recall the past 6

2年に進級すると、和泉が教室のドアを開けることは、殆ど無くなっていた。

相変わらず食べたり食べなかったりの食生活。

胃酸でやられてしまったのか、咽喉が常に痛む。

なおも続く叔母の嫌がらせは陰湿なものへと変わった。

時折冷静になる叔母は一人部屋で泣いているが、結局自らの精神バランスを保つ為に和泉は丁度良すぎる存在で。

同級生から受けるいじめはより悪質になった。

原口は上級生との繋がりもあったので、たちどころに和泉の相手は膨れ上がった。

もう誰も、理由なんて覚えていない。

あったのかどうかも定かではない。

あまりに和泉が抵抗しないので、止めるタイミングを失ってしまったのだ。

唯一反応を見れるのは、和泉を暗く狭い所に閉じ込める時。

父親と母親を最後に見たあの場所を彷彿とさせる為、和泉はそんな場所が苦手だった。

苦手、というより、もっと強い恐怖さえ感じる。

数ヶ月前体育館の用具室に閉じ込められた和泉は、副任の長谷川に発見された時、意識を手放していた。

進級したての4月。

和泉の机が原口達によって意地悪く撤去されたのをきっかけに、和泉は教室へ行くのを止めた。

和泉が居ない教室は、あの殺伐とした雰囲気ではないため、教員達も結果的には安堵していた。

とはいえ家に居ることも出来ない。

登校して向かう先は保健室だった。

貧血が一層酷くなり、長時間立っている事も出来なかった。

手首の傷は増え、記憶はますます安定しなくなった。

それなのに意識して何かすることは出来なくて。

傷は深くなるのに、意識は生へ執着している。

具体的にどう生きたいのかは分からないが、じゃあ屋上から身投げできるかと言ったら、それは怖いと思った。

延々と続くパラドックスに、和泉の精神は消耗していった。

そして、友達が出来た。

2-3 岩林洋一。

去年は1-2。

今年は一組になった和泉は、今まで岩林の姿を見たことが無かった。

最も岩林の方は入学式の時から、和泉の事を知っていたのだけれど。

そして、忘れたことも、無かったのだけれど。

その日は朝から快晴。

いつも通り和泉は保健室、最奥のベッドで横になっていた。

血圧が上がりきらず、窓から差し込む光が眩しかった和泉は、両腕で顔を覆っていた。

後頭部が内側から鈍く痛む。

昨日叔母さんから熱湯をかけられ、火傷した部分が痛くて、迂闊に寝返りも打てない。

(今・・・何時だ、っけ)

記憶が安定しなくなってからは、小まめに時計を確認する癖がついた。

壁の時計を見ようと、目を眇めた時だった。

カーテンが開いた。

「「!」」

(誰っ・・・!)

養護教員は無言でカーテンを開けたりしない。

視界に黒い人影が飛び込んできた。

制服を着ている見たことないこの人は誰。

驚いた和泉は飛び起き・・・ようとしたが、強い目眩でそれは叶わず、ふらりとまた横になった。

「・・・ごっ、ごめん、ごめんっ!誰か居るなんて気付かなかったんだ!」

数瞬の沈黙を破ったのは、遠慮がちに焦ったそんな声。

視界を覆った腕を少し動かし、うっすらと目を開く。

目が合った。

「・・・和泉、直矢・・・?」

見覚えの無い相手の、僅かに躊躇った声。

(・・・?)

和泉の眉が怪訝そうにぴくりと動いたのを、彼は肯定と受け取った。

もちろん、彼には100%に近い確信があった。

忘れる訳が無い。

「和泉でしょ。隣の、隣のクラスの、岩林洋一っていうんだ、俺」

嬉しそうに一気にまくし立てる。

丸型の眼鏡に、硬質な癖毛。細長い体型に、青白い肌。

その陰気そうな顔を僅かに高揚させ、岩林は続けた。

(・・・うるさ・・・)

大きい声では無いが、頭に響く。

聞く気が無いのだとアピールする為に、和泉は仰向けだった身を捻って、目線をずらした。

ふ、と、岩林は口をつぐむ。

「・・・あれ」

そして突然岩林の指は、和泉の細い左手首を掴んだ。

「・・・・ひゃっ、」

何の前ぶれも無い接近に、和泉は小さく悲鳴を上げた。

直ぐ目の前には、岩林の顔。

「・・・これ・・・」

岩林は一点を見つめている。

しまった、と思った時には遅かった。

岩林の視界は、既に和泉の傷だらけの腕を捕らえていた。

反射的に起き上がり、手を払う。

和泉はベッドの淵ぎりぎりまで後ずさったが、所詮狭いパイプベッド。

怯えの様な気持ちで岩林を見上げた。

意外にも、彼は微笑んでいる。

(・・・何、何・・・?なに・・・)

和泉の頭はパニックだった。

何を思ったのか、岩林はおもむろに制服のジャケットを脱ぎ始めた。

続けざまにシャツの袖を捲くる。

すいっ、とその腕を目前に差し出された。

傷、傷、傷、傷。

(えっ・・・)

どれも、見覚えのある切り傷だった。

顔を上げると、やっぱり岩林は薄く笑っている。

見覚え。

丁度、この、自分の左手首に。

「・・・俺も、同じだよ」

腕を下ろす。

「和泉、」

ゆったりとした口調で、彼はおれの名前を呼んだ。

そう言ったきり、岩林が色々と詮索して来る事は無かった。

だから和泉も、岩林について深く尋ねることはなかった。

どこにも居場所がない和泉にとって、岩林の存在は大きかった。

休み時間になると、必ず現れた。

どうでも良い話を散々して、帰っていく。

友達と無駄話なんて始めてで、和泉は岩林が来るのを、いつしか楽しみに思いながら待つようになった。

時々勉強を教えて貰う。

嫌いどころか寧ろ勉強好きな和泉は、教科書を読めば大概理解できた。

が、それでも解けない問題を、岩林は上手に教えた。

「これ、この式。どこから来たの?」

「和泉なら解けるよ!2ページ前に公式あったでしょ。それの応用」

今や保健室のこの一角は、和泉のためのスペースになっていた。

「・・・解けた」

そう言って微笑むと、岩林も目元を緩めた。

「和泉が笑ってるの、ほんと嬉しい」

まるで、貴樹さんみたいな事を言う。

心のどこかで居場所を求めていて、だからこそ和泉が岩林に打ち解けるのは早かった。

無意識のうちに、嫌われないように、と、振舞ってしまう程に。

チャイムが響く。

「あっ、じゃあ、俺、戻るね」

そう言って腰を浮かせる岩林に、寂しさを感じた。

「うん」

「ばいばい。次の休み時間も来るね」

「うん。ばいばい」

まるで女子みたい。

ひらりと手を振って岩林を見送る和泉は、今までにない充足感と安心感を感じていた。

あれ、と思ったのは、岩林と知り合って3ヶ月ほど経った秋の頃だった。

久しぶりに教室に居たのを、岩林が見かけたのがきっかけだった。

久しぶりの自分の机には、大量のごみが詰まっていた。

わざと机にぶつかられ、ペンケースが落ちる。

薄い笑い声。

それらをかえって新鮮に感じながら、2時間程授業を受けた。

(・・・疲れた)

外の空気を吸おうと、何気なく、廊下に出た時だった。

「やっと出てきたね」

背後から低い声がした。

ぎょっとして振り向くと、吃驚するほど近い位置に、岩林の血色の悪いがあった。

「、えっ・・・?」

なんだ、岩林だ、と安心したのも束の間。

直ぐにいつもと様子が違う事に気付く。

「教室から。何で今日は教室に居るの」

「・・・今日、は、調子・・・良くて。・・・授業、出なきゃって」

目が、怖い。

口は笑っているのに、目が。

「勉強なら、俺が教えてるじゃん」

「だ、・・・けど」

「教室楽しいの?和泉ってマゾ?苛められたいの?」

ふるふると首を振る。

これは、誰。

首を横に振る和泉を見て、岩林は満足そうに微笑んだ。

いつもの岩林だった。

「和泉、顔色悪いじゃん。やっぱり保健室で休んでた方が良いよ。ね?また休み時間に行くし」

ん、と頷く和泉。

今の和泉にとって、最優先事項は、やっと見つけた自分の居場所。即ち岩林だった。

「保健室で、待ってて」

岩林の左手が、和泉の左手を、するりと撫でる。

秘密を匂わす様に、楽しそうに。

なぜか全身が粟立った。

ずっと、教室の前で待っていたのだろうか。

休み時間の度に、ずっと、じっと、そこで。

岩林に言われた通りに、和泉はまっすぐ保健室へ向かった。

今までに見たことの無い岩林の態度と、行動。

背筋がひやりとするものを感じたが、やはり岩林の存在が大切だった。

誰かと話すことの楽しさを思い出してしまった和泉には、もう一度前の様に戻る事は難しかった。

何をされても、何があっても、その後に岩林と話せれば良いや、と。

階段を降りながら、もしかして、と和泉は考える。

もしかして、岩林は休み時間に保健室に来たのかもしれない。

折角来たのに自分は居ない。

わざわざ来てくれたのに、それは自分が悪かったんじゃないか。

(・・・だから、怒ってたのかも)

それだけで怒って、挙句の果てに教室の前に張り付くのはやり過ぎじゃないかと思ったけれど、今までしっかりとした人付き合いの無い和泉は、「そんなものなのかもしれない」と容易に納得した。

(謝らないと・・・)

見方を変えれば無自覚の投げやり。

見方を変えれば無意識のセルフマインドコントロール。

和泉はそれに気付かない。

「あのっ、すいません」

途中、廊下で呼び止められる。

振り返るとまだ制服に「着られている」感のある小柄な女子生徒3名。

(一年生だ・・・)

「かっ、化学室はどこですか?あの、あの、実験の方の」

なぜか、声が上ずっている。

内心小首を傾げながらも、和泉は淡々と答えた。

「・・・あっち」

細い指が廊下の突き当たりを指す。

和泉自身も数えるほどしか行っていない。

「一回外、出ないとだから、外履き・・・」

「あ、っありがとうございます!」「ありがとうございましたっ」

きゃあきゃあと楽しそうに、3人は廊下を駆けていった。

そして、見慣れた白い部屋。

養護教員は視線を一瞬上げて、「どうぞ」と、柔らかに口が動く。

その優しさに、ずるずると甘えている。

昼休みになると、岩林はいつも通りに保健室へ足を運んだ。

「和泉、元気?」

横になっていた体を起こす。

「今日、何か調子良いんだ。・・・朝ごはん食べても、吐かなかった」

「それ、朝食食べたから元気なんじゃない?逆に」

岩林は笑いながら丸椅子に座る。

「そうかも」

「和泉ぃ、朝食大事だよ」

暫く、軽い会話を繰り返した。

小テストの話、テレビ番組の話、天気の話。

それらが一通り終わった後、唐突に岩林は切り出した。

「今日みたいなの、止めてね」

何のことを言われているか、直ぐには頭が追いつかなかった。

「あっ、ごめん、・・・ごめん、岩林。此処まで来てくれたんでしょ」

「休みかと思ったんだけど」

鞄があったからね、と呟く。

「うん、ごめん・・・。教室行く時は、ちゃんと、岩林に」

「違う!」

先ほどの呟きと打って変わった大声に、和泉はぎょっとした。

目を丸くして、岩林を見返す。

「ああ、ごめんね、吃驚させたね。教室なんて、行かなくていいんだよ、和泉は」

そしてまるで赤ん坊をあやすような声。

「え、っと・・・?どういう、意味」

「勉強は俺が教えてあげてるじゃん。和泉は習ってないだけで頭良いから、直ぐに分かるでしょ。教室なんか行く意味ないよ。あいつら和泉に変なことするし。和泉分かってんの?嫌がらせされんのやでしょ?」

一気にまくし立てられ、和泉は唖然とした。

「・・・だから、和泉はここに居るの。・・・いいね?」

それは、懇願でも命令でもなかった。

凍った目で浮かべる微笑に、有無を言わさぬその調子に。

「・・・うん」

それは、静かな脅迫。

***

岩林の束縛は、徐々により酷いものへとなっていった。

けれど優しいときは今までと一切変わなかったし、その存在は和泉にとって理想的だった。

恐怖を感じるときもあるが、向けられる好意は嬉しかった。

和泉が何よりも求めていたものだったから。

不器用ながら、それでつりあいは取れていた。

不安定平衡を保ったその関係は、だからこそ崩れるのは早かった。

3月。

抜けるような青空と、肌寒い空気。

肌寒いといっても不快なものではなくて、目が覚めるような心地よい冷たさ。

和泉はそれが好きだった。

空気と自分の境目がはっきりするようで。

自分とそれ以外のものをくっきりとまではいかなくとも、線引きしてくれているようで。

けれどその日、和泉の体調は最悪だった。

とにかく酷い貧血で、目が回って立っていることが出来なかった。

登校中に一回、学校のトイレで一回、和泉は嘔吐していた。

一人じゃどうしようも無くて、けれどどうする事もできなくて、不安と吐き気で押し潰されそうだった。

「和泉、大丈夫・・・っ」

いつも通りひょっこり顔を出した岩林も、和泉の様子を見て言葉を詰まらせた。

「・・・いわばやし」

うつ伏せになって丸まっていた和泉は掠れた声で応じる。

「何なに?何かあった?」

岩林は心配そうに枕元に駆け寄り、和泉の身体に障らない様声を潜めた。

和泉はゆるゆると首を振る。

色素の薄い髪の毛が、光を弾いた。

「・・・岩林が来てくれて、良かった」

「え」

「気持ち悪くて、怖くて・・・気が狂うかと思った・・・!」

枕に顔を押し付けて、和泉は華奢な肩を震わせる。

「和泉・・・」

優れない体調の所為か涙腺の脆くなった和泉の頭を、岩林はまるで壊れ物にでも触れる様にそっと撫でた。

その姿が見ていて痛々しい程で。

それでも和泉の呼吸を手の平でリアルに感じて、にわかに焦りに包まれた岩林は、ぱっと手を離した。

それを誤魔化すように、言葉をなぞる。

「・・・疲れてるんだよ、きっと。寝てなよ、・・・ね?」

「・・・ん、」

「ああでも、今日一日うるさいかもね。廊下とか」

岩林の言葉に、和泉は興味が引かれた様だった。

「なんで?」

「何でって・・・今日卒業式前日だよ?一日中予行練習とか、飾りつけとかやってるから、騒がしくなるなあって」

「明日、3年生は卒業するんだ・・・?」

「・・・その話、昨日しなかったっけ?」

不思議そうに顔を覗きこまれて、和泉はびくりとした。

記憶が安定していない事は、岩林には言っていない。

曖昧に微笑む。

「やーな先輩だったんだよ。大きな声じゃ言えないけど、さっさと卒業して欲しかったんだ」

心底憎そうに宙を睨む岩林。

「そうなんだ。じゃあ、明日は良い日だね」

「・・・そうだね、本当に」

和泉は、それに深い意味なんて考えなかった。

どれくらい眠っていただろう。

カーテンの開く音で目が覚めた。

意識がはっきりするにつれて吐き気まで甦って来て、和泉は眉根を寄せる。

(・・・岩林、かな)

ぼんやりとした頭で考えたのはそれ。

岩林以外にカーテンを開けるひとなんて居ない。

嬉しさを真っ先に感じ、身体を起こした。

視線を上げる。

そこに居るのは岩林だと信じて。

「・・・!?」

けれど、カーテンを開けたのは岩林では無かった。

目に映ったのは見たことのない大柄な数名。

ネクタイの色で、辛うじて上級生だということは分かる。

「おい、起きたぞ」

「へえ、やっぱり綺麗な顔してんなあ」

「山辺好きだろ、こーゆーの」

ぎゃははは、ひゃははは、と下品な笑い声が響く。

何が起こっているのかさっぱり分からない。

「・・・んだよその目、誘ってんのか?」

山辺、と呼ばれた上級生の腕が伸びてきて、和泉の肩を揺すった。

「!」

相手の体温が流れ込んでくるのが不快で、身を捩る。

どっと笑い声が湧いた。

「そんな事したって無駄だぜ。そうやってお前、誰でも誘うんだろ?手管か?」

「あっは!難しい言葉使うなぁー」

「俺達一回分位、何てことないだろ?」

彼等の言葉の意味も分からなかった。

(・・・?何、何の話??)

それでも、この人達と関わってはいけないという事だけは分かる。

漠然とした恐怖がじわじわと攻め上がって来る。

山辺の手が、自分のシャツのボタンに掛かった。

ようやく覚醒した頭が、危険信号を出し警鐘を鳴らす。

ここに居たら、まずい。

「離して・・・っ!」

山辺の手を掴んで、引き離そうとした。

が、びくともしない。

「離して!だってよ!」

再び響く下品な笑い声。

「本当にこいつ男かよ!ちゃんとついてんのか?誰か確かめてみろよ」

「じゃあ俺下いただき~」

もう一人の手が、今度はベルトに手を伸ばす。

はっきりとした恐怖、恐怖、恐怖。

叔母のそれとは比べ物にならないほどだ。

「やだっ・・・!離せ!離せ・・・っ」

山辺の指が顎・・・というより首の付け根を掴み、唇が押しあてられる。

勢い余って、歯と歯がぶつかった。

「・・・っんぅっ・・・!」

爆発的な嫌悪感と、吐き気が一気に押し寄せる。

成す術も無く、寸での所で山辺の身体を押し返し、逆流してきた胃液を吐き出した。

「げほっげほっげほっ、ゲホ、ッ」

吐瀉物が床に叩きつけられる音と、酸の匂いが鼻に付く。

「はあっ、はあっ、はっ、はあっ」

涙で視界が揺れた。

「はっ!マジかよ、汚ねっ」

「おい山辺、お前下手なんじゃねーの?」

笑い声が響く。

逃げようと身を捩るが、力の差は歴然。

無我夢中で、いつの間にか左手はベッドサイドのテーブルから花瓶を掴んでいた。

それを目の前の山辺に向かって投げつける。

全く無意識の行動だった。

「痛ってえ!」

唇も触れていた近距離で、それは山辺の顔面に直撃した。

花瓶の割れる音。

山辺の怒りに火をつけるには、十分だった。

花瓶の水で顔を濡らした山辺の顔は怒りで真っ赤だった。

「てっめ、調子乗んなよ!」

視界の端で、何かが光った。

頬に鋭い痛みが走る。

山辺の手に握られているのは、折りたたみ式の小さいナイフだった。

自転車かバイクか、何かの鍵に付いているいわやキーホルダーだが、凶器。

「・・・・!!!!」

「山辺!やっちまえよ!こいつぜってえマゾだわ!」

不釣合いな笑い声が、恐怖を助長した。

(誰か・・・!)

「助けて・・・っ、誰か!誰かっ!」

夢中で叫ぶ。

入り口付近のベッドだったら、窓が開いていたら、ドアが開いていたら、気付いてもらえたかもしれないのに。

「おい、うるせえよ!」

圧倒的な力で押し倒される。

「助けて!誰かっ、・・・岩林!岩林!」

力なく倒れこみながら、それでも叫び続けた。

岩林なら、きっと気付いてくれる。

そんな確信めいたものさえ感じていた。

「おい、聞いたか?岩林ぃ、お前、呼ばれてるぜ?」

(・・・!?)

文字通り、耳を疑った。

(岩林・・・?)

顔を上げる。

確かにそこには、上級生に紛れて、岩林の姿があった。

ああ、そうか。と、妙に静かな気持ちが広がっていった。

期待するだけ自分が馬鹿だった。

こんな自分に好意を向けてくれる人なんて、居ないのだから。

手足が、誰かに押えられた。

「・・・っやめ、て、離して」

叫ぶ体力も無くなってきて、もう外に聞こえる以前の問題だった。

「細っせえ身体。骨浮いてんじゃん。萎えるな~」

「オレ、ムービー撮りまぁーす」

薄く目を開ける。

岩林は上級生と話している。

口に笑みまで浮かべて。

目の前が暗くなった。

(・・・・・・もう、どうでもいい・・・)

叫ぶのを止めた。

考えるのを止めた。

助けは来ない。

どうやって家に帰ってきたのか、覚えていない。

上級生に押し倒されて、そこから先の記憶がすっぽりと抜け落ちている。

殴られた記憶も、断片的にある。

そんな中信じられない位の体中の痛みと、一際酷い腰の痛み。

さらにその皮膚の下、形容し難い違和感がやけに現実的で。

全てがぼろぼろだった。

耐え切れなくなって、玄関で吐いた。

物音を聞いた叔母さんが、小走りでやってきて、悲鳴を上げた。

「何であんたがここに居るのよ!」

普段なら学校に行っている時間帯だ。

叔母さんの絶叫は的確だった。

叔母さんは何かを喚き続ける。

「ねえ、私見たのよ、あの人が、髪の長い女の人と、車に乗っているのを。あんた知ってるんでしょ。ざまあみろって、思ってるんでしょ」

今日は訳の分からない事ばかり言われる。

自分の記憶ほどあてにならないものは無いから、きっととにかく自分が悪いんだろう。

もう疲れた。

「あんたは疫病神よ、ああほら、車が。あの人の車が通った。黒い車が」

何の物音もしない。

叔父さんの車は濃い青色だった。

「疫病神よ。あんたのお母さんも、お父さんも、みんなあんたの所為で死んだんじゃない!」

妙に鮮明に頭に焼きついた叔母の声。

そうだ。

何かたった一つの絶対的な解答を貰えた気がした。

その通りじゃないか。

二人とも、その日が自分の誕生日なんかじゃなければ、外出することもなかった。

その日が誕生日じゃなければ。

生まれていなければ。

ふらつく足取りで階段を昇る。

踏み外して何段か落ちる。

それでも昇る。

手すりの冷たさが皮膚に伝わる。

真っ直ぐ。

部屋。

引き出し。

カッターナイフ。

いつも無意識の行動だったけれど、今ははっきりと意志を持って。

解答を貰えた事で、やっと、意識と意思が一致した。

もう疲れた。

既にみみず腫れになっている柔らかい皮膚に、その刃を押し付ける。

ラインに沿って、何度も裂く。

足から力が抜けて、それから吐き気が襲ってきて、フローリングの床に嘔吐した。

血が噴き出して、辺りに広がる。

もう右手はカッターを握っていなくて、ひたすらその傷口を引っ掻いていた。

意識が遠のく。

今は、何時だっけ。

目を開けた時には、何もかもが変わっていた。

白い部屋。

点滴のチューブ。

規則正しい機械音。

泣き顔の、貴樹さん。

「直矢・・・!!!」

強く抱きしめられる。

背中が熱かった。

「直矢、・・・っ」

貴樹さんの腕に、より一層力が篭る。

「僕の家で暮らそう。・・・今まで、気付いてやれなくて、本当に、・・・っ」

語尾は聞き取れなかった。

貴樹さんは、静かに泣いていた。

それをどこか、他人事のように聞いていた。

貴樹さんと暮らす。

何もかもが、変わった。

recall the past 5

暫くして、長谷川は和泉の異変に気付くことになる。

6月頭のあの日以来、長谷川は輪をかけて和泉を気にかける様になった。

それは100%の善意・・・教師としてのモラルからという訳では無い。

教師としての心配はある。

教師としての義務もある。

それ以外の私的な感情は、長谷川本人にも把握しきれていなかった。

自分を拒絶した事への薄っすらとした苛立ちも、まだ尾を引いていた。

勿論恋愛感情なんてものではない。

長谷川は若くして世帯持ちだ。

来月には子供も産まれる予定である。

それでも長谷川は、気が付けば和泉を視界に捉えていたし、ふとした拍子に目で追っていた。

湧き上がってくる興味に唆された結果が、これだ。

和泉は給食を食べていない。

給食の時間が始まった時からずっと見ているのだが、和泉はプレートと睨み合ったまま、箸を取ろうとしない。

気にする様になって直ぐに分かった事だから、一体いつからこうなんだろう、と長谷川は思った。

今日はたまたまなのだろうか。

そう考えた長谷川は、一週間様子を見た。

が、やはり和泉の箸は進まなかった。

職員室で他の教員から聞いた話によると、和泉は何度か授業中に貧血で倒れているらしい。

体育の授業は特に欠席が目立つ。

しかも殆どが無断なので、保健室の来室記録と照らし合わせて何とか出欠を取っているんだ、と担当教員はぼやいていた。

昼休み開始のチャイム。

原則的に完食までは席を立ってはいけない事になっている為、和泉はいつも一番最後まで席に残っている。

何度か箸を動かすが、口元まで運ぶのが限界な様で、ぱっと顔を背けてうつむいてしまう。

小さな溜息。

長谷川は意を決して和泉に話しかけた。

「ねえ」

和泉はゆったりとした動作でだるそうに顔を上げた。

ぼんやりとした双眸が、長谷川を映す。

色白の顔に大きな瞳、やけに赤い唇。

長谷川はどこか扇情的なものを感じていた。

「給食、全然食べてない様だけど」

「・・・」

すっと視線を逸らされてしまう。

燻っていた苛立ちが頭をもたげた。

生徒に私的感情と好き嫌いの分別を付けるなんて教師としてあってはならないことだが、まだ教員経験の浅く感情を割り切れない長谷川にとって、それをコントロールできる技量はなかった。

「完食が決まりって、知ってるかな」

意地の悪い考え。

「全く手も付けないで、作ってくれた人に悪いなあって思わないかい」

「・・・」

「具合が悪いなら、言ってくれないと分からないよ」

唇をきゅっと噛む和泉。

しかしなお手も口も動かさない和泉に、長谷川の苛立ちは一層膨れ上がった。

ここまで私的感情に動かされるのは久しぶりだった。

そして長谷川は、和泉の食の細さを好き嫌いと勘違いしていた。

「とにかく、少しでも良いから食べなさい」

プレートを和泉の方に押し出す。

びくりと細い肩が震えた。

「ほらっ、」

ここまでくると、もう長谷川も意地だった。

大人気ないことに、後に引けなくなっていた。

和泉は震える手で茶碗を手に取った。

怒鳴られるのが怖かった。

大きな声が怖かった。

最近、何か食べてもすぐに吐き気が襲ってきて、既に何度も吐いている。

食べ物の匂いを嗅ぐだけで胃が不快感を訴えるので、本当は給食中席に座っているのも嫌だ。

こんな状態になってしまった理由も、これは何という状態なのかも和泉は分からない。

ただ食べ物を食べると気分が悪くなる。

これは確かな事だった。

食べても何も無いときもあったが、それは吐き気の原因が食事だと気付かなかった頃。

食事を取ると吐いてしまう。

そう自覚してからは必ずと言っていい程その通りになった。

吐くのが嫌で、食べることを止めた。

「ほら、少しでも良いんだから、とにかく何か食べなさい」

「・・・、っ」

和泉の呼吸が涙で震えているのに、長谷川は気付かなかった。

一口、白米を口に運ぶ。

カラカラに乾いた口の中へ、和泉は無理やりに押し込んだ。

おそらく極度の緊張もそれを助長したのだろう。

嚥下するが早いか、胃の中に食べ物が届いている筈がないのにも関わらず、突き上げる様な吐き気が和泉を襲った。

がくんと身体をくの字に折り、両手で口元を覆う。

「、はっ、はぁっ、はあ、」

軽い音を立てて箸は床に落ちた。

その音と、和泉の悲鳴に近い調子外れな息遣いだけが教室に響き、長谷川の思考は一気に「教師」という現実に引き戻された。

目の前の和泉があまりにも苦しそうで。

背中を摩ろうと長谷川が手を伸ばしたその時、和泉は身体を折ったまま椅子を引き、教室を飛び出した。

「あっぶね・・・おい、一年!」

誰かとぶつかりそうになったらしく、長谷川からは見えない位置からそんな声が聞こえてくる。

勿論和泉の返事は聞こえない。

急いで追いかけて行った先で長谷川が目にしたものは、信じられない光景だった。

和泉は嘔吐していた。

ふらつく足取りでトイレに駆け込む和泉を、長谷川は追いかけた。

押し戸に手を掛けた瞬間、視界よりも先に耳がそれを捉えた。

激しい咳き、嗚咽、乱れた呼吸。

そして何度かえずき、また咽返る。

不安と心配の入り混じった面持ちでトイレに足を踏み入れた長谷川は、最奥の個室、ドアも閉めずにへたり込んでいる和泉を見つけた。

和泉は便器を抱え込み、何度も咳き込みながら胃の内容物を押し出していた。

そこに固形物と言えるものは殆ど無く、濁った液体が無残に叩きつけられるだけだった。

頭の中は疑問で埋め尽くされていたが、混乱で言葉で表現することが出来ず、長谷川は無言で和泉の背中を摩った。

ちらりと覗いた和泉の横顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。

痺れた頭は「養護の先生を呼ばないと」と必死に冷静な部分を繋ぐ。

そしてぼんやりと、おぼろげながらも長谷川は「和泉の家に電話をしよう」と決めていた。

電話をして、学校での和泉の事を話し、家での様子を尋ねよう。

そうすれば今まで自分が感じてきたこの生徒への違和感は解決するかもしれない。

もっと早く家庭訪問でもすれば良かったんだ。
その程度にしか考えていなかった。

週明け。

和泉の顔には痣が出来ていた。

recall the past 4

気がついたら夕方で、僕は依然として玄関にひっくり返っていた。

最初に視界に入ったのは天井で、その次に右手の真ん中、固まった血が目に付いた。

そして分かったのは、叔父さんが家を出て行ったということ。

夕飯の準備をしようともしない叔母さんと、叔父さんの靴がすっかりなくなった下駄箱を見ての推測だけれど、きっとそう。

数日間やけに静かだったから、そういうことか、とすんなり納得できた。

叔父さんは、僕を見捨てて、置いていったのだろうか。

貴樹さんは引っ越して、叔父さんは出て行った。

これが最初から計画されていたことなのかは分からないけれど、紛れもない事実はもう二人はこの家には居ないということ。

僕と、叔母さんの、二人。

誰も、守ってくれないし、庇ってもくれない。

不安だけがまるで夏の雲のようにどんどん大きくなっていって、心の隙間を埋めていった。

どうすればいいのか分からない。

お父さん、

お母さん。

中学生になった。

自分の事を、いつからかも分からないうちに「おれ」と呼ぶようになった。

リストカットという行為も、誰から教えて貰った訳でも無いのに知っていた。

記憶がはっきりしなくなって、いつの間にか左の手首から肘にかけての皮膚には傷がいくつも出来ていた。

変わったことはそれだけ。

叔母さんは相変わらずで。

全ての八つ当たりを受け、叔母さんの喜怒哀楽に、今だに怯えながら生活している。

だんだん色々な事に目を向けられるようになっていって、あんなになった叔母さんは、周りの人から不審がられないのかとおも思ったが、それは杞憂だった。

叔母さんの感情の高ぶりは、全て自分に向けられているのだ・・・と平然と買い物に出掛ける叔母さんを見て悟ったから。

叔母さんは細いし、力もさほど強くない。

けれどなすがままにされるのは、あの家から追い出されるのが怖いから。

無意識のうちに手首は切るくせにね、と自嘲気味に思う。

学校も相変わらず。

学区で振り分けられているので、顔ぶれがあまり変わらないのが原因のひとつだろう。

最早これといった理由は無いまま、意識というか、決まりというか。そんな暗黙の了解が空気に混じって流れている。

持ち物が無くなるのにも、掃除中に頭から水をかけられるのにも、その様子を見て意地悪く笑う人達にも慣れた。

辛くない訳が無かったけれど、それどころでは無いのが現実だった。

徐々にエスカレートする叔母さんのする事に比べたら。

そうやって、流れ作業のような一日がまた始まる。

そういえば、変わったことが、もうひとつあった。

食事を取ることが、苦手になっていた。

「私のクラスではいじめがあります」

そう、職員会議で告白したときのあの空気といったら。

1年2組の副任となった長谷川は、今でもその瞬間を鮮明に覚えている。

教員免許を取ってから、初めての正規雇用で初めての副担任。

やる気に燃えていた長谷川はいきなり出鼻を挫かれた。

近くに出来た新しい学校の所為で入学者数が下降気味なこの学校では、「いじめゼロ校」をモットーに掲げ、そこを魅力として押し出そうとしている。

程よく厳しく程よく自由に。

その頑張りあってか近年はいじめと言える類のものは無くなりつつあった。

しかしそこに水を差すような、稀に見る過激にエスカレートした1年2組のいじめの存在。

担任である井上の機嫌も悪く、長谷川は頭を抱えていた。

でも、と長谷川は思う。

「あの子」も、少し妙なのだ。

「あの子」というのは、和泉直矢という些か複雑な家庭環境を持つ生徒の事で、いじめを受けている被害者その人である。

彼は、酷いいじめを受けているにも関わらず、一向に辛そうな素振りを見せない。

強がって、とか、そんな感じでもなく、何も感じていないかのように平然とそこに居るのだ。

初めて長谷川が和泉と会ったのは、就任式の直ぐ後にあったLHRだった。

一際際立つ外見で、真っ先に長谷川の目に留まった。

けれど、長谷川が自己紹介や何やらを始めて、教室全体が活気づいている時でも、和泉は我関せずとばかりに窓の外に目をやっていた。

周りの生徒もまるで和泉など見えないかの様に振舞う。

長谷川は不思議に思ったが、その時はまだ気にもしていなかった。

和泉に対するいじめが始まるのは、それから一ヶ月もしなかった。

首謀者は原口という大柄な男子生徒。

和泉の小学校からの同級生で、今も変わらず「恵理香ちゃん」が好きな一途な男子である。

持ち物を隠す、捨てる。無視、加えて陰口。

そんな典型的なものから始まり、根も葉もない噂がじわじわと和泉の周りを侵食していった。

既に慣れていた和泉は相手が満足する反応も見せることなく、それはどんどんエスカレートした。

殴られても、蹴られても、一言も発さない。

怖くて、相手を恐れて、歯向かわないように意識しているのではない。

和泉はそんなこと、どうでも良いと、心から思っていた。

自分への制裁を与えてくれる原口達に、和泉は無意識の内に感謝さえしていた。

綻びだらけの記憶と理不尽な現実の中、和泉はいつの間にか、どういう訳か「叔父は死んだ」と思い込むようになっていた。

それさえも自分を責め立てる一要因になり、一層の自己嫌悪の悪循環だった。

長谷川がその現場を初めて目撃したのは、6月の頭だった。

じめじめとした重い空気と、職員室前の軽やかなアジサイがそれはそれは対照的だった。

放課後、長谷川は施錠の見回りをしながら校内を回っていた。

廊下を歩いている時、1-2のプレートが付いた教室から、その場には不釣合いな物音が聞こえてきた。

(・・・誰か残ってんのか)

「お前っ、気持ち悪ぃんだよ!」

「何とか言えよ!」

どすっ、という低く鈍い音。

一瞬で今起きている事態の想像が付き、長谷川は慌てて教室に飛び込んで止めさせようとした。

・・・が、中の様子がドアの隙間から垣間見え、動きを止めた。

殴られながら、蹴られながら、それでもなお無表情な和泉が視界に映ったからだ。

その時長谷川の心を占めていたのは、常識とか、モラルとか、そんな普遍的なものではない。

単純な一言で表すならば好奇心。

もっと詳細に分けていったとしても、結局は和泉直矢というほんの少し「妙」な生徒に対する、教師の立場を越えた好奇心に帰結する。

初めてみるその生々しい現場に、魅了された・・・というよりか、見てはいけないものを覗いてしまった背徳感にも似た、言葉では表せない不思議な感覚に囚われ、釘付けになっていた。

「ってめ、」

3人のうちの誰かが焦れたように叫ぶ。

「・・・っぅ」

丸めた背中を蹴られた和泉が、息を詰めるのも聞こえた。

そして咳き込む。

呼吸が落ち着くのも待たずに、今度は髪を掴んで無理やり起き上がらせる。

綺麗な顔が顕になった。

その大人びた、疲れきった表情で、しっかりと和泉は目の前の相手を見据える。

逆に、暴力を振るっていた奴らの方がたじろいだ程だ。

「・・・んだよ、その目・・・!」

大きな音を立て、和泉はロッカーに叩きつけられた。

痛みからか、和泉は背中を反らせる。

また、表情は隠れてしまった。

と、不穏な動きを長谷川は視界に捉えた。

彼等は無理やりに和泉をロッカーの中へ閉じ込めようとしていた。

実に古典的だが、それでもやはり続いているものは続いている。

始めは何事かと顔を上げた和泉だったが、直ぐに状況が分かったらしい。

身を捩って、何とか逃げようと、伸びてくる手を押しのけた。

何をされても無反応だった和泉が初めて見せた抵抗だった。

彼等は意を得たとばかりに薄笑いを浮かべ、和泉の細い腕をつかむ。

「おいおい、逃げんなよ」

「そっち押さえとこうぜ」

「っおい、暴れんなよ!うぜえ!」

そうこうしてる間に掃除用のロッカーは空けられ、当然の如く和泉には3人に勝る体力なんてある訳が無かった。

手足を動かして抵抗するも、ぐいぐいと押し込められる。

「っや、・・・やだ・・・っ!」

そこでやっと、長谷川は我に返った。

(・・・俺は何を、・・・早く、止めないと)

いじめの現場を目撃して、それを長々と見物していたなんて、教師としてありえない。

初めてに近い和泉の声は最早悲鳴に近かった。

彼等も驚いた様に動きが止まっている。

「何やってるんだ、下校時刻はとっくに過ぎたぞ!」

まだ夢から覚めない様な間隔の中、和泉への罪悪感に満たされながら、長谷川は教室に入った。

「げっ、」「おい、帰るぞ」「早くっ」

「おい、待ちなさい!」

鞄をひったくるように掴み取り、ばたばたと三人は逃げていった。

長谷川は追いかけようかと一瞬思ったが、ぐったりとその場に蹲る和泉を見て、優先順位を考えた。

「・・・和泉・・・君?大丈夫?」

「・・・」

何しろ会話なんてした事無かったため、長谷川は和泉にどう接して良いのか分からなかった。

「冷えるから、今日は帰った方が良い。明日、先生から・・・言っておくから」

「・・・」

「・・・、えっと・・・立てる?ほら、」

「・・・っ!」

「!」

ぱしん、と乾いた音を立て、長谷川が差し出した手を和泉は払った。

(えっ・・・)

きっ、と睨みあげた表情に浮かんでいたのは、怯えと憎しみ。

直ぐに視線を逸らした和泉はふらりと立ち上がり、足早に教室から出て行ってしまった。

教室には、長谷川だけが残った。

長谷川の心に満ちているのは、苛立ちと、不信感と、悔しさと、とにかく色々な負の感情だった。

なぜあの子は誰にも相談しないんだ。

折角助けたのに、なぜあの子は逃げたんだ。

上からはいじめの処理を押し付けられ、行動に出れば当の被害者から拒絶される。

なぜ、俺ばかり、こんな目に。

八つ当たりに近い長谷川の苛立ちの矛先は、和泉に向けられることになる。

recall the past 3

暴力描写有り(苦手な方はご遠慮ください)

*

目が覚めて、まず始めに聞いたのは雨音。

小粒のそれがシャワーの様に降り注いでいる、そんなイメージの雨音だった。

雨は嫌い。

あの日も酷い雨だったから。

身体を起こすと、床に畳まれた毛布があった。

(・・・そうか、貴樹さん、朝まで)

純粋に嬉しかった。

(貴樹さんみたいに、笑うんだ)

変わる。

話す。

そのために、笑って、まず、あいさつをしよう。

それから、叔母さんに謝って。

それから、一緒に笑えるのかも。

階段を降りる足取りが、いつもよりも軽かった。

あいさつ。

けれどそんな小さな期待が壊されるのは、ほんの数秒後の事だった。

(・・・あれ)

まず、違和感だった。

普段朝食は叔母さんと二人で食べている。

叔父さんは仕事で朝早いし、貴樹さんも学校が早い。

だから二人で、叔母さんが用意してくれた朝食を食べていたのだけれど。

(・・・叔母さん?)

リビングには誰も居なかった。

テーブルの上には、食パンと目玉焼きとサラダ。

一人分の食事しかない。

(・・・これを食べてってこと・・・?)

パンは焼かれていたけれど、冷えていた。

立っていても仕方が無い。

冷えた朝食を胃に詰め込んだ。

(・・・そういえば)

―――今朝、叔父さんは部屋に来た?

叔父さんはいつも僕に朝を知らせたあと、ほんの少しドアを開けておく。

外の空気を入れるためだ。

―――今日は?

思考が途切れた。

瞬きだか何だか良く分からない、一瞬の暗転。

今日は、閉まっていた。

(・・・ああ、そっか)

諦めに似た思いで食器を置く。

カチャリ、静かなリビングに響いた。

遂に、嫌われてしまったのかもしれない。

『不気味』で『変』なんだもの。当然だ。

叔父さんと叔母さんが喧嘩した原因も僕。

(・・・悪いのは、全部、僕じゃないか)

鼻の奥がツンとしたが、涙は出てこなかった。

「ご馳走様でした」

食器を片付けて部屋に戻る。

学校に行かないと。

夕飯も、そんな調子だった。

いつもの時間に下に降りようと部屋を出たら、足元にプレートに乗った夕飯が置かれていた。

食べ終わったものを出しておくと、いつの間にかそれが片付けられている。

追い出されることは無さそうで、それが一番安心した。

貴樹さんがたまに部屋に来てくれたけれど、その夜は叔母さんのヒステリックな叫び声が家中に響いた。

だから貴樹さんと顔を会わせる機会も減っていって、叔父さんにも会わなくなって、叔母さんにはもっと会わなかった。

洗濯物もそのまま放置される事が多くなっていって、自然と洗濯機の使い方を覚えた。

テレビも随分見ていない。

学校ではずっと一人。

時々靴や教科書が無くなった。

でもそれは大抵ゴミ箱や中庭で簡単に見つかるので、大して困りはしなかった。

休みの日はずっと部屋の中。

晴れていて、風のある日が好きになった。

窓から見える雲が、唯一の楽しみだった。

そうやって、3年が過ぎた。

髪の毛が伸びて、鬱陶しかった。

叔母さんの居ない時に、叔父さんが何度か髪の毛を切りに連れて行ってくれたけれど、もう首はすっかり隠れてしまう程の長さだ。

貴樹さんは大学に行った。

大きな物音がする日が続いていて、模様替えかな、と思っていたら、貴樹さんが部屋に来て「明日引っ越すんだ」と教えてくれた。

ああ、引越し準備だったのか、と一人納得。

「暇でしょ?」

そう貴樹さんは申し訳無さそうに言って、ダンボールを運んで来た。

中身は、漫画や雑誌や参考書。

「・・・直矢にあげる。・・・これしか出来なくて、ごめんね」

「・・・!」

貴樹さんの目が真っ赤で、気付かずに自分も泣いていた。

心が麻痺したようになって、何が悲しいんだかも良く分からないまま、声を立てずに泣いた。

「行ってらっしゃい」

見送りはできないだろうから、今、言わないと。

「ありがとう」

そういうので精一杯だった。

「・・・やっぱり、直矢は笑った方が可愛いよ」

貴樹さんの泣き笑いを、脳裏に焼き付けた。

神様、どうか。

貴樹さんみたいな人になれますように。

毎晩叔父さんと叔母さんの怒鳴り声を聞いた。

けれどここ数日、やけに静か。

そんなある日だった。

その日は朝から土砂降りで、憂鬱で。

玄関を開けて、いつも通り無意味なただいまを呟こうとした。

同時に目の前に人影が現れて・・・というより、きっと、ずっとそこに居たのだ・・・いきなり、肩を掴まれた。

「!」

思わず息を呑んで身構える。

それはあまりにも唐突で、恐怖で言葉が出なかった。

(・・・叔母さん、)

久しぶりに見る叔母さんは前より痩せていて、直感で、怖い、と感じた。

「あなたの所為よ!!」

ぐい、と持ち上げられたかと思うと、次の瞬間には玄関に叩きつけられていた。

「・・・っぅ!」

頭を玄関の段差に強く打ち付け、痛みで背中が反る。

目の前がチカチカしたのも一瞬。

叔母さんは僕の胸倉をもう一度掴んで、無理やり起き上がらせた。

足に力が入らなくて、膝立ちの様な状態になる。

(・・・何、何・・・!?)

「あなたの所為よ!あなたの所為よ!」

最早絶叫に近い声を上げて、叔母さんは僕の身体を揺さぶる。

下駄箱に何度も頭を打ち付けられ、痛みと恐怖が全身を支配した。

「・・・痛い、っ・・・やめて、叔母さん、止めて、」

下駄箱の上に置かれていた花瓶が、一際大きな音を立てて落ちた。

投げ出された右手がそれに直撃する。

もう水は与えられていなかったらしく、枯れた花とガラスの破片だけが辺りに飛び散った。

「あなたの所為で!!」

だん、と背中に激痛。

目を開けると、叔母さんは僕を見下ろしていた。

相変わらず叔母さんの手は僕の胸を掴んでいるので、叔母さんの全体重が掛かって、息が苦しかった。

「・・・っは、・・・叔母さん、ごめんなさい、止めて・・・、痛い・・・っ」

何か言う度、叔母さんの体重が一層掛けられる。

「あなたの所為で、誰も、居なくなっちゃったじゃない・・・!!!」

どうしてくれるのよ!と叔母さんは叫んだ。

(・・・どういう事?何が?どうなってるの・・・?)

「あなたの所為で、うちは、めちゃくちゃよ!!!」

強い力でまた身体が持ち上がり、そしてまた叩き落された。

「・・・っぁ!」

痛くて、上手く息が吸えなかった。

みっともない位、ぼろぼろ泣いていた。

今度は壁に打ちつけられる。

叔母さんはあなたの所為よ、あなたの所為よ、ともう聞き取れない位の声で呟いている。

ごめんなさい、バカみたいにそれだけ唱えながら、痛みに耐えた。

遠ざかる意識の中で、ぼんやりと見えた自分の右手からは、血が出ていた。

recall the past 2

夜中に目が覚めた。

どういう訳か最近の眠りは酷く浅く、毎日夜中に一度起きて、もう一度寝て、夜が開ける前にまた目が覚めて、次は眠れずに天井を見上げ、そうして朝を迎えるのが定着していた。

だから目が覚めた時に窓の外が真っ暗でも、時計が午前1時を示していても、もう大して気に留めなくなっていた。

けれどその日は何だかもう一度眠りにつくことは出来なそうで。

そろりとベッドから抜け出して、部屋のドアを開け、ひんやりとした空気の中へ出た。

(のど、渇いた)

洗面台に行ってうがいをしよう。

そう思って階段を降り始めたとき、話し声が聞こえた。

ふ、と視線を動かすと、リビングの明かりが点いているのが目に入る。

反射的に息を潜め、耳をそばだてると、叔父さんと叔母さんの声が聞こえた。

「・・・あの子、変よ」

「・・・何を言い出すんだ、そんな、こんな時間に」

叔母さんの声は静まり返った空間によく響いたが、叔父さんの声は篭っていてよく聞き取れなかった。

「何言っても返って来るのは『ありがとうございます』か『ごめんなさい』だけ。ちっとも笑わないのよ」

「・・・急に両親が死んだんだから、あの子も戸惑ってるんだろう」

ぼんやりしていた頭が一気に覚醒した。

(僕のことだ・・・)

「だからって・・・。変よ、絶対。おかしい、おかしいわよ」

「そう言うなよ。事故が起こる前のあの子を覚えていないのか。素直で、可愛いって、お前も言っていただろう」

「あなたは随分あの子の肩を持つのね。そんなの、単なる第一印象だわ」

「今はまだ現実を受け止めきれてないんだよ。そのうち元に戻る。あんなに良い子なんだから。もういいだろう、この話は―――」

疲れた声で話す叔父さんの声を遮って、叔母さんは一層大きな声を上げた。

「ねえ聞いて、今日学校から電話があったのよ」

「学校って?」

「あの子・・・直矢の小学校からよ。今日から学校だって、朝話したわよね」

いきなり飛び出した自分の名前に吃驚して、意味も無く身を縮めた。

部屋に戻ろうかと思ったが、もし足音を立てたら立ち聞きしていた事を気付かれそうで、それが怖くて動けなかった。

「あの子、いきなり同級生の子・・・しかも女の子を泣かせたのよ」

全身が心臓になったかのように跳ね上がった。

もう、その話を、知ってるんだ。誰が?前原先生?あの女の子?あの女の子のお家の人?

「・・・何だって?」

「そのまんまの意味よ。休み時間に、皆で直矢を囲んで話していたら、直矢、その女の子の事をいきなり叩いたんですって」

「電話は・・・誰から?」

「直矢のクラスを受け持ってる先生よ。前原先生。女の子・・・恵理香ちゃんだったかしら・・・その子の友達が先生を呼びに言ったんですって。先生が直矢にも話を聞いたらしいんだけど、一言も話さないの。『恵理香ちゃんを叩いたの?』って質問には、軽く頷いたらしいけど」

「・・・何か、理由が、」

「まだそんな事言うの!」

大きな音が響いた。

丁度、ガラスのコップがテーブルに打ち付けられるような。

「理由があるなら言えば良かったじゃないの。理由なんて無いんだわ」

「・・・それは、お前が直矢に聞いてやれ。俺は今仕事から帰ったばかりだろう・・・ちょっと待ってくれ」

「不気味なのよ、あの子!!」

息を呑んだ。

不気味、僕が、不気味。

廊下の寒さが急に際立って感じられた。

「こっちが何を話しかけても目も見なければ笑いもしない。分かる?おやつを作ってあげても無言で、無表情で食べるのよ。朝食も夕食もそう。ぼんやりして。あなたには懐いているから良いかもしれないけど、私は無理よ。限界よ!」

「・・・まだ、直矢が来て一週間だろう。もともとあの子は人見知りする性質なんだ。もう少し長い目で・・・」

「じゃあ聞くけど!」

叔母さんの声はもう叫び声に近かった。

それは全て僕の存在を否定するもので。

聞きたくないと思うのに、耳は叔母さんの声を執拗に拾う。

「あなたあの子を預かる時、私に相談した?いきなり、妹夫婦が事故にあって亡くなって、その息子を預かることになっただなんて、事後報告もいいところだわ!」

「仕方ないだろう、急の事なんだから。義弟の最期の言葉だぞ。遺言だぞ」

「そんなにあの子が大事なの!そうよね、あの子はあなたの妹さんそっくりだものね。あなたの大好きな妹さんに」

「・・・何だ、その言い方は。家族が大事なのは当たり前だろう」

「私だって家族よ!!」

これが、家族喧嘩なんだ、と、冷える頭はやけに冷静に考えた。

お父さんとお母さんは喧嘩なんてしたこと無かった。

―――今目の前で起こっている喧嘩は、僕が居るから起こったもの。

「私だって、貴樹だって家族よ。私達のことはどうでも良いっていうの!?」

「そんなことは言っていない」

「言ってるも同じよ!貴樹は今年受験なのよ。この時期にこんなにばたばたして、もし・・・もし失敗したら、どうするの!」

「・・・あの子なら、」

「大丈夫、とか言うの?無責任な事言わないで」

「今この話は良いだろう。明日ゆっくり話そう」

「都合が悪くなるとすぐそう言って!止めないわ。じゃああなたの言うように長い目で見て言うわよ。養育費はどうするつもり?貴樹は大学に入れるわよ。直矢まで大学に行きたいとか言い出したら、どうするの?そんなお金、どこにあるの?うちはあなたの妹夫婦の家のように裕福じゃないのよ!」

「・・・あの二人の保険金がある。それに俺にだって二人分の学費位は捻出できる。足りなければ切り詰めていけば良いだろう。それも子育てのひとつだろうが!」

叔父さんが、遂に怒鳴った。

お父さんの怒鳴り声も遂に聞かなかったけれど、叔父さんの怒鳴り声も当然初めてだった。

あまりにも色々な話を聞きすぎて、起き抜けの頭がショートしそうなほどだった。

時間が止まったのではないか思った。

それ位空気は重く、静かだった。

沈黙を破ったのは叔母さんだった。

「・・・あなた・・・そうまでして・・・そこまでして、あの子を育てたいの。そんなにあの子が大事なの。今まで苦労して育ててきた貴樹より。一緒に暮らしてきた私より。あの恵まれすぎた家庭で育ったお坊ちゃまを、この私達の家で育てたいの。この家で、私達の生活よりも優先して直矢を育てていきたいの。そうなの?」

気が遠くなるほどの静寂の後、叔父さんは絞り出す様に言った。

「・・・仕方が、無いだろう。もう、引き取るって、言ってしまったんだ」

目の前が、真っ暗になった。

誰も、僕が居ることを許してくれていない。

誰も、僕の存在を肯定してくれない。

目の前にある否定の山に、逃げ出したくなって、ふっと意識が遠のいた。

目が回って、ふらついたのは階段。

(落ちる・・・!)

目の前に迫る階段に、目を閉じた時だった。

「・・・おい、っ」

絶望にも似た諦めの思いは、腕を強く引かれる感覚で現実に引き戻された。

振り返ると、人影。

「・・・・っ」

声を上げそうになった僕の口を片手で塞ぎ、もう一方の片手では僕の腕を掴んで、人影は微笑んだ。

(・・・貴樹、さん、)

体勢を整えた僕から手を離し、その手をそのまま自分の口元にあてがう。

「しー、・・・大丈夫。部屋、戻ろう」

暗がりで微笑む人影。

まるで呼吸のような押し殺した声。

存在の肯定。

此処に来て、初めて感じた安堵だった。

「うちの母さん、ヒステリー入ってるから。困った母親だよなあ」

そんなに気にしないでね、と言いながら、暖かい手が僕の頭を撫でた。

結局、部屋まで送って貰った。

何て言ったら良いか分からず、戸惑ったまま立ち尽くしていると、貴樹さんは困った様に笑い、「じゃ、おやすみ」と言って、ドアを閉めようとした。

「あ、っ」

無意識に手が伸びて、ドアの隙間からその向こう、袖を掴んだ。

え?、と、再び隙間から顔が覗く。

安心する顔。表情。動作。

「ごっ・・・ごめん、なさい」

それでも、やっぱり拒絶されるのが怖くて、ぱっと手を離した。

本当は、一人で居るのが怖かった。

月明かりの鈍く差し込むこの部屋で。

新品の匂いに囲まれたこの部屋で。

嫌という程孤独を味わう、長く冷たい夜を。

怒っていないか、相手の表情を伺う為、恐る恐る顔を上げた。

微笑んでいた。

「ひとりで居るの、怖い?」

優しい声。

無言で何度も頷いた。

ごめんなさい、我侭言って。ごめんなさい。

心の中では何度も謝って。

「じゃあ、俺が居てあげる。でも静かにね。下に居る二人に気付かれないように」

そう言ってするりと足音も無く僕の部屋に入ってくる。

ドアの開閉の音も立てずに、何だか忍者みたいだ。

長い腕がぬっと伸びて、机のライトのスイッチを入れた。

橙色の光が部屋を包む。

振り返った貴樹さんは、あれ、と声を上げた。

「クマ、出来てる。眠いんじゃないの」

この人は、目を真っ直ぐ見て話す。

優しげに笑う。

目を見ないのは不気味だ、と叔母さんは言っていた。

無表情なのも不気味だ、と叔母さんは言っていた。

僕は不気味で、きっとこの人が理想なのだ。

(もし僕が貴樹さんみたいだったら・・・きっと、否定されない)

首を振った。

「眠くないの?」

頷く。

うまく、できない。

どうやって、思っている事を伝えれば良いんだろう。

そういえば、どうやって、笑っているっけ。

顔の筋肉がうまく働かない。

「・・・寝れない」

「え?」

気がついたら、つるりと口が動いていた。

「目が覚めて、そしてら、もう、寝れない」

顔を上げて、目を見てみた。

少し長い位になった前髪の隙間から、貴樹さんの目を、真っ直ぐに。

「・・・そういうのは、もっと、悲しそうに言うんだよ」

そういう貴樹さんの方が、悲しそうに見えて、より混乱した。

「ほら、やっぱり寝よう。身体に悪いよ、そんなの」

身体を押されて、ベッドに座らされた。

「で、・・・でも、」

「でもじゃないの」

そのまま器用に布団の中に押し込まれて、ふわりと毛布を掛けられる。

抗議はやんわりと阻止された。

でもそれは心地よい否定だった。

「大丈夫。俺もここに居るし。何なら子守唄でも歌ってあげようか」

子守唄!

吃驚して顔を上げると、貴樹さんはちょっと目を瞠って、微笑んだ。

「やっぱり。笑ったほうが可愛いよ」

そこで、自分が笑っていた事に気付く。

いつの間にか、貴樹さんとは目が合っていた。

叔母さんの笑った顔と、叔父さんの笑った顔。そして貴樹さんの笑った顔を思い浮かべていた。

(・・・そっか、)

好意を否定していたのは自分だった。

見向きもせず、受け取ろうとしなかったのも自分だった。

天井を見上げながら、時計の秒針の動く音を耳に流しながら、ぼんやりとそんなことを考えていた。

(・・・明日は、ちゃんと笑おう)

好意をしっかり受け取ろう。

お礼も、目を見ながら言おう。

そうすれば、僕の存在も『不気味』では無くなるかもしれない。

朝起きたら、おはようと言おう。

しっかり目を見て、貴樹さんみたいに笑って。

目を閉じて、それから朝まで。

久しぶりにたくさん眠った。

recall the past 1

和泉のこれまで。

和泉が小学校に上がった年だった。

和泉の両親は交通事故で亡くなった。

交通事故だった。

和泉の父親・・・和泉洋介の運転する車が信号待ちをして居たところ、居眠り運転のトラックに正面から衝突されたのだった。

洋介の妻、即ち和泉の母親である和泉早苗は即死だった。

その時早苗は近所への外出ということもありきか、シートベルトを着用していなかった。

そのため衝突の衝撃で身体が大きく動き、エアバックの位置が合わず、頸部を圧迫してしまったことも死因のひとつとなったらしい。

洋介は、病院に運ばれる途中の救急車の中で死亡した。

出血が酷く、意識は殆ど無かったそうだ。

そんな状態の彼が傍らの救急隊員に必死になって訴えたのは、一人息子、和泉直矢のことだった。

『妹尾・・・佳宏、義兄さん・・・義兄さんに、直矢を―――・・・』

洋行には元々両親によって決められた婚約者がいた。

それを破棄して、反対を押し切って早苗と結婚した為、親族とは絶縁状態であった。

それに反して早苗の親族とは、得に早苗の兄である妹尾佳宏とは、佳宏と早苗がとても仲の良い兄妹だったということもあって、
親交が深かった。

休日もよくお互いの家に行き来していたし、何より直矢は佳宏に懐いていた。

自分の死後、不仲な自分の親族に直矢が引き取られたら、一体どんな目に合うか分かったものではない。

きっと、愛してはくれないだろう。

そう朦朧とした意識で、洋介は考えた。

だから、当然頼るべきは義兄、という結論なのだった。

そして、これが彼の最期の言葉となった。

この日は、和泉の7歳の誕生日だった。

洋介の家庭は、洋介とその親族との関係を除けばとても穏やかで、仲の良い理想的なものだった。

妻である早苗は家庭的で近所で評判になる程可愛かったし、息子の直矢もその遺伝子をしっかり引き継ぎ、目に入れても痛くないほど可愛い。

「ほら、見て、この眉なんか、あなたそっくりよ。きっと素敵になるわね」

「そんな事を言ったら、直矢の目は早苗と瓜二つだ」

こんな会話がよく繰り広げられていた。

親バカでない親は親ではない。

各々が、家族全員が愛しくてたまらなかったのだ。

直矢は、人見知りはするが良く笑う、とても愛らしい子供だった。

女の子と間違われる事もしばしばで、直矢はそれを嫌がって、少しでも髪が伸びるとすぐに切りたがった。

毎日早苗は直矢の手を引いて幼稚園まで送り迎えをした。

直矢がその日習った歌や、起こった事を一生懸命話すので、早苗も真剣にその話を聞いた。

あまりにも真剣になりすぎて、自宅の前を通り過ぎる事もあった。

そんな時は二人で笑い合いながら、再び道を戻るのだ。

「またやっちゃったね、」と。

直矢が小学校に上がると、早苗は日中の余暇の時間が増えた。

「ねえ、洋介さん。わたしお料理教室に通いたいの」

洋介が風呂上りくつろいでいると、早苗はそう言っていくつかのパンフレットをテーブルに並べた。

意見を求めているようでいて、もう早苗の中ではどの教室に通うかまで丁寧に決められているようだった。

昔からそう。

ぼんやりしているようで、地に足はしっかりとついている。

そんなところも、早苗の魅力だった。

洋介はそれを微笑ましく感じながら、いいんじゃないかな、と笑顔で応じた。

ぱっ、と嬉しそうな表情が浮かぶ。

自分の親族の事で肩身の狭い思いをさせているという自覚がある為、早苗のそういった要望を拒んだ事はない。

早苗もそれをうっすらと分かっているので、あまり無理なお願いはしなかったし、頻繁に意見を言うことは無かった。

幸いにして、洋介にはそれらを叶えられるだけの経済力があった。

「わたし、お料理のレパートリーをもっと増やして、洋介さんを驚かせるわね」

「直矢も驚くんじゃないか。あんまり美味しいものをあげすぎると、俺の作った飯を食べなくなったりして」

「ふふ、あなたお料理したことなんてあったかしら?」

「うちのシェフには頭が上がりません!まあ、くれぐれものめり込まないでくれよ」

「気が早いわ、洋介さん。分かっています。ちゃんと直矢が帰ってくるまでにはうちに居るわ」

「ああ、あと・・・」

「怪我をしないように、でしょう?心配症ね、本当に」

可笑しそうに声を上げて笑う早苗に見とれながら、洋介は他愛も無い話を始めた。

直矢も早苗の習い事を快く応援した。

週3日。月、水、金、と、早苗はその教室に通った。

こうして、夕飯に出される料理の品目が増えていき、早苗の料理の腕も上達していった。

それは幸せすぎる日常だった。

この幸せはずっと続くと信じて疑わなかったし、夫婦で老後の旅行の話までしていた。

今にして思えば、この日々は直矢にとって残酷すぎるものだった。

忘れることの出来ない10月28日がやって来た。

その日は朝から土砂降りで、雨がアスファルトにうるさい位に叩きつけられていた。

直矢は水色のビニール傘をさしながら、帰路を急いでいた。

今日は7歳の誕生日。

誕生日には、いつも仕事で遅いお父さんも、仕事を早めに切り上げて帰ってくる。

お母さんは、いつも通り玄関の扉を開けると笑顔で出迎えてくれる。

そして決まってこう尋ねる。

『直矢、お帰り!今日は何があった?』

今日は色々な事があった。

学校で行われた球技大会で直矢のクラスが優勝したし、先週のテストも帰ってきた。

何人もの友達から誕生日を祝って貰った。

その話を早く聞いて欲しくて、自然と足が早まった。

いつもよりも早く家に着いた。

早く家の中に飛び込んで、早苗に、いつもの通りに迎えてもらおうとした直矢の期待に反し、ドアには鍵が掛かっていた。

あれ、と直矢は首を傾げる。

「お母さん?お父さん?」

ノックをしながら、家の中へ向かって叫んだ。

沈黙が返ってくるだけだった。

――――――寒い。

(・・・まだ、かな)

何で、鍵が閉まっているんだろう。

二人はどこに行ったんだろう。

そんなもやもやとした想いが、黒い霧のようになって心を埋め尽くしていくので、誕生日の楽しい気分はどこかへ吹き飛んでいた。

叩きつける雨が、濡れた服が、容赦なく体温を奪っていく。

寒くて、歯かカチカチと音を立てる。

鞄は重たかったので、足元に置いていた。

その脇に、両腕で身体を抱えながら体育座りに腰を下ろした。

玄関の、開かない重い扉に背中を預ける。

こんなこと、今まで無かったのに。

言葉で表現できない不安な気持ちが脳裏を掠めては消える。

(はやく、帰って来て)

玄関の小屋根から滴った水滴が、頬に落ちた。

「・・・っぅ、え・・・っ・・・」

寂しくて、不安で涙が溢れた。

大丈夫、二人ともすぐに帰ってくる。

あと少ししたら、車が留まって、お母さんが助手席から駆け出してきて、「ごめんね、遅くなっちゃって」。

お父さんは荷物を抱えながら、「道路が混んでいたんだ」、って、申し訳無さそうな笑い顔で。

そう自分に言い聞かせた。

随分長いことそうやって膝を抱いていた。

もう泣いてはいなかった。

泣きつかれて、ただぐったりとドアに寄りかかっていたのだった。

バタン!と丁度車のドアが閉められるような音が響く。

顔を上げたが、一瞬の期待は見事に裏切られた。

(・・・パトカーだ)

心がざわついた。

助手席から降りてきたのは、お母さんではなく、警察の制服を着た女の人だった。

「和泉・・・直矢くんね?」

なんだかよく分からないまま、それでも不安だけが胸を占めて、こくりと頷いた。

その拍子にまた涙が零れた。

不意に、女の人に抱きしめられた。

暖かくて、自分が思っていたより自分の身体が冷え切っていた事をじんわりと実感した。

「落ち着いて、お姉さん達と来てくれる?」

その人の声は震えていて、それが悲しくて、やっぱり不安を助長して、一度は止まった涙がまた頬に伝った。

頷くしか、道は無かった。

「今日、直矢くんの誕生日なんだって?」

なんでそれを知っているんだろう。

疑問が浮かんだが、それが音として発音されることは無く、直矢は黙って首を縦に振った。

助手席に座っていた女の人は、パトカーの後部座席を直矢に勧めた。

直矢が乗り込むと、女の人もそれに続いた。

テレビのドラマなんかで見るのと違って、速度はゆっくりで、やけに静かなパトカーだった。

『寒かったね、』から会話は始まり、それからは身体のどこかしらに手を添えられながら、途切れ途切れの会話が始まった。

「直矢くんのお父さんと、お母さんね、予約してあったケーキを取りに行っていたのよ。きっと、直矢くんのケーキね」

「・・・」

「その途中でね、とっても大きなトラックが・・・二人の乗っていた車にぶつかったの」

―――トラックが?

―――お父さんとお母さんに?

―――ぶつかった?

咽喉のさらに奥の方から、酸っぱいものが込み上げてきた。

横にいる女の人をちらりと見たが、自分の相槌を逐一待っているようで、話を続けようとはしない。

(・・・どう、しよう・・・)

俯いた直矢を気遣って、背中に手が回された。

「・・・直矢くん?大丈夫?」

「・・・気持ち悪い・・・」

ぐるぐるした気持ちが頭の中を駆け巡った。

瞬きをする度に焦点がぶれ、目が回る。

車の揺れと相まって、吐き気はより確実なものへと姿を変えていった。

込み上げてくるその波に、堪らず直矢は身体を折った。

おでこと膝がぴったりとくっつく。

「直矢くん」

手際よく黒い袋が差し出される。

こうなる事は分かってたよ、という具合に。

「うえっ・・・っぇ、うっ・・・げほげほっ、ゲホ」

酸の臭いが鼻腔につくのに比例して、袋の重量が増していった。

背中をさすりながら、なおも女の人は続ける。

「直矢くん、聞いて。これからお父さんとお母さんの所に行くのよ。・・・お父さんは、頑張ったんだけど、」

「なん、・・・っで、」

咳き込みながら、喘ぐようにして女の人の言葉を遮った。

黒い袋を抱えて、胃の中の物を吐き出しながら、それでもそうしないではいられなかった。

「何で、音、鳴らさないの」

「え?」

「パトカーって、・・・音、鳴らすんでしょ」

「あ、ああ、だって、今は悪い人を追いかけているんじゃないのよ。・・・それが、どうしたの?」

怪訝そうな顔をされたので、なんでもない、と首を振る。

乗り物酔いみたいな気持ち悪い感覚も、目の前がチカチカする感覚も、全部の感覚が引き潮のように遠ざかっていった。

『急ぐ必要はない』ということは、もう、結論は見えていた。

車の速度がいっそう緩やかになった。

ふとまどの外に視線を動かすと、何度か通ったことのある病院の目の前だった。

車のドアが開けられて、降りて、と促される。

地面に足をつけたものの酷い眩暈がしてふらつき、手にしていた黒い袋が地面に落ちた。

「あ、・・・っ」

口を閉じてなかったので、自分の吐いたものが地面にぶちまけられる。

だいぶ日が落ちて来ていて、暗くてよく見えなかったが、それでも足元に自分の吐いたものが広がっているという状況は嫌だった。

それに気付いた女の人がやんわりと微笑みを浮かべる。

「大丈夫よ、後で流しておいてもらうから。・・・それより、ついてきてもらえる?」

「・・・うん」

行きたくない、という漠然とした思いが染み出してくる。

嫌だ、というイメージだけが脳裏にこびり付いて離れなかった。

それでも深く考えようとすると頭痛がして、ただ足を動かす事しかできなかった。

「直矢!!!」

突如名前が叫ばれて、顔を上げると病院のエントランスに叔父さんが居た。

叔父さんは真っ直ぐに走り寄ってきて、そのままの勢いで抱きつかれた。

そのまま叔父さんはずるずると崩れる様に地面に膝を付く。

耳元で押し殺したような嗚咽が聞こえる。

大人が泣いているのを見るのは初めてだった。

「佳宏・・・叔父さん、」

言葉を発すると同時に現実に引き戻されて、両目から涙が溢れてきた。

「お父さん、・・・お母さん・・・!」

自分で思っていた以上に細い声で、しかもそれは震えていて、それを自覚すると余計に涙が止まらなかった。

一生分泣いた気がした。

悪循環と不幸の歯車が動き出したのは、この時だった。

佳宏叔父さんに連れてこられたのは、四角い薄暗い狭い部屋だった。

誰も一言も発さない。

白衣を着た女の人が、「10分だけです」と、叔父さんに耳打ちするのが聞こえた。

空気は流れていないかのように重く、ずしりと全身を覆った。

白い塊が二つぼんやりと目に映った。

そのうちのひとつに女の人は近づき、白い布をお腹の辺りまで捲る。

お母さんだった。

お母さんの姿は静かだったけれどあまり変わっていなくて。

寝ている様にも見えた。

もっと近づいて話しかけて触れれば起きるんじゃないかと思った。

「吃驚したでしょう」そう言って目を開けるんじゃないかと。

けれど横たわるお母さんから発せられる空気はそんなに活動的なものではなくて。

鋭く尖って切れそうな位に冷たいそれを感じて、怖くなって止めた。

横にはお父さんも横たわっていた。

全身が白い布に包まれたままで。

「見ない方が良い。どうしても最後に会っておきたいなら、それは直矢の好きにしなさい」

叔父さんが真っ直ぐに真っ白なお父さんを見据えて言った。

涙を押し殺した声だった。

「・・・ううん。いい」

沈黙が怖くて、不安で、堪らずに首を横に振った。

「・・・直矢は、偉いな」

叔父さんの暖かい大きな手が頭をゆっくり撫でてくれた。

(・・・偉くなんかない)

逃げただけなのだ。

怖くて、怖くて。

お父さんがお父さんでなくなってしまったのを見たら、お父さんを思い出せなくなってしまいそうで、それが怖くて、逃げただけ。

「10分です」

そんな声が響いて、お父さんとお母さんとの時間は終わった。

これが、二人の物質的な存在を確認した、最後だった。

かくして、その次の日からは佳宏叔父さんの家での生活が始まった。

叔父さんと、何度か会った事のある叔母さんと、一度も会った事の無いお兄さんが居た。

「直矢くん、大変だったね。私、小百合叔母さん、覚えてるかしら」

と、叔母さんは言った。

「始めまして。俺、貴樹。15歳」

と、お兄さんは言った。

「・・・よろしくおねがいします」

叔父さんの背中に隠れて、そう答えるのが精一杯だった。

「直矢、ここはもう直矢の家だからな。そんなに緊張するなよ!」

ぽんぽんと叔父さんは肩を叩いてくれたけれど、緊張するななんて、そんなこと、出来る訳ない。

叔父さんのそれがただの空元気で、気を遣ってくれてるのだとは分かった。

けれど、それに乗ってあっけらかんとしていられるかと言ったら、到底無理な話だった。

お兄さんはずっと部屋に篭って勉強をしていて、あまり話す機会は無かったから良かった。

どう話していいのか全く分からなかったから。

叔母さんには、馴染めなかった。

自覚している人見知り以外にも、理由はあった。

『お母さん』を見たことだ。

叔父さんは、もともとたくさん話した事があったし、遊んだこともあった。

それに、自分は『お父さん』を見ていない。

だから、お父さんのポジションに『お父さん』でない叔父さんが来ても、丁度空席を埋めるような具合に、頭の中で整理がついた。

けれど、横たわる『お母さん』を、自分は見ている。

まるで今にも動き出しそうな『お母さん』を見ている。

お母さんの椅子には、まだ『お母さん』が座っているような気がして。

叔母さんはどの席に座るのか、いくら思い込もうと頑張っても、そこは空席にはならなくて。

そう思ったら、酷く混乱してしまって、考えを進めることはできなくなってしまった。

使われて無かった個室をひとつ、「直矢の部屋だよ」と与えられた。

ベッドも、机も、本棚も、前の家で使っていたものは一つも無かった。

布団も、新品の匂いがした。

心の奥が痺れた様に寂しさを訴えたけれど、それにしっかりと蓋をした。

(慣れなきゃ、・・・慣れなきゃ)

お父さんの親戚の人達には会った事がなかったし、仲が悪いのかな、と子供ながらに感じていた。

だからこそ。

(慣れないと・・・ここに居られなくなったら、どこにも行けない・・・!)

そんな脅迫じみたものに囚われて、慣れない布団の匂いも、妙にしっくりこない机も見ないふりをして、ひたすら「ありがとうございます」を呪文のように唱えた。

タオルは好きなのを使っていいのよ。ありがとうございます。

食器も好きなのを使っていいけど、ご飯茶碗と箸はこれね。ありがとうございます。

冷蔵庫も勝手にいじっていいけど、何か食べたければ言うのよ。ありがとうございます。

叔母さんが眉間に皺を寄せているのを見て、胸がざわついた。

嫌われないようにしないといけないのに。

「ありがとうございます」と「ごめんなさい」。

他に術は見当たらなかった。

一週間程、その家に一日中篭る日々が続いた。

お兄さんは朝早くに中学校に行くし、叔父さんはそのさらに前に会社に行っている。

叔父さんは会社に行く前に必ず僕が寝ている部屋に寄ってくれて、僕に「行ってくるからな」と声を掛ける。

そのときは固まっていた頬の筋肉も緩んで、笑えるんだ。

叔母さんと過ごす時間が一番長かったけれど、あまり話しはしなかった。

叔母さんのことは嫌いじゃない。

でも、お母さんは『お母さん』だけで。

だから、どう接していいのか分からない。

「フレンチトースト、食べる?」

フライパン片手に叔母さんは話かけた。

キッチンテーブルから身を乗り出して。

見慣れない新品の香りのするものが何となく居心地悪くて、僕は折角与えられた自室ではなく、リビングのソファでぼんやりと過ごすことが多かった。

「ありがとうございます」

空腹ではないけれど、満腹でもない。

自分のお腹の空き具合も、何だかよく分からなかった。

ぱっと顔を上げたけれど、目を見ることはできなくて、叔母さんの首の辺りを見上げて答えた。

だから、叔母さんの眉間にやっぱり皺が刻まれてることに気付かなかった。

叔父さんの家に来て一週間後、学校に行くようになった。

叔父さんは「もう少し家で休んでたいか?」と聞いてくれたけれど、僕は寧ろ家から出たかった。

いろいろな事をして、いろいろな物を見て、目まぐるしくして頭の中からもやもやした考えを消し去りたかった。

「大丈夫。学校行くよ」

そう言うと叔父さんは微笑んで、頭を撫でてくれた。

大きな手。

温かい手。

「本当に直矢は偉い子だ」

(・・・だから・・・偉くなんか、ない)

ランドセルはさすがに以前まで使っていたものだった。

ただ、お母さんが作ってくれたカバーは、無くなっていたけれど。

剥き出しの黒い革。鈍く光を反射するランドセルは、新品同様だった。

お母さんとお父さんを忘れなければいけないのか、時々酷く迷う。

忘れた方が良いと、叔父さん達は思っているのだろうか。

でなければ、こんなこと。

学校は、歩いて15分の所にあった。

校舎の造りも、窓の大きさも、当然だけど、前の学校とは全く違った。

1年3組だからね、と言われて、最初の日は叔母さんと登校した。

教務室で何かを話して、それから校長室にも呼ばれて話をしていた叔母さんとは、道中一言も話せなかった。

俯いて、ひたすら後をついていった。

それはとても気まずくて、だから次からは一人で登校できるように必死で道順を覚えた。

カーブミラー、電柱、公園。

見えた物を写真のように切り取って記憶して、断片的なそれを何とか整理して、頭の中に拙い地図を作った。

担任の先生は、前原先生といった。

背が高くて、日に焼けた、スポーツ選手のような先生だった。

叔母さんが帰った後、前原先生は廊下で突如僕の肩を掴んだ。

「よろしくなあ、直矢。何かあったら、先生に何でも相談するんだぞ」

吃驚して、あっけにとられて、ぎこちなく頷く事しか出来なかった。

教室の雰囲気は暖かかった。

名前を言おうとして、叔父さんの苗字を思い出して、どうしようかな、と少し迷って、それでもやっぱり「和泉直矢です」と言った。

休み時間になると質問の嵐だったけれど、前原先生が何か予め言っておいてくれたのか、それとも本当に興味の矛先が向かなかっただけなのか、頭で考えなくても答えられる質問ばかりだった。

好きな食べもの。嫌いな食べ物。

ゲーム、テレビ、勉強。

けれどそれはそれで正直戸惑って、そんな事初めての体験だったから、どうして良いか分からずに聞かれた事にぽつぽつと答えて言った。

「ね、何で髪の毛伸ばしてるの?女の子かと思ったよ」

誰かがそう言った。

髪の毛。

そういえば最後に切ったのはいつだっけ。

お母さんが短ければ女の子に間違われたりしないわよ、と言っていて。

よし、じゃあ一緒に髪の毛を切りに行こうか、とお父さん。

やだ、直矢の髪くらいわたしが切れるわよ、と言ったのは、

「・・・っ別に、伸ばしてる訳じゃ・・・」

蓋の隙間から溢れた記憶の断片。

それを断ち切るように、髪の毛に触れようと手を伸ばしてきた女の子の手を払った。

―――これまでの記憶を仕舞い込むには、箱があまりにも小さくて。

きょとんとした女の子の顔はみるみる泣き顔になった。

―――けれど小さく小さくしておかないと、新しいものを入れられなくて。

名前も知らない女の子は泣き出した。

息が、苦しい。

不完全アナリシス

「和泉の家」に行った日の、その翌日も和泉は欠席だった。

結局、和泉は3日間も休んでいたことになる。

担任が言うには風邪らしいが、それが重症なだけなのか、それ自体嘘なのか、はたまたまた学校に来なくなってしまったのか。

和泉の携帯番号も知らない橋葉には、確認の術がなかった。

和泉が登校してきたのは、二時間目が始まってすぐだった。

化学の時間。

教卓で丁度実験が始まった時で、教室内の緊張やら、集中やらが入り混じった沈黙を和泉は崩した。

要するにタイミングが悪かったのだ。

遠慮がちに引かれたドアの音は、それでも響き渡って、教室中の途切れた集中は一斉に和泉に矛先を変えた。

教室中に注目された和泉は驚き、反射的に後ずさりドアにぶつかった。

どこからか舌打ちが聞こえた。

それが聞こえたのか先生は一瞬眉をひそめ、和泉に声をかけた。

「遅刻か。職員室には寄ったか」

「・・・はい」

さっきまで和泉に浮かんでいた表情はすでに形を潜め、また無機質な無表情になっていた。

「席に着きなさい」

「はい」

真っ直ぐに和泉は席に着いた。

律儀に毎日教材を持ち帰っているらしい、重そうな鞄を机に置き、中から教材を丁寧に出す和泉。

「おはよう」

緊張している自分がいた。

和泉相手だと、どうも調子が狂うのだ。

たかが、あいさつなのに。

「おはよう」

和泉から返って来た言葉は小さくて、けれど、それでも十分だった。

「和泉、何かすっごい久しぶりな感じがする。本当にただの風邪?」

授業が終わるや否や、橋葉は和泉に話しかけた。

和泉に聞きたい事は山ほどあった。

ありすぎて、十指に余るほどだ。

あの女の人は誰か。

あの住所は本物か。

何よりも気になっているのは、あの人が言っていた「和泉なら死んだ」という発言はどういう意味なのか。

あれからずっと引っかかっていたが、和泉は確かに今目の前に居るし、それが直接的な意味ではなく比喩のようなものなのだろうとしか想像できなかった。

それにまず、和泉を一番最初に保健室に連れて行った時に和泉本人が言った、「おれと関わると不幸になる。みんな死んでいった」というのも、一体何を意味するのだろう。

何かしらの関係はありそうだが、如何せん和泉については知らない事が多すぎた。

加えて口にするにはあまりにも重いワードが連立するので、迂闊に尋ねる事さえ憚られたのだった。

結局、和泉との会話の糸口は、そんな当たり障りないものになってしまった。

「そんな・・・三日だよ。おおげさ」

化学の時間も終わり、次も移動教室ではないので、教室内はそれなりに騒がしい。

和泉の小さな声はあっけなく掻き消される。

「え、何?」

和泉の声が聞きたくて、椅子に座ったまま和泉の方に身体を寄せた。

それだけ、だったのに。

和泉は驚いて跳ね上がった。

驚いて、というより、怯えて、に近いのかもしれない。

目と表情が警戒心を顕著に表している。

不自然に伸ばされた背筋は橋葉から少しでも離れようという無意識下の防衛反応だった。

「・・・え?」

「え、あれ、何だろう・・・。吃驚して、・・・」

ごめん、と呟く和泉。

それは本当に意図しない行為だったらしく、和泉本人も驚いている様だった。

和泉は時々、こんな反応を示す。

そう橋葉はぼんやりと考えた。

こういうの、パーソナルスペースって言うんだっけ。

きっと和泉は極端にそれが広い。

・・・そうなったからには、何か理由があるのではないか。

和泉の思いつめた表情と、あの女性の鬼気迫った表情が頭の中に浮かんでは消える。

もしかして、例えば、あるいは――――――――・・・

(違う、だめだ)

考えが膨らみそうになるのを、慌てて打ち消す。

和泉の家に行ってから、色々なことを想像で考えたので、どうやら想像力が豊かになってしまったようだ。

余計な詮索は、やめよう。

いくら考えたところで、所詮は想像の域を出ない。

そもそも明確な理由があるのかさえ分からないのだ。

全ての物に関連性を持たせようとするなんて、まるで陳腐なミステリー小説ではないか。

まどろっこしいが、心理戦に出る事にした。

実際には“心理戦”だなんて大それたたものではない。

ただちょっと、相手の反応を窺ってみるだけ。

「そうそう、和泉が居ない間にだいぶプリント溜まってるんだよ」

話題を変えたかった、というのもある。

教室内のざわつきが、微妙な空気を埋めてくれて助かった。

ほら、と言いながら和泉の前にプリントの束を掲げてみる。

もし、あれが本当に和泉の家なら、プリント、というワードに何かしらの反応を示さないだろうか。

自分はあの日和泉にプリントを届けに行ったのだし、あの妹尾小百合さんという女性にも伝えてある。

「そうなんだ。見せて」

期待に反し、和泉の反応は至って普通だった。

模試の申し込み用紙を見て、むむ、といった表情。

これで何かしらの反応があれば、少なくともあの家と和泉の関係性は証明されたのに、やはり振り出しに戻ってしまった。

和泉は、なんて事のない内容のものにも丁寧に目を通しているようだ。

しかし3枚目に差し掛かった頃だろうか。

ぴくりと人差し指に力が入ったかと思ったら、次には激しく咳き込んでいた。

「大丈夫!?和泉、まだ治ってないんじゃない?」

「げほっゲホ、・・・へ、いき、ただの風邪だから」

風邪で欠席、というのはどうやら事実らしかった。

慌てて和泉の背中をさすろうと、橋葉が手を伸ばしたのと同時に、始業のチャイムが鳴った。

立って話をして居た人も、徐々に自分の席に戻っていく。

和泉に届かなかった右手は、宙を掴んで行き場無くひっこめっれた。

ほんの少しの空虚感。

次の時間の準備をしていない。

チャイムが鳴り終わった時、思い出したように現実に引き戻された。

和泉のような律儀な性格を持ち合わせていないため、教材はロッカーに置いてある。

一番後ろの席は、こういう時非常に便利だ。

取りに行こうと立ち上がった時、ジャケットの裾が掴まれた。

え?と思って振り返ると、和泉が座ったまま身体を折っていた。

「・・・どうしたの、和泉」

教員こそまだ来ていなかったが、時間的には授業は始まっていることもあって教室内は静かだ。

声をひそめてそう聞くと、弱々しい声が返ってきた。

「・・・気持ち悪い・・・」

真っ青な顔でそう言うと、片手を口元にあてがい俯いてしまった。

「えっ」

さっきまで普通に話していたのに。

表情はもう分からない。

丁度その時、静まりかえって居た教室の空気を切り裂く様にドアが開く音が響き、「あー、送れて悪かったなー」なんて呑気な声を上げながら教師が入って来た。

「起立、」

学級委員の声が響く。

ガタガタと音を立てて椅子が引かれる。

和泉は当然立ち上がる事なんてできそうになかった。

(本当に、タイミングの悪い・・・!)

「・・・和泉、次の授業出れそう?」

微かに首が横に振られる。

「礼、」

立ち上がりもしなければ礼もしない、そんな二人に気づいた周囲から、訝しげな視線が送られる。

「・・・保健室行こう」

これには、微かに肯定の意思表示。

「着席、」

「先生」

再び椅子を引く音が教室内を包む中、左手を上げて教師を呼び止めた。

「3番の和泉直矢を保健室に連れて行きます」

突然上がった号令以外の声に、一瞬間の抜けた表情を見せた教師だったが、和泉の姿を視界に捕らえ頷いた。

和泉は来たときと同じ位の視線を浴びながら、教室を後にした。

教室には、一時間と居なかった。

和泉の体調は急降下した。

時々、息を詰めて廊下の壁に寄りかかる。

ちらりと見えた唇は血の気が失せていて紫に近い。

こんなに体調が悪いなら、もう一日位、休んでてもよさそうなものを。

橋葉はそのままへたり込んでしまいそうになる和泉を何とか支えて、慎重に3階まで降りた。

「・・・っう、」

突然襲ってきた強い吐き気に、和泉は膝を折った。

支えを失った身体はそのままもつれる様に体勢を崩す。

「和泉!」

このままだと頭から倒れてしまう。

そう思って反射的に和泉の腕を掴んでいた。

とっさに掴んだ腕は左腕だった、と、そんなどうでもいい事が頭の隅に浮かぶ。

重力に任せ傾いだ和泉の身体は、けれど一方では橋葉に引かれ、がくん、とバランスを失った。

それが引き金になったのだろう。

和泉は堰を切った様に嘔吐した。

「!」

あまりにも唐突で、あっけに取られてしまった。

「っぅえ・・・っ」

和泉の体内から押し出された吐瀉物が、廊下の床に広がる。

口元を覆っていた右手は、気休めにしかならなかったようだ。

何度か息を整えようとしていたが、その度に酷く咳き込んでいて、見ているだけで苦しくなる。

「げほっ、ゲホッゲホ、う・・・っぅ・・・え、げほっげほっ、ゲホッ」

そこで初めて和泉の左腕を掴んだままだったと気付いた。

血の巡りが悪くなった指先はぎょっとするほど冷たかった。

「はあっはあ、はーっ、はぁっ、はぁ・・・っ」

荒い呼吸は、悲鳴にも聞こえた。

否、掠れたそれは本当に悲鳴だったのかもしれない。

「和泉、保健室行って先生呼んでくるから。少しだけ、だから、ちょっと待ってて」

こんな状態で1階まで降りろという方が無理だ。

吐いてしまった物もあるし、何よりまだ和泉の呼吸は落ち着いていない。

混乱している頭でそれだけを考え、残りの階段を駆け下りた。

「南条先生、っ」

ドアに掛けた手には思いのほか力が入っていて、派手な音を立てて引き戸が開いた。

息んで飛び込んで来た橋葉の期待にに反し、保健室には誰も居なかった。

・・・と思われた。

「あっ、はい、はい。居ますよ」

どうしましたか、と言いながら南条は一番奥のベッドのカーテンを抜けて出てきた。

(誰か、居たのか)

騒がしくしてしまった事への罪悪感が胸に広がる。

どういう訳か緩んだネクタイを正している南条に、橋葉は状況を伝えた。

和泉が倒れたんです、と切り出すと、南条の表情は一気に真剣なそれへと変わった。

「それで、どこに?」

「3階廊下です。教室棟の」

「分かりました。・・・和泉君は、さっき登校して来たばかりなんですよね」

「ええ、そうなります」

「では早退させた方が良いですね。ええと・・・そうですね、私は和泉君を特別棟の保健室で休ませようと思っているので、ご家族の方への電話、橋葉君にお願いして良いでしょうか」

あちらには電話が無いんです、と付け足す。

「分かりました。それより、早く、」

きっと一人で蹲って居るであろう和泉の所に一刻も早く向かってくれ、という思いで一杯だった。

「私の机の上に黒いファイルがありますから、その中から速やかに和泉君宅の連絡先を探してください。電話を終えたら、橋葉君は教室に戻ってくださいね」

言われなくとも、他人の個人情報なんかに微塵の興味も無い。

南条が保健室から出て行くのを待たずに、橋葉は奥の机に向かった。

50音順にファイリングされていた為、和泉のデータは直ぐに見つかった。

保護者連絡先の欄に目を通す。

携帯の番号だった。

間違えない様慎重に番号を打ち込みながら、脳裏にはあの女性の姿が浮かんでいた。

(・・・小百合さんが、出るのだろうか)

和泉なら死んだ、とヒステリックに叫んだあの女性が電話の相手でないことを祈る祈る思いと、あの家は和泉の家だという確証が欲しいという矛盾した思いを抱えながら、コール音を聞いた。

「もしもし」

相手が電話に出る気配が無く、諦めかけたその時、受話器の向こうから響いた声は、橋葉の祈りの前者を叶えた。

学校名を告げると、「直矢がどうかしましたか」と尋ねられてしまった。

第一印象は、爽やかな好青年。

実際の姿を見た訳では無いので当てにならないかもしれないが、この人を妹尾小百合の夫と考えるには、若すぎる声に聞こえた。

「申し訳ありません、教師では無いんです。同級生の橋葉といいます。只今ご在宅ですか」

「仕事に行く所だったけれど、一応まだ自宅です。構わないので続けてください」

相手の声色は変わらなかった。

橋葉は焦る心を何とか落ち着かせ、事務連絡に努めた。

「一時間程前に登校して来ましたが、途中で体調を崩しました。養護教員の方で、早退させた方が良いと判断されたみたいです」

途中で相手が息を呑むのが聞こえた。

「・・・だから薬の飲み合わせに気をつけろと言ったのに・・・。分かりました、今すぐ迎えに伺います。ご迷惑お掛けして申し訳ない」

「いえ、そんな」

「連絡有難う御座いました。失礼します」

一瞬車のエンジン音が聞こえ、その次の瞬間には受話器は無機質な音を立てていた。

ぼそりと呟かれた一言に、質問を挟む余裕も、その混沌とした疑問を脳内で具現化する間さえ無いまま、通話は終わった。

__________和泉を3階保健室のベッドに収め、南条は元の、第一保健室に戻って来ていた。

「幸喜、出てきて良いですよ」

部屋に入るや否や、何条はそう口を開いた。

「はーい」

一番奥のベッドカーテンの向こう、間延びした声が響いた。

そしてひょっこりと、五十嵐幸喜は顔を出した。

「こういう事があるんですから、授業をサボって此処に来るのも大概になさい」

「あー、先生、お預けくらって拗ねてます?もしかして」

「・・・出入り禁止も考えますよ」

「冗談ですよ。冗談。さすがにこんな午前中から盛ってないです」

南条は深い溜息を吐いた。

「橋場君、勘鋭いでしょうし、気付いたんじゃないですか。そこに幸喜が居るって」

「それは無いと思いますけどねえ・・・。何よりあいつ、取り乱してましたからね」

まさにその言葉の通りで、南条にも、いつも本心が伺い知れない橋葉が妙に年相応に見えていた。

五十嵐でも、あそこまで慌てている橋葉を見たことは未だかつて無かった。

「彼、どうやら和泉君の事になると本気になるみたいですからね」

「・・・俺達みたいになると思います?」

「?といいますと」

五十嵐がくすくすと押し殺した笑い声を上げた。

あっと思った時には遅く、防ぐ間もないまま南条の唇には五十嵐のそれが押し付けられていた。

勢いが良すぎて歯と歯がぶつかる。

午前中から盛らないだなんて、よく言う。

何条は手にしていた教員手帳で五十嵐の頭を殴った。

「酷いですね、それ、角」

「そんな事より、和泉君のご家族の方、ご在宅ですって?」

「・・・その様でしたよ。話してるあいつの口ぶりからして」

文句を言う五十嵐を無視して話を進める。

よく見ると、机の上に走り書きのメモがあった。

『和泉 家族 在宅 迎えに来るそうです。』

これを見る限り、どうやら五十嵐の存在には気付いて居なかった様だ。

「・・・幸喜じゃないですけれど、あの二人はお似合いかもしれませんね」

五十嵐と目を合わせると、五十嵐は続きを促すように微笑んだ。

「橋葉君、彼自身は無自覚だと思いますが、少々やさぐれていると言うか、まあ以前の幸喜程ではないですが、ささくれ立った所があるでしょう。和泉君の方は誰か支えてくれる人が居ないと駄目になってしまいそうな気がします。彼が弱いというのではなく、メンタル的な面で。そんな二人ならお互いを安定させるのではないかなあと思いまして」

「俺も変わりましたけど・・・そんな風に考える先生も先生で変わりましたねえ」

「結果良い方に安定したので、結果オーライという事にしておきます」

調子の良い先生!そんな風におどけながら、今度は五十嵐が南条の胸を小突いた。

「さて、そろっと和泉君の様子を見に行かないと」

そんな和やかな雰囲気を、一気に冷却したのは、勢いよく開かれたドアだった。

「直矢は・・・!?」

校内を走って来たらしく、息が上がっていた。

その姿には見覚えがあった。

(確か、復学手続きの前に、和泉君の親権者代理で来た・・・)

「妹尾・・・貴樹さんですね。お久しぶりです」

軽い会釈を返す貴樹。

その目に、五十嵐が留まったようだった。

「彼が、電話の橋葉さん?」

「いえ、彼は絆創膏を貰いに来ただけの怪我人です。和泉君は3階の保健室で休ませていますので」

行きましょう、と促す。

南条は先に立って歩き、貴樹を案内した。

それは早すぎる到着だった。

十分後、五十嵐の居る第一保健室に、南条は戻って来た。

ぐったりとしていた和泉も、貴樹の姿を確認すると緊張が解けた様な、ほっと安心した表情になったし、それは貴樹も然りだった。

南条の感じた違和感は、五十嵐も感じていた様で、顔には怪訝そうな表情が浮かんでいた。

「幸喜、あなたこの前和泉君の家に行った時、どれ位の時間が掛かったんでしたっけ」

五十嵐に和泉の住所を教えたのは、他でもないこの南条だった。

「電車と徒歩で、トータル二時間位でしたね」

「・・・橋葉君と彼の電話が終わってから彼が此処に来るまで、何分でしたか」

「・・・15分です」

それでは、早すぎる。

「彼は・・・自宅に居ると言っていたんですよね」

「少なくとも会話を聞いた限りではその様でしたね。あいつもメモに残している通り、です」

和泉が学校に提出した書類には偽りがある。

分かったことは、これだけだった。

〈不完全アナリシス:END〉

曖昧なあれこれ

全てくだらないと思っていた。

要するに、子供だったのだ。

何もかもどうでもよかった。

学校はエスカレーターだし、お金にも困っていない。

このまま何となく過ぎていく毎日に乗っかっていれば、それなりの場所に辿りつける。

その先が自分に合う合わないなんて関係なくて。

その先で適応させていけばいいと思っていた。

嫌いなことは、本気になること。

何かに一生懸命になるなんて自分のする事ではないと思っていた。

恋愛ごとに熱を上げるなんて愚かだと思っていたし、それこそ自分の役割ではない。

本気になるのが苦手なのだと気付いていなかった頃のこと。

本気になるのを恐れていた頃のこと。

それに倣うなら俺は今、『愚か』だ。

(最も今ではそれが『愚か』だなんて、思いもしていないのだけど)

*
________3年前。

中等部の養護教員が変わった。

保健室。

五十嵐にとって格好の休息場だった。

これまでの養護教員はとにかく甘かった。

年齢は自分の母親よりも数年上。

サボりに来ても何も言わないし、にっこり微笑んで「そんな時もあるわよね」なんて言う始末。

好きではなかったが、見逃してくれるなら何でも良かった。

今回は、どうだろうか。

人の優しさに取り入るのは得意だった。

大抵の人なら、うまくあしらえて来た。

きっと今回も、取り入って、この部屋の一角を自分の休息場にしてやる。

そう考えながら、ドアを開いた。

「、いらっしゃい」

長身の男だった。

てっきり女だろうと思っていたから、正直意外だった。

荷物の片づけが終わっていないらしく、机の上には分厚い冊子と、プリントの束が無造作に置かれていた。

ドアを開ける五十嵐に気付き、柔和な微笑みを浮かべる。

その表情は、嫌味なくらい、格好良かった。

「どうしましたか?3年生ですよね、そのネクタイ。怪我でもしましたか」

荷物を整理する手を休め、白衣を翻して近づいて来た。

微かに、香水のような、そんな香りが漂う。

特に思い当たる理由もないのに面食らってしまっていたが、五十嵐はすぐにいつもの調子を取り戻した。

ネームプレートに目をやる。

「南条先生、っていうんですか」

名前を呼ぶ、という行為には大きな影響力があるものだ。

「先生、新しく来た養護教員でしょう」

「?ええ、違いませんが」

「俺、ここに休みにきました」

様子を伺う。

怒られてしまうようなら、何か別の手を考えなければならないから。

返って来たのは何てこともないリアクションだった。

「あなたでしたか、前任の松川先生が言っていた生徒は」

「・・・へえ、何て聞いていたんですか?」

「よく休憩しに来る男の子が居る、って。あの人は微笑ましそうに語ってました」

「なら、話は早いですね。あそこのソファ、空けておいて下さい」

微かに、緊張していた。

ここで一蹴されてしまったらどうしよう、とか、そういう類いの心配は一切無かった。

それよりも、この人の“読めなさ”が五十嵐に不安に近い何かを与えていた。

何を考えているのかさっぱり分からなかったから。

「容認はしませんが、追い出しはしませんよ。邪魔をしないなら、好きにしていてください」

微笑んでいるかにも見える表情で、そう言った。

その時は、大変満足だった。

何度か通って、会話をして、授業はサボれて、秘密基地を手に入れたような気分だった。

南条先生にも、自分は好かれてるのかもしれない、なんて、浅はかな思い込みまでして。

南条先生は俺を気に入って、保健室に通って来ることを咎めないのでは無かった。

心の底から、“好きにして”くれ、と思っていたのだ。

なぜなら南条先生にとって、俺の授業単位や出席日数、内申なんて、毛の先程の関心も無いものだったから。

五十嵐が南条の本性を見たのは、南条が赴任してから半年も経った頃だった。

無意識下であったが、五十嵐は南条と過ごすこの時間に心地よさを感じていた。

勿論南条は、そんなこと、微塵も思っていなかった。

“何もかもどうでもいい”と、本当に思っていたのは、南条だった。

まだ一限も始まっていない朝。

五十嵐は保健室に入るなり苛立ちを露わにした。

「先生、何で、勉強しなければならないんです?勉強の価値って何なんです?」

こんなこと、いつ使うのか理解できません、と、五十嵐は鞄から出した教材を床に投げ捨てた。

授業出席日数が著しく少ない、と学校から五十嵐の家に連絡がいった。

弁護士である父親は激昂し、どうしてお前はこうなんだ、と何度も殴られた。

『俺の後を継げ。』

ずっと言われ続けて来た。

誰も彼もがそう言った。

上辺だけの理屈とそれをあたかも受け入れたかのように諭す教師も、親も、本当は分かってなんていない事を『当然』にする。

それが『普通』で、『規範』なのだ、と。

そのあまりにも子供じみた質問を、突如ぶつけられた南条は、書類を書く手を休めた。

どんな時でも一向に変化を見せない微笑が浮かんでいる。

「どうしましたか、こんな朝から。感情的になるなんて、五十嵐君らしくないですね」

「っ!」

小ばかにされた気がして、五十嵐は南条に教科書を投げつけた。

こんなの、八つ当たりだと頭のどこかでは分かっていた。

南条は微動だにせず、教科書はそのまま顔面にぶつかった。

認めて欲しかった。

肯定して欲しかった。

まだ、もう少しは気楽でいいよ、と言って欲しかった。

南条なら、そうしてくれるだろう、という、全く根拠の無い甘えがあった。

「いい加減にしろ、クソガキ」

その期待に反して、南条から出たのは、今までに聞いたことも無いほど低いトーンの、別人の様な声だった。

「なん、じょう・・・」

五十嵐は驚きを隠せなかった。

「あなたが留年しようと退学になろうと知ったこっちゃありません。いつまでも甘えていたければそうして居れば良い。私には何の関係もありません。親がエリート?厳しい父親?辛い現実?それこそ関係を持つ必要のない事柄ですね。あなたの選択に巻き込まれたらたまりません。業務外です。私、最初に言いましたよね、」

静かに淡々とまくし立てた南条の口元には、酷く皮肉な微笑みが浮かんでいた。

「邪魔をしないなら、好きにしていてください、って。今のあなたは私にとって非常に不愉快な存在ですし、現実逃避も判断の放棄ですから、『好き』なようにもなってないですね。逆に問いますが、この程度のタスクも乗り越えられないで、そんなあなたの価値って、どれ程のものです?」

沈黙が部屋を覆った。

今までに浴びせられたことのない、辛辣な言葉だったが、五十嵐が感じたのは、不快感でも怒りでも屈辱でもなかった。

「先生、格好良い。付き合って」

あまりにも不意に出た本音で、五十嵐本人も驚いた。

けれどもうどうしようもできなかった。

だって、それこそが自分でも気付いていなかった、自分の中身なのだから。

「・・・はあ?」

完全無欠にも見えた南条は、予想外の極みな五十嵐の発言に、気の抜けた返事を返した。

持っていたボールペンが床に落ち、軽い音を立てる。

「いや、まじ、感銘受けました。真剣に付き合ってください」

「お、お断りします。あなたの様な子供に興味はありません」

「俺にこんなに現実を教えてくれたの今までに居なかったんです。ね、いいでしょう、南条先生?」

「寂しい人間関係を築いて来たんですね。拒否します。何よりまず、この教材を拾って鞄に戻しなさい」

「俺が勉強頑張るようになったら、付き合ってくれます?」

「未来のことは計りかねます。その気になったなら教室に行ってください」

「その気にさせてくれたの、先生ですよ。前向きな検討期待してもいいですか?」

「~~~~ああもう!自己判断に委ねます。ほら、早く片付けてください」

「先生、大好きになりました」

「はいはい有難う御座います。片付いたなら出て行ってください」

その朝は、南条に押し出されるようにして保健室を出た。

それから五十嵐はまさに一念発起し、南条を数ヶ月間口説いて回った。

南条が折れたのは次の年の春。

最初にお互いが抱いていた感情はお互いに明かさないまま、今にいたるのでした。

〈曖昧なあれこれ:END〉

フロック

すれ違う事実と事実。

和泉が二日も学校に来ていてない。

もともとかなりの長い期間埋まっていなかった空席は、まるでその状態がスタンダートであるかの様に自然で、気に留められることは少なかった。

でもかつての「空席」は、今は自分の「隣席」なのだ、と橋葉は思った。

二日の間に配られた集配物は無造作に和泉の机に突っ込まれている。

―――――届けに、行こうか。

提出が必要な課題もある。模擬試験の申し込み用紙もある。

ばらばらに詰め込まれたプリントを一枚一枚取り出し、まとめながら丁寧に折っていく。

届けないと、そんな無理やりな使命感にも近い衝動を抱えながら、なおも折り続けた。

届けに行こう。

プリントを全て折りたたみ終える頃には、その衝動は今日の予定に組み込まれていた。

和泉の家に行こう、そう決心したものの、住所はおろか和泉の携帯番号さえ知らないという事実が問題だった。

担任に尋ねてみても、相変わらずの疲れた声で個人情報だから、と突き帰されてしまった。

「サポート」も、そこまでは要求されていないらしい。

教室を見渡す。

この中に和泉の携帯番号を知っている人が居るとは思えない。

こうなったら、最終手段だ。

能面のような薄笑いを浮かべる友人の顔が頭に浮かんだ。

「それで、俺の所に来たの?」

「お前なら、生徒の住所位手に入るんじゃないか」

頬杖をついた五十嵐は、いつもの表情で俺を見返した。

「って言ってもねぇ・・・さすがに住所まで生徒が把握してたら、この学校の情報管理甘すぎじゃないかねえ」

窓の外に視線が逸らされる。

胸に落胆の色が滲んだ。

教員も駄目、五十嵐も駄目なら今日の予定は成立できないだろう。

「でもまあ」

思い出した様に五十嵐は呟いた。

「ちょっと頑張って見るけどねえ。おまえさんの頼みだし」

「出来るのか?」

「出来るとは言い切れないけど、手を打ってみようじゃないか」

窓の外に向けられていた視線が橋葉を捉える。

「有難う、今度コーヒーでも奢るよ」

丁度良くチャイムが響いた。

じゃあ、と言って立ち去ろうとすると、五十嵐に呼び止められた。

「コーヒーじゃなくて、パフェにしてくれる?」

甘党な狐。

似合わなすぎる。

そして放課後。

五十嵐の居るC組まで行こうと教室を出ると、丁度そこには五十嵐が居た。

入れ違いにならなくて良かった。

どうなった、と聞く前に五十嵐が口を開いた。

「おまえさん、感謝してくれよ」

そう笑みまで浮かべながらメモを掲げられる。

「悪用しないのと、俺が付いていくのが条件ですけどね」

軽く笑いながら橋葉はメモを受け取った。

丁寧な字で住所と最寄駅が書いてある。

「助かるが、恐ろしいな。一体誰から聞いてるんだ」

五十嵐はそれには答えず、曖昧いつもの狐顔で沈黙を埋めた。

「さて、結構遠いし行くとしますかね」

明らかにはぐらかされるのはあまり気分の良いものではない。

ただ、それを知ったからといってどうなるわけでもなかった。

「そうだな」

気付かないふり、というのは最善の選択だろう。

メモに記された住所は学校からかなりの距離があった。

和泉の家は、電車を二度乗り換え、駅から徒歩20分程の住宅地にあった。

閑静な住宅街。ゆるやかな上り坂を登った先。

「ほんとに、こんな所から通ってるのか」

遠すぎないだろうか。

メモを見た時からずっと浮かんでいた違和感だった。

学校なんて他にいくつもある。

どうしてわざわざこんな時間を掛けて、登校しているのか。

「少なくとも、この住所で学校には提出されてるねえ」

と、表札を確認しながら前を歩く五十嵐が立ち止まった。

「・・・ここじゃないか?」

左手のメモと表札を見比べながらそんな風に呟く五十嵐。

それに倣って視線を向けた時、橋葉は思わず眉間に皺を寄せた。

表札に、『妹尾』とある。

「苗字、違うけど」

「ああ、言い忘れてたよ。和泉って両親と暮らしてないらしいんだよね」

何と言うことも無さそうに五十嵐は言った。

無論、初耳。

「どうして」

「学校の事務室なんかにそこまでの情報提出義務はないからねえ。和泉の実家、もっと遠いとかね」

親戚の家、という事になるのだろうか。

とすれば、おそらく此処が、和泉の家、という事になる。

納得のいかない思いはあったが、これが頼りで、事実だった。

結局は和泉のことなんて、俺は全く知らないのだ。

見上げる程の高さの家だった。

横を見ると、既に五十嵐は目を細めて屋根を仰いでいた。

窓はしっかりと閉じられてて、まるで外の世界と遮断されているようだった。

生活感がまるでない。

「立派なお家だねえ」

「ああ」

言葉では言い表せない違和感が、橋葉を包んでいた。

何とかそれを形容しようとして、けれどどうにもうまく表現できなくて、言葉に詰まった時、背後に人の気配を感じた。

五十嵐もそれに気付いたようで、視線は橋葉を越え、さらにその後ろへ向けられていた。

それにつられて振り替えると、自分の想像より遥かに近く、一人の女性が立っていた。

買い物帰りだろうか、バスケットを携えて。

「どちら様?」

警戒心だらけの声で、目の前の彼女は呟いた。

化粧気はなかったが、綺麗なひとなのだろうと窺えた。

しかし痩せ過ぎて居るのと、はっきりと見て取れる目の下の隈で、病的な印象も受ける。

「妹尾さんでいらっしゃいますか」

「・・・ええ」

「ここ、和泉・・・直矢さんのお宅ですか」

ぴくりと、眉が動いた。

怪訝そうに、不快感を剥き出しで見上げられた。

「だったら、何ですか」

このひとと和泉の関係は何だろうか。

綺麗だが、和泉とは質が違った。

和泉の無機質な綺麗さは、けれどその中に人間らしい芯が一本あるような気がする。

けれど、目の前のこの女性、妹尾は、何か違う。

直感でしかないが、はっきりとそう感じた。

「二日も休んでるんで、集配物とか、」

沈黙が包む前に、と橋葉は口を開いた。

「あの子なら」

しかし橋葉の説明に覆い被せる様にして、まるで独り言の様に妹尾は呟いた。

「あの子なら、死んだわ。あの子は、死んだわ!」

突然の彼女の叫声に、二人が唖然としたのは言うまでもなかった。

普段驚くなんてことがない五十嵐まで、狐につままれたようになって彼女の声を聞いていた。

「あなた達、あなた達誰よ。何しに来たのよ」

静かな住宅街に、彼女の声が響いた。

先ほどの様子とは一変した彼女は、スイッチが入ったかのように感情的になり、橋葉の襟元を掴んだ。

「!」

「何なのよ、あの子なら居ないわ。死んだのよ!」

五十嵐が妹尾を引き剥がそうとするが、手加減せざるを得ない為苦戦する。

「ちょっと、・・・落ち着いてください、」

橋葉も彼女の腕を掴んでみたものの、力任せに突き飛ばすわけにはいかなかった。

どうするべきか分からず、この異常とも言える自体に脳がフリーズしていた。

その時だった。

「小百合さん!」

四人目の声が突如上がった。

その人は『和泉の家』から慌てた様子で飛び出して来て、妹尾の肩を引いた。

「小百合さん、落ち着いて。買い物から帰って来ないので心配しましたわ。家に入りましょう」

(このひとは、妹尾小百合さん、・・・っていうのか)

四人目の女性は諭す様に妹尾に語りかけ、器用に、自然に橋葉と妹尾を引き離した。

「あなた達、ごめんなさいね。お引取りくださいませんか」

女性はそう言い残して、まだ何かを呟いている妹尾の背を押し、家の中へ消えていった。

あっけにとられて暫くは呆然とその入り口を眺めていた。

分かったことは、和泉は事実とは異なる書類を学校に提出していたという事だけ。

わずか10分もない間だったが、何時間もそこで過ごしたような、強烈な印象と疲労感だけが残っていた。

<フロック:END>

トローチ

和泉が風邪をひく話。

***

そろそろ直矢を起こしに行かないと。

そんなことを考えながら、貴樹はまな板の上、ネギを刻んだ。

直矢は昔から酷い低血圧で、朝自力で起きて来たことは殆どない。

声を掛けただけじゃまず目を覚まさないし、布団を剥いでもやはり名残惜しそうに背を丸めるだけ。

そんなところも可愛くないと言ったら嘘になるが、出来れば目覚ましでも設定するなりして頑張って欲しいものである。

朝食も食べた例がないので、今作っている味噌汁も所詮個人用。

もしかしたら、学校から帰ってから食べてくれるかもしれない、と気持ち大目に作っているのだが、結局は自分の夜食になってしまう。

刻んだネギと豆腐を鍋に放り込む。

直矢のために紅茶でも入れようと、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、薬缶に注ぐ。

本当はしっかりと食べて欲しいが、無理強いをするつもりは毛頭なかった。

コンロの火を付け、キッチンを背にする。

さて、彼に朝を知らせに行こう。

「直矢ー、朝だよ。起きてー」

カーテンを引くと朝日が差し込み目にしみた。

直矢たっての願いで、カーテンは完全遮光性。

真っ暗だった部屋を、太陽の光が切り取る。

空気中のちりがきらきらとそれを反射して、まっすぐにベッドまで伸びた。

案の定、微動だにしない。

あまりにも静かに眠るものだから、生きているのか不安になった時もあった。

うつ伏せで寝る癖も、変わっていない。

「もう七時だよ。遅刻する」

暖房のスイッチを切る。

少し低めのベッドに眠る直矢の肩を揺すりながら、そう声をかけた。

「……ん、」

直矢は小さく呻いて、実に緩慢な動作で身体を起こした。

朝日で目が開かない様で、ぼんやりとした眼差しで何度も瞬きを繰り返す。

「おはよう。朝ごはん食べる?」

微かに首を左右に振る。

これが毎朝の恒例儀式だ。

答えなど分かっていたが、自分の心に落胆の色が滲むのはどうしようも出来ないことだった。

「そう。じゃあ先下行ってるから」

二度寝しないでね。

そう良い残して部屋を出、階段に足を掛けた時だった。

さっき出たばかりの部屋から物音がした。

それは丁度、人が倒れるような。

嫌な予感がして急いで戻ると、そこには案の定。

直矢がベッドから降りたままの体勢で倒れこんでいた。

2年前の“あの時”がフラッシュバックする。

血の気が引くのを感じ、慌ててそれを振り払った。

「直矢!」

とにかく冷静にならなければ。

慎重に抱き起こし、ざっと全身に目をやる。

(…よかった。どこも、怪我してない)

とすれば貧血だろうか。

直矢の表情は俯いていて分からない。

“あの時”の繰り替えしでないことにほっと胸を撫で下ろした貴樹は、そこで初めて直矢の体温が高い事に気付いた。

もしかして、と思い額に手を当てると、やはり熱い。

「なんだ、風邪か…」

普通に考えればおかしなことだが、それでも貴樹は「風邪」というレギュラーな状態に安堵していた。

だからといって当然放り出すわけではない。

ぐったりとした直矢を再びベッドに収め、職場には休みの連絡、直矢の学校には欠席の連絡を入れた。

直矢にとって風邪は厄介な状況で。

普段から薬を服用している直矢に、市販の風邪薬を与える訳にはいかない。

飲み合わせも考えた処方箋を貰いに行こうと言っても、大の病院嫌いの直矢を連れ出すのは困難なこと。

おそらく食べないだろうとは思うが、もしかしたら、という希望的観測の下、在り合わせの材料でスープを作ることにした。

確か冷蔵庫の中にグレープフルーツかスウィーティーか、何か柑橘類があった筈だから、それも後で剥こう。

果物だったら食べてくれるかもしれない。

考えを巡らせていると、咳き込む声が直ぐ近くで聞こえて、振り返るとリビングの入り口に直矢が立っていた。

ふらふらとキッチンカウンターまで歩いてくる。

「ゲホッげほ…たか、き」

掠れた小さい声。

いつの間に部屋を出たのだろう。

階段を降りる音なんて聞こえなかったのに。

「直矢?どうかした?」

「つまんない」

眉間に皺を寄せて、ずいぶん深刻そうな顔で言うのは、そんな事。

何となくおかしくて、頬が緩んだ。

「暖かくして、何か食べてくれるなら、ここに居ていいよ。ソファーに座ってテレビ見てたら?」

こくりと頷く。

熱に浮かされ潤んだ虚ろな瞳が貴樹を捉えた。

よほど退屈していたらしい。

「よし。ちょっとまっててね、」

手を洗って、暖房の設定温度を上げ終えるころには、直矢はソファーに寄りかかってちょこんと座っていた。

傍らにはクッション。

床に座り、全体重をソファーに預けているところを見ると、腰掛けて座る体力は無いらしい。

「そんなんで大丈夫なの?出来れば布団に入ってて欲しいんだけど…」

テレビの前に置かれているDVDケースから面白そうなものを探しつつそう呟くと、不満そうな声が返ってきた。

「居ていいっていったじゃん」

「まあ、そうなんだけどね …DVD、これでいい?」

結構前に話題になった映画のDVDを掲げてみる。

反応を窺うも、直矢はクッションに顔を埋め、気の無い返事を返した。

「時代劇じゃなければなんでもいい」

「…ケンカ売ってる?」

貴樹の趣味は時代劇鑑賞である。

ふふ、とくぐもった笑い声が聞こえた。

直矢がこんな風に感情を表してくれるまでに、随分掛かった。

たまにはこんな風に時間を過ごすのも良いかも知れない。

そんな風に思いながら、貴樹はDVDをデッキにセットした。

直矢の様子が変わったのは、それから10分後のこと。

テレビ画面に映し出されている映画はまだ序盤で。

出来上がったスープを弱火にかけ、グレープフルーツを剥くための小さいまな板を出そうと、棚に手を伸ばした時だった。

「…貴樹、」

搾り出す様な、呻く様な声で。

「ん?なに?」

「…吐き、そう」

驚いた貴樹の手をすり抜けたまな板が床に落ち、鈍い音を立てた。

慌ててキッチンを飛び出した貴樹が見たのは、体育座りでクッションに顔を埋めた直矢。

咳き込んでいるらしく肩を上下させるが、それは全てクッションが吸収していた。

「動ける?トイレ行こう」

背中をさすりながらそう話しかけると、直矢は少しだけ顔を上げた。

大きな目には隠しきれない程の涙が溜まっていて、今にも零れそうだ。

突如、激しく咳き込む直矢。

それが吐き気を堪えているのは明確で、しかしそれも限界が近いようだった。

直矢が立ち上がろうとソファーに手を掛ける。

けれど熱でふらふらの身体では、それさえも叶わなかった。

ぐらりとバランスを失った身体は、崩れるように倒れこんだ。

身体を床に打たないようにと貴樹が手をまわすのと、直矢が息を詰めるのは同時だった。

「っぅえ…ッおえ…っげほ、ゲホッゲホッ…うっ、え…っ」

むせ返る音と、吐瀉物が床に叩きつけられる音、それから映画の陳腐な台詞がでたらめに響いた。

「ゲホッげほ、っげほ、」

直矢は苦しげに肩を上下させ、腰を一層深く折った。

ぱたぱたと大粒の涙が零れ落ちる。

咳き込む姿があまりに苦しそうで、見ているこっちが辛くなってくる。

それから何度も咳き込み、やっと直矢の呼吸は落ち着きを取り戻したようだった。

「ごめんね、袋か何か持ってくれば良かった」

直矢はそれには答えず、だるそうにソファーに寄りかかった。

深く息を吐き、それから目を閉る。

涙の跡が頬に線を残していた。

虚ろな瞳が瞬いて、また涙を零した。

「みず」

ようやく発した第一声がそれ。

甘えてもらえるのが嬉しいなんて、どうかしているのかもしれない。

頼られる事で、自分を安心させている。

床を片付け、コップに注いだ軟水を渡すと、直矢は涙目で微笑んだ。

<トローチ:END>