ディスオーダー

校内で和泉が倒れる話。

***

和泉は廊下を歩いていた。

目的地は教務室。

体育教諭の折田に、見学申請をするためだ。

一単位の授業だから見学はかなりの痛手なはずだが、特例を認めて貰っている。

医者から激しい運動は控えろと言われているし、そもそも運動自体が嫌いなので、“特例”は有難い事だった。

どうせ毎回見学だと分かっているのだから、申請は省略させて貰えても良さそうなものだが、生憎その体育教諭の折田の性格は最悪。

申請を強要するくせその度に文句を呟く。

(どうせ“あの”校長のことだ… 説明も、省くんだろうな)

何度目か分からない溜息を吐いた時だった。

視界が揺れた。

あっ、と思った時にはその揺れは立っているのが困難なほど大きくなり、壁に身体を預けずるずるとしゃがみこんでしまった。

とっさについた手から、ひんやりと冷気が伝ってくる。

(……また、きた…)

和泉は何年も、突発的に、何の前触れもなく起こるこの発作に悩まされていた。

最近では罹患者が増えてきているのか、病院の待合室などでこの病気に関するパンフレットをよく見かける。

周囲への理解を求めるためだけのもので、大抵は呑気なイラストで埋められている。

発作には波があるが、今回のは、久し振りに、酷い。

「、は…っはあ、は、あっ…」

息が苦しい。

吸っても吸っても、肺まで届かない。

心臓が狂った様に脈打ち、心拍数が急上昇する。

何事かと好奇の目で見られたり、囁かれたりする声が、全て遠くの出来事の様に感じられた。

(気持ち、悪…)

漠然とした不快感。

(どうしよう…!)

経験上、10分から20分で症状が和らぐ事は知っていた。

けれどこの時の和泉に、そんなことを冷静に考えている余裕は無かった。

橋葉は廊下を歩いていた。

体育館に行くには東階段を降りていくのが最短ルートだった。

しかしその道順だと近いぶん混み合う。

それを避けるために橋葉はいつもあえて遠回りとなる西階段を選んでいた。

西階段を降りるとすぐに教務室に行き当たるので、生徒からは敬遠されているのも好都合。

友人の村野と一緒になって、雑談をしながらがら空きの階段を下っていく。

踊り場に差し掛かった時だった。

「なあ、何か騒がしくね?」

手すりから身を乗り出して一階を覗き込みながら、村野がそんなことを言い出した。

言われてみれば、確かに、変な空気が漂っている。

でも、騒がしいという程ではない。

ちょっと浮ついたような、そんな感じ。

「そうかなあ・・・ 模試の結果でも返ってきたんじゃない?」

あくびをかみ殺しながらそう答えるやいなや、村野はあっと声を上げた。

「あれ、和泉!?」

和泉、という言葉を聞いて、まどろんでいた脳が一気に現実に引き戻された。

聞き返すまもなく村野は階段を駆け下りていた。

俺も、それに続く。

角を曲がってまず目に写ったのは人。

数人が、何かを囲うように立っている。

そして次に目に入ったのはその奥、床にくっつきそうな位まで体を折って蹲る和泉の姿だった。

村野はすでに和泉に駆け寄っていて、周りにいた数人がそれに気付き、道を空けた。

「なに、どうしたの」

と村野。

和泉の近くで、和泉と目線を合わせる様にして屈んでいる別のクラスの生徒、柴田に尋ねる。

柴田は不満そうな表情を浮かべて顔を上げた。

「さっき急にこうなったんだよ。心配して声掛てやったのに、何の反応もしやしねー」

そのあまりの言い草に絶句した。

それぐらいなら、心配してくれなんて頼んだ覚えはないだろう、と言いたくなってしまう。

「和泉!おーい、具合悪ぃの?」

和泉と向き合って屈みながら声をかける村野。

村上の手が、額に被さった前髪をどかし、表情を覗おうとした時だった。

ぱしん、と乾いた音。

和泉が村野の手を払っていた。

突然のことに、村上は目を丸くしている。

「うっざ、お前、何とか言えよ!」

そう和泉に向かって吐き捨てた柴田は、怒りが頂点に達したのか、足を引いた。

____和泉を蹴り飛ばす気だ。

「和泉!」

とっさに和泉の身体を自分の下へ引き寄せる。

よろめきながらもされるがままといった様子で、抵抗は感じられなかった。

和泉が立ってもいられないようだったので、俺も屈み、和泉を支えた。

心なしか浅い、時々詰めるように止まる和泉の呼吸。

沈黙が廊下を包んだ。

空振りに終わった柴田は、ばつが悪いのかぎろりとこちらを睨んできた。

「暴力には反対だ。—–村野、俺と和泉、次遅れてくから。」

「あっ、ああ」

「・・・・行こうぜ、心配して損した」

後ろ髪を引かれているような様子の村野を引っ張るようにして、柴田が去った。

それに続くようにその他の野次馬も散っていく。

まるで台風だ。

和泉を引き寄せたままの、尻餅をついたような体勢は、布越しに俺の体温を奪っていった。

和泉は無言のまま、小刻みに身体を震わせている。

目の焦点は定まっておらず、涙で満たされた大きな瞳は宙を捉えるだけだった。

睫毛が涙をはじいて、窓からの光を乱反射させる。

どうすることも出来ないまま、俺は間抜けに座ったまま和泉の背中を撫でていた。

というのも和泉が俺のシャツを掴んで離さないせい。

柴田という台風が村上を巻き込んで去った後、誰かを呼んでこようと立ち上がろうとした俺のシャツを掴んだのは和泉。

無意識下の行動だと分かっていても、あれほどまでに干渉を拒んだ和泉から求められた事が嬉しかった。

だから、何かがおかしいようなこの状況にも、さほど疑念が湧かなかった。

きっと脳のどこかが麻痺していた。

和泉が正気に戻ったのは、それから5分後の事。

先ほどまでぐったりと俺の背中に回っていた和泉の手が、意思を持って俺の背中を叩いたのがサインだった。

「和泉?」

抱きかかえられたままの格好で、俺の制服に埋めていた顔を、俺の表情を覗うようにそろそろと上げた。

「和泉、大丈夫?何かただ事じゃない感じだったけど」

ずっと噛んでいた唇を開き、舌でしめらせるような仕草をした後で、和泉は口を開いた。

ちらりと見えた舌が何か、扇情的というか、妙に艶かしくて、慌てて目を逸らした。

「・・・・・・ごめん、おれ、・・・」

「ほんとに、こっちは大丈夫だから・・・。それより、和泉が大丈夫なの。」

あまりにも申しわけなさそうに謝るものだから、こっちが悪いことをしている気になる。

言葉を繋げられずにいると、意外にも和泉が沈黙を埋めた。

「・・・・・・・時々、なんだけど、ああなって、何もかも良く分からなくなるんだ」

ともすれば話す事を止めてしまいそうで、相槌を打ちながら和泉の話を促した。

和泉について知らないことが多すぎて、やっぱりそれはただの好奇心だった。

和泉から聞いたその症状の名称は、俺も以前に耳にしたことのあるものだった。

「どんな感じなの、それって」

「・・・目に見えたものが、細切れになって、それが重なって、頭の中に・・・・・ごめん、説明できない」

ちらっと目線を上げて俺を見上げた和泉の顔には、困ったような自嘲気味な笑いが浮かんでいた。

「はは、そうだよね」

平静を装いながらも、心臓が激しく脈打つのを気付かれないように必死だった。

こんな饒舌な和泉を見られるなんて。

「・・・和泉とちゃんと話したの初めてだ」

何気なく、そう呟くと、和泉はひどく驚いた表情をした。

その表情も直ぐにぎこちなく崩れて、微笑みを模る。

「・・・おれも、ドン引きされなかったの始めて」

一呼吸置いて、橋葉みたいなひと初めてだ、と付け足された。

どういう訳か、その日は一日中、頭の芯が痺れていた。

<ディスオーダー:END>

look after…

和泉と五十嵐の初対面。

***

人気の無い教室棟一階。

和泉は保健室へ通じる廊下を、軽く身体を折りながら歩いていた。

額にはうっすらと汗をかき、両手は腹部を庇う様に抱えている。

二時間目の途中、激しい腹痛――おそらくストレス性のものだろう――を感じた和泉は、休憩時間にひっそりと教室を抜け出していた。

三時間目の始業を告げるチャイムが響く。

それが丁度鳴り止んだのと、和泉が保健室のドアに手を掛けたのは同時。

無言でドアを開けると、そこには人影が二つ。

一人は白衣の養護教諭で、一人は制服だった。

「ああ、」

生徒の方が声を発した。

口元は笑みを作っているが、目は少しも動かず、不気味。

「・・・?」

(なに・・・この人達)

養護教諭は当然ここに居るべき者として当然だが、生徒の方は特に具合が悪い訳でもどこか怪我をしているという訳でもなさそうだ。

薄く微笑んだすがたはこの白い部屋とは全く不釣合い。

「・・・っ!」

思い出した様に腹痛が和泉を襲い、深く体を折った。

「先生、俺の方向いてくれません?」

「見て分かりませんか。私は、仕事中です」

低い声でついでにもう直ぐで出張の時間です、と付け足される。

カタカタとキーボードを打つ養護教諭、南条の肩に手を回し、五十嵐はディスプレイを覗き込んだ。

「そもそも幸喜、あなた今授業中でしょう。出席日数足りなくなって留年したら、私はこの関係を見直そうと思いますけど」

その言葉が自分を心配しているものだと五十嵐は分かっていた。

しかしそれを素直に喜んで受け取るほどの素直な性格を持ち合わせていない五十嵐は、あえてとぼけてみせた。

「そしたら先生がちょっと学校のパソコンいじって、皆勤とまでは言いませんが、規定の日数を満たすように書き換えてくれれば良いだけですね。期待しています」

にっこりと笑みを向けると、南条は大きく溜息をついて、眉間を揉んだ。

「あなたは私を懲戒処分にさせたいのですか」

そんな事をしたら、クビです、とまっすぐ立てた人差し指を、五十嵐の顔すれすれまで近づる南条。

五十嵐の鼻先と人差し指がぶつかった。
長い指に唇が触れる。

「そうしたら先生は、俺と暮らすことが出来ますねえ。・・・先生、俺と暮らしたいでしょう?」

その唇をそのまま南条の顔まで移動させようとした時、物音がした。

それにドアが控え目に開かれる音が続く。

反射的に五十嵐は振り返り、南条に回した手と、顔を離した。

俯きがちに、ふらふらと一人の生徒が入って来た。

ちらり、と顔を上げ、目が合った。

数瞬の沈黙。

(これはこれは…何て偶然…)

まだ一面識も無かったが、友人の橋葉から聞いて聞いていた。

(……和泉、直矢)

橋葉からこの復帰生の話を聞くたびに、自分がもし橋葉の立場だったら、と五十嵐は考えていた。

結論は「厄介である」一つ。

どう考えても訳ありな生徒を押し付けられる。こんなに厄介な事は無い。

しかしながらどういう理由か、始めは訝しがり面倒がっていた橋葉も、今ではこの“和泉直矢”に随分ご執心。

どういう心境の変化だろうと本人に尋ねてみても、「説明のしようがない」一言。

それが五十嵐の好奇心を更に刺激し、趣味も兼ねて情報収集に試みた。

ところが頼みの綱の南条は「幾らあなたでも、それはお答えできません」の一点張り。

和泉を知る生徒に尋ねてみても、和泉はあまり好印象ではないことが分かっただけ。

和泉のことを疎んじる生徒も中には居るようであった。

どの意見も、自分の結論を揺るがすほどの大きな情報ではなかった。

しかし、

実際目の前で本人を見て、橋葉の心境の変化が若干理解できた気がした。

百聞は一見にしかずとはまさにこの事。

「ああ、」

気が付いたら微笑み、そして手を差し伸べてやりたい気持ちに駆られていた。

「・・・っ!」

突然、息を詰めて目の前の和泉直矢が身体を折った。

一見した所、腹痛に苛まされているようだった。

そのままずるずるとしゃがみこんでしまいそうだったので、あわてて駆け寄り体を支える。

「大丈夫?見て分かる通り、教員在室しているよ。ベッドも空いているし、好きに使うといいよ」

でしょう、先生、と視線を後ろに送ると、「問題ありません」と一言返って来た。

何だか最近の会話は一言あれば十分なようだ。

「和泉君ですね、クラスや番号などは…もう分かってますが、とりあえずルールなので、教えて頂けますか?」

南条も歩み寄ってきて、五十嵐に支えられたままの和泉にそう尋ねた。

その慣れた口調で、和泉と南条は初対面ではなく、加えて和泉は何度か保健室を利用したことがあるらしいと推測できた。

「…2年の、…C。番号、は、3…」

「把握しました。大分辛そうですね…、幸…五十嵐君、手前のベッドまで和泉君を」

他の生徒の前で名前で呼びそうになってしまった時くらい、焦った表情を見せてくれてもいいものを、全くのポーカーフェイスで眉一つ動かさない南条に、五十嵐は内心苦笑した。

直ぐに今はそれ所ではないと我に返り、和泉が倒れないよう手を貸しながら歩を進めた。

南条は先回りしてカーテンを引いており、布団は既に捲くられていた。

「いつから、どのような症状かお話できますか?…あちらに居る背の高い生徒は保健委員なのでご心配なく」

ベッドに倒れこむように横になり、腹部を抱えてうずくまった和泉に布団をかけながら南条が養護担当としての仕事を遂行する。

(…どこの誰が、保健委員だって?)

一見優男である五十嵐の恋人の特技は、ポーカーフェイスと嘘である。

カーテンのむこうの淡々としたやり取りを聞きながら、五十嵐はぼんやりと考えていた。

倒れそうになった和泉を支えたのは五十嵐。

しかしその後、和泉は五十嵐に身体を預けようとはしなかった。

腹痛が酷いのは目に見えていた。

にも関わらず、決して手を掴もうとはしなかった。

ふらつく和泉を支えていても、触れたところから和泉の身体が不自然に強張っているのが分かった。

(…あれは、拒絶だ)

好意を素直に受け止められないひねくれた性格なのか、と考えたところで、それは自分も同じじゃないかと帰結し、五十嵐は一人再び苦笑した。

二人の会話、というより南条の短い質問が静寂を強調していた保健室で、突如内線のコールが響いた。

急ぎ足で南条がカーテンの内側から出てきて、3コールで電話を取る。

「はい、保健室の南条です。……ああ、今体調を崩した生徒が来ていて……はい、分かりました、すぐに伺います」

受話器を置き、デスク横の鞄を手にする南条。

心なしか、焦りが覗える。

「どうかしたんですか、先生?」

「出張に向かう際に呼んでおいたタクシーが到着したようです」

南条は身分証明のためだけに免許を取ったペーパードライバーだった。

移動は基本タクシーである。

さっき出てきたばかりのカーテンの内側に、再び潜り込む。

「和泉君、申し訳ありません。そういうことで、出なければいけなくなりました。おそらく腹痛はすぐに治まると思いますが、好きなだけお休みしていって構いません」

南条の潜められたくぐもった声が聞こえた。

それに対する返事はどうだか知らないが、南条はカーテンを閉め上着を羽織り、教室を後にしようとした。

すれ違いざま、五十嵐の耳元でこう囁く。

「和泉君の面倒、宜しくお願いしますよ、幸喜」

そう言われたら、断わるなんて選択肢は消えたも同然だった。

南条は部屋を後にした。

ドアがしっかりと閉じられたのを確認した後、小さく溜息をついて、五十嵐はカーテンの内側を覗き込んだ。

(……白い顔)

やけに庇護欲を掻き立てられる。

椅子を引っ張ってきてベッドの傍らに置き、腰を下ろした。

和泉は、というと、目をきつく閉じ眉間に皺を寄せながら、時々苦しそうに息をついている。

(これ、本当に大丈夫なのかね)

南条の判断を疑いたくは無かったが、事実目の前の和泉は随分辛そうで、とても「すぐに治まる」様には見えない。

「どうも初めまして、五十嵐です」

慎重に言葉を選んだつもりだが、返事はない。

「どうしても辛いようなら誰か他の先生呼ぶけど、…どんな?」

やはり返事はない。

聞いているのか、と問いたい気持ちがあったが、目の前のこいつは病人だ、と思い出す。

加えて表情を覗おうにも、顔が背けられているので叶わない。

五十嵐は、こういうタイプの人間は苦手だった。

顔には出さないが、反応が無いのが一番腹立たしいとも思っていた。

普段の五十嵐なら、いくら病人でもあっさり見捨ててそのまま放置しているだろう。

しかし和泉に対しては、なぜかそこまで非情になれなかった。

寧ろ甲斐甲斐しく手助けをしてやりたいような、そんな気持ちにさえなる。

(橋葉は、これにかかったんだねえ…)

こんな所であの友人の心境を深く理解してしまうとは思ってもみない出来事だった。

痛みが襲ったのか、布団が掛けられてても明らかに細い背中が丸められる。

「ちょっと待っててね、何かあったら呼んでくれていいから」

あることを思いつき――それは普段なら絶対に浮かばない思考だけど――五十嵐は腰を上げた。

数分後、五十嵐は再びカーテンをくぐった。

右手には、小型サイズの湯たんぽ。

特有のゴムの匂いが鼻に付いたが、ほんのりと暖かくて心地よい。

当然ながら、校内の備品を勝手に使うことは禁止されている。

湯たんぽや電気ポットもまた然りだったが、先ほど南条直々に「保健委員」認定されている事だし、多少大目に見てもらおう。

「……ねえ」

再びベッドの横に立ち、見下ろすような形になりながら、やっとのことで話しかけた。

「これ、使う?」

(人に話しかけるのに、こんなに緊張するのは始めてだ)

何て声を掛けるべきか、何を言うのがベストか、色々考えを巡らせた結果、一語一句慎重に言葉を選んでいくのが面倒になり、結局はぞんざいな物言いになってしまう。

しかし頭のどこかで声色を優しくしようと自己統制がかかる。

自分の脳がこんな繊細な思考回路も持てるのか、と五十嵐は内心驚いていた。

それほどまでに目の前でうずくまる和泉直矢なる人間は、脆く壊れやすそうに見えるのである。

和泉が、体を動かした。

少し顔をしかめながら、五十嵐を見上げた。

そして、目が合う。

その時の衝撃を隠しきれずに、五十嵐は手にした湯たんぽを落としそうになった。

男か女か。国籍さえも疑わしかった。

額は軽く汗ばみ、前髪がところどころ張り付いている。

唇をずっと噛んでいたのか、薄い下唇にはくっきりと歯型が付いている。

顔色は最悪。

けれど、そんなことは全く関係なかった。

何より驚いたのは、その瞳だった。

もっと弱々しいものと思っていた。

何を見ているか分からないような、そんなぼんやりとしたものだと思っていた。

けれど実際はその何倍も芯が通っていて、長い睫毛の奥、しっかりと五十嵐を捉えていた。

「これ、湯たんぽ。お腹温めると、楽かなあと思いまして」

平静を装ったが、普段の幾倍も緊張し、心拍数も何倍にも跳ね上がっていた。

こんなこと、南条に伝えたら、彼はどう反応するだろう。

少しはあのポーカーフェイスを崩し、少しでも動転してくれるだろうか。

湯たんぽを差し出すと、和泉はおそるおそるといった感じに布団からほっそりとした長めの指を出した。

いいの?と目が言っている。

もちろん、と微笑むと、今度はその指で、しっかりと受け取った。

その姿は形容しきれない程可愛らしかった。

「まだ痛む?」

微かに、浅く頷く和泉。

どうやら一度相手を認識しさえすれば、普通に意思表示を返すらしい。

「あっ、待って」

湯たんぽをあてがい、再びうずくまろうと体勢を整えだした和泉を五十嵐は制した。

不思議そうにこちらを見返してくる。

見入ってしまいそうで、不自然に目を逸らした。

「身体丸めないで、仰向けになって、ちょっと膝立てると…」

緩慢な動きではあったが、和泉は言う通りに、素直に身体を動かした。

「どう?幾分か楽な気がしない?」

そういって、意識して作った微笑みを向ける。

他の何の為でもない、和泉に警戒を解いてもらうために。

和泉は、それには応えなかったが、まっすぐに五十嵐を見ながら口を開いた。

「…ありがとう…」

聞こえるか聞こえないかの小さな声だったが、それが五十嵐に対しての和泉の第一声。

初めて“聴いた”和泉の声は、少し、掠れていた。

〈look after…:END〉

アウトライン

放課後。西沢と村野登場。

***

放課後、サッカー部の活動を終えた西沢と、それを待っていた帰宅部の村野、付き合いで残っていた橋葉は、静まり返った教室で雑談をしていた。

夕日が差し、教室がうっすらと赤く染まっている。

完全下校時刻まであと少し。

「橋葉たちのクラス、転校生来たんでしょ?」

短めの癖毛をいじりながら、西沢が尋ねる。

「転校生っていうか、何ていうか、似てるんだけどなー…」

答えようとして挫折した村野は、こちらに視線で助けを求めてきた。

橋葉は小さく溜息をつく。

「復帰生」

「そうそうそれ!」

馴染みがないからか、何度教えても村野の頭には「復帰生」という単語がインプットされない。

「休学してたってこと?何で?」

「それがわかんないんだよね。先生も何も言わないし」

『俺とだけ仲良くなろう』

泣いている和泉を見て、その様子があまりにも儚げで、とっさに浮かんだ言葉だった。

そういえば、あの時はじっくり考えている間も無かったが、和泉には謎が多すぎる。

おれと居ると不幸になる、とは一体どういうことだろう。

皆おれのせいで死んだ、とは、何を意味しているのだろう。

結局、入院していた理由は何だったのか。

考えを巡らせていると、突如村野に、なあ?と同意を求められた。

「ごめん、聞いてなかった 何?」

「和泉が休学してた理由、分かんないよねって話」

そのことか、と一人合点する。

「……いや、入院してたらしいよ」

言うべきか迷ったが、どうせ自分も詳しく知っている訳ではない。

それにこの二人しかここには居ない。

そう判断しての発言だった。

「入院?」

西沢が、目を丸くして問いただす。

村野もえっ?という表情。

「章なんでそんなこと知ってんの」

「担任から聞いたんだよね、サポートしてやれって」

「そんなことより、入院ってガチ?一年も?大丈夫なのそれ」

部活動中の怪我で、3ヶ月も入院するはめになった経験のある西沢は、深刻そうに呟く。

「大丈夫…ではない感じだよな、気になるけど、本人に聞けないからなあ」

「聞けないって?どういうこと?」

西沢はまだ一度も和泉を見ていない。

疑問は尽きないらしい。

「まず、近づけない。怖くて」

「……まさかすっごい不良なの?数々の修羅場を潜ってそうな、殺気だった感じとか」

あまりにかけ離れた想像に吹き出す二人。

確かにこれは和泉本人を見ないことには分からないだろう。

「あはは!違う違う、寧ろ逆。すっごい華奢で、一見誰よりも美少女だよ」

村野の『誰よりも美少女』という形容が、あまりに的を射ていて少しだけ感心する。

ストレートな表現は苦手だ。

そもそもそんな言い回しが浮かばないのだ。

一方西沢はというと、ますますクエスチョンマークが浮かびそうな表情になる。

「綺麗すぎて、近づけないってこと?そんなのってありえる?」

「近いけど、何か違うんだよなあ…見てみれば分かる…ってか話してみたいなあ~」

独り言の様にぶつぶつと言葉を並べる村野。

自分は話すどころか、コミュニケーションまで取った、ということは言わなかった。

それはちょっとした、子供じみた優越感だった。

「とにかく人間じゃないみたいに綺麗でさ、怖いくらいに無表情なの」

「……なのに話してみたいの?」

「だから見てみないと分かんないよこれは!」

あの漠然とした好奇心を抱いたのは、俺だけではなかったようだ。

「…まあ、和泉のことは皆不良だろうって言ってるし、俺もそうじゃないかなってちょっとは思ってるけど…」

依然として不思議そうな表情のままの西沢に、言いにくそうに村野が続ける。

「こないだ授業中に教室から出てったんだよね、和泉。結局その理由も良く分かってないし。くだんねーとか思ったんじゃないの?まあ古典の授業は俺も飛び出したいけどね」

「うわあ…度胸あるね… それで綺麗ってことは、相当気ぃ強いよ。絶対」

その日の事は多くの人に誤解されていて、それではあまりにも和泉が可愛そうで、本当のことを言おうとしたその時、視界に人影を捉えた。

教室の入り口に和泉が立っていた。

夕日の逆光でシルエットしか確認できないが、細すぎる体型ですぐにそれと分かる。

「和泉」と俺が呟いたのを聞いて、ばっ、と二人が振り返り後ろを見る。

わあ、と西沢が感嘆の溜息を漏らす。

間近で和泉を見て、加えてそれが予想もしなかったタイミングで、固まっている二人を代表して質問する。

「和泉、どうしたの、こんな時間に」

「……課題、置いてきちゃって…」

案の定、二人には見向きもせずに、ぱたぱたと少し早足でこちらに来る和泉。

人が嫌いだから、人に興味が無いというのは理にかなっていた。

なんでこっちに来るんだろうとか一瞬考えて、自分が和泉の隣の席だと思い出す。

つまり、俺もそれだけ動揺していたということ。

机の前まで来ると、しゃがんで机の中を探り始める。

座っている俺には、和泉の後頭部がすぐ左下にあった。

制服の襟から細い首筋が見える。

夕日を浴びてただでさえ色素の薄い髪が赤みを帯びて、ありきたりだけど、とても綺麗。

(…睫毛、なが…)

「…何の、課題?」

ふわふわとした髪の動きに、瞬きをするたびに揺れる長い睫毛に、見入ってしまいそうで、無理やりに話題を投げかける。

「…化学」

会話終了。

それでも、返事が返ってくるだけで嬉しいだなんて、どうかしてる。

目当てのものが見つかったらしく、机から化学の問題集を引き出す。

「わ、大丈夫?」

立ち上がろうとしてふらつき、ぐらりと上体が揺れるのを支えると、和泉は身体を硬直させた。

うすうす感づいてはいたが、人に触れられるのみ触れるのも、よほど嫌いらしい。

すぐに薄い身体は体勢を整え、離れていってしまう。

(もしかして貧血持ち…?)

「大丈夫?」

もう一度、顔を覗きこんでそう尋ねると、ん、と頷く。

その姿があまりにも可愛らしくて言葉を失った。

「見れば分かるって、そういうこと…」

来た時と同じリズムで和泉が教室を去ったのを確認して、放心したように西沢が呟いた。

だろ?となぜか村野が得意そうにしている。

「課題取りに来るって、超真面目じゃん。全然不良じゃないんだけど」

「俺も思ったよそれ!…噂に流されて、反省した」

沈黙が訪れ、口を開くのは躊躇われたが、やっぱり誤解されたままなのはあんまりだと思い、重い空気を破る。

「…さっき言おうと思ったんだけど、教室出て行ったのって、本当に具合が悪かったからだよ。本人は気にしてないから、広めなくてもいいけど、ほんと辛そうだったから」

そう言うと、二人が顔を向けた。

どういう訳か、鋭い視線。

「…さっきも思ったけど、章やたら和泉と親しくない?」

なんかずるい、と俺を睨む村野に、僕も思ったー、と西沢が加勢する。

今度ははっきりとした優越感。

なんとでも言え。

「まあ、色々あってね 俺、サポート係だし」

「うわっなにその余裕」

「僕も和泉と仲良くなってやろう!名前覚えて貰う!」

何かのゲームのように言う西沢。

いいんじゃない、と心の中で同意する。

和泉に笑ってほしかった。

完全下校のチャイムが鳴る。

気がついたら窓の外の景色は、夕闇に包まれようとしていた。

〈アウトライン:END〉

大過去

和泉の見た夢。過去回想あり。

***

暫く見ていなかったあの夢を、見た。

この間、保健室で見たまどろんだ夢とは違い、過去の細部まで丁寧に再現された夢。

体温、日差し、部屋の壁にある小さな汚れ。

そんなものまで緻密に再現されていた。

気分が悪くて保健室で眠っていた。

カーテンの開く音で目が覚める。

あいつかな、と思って、嬉しい気持ちで満たされる。

けれど、カーテンを開けたのはあいつではなかった。

そこに居たのは見たこともない大柄な数名だった。

ネクタイの色で上級生だ、と分かる。

手がのびて来て、肩をつかまれる。

必死で叫ぶ声は、彼らの笑い声でかき消される。

悲鳴。

怖い怖い怖い怖い

逃げようと身を捩るが、力の差は歴然。

無我夢中で、花瓶を掴み投げつける。

花瓶の割れる音と、彼らの激昂する声。

きらり、と何かが光を弾く。

身体に痛みが走る。

顔も思い出せない母親の笑い声。

顔も思い出せない父親の笑い声。

撫でられる頭。

そして崩れていく二人。

泣き叫ぶが崩壊は止まらない。

真っ暗な中二人は横たわっていた。

響く叔母の声。

あなたの所為よ。

殴られる感触。

ごめんなさい、と叫んでも叔母はまくし立てる。

あなたの所為よ、あなたの所為よ、あなたの所為よ。

力なく倒れこんだおれの手足を上級生は押さえつける。

ちらり、とあいつが笑いながら上級生と話しているのが見えた。

叫ぶのを止めた。

考えるのを止めた。

助けは来ない。

「…!!!!!!!!!」

ベッドから飛び起きた。

身体が震えるのを抑えることができなくて、両腕で身体を抱き込む。

背筋の凍りつくような恐怖を感じ、膝を立てて丸くなった。

それでも、震えは止まらなかった。

ここは、自分の部屋。

朝日が異常なほど眩しくて、目が眩んだ。

上級生に両親に叔母。

様々な声がでたらめに頭の中で響き渡る。

頭が、割れそうに痛い。

冷や汗で背中が濡れているのが気持ち悪い。

強い吐き気を催し、ベッドから這い出した。

貴樹が朝食を作っているのだろう。

食べ物の匂いがして吐き気をより一層助長した。

階段を駆け下り、トイレに飛び込んだ。

鍵も掛けずにかがみこむ。

全身の力が抜けて、ただ吐き気しか感じられなかった。

尋常でない勢いで階段を降りてきたおれに驚いたのか、貴樹がおれの名前を呼ぶ声が聞こえた。

「げほっげほ!はっはあっ…っげほっ」

吐瀉物が洋式トイレに叩きつけられる。

「…っう、おえっ…ぅ…ぐ、げほっゲホッ」

苦しくて息が出来ない。

意識が朦朧としてきた。

どこか遠くの方で、足音が聞こえる。

『直矢!直矢!どうした?調子悪い?直矢!』

ノックの音が響いた。

おれの吐き出した吐瀉物の、ばしゃばしゃという汚らしい音と重なる。

心配そうな、鬼気迫った貴樹の声と、彼らの声が、頭の中で木霊する。

「っ!げほっ は、はあ、…っぅ…」

「入るぞ、」という声とともに、貴樹がドアを開けた。

依然として嘔吐衝動は止まらない。

苦しくて、怖くて、涙が溢れた。

「大丈夫か?」

便座に手をかけ吐き続けるおれの背中が、暖かい手でさすられる。

「お、えっ…げほっゲホ!っ…ゲホゲホッ」

貴樹がペーパーを手に取り、糸を引く唾液を拭った。

「…う、ぅあ…っひ、はあ、はっ…」

泣きながら呼吸を整えようとするが、それはひどく難しい動作だった。

いくら整えようと深く息を吐いても、しゃくりあげてしまって無駄になる。

「…また、あの夢か」

貴樹が、おれの体調を気遣い耳元で尋ねる。

応えの分かっている質問程虚しいものは無いだろう。

首が痛くなるほど何度も頷く。

誰か、誰か、だれか、

気付いて、気付いて欲しいんだ、

「…っふ、怖……っ怖い、ごめんなさい…っ」

「……直矢…」

心配とも同情とも諦めともつかない貴樹の声。

ほんとうに、消えてしまいたい。

全てから逃げ出したい。

あいつらの声と、「あいつ」の笑い顔が頭から離れなくて、貴樹に背中をさすられながら、いつまでも泣き続けた。

〈大過去:END〉

reception 2

夢を見ていた。

白い部屋に ひらひらと揺れるカーテン

肩を掴まれる。

きらりと光を反射したカッター

何かを叫ぶ。

何かが割れる。

白い天井が視界に入る。

そして――――――――――

目を開けると、白い天井が視界に飛び込んできた。

夢の光景と重複し、飛び起きる。

「……っ…!」

怖い夢を見ていた。

動悸と冷や汗が止まらない。

気付くと右手が震えていて、それを抑えようと腕を抱えた。

「…はぁ、…は……」

呼吸を整えようとするが、上手くできずに喘ぐ。

酸素チューブを抜かれた金魚みたいだ。

(…違う、ここは、…ちがう、)

「あの場所」とは違う、と必死で自分に言い聞かせる。

(……ここ…どこ…)

今更ながら、そんな疑問に行き当たる。

白い部屋。白い屋根。仕切りのカーテン。

今自分が飛び起きたのは、白いパイプベッド。

(…保健室、)

どくん、と心臓が脈打つ。

(……でも、違う…!落ち着け…落ち着け…っ)

浅い呼吸を繰り返しながら、何気なく横を見る。

「……え、」

思わず声に出していた。

橋場が、そこに眠っていたからだ。

保健室に置いてある丸い補助椅子に座り、壁にもたれて眠っている。

その背後の窓から見える空は茜色で、随分長い事自分が意識を飛ばしていた事に気付かされた。

静かな寝息。

自分が最も警戒していたはずのひとが、自分の前でこんな無防備な姿を晒しているのが何となくおかしくて、じっとその姿を見ていた。

警戒なんて、随分な自惚れだな、と、頭の冷めた部分が囁く。

(…なんで、このひとは、おれなんか構うんだろう)

何か意図があるのだろうか。

拒絶されたから、懐柔させたいと考えているのだろうか。

不思議と、橋葉に接近されるのは、そんなに嫌ではない。

嫌ではないと言い切れるほど確信的なものではないが、橋葉に近づかれた時に感じる感情は、どこか他と違う。
きっと「人に接近されること」と嫌悪感を結ぶ回路が完成しすぎているのだ。
実際はそれほど嫌ではないのに、脳が「嫌悪すべきこと」とダイレクトに認識してしまう。

そのせいで、本当の自分が何を考えて、感じているかが分からない。

そんなことを悶々と考えていると、橋葉が目を覚ました。

あくびをしようとして、おれの視線に気付き、それを噛み殺す。

「わ、和泉、起きてたんだ… うわあ、俺みっともねー!和泉が寝てるのみてたら、いつのまにか寝てたよ…」

あまりに間延びした、気の抜けたその発言に唖然としていると、ふ、と真剣な表情へと変わった。

「…どうかした?」

「……ずっと、ここに?」

「うん」

「……なんで…?」

(違う…こんなことじゃなく、て…)

まずは、感謝の言葉とか、謝罪の言葉とか、色々と必要な段階を踏んでいない。

何を考えているのかが知りたくて、そんな好奇心を感じたのは久しかった。

「何でって…すっごいうなされてたから。保健医出張で居ないし…あ、もしかして授業とか気にしてる?俺は問題ないから気に病まないで?」

微笑みを投げかけながらそんなことを橋葉は言った。

そんな調子で話しかけられるので、調子が狂わされる。

思ったことを良く吟味もせず、口にしてしまう。

ずっと考えていたこと。

ずっと気になっていたこと。

「……ど、して、おれなんか構うの…?」

思っていたよりも大きな声が出て驚く。

静かな白い部屋に響き、それはデジャヴ。

何て返ってくるのだろう。

緊張しすぎて深い息をつくのと、相手の返事は同時だった。

「どうしてそんな風に考えるかな」

驚いて、思わず顔を上げた。

初めて、しっかりと視線が合った。

その顔には困惑の表情が浮かんでいる。

「メリットとか、打算とか、同情とか、そういうこと?俺はそんな事一切考えていないし、全部本心からだよ」

もちろん、他の人も、と付け足す。

その語気の強さで、自分が今怒られているのだと実感する。

「そんな泣きそうな顔しないで…。でも、本当に、もちろん俺もだけど、他の人だって、本当に和泉と話したがってたんだよ」

「……」

「俺がここに残ってたのは、和泉が心配だったから。どうして、自分への好意を否定するの?」

まさか

まさか本当に善意からの行動なのか。

まさか、これは本物の好意なのか。

「おれと居ると、不幸になるよ」

脳の指令より先に、口の筋肉が反応し発音する。

こんなこと、伝えるつもりは無かったのに。

「…?どういう意味?」

案の定、怪訝そうな顔をされる。

もう、どうでもいい。

皆、おれのことなんて嫌って、放っておいて欲しい。

張りぼての好意なんかを信じなくて済む。

「両親も…、親戚も…皆、不幸になっていったよ」

ぱた、と手の甲に何か暖かいものが落ちてきて、自分が泣いていると気付いた。

それでさえ、もうどうでもよかった。

「みんな、おれの所為で、死んだよ」

自嘲気味な笑いが一つこぼれると、とことん投げやりな気持ちになって、断続的な笑いが止まらなかった。

さぞ、不気味な光景だろう。

「おれもう、そういうの、ほんと嫌なんだよ、ね みんな、みんな、みんな、……何で、みんな、…っ」

突如、目の前の人影が動いた。

なに、と思ったその時には、身体が包まれていた。

頭が、おれのすぐ横に、もうひとつ。

肩とか、背中とか、手の回された所が暖かい。

「な…、」

「…失うのを怖がってたら、何も掴めないよ。 見るのを怖がってたら、何も見えなくなってしまう。和泉の手を掴んでくれるひとも、…和泉のことを見てるひとも…たくさん居るのに……!」

突然のことに驚き、脳がフリーズする。

けれど身体は正直で、じわりと涙が出てきて、視界を揺らがせた。

ずっと、長い間、どこかでそう肯定して欲しかった。

「何があったのかは良く分からないけれど、そうやって一人で頑張ってきたんでしょう。和泉の手を掴むひとも、見てくれるひとも、ここにはいるよ。当然、俺もそうだし。…俺じゃ不足する?」

首が無意識のうちに横に振られていた。

気がついたら、しゃくりあげて泣いていた。

「橋、葉が、嫌なんじゃないんだ。 ひとが、嫌なんだ…、集団で……それが…っ」

うん、うん、と頷きながら聴いてくれる。

何で出会って数日のひとにこんな事を話しているんだろう。

なんで、このひとはおれの事を、こんなにも無条件に肯定してくれるんだろう。

信じても良いのかもしれない、という考えが肥大化する。

考えというよりか、期待。

(…結局、おれが誰かを信じたかったんだ)

信じて、 頼って、頼られたくて。

そしてどんどん依存していく。

「じゃあさ、まずは俺とだけ仲良くなろう?そして皆にも徐々に慣れていけばいーよ」

『俺とだけ』をやたら強調する橋葉が可笑しくて、無意識のうちに笑っていたらしい。

「あ、やっと笑った~」

そう言われて、最後に笑ったのが思い出せない位、自分が笑うという動作をしていなかったことを思い出す。

いつか、ちゃんと、自分のことを話せるときが来るのだろうか。

理解してほしいなんて、初めて感じた。

こんなにおれのことを肯定してくれている橋葉も、全てを聞いたら、おれの前から居なくなってしまうかもしれない。

恐怖に似た焦燥に駆られ、顔をあげると、そこには橋葉が微笑んでいた。

なに?という目。

全てを受け入れてくれそうな目。

微笑まれているのは、おれで。

優しい言葉をかけてもらえてるのもおれ。

好意の返応性という言葉がある。

それでも、好意を寄せてもらえているという現実が嬉しくて、その日、あの夢の続きを見ることは無かった。

〈reception II:END〉

reception 1

(・・・疲れる)

貴樹―兄の様な存在の人物―の車で学校まで行き、教室へと続く比較的幅の広い階段をゆっくり上りながら、和泉はそんなことを考えていた。

この学校に復学するほんの一週間前の一ヶ月間、和泉は薬の匂いが充満した、真っ白な部屋に居た。

一度は退院した病院に、再入院していたのだった。

学校には行きたかった。

授業も受けたかった。

けれど、そんな考えのもっと深くにある、ひっそりと息を潜めている和泉の精神が、それを拒んだ。

登校することでも授業を受けることでもなく、人と触れ合う機会が出来ることを本能的に拒んだ。

高校に入ってからの一年間、和泉はずっと入院していた。

進級したら復学すると決めていたのだが、実際に進級し、復学の時が近づくにつれ、精神が不安定になり体調を崩した。

なぜ自分の意思が及ばない所であんな反応が示されてしまうのかは、嫌でも分かっていた。

だから、復学したら、絶対に他人との関わりは持たないようにしようと、強く誓っていた。

それなのに。

(はし・・・橋、・・・なんだっけ)

やたらと交流を持とうとしてくる人物がいる。

世話好きなのか物好きなのか、登校初日、授業中に教室を飛び出してしまった和泉をわざわざ追いかけて来るほどに。

本能的に避け続けているのだが、愛想を尽かす様子が一向に見られないない。

(・・・どうでもいい・・・)

人の名前を覚えることが苦手な和泉は、あっさりと思考を止めた。

「あ、和泉 おはよう~」

教室のドアを開くやいなや、そんな声をかけられる。

声の主は分かっている。

おれの、隣の席。

(・・・ほんと、やめてほしい・・・)

誰とも関わりたくない。

信用しても裏切られるのはこちらで。

もう誰かを信じようとも思わなくなった。

おれと関わると不幸になる。

今までも、ずっとそうだった。

人の顔を見るのも嫌で、俯きながら席まで行くと、やっぱりあのひとはこちらを見ている。

その後ろでは半ば飽きれた様に、怪訝そうにその様子を見守る数名。

(・・・そうだ、橋葉だ。 ・・・橋葉、・・・あきら?)

この一連のやり取りは、今日で3日目。

復学初日からこんな感じ。

おれなんかを構って、何が面白いんだろう。

飽きもせずに色々と話しかけて来る。

何を考えているのだろう。

復学初日の一限目。

座っていただけなのにどうしようもない吐き気とだるさが襲ってきて、教室から逃げてしまった。

原因は、あの日の朝、拒絶反応を起こし始めた身体を落ち着かせる為に飲んだ薬。

あれは通常夜に、寝る直前に飲む薬で、効果はあるが反動が大きい。

そう分かっていたけど、貴樹にも止められたけれど。

逃げ出したものの、すぐに動けなくなってしまい、どうしようかと考えてたところに橋葉が来た。

そのまま保健室まで連れて行ってくれて、よく分からないままそこで終わった。

感謝はしている。

けれどそれを理由に100%の信頼を寄せられるかというと、それはまた別問題で。

人を簡単に信じることが出来たらどんなに楽だろうか。

何事も無く4限目まで終わり、昼休憩に入った。

時間の流れが随分ゆったりと感じられた。
眠たい空気。
眠そうな教室。

お昼を食べる場所は各自自由なようだ、と、この数日で分かっていた。

食べる場所は決めていた。

食べる場所、というより休む場所。

昼は基本的に食欲がなく、食べられない。

一時期ではあったが、「食べる」という行為そのものが「生きている」ことそのものの証明である気がして・・・実際そうなのだろうが・・・それが苦痛で、食事が一切出来なかった。

その状況からは脱却した今でも、食べることには漠然とした抵抗があって、食が細いのには変わらない。

ミネラルウォーターのペットボトルとピルケースを鞄から取り出した時だった。

「和泉、ここでお昼食べない?」

左隣りから声を掛けられる。

(・・・うんざりだ)

何を考えているのか分からない。

信用させてどうするつもりなんだろう。

橋葉を中心に集まり始めていた数名も、「またか」という表情をした。
音もなく溜息を吐かれるのが見えた。

周囲から好意的に見られて居ない事くらい分かっている。

そこまでして関わって、何のメリットがあるのだろう。

「・・・一人がいいから」

そう言い残して、教室を後にした。

屋上に続く階段の踊り場。

屋上は通常閉鎖されているため人気は一切ない。

和泉は内側に当たる階段に腰を下ろした。

ここならば人は居ないし、おまけに一見しただけじゃ誰か居るのかも分からない。

和泉にはうってつけの場所だった。

本来ならば食後に飲むべき薬を水で流し込み、上方にあるはめ殺しの窓を見上げる。

(……くも、)

風があるのだろうか。

雲の形が秒刻みで変化する。

目で追っていくと当然窓枠で途切てしまう雲。

その時には新たなそれがゆったりと視界に現れる。

いずみ、と呼ぶ声を思い出していた。

少し間延びしたような、それでいて芯の通った声。

信用したい。信用してはならない。

天秤はどちらにも傾かない。

薬の所為だろうか。

頭がぼんやりしてきた。

「いーずみ」

突如、声が響いた。

驚いて握っていたペットボトルを落としてしまう。

ぼこん、と鈍い音が立つ。

その音が肯定のサインになってしまった。

ペットボトルを急いで拾うが、時既に遅し。

「やっぱりここか」

リズム良く階段を登ってくる音がする。

その音が近づくにつれ動悸が強まり、息苦しさと恐怖、焦燥を覚える。

(…くるしい…)

手すりの向こう側に橋葉の頭が見え、その頭はくるりと此方を向き、にっこりと微笑む。

(……怖い…)

「和泉、ここに居たんだ。教室来ない?皆でお昼食べようよ」

滑舌良くゆっくりと話しかけられた。

その微笑んだ視線がちらり、と移動し、おれの手元で止まる。

「…和泉、お昼それだけ?まさか昼忘れたとか 言ってくれたら購買の場所教えたのに!」

橋葉がおれの掴んでいるペットボトルに手を伸ばす。

何気ない行動に理由も無く苛立って、気付いたらその手を払っていた。

人気のない所には音がよく響く。

さっきの橋葉の声がそうであったように、ぱしん、という音が大きく響いた。

自分でもそれに驚いたが、相手もまた然り。

吃驚したようにじっと見られ、この場を去りたい、と強く思った。

立ち上がり、急いで階段を降り、逃げ出すつもりだった。

しかし、そんな思いとは裏腹に、急に立ち上るという動作は、眩暈を引き起こした。

「……っ」

視野が急激に狭くなった様に感じ、徐々にブラックアウトする。

手すりが腰に擦れるのを感じた。

その向こうは、階段。

どこか遠くの方で名前が呼ばれた様な気がした。

〈reception:I :END>

rejection

和泉の瞳が印象に強く残って、忘れることができなかった。

「いずみ~おはよー」

教室のドアを始業ぎりぎりに開けた和泉に話しかけるが、反応はない。

無表情のまま机に行き、鞄を広げ始めた。

丁寧に教材を詰め込んだ、重そうな鞄。

一度生まれた好奇心はいつまで経っても消えそうにない。

どうすることもできないから、とにかく今は自分の好奇心に従うしかない。

和泉は相変わらず話しかけてもこちらを一瞥もしない。

まるで外の世界との交流を徹底して拒絶しているようだった。

(弱ってるときのほうが人間味があったな)

昨日、

あんな弱々しい姿を見せた和泉は、今よりずっと人間らしかった。

苦しげな表情でも、「表情」があったからだ。

実際のところ昼休みに様子を見に保健室へ行った時には和泉の体調は回復し、もとの調子を取り戻していたので、結局のところ人間ら
しさが垣間見れた時間なんてほんの数分だったのだけど。

「ねえ、和泉、今日一限また古典なんだけど、辞典要るの知ってた?」

こちらを見ないなら、と和泉の目の前に立って話しかけてみる。

さすがの和泉もちら、と顔を上げて、眉間に皺をよせる。

「…」

「もしないなら、ほら、別のクラスに借りるとかしないと―――・・・」

何となく手を差し出した。

それだけのことなのに和泉はびくりと体を強張らせた。

(・・・・・・・・え、)

目を見開いて長い睫毛を震わせる。

それは明らかな、拒絶反応。

「・・・か・・・、関わら、ないで」

呆然とその場を離れると、五十嵐が薄笑いを浮かべて近付いてきた。

「あらら~嫌われてるねえ、橋葉」

「・・・余計なお世話だよ」

「おまえさんが手懐けられないなんて、初めてじゃないの」

「手懐けるって・・・言い方がセンスの欠片もないな」

しかし実際その通りで。

こんなに掴みどころがないというか、考えが読めない相手は今までに見なかった。

でもだからこそ、興味が沸く。

絶対に何とかしてやる、と、闘志に似た何かを感じていた。

「おい橋葉・・・」

声を潜めて話しかけられる。

スイッチを切り替え、意識して笑みを作りながら振り向くと、数人のクラスメートに囲まれていた。

右から、川合、佐藤、澤井、吉田。後ろに鳥沢、関。

名前を覚えておくのは何かと便利なので全員分暗記しているが、それは苗字だけで十分。

下の名前なんて覚えるのもばからしい。

覚えようと思えば覚えられるが、無駄なことはしない主義だった。

五十嵐を筆頭に、フルネームで覚えている友人を数えたかったら、両手の指で十分な位だった。

「なに?」

「お前あの復学生と関わんないほうがいいよ」

(・・・何を言い出すかと思えば・・・)

「復学生って・・・和泉でしょう?何で?」

「だって何かやべえじゃん この時期に復帰ってのも何か・・・不自然」

「昨日なんて授業放棄したしな」

和泉が教室を出て行った理由を皆は知らない。

授業放棄と捉えられても不思議はないだろう。

それにこの学校の生徒の特徴として基本的に温厚派が多い。

荒れてる生徒も居なくはないが、近隣の生徒とは比べ物にならない位おとなしい。

教室を無断で出て行ったら不良、という思考回路も分からなくはない。

「とにかく、あんなのと関わるのは良くないだろ」

「先生とかにまで目つけられたら・・・内申に響きそうだ」

結局のところ、皆我が身が可愛いのだ。

(まあ俺だって・・・和泉じゃなかったら絶対に関わらない)

興味が沸いて仕方ないのだ。

「・・・和泉が休学してた理由、誰か知ってるの?」

「そ、そういう訳じゃないけど・・・ なあ」

「喧嘩とか、問題起こしたんだろ」

あの女子の様に、あるいはそれよりも細いあの体でか。

「・・・まあ、隣の席だしね。手助けできるなら、してあげたいんだ」

そう言った自分の声はまるで自分の声じゃないみたいに、カサカサに乾いて聞こえた。

それは、建前。

やっと口から搾り出されたようなその声は、ひどく乾いて聞こえた。

〈rejection:END>

トレモロ

朝のSHRが終わりから、一限までの短い休み時間。

世界共通のセオリーの様に、和泉の周りには人だかりが出来ていた。

どこ住んでるの、とか

兄弟いるの、とか

何で休んでたの、とか

そんな無遠慮な質問が飛び交っている。

(ばかか、こいつら)

一方和泉はというと、それらの質問に応じるどころか一瞥もせず、身動き一つせずじっと座っている。

作り物めいたその様子は、その風貌と相まって、謎めいた雰囲気に拍車をかける。

いきなりこんな質問攻めで可愛そうな気がしたが、和泉の性格もよくつかめないままで、俺が介入していくのは何か違う気がした。

困っているなら困った様子を見せればいいし、不愉快なら不愉快な表情をすればいい。

(これは…無視っていうより、聞こうとしてないのか)

「関係ない」

突如、和泉が口を開いた。

あまりにも突然すぎて、それにそれはあまりにも攻撃的で、呆気にとられた。

わいわいと騒がしかった周辺も、一瞬で熱が引いていく。

「・・・んだよ、ちょーしらける」

誰かがそう言ったのを境に、わらわらと皆もとの場所に戻っていった。

(・・・なるほど  そういうタイプか)

学校なんてくだらないとか何とか言って、自己を正当化して不登校になるタイプ。

人に馴染めないのはその相手が冷たいせい、学校に行けないのは授業がつまらないせい。

そうやって責任転嫁を繰り返して生きてきたタイプだろう。

そういうやつは、プライドだけ高くて、非常に面倒だ。

(さしずめ、授業日数でも足りなくなったかな)

「・・・ねえ、そういうのってキャラ?流行んないよ?」

何となく可笑しくなって、笑いを含んだ声でそう話かけると、予想に反して和泉はこちらに顔を向けた。

整いすぎている顔には、怪訝そうな顔が浮かんでいる。

(あれ、怒ってない)

ものすごく高いプライドでもあるのかという予想はまた裏切られた。

(……掴めないなあ…)

先ほどの和泉の冷徹な一言で、クラス中の和泉への関心は一気に薄れたのを感じた。

それでも、俺の和泉への関心は一向に薄れなかった。

何でこんなに興味が沸くんだ。

一限、退屈すぎる古典の授業中、頭の中では盛大に自己会議が行われていた。

今までに、これほど人間に興味を感じたことがあっただろうか。

俺の記憶の限り、無い。

人間に、というより、あらゆるものにそれほど執心した覚えがない。

ではなぜか。

(見た目?……いや、この雰囲気…?)

結論がでそうな気配は一向に無かった。

ちらり、と横を見ると、和泉が真面目に授業を聞いている。

俺の予想は、またも外れた。

(…人を観察するのには、自信あったんだけど)

となると、別に学校がくだらないだとか思ってるのではなく、本当に何か事情があるのだろうか。

黒板を見るために顔を上げる和泉。

細い首に血管が透けて見えた。

(ちょっと、顔色悪い)

肌が白いせいだろうか、顔色が悪いように見える。

しかし本人はいたって真剣に授業を受けているようだし、心配するほどの事でもないのかもしれない。

古典の先生が問題演習を始めたので、俺も授業に集中することにした。

カタ、と小さな音がして、左を向く。

和泉の手元を見るとシャープペンが置かれていて、ああ、さっきの音はこれが倒れた音か、と納得する。

そのまま視線を何となく上げ、ぎょっとした。

(ちょっ…真っ青)

辛そうに目をきつく閉じ、薄い唇を噛んでいる。

顔色が尋常じゃなく真っ青だった。

声をかけるべきか躊躇っていると、少々荒っぽく椅子を引き、そのまま足早に教室を出て行ってしまった。

教室中が再び呆気に取られたのは、言うまでもなかった。

「えっ、なに?」「今出てった?」「おいおいあの復帰生…」

そんな声が口々に囁かれる。

古典の先生は何事かと、必死で出席簿を開き出て行った生徒は誰かを探りだそうとする。

「…っすいません、追いかけてきます」

正直言って何が何だか分からずにあっけにとられていたが、先生から頼まれた“サポート”の役目と、和泉の真っ青な顔色を思い出し、おれも教室を後にした。

教室を出て、まず和泉がどこに居るのか検討をつけることにした。

やみくもに探し回ってもこの広い校舎では見つけるのには時間がかかりすぎる。

(顔色最悪だったし保健室…でも辿り着いてるのか?)

高さこそ5階建てと特別ではないが、なにぶん横に広いこの校舎には高等部だけで保健室が3つある。

しかし常に保健医が居るのは一階の一番広い部屋だけで、残り二つは各所に点在する休養室みたいなものだ。

この広さで復帰初日の和泉が全て把握してるとは思えなかった。

(でも、まあ第一保健室の位置位は分かるだろ)

第一保健室に最も近く通じる階段を辿りながら、まずはそこから探し始めることにした。

長期戦になるだろうという俺の予想は、あっさりと切り捨てられた。

角を曲がってすぐの階段の踊り場で膝を付き、壁にもたれながら蹲る和泉を見つけたからだ。

(ほんと…調子狂う。こんなに計算が外れるのは初めてだ)

「ちょっと…、大丈夫?」

階段を降りながら尋ねるが、返事はない。

「えー、と、何で出てったかなあ… 具合悪いなら一言言ってくれれば…」

そういいながら和泉と目線を合わせようと屈み、息を呑んだ。

(え、マジでこんな具合悪いの?)

うっすらと汗をかき、見てるこちらも辛くなるほど、苦しげな表情をしている。

床に着いた手には力が篭っているのか、小刻みに震えている。

「ちょっ…大丈夫!?」

いくら問いかけても返事は無いが、体を折り口元に手を添える仕草で理解した。

「……吐きそう、なの?」

和泉の姿が本当に辛そうで、声を潜めてそう尋ねると浅く頷いた。

(…どうするべきだ)

現在地が四階、三階間の踊り場で、ここから一階の保健室に向かうと考えると、この様子の和泉には無理そうに見える。

特別棟まで行かなければならないが、三階の保健室に向かうほうが、距離的には短い。

とりあえず和泉を休ませて、俺が一階の保健室まで保健医を呼びに行けば良い。

「和泉、立てる?保健室行こうか?」

俺の手を借りながら、ふらふらと立ち上がる和泉。

すぐに倒れそうになりこっちがひやひやとする。

足取りが危なっかしいので、俺が和泉の手を引き…というよりか、半ば抱えるようにして階段を降りた。

吐き気が込み上げてくるのか、時々体を強張らせるのが分かる。

(…なんなんだ、この状況)

階段を降りながら、和泉を支えてているとはいえ、どうやらこれは俺の一方通行の様だ、と気付いた。

決して、こちらに体重を預けてこようとはしない。

ふらついても壁に寄りかかり、それが収まるのを待つ。

(あの担任が言っていたのはこういうことか…)

『何か困った事があっても自分から助けを求めるという考えが出てこない』

確かこのようなことを言っていた。

考えを色々と巡らせていたが、ふっ、と和泉の体が俺から離れ、我に返る。

振り向くと廊下の真ん中で和泉が蹲っていた。

「…っ…、う、…っ」

苦しげに息をついたかと思うやいなや、ぱたぱたと吐瀉物が吐き出された。

吐瀉物、というか、胃液。

(朝…食べてないのか)

自分でも吐いてしまったことに驚いたのか、ぱっと顔を上げる和泉。

しかし苦しげに顔を歪め、またすぐに体を折ってしまう。

今にも泣き出しそうな潤んだ目が、脳裏に焼きついて離れなかった。

それから何度も和泉は胃液を吐き出した。

一度に大量に吐くよりも、少量で、何度も吐く方が何倍も辛い、というのを誰かから聞いたことがある。

背中をさすることしか出来ないのが歯がゆい。

「…はっ、はあ………」

吐き気が治まってきたのか、呼吸を整えようとしている。

「…まだ吐きそう?」

ゆるゆると首を横に振る。

和泉は薄い水色のハンカチを取り出して、口元を拭った。

「……あ、の、」

そのハンカチで顔を半分覆い、ちら、とこちらを覗うように見るその姿に、なぜかどきりとした。

本当にこれは男か?何てどうでも良いことを考えてしまう位、扇情的だった。

「気にしない気にしない。 それより、大丈夫?もうちょっと歩くと保健室だから…と言ってもきっと保健医は居ないけど…まあ休めるから。ここは俺が片付けておくよ」

「そっ…それ、は」

「ほら立ち上がらないで、そんなふらふらだと倒れてあぶないから」

申し訳なさそうに留まろうとする和泉を制して、半ば強制的に保健室へ連れて行った。

ベッド前のカーテンを開けてやると、崩れるようにそこに倒れ込んだ。

「それにしても、どうして今日はまた……朝、食べてこなかったの?」

布団を整えながらそう尋ねるが、返事はない。

「いや、迷惑とかそういうんじゃないけど、一限も出られない位調子悪かったなら、欠席しても良かったんじゃない」

無言のまま、目を伏せてしまった。

長い睫毛が影を落とす。

大分ぐったりとしてるし、口を無理に開かせるのは可愛そうな気がしてきた。

(それに……何だか不気味だ)

特に何が、という訳ではないが、何となく、直感的に「不気味」という言葉が頭に浮かんでいた。

何か違和感もあるが、他に形容しようがなかった。

(なんか、ざわざわ…?)

「…じゃ、あ とりあえず俺廊下、ね。先生呼んでおくから、お大事に」

何ともいえない表情の和泉の視線感じたが、カーテンで遮断する。

今にも 泣き出しそう な 潤んだ目が

<トレモロ:END>

ファーストコンタクト

誰にも座られていない席がある

教室の一番後ろの一番端

日当たりの良い窓際に常時設定で、席替えの影響を一切受けない

そして今は俺の隣の席

というより、俺が席の隣というポジション

その席は進級して1年経っても空席のままで、

話を聞くとその席は入学当初から空席だったそう

今その席は物置の様な扱いだったり、

昼寝をする生徒の指定席だったり

その空席を見る度に、

俺はこの席の所有権を持つ人物に興味が沸くのだった。

一週間前、その空席の上の私物を片付ける様、指示が出された。

ついにこの席の持ち主が復活するのか、と、暫くは教室内に妙な雰囲気が流れた。

それから一週間、空席は相変わらず空席で、今はなんだ、みたいな

何も無いじゃん、みたいな。そんな雰囲気が、うっすらと漂っている。

その空席を隣の席とする橋葉章も、その雰囲気を作っている一要因だった。

「おまえさんは相変わらずつまんなそうな顔してるねえ」

「五十嵐、」

妙に間延びした口調で話しかけてきたのは五十嵐というひょろりとした男。

よっこいしょ、とか何とか言いながら、俺の隣の空席に座る。

のらりくらりという言葉がぴったりの良く理解できない奴だ。

「・・明日、この席埋まるらしいよ?」

特技は、情報収集。

この高校は付属幼稚園まである大学の付属校なので、当然人数は多いし、高等部だけに限ってもそれなりに大規模な学校だ。

にも関わらずこいつは校内中の情報を殆ど網羅している。

ゴシップ系のストックが多いのは趣味だろう。

ただ情報を流す相手はそれなりに選んでいるらしく、本人なりの線引きがあるのは目に見えていた。

「お前は相変わらず耳が早いな。どんな奴?男?女?」

「男。このクラスは暑苦しいねえ。橋葉が女装でもすれば華やかになって面白いのにねえ」

にやにやとこちらに視線を向けてくる。

こいつの笑い方は目が全く笑っていなく、最初はそれが素なのだと気付くには暫く時間がかった。

「そういう五十嵐こそ、講堂でセミヌードでもしたらどうだ?カメラ回してやるよ」

にっこりと応じてみる。五十嵐はおお怖っとつぶやき、それから続けた。

「おまえさんのその腹黒さを、皆に伝えてやりたいね」

「へえ?好きにしてみろよ」

別に隠しているつもりはなかった。

向こうがそんな態度を望むから、望まれてる姿で相手をするだけ。

五十嵐が情報を提供する相手を選ぶ様に、俺だって選んでいるだけである。

「橋葉、」

やっぱりというか、案の定というか、放課後の廊下、担任に呼び止められた。

若いはずなのに疲れたようなやつれた声で話すのが特徴。

おそらく伊達であろう黒縁の眼鏡をかけて顔を覆っている。

(人付き合い苦手なら、教師なんてなんなきゃよかったのにね)

「なんでしょう、先生」

内心ではこんなことを考えならがら、にこやかな応対を心がける。

五十嵐の特技が情報収集なら、俺の特技は猫かぶりだろうか。

「お前の隣の空席あるだろ、」

「ええ」

「明日、その席の生徒が復学するんだ」

既知の事実。

「へえ、そうなんですか。1年は空席でしたよね」

「色々あってな……まあ、そうだな、早いこと言えば入院してたんだが」

歯切れの悪い返事が返ってくる。

しかしここでそれを追求しても仕方が無い。

「わかりました。それで、何をすれば?」

「これも色々あって・・その復学してくる生徒は…何ていったら良いか、何か困ったことがあっても自分から助けを求めないという
か………例えば、教室が分からなくても誰かに聞こうとか、そういう考えが浮かばないんだ」

いやこの言い方は何だとは思うけど……と、言い訳がましく付け足す先生。

「良く話が分からないのですが…」

「そうだろうなあ…でもまあそれだと折角復学できるのに勿体無いだろう。だから橋葉に積極的なコミュニケーションを取ってもらい
たいと思ってるんだが」

(……席替えから、仕込みだったわけか…)

通常席替えは担任のパソコンでランダムに振り分けられ、学期ごとに黒板に掲示され、変更がなされる。

その生徒が復学するのは半年前から決まっていて、学年委員でも何でもない俺にそんな面倒な役割を押し付けるために、わざわざ席替
えの仕込みをしたというのか。

(……ご苦労なことで)

内心呆れ返っていたが、おそらくこの担任は俺が断わるかもしれない、という可能性は一切考えていないはずだ。

「引き受けました。その生徒をサポートすれば良いんですよね」

そう一言伝えると、疲れた担任の声に少しだけ熱が入り、

「ああ、助かるよ!そう言ってくれると思っていたんだよなあ、さすが、橋葉だ」

熱烈感激されてしまった。

「ありがとうございます」

微塵も感じていない感謝の言葉を述べてやんわりと微笑んでおく。

「では、失礼します」

「ああ、また明日、宜しくな」

さすが さすが さすが さすが さすが さすが

俺がこの世で一番嫌いな言葉だ

翌日。

まだ時間が早いからか、教室に居る人数はまばらだ。

「橋葉、昨日山本に呼び出しくらったんだって?」

机に鞄を置くやいなや五十嵐の声が耳に入った。いつの間に、こんな近くに。

山本というのは例の疲れた担任である。

「…ほんとに耳が早い」

半ば呆れながらそう呟く。

どうせ話の内容まで全て知っているだろうに。

「説教?」

「まさか。今日くる復帰生の件だよ。サポートしろって。そういうのは委員にやらせろって言いたかったね」

声を潜めてそう言うと、五十嵐はそんな俺の努力を気にも留めず声を上げて笑った。

「それだけおまえさんが教師陣に厚い信頼を抱かれてるってことじゃないか!優等生も大変だねえ」

「……冗談じゃない、全く」

空席を埋めるのが誰なのか、興味があったのは事実だ。

だがその人物の世話係となると話は別。

そんな面倒な事を誰が進んでやりたいと思うだろうか。

こんなに人数の多い学校なんだから、どこかにものすごいおせっかいな奴もいるだろう。

適材適所。

俺には人の世話をするのは向いていない。

チャイムが響いて、担任が入ってくる。

出席確認もいいとこに、何ヶ月も前から復学が決まっていたであろう復帰生を、さも急遽決まったかの様に紹介し、迎え入れる前置きを白々しく作り始めた。

何も知らされていなかった他の生徒達のちいさなどよめきが起こる。

それは種を知っている手品の様に、ふざけた余興にしか見えなかった。

窓の外、

中庭の木が涼しげな木陰を作り、葉を揺らしている。

強い風に煽られてか、その葉が大量に舞い、窓に当たる。

中庭に植えられてしまった木は中庭の狭い視界しか手に入らない。

(…退屈だろうな)

風の助けを借りてもなお、この壁を越えることはできないのだから。

(俺だって、似たようなものか)

ぼんやりと外を眺めているうちに、あらかたの前置きは終わったらしく、とうとうその空席を埋める生徒が呼び込まれた。

先ほどのちいさなどよめきとはまた違った…大きさの程度の問題ではなく、感嘆の溜息の様な、そんな不自然などよめきに包まれた。

俺もそれにつられて、窓の外に向いていた関心が、教室の正面に移動した。

「……!」

衝撃 だった

透明感のある肌に、色素の薄い髪。そして細すぎる華奢な骨格。

こんなに離れているのに、髪と同じく色素の薄い長い睫毛が大きな目を縁取っているのが見て取れる。

俯いてても明らかな左右対称な相貌。

そんな中でやけに赤い薄い唇が、何とも形容しがたい色香を醸し出している。

(……何、これ人間?男?)

「え、女の子?」「ばか、制服見ろよ」「見たことないこんなの…」

考えることは皆同じらしく、口々にそんな声が上がる。

「あー、ほら、静かにしてくれ。……ほら、自己紹介、」

担任に促されて、俯いていた顔が少し上がる。

その顔があまりにも綺麗で、思考が止まってしまった。

「…和泉、直矢、です」

消えそうに小さな声でそれだけ呟くと、また俯く。

(いずみ…、なおや…っていうんだ)

「それだけ……や、まあいい、じゃあ和泉、席、あの奥だから。空いてる席分かるだろう」

またも担任に促され、この空席へ向けて歩きだした。意思とか無いのか、こいつ。

色んな視線を集めながら、にも拘らず無表情で席まで辿り着き、ついにやっと、この空席は埋まった。

無表情で、俺の隣に腰を下ろす。

(普通、隣とかって、一瞥くらいはするもんじゃないの)

そんな俺の考えに反し、結局一瞥どころか表情も変えないまま、ショートホームルームが終わった。

この和泉直矢の紹介は、9割方担任によって行われた。

最も紹介と言っても、昨日俺が聞いた入院やら何やらのワードは一切出てこず、何もかもがぼかされた、要領の得ない紹介だった。

ぼんやりと、何を見ているのか、何が見えているのかも良くわからない目をしている。

そんな、第一印象だった。

<ファーストコンタクト:END>

登場人物

【 保健室依存症 】

1年遅れて復学してきた和泉直矢と、隣の席の橋葉章。彼等を取り巻く周囲の人達の話
人間不信の和泉が橋葉に心を開いていく過程

▼和泉 直矢(いずみ なおや)
 2年C組/通院/情緒不安定
妹尾 貴樹とアパートで暮らす
 
 入退院を繰り返し、1年休学。

▼橋葉 章(はしば あきら)
 2年C組/人当たり良し/一人暮らし
  
 和泉の隣の席。和泉と仲良くなろうと努力する
 基本計算家で、友人関係も頭のどこかで計算しながら付き合うタイプ
 人当たりは凄く良い

▽五十嵐 幸喜(いがらし こうき) 
 2年D組/橋葉の友人/顔が広く情報通(南条と付き合っているから)/神出鬼没で得体が知れない

▽西沢 倉太(にしざわ そうた)
 2年A組/橋葉の友人/小動物的/人懐っこい

▽村野 圭(むらの けい) 
 2年C組/橋葉の友人/良くも悪くもおばか/友達思いの良い奴

▽妹尾 貴樹(せのお たかき)
 社会人/和泉の兄もしくは保護者的存在/和泉を車で送迎
 
▽南条 聡(なんじょう さとる)
 養護教諭/五十嵐と恋人関係/通常コンタクトだが自宅では眼鏡/学校に多額の寄付をしている