

>>mailing:END

ノクターン

直矢が風邪を引いた。

半分、予想していた事だった。

というのも昨夜、帰宅して洗濯機前のカゴを覗くと、絞れる程にずぶ濡れの制服が入っていたからだ。
リビングに行くと、ジャージ姿の直矢がテレビを見ていた。

『直矢?これ、どうしたの』
カゴごと直矢の眼前に掲げる。
『・・・その・・・転んで、』
『転んだ?まさか外で?』
『・・・』

直矢が雨を苦手としているのは知っていた。

(・・・詳しく聞こうにも、話さなそうだしなあ)
『・・・そ、分かったよ。クリーニング出しとくから』

制服が濡れているという事実は変わらない。

話を終わらせようとそう言うと直矢は、お願い、と小さく呟いた。

気付いたのは、翌朝。

いつも通り直矢を起こし、テーブルに朝食を用意する。
ハーブティーを入れたカップを持って行った時だった。

「顔、赤くない?」

え?といった風に顔を上げる直矢。

「そう?」

耐熱性のガラス容器に手をかけ、首を傾げた。

「いや、赤いよ。・・・ちょっと待って」

慌ててキッチンに戻り手を水で流す。
さっきまで紅茶を入れていた手では、何を触っても自分の体温が邪魔になるだろう。

ぺたりと額に手をやると、直矢の熱が流れ込んできた。
水で冷やしたばかりの手、という事を考慮しても、絶対に熱い。

「熱がある」

「うそ」

「嘘じゃないっ。そういえば、昨日あんなに濡れたんだし、考えて見れば当然だよ」

そう言ってもまだ自覚症状が無いのか、自分の手で額や頬ををぺたぺた触る。

「・・・直矢、自分でやっても意味ないでしょう」

「・・・でも、朝いっつもこんな感じだから、よくわかんない」

恐るべし、低血圧。

「分かった。直矢が僕のこと信じないなら、僕だって考えがあるからね」

「えー・・・?」

「確か、この引き出しに仕舞ったはず・・・」

テレビの横に置いてあるクリアケースの引き出しを開け閉めし、探すのは体温計。
絆創膏やガーゼの類と一緒にしておいたはずである。

「あった!・・・ほら、直矢測ってみて」

直矢は不服そうに体温計を受け取る。
改めて見ると、特に目などは、熱がある時特有のそれだった。

測定速度が自慢の体温計は、30秒も掛からず電子音を響かせた。
緩慢な動作で服の中からそれを取り出した直矢は、電子画面を見て眉を潜めた。

「どうだった?」

「・・・さんじゅう、ななど、ごぶ」

決まり悪そうに、その大きな瞳で見上げる直矢。

「学校欠席。一日安静ね」
「うー・・・」
「文句言わないの。病院嫌いが風邪こじらせると大変なんだから、今のうちに治すのが一番なんだってば」

直矢から体温計を受け取り、元の場所へ戻す。
使い終わったら直ぐに片付ける。
これは貴樹の鉄則である。

「直矢?」

俯いていた直矢が、ふと顔を上げ窓の外を見やる。
その表情は曇り、不安そうに外を睨んでいた。

何だろう、と思ったが、直ぐに合点が行く。

(雨が降りそうな天気だもんな・・・)

強張った和泉の肩を優しく叩く。

「そんな顔しないでもだいじょーぶ。仕事位休めるから、ね?」

そう言って微笑むと、ようやく直矢は頷いた。

「熱が上がると困るから、安静にしててね?」

まだ少し不満そうな直矢をベッドに収め、そう言う。
一瞬顔を上げたが、直ぐに肯定の頷きに変わる。

不満を口には出さない。
反抗なんて絶対しない。
言われた通りに、忠実に、確実に。
言い方を変えれば、緩やかな絶対服従。

――――全ては、僕に嫌われないように。

意識されない所に、直矢の一番柔らかい場所に刷り込まれた昔の記憶は、今も尚効果は絶大で。
ふとした拍子にそれを感じると、何だか泣きたくなる。

と同時に湧き上がってくる優越感にも似た感情の名前を僕は知らない。

「大丈夫。ここで本読んでるから。傍に居るから、ね」

大丈夫、とか、好き、とか。
そういった類の言葉を聞いた時の直矢は、それは嬉しそうに笑う。

「ほら、横になる!寝ないと治んないよ」
「・・・子守唄でも歌ってくれたら考える」
「ばーか」
「ふふっやだ、くすぐったい」
「寝る?寝るね?」
「あはっ分かっ、分かった!寝るってば、貴樹っ」

軽い笑い声。
嬉しそうな笑い声。

シンプルな部屋に、ふたつ。

嫌う訳がないのに。

自室から読みかけの文庫本を持ってきて、直矢のベッドに寄りかかった。
床の冷たさを感じながら、時間の流れを見送る。

酷く平和なその時に眩暈がしそうだ。

どれ位の時間が経ったのか、見当もつかない。

何度か寝返りを打っていた直矢から、規則正しい寝息が聞こえてきた。

本を閉じ、顔を向けると、直矢はいつも通りのうつ伏せで眠っていた。

微笑ましくて頬が緩む。

「・・・何も、心配しなくていいからね」

崩れそうだった天気も今は落ち着いている。

雲の隙間から覗く青に感謝の念さえ沸く。

ほら、

直矢が心配することなんて何もない。

幸せになって良い。

主張して良い。

自分を認めて良いんだよ。

静かに呼吸する直矢の頭を軽く撫で、部屋を後にした。

*

直矢の部屋を出た貴樹は、リビングに向かった。

文庫本をテーブルに置き、ノートパソコンを引き寄せる。

持ち帰ってきている仕事を進める為だ。

起動している間、ミネラルウォーターを取りにキッチンへ立つ。

500mlのペットボトル片手に貴樹が目にした物。

光を点滅させる直矢の携帯だった。

直矢の携帯に登録されている番号を、貴樹は全て把握しているつもりでいた。

操作もままならない直矢の代わりに自身で一件一件登録したのだから当然だ。

だからそれ故に、着信、或いはメールの受信を知らせるランプが点滅しているという状況は不可解だった。

登録してある番号は自分を除いて病院などの公共機関のみ。
さらにそれらからの連絡は自分の携帯に来る様になっている。

怪しげな迷惑メールでもない限り、直矢の携帯が自分以外の番号から受信する事はありえないのだ。

どういう事だ。

あの人嫌いの直矢が、人間不信の直矢が、自ら番号の交換など想像に難い。

――――きっと、迷惑メールか、間違い電話だ。

そう言い聞かせても、視界の端にどうしても点滅が映り込む。

罪悪感を引きずりながら、遂に貴樹は手を伸ばした。

まっすぐ、直矢の携帯へ。

『受信メール一件』

待ち受け画面に表示されたそのメッセージに、貴樹は自分の中の何かが閉じるのを感じた。

無意識のうちに親指が動く。

食い入るように画面を見つめた。

『受信BOX』

『メインフォルダ』

『0001 橋葉 章』

――――橋葉?

どこかで聞いた名前。

『sb.和泉?』

『風邪引いたんだって?担任から聞いた。
無理しないで休んでね。
ノート要る様だったら言って

明日は来れる?』

貴樹は、無表情に携帯を閉じた。

ミネラルウォーターを一口飲み、そしてもう一度携帯を開く。

空は不釣合いに晴れてきた。

『削除』

『一件削除』

『受信メール一件 削除しました』

>>ノクターン:END

レイニー

#南条x五十嵐

「先生、これ」

登校時間より一時間以上早く、まだ鍵も開いていない様な校舎。
教員も集まりきっていない時間帯の保健室に、南条と五十嵐は居た。

昨夜から降り止まない雨音を耳に流しながら、五十嵐はA4サイズの茶封筒を取り出した。

「思ったより早かったですね」

そう言いながら中身を取り出し、調査報告書と数枚の写真を交互に見比べる。
待ちきれずに、五十嵐は口を開いた。

「やっぱりあの家・・・学校に提出された住所には、和泉は住んでいませんでした」
「・・・その様ですね」

机の上に二枚の写真を置く。
アパートらしき建物の入り口に入っていく和泉が写っていた。
どちらも、長身の男の背中を追っている。

「このアパートの名義は妹尾貴樹。きっとこの背の高い人ですよね」
「おそらくそうでしょう。見覚えがあります」

暫く無言で調査報告書を読んでいた南条が突如声を上げた。

「あの家の所有者は、妹尾佳宏。・・・この人物と妹尾貴樹の関係って?」
「読んでいくと分かりますが、親子です」
「・・・・幸喜、調査結果を覚えているならそれを教えてください」

読むのが億劫です。南条はそう言って報告書を机に投げ出した。
自分だけが知っている、この南条の我がままぶりが五十嵐は好きだった。

こほん、と咳払い。
じゃあ、とわざとらしい前置きの後、五十嵐は続ける。

「まず、和泉の両親は11年前に他界していました」

南条の眉が微かに動く。

「和泉の母方の兄夫婦に引き取られる事になったのですが・・・それが、あの家です。妹尾佳宏さんの家ですね。どういう訳か、そこの夫婦は現在別居中です。妙な事に、家の所有者である佳宏さんは親戚や友人の家、ホテルを転々としているのに対し、佳宏さんの妻・・・小百合さんは自宅に住んだままです。おまけに精神を病んでいる。二日に一回カウンセリングの先生を自宅に招いています。」

何と言うか、異常だ。
南条に説明しながら、五十嵐はそんな思いに包まれていた。
こんな不自然に不幸なものを、和泉は抱えているのか。

「幸喜達が会ったもう一人の女性が・・・そのカウンセラーだったんですね」
「多分。そして2年ほど前から、和泉は妹尾貴樹さんのアパートで暮らしています。・・・ごめんなさい、正式な依頼じゃないのでこの辺が限界だそうです。」

とんでもない、と南条は顔を上げる。

「いいえ、有難う御座いました。後は自分で何とかなります」

そう言ってにっこりと微笑む南条。
柔和な笑顔の裏には魔物が住んでいる事を五十嵐は知っている。

少し考えるようなそぶりを見せ、そして溜息。

「山辺前校長が私に話した和泉くんの話は全くの嘘だと分かりました。・・・けれど、あの映像で、痣や傷跡が確認できたのも事実ですし、虐待があったとしたら妹尾宅か、あるいは・・・」
「山辺前校長の息子による暴力」
「・・・と考えるのが自然な気がします。警察沙汰になり自身の身が危うくなるのを避ける為、和泉君を推薦として入学させた。・・・歪んでいますが一番自然な気がするのですが・・・」

南条には、まだ何か腑に落ちない所がある様だった。

「というと・・・?」
「・・・この流れだと、妹尾家全体の異様な状態を説明できません。なぜこんなにバラバラなのか・・・」

何条は眉間を揉んだ。
真剣な考え事をするときの南条の癖である。

「・・・まあ、その件は和泉と無関係って線もありますからねえ。そんなに気にしなくても良いんじゃ?学校の情報番的には、正確な住所と大体の家庭環境が分かれば十分なんでしょう」
「私が気になるんです。・・・まあ何にせよ、感謝をお伝え下さい。ここまで分かっていれば、私でも調べようがありますから、気が向いたら取り掛かるとします」

気が向いたらなんて言って、きっと今夜には動き出すんだろうな、と五十嵐はぼんやり考えた。

(・・・そんなに、和泉が気になりますかね・・・)

小さな苛立ちが湧いて来るのを感じていると、突然何条は吹き出した。

「ぷっ、ははっ!幸喜、今、あなた考えている事がそのまま顔に書いてありましたよ!」
「なっ・・・」
「当てて差し上げましょうか」
「いっ、いいです!遠慮しときます!」
「そんな、遠慮しないで。ほーらこっち向いて」
「な、何なんですか、急に・・・」
「心配しなくても、あなたが一番ですよ」

かあっ、と、顔に血が上るのを感じた。

目の前には南条の微笑み。
眩しそうに目が細められている。

この視線に、弱い。

「・・・先生は、ずるい」
「え?誰が、何ですって?」
「何でもありません」

顔を背けると、南条はまた笑った。
それが落ち着くのを待って、五十嵐は言う。

「先生、俺はこれを橋葉にも伝えますからね」
「・・・止めはしません。が、これはあくまで和泉君の話だと言う事を忘れないで。こんな形で人の過去を覗く様な権利も、ましてやそれを誰かに伝える権利も、当然ながら私達にはありません」

沈黙が保健室を包んだ。

南条には、『絶対的な情報管理』という大義名分がある。
けれど、本来ならこんな事、進んですべきではないのだ。

「・・・分かってます」

何が正しいのか。

雨は、一層勢いを増した。

#橋葉x和泉

雨、雨、雨。

昨日から降り出した雨はその勢いを衰えさせる事無くアスファルトを叩いていた。

「でさぁ、昨日の試合で・・・」
いつも完全登校時間ぎりぎりにやって来る和泉の席は、いつも通りまだ空席で。
そこに西沢は腰掛け、なにやらサッカーについて熱く語っている。

橋葉や村野が居る所為か、西沢は自分の教室より先にこの教室に来る。
そして朝のホームルーム直前に、次教室に向かうのだ。

「まじかよ!すげーな、それ」
自分はしないが見るのは好き。そんなサッカー観戦好きの村野がそれに応じる。

「橋葉昨日の試合見てないの?ライブ中継やってたじゃん」
頬杖をついたまま、首を横に振る橋葉。
「スポーツ観戦っておもしろい?次の日のニュースで分かるじゃん、結果」
「えー!なにそれっ」
「うっわあ~これだから橋葉は!つまんねー大人になりそー」
やだやだ、と村野は外人の様に肩をすくめた。

「・・・それにしても、凄い雨だね」
橋葉は窓の外を見やった。
大粒の雨の勢いは衰えを知らない。
風も強い様で、雨粒は窓にまで打ち付けられている。
まだ8時過ぎだと言うのに外は夕方の様に暗かった。

(・・・和泉、早く来ないかなあ)

もういつもなら来ている時間帯。

「俺傘差して来たんだけどさあ、ほら見てよ、これ」

そう言って自分の制服ををつまむ村野。

「傘差した意味ねえっつの」

確かに、濡れたシャツが皮膚に張り付いている。

「濡れた制服って気持ち悪いよね~」

雨に濡れるのは大した事無いが、濡れた服を着続けるのは不快感との戦いだ。

「部活も出来ないし、さいあくなんだけど。早く梅雨明けしろ~!」

そう叫びながら天井を仰いだ西沢は、視界の端に人影を捉えた。

「あっ、和泉!」

和泉、という声を聞いて西沢の視線を追う。

教室の入り口には和泉が立っていた。

いきなり名前を呼ばれたからか、驚いた表情をしている。
西沢と村野に手を振られ、困った様に首をかしげながら、こちらに歩いてきた。

顔色が、酷く悪い。
普段も良いとは言えないが、今は蒼白といった感じ。
さらに近づいてくるに従って、顔色以外も見えてきた。

それを口に出したのは西沢だった。

「和泉どうしたの!?なんでそんな濡れてんの!?」

掴み掛からんばかりの勢いで西沢に近づかれ、和泉はぎょっとした様に背筋を伸ばした。
気圧され、半歩下がる。
「西沢・・・っ」
和泉が怯えている様に見えて、慌てて西沢の襟元を引く。

けれど、そんな西沢の反応も無理は無いほど和泉はずぶ濡れだった。
村野の比では無い。
シャツは完全に肌に張り付いているし、ズボンも濡れて変色している。
髪の毛も、シャワーでも浴びたかの様に水が滴っていた。

机に置かれた鞄も、水を大量に吸っている。

#橋葉x和泉

「和泉・・・?」

声を掛けても反応は無い。

まるで、何も聞こえていないみたいに。

「和泉ってばっ、」

焦れったくて、ぼんやりと立ったままの和泉の腕を掴む。
長袖のシャツにはじっとりと水が染みていた。

「橋・・・、」

はっとして、目が合う。
髪の毛から滴った水滴が、手の甲に落ちた。

その瞳は、不安定に揺れている。

「和泉、どうしたの?・・・大丈夫?」

暫く、視線が交差したままだった。

「・・・ちょっと、転んで・・・。それだけだから、」

それだけな訳が無い。
そう思ったが、追求したところで和泉が話をするとは思ない。
そうなんだ、とだけ呟き、会話を終わらせる。

微妙な沈黙を壊したのは村野。

「いっ、和泉、タオルとか、ある?もし無いなら、無かったら、これ使って」

いつの間にかタオルを用意してきた村上が、薄い緑のスポーツタオルを差し出す。
えっ?と和泉は顔を上げた。

「俺、村野。この学校ではレアなチャリ通だからさ、濡れるかなって思って持ってきてたんだ」

「・・・いいの?」

「俺まだあるし。使って使って」

おずおずと手を伸ばした和泉は、そのタオルを受け取った。
ありがとう、と呟く。
それを聞いた村野の顔が真っ赤になるのを、橋葉は見逃さなかった。

(・・・俺とだけ仲良くなろうって、言ったのになぁ)

ふと我に返って、こんな事を考えている自分に心底驚いた。
『俺とだけ仲良くなろう』と言ったのは自分だが、『皆にも徐々に慣れていけばいい』そう言ったのも自分だ。
何となく自嘲的な気持ちになる。

「じゃあさ、シャツだけでも着替えたほうが良くない?あっ、僕西沢ね。よろしく~」
そう言って無邪気な笑顔。
いきなり複数の人に話し掛けられ、和泉は困惑ぎみだ。

おもむろに指定ジャージを鞄から引っ張り出した西沢は、はいっ、と和泉に手渡す。

「どうせこの雨じゃ部活ないし。気にしないで着て?」

村上のタオルは比較的すんなりと受け取ったのにも関わらず、体操着となると和泉は渋った。

「何?和泉自分の体操着あったりする?」

「そ・・・ゆう訳じゃ無い、けど・・・」

「じゃあ!こんなにびしょびしょじゃ、風邪引いちゃうよ」

どうしてこんなに渋っているのか。
大方遠慮しているのだろうけど、少しくらい甘えても良さそうなのに。

「和泉、借りなよ」

結局、和泉への心配の方が勝った。
この際、誰と話してたって構わない。

「冗談抜きでこんなに濡れてたら、絶対冷えるよ。ここは西沢に甘えて、借りちゃいなって」

「・・・ん、・・・」

渋々、というより恐る恐る、と言った様子で、和泉は体操着を受け取った。
躊躇いながら、袖を通す。

「違うって!」

悪気は無い西沢の大声に、肩をびくりと震わせる和泉。

「濡れたシャツの上から着たら、意味無いじゃん。半袖のも貸すから、そんなの脱いじゃいなよ」

「え、っ」

「女子じゃあるまいし、上くらい此処で着替えたって大丈夫でしょ」

ほらほら、そう言いつつ、西沢は和泉のシャツに手を掛ける。

あっと思った時にはもう遅い。

小さく声をあげ、短く息を吸った和泉は、西沢を突き飛ばしていた。

机と椅子、それに西沢がぶつかる音で、数人の視線が此方に向く。

「・・・はっ、や・・・っ、やだ・・・っ」

ふらりと上体が傾く。

「和泉っ、落ち着いて、」

慌ててそれを支えたが、和泉の呼吸は乱れたままだった。

何かを言いたそうな西沢の顔が上がるのと同時にチャイムが響き、担任が教室に入って来た。

「ほら、席付けー。出席取るぞー」

前方でそんな声がするのに従って、ざわざわと煩かった教室が徐々に静かになる。
椅子を引く音だけが響く中で、ふいっと顔を逸らした西沢は、教室を出て行った。

橋葉と村野は、顔を見合わせる。

「後で何とかしとく」
村野が小さな声でそう言うので、橋葉も和泉には聞こえない様に答えた。
「頼んだよ」

苦しげに息を吐く和泉を何とか席に座らせて、会話は終わった。

#橋葉x和泉

「和泉・・・?」

今日の和泉は、どこかおかしい。

名前を呼ばれてこちらに顔を向けたが、視線は合わず、和泉は俯いたままだった。

「ごめん・・・なさい。おれ、・・・」

両手で膝の上の体操着を握り締める和泉。
その表情は、今にも泣き出しそうなそれで。

「それは、西沢に言ってね。あいつこれ位じゃ怒んないから、大丈夫だよ。・・・シャツ脱がなくても良いから、それ、借りたら?」

ちいさく頷き、西沢の体操着に袖を通す。

村上のタオルで髪の毛を拭く。

――――俺は、何も出来ないし、何も知らない。

和泉はぐったりと背もたれに体重を預けている。

「・・・という訳で、一限は自習となるから、各自必要なものに取り組むように」

そんな担任の声が聞こえ、どこかで歓声が上がる。

「和泉、一限自習だってね」

何とか会話の糸を見つけようと話しかけるも、和泉の反応は無かった。

一限開始のチャイムが響く。

それすらも聞こえないかの様に、和泉はきつく目を閉じた。

#橋葉x和泉

30分は経っただろうか。

黙々と課題を進めていた和泉は手を休め、左肘を机に立て俯いた。

左手を、口元に押し付けている。

「和泉?」

「・・・はし、ば」

掠れた声。
相変わらず顔は真っ白だった。

「気分悪いの?」

顔を覗き込むと、泣いたような目で見返された。
そして和泉はゆるゆると首を振る。

「平気。・・・大丈夫」

大丈夫な訳がない事は、想像に易かった。
その証拠に、再びシャーペンを握る気力も無いのか右手は鳩尾の辺りを押さえている。

「どうせ今自習だし、保健室行ったら?・・・ね?」

首を振り続ける和泉を宥めるようにそう言った。
明らかに体調を崩した和泉は、けれど、頷いてはくれない。

「・・・何なんだろう、ね、大丈夫だから・・・ほんとに、」

自嘲的にそう呟きながら吐き気と闘う和泉があまりに辛そうで、思わず背中を擦っていた。
薄い背中は、背骨の形がはっきりと分かった。

大丈夫、という言葉とは反対に、徐々に体調が悪化していくのが見て取れる。
濡れて冷えた所為もあるのかもしれない。
もう完全に机に突っ伏していて、それでも懸命に呼吸を整えようとする和泉が見ていて痛々しかった。

「なあ、雨凄い事になってるぞ!」

もう一度和泉を説得しようと口を開きかけたその時、どこかでそんな声が上がった。

「本当だ、凄い雨・・・」「電車止まるんじゃねー?」「えー、困るよぉ、それ~」

その声に誘発され、口々に皆が呟く。

「雨粒も、かなり大きくない?」

誰かがそう言い、立ち上がり、窓に近づく。
嵐の日の園児よろしく、はしゃいだ様な彼は窓を開けた。

冷たい、それでいて湿度の高い空気が頬を撫でる。

雨の音が、一層大きく感じられた。

鼻につくオゾンの匂い。

手の平の下、華奢な体が震えるのを感じて我に返る。

(・・・っ!)

ぎょっとした。

驚くほど血の気の失せた和泉ががたがたと震えていた。

「は、・・・っ橋、や、やだ、嫌・・・っ」

「和泉っ!保健室行くよ。お願い、行こう?」

と、急に騒がしくなったこちらに興味が湧いたのか、窓の外に向けられていた視線が一気に刺さった。
相変わらず、規則的な雨音が響いている。

「橋葉、そいつどうしたの?」

空気を読まない投げかけに、頭に血が上るのを感じた。

「具合悪いみたいだから、保健室連れてく」

捨てるようにそう言った。
真っ直ぐ立つのもままならない和泉を引っ張りながら、逃げるように教室を出た。

#橋葉x和泉

「和泉、トイレ行こう?歩ける?」

保健室まで持ちそうに無い。

そう判断して、行き先をトイレに変えた。

細い腕を引くと、抵抗もせずに従う。
背中を丸めて、ふらつきながらついて来る様子からして、いつ吐いてもおかしくない。

何度か一層体を折りえずく。
その度に大きな瞳から涙が伝って、自分が代わってやりたい、と心から思った。

こんなに苦しいなら、いっそ俺が。

こんな風に考えたのは初めてだった。

トイレに入り、真っ白な洋式便器の前に崩れた瞬間、和泉は堪えてきたものを溢れさせた。

咽喉がびくりと跳ね、咳き込みながらも吐瀉物は便器に叩きつけられる。

「っぁ、・・・ぅ、ゲホッゲホッゲホ、はっ、はあっ、・・・っ」

もともと濡れていた髪の毛は、汗で額に張り付いていた。

乱れた呼吸の合間に苦しげな嗚咽。

酸の匂いで催すかもしれない。

そう思って左手を伸ばし、ボタンを押して水を流した。
右手は、和泉の体温をダイレクトに感じている。

水を流している間にも、和泉は再び戻した。

「和泉、全部吐いていいから」

吐き出された胃液が糸を引いて唇を伝う。

やけに赤い唇に、なぜか目が引き寄せられた。

#橋葉x和泉

嘔吐衝動が治まった和泉を、引きずる様に保健室に連れて行った。

和泉は一番奥のベッドに収まり、背を丸めている。

ずぶ濡れだった制服は、カーテンの奥で着替えたらしい。

どうしてそこまでして着替えを拒むのか、全く理解できなかった。

「和泉、お願い」

備え付けの椅子に座り、和泉に話しかける。

緩慢な動作で顔を上げた和泉と、目が合った。

「無理しないで」

「・・・え、っ?」

「何で最初に保健室行こうって言ったとき、頷かなかったの。体調悪いの隠さないで」

お願いだから・・・そう祈るように呟くと、和泉はぽつぽつと口を開いた。

聞き取れない位の小さな声で。

「雨・・・苦手なんだ」

(苦手?・・・雨が?)

それと、これと、どう関係があるのだろう。

その思いを察したのか、和泉は「それで、」と付け足した。

「もし、誰も居なかったら・・・。保健室に誰も、居なかったら、一人で居るの・・・怖くて」

最後のほうは、涙声だった。

「そんなの・・・」

思わず上げてしまった大声に、和泉は驚いて目を見開いた。

涙が一筋零れる。

「居て欲しいなら、俺に、言えばいいんだよ。そうしたら、一人じゃないじゃん。・・・断ったりしないから。絶対」

驚いた顔のまま、和泉は涙をまた一筋流した。

この自己肯定感の低さは、どこから来るんだろう。

どうして、こんな簡単な事が、浮かばないんだろう。

「和泉、泣いてばっかだね。・・・寝てなよ。休んで」

「・・・うん」

また来るから、そう言ってカーテンを抜けた。

そこに居たのは、五十嵐だった。

「五十嵐・・・?なんで此処に?今、授業中・・・」

予想もしていなかった登場に、頭が回らなかった。

ふ、と目をやると、そのさらに向こうに南条が居る。

諦めに近い、何とでもとれる表情で。

「おまえさん、知りたくないのか?」

歩を進めながら、ひそめた声でそう五十嵐は切り出した。

「知りたくないのかって、何の話だ・・・」

「和泉の事だよ!」

「幸喜!」

南条が大きな声を上げた五十嵐を窘めた。
それは、カーテンの奥に、聞かれては困る話と言うこと。

引っかかりを感じる。

(今、呼び捨てに・・・?)

橋葉の引っかかりを他所に、五十嵐は話を進める。

「和泉の話。・・・前に聞いてきたじゃないか」

「・・・それ、五十嵐は、知った、って意味だよな」

どうして。
なぜ、今、その話をを。

「ああ。知った。橋葉がもう一回聞くなら、俺は答える準備ができている」

「それは・・・和泉が知ったら困る様な内容?」

「・・・かもしれない。だから、聞くなら場所を変える」

「それなら、いい」

それは、五十嵐にとって予想外の反応だったらしい。
驚愕が顔一面に滲んでいた。

「どうして」

「和泉が知られたくない事は、知りたくないから」

知る必要も感じない。
納得のいかなそうな五十嵐に、そうきっぱりと言い放った。

そして、次に耳が捉えたのは、冷たい電気の様な言葉だった。

「好きなんだろう、和泉を」

「・・・は?」

「幸・・・っ、五十嵐君」

再び、南条の叱責。

「見てれば分かる。橋葉がこんなに感情を表すのなんて、見た事なかったからね。友達とかじゃ、ないだろ」

長い、沈黙。

「・・・分からない」

その沈黙を壊すのには、相当なエネルギーが必要だった。

「分からないって、」

「でもこれが今の正直な感情だ。・・・こうとしか言い様がない」

はは、と、五十嵐の乾いた笑い声。

「・・・本当に、素直じゃない・・・」

そして、苦笑。

「そんなの、お互い様だろ」

軽く胸を小突くと、倍の力でやり返された。

「はいはい、その辺で、二人とも。私の予想では、8割方この後は喧嘩に発展しますから」

南条が割って入ってきた。

仕方が無い、といった苦笑いだ。

「だって、橋葉が素直じゃないのって。ねえ、先生」

南条にふらりとよりかかる五十嵐。

それを押し返しながら、南条は続けた。

「結果と事実がどうあれ、何ら可笑しい事じゃないですからね」

その表情は、微笑み。

「もっと気の利いた事言えないんですか、先生?」

そしてその微笑は、五十嵐と交錯する。

ああ、と、妙に合点がいった。

「見てれば分かるって、こういう・・・」
「そういうこと」

にっこりと満足そうな五十嵐。

情報通なのも、納得がいく。

雨の音が大きくて助かった。

「そういえば、来週は晴れるそうですよ」

南条の言葉は、保健室の端まで響いた。

>>レイニー:END

白黒

暴力描写あり(苦手な方はご遠慮ください)
#橋葉x和泉

和泉と携帯のアドレスを交換した。

驚いた事に、和泉の携帯に登録されていた番号は僅か7件。
「妹尾貴樹」なる人物と、後は全て病院と思われる6件だった。
加えて和泉は携帯電話の機能を半分も使っていなかった。

「・・・和泉、これじゃあ携帯がかわいそう」
「・・・そう?」

アドレスの登録方法も知らなかった和泉に代わって操作しつつそう非難すると、何ということも無さそうに小首をかしげた。

(狙ってるんじゃないなら、相当悪質だ、これは・・・)

和泉との距離が縮まったように感じられるのは、錯覚では無いだろう。
以前より無防備になった和泉は、いろんな方向に危うしくて。
自分がどれだけ人目を引く容姿をしているのか、絶対に分かっていない。

「ちょっと気になったんだけど、妹尾貴樹って誰?家族ー?」

暫く逡巡して、自分の真っ黒な携帯を閉じるのに被せて、口を開いた。

―――何気ない振りをして尋ねたのを、気付かれていないだろうか。

違和感を感じない方が変だ。
登録している番号7件。
珍しいとは思うが、別にありえない話では無い。
けれど、その内容は?
個人名らしきデータが一件とは、どういう事なんだろうか。

(・・・両親、とか、普通・・・入ってるもんじゃないの)

あの日会った女性・・・妹尾小百合と、この人物が無関係だという可能性は低い。
仮にその二人が夫婦だったとして、なぜ一件分の登録しか無い?
それ以前に、本当の両親は?
五十嵐から、和泉は両親と暮らしていない、と聞いている。
どういう経緯かは知らないが、確実な情報筋を持っている五十嵐の言う事だから、それは恐らく事実だ。
(・・・まさか、)
和泉との最初の会話らしい会話を思い出す。
『両親も親戚も、おれの所為で死んだ』
あの時の和泉はまともな状態じゃなかったから、半信半疑だった。
けれど、確かに、そんな事を、言っていなかったか―――・・・?

「兄。・・・みたいな人」

細い腕が伸びてきて、飾り気のない白い携帯電話を掴んだ。
はっとして我に返る。
勝手な詮索は止めようと、自戒したばかりなのに。

「ごめん、敢えて見るつもりは無かった」
折角近づいた距離がまた広がるのが嫌で、反射的に謝った。

警戒心に火がついたのか、和泉は黙ったまま顔を上げない。
長い睫毛が頬に影を落としているのが、やたらに目立つ。

自分は今、緊張している。
はっきり、それと分かった。

「8番目」

そう言いながら、自分の携帯で和泉の手元の白を軽く小突く。
独特のメタリックな音が沈黙に染みた。

「・・・?」

和泉はまた首を傾げる。

「和泉の携帯の中の、俺のアドレスのナンバー」
意識して笑いかけながら、慎重に言葉を選ぶ。
「いつでも電話して」
大丈夫、俺は敵じゃない。
伝わって欲しい。
(人に限ったら、2人目だけどね)
心の中で、そう付け足す。

「ああ・・・そういうこと」

和泉が、ふわりと微笑んだ。
あまりにも綺麗で、あまりにも儚げで。

もっと笑って欲しい。

窓から差し込む光と、この白い空間に、和泉が溶け込んでしまいそうに感じた。

#南条x五十嵐

完全下校のチャイムが響いてから、2時間後。

完全下校とはいっても名ばかりで、この時間まで残っている生徒はまず居ない。
委員会や、部活といった諸活動も、このチャイムの30分以上前に完全終了させる規則だからだ。

職員会議を終えた南条は、各階の保健室の施錠を確認し、呼んでおいたタクシーに乗り込んだ。
自宅の住所を形式的に伝える。
ほぼ毎日と言っていい程の利用率で、十中八九覚えられているのだろうと思うが、儀式みたいなものだ。

タクシーが夜の雑踏に紛れたのを確認して、マンションの入り口に向かう。
暗証番号を入力し、エントランスへ足を踏み入れた。

ガラス張りのエレベーターに乗り、気だるそうに背を預け、何条は溜息を吐いた。
もう何度目か分からない。
これからの事を考えれば、気が滅入るのも仕方の無いことだった。

最上階。
エレベーターは止まる。

南条はエレベーターを降りて直ぐの自動ドアにカードを翳した。
そうさえすれば後はコンビニやファミレスの入り口と遜色ない。
音も無く開いたドアは同じ速度で閉まっていった。
頭上の小さなランプの点滅。

カードキーを差込み、自室のドアを開ける。
煌々とした橙の照明が、廊下に広がった。
ひょろりとした人影が、目の前に現れる。

「お帰りなさい、先生」

「ええ」

長い夜が始まる。

#南条x五十嵐

「突然メールで呼び出すなんて、珍しい」

そう言いながら、五十嵐はテーブルにコーヒーを置いた。
勝手知ったる恋人の家。
南条のキッチンには、五十嵐のマグカップもある。

『私の家に居てください』
そんな簡潔な文章で呼び出されて2時間。
マンションのセキュリティを抜ける為のカードキーは持っている。

「淹れたてです」
「・・・ありがとうございます」

南条の向かいに腰を下ろす。
五十嵐の手には自分の分のココア。
沈黙の中、湯気が立ち上る。

「本当に、どうしたんです?」
何も話さない何条に、五十嵐は痺れを切らした。
ココアを一口啜り南条を見据える。
南条は溜息を吐き、そして重い口を開いた。

「・・・幸喜、この間・・・、和泉くんの事、聞きましたよね」

予想していなかったワードに、五十嵐は目を瞠った。

「ええ・・・聞きましたけど、」

確かに聞いた。
けれどその時の南条の返事は芳しいものでは無かったはずだ。

「まだ気になってますか」
「勿論」

話が見えない。
和泉がどうしたというのだ。

五十嵐の即答を聞いて、南条はノートパソコンを取り出した。
紺色で薄いそれは、五十嵐の知っているものだった。
南条が学校で、支給される一台の他に、私用で使っているもの。
一緒に選びに行ったものだから、忘れる訳が無い。
しかし自宅にはデスクトップ型のパソコンがある。
怪訝そうな様子の五十嵐に気付いたのか、南条は補足した。

「今から見せたいものが・・・学校で偶然見つけたものだったので。アドレスを記録したり家のものに送るのが億劫で、持ってきました」
南条はパソコンを起動した。
「・・・見せたいものって、」
「約束して下さい」
インターネットのアイコンをダブルクリック。
「絶対に口外禁止です」
「・・・先生との約束は、守ります」

よくできました、と言わんばかりに頷いて、南条は手招きをした。
確かに正面に座っているより並んだ方が見やすいのは当然だ。

(そこで自分は動かないのが、先生なんですよねえ・・・)

内心は苦笑しつつも五十嵐はそれに従い、南条の背後から画面を覗き込んだ。

黒、ピンク、赤。
目がいかれそうなデザインのホームページが表示されていた。
卑猥な画像の点滅広告。

「・・・なんですか、これ」
「盗撮動画投稿サイトです」
「勤務時間中にこんな所サーフィンしていたのなら、軽蔑しますけど・・・いてっ」
「見ないなら良いんです。私は幸喜が知りたいだろうと思って暇を見つけては調べていたのに」
「あっ、あー、分かりました!分かりましたから叩かないで下さいよっ」
「ふふ。まあこれも半ば仕事なので、別に良いんですけど。・・・これ、見てください」

ふざけた南条の様子が変わるのを感じた。
すっ、と、背筋に一本冷たいものが流れる。
これは、緊張だ。

いくつかの操作の後、画面にはひとつの動画のアップローダーが表示された。
南条がマウスを明け渡したので、五十嵐は身を乗り出してそれを動かすことにした。
ロード画面が続いていたので、スクロールさせ、レビューを読む。

『怯えた表情がたまらない』
『男?』
『続編キボンヌ』
『画質最悪。内容本物』

「幸喜、」
南条に肩を叩かれる。
気色悪いコメントの羅列に気を取られて、動画が始まったことに気付かなかった。

恐らく携帯で撮られたものなのだろう。
独特の音の割れた雑音と、粗い画質。

会話の流れから、悪い予想しか出てこなかった。

#南条x五十嵐

数秒間真っ暗なままだった画面が、突如真っ白な天井を映す。
蛍光灯、と認識した時には既に画面は動き、人影を数名捉えていた。

どうやらここはどこかの保健室らしかった。
普段目にしているものより格段に狭いが、保健室なんて結局はどこも同じようなものだ。

ベッドの上には、華奢な人影が一人。
それを押さえ込む様にして、一人はその人影の腕を押さえ、もう一人が覆い被さっていた。

『ホント細っせーなあー!』
そう言った茶髪の男は、突如カメラに視線を向けた。
耳元が光を弾いた所を見ると、大きめのピアスをしているのだろう。
『おい、あの噂本当なんだろーな』

(・・・噂?)

次に聞こえた声は他のものよりも明瞭で大きく、撮影者のものと推測できた。
『こいつが誰とでもヤらせてくれるってやつだろ?』
こいつ、の所で画面に撮影者の手が映り込み、ベッドの上の人影を指す。
『俺が聞いた話だと、先公限定のウリだってやつだけど』
『まーどっちでもよくね?核は変わんねーじゃん』
下品な笑い声が割れた。
画面が揺れる。

『なっ・・・何、それ、』

突如、小さな声が上がった。
抵抗も無くされるがままといった様子だった華奢な人影に動きが見える。
いきなり画面のピントが合わなくなった、と思ったら、ズームのし過ぎだったらしい。
顎と唇が画面一杯に映し出される。
ズームアウトされていき、整った鼻梁、細い首筋が、徐々に露になっていった。
そして、人影全体の顔を映し出す。
肩まである長い髪は乱れ、顔も長い前髪が覆っていたが、その顔には見覚えがあった。

「ちょっ、ちょっとまさか、これ、」

五十嵐は慌てて進む動画を一時停止した。

警戒心で満ちた大きな瞳。
長い睫毛がそれを縁取り、粗い画面の中でもそれは際立った。
五十嵐自身の記憶のそれより髪は長く、今よりも痩せているが、これはまるで――・・・

「和泉、直矢・・・?」

何も言わず、辛そうに南条は頷いた。

「先生?これ、一体どういう・・・?っていうか、いつの、何でこんな・・・」

「彼の、中学生の時の映像です。後で、色々と説明しますから、此処まで見たなら、最後まで見てください」

一呼吸置いて、南条は付け足す。

「・・・あまり、長時間引きずりたいものではありません」

「・・・っ、・・・分かりました」

躊躇いながらも、動画を再生する。
当然ながら、肯定されたからこそ余計に、画面の向こうで恐怖に怯えているのは和泉だった。

『何、それ、・・・そんなの、知らな・・・っあ!』

今までに一言も話していない、和泉を覆っていた一番大柄な金髪が、和泉を突き飛ばした。
あっけなく和泉は後ろに倒れる。

『うるせえ!抵抗すんなって言っただろうが!』

耳障りな大声と共に、何かの破ける音が聞こえたと思ったら、和泉の鎖骨が露になっていた。
和泉の悲鳴が響く。
撮影者の口笛が聞こえた。

『嫌だっ・・・!助けて、っ誰か!助けて!』

折れそうに細い腕で金髪の身体を押しのけ、身を捩って逃げようとする和泉。
上体を勢いづけて起こすも、ふらりと横に倒れ込んだ。
身体を折り、苦しそうに肩で大きく息をしている。
息遣いまでは聞こえて来ないが、それが苦しそうなものだとは想像に易かった。

「和泉・・・具合悪いんじゃ、」

思わず、五十嵐は呟いていた。
おそらくは、と押し殺した南条の応答。

(・・・和泉、逃げてくれ、)

無駄だと分かっていても、この先の想像が幾ら容易でも、そう思わずには居られない。
画面に指を這わせそうになりながら、祈るような気持ちで画面を見つめた。

『なーぁ岩林、お前も見たいだろ?騒ぐなって、お前から言ってやれよ』

(まだ、人が居たのか・・・!)

ピアスの彼がカメラのすぐ脇を見やって言う。
撮影者の左側に、どううやらもう一人、岩林なる人物が居るらしい。

『え・・・っ、あ、の、』

突如話を振られた岩林の声は、震えているようにも聞こえた。
ここで、その他の3人と、岩林との権力関係を知る。
画面の向こうの和泉が、ぱっと顔を上げる。
苦しげに歪んだ顔は、泣きそうに見えた。

『ほら、言えよ』と撮影者。
沈黙が包み込む。

『・・・じ、じっと・・・してて、くれ・・・』

やっと発せられた岩林の語尾は聞き取れない程小さかった。
和泉の顔から、表情が抜け落ちる。

後はもう、酷いものだった。

#南条x五十嵐

和泉のシャツは完全に破られ、乱暴に素肌を撫で回される。
連中のメインはそこではないらしく、シャツは脱がされることもなく和泉の身体に纏わりついていた。

和泉はもう、抵抗のそぶりも見せない。

痛みと不快感から顔を歪めるも、連中に流される和泉は見ていて痛々しいなんてものでは無かった。
ベルトの巻かれたズボンも、膝までにしか下ろされず、一層和泉の自由を奪っていた。

和泉は何度か嘔吐した。

ピアスの男に下を犯されながら、身を捩じらせる。
和泉の咳き込む声が聞こえた。
『っとに、汚ねっ、なあ、おい』
興奮に満ちた声。下卑た笑い声。
大柄な金髪は、まだ呼吸の落ち着かない和泉の顎を掴み、無理やり顔を上げさせた。
苦しげに息を吐く和泉の口に、金髪は自身を捻じ込んだ。
金髪の動きと対になる和泉の呻き声。
もう吐き出すものも残っていないのか、和泉はむせ返った。
苦痛に歪んだ和泉の顔が画面を占めた。
涙の痕。目は真っ赤。
『っ、ゲホッゲホッ、はっ、はあっ、はあっ、』
悲鳴に近い、掠れた和泉の声。
和泉が、壊れてしまうのではないかと思った。
予想というよりも、もっと確実性が感じられる位に、何もかもがぐちゃぐちゃだった。
そして金髪は、ぐったりと投げ出された和泉の腕を、掴んで引き寄せた。

「停止して!」
「!」

南条がマウスを奪うようにして手に取り、動画を止めた。
目を疑う映像にのめり込んでいた五十嵐は、突然上がった南条の声に心底驚いた。

「ここ、見て」

そう言って南条が指したのは、金髪が掴んだ和泉の腕。
二の腕を掴まれている為、肘から下は力なく揺れている所だった。
カメラが和泉に寄っている所為で、細部までよく見える。
五十嵐は南条の言っている事を追おうと、目を凝らす。

数え切れない程の切り傷が、その細い腕にあった。

「・・・!?」
ぎょっとして振り返ると、南条が悲痛そうな面持ちで頷いた。
南条はマウスを操作し、また動画を再生した。
「な・・・っ」
「あと1分です」
「もう十分だ」そう言おうとした五十嵐を遮るように口を開いた南条。
「あと1分で、終わりますから」

画面の中、金髪は和泉を殴った。

和泉は、がくりと上体のバランスを崩し、糸が切れた様に倒れた。
気を失ったのだろう、微塵も動かない。
連中の焦りが画面越しに伝わってきた。

『お、おい、動かねーぞ、こいつ』
とピアス。
『え、まさか、・・・死?』
と撮影者。
『ムービー止めろ!』
と、鬼気迫った金髪。
『っどーすんだよ、山辺っ!』
叫ぶピアス。

そこで、映像は終わった。

生々しい暴力の映像で、張り詰めていた緊張が解ける。

「・・・え!?今、山辺、って?」

まだ冷静さを取り戻していない五十嵐の脳は、聞き覚えのある単語を拾って動揺した。

「あのピアスの彼の視線から判断するとすれば、恐らく”山辺”というのはあの金髪でしょうね」

山辺。
聞き覚えがあるのは当然だった。

「・・・前校長と、同じ苗字・・・」

五十嵐の呟きを肯定するように、南条は頷いた。

#南条x五十嵐

「・・・冷静に、考えましょう」

南条はすっかり冷めたコーヒーを一口啜った。

山辺信太郎前校長。
あと2年で定年と言える年齢だというのに、去年体調不良を理由に突如退職した。
これといって特徴のある人とは言えず、教頭の方が生徒の認知度は高かった。

「でも山辺って・・・これといって珍しい苗字では無いですよね」
南条のパソコンから離れ、元の向かいに腰を下ろした五十嵐が問う。

「・・・実は、和泉君の入学を決めたのが、山辺前校長なんです」
「・・・え?」
「和泉君は、幸喜も良く分かるように中等部からの繰り上がり組みではありません。外部受験生という扱いになるのですが、和泉君は入学試験を受けていません。突然入学手続き用紙をぺらりと持ってきて、推薦入試の枠に追加しといてくれ、と、・・・いわば、不正入学ですね」
「・・・はあ?」

突拍子も無いその事実に、五十嵐はただ唖然とするばかりだった。

南条には養護教諭という役職の他に、全校生徒の情報管理の仕事が与えられている。
全校生徒はおろか、教職員全員分の個人データが、南条に一任されているのだ。
正確な情報を確実に保管し、名簿管理が義務である。

「どういうことか尋ねたんですが、知人の繋がりで、人助けで、と、はぐらかされてしまいました。その時に、和泉君の過去を聞いたんです」
「・・・過去?」
「ええ。その時聞いたのは、両親の虐待を受けて精神バランスを崩していて、親戚の家に住んでいる・・・という事でしたが、この映像を見て、疑わしくなりました」
9割方嘘でしょう、と呟く。
「・・・手首・・・というより腕全体でしたねえ・・・傷跡が」
「気付かなかったかもしれませんが、衣服で隠れていた腹部や背中には、皮下出血、打撲痕が多くありました」

沈黙が支配した。

「・・・その入学手続き用紙も嘘が記入されていたと、この間はっきりしました」
「この間・・・というと、和泉が、早退した・・・?」
「それはきっかけです。あの時迎えに来た青年・・・妹尾貴樹、という名前なのですが、彼の到着があまりに早かった事が引っ掛かりになって」

南条がコーヒーを啜ったのにつられて、五十嵐はココアを飲み干した。

「保健室に設置してある電話、外線着信の通話記録を自動的に録音する設定になっているんです。それで、橋葉くんと妹尾さんの通話を確認したところ、最後に車のエンジン音が入っていたんです。いままさにキーを差し込んで・・・と考えるのが自然な音でした」
「・・・それで?」
「昨日、和泉君が学校に提出した書類に記入されていた住所・・・幸喜と橋葉くんが向かった先ですね・・・に、行ってきたんです。あの家に、ガレージは無かった」
「・・・近所に、月極駐車場とかって・・・」
「通話の様子から考えるに、可能性としては低いです。妹尾さんは、橋葉くんの『ご在宅ですか?』という質問に、『一応まだ自宅です』と答えているんです。”一応”が自宅の駐車場内を差しているのか、アパートやマンションの駐車場をさしているのかは分かりませんが、いずれにしろ、住居と駐車場はセットでなければならない」

唖然として、五十嵐は言葉を発する事が出来なかった。

「前校長の息子が問題を起こして、それの尻拭いか・・・あるいは隠蔽の為に、何かしらの好条件を和泉くんサイドに提示して、和泉くんをこの学校に入学させた・・・と考えるのが、自然な気がしてなりません。危険因子の居所は、明らかなのに越した事はない」

「・・・先生との約束、少しだけ、破ってもいいですか」

「なりません」
南条は鋭く五十嵐を睨んだ。

「・・・橋葉は、無自覚なのか、認めたくないのか分かりませんが、和泉のことが、恐らく好きです。友人を越えて。あの何事にも冷めていた橋葉が、ですよ。橋葉は、俺が唯一100%の信頼を置ける友人です。和泉にだって、橋葉みたいな奴が必要なはずです。先生も言っていたでしょう。・・・これを知らないのは・・・酷すぎる。これを知るべきは、橋葉だ」

和泉には何かある、ということは自明だが、それの中にこんなものが含まれていると、誰が想像出来よう。
和泉が周囲に対して警戒的になるのも無理はない。
心を閉ざすのも無理はない。
だからこそ、何の予備知識もなく、もし橋葉が対応を誤って、二人の関係が取り返しのつかない事になったら。

「先生、お願いします」

「分かりました」

以外にもあっさりと、南条は承諾した。
鋭い視線が和らぐのを感じ、五十嵐は胸を撫で下ろす。

「その代わり、条件があります」
「条件?」

「和泉くんの両親と、住居に関する情報を、早急に集めてください」

にっこり、といつもの微笑み。
五十嵐は肩の力が抜けるのを感じた。

「・・・まさか、最初からそのつもりで?」

「さあ?どうでしょう。・・・あなたのお父さんにやってもらわなくても構いません。事務所の暇な人でも良いんです。皆有能だと存じ上げていますから」

五十嵐の父親は、テレビに出る程の有名な弁護士だ。
事務所の大きさは群を抜いている訳ではないが、顧客数は目を瞠るものがある。
(そもそも事務所の大きさはそんなに重要ではない。)
徹底主義の南条は、疑わしい個人書類の真偽、教職員の不正を確かめる為、何度か利用している。
勿論、五十嵐を通じて。

「・・・うちは探偵でもないですし、興信所になった覚えもありませんけどね」
「いつも助かっていますよ。・・・幸喜とお父さんが仲直りしてくれて本当に良かった」

南条と五十嵐が出会った当初、五十嵐と父親の仲は最悪に険悪だった。
その実父親は年頃の息子との接し方が分かっておらず、五十嵐は第二次反抗期真っ只中だっただけなのだった。
今となっては仲良しも仲良し。
五十嵐の父親は存外結構な親バカで、あの厳つい男が息子の誕生日プレゼントに頭を悩ませてたりする姿は、結構見ものだったりする。

「・・・では宜しくお願いしますね。橋葉くんなら大丈夫でしょう。・・・くれぐれも、和泉くんのことを念頭に置いてください」
「はいはい。父には電話して置きます」

南条は微笑み、パソコンを閉じた。
そして空になったマグカップを、キッチンへ運ぶ。

水を流しながら、南条は背後の五十嵐に問いかけた。

「今日は、泊まっていくでしょう?」

当然!

その意を込めて、五十嵐は南条の首筋に唇を落とした。

>>白黒:END

飛行機雲とユーフォリア

(和泉、居ない・・・?)

響く予鈴を耳に流して、橋葉は教室を見渡す。
今日和泉は朝から登校していて、一度も抜ける事なく授業に出席していた。
そんな日も最近は増えていて、以前は和泉が教室に居る回数をカウントしていたりもしたのだけれど、いつの間にかそれも止めていた。
相変わらず昼休みになるとふらりと出て行ってしまうが、大抵予鈴までには着席していた。

5時間目は生物。
移動教室だ。

既に教室に残っている人数はまばら。
教室の照明も落とされている。

「和泉、いねーの?」

小脇に教材と内職用の課題を抱えながら、村野が声を上げた。

「ああ。・・・机の上に教材あるから、まだ行ってないと思うんだけど」

困ったなー、と呟く村上。

「でも、俺等が遅刻するぜ?和泉は心配だけど・・・すっげ心配だけど、やっぱり何か・・」

村上の意見は的確だった。
もしかしたら、体調を崩して保健室に行っているのかもしれないし。

廊下で倒れ警戒心がピークに達していた和泉に手を弾かれて以来、あれほど和泉と仲良くなってやろうと熱を上げていた村野も、何となく和泉との距離感を掴み損ねたままである。

「じゃあ、軽く探しながら行く事にしようか。来れるなら来るよね」
「うん、うん。そーしようそーしよう」

もう数人しか残っていない教室を出ようとしたその時、クラスメートが小走りで走り寄って来た。
スカートを揺らし、急いだ様子で立ち止まる。

「生物、多目的教室4に変更だって!単元テストやるらしいよ」
「げっ、そーなの?最悪ー!」
「ね。・・・今教室に残ってるので全員かなあ?」

そう独り言の様に言いながら教室に入り、同様の説明をまだ残っている数名に繰り返す。

えー、という叫び声が廊下まで響いた。
「抜き打ちとか、最悪だよな。・・・橋葉?」

妙に真剣な表情を浮かべた橋葉を、訝しそうに村野は見返した。
何か気に掛かる事があったのだろうか。
橋葉は神妙な面持ちで口を開く。

「・・・いや、和泉を、割と真面目に探しながら行かないとって思って」
「!はははっ!そりゃそーだ。普通に生物教室に行くだろーな。そんなマジな顔してるから何事かと思ったよー」
「?・・・そんな面白い事を言ったつもりは無いんだけど」

変に頭の固い橋葉の言動に、村野は笑いが止まらなかった。

実のところ、村野は橋葉の事をスーパーマンなのではないかと密かに思っていた。
頭は良いし運動も出来て、人当たりも良くまず敵を作らない。
本当は毒舌で怖い位に冷静な面もあるのに、猫を被らせればその片鱗も滲ませない。
気の合う友人だけれど、あまりに欠点が無さすぎて、無意識のうちに薄い膜を作っていた。
しかし和泉が絡むと、完全無欠の橋葉も年相応な人間味が感じられる。

ああ、こいつも自分と同じ17歳なんだな、と、妙に安心するのだ。
自分と同じ様に悩んだり、焦ったりする事があるのだな、と。

「にしても、どこ居るんだろ」
歩を進めながら、長い廊下で村野は呟く。
「・・・どこかで倒れてないと良いけど」
「てか、前から思ってたんだけど・・・和泉ってどっか悪いの?」
そりゃ全く健康だなんて思ってないけど、と付け足す村野。
何となく触れてはいけない気がして、今まで村野が直接聞いたことは無かった。
橋葉なら知っている筈。いつか聞こう、いつか聞こうと思っていた。
けれど、その期待は裏切られる。

「さあ・・・何か聞きづらくて。それ以前に、変に詮索して良いものなのか・・・」

ぼんやりと歩いていた所為で、橋葉は角の向こうの人影に気付かなかった。

「わっ」
「っ!」
華奢な人影は橋葉とぶつかり、壁によろめいた。
橋葉は慌てて体勢を整える。
「すいません、気付かなくて・・・って、和泉・・・?」
「・・・橋葉?」
壁に寄り掛かりながら、だるそうに瞳を上げる。

和泉。

安堵が広がる。
「どこに居たの?軽く探したよ~」
何気ないその言葉に、怒られたと思ったのか、和泉は身体を強張らせた。
「・・・ごめ、」
俯いたその顔色は、良いとは言えない。
「・・・大丈夫?」
ちらりと顔を上げて、暫くの沈黙の後小さく頷く。

(・・・それが大丈夫って顔色かよ)

そうは思うものの、和泉の動向を強制する権利も、欠席を勧める義務も、橋葉には無い。
橋葉にもその自覚はあった。

「・・・そう。次の時間多目的4に変更だよ。テストだって!」
「ん、」
「先、行ってるね」
「・・・行く」
「え?」
「出るから、授業」

しっかりと目を見据えて、そう言った。
嬉しくて、頬が緩む。

「じゃあ、待ってる」

そうしてすれ違う。
和泉はふらつく足取りで教室に向かって行った。

「・・・という訳だから、村野。先に行ってて」
「え!?待ってるって、教室でって意味じゃないの?マジで遅刻すっぞ」
「でも、明らかに和泉の様子変だったし」
「あー、あー、そうだよな。俺が居たら和泉話さないよな」
ずるい、と、おどけた視線で睨まれる。
優越感に似た感情が込み上げるのを隠そうともせずに、橋葉は微笑んだ。

弾かれた村野は不満そうに溜息を吐く。

「何かお前等って独特の雰囲気」
「・・・どういう意味?」
「何でもねー。じゃあ、遅刻すんなよ」
「ありがとう」

片手で手を振り、申し訳ないが半ば追いやる様にして村野を見送った。

村野が階段の向こうに消えるのと、和泉が教室から顔を覗かせるのはほぼ同時だった。

「行ったよ、村上は」
「うん」

教材片手に和泉が教室を出てきた。

和泉の人嫌いも大概である。

再び見返して、やっぱり顔色が悪い。
というより、泣きそう、といった感じだ。
普段からあまり表情が無い為にそれが際立つ。

けれど、本人が大丈夫と言っているのに、追求できる訳も無かった。

「あと2分だ。急がないと、ほんとに遅刻する」

返事は返って来ない。
そんな和泉とのやり取りにももう慣れた。

渡り廊下を渡り、特別棟まで来た時だった。
和泉が突然上体を折り、壁に身体を預けた。

「・・・っう」
「和泉っ・・・?」

音を立てて教科書、ノートの類が床に広がる。
和泉はずるずると姿勢を崩し、遂に立って居られなくなったのかぺたりと座り込んでしまった。
右手は壁についているが、左手は腹部を庇うように抱えている。

「・・・腹、痛いの?」
同じように自分も屈んで、和泉の背中を擦る。
俯いた顔を覗くと、前髪の隙間から涙が伝っていた。
和泉は薄い唇を噛みながら、微かに頷く。

「こんな状態じゃ授業なんて無理だよ。南条先生は居ないけど、第3保健室なら近いから・・・とりあえず休もう。床じゃ冷えるよ」

丁度そこで、本鈴が響き渡った。
和泉はびくりと薄い身体を振るわせた。

「・・・ごめん、なさ・・・っ、橋・・・、テスト・・・」
「そんなの気にしてるの、和泉。大丈夫だから、保健室行こう。・・・ね?」
「・・・ん、」

涙声で頷いた和泉を何とか立たせ、引きずる様にして保健室に連れて行き、背を丸めた和泉をベッドに押し込んだ。

一体和泉は何に、ここまで負い目を感じているのだろう。

外は軽やかに晴れている。
飛行機雲が窓から見えた。
その始まりを見ようとして、その眩しさに思わず目を細めた。

和泉の腹痛も少し治まりを見せているらしく、窓の外を見る余裕も生まれていた。

「皆が授業受けてる時間帯に、こうやって・・・切り取られた空を見上げるのってさあ、何か良いね」

一緒になって授業を休ませてしまった事への罪悪感を少しでも減らそうと、そう言って和泉に笑いかけた。
一度位はこんな事をしてみたいと思っていた。
こんな風に有意義な時間の浪費を楽しみたかった。

和泉は布団を口元が見えるか見えないかの所まで上げている。
時々痛みが襲うのか、きつく目を閉じ枕に顔を埋めてしまう。
今も、背中を丸めて小刻みに震えている。

「は・・・、っ」
目に涙を浮かべ、枕から顔を覗かせる和泉。
吐き気があるなら背中を擦るなり吐かせるなり、対処のし様があるのに、腹痛となるともどかしい。

「でもおれは」

突如、和泉が口を開いた。
掠れた声。
一瞬何の話か分からなかった。

「それでも、おれは外を眺めるより、空を眺めるより、普通に・・・教室に行って、・・・授業を受けたい」

「・・・っ」

考えるより先に、「ごめん」と口をいついて出ていた。

「そんな、つもりじゃ無かったんだ」

それすらも、許されない環境居たという事。
一体、どんな経緯で、何があって、和泉は此処に居るんだろう。

「ねえ和泉」
「橋葉」

二人は同時に口を開いた。
驚いて顔を見合わせ、橋葉はどうぞ、と表情で促した。

「・・・どうして、こんな風に、おれに付き合ってくれるの」

目が、合う。
諦め、期待、疑いに希望に、様々な感情が移っていた。
どうやったら、何と返せば、天秤はプラスに傾く?
暫く考えた結果、結局簡単で簡潔な解答となった。

「和泉と、仲良くなりたいから」

ふっ、と和泉は顔を上げた。

「・・・だと思うんだけど。正直分からない。・・・こういうのって、理由とか、はっきりしたもの、要る?」

秒針の音だけが、この白い部屋を支配した。

「和泉ともっと話したい。和泉のことを知りたい。・・・衝動に・・・理由ってあるかな。説明しきれないよ」

これじゃ駄目?と、和泉を見返すと、和泉の目には涙が溜まっていた。
真っ赤な目が自分を捉えていて、思わずに心臓が大きく脈打つ。
横になっている為、右目の涙は既に枕カバーが受け止めている。

徐々に呼吸が乱れる。

「信じるよ・・・?」

しゃくり上げながら、やっと、和泉は声を絞りだした。

「信じて良い?」
「うん」
「信じて、良いの」
「うん」
「・・・信じる、からね、?」
「・・・うん。・・・嬉しい」

何度も肯定を伝えると、堪えきれずに、和泉は小さく嗚咽を零しながら泣いた。
その細い背中を擦りながら、何ともいえない充足感に包まれていた。

「・・・さっき、何を言おうとしたの」

ひとしきり泣いて、まだ呼吸も落ち着かない和泉が尋ねる。
橋葉は無言で首を横に振った

「・・・ううん。なんでもない。もう良いんだ」

なに?という目。
警戒や、不審。そんなマイナスの感情はそこに無い。

和泉のことは気になるけど、それを今求めるのは欲が張りすぎだ。
今、この空気、空間を壊したくない。
今、新しい波を起こしたくない。

ふと窓の外に目をやると、飛行機雲は消えていた。
チャイムが響く。
随分久しぶりに感じられた。

ねえ和泉、
切り取られた四角い空を見上げる、こんな午後も良いでしょう。

>>飛行機雲とユーフォリア:END

カレイドスコープ

「もしもし、父さん?」

引越しが終わって半年が過ぎたある日、貴樹は父親―――佳宏の携帯電話に、電話を掛けていた。

随分長いコール音の後、佳宏はそれに応じた。

『貴樹。どうかしたか?』

「いや、昨日から家に電話掛けてるんだけど、誰も出なくて」

『ああ・・・いや、それは、・・・いや、誰も居ない事は無いと思うんだがなあ』

妙に歯切れの悪い返事に、貴樹は小首を傾げた。

「なに、それ」

『きっと買い物に行ってるとか、そんなんだろう。受話器が上がっているとか』

「じゃあ父さん、今日家に帰ったら確認しといてよ」

『んん・・・ああ、そうだな、・・・何か急ぎの用事でもあるのか?』

「そういう訳じゃないけど。何となく。母さんって携帯持たない主義じゃない、家電に掛けるしか手段が無くって」

『あー、うん、分かった。・・・ところで、どうだ、大学は』

「宜しくね。え?普通に、人並みに楽しんでるよ・・・」

なんて事のない会話を暫くして、通話を切った。

結局その晩、掛けなおした電話が繋がる事は無かった。

けれどその時は丁度課題やバイトで忙しく、あまり気にもしていなかった。

それから暫くしたある日、電話が繋がり、母親―――小百合と会話をしたことで満足してしまった貴樹は、あの時の佳宏に感じた違和感など、とっくに忘れてしまっていた。

多忙な毎日に圧され、貴樹が家に電話を掛けることも無くなってしまった。

この時の違和感をもっと追っていれば、と、その後死ぬほど後悔することになる。

それから一年が経ったある日。

まだ肌寒い3月の頭だった。

大学生活にも慣れ、ようやく生活が落ち着いた貴樹は、久しぶりに実家に帰ってみようかと思い立った。

元々そんなに離れた所に引っ越した訳ではない。

けれど用も無い時に気楽に行き来するのはほんの少し億劫になる距離。

そんな微妙な位置のアパートに暮らす貴樹は、大学に通い初めてからまだ一度も家に帰って居なかった。

通話記録から、父親を呼び出す。

友人とは専らメールで用事を済ます上に、基本的に携帯電話が嫌いな貴樹の通話記録は、殆ど佳宏で埋まっている。

「もしもし?ごめん、まだ仕事中だった?」

『ああ、残業中。まあ構わないさ、どうかしたか?』

「うん。実は今週末家に寄ろうかと思って」

『・・・家に?』

「そう。だからー、遠出とかしないでくれると嬉しいんだ」

とは言ったものの、あの3人で仲良く出掛ける・・・という事はまず無いだろう。

何を隠そう、自分の引越しさえ母親には教えなかった程なのだから。

あの頃小百合が和泉をあまりにも邪険にし、それに関する夫婦喧嘩が絶えなかった。

「勉強に障りがあるだろうから、大学近くの格安物件に引っ越したらどうだ」というのが佳宏の提案。

それを聞いたら小百合が逆上して止めるのは目に見えていたから、「母さんにはお前が引っ越した後にうまく説明をしておくよ」という佳宏の提案に乗ったのだ。

この間小百合と電話で普通な会話をした貴樹は、うまくいったのだと安心しきっていた。

受話器の向こうは沈黙だった。

何か考えている、といった感じ。

「・・・何か予定でもあった?」

『えっ、いや、別に、何もないが・・・。・・・実は、今ちょっと風邪気味で』

「風邪?だったら残業なんて早く切り上げて、帰りなよ」

『ああ、もう帰る所だったんだ・・・まあ、そんな訳だから、今帰ってきてうつしたりしたら大変だから・・・』

「ふうん。・・・じゃあ、また」

翌週。

では今週末ならどうか、と、貴樹は携帯を握っていた。

返ってきたのは、自分の風邪を母さんにうつしてしまった、という佳宏の返事。

「ええ、本当に?参ったな、行く気満々だったのに」

『あー、いや、悪い事をした。うん、また、日を改めてくれ』

通話の切れる音がして、携帯電話は無機質な音を立てる。

佳宏の生返事に、貴樹は釈然としない思いを抱えていた。

何か、おかしい。

そうは思うものの、具体的に何に違和感を感じているのか分からず、結局自分の生活を優先させた。

その二週間後。

佳宏は電話に出ない。

返ってくるのはコール音だけで、得体の知れない不安が、じりじりと上ってくるのを感じた。

「今週末行くからね」

そうメールで送る。

返信があったのは、次の日の夜だった。

その頃には佳宏に対する不信感はピークに達していた。

『風邪が直矢にもうつってしまって。それより、家になんて寄っていて、大学は大丈夫か』

愕然として、貴樹はベッドに携帯を投げつけた。

(そんな偶然があるか!)

何か隠している。何か隠されている。

一体何があったんだ。

時刻は夜の12時を回っていたが、構わずに貴樹は自宅に電話を掛けた。

誰も出ない。

こんな時間だからか。

いや、佳宏の帰りは毎日これ位の時間だった。

(・・・家に、居ない・・・?)

ふと浮かんだ考えを、慌てて振り払う。

そんな馬鹿なことある訳がない。

なら、一体どうしたというのだ。

明らかに嘘を吐いているくせに、それを吐き通す意気地もなくメールで応対し、更にそのくせ父親風を吹かせる佳宏に怒りさえ感じた。

直矢の顔が頭に浮かぶ。

あの家で何か問題が起こったとして、一番被害を受けるのは直矢だ。

今週末、日曜日、家に帰ろう。

貴樹はそう決心していた。

貴樹は、ゆるやかな上り坂を早足で歩いていた。

見慣れていた筈の閑静な住宅街が、やけに新鮮に感じられ、募る不安を助長した。

もう直ぐ昼になる。

もっと早く来ても良かったかもしれない。

ぼんやりとそんな事を考え、それでいてしっかりと歩を進め、坂を登る。

自宅が目に映る。

実に2年ぶりだった。

佳宏が背伸びをして購入した一軒屋は、客観的に見ても大きかった。

久しぶりだからだろうか、こんなに大きかったっけ、と貴樹は内心首を捻った程だ。

(・・・酷い雑草)

よく見ると、雑草が伸びに伸びている。

それらを踏みながら玄関に近づく。

漂ってくる雰囲気は、生活感を感じさせなかった。

自宅である筈なのに、拒絶されているような雰囲気も感じた。

玄関のドアを開く。

不気味なほど静かな空間が、貴樹を待っていた。

スニーカーが一足。

華奢なパンプスが一足。

ふと足元に視線を落とすと、フローリングの床に吐瀉物が広がっていた。

ぎょっとして、なお見渡すと、壁には数箇所の赤い染み。

(・・・まさか、血?)

擦り付けられたようなその赤は、古いものなのか黒に近い。

割れた花瓶。

棚には埃が溜まっている。

一体、何が起きているんだ。

重い空気が纏わり付いて息苦しい。

階段に足を掛ける。

自分でも吃驚するほど速い心臓の鼓動。

初めて通るような錯覚に包まれる。

にわかに湧き出した焦りで、貴樹の手はじっとりと汗ばんでいた。

直矢の部屋のドアは開いていた。

というより、閉まってはいない、といった状態。

恐る恐る、ノブに手を伸ばす。

破裂しそうな不安と緊張で一杯の貴樹の目に飛び込んで来たもの。

「直矢!!!」

貴樹の叫び声は悲鳴に近かった。

直矢は吐瀉物と血液にまみれて蹲るようにして倒れていた。

慌てて駆け寄り肩を揺するも、力なくされるがままだった。

直矢はぐったりと床に身体を預けている。

手首には、目を背けたくなるほどの無数の切り傷。

よく見ると、うなじから背中に掛けては火傷の跡もある。

「・・・きゅ、救急車・・・病院、」

真っ白になった頭を何とか動かし、ジーンズのポケットから携帯を探る。

いつもの癖で佳宏を呼び出してしまった貴樹は、彼への連絡も必要なのだとそこで気付き、しかし急いでブラウザバックし手入力画面へ戻った。

連絡だけでなく、この状態を問い質さないと。

さすがに相手の応答は早かった。

「い・・・従兄弟が、倒れていて、・・・」

この子を守らなければ。

じれったく住所を伝えながら、貴樹の脳内はそんな衝動で満たされていた。

直矢は、僕が守る。

一時は停止した思考回路も、もうはっきりと通常運転を再開していた。

寧ろ数倍の、不釣合いな落ち着きを伴って、静かに傍観した。

通話を終えた携帯電話は無機質な音を響かせ、貴樹の手をすり抜けて床に落ちる。

血の付いたカッターナイフが無造作に転がっていた

直矢の状態は酷いものだった。

何よりも足りないものは栄養。

病院に搬送されて直ぐ、細い両腕には点滴が繋がれた。

繰り返し吐いたのだろうか、食道は胃酸で炎症を起こしていた。

血液も足りていない。

左腕の切り傷も、直視できない程だった。

看護士でさえ、隠すことなく眉間に皺を寄せた。

二の腕にもその傷跡は残っており、左腕は全て包帯で巻かれた。

「意識が戻り次第、右手は固定させていただきますが、宜しいでしょうか?」

看護士の言葉。

それらの傷も酷かったが、貴樹には背中の火傷、腹部の打撲痕、目の周りから足まで至る所にある皮下出血も、貴樹の目に留まった。

直矢自身の不注意による怪我とは考えにくい。

可能性はただひとつ。

その可能性である小百合も、「佳宏は浮気をしていて、その浮気相手が自分を殺しにくる」といった突拍子も無い妄想に取り付かれていて、もうずっとまともな精神状態ではなかったらしい。

佳宏はというと、貴樹が最初に抱いた危惧通り、家には居なかった。

「もう限界だったんだ。小百合のヒステリーを聞いているのが嫌になった。こんな状態になっているなんて、考えもつかなかった
んだ・・・」

職場に乗り込んでいって詰問した貴樹に、佳宏は左手で顔を覆いながら、呻くような声でそう言った。

寝泊りは職場か格安ビジネスホテル。

皮肉な事に、帰宅しなくなってからの佳宏の営業成績は格段に上がり、肩書きも格上げされていた。

毎月必要なだけの生活費を口座に振り込んでいた事からも、小百合の妄想は事実ではないのだと伝わる。

貴樹はうんざりしたような、苛立ったような、失望の眼差しで佳宏を見返した。

「・・・直矢は、僕が引き取るからね。あなた達の所には置いて置けない。施設に預ける事も勧められてるけど、僕が断ります。・・・直矢の前に、もう姿を出さないでください」

佳宏にその提案を断る理由などある訳もなく、項垂れたまま微かに頷いた。

肩が小刻みに震えている。

貴樹は、これが自分の父親なのだ、と妙に覚めた思いでそれを見つめていた。

こうも簡単に、人の関係は変化してしまうのか。

落胆と悲しみが、インクの染みのように広がっていく。

侮蔑の色も混ざっていた。

けれどこれは現実で、父親は弱い人間だった。

それと同じくらい、母親も弱い人間だ。

息子である自分だけ違うとは言い切れる筈がない。

けれど、直矢を引き取るという決断だけはどうやっても揺らぐことはなかった。

小百合には専属の心療内科医を雇い、カウンセリングをさせるということに決まった。

直矢は点滴を打たれながら、微動だにせず横になっている。

まだ意識は戻らない。

目を覚ましたら、全てを変えてあげよう。

全てを変えてあげなくてはならない。

何があったのか、調べなくてはならない。

どんな手段を使っても、絶対に守る。

毎日この白い病室から空を見送って。

直矢が目を覚ましたのは、3日目の夕方だった。

>>カレイドスコープ:END