tip off THE GHOST

熱が出ると思い出す。

よく冷えた冬の日。父親――達男と暮らしていた古いアパート。熱に浮かされ見上げた天井がゆらゆらと歪む。まばたきのたびに焦点が揺れて、それはまるで水の中に沈んでいるような感覚。

数日寝込み、着替える体力も替えの衣類もなく。ボロ雑巾のようになった俺を、達男は外に連れ出した。

病院に連れて行ってくれるとは思わなかった。だけど、従えばなにか少しでも体は楽になるんじゃないかと、愚かしくも期待してしまった。
だが、そんな甘い考えを抱いたのも一瞬。荒い運転の後部座席に詰め込まれ、せり上がってくる嘔吐感に耐えながら、己の浅薄さを呪った。

 

向かった先は川沿いに並ぶ雑居ビルの一角。決して綺麗とは言えない水路からは、生臭いにおいが風に乗って運ばれてくる。その水面は、鉛色の空と同じ色をしていた。

錆びた外階段を登って三階。半ば廃墟のようなコンクリートの一室は、デスクやキャビネットの並びがかろうじてオフィスらしき体裁を保っていた。

 

そこには、男がいた。
黒いスーツに見を包んだその男が、達男の肩を労うように叩くのを見た。その腕には、暗がりにも光るゴールドの時計。
俺は革張りの剥げかけたソファに転がされていた。頭がガンガンする。乾いてざらついた喉が痛かった。

「達っちゃん、良いじゃねえの」と、男が言った。
「いやいや。お気に召さなきゃそこらの川にでも」やたら腰の低い達男がへらへらとそう言った。

達男はスーツの男に封筒を手渡され、やっぱりへらへらと頭を垂れながら出ていった。
俺はその部屋で、初めて他人に肌を触られた。

「あっつい死体とヤってるみたいだな」

男は自身の肉棒を俺にねじ込みながら、薄ら笑いでそう言った。

「次はあったかい部屋に呼んでやるよ」

叫びたいのに声が出なかった。
吐き出したいのに胃の中は空っぽだった。
逃げる先は、どこにもなかった。

 

***
 

大きな物音が聞こえ、急いでリビングを飛び出した。蒸しタオルを作ろうとしていた手が濡れたままだけど、そんなの構っている暇はない。

「真澄くん、開けるよ」

そう断って扉を開けると、足下に熱い体が倒れ込む。慌てて抱き起こし、彼の体重を預かった。
想像はついていた。目が覚めた時に僕が見当たらなくて、きっとパニックを起こしたのだろう。熱で体もきついだろうに床を這い、助けを求めてドアを叩く。彼は今、夢と現実の狭間にいる。

「真澄くん、大丈夫だよ。びっくりしちゃったね。僕はここにいるから、大丈夫。」
「ひ、ぁ………、あぁ………っ………ああっ」
「大丈夫。怖かったね。もう大丈夫だから、布団戻ろう」

聞こえているのかいないのか、それでも真澄くんがゆるく頷いたのが分かり、僕は同意と受け取った。彼を抱えてベッドに運び、大丈夫だよと繰り返す。

「………よし、たか……、おれ……」

なんかへんだ、と、真澄くんが続ける。熱っぽい息を吐き出して、ひとつ呼吸をするのも苦しそうに。

「熱があるからね。真澄くんのせいじゃない」

何かが変だという彼の感覚は正しいのだと思う。
そして、自覚してしまうからこそ、コントロールを失った感情に翻弄されてしまう。

「体拭こうか。蒸しタオル持ってくる。ちょっとだけ部屋出るけど、すぐ戻るから」

彼の額に張り付いた前髪をすくう。この様子では体も汗ばんで気持ち悪いだろう。
その指で、目尻からこぼれ落ちそうな涙を拭ってみる。長い睫毛に絡む雫を、舐めてしまったら怒るだろうか。
浮かんだ思いつきに保留マークをつけて、静かに部屋を後にした。

一昨日から、真澄くんの熱が下がらない。

 

***
 

一昨日の真夜中、ふと目が覚めると隣に真澄くんの姿がなかった。ついさっきまで彼はここにいたのだと、布団に残る体温が教えてくれる。
深く考えることもなく、喉の渇きを覚えて外に出る。真っ暗だと思っていた廊下は予想外に明るい。なんだろうと不思議に思えば、トイレの電気が点いている。

閉じきれていない扉の隙間に気付くのと、耳が不自然な水音を拾うのはほとんど同時だった。
眠気も渇きも吹き飛んだ。嫌な予感に急かされて、隙間明かりのこもれる個室を断りもせずに開け放つ。案の定だった。便座を抱えるようにしてへたり込む真澄くんと、その床に広がる吐物。
僕が入ってきたことが分かって、真澄くんは首をすこしだけこちらに向けた。酷い顔色で眉根を寄せて、しまった、という顔。来るなと言われる前に踏み込んでしまおう。

「真澄くん?………苦しかったね。具合悪かった?」

薄い背中は今にも倒れそうに見えて、支えるように肩を引き寄せる。意外にも抵抗はなかった。つまり、彼がそれだけ憔悴しているということ。
腕を伸ばす気力もないのか便器の中は吐いたままになっていて、まずはそれを流すことにした。視界に入って気分の良いものではないだろう。

「…………起こした?」掠れた声でそう問われる。
「いいや。起こしてくれて良かったのに」
「急に、………あがってきて、………」

手を添えた背中がぐっと強ばるのを感じる。

「出そう?」

そして、平熱よりも遥かに高い体温も。

「………真澄くん。熱、あるよ」

 

その後も、しぶとい吐き気は真澄くんを離さなかった。疲れ果てて眠り、また吐き気に起こされる。終いには部屋から布団を持ってきて、僕らは廊下で夜明けを迎えた。

朝になり、多少動けるタイミングで病院に駆け込んで、点滴と解熱剤の処方。ひとまず嘔吐は落ち着いたものの、奪われた彼の体力は計り知れない。ベッドにぐたりと横たわる姿はまさに満身創痍で、ほとんど気絶するように眠りに落ちた。

つと、空腹を覚える。そういえば、バタバタしていて朝からなにも食べていない。時刻は既に十三時をまわっていた。
熱い息を吐きながら眠る真澄くんの布団を整えて、起こさないようそっと部屋を出てリビングに向かう。手のひらには、まだ彼の体温が残っている。

萎みかけのトマトとツナ缶を具材にパスタを作り、味付けは二の次に栄養補給として飲み込む。万が一にも共倒れになるわけにはいかない。早く寝室に戻りたいと気持ちは急いて、何を食べてもきっと同じ味になる。
やや茹ですぎてしまった麺が半分ほど減った時だ。
声が聞こえた。否、声と呼ぶには躊躇われるような、迸る悲鳴。この家には二人しかいないのだから、誰のものかなんて分かりきっている。

「真澄くん!」

はやる気持ちのまま部屋に飛び込んで、その目を疑う。こんもりと膨らんだ布団の塊が叫んでいる。ベッドの上で体を丸め、布団に隠れるように身を縮めるのは真澄くんだった。

「真澄くん、どうしたの」
「あ、あぁ、や、やだ、いやだ、来ないで、嫌だ」
「真澄くん、僕だよ。顔見せて。大丈夫だから」

布団の塊にそっと手を添わせると、その中で真澄くんは激しく身じろいだ。もがくように暴れ、布団をはねて這い出てくる。ベッドから落ちそうになる体を咄嗟に引き寄せたら、真澄くんは再び悲鳴を上げる。恐怖がそのまま音になったような絶叫は鋭かった。

「真澄くん落ち着いて………っ」

いったいどうしたって言うんだ。落ち着かなければいけないのは僕のほうだ。分かっているのに焦る気持ちを止められない。こんな風に混乱する姿を見たことがなかったから。
真澄くんは熱い体を全部使って僕から逃れようとする。どこにこんな力があったのだろう。押さえようとするほど暴れ方はひどくなって、ついにはベッドから転げ落ちてしまった。

「……なさ……ごめんなさい……ごめんなさい、おとうさん………!」

床に伏せてもなお体を小さく縮めて、反復されるうわごと。はっとする。真澄くんが見ている亡霊は、きっと夢の中にいる。
膝をついて近付くと、真澄くんは頭を抱える両腕をいっそう強ばらせた。

「……ますみくん。大丈夫。僕だよ。ここは僕たちの家だ」

そっと、震える腕に触れる。途端真澄くんは弾かれたように起き上がって、その手は払われてしまった。涙でいっぱいになった瞳は何も映していない。それでも、濡れた頬でも、引きつった表情でも、顔を上げてくれたことに安堵する。噛んで含めるように「だいじょうぶ」と繰り返す。真澄くんは固まったまま動かなくて、僕はまたわずかににじり寄り、真澄くんの腕が上がるのを見た。

「こないで」掠れて音にならない声がそう言った。でも、ここで引いたら、真澄くんがどこかに行ってしまう気がして。戻って来られなくなる気がして。
胸にドン、と衝撃。何度も、何度も。真澄くんの拳が振り下ろされるのも構わずに、その背に腕を回す。

「いやだったね。だいじょうぶ。真澄くんはなにも悪くない。こっち向いて」

胸の中で、真澄くんの手が止まった。乱れた前髪のあいだから僕を見上げる。視線がかちりと合わさった気がして、思わず頬が緩んだ。良かった。戻ってきた。

「…………よし、たか」

名前を呼ばれて、つい抱きしめてしまいそうになる。驚かせてはいけない。彼はまだ目が覚めたばかりだ。ようやく緊張のほどけた頬を、両手で挟んでみる。むっと唇が出る。真澄くんは、何がなんだかといった顔で、されるがままにぱちぱちと瞬く。

「はい。どうしたの、真澄くん」
「………なんか、おれ、変な夢見て……」
「そうだったんだ。それは、嫌だったね。ほら、すごい汗だ」
「……ん。……もっかい、寝る」
「まだ体熱いからね。拭くもの持ってくるから、いっかい布団入ろうか」

こくりと頷いた真澄くんをベッドに収め、丸まっていた布団を広げてかける。真澄くんは、さっきまでの混乱を覚えているような、覚えていないような、曖昧に怪訝な顔をしていた。魘されてほとんど眠れなかったのかもしれない。すぐに瞬きがゆっくりになる。
照明を絞って部屋を出た。暗闇は作らず、ドアも隙間を開けたままで。
タオルを持ってすぐに戻ろうと心に決めた。
亡霊なんかに彼を連れていかせはしない。

 

***

 

何かが変だって分かってた。

何度も何度も繰り返されるあの冬の日。コンクリートの一室。熱に浮かされたリフレイン。

これは夢だってちゃんと気付いているのに、意識がごっそり持っていかれて、自分がどこにいるのか分からなくなる。そうなってしまうとすぐには戻って来れなくて、天井からおかしくなった自分を見下ろしているような、妙な感覚。ますます、何が夢で、どこからが現実なのか分からなくなる。悪夢と、記憶と、リアルが、境目無く流れ込んでくる。

「……!……はっ、は……は……っ」

裂けるような痛みで目が覚めた。
心臓が弾けてしまうんじゃないか。それくらい激しく脈打って、全身から嫌な汗が吹き出した。

痛んだのは夢の中の自分。今はどこも痛くない。けがもしていない。大丈夫だって佳隆が言った。だから大丈夫──そう言い聞かせてみるけれど、なかなか動悸が収まらない。

布団の中、寝間着代わりのシャツの胸をぐしゃぐしゃに掴む。足下から這い上がってくる恐怖を追い払いたくて、体を小さく縮める。
そうだ、さっきもこんな感覚になって、わけもなく怖くて仕方がなくて、暗がりの部屋で自分を見失った。逃げなきゃと、それだけが強い衝動で、気付いたら扉を叩いていた。
ぐっと喉が広がった。
胃の辺りから迫り上がってくるものを感じて唾を飲む。

(………吐くかも、)

じわじわとやってくる嫌な感覚。
体を起こすと視界が揺れた。ぐらぐらと歪む視界に思わず目を閉じて眉間を押さえる。だんだん暗さに目が慣れてきたけど、その間も吐き気は徐々にはっきりとした形になってくる。

「――――う、」

咄嗟に口元を押さえた。ほとんど反射だ。これ、まずいやつ。吐くやつだ。おぼろげな恐怖とはまた違った種類の不快感を確信する。

(………あ)

何かないかと視線を巡らせて、目が止まる。つむじが見えたからだ。ベッドに頭を預けるようにして眠る佳隆のつむじ。
床にはノートパソコンが開かれていて、読みかけで伏せられた文庫本も落ちている。佳隆が、かなりの時間、ここにいたんだって分かる。
そうだ。さっきも、佳隆が来てくれた。焦って泣き叫ぶ俺に嫌な顔ひとつしないで「大丈夫」と俺を包む。

「…………よ、よしたか」

おそるおそる、そのつむじに手を伸ばす。

「ごめん寝てた!どうかした?」

触れるが早いかがばりと勢いよく顔を上げるものだから、びっくりして手が引っ込んだ。

「……ご、ごめ…………ちょっと、その、吐きそ、で」

言葉にするほど、胃のむかつきが広がっていく。心臓がばくばくいってる。俯いたらそのまま出してしまいそうだったけど、気分が悪くてどんどん背中が丸まっていく。

「あー、もう、僕が寝てどうするんだよね。気付かなくてごめんね。トイレまで行ける?袋もあるけど……」

灰色っぽいビニール袋が差し出されて、でも、袋に戻すのも嫌で、俺は押し返した。起こしておきながら、我が儘言って、ごめんね佳隆。心の中で謝罪して、ベッドから下りようと足を出したら、佳隆は俺の肩を抱いた。

「わかった。トイレ行こう。だめだったら、だめでいいよ」

返事の代わりに、佳隆の服を掴んでみる。
足もとは覚束なかったけど、掴んでいれば、これでもう大丈夫だと思った。どこに行っても、佳隆は俺を捕まえてくれる。

「熱、下がってきた感じするよ。しんどいの、もう少しだからね」

額に佳隆の体温を感じて、本当だ、熱、下がってきた。熱と一緒に、亡霊の影も蜃気楼のように遠ざかっていく。
これでもう、大丈夫。

 

***tip off THE GHOST:END

no title days <においのある亡霊>

榎本真澄が店を飛び出した後。

「ついていったほうがいい気がします」と、提案したのは瀧本だ。
「店の外、誰かいます。榎本さんの後付けてる」

そう、続けて。

 

「ひいっ」
「あっ!待て!この野郎っ」

不意を付いて、男が逃げ出した。瀧本は、転がるように駆けていく男を追いかけようとして「瀧本くん!」瀬尾間に呼ばれた。

「瀧本くん、いいよそいつは!それより、こっち!」

でも、と言いかけて、振り返った瀧本は気がついた。
榎本の震える背中が丸まっている。

「瀧本くん、なにか、受けるものないかい。榎本くんが吐きそうだ」「榎本くん、大丈夫だから、このまま出しちゃいな。苦しいでしょ」

ゆるく、けれど頑なに首を振る。どうしてもこの場に吐きたくないようだ。それもそうだろう。外で暴漢に襲われるなんて、もちろんそんな経験はないけれど、人目がある中で吐きそうだなんて嫌に決まってる。
何かないか、そう思って、右手に紙袋を下げていたことを思い出す。洗濯のため、持ち帰ろうとしていたエプロンだ。
瀧本は迷わずそれを取り出した。

「ほらっ、これ。いいよ、どうせ汚れてるし。今日トマト缶引っかけたんだ」

素早くエプロンを受け取ったのは瀬尾間で、きつく口もとを覆う榎本の指をゆっくりとはがす。膨らんだ頬が目に飛び込んできて、瀧本は心臓を掴まれたような気持ちになった。

「――――ぐ、…………おえっ、んぐ…………っ、うぇえっ」

ばたばたばたっと一気に吐いて、エプロンにどろっと吐物が広がった。瀬尾間はあやすようにゆっくりとその背を撫でる。二度、三度、嘔吐が続く。

「…………クソ、逃げられた。上に乗ってやれば良かった」

これ以上見てはいけないような気がして、瀧本は男の逃げた方向に顔を向けた。まんまと逃げられて悔しい思いをしているのも事実だ。

「大丈夫。身元は掴んでるよ」
「えっ?」
「カードケース。ここに落ちてた。免許証もバッチリ」

瀬尾間の手には、地味な黒革のカードケースがあった。つまむようにして掲げながら、口の端でにやりと笑う。

「あいつ、よく物を落としてくれるからね」
「……?」

笑みの理由は分からなかったが、「後で話すよ」と瀬尾間が言うので飲み込んだ。

「…………さて、榎本くん。立てるかい。ここじゃ落ち着かないだろう。ちょっと戻るけど公園があった。一回座ろう。な?」

踞る薄い背中に声をかける瀬尾間。近づいて屈むと、榎本真澄はガチガチと歯を鳴らしていた。こんなに震えるほど怖がるくせに、狙われていると分かっていながら夜道を一人で帰るなんて。それだけでなく、より人気のない路地へ、男を誘(いざな)ったようにも見えた。まったく、何を考えているんだ。

「えーー……と、エノモトさーん……」

沈黙に耐えられなくて、瀧本はそっと肩に手を伸ばす。途端、榎本真澄は弾かれたように振り返って身を固くした。揺れる大きな瞳が、ゆっくりと瀧本を見上げる。
冷や汗で前髪を額に張り付かせて。長めの髪の毛が幾筋か口に入って。吐いたもので、口もとを、服を、手を、汚して。

 

――――参った。

 

(…………俺は、この顔を、知ってる)

***

全身強張ったままの榎本を、瀬尾間がどうにか宥め、落ち着かせて、おおよそ二十分の時間をかけて、三人連れ立って夜の公園に移った。

ベンチに座って俯く榎本を見下ろす。並んで腰を降ろせるほど、瀧本は図太くなかった。所在なく砂利を踏んで沈黙に息をひそめる。
瀬尾間の指示で、座る前、水道で口を濯がせている。蛇口の位置が低かったせいで、榎本が髪の毛と洋服の前を僅かに濡らしてしまったのが見て取れる。
瀬尾間は水を買ってくると言って自動販売機に向かい、榎本はまるで空っぽのような顔をしてベンチに座っている。瀧本の足元には、汚れたエプロンの入った紙袋が置かれていた。

「榎本くん、瀧本くん」

発する言葉が見つからず、どうしたものかと考えあぐねているうちに、小走りで瀬尾間が戻ってきた。ペットボトルの水と、缶コーヒーを二つ持って。「はい」とコーヒーを一つ瀧本に手渡す。なかなかどうしてスマートで、瀧本はほんの少しの驚きとともに冷えた缶を受け取った。

「…………すみませ………」

まるで動かなかった榎本から、ようやく出てきた言葉は謝罪。

「水、飲める?キンッキンだけど」
「あ………はい」

緩慢な動作で受け取って、けれど力が抜けているようで、榎本はキャップを外せずただ蓋を握る。

「あっ。ごめんね、気がきかなくて。……はい、どうぞ」

瀬尾間に蓋を緩めてもらってなんとか口に運ぶけど、その動きはどうも危なっかしい。ペットボトルごと奪い取って傾けてやりたい気持ちになる。
ひとくちを、ゆっくりと飲み込む。喉仏が小さく上下する。
この沈黙に耐えられるほど大人じゃなくて、瀧本も缶コーヒーを傾けた。
味なんてまるで分からなかった。ただ、よく冷えた液体が喉を滑り落ちる感覚は久しぶりに爽快で、ようやく人心地ついた気がした。

「…………ごめんなさい」

少し湿っぽい夜の公園は、消え入るような囁きを拾うのにじゅうぶんな静かさだった。示し合わせたわけでなく、瀧本も瀬尾間も続きを待つ。

「俺、あんただと思ってた」

 

***

 

あんたが、あのストーカーだと思ってた。

「ごめんなさい」頭を下げる。それ以外に、どんなふうに伝えたらいいのか分からなかったから。
「え?何?えぇ?」困惑しきりなのは瀬尾間のほうで、当の瀧本はというと、何も言わずに立っている。微動だにしない瀧本のつま先をしばらく見つめ、真澄は顔を上げた。鍵穴にはまるように、瀧本と視線が合う。

変質者扱いされたにも関わらず、そこには怒りも当惑もなかった。

「………そーだろうなと思ってたよ」

そう言って、瀧本は地べたに腰をおろした。足を放り出して夜空を仰ぐ。靴底と、むき出しの喉仏が顕になった。
直感。この人、敵じゃない。

「ちょっと待って。一体なんだって榎本くんは、こいつがストーカーだって思ったのさ」

瀬尾間の問いはもっともだった。こいつ、と言って瀧本を指さす気安さは、仕事中には見られないものだ。

「…………すごく、見られてたから」
「…………それだけ?」

ぽかんと口を開けた瀬尾間が真澄と、瀧本とを交互に見比べる。そして「俺も、榎本くん見てたけど」真面目な表情でそう続いた。
真澄は慌てて首を振る。ちがう。そうじゃなくて。だめだ。言葉が足りない。

「………つけられてんのに気付いてないから」繋げたのはあぐらを組んだ瀧本。
「俺が?」
「ほんっとに気付いてねーのな!」
「ごめ、」
「キレてない。呆れてんの」

聞けば、あの中年男はおおよそ二週間から店の周りをうろついていたそうだ。二週間前といえば、ちょうどSNSで写真が広まったころだ。
あれ、と瀬尾間が首に手をあてる。

「え?でもあいつ、店に来たのはもうちょい前だったよね。瀧本くんは知らないか。いつごろだっけね、財布忘れて、榎本くんが駅まで届けたんだよね」

取り立てて特徴のない顔だったが、瀬尾間も覚えていたようだ。なにかをつまんで揺らしていると思えばそれは誰かの免許証で、視線に気付いた瀬尾間が「あのストーカー野郎の。ポイントカードから社員証までよりどりみどり」と補足した。

まさか、あの混乱の最中に抜き取っていたのか。

「いつの間に……」
「さっき。あいつほんと、よく落とし物してくれるね」
「じゃあつまり、あいつは財布を届けた榎本さんに惚れ込んで、その後拡散された画像を見つけて、また店に戻ってきたってわけですか?」

忘れ物の一件を知らなかったらしい瀧本に、瀬尾間は簡単に説明を添えた。財布に新幹線のチケットが入っていたこと。新幹線の予約時間から逆算して駅を発つ時間を推し量り、真澄が駅まで走ったこと。瀧本は「うわ」とか「へえ」とか相槌を挟みながら聞いていた。

 

ストーカーは身元もすべて丸裸。疑っていた瀧本は、むしろストーカーから守ってくれた恩人で、追っ払ってくれたヒーローで。
一件落着?違う。そんなわけない。瀧本にだって、疑われて当然な不自然さがあったじゃないか。

 

「…………でも、じゃあ、写真は」

歓談モードの空気に水を差すのは躊躇ったけど、どうしても確認しないわけにはいかない。

「瀧本さんのロッカーに………俺の写真……」「茶封筒に、俺の写真、何十枚も」

言いながら、声が震えた。
ああまったく嫌になる。
知らぬ間に撮られた写真が世間の目に晒されたんだ。奥底にしまい込んだ苦い記憶が這い上がる。

「………どういうこと?なんか理由あるんでしょ、瀧本」

自分の呼吸の音が聞こえていた。瀬尾間の手が肩に触れて、声だけでなく体まで震えていたんだと気付かされる。
「見たのか」と驚きに見開かれた瀧本の瞳は、しかし一瞬で伏せられてしまう。

「郵便受けに入ってたんですよ。宛名も差出人もなくて、切手もなくて。怪しいなと思って開けてみたら……って、感じで………。後で言おうと思ってたんすけど、思わず、ロッカーに隠しちゃいました。すみません、先に報告するべきだった」
「そんなことがあったのに俺にも店長にも報告しなかったのは落ち度だね。なんですぐ言わなかったの」
「………それは、ええと」

ちらりと目線だけでこちらを見た。口に入れた苦いものを、毒と知りつつ噛み潰さないといけないとしたら、たぶんこんな顔。

「…………ゴミが一緒に入ってたんで。知ったら、嫌だろうと思ったんで………。誤解させました。すみません」

二度目の謝罪は真澄に向けられたものだった。

「今朝、森谷とゴミ捨て出た時見つけたんです。写真とゴミの入った袋。………気味悪かったですよね、同僚のロッカーに隠し撮り写真って」
「いや…………俺こそ、勝手にロッカー開けて、勝手に勘違いして、ごめんなさい」
「ちょっと待って。ちょっと待ってね、ややこしくなってきた。この話、榎本くん嫌かもしれないけど、今度落ち着いて聞いていいかい。もちろん瀧本からも。あの変態も警察に突き出さないといけないし」

今日はもう帰ろうと、瀬尾間は両腕を擦った。確かに、夜もずいぶんと遅くなり、肌寒くなってきている。

「あっ」

はっとして、ポケットからスマホを取り出す。
着信を知らせる点滅。着歴、百五十六件。
未読メッセージの数は見なかったことにしよう。
生活リズムが入れ違うようになってからは、逐一行ってきますも帰りますも連絡することはなかったが、さすがに遅すぎた。

「あーー……あの、えーと」
「電話?もちろんどうぞ」
「すみません」

嫌な予感と反省と、半々の気持ちでコールバックをタップする。
ワンコールと待たないうちに、通話は繋がった。

『真澄くん!?』
「よっ、佳隆さ、」
『今そっち、向かってるから、絶対に動かないで』

走っているのだろう、息の上がった佳隆の声は思わず耳から離したくなるボリュームだ。普段まるきりデスクワークなのに、全力疾走している姿も、翌日の筋肉痛に顔をしかめるところまで想像できた。

『良かった。次、繋がらなかったら、警察呼ぼうと思ってたんだ。警備会社には連絡したから、そっち、今から向かってもらって……』
「待って、待って。落ち着いて。俺、大丈夫だから。警備も呼ばなくていいから!」
『誰かそこにいるの?怪我してない?もう着くから、お願いだからそこにいて』
「分かった、分かったから。電話出られなくてごめん。ちょっと色々あって、ちゃんと話すから」

その場を動くなと何度も何度も念押され、何度も何度も頷いて、なんとか電話を終わらせる。警察だの警備会社だの、すっ飛んだ佳隆の発想も、今回ばかりは笑えない。それくらいの事態だったと自分でも分かる。

ようやく静かになった液晶画面は煌々と眩しかった。

佳隆の声(半狂乱だったけど)を聞いて、正直ほっとしたのも束の間、この場にいる同僚二人を思い出す。しまったと思い目線を上げると、呆気にとられたような、困惑したような、曖昧な苦笑いがふたつ並んでいた。

「やーー……なんというか、すごい勢い………いや、そんなふうに言うのは違うね。榎本くんのこと、すごい心配したんでしょう」
「………そうみたいです」
「迎えに来るって?この場所分かるかな。僕も分かんないや。ここ、なんて公園だろう」
「あ、分かると思います。GPSで……」
「じ、ジーピーエス?」

これだって、普通じゃないのかもしれない。
今度は明らかな呆れ顔の二人に、「君がいいなら」と労うように頷かれ、腹の底をくすぐられた気分だった。

***

およそ五分後、血相変えて走ってきた長身の男は「ヨシタカ」と名乗った。
そりゃあもうもの凄い勢いで飛んできたものだから、驚きを通り越して笑うしかない。榎本真澄と、見知らぬ男がふたり。それだけでこの熱い男が早合点するには十分で、「何ですか」と初手から似合わぬ喧嘩腰だ。
榎本真澄はおそらく慣れているのだろう、優男然としながらドーベルマンにもなりかねないヨシタカを引っ張り、宥め、自らの無事を伝えている。

「だから、この二人がバイト先の人だって。変なやつにつけられてたとこを助けてもらったんだって言ってるだろ」
「あ……ああ、そうか。申し訳ないことをしたみたいだ。ええと、僕は佳隆と言います」
「それはさっきも言ってたよ、佳隆さん」

なんなんだ、いったい。
出し抜けに冗談みたいな掛け合いがはじまって、耳も目も、呆気に取られて二人を追う。
「あの、申し遅れました。私、瀬尾間といいます。こっちは、社員の瀧本。榎本くんの働いてくれているレストランで、自分がチーフマネージャーをやってます」
瀬尾間はやはり真っ当な大人で、年長者らしく事の次第をかいつまんで説明した。
少し前から榎本真澄を狙ったストーカーが現れていたこと。何人かがそれを知って警戒し続けていたこと。今日、件のストーカーが、退勤した榎本真澄の後をつけていることに気付いたこと。
榎本真澄本人にとっても初耳だったようで、何度か目を丸くしていた。まったく、危なっかしいにも程がある。他人への警戒心は強そうなのに、このアンバランスさはなんだろう。この見た目だ。危険な目にあったのもきっと初めてじゃないだろう。安全への無頓着さには、呆れを通り越していっそ感心できるくらいだ。
「―それで、私達二人で追いかけてきたんです。ストーカーには、逃げられてしまいましたが」
「そんなことが………。ああ、でも、真澄くんが無事で本当に良かった。お二人ともありがとうございます」
「とっ捕まえることはできませんでしたが、身分証一式揃ってますんでお渡しします。使い方は任せますよ」
煮るなり焼くなり。そんな言葉と一緒に、黒い合皮のカードケースが佳隆氏の手に渡る。何も言わずにポケットに差し込んでいたが、一拍遅れて「盗ったの?」と驚きの表情を向けてくる。
このヒト、もしかしなくても、かなりズレてるんじゃないだろうか。

 

その後、二人は並んで帰っていった。ここから歩ける距離ではあるが、隣の通りに出てタクシーを捕まえると。瀬尾間が「じゃあまた、バイトでね」と手を振った時には、榎本真澄は少し驚いたように目を開けていた。

佳隆氏は相当すっ飛んだ人物だったが、〝あの〟榎本真澄が自ずから腕に掴まって、肩を寄せるようにして去っていく背中を見て、それだけでもう十分だった。彼の人柄を想像するのにも、彼らの関係性を推し測るのにも。

 

二人の背中が見えなくなって、どっと疲れが湧いてきた。瀬尾間とふたり、どちらが声をかけるでもなくベンチに腰を下ろす。街灯にぼんやりと照らされたポール時計を見れば、もうとっくに日付が変わっていたた。

「なんか、倍疲れたかんじ」

ひとり言のように、瀬尾間が呟く。

「ヨシタカさん、ヤーバかったっすね」
「そうだよね!?あー良かった。瀧本くんもそう思ったよね!?もう僕、最近の子の、こ、コイビト?って、みんなあんな感じなのかと思って、どうしようかと」
「いやいやいや、ないでしょ!ないない」

瀬尾間は良かった良かったとしきりに繰り返し、二人が去っていった公園の入口を見やる。薄明かりの下、茶ブチの白猫が悠々と横切っていた。

「榎本くんは猫みたいだ」

茶ブチの背中を遠目に瀬尾間が言う。

「そうですね」短く、瀧本は返す。

 

前はもっと、縄張り争いに破れた手負いのけものみたいでしたよ――――とは、口に出さずに飲み込んだ。

 

「ねえ、瀧本くんは彼女いないの。あ、彼氏でもいいけど」

突拍子もなく話題の矛先を向けられてぎょっとする。捨てどころがなく手に持ったままのコーヒー缶が手のひらから抜けていった。

「な、なんですか、いきなり」
「あっ、その顔はいるんだね」
「いいじゃないですか、なんでも」
「良くない良くない。おじさん疲れたから、若人のエネルギッシュな話聞きたい」

ねえねえと、瀬尾間は次々に質問を投げる。浮かんだ興味をよく吟味もしないままそのまま口に出している感じだ。勤務後にこんな騒動があって、相当、疲れているのだろうし、おまけにハイになっている。

「彼女、かわいい?」「一緒に住んでるの」「どこで出会ったのよ」

困った。一つ答えたら全部答えないと終わらなそうだし、かといって沈黙を貫くのも、瀬尾間には答えとなりそうだった。

「もう、帰りましょうよ。あ、二次会とかやってますかね。連絡取ってみますか」
「飲む気分じゃないからいいよ。帰る帰る」
「言いましたね。ほら、帰りましょう。瀬尾間さん立って」

瀬尾間は駄々っ子のように足を伸ばしていたが、腕を引けば素直に立ち上がった。立ってしまえば、上背は瀧本を軽く越え、幾分かしゃんとして見える。

「瀧本くん、彼女にはなんて呼ばれてるの」

公園を歩きながら、なおも質問攻めは続く。瀬尾間は完全に面白がっていた。子どもみたいなからかいには、初手からさっぱり答えてやるほうがいいのだ。そうは分かっていてもなかなか器用に返せない瀧本は、しばしば瀬尾間のいじられ役になっていた。
一滴も飲んでいないのに、酔っぱらいのような絡み方じゃないか。こうなった瀬尾間はめんどくさい。

「別に、普通です」と瀧本。「普通って?」と含み笑いの瀬尾間。
「春浩って、普通に、名前ですよ」

聞いておきながら、瀬尾間はつまんなーいと小突いてくる。

「なんかもっとさあ、ハルくんとか、ヒロちゃんとか」
「呼ばれないですよ」

 

瀧本春浩。それが、瀧本のフルネームだ。

 

高校三年生の春。俺は榎本真澄と同じ教室にいた。大きな校舎の裏庭、桜の木の下でうたた寝する彼を見た。どこを見ているのか分からないぼんやりとした視線を、その横顔を、時折盗み見ては目を逸らしていた。

 

「てか瀧本くん、電車だったよね」「ねえほら、終電無くない?」
瀬尾間に言われて時間を見る。本当だ。帰ろうったって、もう、終電なんてとっくに終わった時間だった。
ファーヴェ・ディ・カルピーノの従業員は、ほとんどが徒歩圏内か、車通勤だ。今日みたいな飲み会の日は、遠方組はオール前提で杯を煽る。瀧本も本当ならそのつもりで、始発で帰る算段だったのに。

 

当時の彼は、クラスの中の異分子だった。
馴染めていない、浮いている、言い表すならばそんな言葉になるのだろうが、どれも妙にしっくりこない。誰もがうっすらと好奇の目を向けていたが、誰も触れられない。そもそも、彼の視界には誰も映っていなかったように感じる。彼だけ、別の世界にいて、誰とも交わっていなかった。

 

間宮店長から、新しいバイトが来るとは聞いていた。その人が、キッチンに入るということも。履歴書が置かれていることは知っていたが、さして興味も引かれなかったからそのままにしておいた。まあ、追々見ればいいかと思っていたから。
だから、彼がバイトとして現れた時には驚いた。目を疑い、不躾にもまじまじと見入ってしまった。だってまさかそんなこと、あり得ないと思ったから。
「こちら、今日から入る榎本くん」と、瀬尾間に紹介された時には気付かなかった。
「よろしくお願いします!」と、気のいいあいさつを聞いた時も、記憶の中の榎本真澄とは結びつかなかった。だってそもそも、俺は彼と話したことなんてなかったのだから。
会釈くらい返そうと、顔を上げて、息が止まる。見間違える訳がない。恐ろしいくらいに整った、精巧な作りの美貌。薄そうな頬の皮膚。顎を引くようにして、長い睫毛に縁取られた瞳で少し見上げるようにこちらを見る。
俺は一度、あの瞳に殺された。

 

「榎本くん、辞めちゃうかな」
「えっ」

瀬尾間の言葉にドキリとした。バイトの話をしているのだと思い出すのに、数秒の間が必要だった。

 

高校三年生。夏の訪れを待ちわび、少し色を濃くした緑が若い風に揺れる時期。呪いのような出来事があった。当事者の榎本真澄にしたら、おぞましい悪夢以外の何物でもなかっただろう。クラスメイト誰一人として、あの日のことを忘れていないと断言できる。忘れることなんてできないほど、目に、脳に、深く焼き付いた。
あの日以降、榎本真澄は学校から姿を消した。一週間後には高校を辞め、つまり、自主退学としてあの教室から去っていった。

 

「――――どう、……すかね。ストーカーが出た職場だし、あんま、気分いいもんじゃないでしょうから」
「榎本くんの履歴書見た?」
「いや、見てないです」
「殺風景だったよ。彼、高校中退してるんだってね。とくに働いてもいなかったみたいだし、どういう生活してるんだか、聞いてみたかったけどそういうの話してくれる雰囲気じゃなかったじゃない。なんか訳アリなんだろうなって、思ってたんだよね」

こんな時間でも大通りには人の往来があった。通りに面したガードレールに瀬尾間とふたり、なんとなく並んで腰掛ける。

「続けてほしいなあって」

目の前を横切る酔っ払いを眺めながら、瀬尾間が言う。タクシーを捕まえるのかと思ったけれど、どうもその素振りはない。

「どんなペースでもいいからさ。なにかいっこ、彼がやり通したものが、うちのレストランだったらいいのになって思って」
「………そうですね」

その返答に嘘はなかった。

 

榎本真澄が高校を辞めたのも、辞めさせられたようなものだった。彼に降り掛かった厄災も、犯人はついに明かされなかったが、クラスメイト、あるいは教師の誰かによるものだと全員が気付いていた。教室にいたころの彼が頻繁に体調を崩していたことも、彼の家が明らかにマトモではないことにもみんな気付いていた。そうだというのに傍観し、距離を取り続けた結果がアレだ。

 

罪悪感なんて言葉はいっそ傲慢だ。
あの窮屈な世界から抜け出して、今の榎本真澄が穏やかに暮らせているのなら、このバイトも続けてくれたらいいと願う。罪滅ぼしには、ならないけれど。

 

「ところでさ、ゴミってなんだったの」ふと、瀬尾間が思い出したふうに言う。「写真と一緒に入ってたってやつ」
「あー……」
「瀧本くん、言いにくそうにしてたから。なんかヤバいものだったのかなって」
「……………………ゴム」

開店準備をしている時だ。ゴミ出しをして、郵便受けに挟まる茶封筒が見えた。その時のことを思い出して、自然と、苦い顔になる。

「なんつーか、その……使用済みの」
「…………うっそー……」

瀬尾間はドン引きの表情であんぐりと口を開けた。こんな顔の瀬尾間を見たことがない。がっくりと肩を落とし、両手で肩を抱くように身震い。「キッショ」そう、吐き捨てた。

「郵便受けは、森谷が念入りに除菌してくれたんで」
「そりゃ、森谷くんにもトラウマものだ。次会ったらフォローしないと……」
「それから、更衣室に盗撮カメラありました。たぶんあの男、何度かバックヤードに侵入してます。他のスタッフルームも調べたほうが良いと思います」
「早急に専門家を呼ぶよ」

大量の写真をどうしようかと更衣室に戻り、そこで、ロッカーの角にきらりと光るものを見つけた。いくつも並んだロッカーの列。その端のひとつ、ちょうど、榎本真澄のロッカーが画角に収まる位置。
いつから置かれていたのだろう。予備の靴や備品の山に紛れて、USBのような形をしたそれは、一見してカメラだと判別しにくいものだった。
高い位置にあるコンセントから引き抜いて手に取ると、動作中の機械らしい熱を持っていた。考えあぐねているうちに外から足音が聞こえてきて、反射でポケットに捩じ込む。ドアを開けて入ってきたのが渦中の榎本真澄だった時には驚いた。

「あ」

思わず声に出していた。瀬尾間がどうかしたのかと視線で問う。そうか。榎本真澄が俺のロッカーから写真を見つけたのはあの時か。あの時は、手にとってしまった怪しい機械のことで頭がいっぱいで、きっと大いに挙動不審だったことだろう。それだけで人のロッカー開けるか?と思わなくもないが、瀬尾間から、落とし物の財布を躊躇なく開けて持ち主の行き先を言い当てた榎本真澄のエピソードを聞いたばかりだ。彼なら、やってのけそう。

「瀧本くん、なに笑ってんの。もう君、相当疲れてるでしょ」
「瀬尾間さん、やっぱり、飲んで帰りませんか。この辺り、始発までやってる飲み屋あるんですよ」
「ええ?もー、いいけどさあ。なんなの、気になるじゃん」

榎本真澄が、次のバイトにも来てくれればいい、と改めて思う。彼も覚えていないようだし、高校時代の彼を知っているという事実は胸の中に仕舞っておこう。お互いに、ああ、あの時の!なんて、懐古できる関係ではないのだから。
きっと榎本真澄からしたら、元同級生がいるバイト先なんて嫌だろうとは思う。もし立場が逆だったら、俺はものの数分で姿をくらますだろう。
だけど、たぶんあの時の榎本真澄は、今の彼とはまるで違う。彼自身の本質は変わらないまま、彼の見える世界が変わったのだと思う。それが佳隆という男のせいかはわからないけど、なんというか、たぶんきっと、榎本真澄はあの教室で、本当の意味では生きていなかった。そして、俺はあの目に殺された。
今やっと、ようやく、初めましてと挨拶ができたのだ。

あの時は見ていることしかできなかったけど、今は違う。彼が自らバイトに申し込んできたのなら、彼にとって外の世界が必要になったのだろう。それを叶えるのに、うちのレストランはきっと向いている。
「瀬尾間さん。もし榎本さんが辞めないでくれて、また変なやつが出てきたら、全力で追い払いましょうね」
「そりゃあ、そんなの、もちろんだよ」

***

ミカンのシャーベットが食べたい。それか、レモン味のゼリー。
目を開けて、眠っていたことに気付いて、まず浮かんだことだった。

「真澄くん、起きた?」
「!」
「わっ、だめだよ、急に起きないで」

はっとした。寝てた。寝てたよ、俺。ここ、どこ。知ってる場所。俺の好きなにおい。佳隆の部屋だ。
混乱はすぐに着地して、真澄は深く息を吐いた。飛び起きようとした肩を優しく押され、体は再びベッドに沈む。

「え。うそ。いつ帰って………てか、え?今、何時?」
「えーっと、もうすぐ十二時になるところだね。よく眠れたなら良かったよ」

気分はどう?と、佳隆は問う。長い指で真澄の頬を撫で、乱れて張り付いた髪の毛を払う。反対側の頬には湿布が貼られていた。親指で下唇をつままれて、む、と声が出た。

「へいき」
「良かった。何か飲もう。持ってくるから、横になってて」

安堵に顔をほころばせ、佳隆は部屋を出ていった。真澄が不安にならないよう、扉を開けておくのもあえてだった。
起き上がるなと佳隆は言ったけど、目が覚めてしまって落ち着かない。ゆっくり体を起こして、壁に寄りかかって眉間を揉んだ。
伸ばした足の方に、文庫本が一冊。床にはクッションとブランケットが置かれていた。俺が起きるまで、ずっとここにいたんだ―。その事実はくすぐったくて、同時に申し訳なくて、真澄は所在なく文庫本を手繰り寄せた。手持ち無沙汰に表紙を撫でながら、記憶を辿る。

 

昨夜、長い長い騒動を終え、迎えに来た佳隆とタクシーに乗り込んだところまでは覚えている。それからすぐに眠りに落ちて、泥のように一晩中ぐっすり眠っていたというわけか。タクシーからここまで、佳隆に運ばれたのだろうか。寝惚けながらでも自力で歩いていていればいいけど。まるで記憶にないせいで、他人事みたいに祈ってしまう。
足音がして、トレーにグラスを乗せた佳隆が戻ってくる。

「ジャスミン茶。冷えたのはこっち飲んだ後でね」

言いながら佳隆は、グラスをひとつ差し出した。真澄が両手で受け取ると、しっかりと持てたことを確認してから手を離す。
トレーにはもうふたつ、グラスが並んでいた。ひとつには氷が入っている。キンキンに冷えたものが飲みたい気分だったが、ここは佳隆の言うことを聞いておこう。貰ったグラスを傾けて、花の香りがするお茶を喉に滑らせる。常温の液体は乾いた細胞ひとつひとつに染み渡るようだった。

「昨日の話、してもいい?」

唇を湿らせて、真澄は切り出した。
真澄と同じく常温のジャスミン茶を飲んでいた佳隆は、少し驚いた顔で頷いた。グラスをサイドテーブルのトレーに置く。

「君が、大丈夫なら」
「平気。…………心配かけて、ごめんね、佳隆さん」
「連絡がつかなくて動転したけど、真澄くんに怪我がないなら、もう、それでいい。本当に、もう、どこも痛くないね」

くもりのない真剣な顔。真面目な眼差しをおもむろに向けられる。
涼しげな瞳にすっと通った鼻筋。さらりとした和風の顔立ちはそれだけ見れば冷たい印象も受けるが、佳隆の少し浮世離れした性格や、基本的には温和な人柄が柔らかな雰囲気を足している。佳隆は、俺の顔を綺麗だとか言うけれど、俺からしたら佳隆のほうがよっぽどきれいに整っている。と、真澄は常々思っていた。

「うん。……や、ちょっと顔のこっちが痛いかな。中が腫れててしゃべりにくい」

あの男に殴られた側の頬に指先で触れてみる。寝ている間に湿布が貼られていたということは、見て分かるくらい腫れていたのだろう。

「俺さ、佳隆さん以外に腕とか、体とか、触られんのすげー嫌みたい」

ぽつりとそう呟いた真澄に、佳隆は目を丸くした。そして、思わず吹き出す。

「そっか。そうだね、そうじゃなきゃ困るよ」
「べたべたされんのも嫌い。後ろに立たれんのも嫌い」
ひとつひとつ、嫌いを指折り数えていく。うん、そうだね、と、佳隆はゆったりと相槌を返す。
「ぜんぶ嫌じゃないの、佳隆さんだけだ」
「君は…………相変わらず、すごいこと言うね……」
「そうかな」

佳隆はベッドの上にそっと腰掛けた。ひとりぶんの体重が加わってフレームが軋む。
「飲む?」と冷えたほうのジャスミン茶を渡される。ああ、甘やかされてるな、と、再確認するのはこんな時。佳隆には、甘えてもいい。じゃあ、他は?ちょうどよく冷えたお茶が喉をすべり落ちる。

「ちょっと勘違いしちゃって、昨日の二人には失礼なことしちゃったなあ。真澄くんがバイトしづらくなってないといいんだけど」
「えっ?」
「ほら、僕、公園で二人を見た時犯人だと思ったからさ。最初すごい、態度悪かったから」

たしかに、あの時の佳隆は掴みかからんばかりの勢いがあった。自覚、あったんだ――

「って、そうじゃなくて。そうじゃなくて――――……バイト、行っていいの……?」

信じられない思いでそう言うと、佳隆もまた、驚いた顔をして見返してくる。「あれ」と呟いて、お互いに、瞬きを数回。

「ほんとうだ。僕、今までなら絶対に止めてたね」
「うん。そうだと思う」
「真澄くんは、続けたい?」

即答しようとして、言葉に詰まる。
バイトは楽しかった。外の世界に出ていくことも、体を動かすことも。佳隆以外の人と過ごして、佳隆以外の人と話す時間が増えたことで、自分は、もっと佳隆が好きになった。

だけど、あんな面倒を起こして、おまけにひどい醜態を晒しておいて、あのレストランで働き続けてもいいのか、判断がつかない。
迷っていると、佳隆が眉を下げて笑った。

「真澄くんが、どうしたいか、だよ」

どうしたいか――――

拒絶は怖い。お前は不要だと切り捨てられることも。
寂しさを乱暴に、強引に埋め合わせていたのは、相手のほしいものを与えている間は許されたような気がしていたから。相手の望むように振る舞ったのは、拒絶されたって生身の自分が傷つかなければ平気だったから。
でも、今なら。今なら、失敗したって帰る家がある。お帰りと言われて、ただいまと言える。俺が帰るだけで、喜んでくれる佳隆がいる。

「…………続けたい。次のシフトも、店、行く」
「うん。そうしよう。昨日の、えーと、瀬尾間さんだっけ。彼も真澄くんが来るのを待ってるみたいだったし」

それに、と佳隆が付け足す。

「僕も真澄くんが働いてるところ見てないし」「いつ見に行こうかな。エプロン巻いた真澄くん、似合うだろうなあ」

佳隆は佳隆で、仕事が一段落ついたようだった。しばらく自由だと伸びをする。どこか出かけようかと、肩をほぐしながら聞いてくる。
佳隆も、変わった。
それは心地よく穏やかな変化。
安全な余白があるから、ひとは自由に選ぶことができる。

「やだよ。来なくていい」

照れ隠しにそう言うと、緩んだ頬をつままれた。

「嫌だね。僕が見たい」

一人で行かせるのは心配だからと、次の出勤に佳隆も付き添うという。お詫びに菓子折りでも持っていこうかな、なんて続けて。「過保護すぎ」といちおう不満を唱えたが、うれしいような、気恥ずかしいような、くすぐったい気持ちが隠しきれない。

 

次のバイトは三日後だった。宣言通り、佳隆も一緒にファーヴェ・ディ・カルピーノについてきた。手土産の紙袋を下げて。
いつものようにスタッフルームに入ると、瀬尾間に大袈裟なまでに迎えられた。奥から間宮店長もやってきて、騒動について深々と頭を下げられる。いやいやそんなと頭を振って、それでも間宮は頭を上げなくて、佳隆が紙袋を差し出すことで収拾がついた。
件のSNSに載せられた写真の件は、無事に削除が確認されたらしい。間宮の報告に、「こちらも、あのストーカーの身分証一式は警察に預けました」と返す佳隆。いつの間に……と、思わず佳隆を見上げていると、横から瀧本がやってきた。

「おつかれさん」
「えっと。お騒がせ、しました」
「それは、べつに……」
「これ、佳隆から二人に。態度悪かったお詫びだって」

紙袋を掲げると、中身がぶつかりカチャリと微かな音を立てた。佳隆と一緒に選んだ菓子折りは、瓶入りのフルーツゼリーだ。
瀧本は、ぽかんと口をあけて、紙袋と真澄を交互に見やる。

「ふっ、なにそれ。ほんと、おまえら、おかしすぎ」

瀧本は、堪えきれないといったように途切れ途切れに笑い出した。「ちょっと、なにそれ」予想外の反応に真澄は動揺する。うつむき、肩を揺らして笑う瀧本は、真澄には新鮮な衝撃だった。

「ああ、そうだ。蒲田さん再来週から復帰だってよ。さっき差し入れ持って顔出した。榎本さんに、すごいお礼言ってたよ」

笑いが収まらないまま、瀧本は共用の大テーブルを指差す。その先を見れば、たしかに菓子箱が置かれている。蒲田が戻ってくるのなら、自分はまた、裏方に戻ることになる。佳隆にも、一応、いちおうだけど、伝えておこう。

「そっか。じゃあ………また、よろしく」

何気なく右手を差し出すと、瀧本はまたも信じられないものを見る目で真澄を見た。そして、まるで薄いガラスを触る時のように、おそるおそるその手に触れ、握り返す。

「真澄くん」つと、佳隆に呼ばれた。間宮との話を終えたらしい。するりと離れていく手のひらを、瀧本は見送る。
「そろそろ帰るね。仕事、頑張って」
「ん」
「終わったら連絡して。迎えに来る」
「いーよべつに、迎えなんて」
「今日だけ。僕の運動不足解消だよ」

不満顔をしてみせる真澄と、笑い合う佳隆に、瀬尾間と瀧本は顔を見合って肩をすくめた。「まーた始まった」と、瀬尾間はなんだか機嫌がいい。瀬尾間はこの二人の珍妙なやり取りを楽しむことにしたのだ。

真澄はロッカールームに向かい、佳隆は裏口からそのまま帰っていった。ランチタイムが近付いて、客入りが増えてきたらしい。「瀬尾間さん!瀧本さん!早く来て!」バイトの子に呼ばれて、二人も慌ただしく店に出る。

だれもいなくなったスタッフルームのテーブルの上。蒲田の持ってきたそら豆の豆菓子と、箱に入ったままのカラフルなゼリーがひっそりと、だけど賑やかに並んでいた。

***no title days <においのある亡霊>:END

no title days <疑惑、確信へ>

「ありがとうございましたー」

翌日。真澄は昼からの出勤だった。
最後の客を入り口まで送り出して、ランチタイムの営業は終わった。笑顔で扉を押さえていた真澄は、店頭のメニューボードを下げて店内に戻った。openの吊しをひっくり返してcloseすることも忘れない。

「榎本さん、お疲れさまっす」

初日に話した高校生は、森谷といった。土日のシフトが多い彼が平日の昼に入っているのは珍しい。不思議に思っているのを察してか、それとも、既に誰かに問われていてか。何も言わないうちに「今日、創立記念日で」と先手を打たれた。「そうなんだ。いいね」と真澄は返す。

「…………榎本さん、大丈夫っすか」

机を拭く森谷の瞳が窺うように翳るのが、視界の端に映る。

「ええ?何の話?」真澄は知らん顔をして、淡々とブラインドを下ろし続けた。森谷の案ずる推測は、きっと本質ではないと想像できたから。
「毎日の出待ちだけじゃないっすよね。なんか、なんつーか、何て言ったら良いか分かんないんすけど……」

だから驚いた。不意に恐れが仮面を剥いで素顔を見せる。気のせいで済ませておきたかったから、見ないように、言葉に出さないようにしていた恐れに、気が付いたら影を踏まれていた。

「だから、何の話か分かんないよ。別にそんな、気にしてないって」
「榎本さん、今どんな顔してるか分かってますか」

心臓が縮み上がる。
これ以上近付かれたら、これ以上覗き込まれたら。

「あの、こんなこと、俺が言っていいのか、分かんないんすけど……。……瀧本さんが、」
「森谷」

鋭い声が飛んできた。
呼ばれた森谷はほとんど反射的に振り返り、少し遅れて、真澄も声の方を見た。数拍の間が空いたのは、内側を探り当てられてしまった動揺を処理しれなかったから。

「瀧本さん……」呼び掛けるわけでもなく、森谷が呟く。
「在庫チェック」
「あっ、ハイ。今行きますっ」
「俺、榎本さんのこと心配してるんで」そう言い残し、いそいそと駆けていく背中を、真澄は見送る。

森谷の白い制服姿は瀧本とすれ違い、キッチンの奧に消えた。
瀧本が次に見据えたのは真澄だ。

「榎本さんは、休憩入ったら」

初めて、まともに目を合わせた。

 

***

 

店は午後も盛況だった。出待ち目的の客ではなく、お店の料理を求める本来の利用者で満席を迎えたことに真澄は安堵する。

森谷は何を言いかけていたのか。

「瀧本さんが」と言いかけた森谷。ディナー営業前の休憩時間、真澄はその続きに思案を巡らせていた。

鋭い視線、後をつけられている感じ。それらは単なる気のせいに終始するものではなく、所謂ストーカーと呼ばれる存在を示すものだった。

そう実感したのはつい昨日のこと。

瀧本のロッカーで見つけた茶封筒に、真澄の写真がぎっしり入っていたのだ。

しっかりと数えてはいないが、三十枚近くあったと思う。

料理をサーブする様子、客を見送る背中など、客席から撮られたものもあれば、ロッカールームで着替えていたり休憩室で横になっているところと、中の人間でないと撮れない写真も多かった。

ストーカーの正体は瀧本であり、森谷はそれを知って、伝えようとしてくれたのではないか。

理由なんて分からないが、不自然な言動に辻褄が合う。

モヤモヤと漂っていた予感が確信に変わった。

絶対負けない。屈してなんてやるもんか。

そんなことを考えていたら、「顔が怖いよ」と瀬尾間に笑われてしまった。ディナータイムが始まって、夕方から夜になってもなお、ふとした拍子に邪推が巡る。慌てて笑顔を作って誤魔化したが、実際気が立って疲れていた。喜ぶにも怒るにも、動く感情には体力を使う。

 

「――くん、――榎本くーん」
「!」

ぼんやりしていた。名前を呼ばれていたのに気付かなかった。
はっと振り返ると、瀬尾間がキッチンから覗いていた。慌てて駆け寄って頭を下げる。

「すみません。なんでしょうか」
「あのね、オリーブオイルのストックがラスト。今日の発注に追加しておいて」

そう言ってオイルの瓶をゆらゆら揺らす。

「了解です」

目を伏せるように頷く真澄の顔色が白いような気がして、瀬尾間は怪訝に眉根を寄せた。

「榎本くん、本当に大丈夫かい。なんなら、今日あがりにする?客入りも落ち着いたし、発注入ってもいいよ」

真澄には、瀬尾間の気遣いが歪んで刺さった。お前は不要だと言われた気がして。邪魔だから帰れと言われた気がして。一方では、瀬尾間はそんなことを言わないと分かっているのだ。分かっていても、いびつな切っ先はまるでプログラムされたように浮かんでは牙を剥く。

「ぼんやりしててすみません。……ちゃんと働くんで、やらせてください」

柔らかくも、しかし強く念押すような笑顔に鬼気迫るものを感じた瀬尾間は、あやうく手に持ったオリーブオイルを滑り落とすところだった。
この子は、何に追い立てられているのだろう。

「分かったから、無理はしないように。――そうだ。実は今日さ、営業後に、一杯飲んでかないかって話あってね。榎本くんも呼ぼうと思ってたんだけど、あんまり体調万全じゃなさそうだし、どうだろう。近くに朝までやってる居酒屋があるんだ」
「えーと、飲み会、ですか」
「そうそう。迷うくらいなら聞いちゃえって思ってね。直接聞いちゃった」

「一杯」という誘いが「飲み会」なのだと気付くのに一瞬の間を要するくらい、真澄には無縁の場面だった。飲みの席が、という意味ではなく、誰かから親しく酒に誘われるというシチュエーションは、これまでの生活では考えられないものだったから。

日の当たる世界。日の当たる関係。
それ自体を嬉しく感じている自分にまず驚く。こんな時でなければきっと参加していた。
けれど今、連日積もり積もった疲労と、昂って擦りきれそうな神経をもって楽しめる気はまるでない。でも断ったら、やはり体調が万全でないのを肯定したことになるまいか。どう断ろうか。こんな時、なんと返したらいいのか分からない。

「瀧本くんもさ、『榎本さんも誘いましょう』って」

予想外の言葉が続き、真澄は目を見開いた。

「二人が喋ってる所あんま見ないけど、あいつ人見知りだからさ。君と仲良くなりたいんじゃない。同じキッチン配置なんだし」
まあ、あいつは社員だけどね。屈託ない笑顔でそう続く。

ストーカーが、〝仲良く〟だって?

「……それは……嬉しいですね。ありがとうございます」

気遣いを無下にしないよう、浮かんだ不快をぐっと飲み込む。この人に悪気はないのだから。

「せっかくなんですけど、今日はまっすぐ帰ろうと思います」
「うん。分かった。ゆっくり休みな」
「また誘ってください」

 

うまく、笑えているだろうか。
瀬尾間は頷いて奥に引いていった。自分の挙動は、怪訝に思われるようなものではなかったと、そう思っていて良いだろうか。

 

***

 

それから、午後の営業を終え、レストランは閉店時間を迎えた。
売り上げの処理が片付いて、時刻は二十二時過ぎ。
真澄は、休憩室のソファに横たわっていた。

「――くん、榎本くんっ」

肩を揺すられ、浅いところを浮き沈みしていた意識がぼんやりと浮かんでくる。揺蕩えども沈まぬ倦怠から、徐々に視界がはっきりと冴えてきて、瀬尾間の不安そうな顔が視界に映る。目が合うと、瀬尾間は大袈裟なまでに深く息を吐いた。

「ああ、良かった。起きなかったら、どうしようかと思って」
「あ…………、すみませ、」
「急に起きたらいけないよ。ゆっくり体起こしてごらん」
「…………すみません……」

真澄のシフトは二十時までで組まれていた。仕事を終え、フロアから引き上げ、キッチンスタッフに挨拶をして。着替えのために戻ってきたロッカールームで、真澄は倒れてしまったのだ。

「……いてっ」
「どこか痛む?」
「あ、いや、膝が。どっかぶつけたんだと思います」

そういえば、ひどい眩暈で動けなくなる前、膝から床に崩れてしまった。じいんと痛みが爪先まで駆けていったことを思い出す。

「びっくりしたよ。森谷くんが泡食ってキッチン来るんだもん。見せてあげたかったな。んで、来てみたら、君は床に転がってるし」

口調こそ軽快だが、目は真剣そのものだ。
こういう相手には、一言返すのにも緊張する。

「さすがにちょっと、疲れちゃったみたいで。驚かせてすみません。もう、かなり良くなりました」

嘘だ。
けれど実際、ここで横になっている現状そのものが、真澄を落ち着かなくさせていた。外に出たほうが、遥かに気分が晴れる確信があった。

 

――着替えのために、ロッカールームに戻ってきた。ロッカーを開けて、ワイシャツを脱ぐ。着てきたフード付きのスウェットに袖を通したとき、これまで思い出すことのなかった昔の記憶がありありと蘇ってきたのだ。

突然だった。クソみたいな父親の拳も、その拳に殴られた感覚も。連れていかれた先で初めて自分の体を暴いた中年男の刺青も、その薬指に嵌められていた結婚指輪の輝きも。

 

ナップザックに現金を隠した。全て父親に取られてしまってはたまらない。正気を失ってもなお金勘定だけは忘れない男だったから、間引きすぎないように気を付けないといけなかった。

 

やがて通帳を手に入れた。増えていく残高だけが現実を繋ぎ止めてくれた。
息を殺していた高校生活。どこで呼吸をすればいいのか分からなかった。どんな時も酸欠に喘いでいた。

 

それでもなんとかしがみついていられたのに、黒板一面に剥き出しになった真夜中の秘密は、とどめのひと蹴りだった。瓦解。そんな言葉がよく似合う。浮き輪を掴む手は痺れ、あっさりと水底に沈んでいった。

 

そんな、思い出したって仕方のない全てのことが、乱暴なまでに強引に、真澄の〝今〟を支配した。

亡霊の気配は感じていたのだ。いつかこうなってしまうと予感していた。それは、森谷から高校生らしいエピソードを楽しげに聞く瞬間だったり、自分がこれまで経験してこなかった新しい関係が築けた瞬間だったり。

そんな風に少しずつ亀裂の入った脆い足場に、瀧本のロッカーで見つけた隠し撮りの束は致命的な衝撃を与えたのだろう。どこか他人事に感じてしまうのは、徐々に崩れていく自らの足元に気付かなかったから。否、目を閉じて、気付かないふりをしていたから。

 

狂暴な亡霊に牙を剥かれ、真澄は文字通り立っていられなくなった。こんな時、人間の取れる行動なんて限られている。闘うか、逃げるか、固まるか。真澄の本能は逃げるために、固まることを選んだのだ。

そして、ほとんど同時に襲ってきた強い眩暈と吐き気が真澄に追い討ちをかけた。天と地がぐるぐると回って、頬がひんやりとした。床に伏せてしまったと遅れて気付く。こういうとき、どうしたらいいんだっけ。どうしたら――目を閉じたら、そのまま気を失っていた。

 

「真面目に聞くよ。榎本くん、君、誰が迎えに来てくれる人はいますか」

問われて我に返る。また、亡霊に包まれようとしていた。かけられたブランケットの下で手のひらを握って、開く。それを何度か繰り返す。現実感が、戻ってくる気がして。

瀬尾間が改まった声でそう尋ねる。たまらず、真澄は目を逸らした。

「こんな状態で一人で帰るのは危ないよ」
「…………あは。大丈夫ですよ。ごめんなさい、心配かけて……」
「二時間もひっくり返って何言うの」

被せるように瀬尾間が言う。もう、やめてくれと真澄は思った。

「あの、ほんとに………」
「一人暮らし?そうじゃないなら、誰かに迎えに来てもらったほうがいい。近くに家族か友達はいない?電話して―」
「いいっつってんだろ!」

しまった、と思った時にはもう遅い。
放っておいてくれ。踏み込んで来ないでほしい。浮かんだ言葉を飲み込んで、「ごめんなさい」真澄は小さく呟いた。
瀬尾間は目を丸くして真澄を見る。
蛍光灯の安っぽい光に照らされて、顔色は一層青く見える。長い睫毛が落とす影に見入ってしまうのに十分な沈黙があった。
華奢な肩が、指が、震えている。暗い顔で俯く生気のない青年と、いつも笑顔で機転の利く「榎本くん」が同一人物だなんてまるで思えない。瀬尾間は瞬きも忘れていた。

呼吸すら躊躇われるような空気だ。真澄はやっとの思いで唾を飲む。

しんと静まり返った一室に申し訳程度のノックが聞こえ、そのまま扉が少しだけ開く。助かった、と思うも束の間、僅かな隙間から顔を出したのは、着替えを済ませて私服になった瀧本だった。

「…………瀬尾間さん。榎本さん、どうですか」

言いながら視線を巡らせた瀧本と目が合う。瀬尾間の返答はいらなかった。言いにくそうに、瀧本が口を開く。

「あの、店長達から電話あって。先始めててもらってるんですけど、どうします。今日、やめときますか」
「あっ、どうぞ。瀬尾間さん。俺帰れるんで、お店向かってください」

瀬尾間が何か言う前にと、真澄は被せるように口を開いた。そうだ、今日、飲みに行くと言っていたじゃないか。返事も待たず、ブランケットをたたみながら立ち上がる。

「ご迷惑おかけしてすみません。もうほんと、大丈夫なんで。施錠しとくんで、お二人、先にどうぞ」
「…………いや。カギは僕がやっておこう。気をつけて帰りなさい」
「じゃあ、お言葉に甘えます。お先に失礼します」

真澄は逃げるように部屋を抜けた。残る二人の視線を断ち切りたくて、扉をやや強引に閉めてしまう。早足で店を出て、夜の大通りを駆け足で通りすぎる。その足取りは徐々にペースを上げ、最後は全力疾走で風を切った。

***

「――はあっ、……はぁ、はー…………」

通りを駆け抜け、住宅街に差し掛かったところで、真澄の足取りは緩やかになる。

(横っ腹痛てー)

もとより、家まで走って帰ろうなんて思ってないし、そんな持久力もない。ただ冷静に、頭を冷やす効果は十分にあった。
脇腹をさすりながら呼吸を整える。
考えていたのは、今後のこと。

(…………バイト、辞めないとだな)

失礼な態度を取った。失礼なことを言った。ひっくり返って醜態を晒した。
それに何より、自分の心が持たない気がして。

(…………馬鹿みてぇ。…………俺なんかに、出来るわけなかった)

ろくに学校も通ってない。まともに働いたこともない。そんな自分が優しい環境に身を置いて、ちょっと必要とされた気になって。新しいことを頼まれたりなんかして、自分にもなにか出来るんじゃないかって浮かれてた。

一ヶ月先のシフトは出てしまったから、その分はしっかり働いて。いや、それ以前に、こういうの、なんて言うんだっけ。解雇。クビだ。こんな風に迷惑かけたアルバイトなんて、即刻クビになるに決まってる。

「佳隆さんから自立させてください」なんて、そんな大口叩いて、結局このザマか。
クッと失笑が漏れた。自暴自棄な気分になって、誰もいない宅地通り、ひとりで大笑いしていたかもしれない。

 

――不自然な足音に気付かなければ。

 

「………………」

警戒、警鐘、赤信号の点滅。
針に刺されたように緊張のアンテナが起立する。
歩調は揃っていたけれど、今真澄が履いているのは底の厚いスニーカー。アスファルトをカツカツと鳴らすことはない。だからこそ、ぴったりと揃っているのは不自然で、不気味だった。

嫌な感じがする。

ストーカー。思考はショートカットで可能性を弾き出す。瀧本の、こちらを窺うような顔が浮かぶ。
歩みのペースは変えないまま、真澄は目線だけで辺りを確認した。全体的に街灯が少ない。住宅地だから、もっと早い時間であれば家そのものや玄関の明かりで十分なのだろう。

右手に公園。引っ張り込まれてしまったら分が悪い。
背後の足音が一歩ずれた。間隔を詰められたのだと気配で感じる。

(――――くそったれ)

真澄は走った。角を曲がった細い路地を目指して地面を蹴る。後ろからついてくる足音も、もう隠すことなく靴底を鳴らす。

(――金玉蹴り飛ばしてやる)

闘争心に火が着いた。待ち伏せしてやるつもりで、角を曲がってすぐの電柱の辺り、真澄は振り返る。
瀧本と自分。それほど大きな体格差はないはずだ。舐められたままではいられない。どうせ辞めるバイトだ。一発蹴り入れて文句のひとつでも言わないことには気がすまない。

気付かぬうちに、真澄自身パニックに陥っていた。
足音が響く。だんだん大きくなる。伸びた影が角から覗いた。

「!?」

蹴りあげてやろうと足を引き、しかし、飛び出してきた人影は真澄の予想を外れていた。

(――瀧本じゃない)

ぞくりと肌が粟立った。
中肉中背。黒い縁のある眼鏡。近付いてきて、ワイシャツがストライプ柄だと目が拾う。特長のないスラックス。所々剥げかけた革靴。

(誰だ、こいつ)

「――――ひっ」

混乱で頭がいっぱいで、ジリジリと後退する最中、ついに腕を掴まれる。

「エノモトマスミくん。やっと会えたね。やっと会えた。さあ捕まえた。一緒に帰ろう」
「な、に言ってんだ、あんた…………」
「口が悪い。君はそんな子じゃないでしょう。そんな言葉は使わないよ」

ジトッと粘るような視線で睨まれる。

(――あ、)

思い出した。
財布を届けた新幹線の男。

「あのね、僕ね、名古屋に家があるんだ。うるせえジジイとババアがいるけど気にしなくていいよ。あいつら、僕の奴隷みたいなものだから」

逃れようと身を捩ったら、腕を引かれて思わずよろけた。背中を塀に押し付けられる。街灯に照らされて、男の顔がよく見える。間違いない。レストランで落とした財布を届けた男だ。

「き、ききき、綺麗だね、エノモトマスミくん。ドールみたいだ。ど、ど、どんなパーツでできているのかな。カスタムはできるのかな」

顔が近付く。生暖かい息がかかるほど。
舐めるような視線が不快で、真澄は両腕で顔を守ったが、男はそれをこじ開けようと躍起になる。べたべたと体を触られる嫌悪感に、胃がむかついてきた。

「なんで隠しちゃうの。恥ずかしがりやなんだね。だ、だだ、大丈夫。僕の部屋に、たく、たくさん、友達がいるから」
「気色悪いこと、言ってんじゃ、ねぇよ…………っ」

急所を狙おうと足を上げた。
男は驚くような速さでそれに気付き、真澄の軸足を払った。

「いっ…………!」

背中に衝撃。視界が反転して、反射的に閉じた目をゆっくり開くと空が見える。月が見下ろす。その視界に、男が割り込んできた。胴体を挟むように膝立ちされて、真澄がどれだけ足をばたつかせても男には届かない。もちろん、両腕の自由も奪われたまま。

「退けよ!離せ!」

声を上げると同時に、頬に衝撃が生まれた。あっと思えば弾けるような衝撃は徐々に痛みへと姿を変え、視線を動かした先、男の震える拳に何が起きたのかを理解する。頬がピリピリと熱くなる。鼻を啜ると血の味がした。

殴られた。かつて、クソ親父に、そうされたように。

(…………ヤバい)

力じゃ敵わない。
そう自覚したら、一気に、サアッと血の気が引いた。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
胃の辺りがぐるぐるした。心臓が悲鳴を上げる。
まずい。吐きそう。

「大丈夫?泣きそうなの?大丈夫だよ。すぐにお家に帰ろうね。ああ、でも、もう電車終わっちゃってるからさ、今日は近くで一泊しようね」

猫なで声と裏腹に、腕を押さえる力は少しも緩まない。そのアンバランスさが恐ろしくて、にもかかわらず、男が勝手に盛り上がれば盛り上がるほど、真澄の思考はだんだん冷えて、落ち着いていった。鼻からあたたかなものが流れていく感覚もよく分かる。

(…………バチが当たったんだ)

ツケが回ってきた、とでも言うべきか。

このまま、殺されるのかもしれないな。
お似合いじゃないか。
汚れた自分と、妄想癖のオッサン。
不相応の生ぬるい安寧よりも、陽のあたるあたたかな平穏よりも。

 

もう。
死んじゃってもいいや。

 

「――――なっ、にやってんだよ!このクソ野郎!」

突然、視界が開けた。
覆い被さっていた男が剥がされたのだ。
男は蹴り飛ばされ、「ふぐっ」とくぐもった声を出す。

「お前も!火事だーとか、泥棒ー!とかっ、なんか叫べよ!」

怒りを纏った声は、今度は自分に向けられた。
瀧本。
男を剥がしてくれたのは、瀧本だった。
何が起きているのか分からなくて、呆然と見上げていると、肩に手が触れた。ぎょっとして体が跳ねる。

「あっ、ごめん、ごめんね、驚いたよね。僕だよ。瀬尾間です」
「せ、瀬尾間さん…………瀧本さん…………?」

どうなってるんだ。
どうして、二人がここに。
困惑と同時に息が上がってきて、体の芯から震えが込み上げてきた。苦しい。うまく息ができない。
「榎本くん。もう大丈夫。もう大丈夫だよ」

荒くなっていく呼吸と、がたがたと大きく震える体。瀬尾間はそれを、手のひらに直に感じていた。真澄を落ち着かせようと、思い付く限りの声をかける。

***no title days <疑惑、確信へ>:END

no title days <月にむら雲、花に風>

通りに面したブラインドを開けると、若い女性が数人、中を窺うように立っていた。掃除用具を持った瀬尾間と目が合うと、きまりが悪そうに去っていく。
ここ最近の日課になりつつあった。

「榎本くん、まーた来てたよ」

苦笑いで振り返ると、真澄は「え」という顔をした。掃除モップを手放しそうになり、慌てて握り直す。その顔色は、あまり良いとは言えない。それもそうだろう、連日のように彼目当てのお客さんが訪れ、一挙手一投足に注目を向けられているのだから。

「すみません……」
「榎本くんが謝ることじゃあない。SNSの運営には、店長からズバッと削除依頼出してもらったからね」
「俺、キッチンの床やってきます」

浮かない表情だ。冗談めかして言ってみた甲斐もないまま、モップとバケツを持った薄い背中を見送る。瀬尾間は顎に手を当て、どうしたものかと頭を捻った。

 

ことの発端はSNSの海に放たれた一件の投稿だった。

来店した女性客が、料理の写真と一緒に、注文をサーブした真澄を写して投稿したのだ。彼女は都内のカフェやレストランを紹介する、そこそこ名の知れたユーザーで、その投稿によって「レストランで働く美貌の青年」の姿は世に晒されてしまった。
瀬尾間自身もその写真を確認したが、動いている所を撮影されたため焦点はやや甘く、視線も伏せているので決して写りが良いとは言えない。しかし、それが逆に興味を駆り立てたのか、真澄目当ての女性客が次々と来店した。『ファーヴェ・ディ・カルピーノ』は予期せぬ展開で満員御礼を迎えてしまったのだった。

にわかに増えた女性客に、最初は何が起こっていたのか分からなかった。
華やかな集団が店前に並び始めて一週間。「この人、今いますか?」そのうちの一人にそう話しかけられて、差し出されたスマートフォンの画面を見た。そこに映っていたのが、件の写真だったのだ。

 

綺麗な子だと思った。

間宮店長から新スタッフとして紹介された時、はっと目を引かれた。

瀬尾間はアルバイトの採用にも携わっているため、真澄の履歴書を見ている。高校中退の他に職歴はなく、殺風景な履歴書だった。いかにも即席な証明写真も、取り立てて目立っていた印象はない。時間に融通のきくフリーターであり、最大週五日入れるという希望日数だけで採用を決めたと言ってもいいくらいだ。面接には入らなかったが、人間的によほどひどくなければ採用すると間宮店長から聞いていた。だから、採用になったと報告を受けた時も、「そうですか」とあまり気にも留めていなかった。
けれど実際に会ってみて、不思議な求心力を彼に感じた。ブラウン管……とは、今はもう言わないだろうが、テレビの外にも綺麗な子はいるもんだと感心さえした。女性には見えないが、男性と括るのもなにかが違う。性別の枠が不確かに、そして些末なものに感じた。こんな風に視線を浴びることも、出待ちのように追われることも、きっと初めてではないだろう。

「あれ。榎本くん、痩せた?」
「え?」

業務にあたろうとキッチンに入って、ワイングラスを拭く真澄を見た。おや、と思う。袖から覗く腕が、横を向いた立ち姿が、なんとなくやつれたように感じたから。

「そうですか?」

真澄は腕を掲げてみる。そうか。痩せたのだろうか。
拭いたグラスをハンガーに引っ掛けながら、真澄は首を傾げる。

「もしかしてこの騒ぎ、けっこうしんどい?フロアのシフト、外してもらおうか」
「まさか。大丈夫ですよ。それに、蒲田さんまだ戻ってこれないんでしょう」

蒲田というのは、例の骨折したアルバイトのことだ。

「大丈夫です」と念押す微笑みが、瀬尾間の背筋を僅かに冷やす。底知れない恐ろしさを垣間見た気がした。

アルバイトの大学生が二人出勤してきたタイミングで、この話は打ち切りになった。折良く「瀬尾間チーフ」と呼ばれて、瀬尾間は結局またすぐにフロアに戻る。入れ違いに、瀧本が大きなケースを抱えてやって来た。裏の冷蔵庫から、納品されたばかりの食材を運んできたのだ。

「おはようございます」真澄は挨拶を投げ掛ける。
「……どうも」

瀧本はケースに視線を落としたままぶっきらぼうに返す。一瞬、顔を上げた。が、真澄の視線に気づいて、その目が捉えたのはきっと大きな赤いトマトだ。
いつもそう。
目が合うと素早く逸らされてしまうので、真澄はその横顔を睨み返した。

 

気掛かりなことがある。

出勤初日の挨拶で、瀧本に僅かな違和感を覚えていた。それは触れなければ忘れてしまうくらいの些細なものだったが、例えば料理を受けとる時、また或いは他のスタッフと話している時、瀧本の視線を感じることが度々あった。

それがちょうど、SNSの一件で不本意に店が賑わい始めて以降、明らかに頻回になっている。店の外でも視線を感じるようになったり、退勤後、後をつけられているような気がし始めたのもそれと同時期だ。このことは、誰にも言っていない。

いったい、何のために――と怪訝に思ったが、嫌がらせや執着に論理的な理由は必要なかった。

今のところ実害はなく、視線や気配を感じる以上のことはない。だから放っておいているのだが、それでも不愉快甚だしいことに変わりはない。真澄は苛立ちを燻らせていた。

それに、佳隆とも暫く話せていない。実態のつかめないあやふやな焦燥と煩わしさに、気を抜けば舌打ちしてしまいそうだ。
不快な気配の主が果たして瀧本なのかどうかは分からない。連日訪れる女性客の可能性もあるだろう。

(言いたいことあんなら直接言えっての)

憎らしくて、真澄は内心舌を出す。

 

――写真。

 

不意の瞬間を収めた写真を晒される。
嫌な既視感があった。ざらざらとした、なるべく触れないように遠ざけていた塊。

(あ、)

唐突に。
喉が狂暴に抉じ開けられる感覚がして、全身に鳥肌が立った。吐く。急に。どうして。
焦った真澄は乱雑にグラスとクロスを置き去り、スタッフルームの隣、従業員用のトイレに走る。目だけで追いかけてくる瀧本の視線が糸を引くようだ。

「うっ、…………んぐ………っ」

待って。待って。まだ。
頬が膨らむのを手の甲で無理やり押さえ、転げるように個室に飛び込んだ。蓋を開けるのと口から半固形の中身が溢れるのは同時だった。バシャバシャと薄い水面を叩く。便座に片手をついて、一度、二度、嘔吐する。その後思い出してようやく個室の鍵を閉めた。

「はあっ、はあ、は………っ、はぁ」

 

――黒板いっぱいに貼られた秘密が脳裏に浮かんでは沈む。においそうな程鮮明な、生々しい夜の事実。

 

レバーを引いて水を流す。胃のむかつきも、過去のあの瞬間も、全て下水に流せればいいのに。

 

呼吸を整えて個室を出た。一つしかない鏡には、亡霊みたいな顔色が写っている。手を洗い、両手で頬を叩いた。青白かった頬に強引に赤みが差す。早く気分を切り替えたくて、水道で顔を洗った。

吐いたと報告したら、きっと早退を命じられるだろう。
飲食店としての安全管理と、俺の健康を案じて。優しい人達だから。
だけど真澄は帰りたくなかった。佳隆も仕事中で、一人になったらきっと色々なことをぐるぐると考えてしまう。

吐き気は一時的なもので、一度吐いたら霧は晴れた。感染性の嘔吐ではない。ここにいても良いだろうか。忙しく働いて、余計なことを忘れていたい。何かを考える余白を埋めてしまいたい。冷たい水で念入りに手を洗う。

せめてシャツだけは着替えようと、トイレを出た足でロッカールームに向かった。予備の白シャツが一着支給されている。エプロンを脱ぎ、シャツのボタンを外しながらドアノブに触れると、ちょうど内側に引かれて扉が開いた。前に出した右手は宙を掴む。

出てきたのは瀧本だ。

「あ……」
「すみません」

咄嗟に謝ったのは真澄のほうで、瀧本はたじろいで身をそらせた。目が合って、一瞬変な間があって。それから瀧本は、「どうも」と頭を下げてすれ違う。言い訳がましくキッチンエプロンを結び直しながら出ていく背中が、そそくさと廊下に消えた。何かを、ポケットにねじ込んで。真澄の視線は、連鎖反応のように次々と挙動を捉えた。

あの目を知っている。疚しいこと、隠し事のある人間の目だ。

 

入れ違いになったロッカールームで、真澄はシャツを着替えた。普段ならハンガーに掛けておくシャツも、今はなんだか苛立っていて、ぐるりと丸めて放り込んだ。
ロッカーに鍵はついていない。貴重品は金庫に預けろと言われていて、長財布がちょうど入るくらいの金庫が十個くらい、スタッフルームに置かれている。面倒だし大金もカードも持っていないので、真澄はその金庫を使ったことはないのだが。

真澄の隣は、瀧本のロッカーだ。

連日続くめんどうな騒ぎと、わずらわしい視線、それに吐いたばかりの不快感が輪をかけて、真澄はすこぶる不機嫌である。
そして、嫌な予感には鋭い。

真澄は躊躇わずに瀧本のロッカーを開けた。絶対に、ここに何かがある。

スチール製の長方形には、見慣れた制服がかかっていた。内側にはマグネットが二つ。通勤に使っているのだろう、黒いリュックが奥でぺしゃんこになっている。
ざっと一瞥して、目に留まったのは茶封筒。
網棚の上、無造作に放られていた。
店名の印字がある茶封筒には真澄も見覚えがあった。給与明細や連絡事項は、この封筒で渡される。
だからこのロッカーに入っていても特別不自然ではないのだが、真澄はその封筒に手を伸ばしていた。

 

どうしてかなんて聞かれても困る。気味の悪い執着と同じように、嫌な予感に理屈は必要ないからだ。

 

***no title days <月にむら雲、花に風>:END

no title days <未経験者歓迎>

ポスターが貼られていたのだ。

目立つ黄色地に黒のゴシック体で「キッチンスタッフ募集!」と大きく印刷されていた。
連休明け、水曜日の昼間。信号待ちをしていた真澄はそのポスターになんとなく目が止まり、歩行者信号が青に変わってもその場から動かなかった。カッコーの電子音響が鳴り止み、青信号の点滅を伝えてもなお、真澄は横断歩道に背を向けたまま募集要項を読み込んでいた。
急募、とパンチのある枠で囲われている。週一日から相談可能、皿洗いや調理補助など単純なキッチン作業、時給千百円から。それになにより、

 

「……未経験歓迎」

 

ここにしよう、と思った。条件は揃っていたし、ならば当てもなく他を探して無為に選択肢を増やしていくのはとてつもない徒労に感じた。いいじゃん。ここにしよう。
真澄はスマートフォンを取り出して、ポスターに書かれている電話番号を打ち込んだ。
振り返ってもう一度横断歩道の白線を見る。三歩進んで信号が青に変わるのを待つ。真澄は自分の頬が緩んでいることに気付いていない。

『はい。レストラン「ファーヴェ・ディ・カルピーノ」×××店です』

コール音が止まり、弾んだ女性の声が耳に飛び込んできた。
春の日差しも、風が吹くとまだ少し肌寒い気温も、信号待ちの雑踏さえも心地良い。きらきらと眩しい街中すべてが背中を押してくれているようだった。

***

真澄がバイトを探し始めたのはここ数日の話ではない。これまでも何度となく試みては、佳隆に阻止されてしまっている。それでも今度こそはと決意したのは、佳隆の甘さゆえに他ならない。

例えば。「あ、これ良いね」二人で出掛けた折、真澄がついそんな風に興味を示してしまったら、それがだいたい三日後、時にはその日の夕方には、佳隆が掲げて持ってくる。大変満足そうな表情をして、真澄に手渡すのだ。

「あのね佳隆さん、俺こういうのやめてって言ったよな」

両手を顔の横に上げて、簡単には受け取らないぞと態度で示す。嬉しい気持ちはあれど、そういう問題ではないだろう。

「でも、僕も良いと思ったし」

佳隆が持っているのは、有名セレクトショップの紙袋だ。中身はくすんだインディゴブルーのパーカーだろうと想像できる。昨日立ち寄った路面店で、真澄がうっかり体に合わせてしまったから。

「じゃあ佳隆さんが着てよ。良いと思ったんでしょ」
「真澄くんに似合うだろうなって思ったんだよ」
「なら、俺が飛行機良いなって言ったらどうするの。ジャンボジェット欲しがるよ」
「そもそも真澄くん物を欲しがらないじゃないか。真澄くんが飛行機を欲しがるとは思えないな。そしたら、旅行に行く?」
「……アンタさぁ……」

良いと思ったのはあくまでも感想で、今すぐこれが欲しいという意味ではない。それが、どうも佳隆には伝わっていない気がする。いや、確実に伝わっていない。
受け取るまで目の前にぶら下がっていそうだったので、真澄は両手で受け取り肩を落とした。ありがと、と感謝も添えて。佳隆はへんなところで強情というか、傲慢というか。これまでのやり取りを経てもなお、今の自分が欲しかったものを手に入れて喜んでいるように見えているのなら、馬鹿にされているようにすら感じてしまう。

「……俺、バイト探す」真澄は呟く。
「もうしてるのに?」
「これは違うじゃん!」

真澄は、佳隆の経営するゲーム会社を手伝っている。会社といっても固定のオフィス等はなく、数名の社員が各々自宅で、あるいはカフェで、時にはレンタルスペースで、パソコンお供に分業しているスタイルだ。ゲームやアプリを開発したり、依頼があればプログラマーやエンジニアを派遣したりする。この会社で真澄に与えられた仕事は、プログラムの試行チェック、メールの仕分け、インタビュー記事のゴーストライター……要するに、お手伝いを「させてもらっている」のだ。
このまま、佳隆の甘さを享受し続けてしまったら。自分は、今度こそ歩けなくなってしまう。

「俺、佳隆さんから自立するから」
「ま」

ますみくん、とは、音にならなかった。口を「ま」の形に開けたまま、ぽかんとした表情の佳隆に、真澄は頭を下げた。

「佳隆さんから自立させてください」

***

真澄がバイトを始めると聞いて、佳隆は気が気でなかった。さっきから手を滑らせてはコーヒーを溢し、階段を一段踏み外しては腰を打ち、それでもなおじっとしていられずにソワソワと動き回っていた。

プレゼントなんて送りたくて送っているのはこちらなのだから、気にしないでくれればいいのにと思う。彼がそういう性格でないのは分かっているが、自分はそういう性格なのだ。そもそも、彼は何かをして欲しいとか、欲しいものがあるとか、そういうことを殆ど言わない。たまに見せる興味のサインを掬い上げたいと思うのは、仕方の無いことではないか――佳隆はそう考えていた。
強気な口振りだが、真澄には不安定なところがある。映画を観に行って人混みに酔ったり、時々、夢と現実が混同することもあった。確かに最近はそんな姿を見ていないが、いつ調子が崩れるかは本人にも分からない。何より、佳隆自身が、真澄を外に出したくなかったのだ。

(……でも、これは僕のエゴだからなぁ)

そんな自覚もあって、佳隆は真澄の宣言を受け入れた。自立させてくれと、下げられたつむじを思い出す。
自立したいというのは、つまるところ、自由になりたいという意味なのかもしれない。彼が欲しいものが自由ならば、それを引き止めることはできない。

「真澄くん、バイト明日からだっけ?」

二人分のコーヒーをテーブルに置きながら、佳隆が問う。

「ううん。今日から」
「今日から?!」

おはように続く、今朝のリビングでの会話。大袈裟に驚く佳隆に、「言ったじゃん」真澄は口を尖らせる。
先週面接を受けたレストランのバイトに、真澄は即採用となった。社員のキッチンスタッフが産休に入り、バイトのスタッフも就職や進学で辞めたりと、欠員続いたそうだ。週一日でも入れる従業員を増やし、穴を埋めたいという考えらしい。内情を忌憚なく伝える店長に、佳隆も少なからず好感を覚えた。

「とりあえず今日は洗い物して、お通し盛るだけだよ」カフェオレをちびちびと飲みながら真澄が言う。
「本当に裏方なんだねぇ」
「俺、接客とか無理だし、やだし」
「ちょっと出てきたりしないの。見に行こうかな」
「出ないって」

真澄の意思は強い。やると決めたら絶対に曲げないし、こうなってしまった以上引き留め続けてはかえって意固地になってしまうかもしれない。
それに、その意思をこんなにはっきり口にするなんて、これまでの真澄にはなかった。決意や決断を溜めに溜めて、そうして爆発することが多かったから、今の様子を見たら佳隆も諦めざるを得ない。

「制服と靴は貸してくれんだけど、靴下が真っ黒指定なんだよ。丈も脛までないとダメみたい。俺、くるぶしまでしか持ってない」
「じゃあ、今度買いに行こう」
「うん」

そんな風に次の約束を決めていく。バイトをすると決めてから、真澄は本当に楽しそうだ。今日は九時からシフトに入っているそうで、カフェオレとコーンブレッドで朝食を済ませて出掛けていった。十時の開店に合わせた出勤だ。

行ってらっしゃいと見送ってから、佳隆は誰もいなくなったリビングで落ち着かない時間を過ごすことになる。

***

「ちょっといいかな」

店長――間宮さん――が左手をメガホンに呼び掛けると、ホールに出ていたスタッフ数名の視線が集まった。「こっちもこっちも、ちょっと顔だけ」キッチンにも声をかける。ホールとは違う白いエプロンに帽子を被った調理スタッフが一人顔を出した。

「こちら、今日から入った榎本さんだ」

視線で促され、真澄は相好を崩す。

「榎本です。よろしくお願いします」

会釈程度に頭を下げると、調理スタッフは人好きのする笑顔を見せ頷いた。

「榎本さんにはキッチン補助で入ってもらったのでね。皆さん、よろしくお願いします」

その場にいたスタッフから返ってきた返事は間延びして不揃いだったが、それは友好的な気安さだった。交わされる短い挨拶に肩の力が抜ける。こわばりがほどけて初めて、この場に緊張していたんだと自覚した。

「とりあえず、皆も自己紹介してもらおうかな。名札もあるし、順番に覚えてくれればいいからね。じゃあまず、瀬尾間くんから」店長が調理スタッフの方を向く。
「瀬尾間です」

柔らかい表情と対極に、かっちりと聞こえるテノールの声音だ。声だけ聞いたら固くなってしまいそうだが、のんびりした笑顔とその口調が威圧感を与えない。年は佳隆と同じくらいだろうか。取り繕わない誠実さがそこにあり、真澄は好印象を持った。

「このお店のチーフやってます。榎本くん、キッチンに入ってくれるんだったね。よろしくね」
「よろしくお願いします」
「キッチンはあと、三人社員がいてねえ。それに加えて、榎本くんと同じようなアルバイトの子が……えーと、今、何人だったかなあ。けっこういるんだよ。学生さんとかね」
「はい」真澄は頷きながら相槌を打つ。
「それで、今奥にいるのが、その社員の一人。見えるかい?こっちこっち」

手招きされ、キッチンを覗くと確かに調理服姿のスタッフが一人、大きなフライパンを揺らしていた。背面にあるこれまた大きなオーブンを見て、タイマーをセットして、それからこっちの視線に気付く。

「ごめんね、予約入ってて手が離せなくて」そう説明するのは瀬尾間だ。
「彼、瀧本くん。おおい、瀧本!こちら、今日から入る榎本くん」
「よろしくお願いします!」

火力の音に負けないよう、真澄は声を張った。瀧本と紹介された男は無愛想に会釈して、再び調理を再開する。

(…………え?)

ほんの一瞬だ。
フライパンに向き直った瀧本が、何を思ったか僅かに顔を上げ、ほんの一瞬、目が合った気がしたのだ。
その顔がなぜか驚いているようにも見えて、もう一度顔を見ようと思った時にはもう彼は料理に専念していた。

(何だ……?)

触れてみて初めて気付くささくれのような違和感。
それを噛み砕く前に瀬尾間が他のスタッフを次々と紹介していくので、真澄はその後を追いかけた。

***

バイト初日は三時間のシフトだった。賑わうランチ営業が始まる前に退勤となる。「お疲れさまです」すれ違うスタッフからそう声をかけられて、ぎこちなく挨拶を返した。おつかれさまです、しつれいします。呪文のように繰り返す。
それから、ロッカールームで着替えを済ませ、来た時と同じ裏口から外に出た。建物の裏は室外機が並び、濁った空気が滞留している。大通りに出てようやく人心地ついた真澄は、大きく深呼吸をした。

(…………つっかれたー……)

店の前から少し離れたバス停には、ベンチが置かれているのを知っていた。真澄はバスを待つわけではなかったが、少し迷ってそこに腰掛け、ぼんやりと宙を見つめる。
自分が、いかに世間と離れていたかを思い知った。
たった三時間のバイトだったが、一日分の体力を使いきった気分だ。
洗い物をしながら高校生のアルバイトと話した。自己紹介ついでにこれまでどんなバイトをしていたのか問われ、返答に困った。

 

――高校生のころ。自分は。

 

苦い記憶に触れるのが怖くて、「そんなに色々やってないですよ」外行きの笑顔だけは崩さないよう、曖昧に言葉を返すと、彼は自分のバイト遍歴を話してくれた。シアトル系コーヒーショップ、同時に居酒屋。短期で引っ越し業。どれも長続きしなかったが、週一日からOKなここのレストランはもう半年続いてると。

これが、ふつうの、普通の高校生なのだろうか。
だとしたら、やっぱり自分は異常だった。
そんな分かりきったこと、割りきれていたと思っていたのに、切り離すことが出来なくて。この高校生に気取られてはしまわないかと綱渡りの気分だ。
過ぎ去ってしまったものはもう、どうしたって埋められないと、分かっているんだけど。

たった三時間のシフトで、彼と話したのはそのうちのほんの僅かな時間だったが、思い入れも思い出もない「高校生」という時代に憧憬を抱いてしまうくらいの引力はあった。

「かーえろっ」

ちょっとだけ勢いをつけてベンチから立った。
えっという顔で振り返った通行人に、慌てて微笑みを返す。
だって仕方ない。
ずっとデスクワークだったから、殆んど家に籠っていたから、疲れるのなんて当然だ。体が疲れて、少し過敏になっていた気がする。
いいじゃん。上等。
今の自分には、たとえ失敗したって、帰る場所がある。

***

「失敗したぁー!」

帰宅すると、佳隆が叫んでいた。

「なんだよ、どーしたの」

真澄のバイトは、順調に一ヶ月続いていた。佳隆が作ってくれた真澄名義の口座に、しっかりと初給料も入った。最近ではだいたい週に三日くらい、休憩を挟むロングシフトも組まれるようになった。
始めはなかなか体力が持たなくて、昼過ぎに帰ってそのまま翌朝まで寝る……なんて日もあった。一回だけ、仕事中に酷い眩暈がして、休憩を貰ったこともあった(これは佳隆には言っていない)。
ずっと佳隆と――たまに佳隆の仕事仲間と言葉を交わすことはあったけど――それだけの範囲で過ごしていたから、急に開けた世界で泳ぎ方を忘れてしまっていたのだろう。近頃はそんなこともなくなって、出勤して、挨拶して、働いて。途中で息が切れることもなく、凄く調子が良い。
バタ足からクロールへ。次は何をできるだろうか。

「ああ真澄くん。お帰り」
「玄関まで声聞こえた。何?トラブル?」

頭を抱える佳隆がパソコンを開いていたので、仕事の話だろうと想像できた。
真澄は鞄を椅子に引っ掛けて、モニターの並ぶ机に近付く。

「うん……。海外に外注してるシステムがあるんだけど、契約更新し忘れてたみたい」

叫んでいたわりに、炊飯器のスイッチ押してなかったよ、みたいな調子で言うものだから、真澄は深刻さを図りかねた。

「それはつまり?」

だから、聞いた。

「僕は一ヶ月、缶詰になるよ」

それは。
かなり、まずいじゃん。

***

「それで、缶詰って、具体的にはどうするの」
「うん。別の下請けを探しながら、僕が組む。皆にも頭下げなきゃ」
果たしてそれがどの程度具体的な方針なのか、真澄には分からなかったが、「皆」という社員に自分は含まれていないだろうということはさすがに分かった。
「俺メールチェックするよ。代理人として、返信するくらいできる」
「ううん。それも僕が」
「伝書鳩くらいできるって」
「でも先方、中国語だよ?」
「……ぐ」
「うん。じゃあ、メールの仕分けをお願い。後でリスト渡すから、そこからのメールはパスワード付きで転送して。通常のメールはいつも通りに返信してもらおうかな」
「うん」

いつものトーンでそんな風に続けるが、ピンチにも関わらず淡々としていて、むしろ冷えていくものがあった。

 

『明日から、ちょっとだけホール出てほしいんだ』

 

実は今日、間宮店長からそんな提案をされていた。
提案というより、懇願と言った方が近いのかもしれない。ホールスタッフが一人骨折してしまったのだ。
実はこれまでも何度か、思い付きのようにホールとキッチンの兼任を打診されていた。ホールスタッフは数だけ見ればたくさん雇われているが、基本的に人手は足りない。けれど多くの人と関わるのは苦手だし、自分が接客に向いているとは到底思えない。常に数人で回しているキッチンで食器洗いや軽作業をしている方が、圧倒的に性に合っていると思うのだ。
なので店長から冗談半分にそう勧められる度、真澄はのらりくらりと受け流し、適当にかわしていた。

しかし、今日の店長の顔は本気だった。
顔の前で手を合わせるので、一体どうしたんですかと真澄は聞いた。

「ホールの子が一人骨折したそうなんだ。明日もシフト入ってるんだけど、代わりが見つからなくて。明日、榎本くん入ってるよね。その時間ホールに代わってほしい」
「骨折……」
「それで、出来そうだったらしばらくホール兼任でやってほしい。彼、ほとんど毎日入ってたから、代わりも皆に割り振らなきゃいけないんだけど、榎本くんも結構入ってくれてるからさ。榎本くんにも担ってもらえたら助かるんだ」
「でも俺、接客したこと……」
「大丈夫!呼ばれたら注文聞いて、テーブルに運ぶだけだから!」
「だ、だけってことないですよね」
「榎本くん、絶対フロア向いてるんだって。手際も良いし、いや、絶対フロア向き。ね、頼むよ」

もう一度頭を下げられて、迷った末、真澄はその提案を飲んだ。
店長は大袈裟なまでに喜び、予め用意してあったように首尾よくフロアの制服を手渡した。抵抗はあったが、必要とされて喜びを感じたのも、また事実だった。
真澄は複雑な気持ちで帰路についた。表に出るんだって言ったら、佳隆も喜びそうだな、なんて考えながら。

 

「――じゃあ、ちょっと僕、部屋に籠るね」佳隆が席を立つ。
「分かった。いってらっしゃい」
「いってきます」

リビングから出ていく佳隆の背中を見送って、真澄はソファに腰掛けた。
ドアの開閉する音。
少し窮屈に横になり、天井を見上げる。
深呼吸して、目を閉じる。

***

外から戻ってエプロンを結び直していると、「すみません」お客さんから呼ばれた。

「お伺いします」

そう声を出して、オーダーシートを手に客席に向かう。サラリーマン二人組だ。近くのオフィスに勤めているようで、スーツに財布ひとつの組み合わせで身軽に訪れているのを度々見かけていた。名札は胸ポケットに収まっている。

「お待たせしました。ご注文お伺いします」
「これ二つ。アイスティーとアイスコーヒーでお願い」
「そら豆と生ハムのクリームパスタですね。セットのお飲み物はアイスティーと、アイスコーヒーで」
「はい。お願い」

シートに注文を書き込んで、キッチンへ。瀬尾間チーフが笑顔で受け取ってくれた。

「すーっかりフロアの顔してるじゃないか。接客も問題ないし」
「あは。ありがとうございます」
「最近毎日入ってくれるね。大丈夫?」

大丈夫かと問う声は決して深刻なそれではなく、おどけた調子で投げ掛けられたコミュニケーションだった。
けれどその実、真澄のことを本気で気遣ってくれているのだということも知っている。一度店で倒れてから、時々こんな風にそっと声をかけてくれるのだ。
「稼げて助かります」真澄も冗談めかした口調になる。「そうかい」瀬尾間は返す。

事実、瀬尾間は真澄を気にかけていた。
一ヶ月、しかも回数も多く勤務に入っていれば、身の上話のひとつやふたつ、自然と出てくるのが普通だ。それが、週の半分以上顔を合わせていてもなお、真澄の個人的な話を一切聞かない。話を聞くのがうまいのだろう。真澄が自分の話をしなくとも、じゅうぶん間が持ってしまう。それも、無理な会話を引き出そうとするのではなく、至って自然なやり取りのうちに。

なにか事情がありそうだ。瀬尾間は真澄に対して、底の知れない危うさを感じていた。

「あ、そうだ。さっきのお客さん、無事に財布渡せましたよ」

不意に真澄が振り返る。詮索しかけていたのが気取られてしまったようで、瀬尾間はドキリとした。

「そうか、それは良かった」

さっきの、というのは二人組のサラリーマンの前に接客した男性で、会計の際に財布を落としていってしまったのだった。それに気付いた真澄が届けてきますと言うものだから、行き先が分かるのかと瀬尾間は聞いた。

「駅だと思います。新幹線の指定券入ってたので。二時半東京発に乗るなら真っ直ぐ駅に向かわないと間に合わない」

頭の回転が速い子だ。いや、子という歳ではないのだが。
勝手に開けた財布から切符を抜いてみせる度胸に感心しつつ、瀬尾間は思う。
ここから駅までは歩いて十分。そして、真澄はエプロンを脱ぎ、財布を掴んで店を出た。

「それで、すぐ見つかったのかい」
「はい。窓口の横で鞄ひっくり返してましたよ」
「ちょうど間に合って良かったなあ。いやあ本当、榎本くんがいてくれて助かったよ」
「ありがとうございます」
「ちょっと、瀬尾間さん」

穏やかな雑談。客の入りもまあまあ。合間を縫って、硬質な声が飛んできた。瀧本だ。

「瀧本くん」
「キッチン入ってください。それに、もうすぐ納品来ます」
「ああ、そうだね。ごめんごめん。じゃあ、榎本くん、ありがとね」
「いえ。そんな……」

(…………って、なんだぁ…………?)

大したことないです。そう言おうとして、真澄は首を捻る。
キッチンに向かう瀬尾間の背中越しに感じたのは、瀧本の視線。細く眇められて、まるで何かを試すような、あるいは値踏みするような、あまり心地よくない類いの注目を向けられている気がした。

「オーダーお願いしまーす!」

フロアからスタッフの声が聞こえる。真澄は反射的に返事を返して、客席に向かう。瀬尾間が手をひらひら振ってくれるのが見えた。瀧本はこちらを向くことなく、冷蔵庫から調味料を取り出している。

***

「ただいまー……」そっと帰宅を告げる。
玄関と、廊下と。沈黙が真澄の声を吸い込んだ。

(寝てるな)

午後四時を過ぎたところだったが、ここ最近の佳隆はすっかり昼夜逆転してしまっている。リビングに行くと手書きのメモがあり、「お帰り。親子丼作ったから温めて食べてね」と佳隆の筆跡。冷蔵庫には、タッパに入った親子丼の具と、お茶碗に盛られた白米が鎮座していた。
真澄は冷えた扉をそっと閉じて、その足で佳隆の部屋に向かった。ドアノブに手をかけて、そして躊躇う。佳隆の仕事が忙しくなってからは、各々の部屋で就寝している。

会いたいなぁ、と思った。佳隆の邪魔をしたくないと思いながらも、触れて、体温を感じながら、その腕に絡み付きたい。まどろみの中朝日を迎えたい。そんな本音が捨てられない。

逡巡の末、真澄は静かにドアを開けた。僅かな光を頼りに様子を窺う。案の定佳隆は眠っていた。パソコンの電源は付いたままだ。
ベッドの脇に膝をつく。潜り込んだら起こしてしまいそうだから。
薄い羽毛布団に頭をのせた。眠っている佳隆に触らないように両腕ものせて、枕みたいにしてみる。目の前に大好きな優しい顔がある。佳隆は横向きで眠るから。
目を閉じる。佳隆の呼吸のリズムに合わせてみた。

 

吸う、吸う、吐く、吐く。吸って、吐いて。

 

十分、いや、五分だけ。

 

五分だけ。

 

***no title days <未経験者歓迎>:END

4

夕方。

佳隆から渡された貰い物の食器を収納していると、いつもより慌ただしい足音が響いた。バタバタと階段を駆け下りる音がそれに続く。

「真澄くん、ごめん!ちょっとシステムに不備があったみたいだ。会社まで行ってくる」

何だろうと思って振り返ると、佳隆が暖簾をよけてリビングを覗き込んだところだった。
仕事部屋のある二階のベランダでは、ハーブや野菜が育っている。
きっと鉢換えをしていたのだろう。片手に土の付いた軍手、片手に携帯という奇妙な出で立ちで、佳隆は真剣な表情だ。

「ごめんね、行ってきます」

軍手を取り、無造作に机に置く。ひとつが机からはみ出して、落ちそうになっているのも構わない。
じゃあと片手をあげて、佳隆はそのままの姿で玄関を飛び出した。
俺の返事も、待たずに。

「~~っ!」

ガシャン、と大きな音を立て、足元で食器が割れた。
振り下ろされた平皿は足の上に直撃し、重く鈍い痛みが走った。

「あ、っ」

まるで夢から覚めた瞬間のように、はっと我に返る。色が、痛みが、感覚が。フォーカスがかっちりと合わさって、途端、現実は鮮明に凪いだ。
佳隆の食器を割ってしまった。
貰ったばかりだという、佳隆の食器を。

「………っ、は、あっ、ぁ、」

どんどん女々しくなっていく自分が気持ち悪くて吐き気がした。
もう、やめよう。
やめよう。やめたい。
このままでは、きっと正気で居られない。
自分一人で立てなくなってしまう。

 

焦燥と恐怖。無我夢中で携帯を掴む。
もうこの時には十分おかしかったのだ。

 

震える指が、覚えている番号を順番に押す。
もうこの携帯には登録されていない番号。佳隆と暮らすようになって、これまでの連絡先は全て消した。そうして、佳隆の番号だけ、もう一度。メモリーの一番最初に記録した。
なにかがうるさいと思ったら、自分の呼吸だった。
記憶力は昔から良かった。とりわけ、数字の並びには。
やっぱり俺は最低だ。

長いコール音の後、訝しげな声が鼓膜を揺らした。

『……はい、もしもし』
「きっ、……木村さ、木村さん、木村さん…っ」
『……真澄……?』
「木村さん、きむらさ、っ、あああああっ」
『真澄!?一体どうしたの。っていうか、今まで、一体……』
「買って。おれを、買って。お願い…………!」

両足から力が抜けて、立っていられなくて、床にへたり込む。
フローリングに涙がぱたぱたと落ちて水玉を作る。
割れた平皿の破片が散らばっている。足の指からは、血が出ていた。

『今、どこにいる?』

そして、俺は割れた食器もそのままに、スニーカーに乱暴に足を突っ込んで〝佳隆の〟家を出た。

***

「……どうしたの、こんな、急に。仕事が休みだったから良かったけど……。……真澄?」

木村とは駅で落ち合った。
正確には、駅の少し手前。チェーンのカフェや牛丼屋がずらりと並ぶ駅前通り。
急に動いたせいか、連日の不眠のせいか。おそらく両方のために、駅へ向かう途中に目が回って動けなくなった。さあっと血の気が引いていく。全身の血液が一度に抜かれてしまったような錯覚。触れた足からアスファルトに吸い込まれていくようだった。
ブラックアウトした視界は、目を閉じてもなお揺れていた。
酔っ払いを見慣れる群集は器用に俺を避けて歩いていく。
このまま、消えて無くなってしまえたらいいのに。
サングラスをかけた木村が駆け寄ってきたのは、暫く経ってからだった。

「ほら、水」

木村が手渡すのは外国製のミネラルウォーター。
冷蔵庫に入っていたものだろう。
一口、二口と飲んで、自分の思っていたよりもずっと喉が渇いていたことに気が付いた。

「もういい?」
「ん」
「じゃあ話してごらん。どうしたの、一体」

ホテルに入り、足を高くして横になっても、眩暈のようなあの感覚は引かなかった。
呆れ顔で事情を聞いてくる木村の、ベルトに手をかける。
肘を支えに体を起こし、返事の代わりに木村のそれを口に含んだ。
木村が息を詰めるのが分かって、舌先で丁寧に舐めていく。溢れた唾液が、口の端から顎に伝った。

「ちょっと、真澄、」

血液が集中し、硬さが増していくのを直に感じる。
木村はスイッチが入ったようだった。
肩を掴まれて、ぐい、と引き離された。

「こっちがいい」

慣れた手付きで押し倒され、気付いたら顔が布団に埋まっていた。
いいんだね、と耳元で念押し。息遣いがこめかみをくすぐった。
木村の重みを背中に感じる。

「はやく、」

優しくなんてしなくていい。優しくしないでほしい。
何も考えたくないのだから。

人間の脳みそは、痛みを一番に選び取るという。痛みは生死に直結するのだから、敏感に作られているのは合理的だ。そう思えば生きることは、痛むことと同じだった。
頭を痛みでいっぱいにしてほしい。何かを考える余白を埋めてほしい。
あわよくば、永遠に夢の中に。
そんな思いとは裏腹に、木村の動作は緩慢だった。
滑り込んだ右手と冷たいジェルがふれて、時間をかけてほぐしていく。
届きそうで届かないもどかしさに思わず身をよじらせる。もっと、刺激がほしい。足りない。苛立ちすら、感じてしまう。

「きむら、さ、……それ、もう、いい」
「………腰、動いてるよ」

くっ、と喉の奥で笑う木村。顔を動かして後ろを向けば、片頬を歪めた木村の笑みがあった。
そういうことかと、一人合点する。前髪の隙間から冷笑を見上げ、上等だと思った。
もう、今更羞恥なんて感じない。

 

一気に現実に引き戻されたのは、その時だった。

壁を打つような、大きな音が響いたのだ。

「お客様!」

続いて慌てた従業員の声。

「真澄くん!真澄くん!」

そして、佳隆の声。

「!」

驚いたのは言うまでもない。さらに佳隆は次から次へとドアを叩き、俺の名前を叫んでいるようだった。

「……何なんだ、」

木村の呟きは、その音で掻き消された。

「真澄くん!どこにいるんだ」
「お客様、他のお客様のご迷惑になりますから……!」

すぐ横の体温が、息遣いが、すっと離れた。暗がりと冷たい空気が間に割って入る。
木村はバスローブを羽織り、何も言わずにドアを開けた。

「待っ……、」

隙間から入る細い光は、俺のすぐ近くまで伸びてきた。
手を伸ばせば外の明かりに触れられる。
薄い壁の向こうは、あんなにも明るいのに。

「うるさいな。一体何の騒ぎだ」
「お客様、大変申し訳ありません」
「真澄くんが居ませんか」

 

佳隆。

 

「何の話だ。ここにはいないよ」

少しだけ、心臓が跳ねた。
今俺がしていることは〝そういう〟意味を持つのだ。
ここで「いない」ことにされてしまったら、佳隆とはきっと、もう会えない。

それでいい。
俺が持っているものはひとつしかなくて、生きていく術もひとつしか知らない。これが、俺の全部なんだ。
だから、これでいい。

 

──本当に?

 

突然、携帯のバイブ音が響いた。
固いサイドテーブルに置いていたせいで、その音は殊更目立って聞こえた。振動がテレビのリモコンをカタカタと動かす。
暗闇の中に青色が点滅する。
佳隆からの着信だ。

「真澄くんを、出してもらえますね」

室内から響く音を確認したのか、佳隆は着信を切った。
数瞬遅れて点滅も止まる。
自分の携帯を押し付けるように木村に渡して、佳隆は部屋に入ってくる。
廊下の照明でシルエットしか確認出来なかったその姿が、どんどん近付いて大きくなる。
静かな怒りの雰囲気を感じた。

「……断っておくけど、俺を誘ったのは真澄だよ。着信履歴でも確認すればいい」

木村の言葉に、冷水を浴びたような思いがした。一気に冷静さを取り戻す。
ベッドの正面まで歩を進めた佳隆は、床に膝をついて俺を見た。おおよそ一メートルの距離。目線の高さはほぼ同じ。
微かに見上げる視線が交錯する。
何よりも先に恐怖を感じ、体が小刻みに震えだした。
怖い。佳隆が、怖い。

「……なんで、場所が、」声まで揺れる。
「GPS。真澄くんが携帯を持っててくれて助かった」

感情を滲ませない、抑揚の消されたトーン。
それすらも怒りのなすものかと思うと、強烈な閉塞感を感じた。
木村が荷物を片付ける音が聞こえた。
ブルーのワイシャツとダークグレーのスラックス。上着と鞄は手に持って。バスローブ一枚の姿から、身なりを手早く整えていく。

「チェックアウトは明日十二時です。この部屋はお好きにどうぞ。……ばいばい真澄。お金置いておくね」
「え……っ、あっ……」

佳隆の携帯を重しにして、テーブルに数枚の紙幣を置く木村。
俺が言葉を発する前に、佳隆は立ち上がっていた。木村の背中を追い、大きな動作で置かれていた紙幣を突き返す。

「結構です」
「あなたに渡した物じゃない。あなたは何の権利があって、真澄の所有物を管理してるのかな。……真澄すら自分の持ち物だって言いたいの?」
「……何を言って……」
「帰りますね。……真澄も、次に連絡取る時は、首輪が取れた時だからね」

そう言って、木村は部屋を出た。
佳隆と二人、暗闇の中に残される。

少しでも触れたら切れそうなくらい、尖った沈黙が空間を支配する。
暗くてよく見えなかった表情も、視界が慣れると徐々に輪郭が見えてきた。
佳隆の目が、静かな怒りをたたえて、俺を見上げる。
無言の時間が怖かった。
同時に、いよいよ終わるのかと思うと奇妙な安堵があって、そんな自分に驚いてしまう。
そうだ。呆れて、「こんなのいらない」って捨ててくれ。丁寧に優しく扱われるより、そっちのほうがずっと似合う。柔らかに撫でられることよりも、殴られることに慣れている。

 

佳隆を好きだと思う瞬間は苦しかった。
与えられる愛情に条件はなくて、善意と親切と、甘い環境。
それらが神経の端から端まで麻痺させて、浸かりきってしまったらきっと一人で息もできなくなる。そんな恐怖が付きまとう。

お金で成立する単純な関係の方が気楽だ。相手の感情にも、自分の感情にも左右されない。ずっとそう思って生きていた。

それが佳隆と一緒にいるとどうだ。
嫌われないように神経をすり減らし、それでいて、佳隆の無償の優しさには罪悪感を感じている。
女々しい自分に吐き気がした。

 

佳隆さん、そう口を開こうとしたその瞬間、佳隆に押し倒された。

「んっ……んぅ……っ」

噛みつく勢いの強引なキス。
歯と歯が音を立ててぶつかった。
その隙間から佳隆の舌が侵入してくる。
舌先が上顎の内壁をなぞると、背筋に細い電気が走り、思わずのけぞった。
混ざり合った唾液が溢れ、顎を伝う。

息が、出来ない。

「……っ!はっ、はあっ……、」

たまらずに佳隆を押しのけた。
思い切り息を吸い込む。
新鮮な酸素が肺を満たす前に、再び佳隆に覆われた。

「よ、……っ、よしたか、……っ、」

何か、言ってよ。
罵倒の言葉でもいい。侮蔑の言葉だっていい。
何でもいいから、話してよ。
懇願して胸を叩く。
唇が離れて、目が合った。

「嫌になったら、すぐやめていいから」

 

──上から降ってきた言葉の意味が、すぐには理解できなかった。

 

「嫌になったらすぐにやめていい。すぐ逃げていいよ。だけど、今は、絶対に逃がさない」

幼い子供に言い聞かせるようにそう続ける。
静かな怒りは置かれたまま。なのになぜか、泣きそうな顔をしているのは佳隆だった。
この男は、そうやっていつも、自由にさせるんだ。そういう人だって、分かってたじゃないか。

「そうやって!」

カッとなって、佳隆の胸ぐらを掴んだ。
やわらかな綿生地のシャツを引き寄せて、佳隆の体重がぐっとかかる。息遣いさえ感じる距離に顔がある。

「そうやって、あんたはいつも俺を逃がす!」

ここにいてもいい、やめてもいい、逃げてもいい。全部俺次第だなんて、そんなの、無責任だ。自分勝手な理屈だと思う。あり得ないことを言っているって分かる。でも、それでも、わがままを言っていいと言ったのは佳隆だ。この目は絶対に逸らさない。

「佳隆だって、嫌になったらやめればいい、逃げればいい!俺、佳隆のこと、逃がさないから。俺だってあんたのこと逃がさないから!」

一息に叫んで息が切れた。

不安定な体勢でいるせいで腹筋が震える。

 

佳隆も自由になって。
自由になって、俺を好きになって。

 

次の一息でそう続けようとして、突然がくんと全身が弛緩した。理解より早く指がほどけて、掴んでいたシャツを離していた。ベッドに頭が落ちる。仰向けになると、ぐらりと視界が揺れた。

頭の後ろ、首の付け根のあたり。冷たい痛みが広がって、巡る思考に次々とシャッターが下ろされる。
腹の底から吐き気が込み上げ、反射でえずいた。伏せたシーツを舌先が撫でる。ざらりとした。吐いているのか、それも感覚がない。

何がなんだかわからなくて、怖くなってなにかを掴む。
ああ、これは、佳隆の腕だ。

 

「真澄くん。何飲まされた」佳隆の声。
「ごみ箱に入ってた。何、飲まされた。いつ。真澄くん……」

 

なんだこれ、すごく、眠い──

 

水の中から見上げたような光がゆらゆら揺れている。
頬に触れる心地よい冷たさ。
自由は怖いから、どっちに歩いたらいいのか、分からなくなるから。だから佳隆、俺が自由に「慣れる」まで、首輪を握ってて──

 

意識はまどろみの中に溶けていき、いつの間にか夜が明けていた。

 

水泡のように浮かぶ意識の断片がひとつひとつ繋がって、結ばれたときに目が覚める。
開いた視界いっぱいに映ったのは、ずっと欲しかった肯定だった。
ひんやりと冷えた布団にもぐりなおして、佳隆の胸に頭をこするように押し付ける。髪の毛が佳隆の微笑みをくすぐった。「くすぐったいよ」佳隆が言う。

「……佳隆とやれるチャンスだったのに、やり逃した」
「……真澄くん、口が悪いよ」

体を半分起こしていた佳隆も同じように布団にもぐってきて、こまったような、しょうがないなと受け入れたような、眉尻の下がった苦笑を見せる。

「気分は」
「サイアクだよ」
「それは良かった」

きっと俺も今、佳隆と同じ顔をしている。

「ごみ箱に眠剤のカラが入ってた。いつ飲まされたの」

佳隆はつぶれた二錠分のアルミシートをつまんで見せ、それを投げ捨てた。

眠剤。

心当たりはない。

半分眠った頭で記憶を手繰り寄せて辿る。
吐き気すら覚えた強烈な睡魔。佳隆とキスをした。久しぶりに見る怒りの表情。
もう少し前、この部屋に入ってすぐ。木村から受け取ったミネラルウォーターの冷たさを思い出した。

「……あの男だね」

思い当たった表情で察しがついたのだろう。もとより答えなんて、火を見るより明らかだ。佳隆は呆れのため息を吐いた。
木村は最初から、最後までする気がなかった。

「…………ごめん」
「それは、何に対して」

怒っている声ではない。佳隆が怒った時なんて、記憶の限りでは二回だけ。
そういえば、一度目もホテルで、それもホテルマンが部屋まで荷物を運んでくれるような、観覧車の見える部屋だった。
佳隆の体温が隣にあって、白いシーツと日の光が目に染みて、なんだか泣けてきた。一度涙が溢れるとどうにもならなくて、堰をきったようにわんわん泣いた。自分のどこにこんなに涙があったんだろうと、こんなに泣くことができるんだって驚くくらい、感情が流れ込んできて止められない。
声をあげてこんな風に泣いたのは、生まれて初めてだと思った。

「……寂しいって思ってた。俺のことだけって、思って、」
「うん」
「でも佳隆が俺のことだけ考えてたら……。もし、それ以外ぜんぶ捨てたら、そうなったらやだって……」

涙が鼻までおりてきて、ぐしゃぐしゃの酷い顔で佳隆を見る。
誰にも見られない小さな部屋。駅前の安いビジネスホテルのダブルベッドで。漂白したばかりのように真っ白な、薄い布団の膜の中で。

「俺、佳隆のこと幸せにするから。佳隆も俺のこと幸せにしろ」
「望むところだよ」

一人で立って、二人で歩いていくんだ。

「忘れてもらったら困るけど、僕、真澄くんを買ってた立場だからね。きれいなことを言うつもりはないよ」
「それもそうだ」
「あ、こら、開き直ったね」

佳隆の顔がぐっと近づいて、うっすらと汗ばんだ額を舐めた。次に瞼に唇が触れる。
気恥ずかしくなって佳隆の唇に噛みついた。舌をのばして首筋に這わせる。

「しょっぱい」
「佳隆さんもね」
「あれ。〝さん〟ついちゃうの」
「ついちゃうよ」

そこにいるのは神様でも天使でもなくて、ただ一人の人間だった。

十二時まであと少し。

薄い布団の中のまどろみが永遠だと、ありったけの力で抱き合った。

 

***toi et moi 4:END

当事者(後編)

初めて達男に連れていかれたビルの一室で、母親そっくりの造りをしたこの顔はよく売れた。

物好きな変態は気前が良く、一晩で一ヶ月分の生活費を稼げてしまった。

吐き気がする。気持ち悪い。反吐が出る。…………怖い。
全部の感情に蓋をして目を閉じる。

これは、俺じゃ、ないよ。
他のだれでもなく、自分に言い聞かせる。

 

高校生になっても、そんな生活を続けた。
その日の収益は三万円だった。
珍しくまともな客で、へんなやつだった。
きっとああいう所に来るのは初めてだったんだろう。きっと彼は男が好きな側の人間だが、男を買った経験はない。
埃っぽいラブホテルで迎えた朝。眠そうな彼の声は、俺に背中を向けたまま、好きなだけ取っていけと投げやりに言った。財布の中身も確認せずに。免許証も保険証も入っていた。「木戸景吾」というフルネームも、誕生日も、住所まで分かってしまう。
あの無用心さと諦念は、いつか騙される。
そう言うならもっと抜いてやろうかと一瞬だけ脳裏を掠めたが、やめた。地の底に落ちても、まだ、獣じゃない。

「ただいまー……って……」

朝、帰宅し玄関を開けると、見慣れない革靴が揃えられていた。それから、華奢なミュールが脱いだままの状態でそこにある。
こんな所に客なんて来るわけがない。
借金取りか、だとしたらあの女物の靴は?
いずれにせよ関わる気は少しもなかった。俺はお金を持ってきた、それだけ。
和室に籠ろうと靴を脱いだとき、洋室の引き戸が開いた。洋室とはいえ床がフローリングになっただけで、その他の造りはまったく古い木造住宅のそれなのだ。
タイミングの悪さに思わず舌打ちをしてしまう。
洋室から出てきたスーツ姿の男と目が合った。仕立てのいいブラウンのスーツと、きっちりと整えられた髪型。年齢は達男とそう変わらないだろうが、風体は雲泥の差だった。

「君が真澄くんかい」

張りのある、よく通る声。

「そうだけど」視線だけで見上げながらそう返すと、スーツの男は鞄から分厚い書類の挟まったファイルを抜き取った。これを、と差し出される。真澄は片手でそれを受け取る。

「君にも関係のある書類だからね。よく目を通しておいた方が良い」

返事を聞く気は無いようで、早口に告げながら彼は直ぐに手を引っ込めた。そして体半分で振り返り、洋室を覗く。

「美世子さん、真澄くんです」

その言葉を理解するのに、その名前を思い出すのに、気が遠くなるような一瞬が爪先から頭まで駆け巡った。

「えっ」

驚く声と同時に、ガタリと揺れる立て付けの悪い障子戸。下半分の磨りガラスの向こう、人影が動いた。
立ち上がり、扉を掴み、隙間から、顔を出す。

「………真澄」

数年ぶりに見た母親は相変わらず華やかな洋服に身を包み、そして、驚くほど、自分と同じ顔をしていた。

 

分厚い書類の内容は、一言で言うならば二人の諍いの説明書。
美世子は再婚が決まったが、しかし達男との離婚が成立していない。まだ戸籍で繋がっていたのかと、真澄は驚きを通り越して呆れた。
一対一で会うのは身の危険から憚られたため弁護士を雇い、事務手続きを進めていたのだという。

達男と弁護士はこれまでに二度面談をしていた。
その中で双方の言い分や要求を擦り合わせ、着地したのがこの結論だった。
美世子は、真澄を引き取ることを条件に提示して、離婚を申し入れた。
達男に断る理由は無かっただろうと思う。邪魔な子供、負の遺産が取り払われるならむしろ願ったり叶ったりだったのではないだろうか。

こうして、真澄は美世子の旧姓をうけた。榎本真澄。耳慣れない響きだが、それほど大きな変化ではなかった。
担任を「スミマセン」と呼び止め、両親の離婚の旨を伝えた。また、それに伴い母方に親権が移るので、名字が変わるという事も付け加える。
淡々と用件だけを伝えられた担任は、眉根を寄せ、唸るように相槌をうつ。
「そうか。その……大変だったな。後で必要書類を渡すから、親御さんに記入してもらうように」
軽く頷き返答とする。太いフレームの眼鏡が、少しずれた。

それからは、なんだか怒濤の日々だった。
まず、案の定というか、想像通りというか。美代子が真澄を迎えに来ることはなかった。引き取るというのは、離婚を成立させるための口実だったのだ。
達男は昔のツテで新しく事業を始めたようだった。何をやっているのかは定かではないが、きっとまっとうな道ではないだろう。
住居は相変わらず、廃屋同然のアパート。真澄の生活も変わらなかった。
驚いたのは、あの公園で会った木戸と、よりにもよって学校で再会したこと。
向こうも全く予想外だったようで、目を丸くしていた。気まずそうに挨拶を交わしたのも最初だけ。また、三万円の関係が始まった。

こんなもんかと、思ってさえいた。

ただひとつ、厄介な出来事があった。
真澄の〝商売〟を、誰かが学校にリークしたのだ。
公園で金銭を受けとる現場、連れ立って立ち去る現場……そんな一部始終を収めた写真が、匿名で学校のアドレス宛に送られたらしい。
撮られるリスクは考えていたし、そのための変装でもあった。だから密告自体はたいした傷では無かったのだが、メール事件(先生たちは、そう呼んでいる。)以降、売り上げには結構響いた。
世も末なことに真澄の客には、先輩や教師まで揃っていた。
担任もその例に漏れず、受信したメールを開封した時には縮み上がったのだろう。
メールの件は瞬く間に広まったらしく、教師陣からの連絡は事件からぱたりと途絶えた。

「木戸先生、か」

公園で出会い、学校で再会するというイレギュラーを辿った木戸も、あれから呼び止められることはない。非常勤講師である木戸の耳にも事件の話は届いているのだろう。連絡先を表示した小さな画面を見ながら、指を動かす。
ものの二秒で、「消去しました」メッセージが表示される。
性欲処理の相手となりながら、真澄は、木戸との関係にある種の安息を感じていた。
なぜだろう。愛情のような、きっと今以上の何かを期待していたのかもしれない。けれど所詮はその程度だったということだ。もちろん自分には、その資格もない。
寂しさを痛みで埋めること。
真澄の自衛手段は、それしかなかった。

 

怒濤というのはここからである。
ある日帰宅すると、玄関に男が二人立っていた。
締まった体と穏やかなふりをした鋭い視線。嫌な予感が走った。

「君、真澄君かな」

こんなふうに呼ばれることが前にもあった。
しかし、やはり弁護士とは漂う雰囲気が、空気が違う。
一人が胸元から取り出したのは警察手帳だった。まるでドラマのようだ。「署まで同行願おう」とか、「現行犯で逮捕する」とか、言われるのかな。笑いのため息が漏れそうになるのを、唾を飲み込んで堪えた。

「A署の松村と言います。君のお父さんが逮捕されたんだ。一緒に来てもらえるかな」

 

初めてここに来た日に似た夕焼けの中、感じたのは、安堵だった。

 

覚醒剤使用の容疑で逮捕された達男だったが、五年前の風営法違反もあり実刑判決は免れなかった。真澄達の暮らしにも焦点が当てられることとなり、少年課の刑事から施設への入所を勧められた。
身寄りもおらず、荒れた生活がどこまで明らかにされたのかは分からないが、どこを切り取っても到底まともな暮らしぶりではない。そんな真澄の状況に対して提示されたその提案は妥当だった。
その日は金曜日だったこともあり、真澄は土日をA市の児童養護施設で過ごした。
想像より居心地は悪くなかったが、しかし真澄は入所を拒否する。そこに居たのは小学生や園児ばかりで、それも含めた根本的な彼らとの違いに、居たたまれなくなったのだ。
彼らの中で暮らすなんて、自分の汚れを一秒ごとに見せつけられることに等しい。自傷行為のようだった。とてもじゃないが、耐えられない。
自分はバイトも出来る、大丈夫、と半ば脱走するように施設を飛び出した。

家に帰ろうとして、歩みを逸らす。向かった先は公園。

どうしようもないのは、まともじゃないのは、もう自分のものだった。
冬が、近付いていた。

 

高校三年。
連日、狂ったように体を売る時期が続いた。
もはや強要はない。もはや強制はない。
それなのに真澄は行為を続けた。そうなるとこれは、真澄の意思だった。
こうすることでしか、自分の輪郭がわからない。自分と世界の境目を見失ってしまうことが、何よりも怖かった。
夜になると、亡霊が枕元に立つ。時には夢の中に立つ。押し寄せる恐怖に身を縮め、震えながら朝を迎える。
糸の切れた凧は風に浮かび、流され、やがて―
そして、決定的な出来事が起こる。

いつものように、遅刻ギリギリで校門をくぐる。
春に満開だった桜はすっかり花を落とし、えんじ色のがくと深い緑が揺れていた。夏の近付く澄んだ空によく映える。前髪の隙間から空を見上げ、あまりの眩しさに目を細めた。
風が強い。砂だらけのアスファルトを踏んで、生徒玄関へ向かった。
下駄箱で靴を履き替え、階段を上っている時に、最初の違和感。
すれ違う人達が、皆そろって真澄を見ていく。
自意識過剰か、気がおかしくなったか。真澄には何が起きているのか分からない。

「あ、」「こいつだ」「いた」
かろうじて耳が拾うくらいの囁きで、口々に噂されている。
目立たないように、息を殺して過ごしてきたのに。校内でこれだけ多くの視線を浴びるのは初めてで、不快な違和感と嫌な予感に冷や汗が出る。

(……なに、何だ…………一体何が)

自然と足が速まり、みな遠巻きに真澄を見やりつつも、道が空いた。
廊下を進み、階段を上り。教室が近付くにつれて人が増える。
一際多くの生徒に囲まれていたのは、やはり、真澄のクラスだった。

囁きから逃げるように、視線に押されるように。
走るような勢いで、真澄は教室に飛び込んだ。途端、その場にいた全員が、まるで弾かれたように振り返る。

顔を上げて、唖然とする。

黒板には、数えきれないほど大量の写真が貼られていた。

じっくり見なくても、写っているものは予想できる。何の写真か、直感する。

 

糸の切れた凧は、落ちた。
真澄は髪をかき上げた。伊達眼鏡を外す。
あらわになった鋭い美貌に、誰かが息を飲む。険しい表情のまま、黒板に一歩ずつ近付いていく。
異様な沈黙が続いている。誰かが思わず後退り、椅子を倒す音が教室に響いた。

 

そこにあったのは、ここ数週間の、行為の最中に撮られた写真だった。
撮ったのは勿論、真澄を買った相手だ。
暗がりで撮られていても、濡れた真澄の顔ははっきりと映っている。
黒板一面に貼られた無修正の画像からは、においまでしてきそうなほどである。

眩暈がして、咄嗟に机を掴んだ。

 

──こんなもんかと、思ってさえいた。

 

「何をしているんだ!教室に入りなさい」

騒ぎを聞き付けた教員が、何事かと駆け付ける。

校内の掲示板に、退学者として真澄の名前が掲示されたのは、それから一週間後のことだった。

***

「だから、嫌だって言ってるだろ」
「こっちはお金を払うと言っているんだ、拒否権があると思っているのか」

いつもの公園で、真澄は厄介な変態に絡まれていた。
かつて一度買われた事があったのだが、大学教授だというそいつは強烈な変態趣味だった。人のことを言えた筋合いではないが、酷い目に合わされたことが軽くトラウマになっていた。

「離せよ、俺はあんたとはやんない」
「口答えするんじゃない。生意気な」
「離せってば……」

しつこく言い寄られ、腕を掴まれる。汗ばんだ手のひらに鳥肌が立った。やっぱり無理だ。生理的に、無理なものは無理。
なんとか逃れようと身を捩るも、百八十越えの男に力で敵う訳がなかった。
このままじゃまずい、機嫌を損ねているから、どんな目に合うか分からない。
ただでさえこいつには、クスリの影がちらついている。買った相手をヤバい薬漬けにして家で飼っている、とか。そんな噂も聞いていた。

「あ、あの──……」

間の抜けた声に挟まれたのは、その時だった。
見るからにこの場に似合わないその男は、財布から万札を引っ張り出す。どうにも危なっかしく、「あ、ちょっと破けた」なんて呟きながら。

「彼、僕が買っても良いかな?」
「「はあ?」」

思わず、真澄も脱力。
なんだこいつ、と訝しがりながらも、助けられたのは事実だった。
それから二人は真澄を挟んで二、三言い合って、真澄は呆然と成り行きを見守っていた。こんな状況を目にするのは初めてだ。

決着はすぐだった。穏やかな物腰の男は、満足そうに頷く。横顔は、ちょっと得意げ。
そして、悪態を吐きながら去っていく変態男には目もくれず、真澄に微笑みかけながらこう言った。

「ところで、いくらで君と過ごせるの?」

 

***当事者(後編):END

当事者(前編)

物心ついた時から、あらゆる悪意に囲まれていた。

家の中に飛び交う罵声。光る刃物の切っ先。時折、飛んでくる拳。

都会の空高く伸びたタワーマンションの一室には、憎しみと利己的な欲望、溢れ出しそうな悪意だけが詰まっていた。

これが異常だと真澄が気付いたのは、小学校にあがってからのこと。顔を会わせれば始まる両親の口論も、なかなか会えない母親も、暴力的な父親の姿も、それが日常の一部だったから。

朝起きて誰もいないなんてしょっちゅうで、それを不思議に感じたこともない。

朝、机の上には数枚の紙幣と、デパートの袋に入ったままの菓子やコンビニの食品を見る。きらきらと繊細な洋菓子は母親が職場で貰ってきたものらしい。

彼らの手料理を口にしたことは、おそらく無い。両親のどちらかがキッチンに立って料理をする姿を見たことが無かった。

調理実習でカレーを作り、個々の食材がひとつの鍋に収まる過程を初めて知った。

 

真澄の母親は、繁華街の風俗店「レーティ」でナンバーワンだったのだ。若く美しい母は、高値で競り合われる商品だった。
入店以来パトロンが途絶えることの無い彼女の名前は、旧姓榎本美世子。源氏名はアイリ。そして美世子より一回り以上歳上の父親、鈴原達男はレーティのオーナー。真澄は彼ら二人にとって、全く予期せぬ妊娠の結果だった。

けれど厄介なことになったと頭を抱えたのも一瞬。達男は華やかな美貌の美世子に骨抜きで、美世子からしても気分屋なオーナーからの安定した待遇が得られるのは降って湧いたラッキーだと、そう楽観的にシフトした。

当時二人には相当な額の収入があり(店ナンバーワンの美世子の売上と、諸経費という名目で諸々を差し引いた純利益が一ヶ所にあつまるのだから当然だ)、子供一人くらいなんとかなるだろうと、そう安直に考えていた。

お金はあった。家もあった。物は溢れていた。しかし二人は、壊滅的に育児に向いていなかった。というより、〝親〟に向いていなかったのだ。

真澄が産まれた直後はベビーグッズを揃えてみたり、服やおもちゃを買い集めて子育てをかいつまんでみた二人が〝子ども〟に飽きるのに、そう時間はかからなかった。
真澄が保育園に上がる歳には、美世子は早々に仕事に復帰した。
夜職へ出かけ、明け方過ぎに帰ってきて眠る美世子。店長を雇っているため自由に出勤できる達男も、子育てのあまりの煩わしさに殆ど家に寄り付かなくなった。
そして、子どもという荷物を抱えきれなくなったふたりは、衝突をはじめる。

「お前が産んだんだろ!」
「あんたが産めって行ったんでしょ!」
「金もかかるし冗談じゃねえ。なんとかしろよ」
「こっちの台詞よ!ふざけんじゃないわよ!」

暴言の濁流を眺めながら、真澄は小さく丸まって一過を待った。高価な食器の割れる音、ひらひらと薄いドレスが破ける音。美しい母は、殴られる。
ぞっとした。
この男は、恐怖そのもの。震える声で「だれか、」真澄は呟いた。
言葉は、音にはならなかった。

同じような日々を繰り返す。達男の機嫌が悪いときには、真澄の体もゴム鞠のように軽く飛んだ。顔が売り物の美世子とは違って、真澄相手には容赦がない。不機嫌を煮詰めたような達男に蹴り揚げられるたびに、痛みと衝撃で気が遠くなる。
それでも、このマンションは真澄の家で、世界のすべて。

***

真澄が小学五年生の時、美世子はマンションに帰らなくなった。
家中から消えていく美世子の痕跡を埋めるように、酒瓶や空き缶が転がっていく。
カーテンも開けず、換気もせず、淀んだ悪意は徐々に腐敗していった。

「……何見てんだよ」

リビングで朝から酒を煽る達男は、部屋から出てきた真澄を見るなり顔を歪めた。物音がしないので居ないものだと思っていた真澄は、迂闊にもリビングを覗き込んでしまったのだ。
視線に絡め取られ、真澄は硬直した。逃げようとした両足は、床に張り付けられたように動かない。この男の関心が向かないよう、細心の注意を払っていたのに。
男は亡霊のように立ち上がり、右手に掴む日本酒の瓶を振る。
底の厚いガラスは真澄の頭を直撃した。
倒れたかけた所を、髪の毛を引かれて戻される。殴られた痛みは時間差で、内側からじいんと効いてきた。

「……うっ」
「何見てんだよ、アア?」

酒臭い息。真澄の顔に唾を吐きつけながら、達男は思う。美世子と全く同じ顔が、ここにある。〝これ〟は誰の子だ?
真澄は目を閉じ、災厄が身に降りかかる現実から、離れた。

美世子が出ていって二ヶ月。今度は、真澄達がマンションを去ることになる。
達男の店が、検挙されたのだ。
罪状は風営法違反。未成年を雇っていたことが明るみに出て、店は当然営業停止。オーナーの達男には店の借金と数百万の罰金が降りかかり、この豪奢な城で生活することは不可能となった。
それだけでなく、店の売上金の一部を暴力団関係組織に流していたことも、警察の目に止まることとなる。
現金のやり取りを担っていたのは店長だが、繋がりを持っていたのはオーナーの達男だ。
雇われ店長は血眼になって達男の行方を探しているのだろう。携帯のコールが鳴りやまない。「ちくしょう!」叫んだ達男は携帯を投げ捨てた。

夜逃げ同然で転がり込んだ次の家は、今にも崩れそうな古いアパートだった。
木造二階建て。赤く錆びた鉄階段は、所々足場が抜けていた。窓は玄関の横と、部屋の奥に一枚。洋室と和室がひとつずつ。
前の住人が置いていったのか、カバーのない扇風機が台所に放置されていた。
ふたり分の荷物は、引っ越しとは思えないほど少なかった。もとより、あの城には大切な物なんて何ひとつ残っていなかった。
達男は部屋の中をざっと見回すと、大きな舌打ちをして、また靴を履いた。日焼けした腕で、真澄の襟を掴む。

「おいガキ。俺が帰ってくるまでに荷物片しとけ」
「………どこ、いくの」
「ア?パチンコだよ、文句あんのか」
「ない」
「……んだその口。ありません、だろうが」
「あ、りません」
「クソッ」

達男は悪態をつきながら、夕焼けの町へ出掛けていった。

 

中学生になった。
現金収入がゼロとなった達男は、しかしまともな働き方など続けられるわけもなく、生活費はいよいよ枯渇していく。電気や水道は度々止められ、大家が怒鳴り込みに来ることもあった。張り紙の重なった薄い玄関扉を何度も何度も叩かれる。

真澄はその度、目を閉じる。自分はここにいない、これは自分ではないと、心のなかで繰り返す。

どんなに困窮を極めても、達男は酒もタバコもギャンブルもやめない。

真澄は高校生と年齢を偽って、バイトを始めることになる。
明らかに幼い外見と、細すぎる体躯でとても高校生には見えなかっただろう。人手の足りていない、規律の緩い所を選んで働いた。
学校に行っている時間より、働いている時間の方が長かったかもしれない。
早朝の新聞配達、深夜のコンビニ、休日は日雇いの派遣……とにかく、生きていくにはお金が必要だった。
まともに思考する余裕もない。ただ、お金を持っていけば殴られないし、普通の基準を知らない真澄には選択肢なんて存在しなかった。
学校では、達男の暴力によるおびただしい数の傷跡を隠すため、一年中長袖を着る必要があった。不審に思った担任から何度か呼び出されたが、全て無視した。バイトの時間が迫っている。
そんな真澄の様子を気味悪がり、クラスの誰も、真澄には近付かない。

夕方、コンビニでレジ打ちをしている時だった。週刊雑誌とお握りふたつ、それから発泡酒を会計に通す。
お金を受け取ろうとして、突然目の前が真っ暗になった。さあっと血の気が引いて、引きずられるように意識が遠のいていく。冷たくなっていく指先。足下が歪む。絞られる視界、どこまでも沈んでいく床。
真澄は倒れた。

目が覚めると、まず視界に映ったのは長方形のタイルと蛍光灯。天井だと理解するのに、それから数秒。
起き上がってはじめて、ここが休憩室のソファだと気が付いた。数ヵ月前のキャンペーンで特典になっていた、キャラクターのブランケットまで掛けられている。薄いけどふかふかと柔らかい手触り。真澄はこの感触が好きで、展示の見本品を時々触っていた。

「あ、起きた?」

声に驚き振り返ると、何度か同じ時間に働いたことのある大学生が入ってくるところだった。四角いフレームの眼鏡を掛け、立花と名札をつけている。

「………あっ、あの、俺……?」
「倒れたんだよ、貧血?腹へった?おれが入ってて良かったなあ。ほら、廃棄の肉まん。あ、おれも休憩いただきまーす」

水蒸気を吸って少しふやけた肉まんを受け取る。さっきまで蒸し器に入っていたのだろう、温もりはじんわりと指先を暖めた。包みにくるんで、しばらくカイロのように持っていようと真澄は思った。
立花がカップ麺にお湯を注ぎ、腕時計を確認する。
そこでハッとした。今、何時。いったいどれだけ寝ていたのだろう。

「ねっ、ねえ、今何時」
「今?八時だけど」
「……!」

真澄は飛び起きた。今日、バイトは二十時までと伝えてある。半までに帰らないと、あの男に殴られる。体が震えた。

「か、帰らなきゃ……、帰らないと、」
「あっ、ちょっと!」

俄に異常な反応を見せる真澄の肩を、立花は掴んだ。頭を庇うよう、反射的に身構える真澄を痛ましげに見下ろす。

「………ねえ、君さ、……高校生ってのウソだろ。おれ、君がA中学の制服着て歩いてんの、見たよ」
「……」
「とりあえず座って。ふらついてる。おれ休憩上がりだから。バイクで家まで送ってくよ」

言われるままに腰を下ろしたが、震えが止まらない。頭はパニック状態だった。呆然と時計を見上げる。もうダメだ。どうやったって、どうしたって間に合わない。
前にもバイトが長引いて、帰りが遅れたことがあった。その時の怒り狂った達男の様子を、今でもはっきりと覚えている。亡霊になった達男は、時々真澄の夢の中にまで侵入してくる。

「……ど、どうしよ……どうしよう……」
「…………あのさ、」

あてもなくどうしようと繰り返す真澄を見て、立花は堪らずに口を開いた。カップ麺の蓋を開ける。ふわりと上った湯気で眼鏡が曇った。

「俺の友達にさ、児相でバイトしてるやついるんだよ」
「…………ジソー……?」
「児童相談所。余計なお世話かと思って聞かなかったけど……君、ちょっと傷だらけだよ」

言いながら、立花は自分の首や腕をトントンと叩いていく。真澄はぎょっとして襟元を正した。見られていた。気付かれていた。
血の気が引いて、目の前がチカチカした。息が、苦しい。頭の中がぐらぐらする。
立花が麺を啜る音だけが、休憩室に響く。
真澄は、目を閉じる。深呼吸をひとつ。

「………立花さん、何の話してるの?これ……この傷、学校の友達とケンカしちゃって。今、クラスであまり上手くいってないんだけど、まあ、だいじょうぶ。……俺んち、親一人だから、俺もバイトしてないと、かなりやばいんだ。だからお願い、俺が中学生って店長には黙ってて」
「…………君、」
「お願い、立花さん。俺がちょっとバイトすれば、大丈夫なくらいなんだよ。本当に。さっきは、明日のテスト思い出して、結構焦っちゃったけど。ちゃんとガッコーにも行ってるし。だから、お願い」

ね、と両手を合わせると、立花は溜め息を吐いて箸を置いた。
そして、備え付けのメモにペンを走らせる。ビッと破き、それを真澄に手渡した。

「おれの電話番号。必要になったら連絡して」
「……え、」
「…………なんか、放っておけないよ、君」

真澄は、十一桁の数字を手のひらに見下ろした。

バイクで送っていくという提案をなんとか断り、結局、立花が食べ終えるのすら待たずに店を出た。

寂れた商店街から離れると、街灯はいっそうまばらになる。
コンビニ、木材倉庫、公園、それらを通過し段々家が近付くにつれ、動悸が激しくなる。
眩暈がして、立ち止まる。ガードレールに片手をついて体重を預けた。

「…………っ、……は、」

早く、帰らないと。早く歩かないと。
亡霊の姿が脳裏にちらつく。

何度も立ち止まりながら、やっとアパートが見えてきた。
顔を上げて、あれ、と思う。
電気がついていない。

(あいつ、いないのか)

どこに行っているのか知らないが、達男は家に帰ってこないこともしばしばある。
もし今日も帰ってこないのなら、殴られることはない。痛い思いをすることはない。

唯一の安寧の時だ。

電気が止まっただけかもしれないし、達男が怒りに任せて照明を壊しただけかもしれないんだ、と期待しすぎる気持ちを抑えてドアノブを回す。
ガチャンと引っ掛かり、反動がきた。

鍵がかかっている!

それはつまり、留守ということ。真澄はほっと胸を撫で下ろした。
ポケットから鍵を取りだし、鍵穴に差し込んだ。錆びて噛み合わせが悪いのか、立て付けの問題か、なかなかすんなりと解錠できない。
ようやく鍵が一周し、玄関が開いた。
なんでもいい、早く寝たい。真澄が願うのはそれだけ。
あの男がいないという事実ほど嬉しいことはない。
ドアを開き、室内に飛び込む。

「……って、」

けれど、すぐに何かにぶつかった。
何、と見上げて数秒。暗闇にぎらりと光る視線を真澄は捉えた。
冷気に撫でられたように、さあっと全身に鳥肌がたつ。

「……ンだよテメェ、クソガキ…………どこ行ってたんだよ…………ア?」
「…………違、ちがくて…………」

達男は、家にいた。電気がついていなくても、鍵がかかっていてもいる時もあるのだと覚えていなくては。頭の冷静な部分が働いたのはそこまでで、瞬きの次には、弾けるような衝撃を食らっていた。

「口ごたえしてんじゃねぇぞクソガキ!!」

体が吹っ飛び、錆びた鉄柵が背中に食い込む。一瞬、月が見えた。
下はコンクリートの駐車場だ。二階とはいえ、落ちたら軽い怪我ではすまないだろう。真澄はぞっとして、慌てて柵から離れた。
達男はそんな真澄の首根っこを掴み、ゴミでも捨てるように家の中へ放った。
床に叩きつけられ、痛みに思わず背中が反る。何かが刺さった。割れた酒瓶か、ガラスの灰皿か。その正体も分からないまま、腹に重たい衝撃を受けた。踏まれたのだ。胃に収まっていた内容物が口から吹き出す。

「オエッ」
「オラ、クソガキ!お前誰のお陰で生きてると思ってんだ、ああ!?」
「うっ、ゲホッ、……っ」
「あいつに似た顔しやがって、お前、誰の子だよ、おいっ!」

意識が、飛びそう。瞬きをしたら、次はもう目を開けていられない気がした。
筋肉が弛緩していく。どこを殴られているのか、蹴られているのか、追い付くこともできない。

「クソッ……アァ?テメェ、漏らしてンじゃねえよ、汚ねぇな!」
「……はっ…………はぁ、…………」
「んとか言えよ!親父様の命令だそ!」

下腹部を思い切り踏まれ、潰れたカエルのような声が喉から溢れた。
視界が霞む。
男の獣じみた叫び声が遠くに聞こえる。
真澄はいつの間にか、目を閉じていた。

 

ある冬の日。古びたアパートでの暮らしは相変わらずだった。
学校に通いながら、年齢を偽ってアルバイトに明け暮れる日々。達男も時々仕事をしているようだが、長続きはしない。
タバコの吸い殻と酒の空き缶、外れ馬券やパチンコ店の広告が入ったティッシュなど、どうしようもない残骸が部屋を侵食していく。

その朝、暖房のひとつも無いような和室で、真澄は起き上がることが出来なかった。

新聞配達のバイトを無断で休んでしまった。
破れたカーテンからは朝日が十分に差し込んでいる。起きなくてはと思うのに、体が鉛のように重い。
異常なまでの寒気を感じた。布団に潜っているにもかかわらず、全身ががたがたと震えた。頭が酷く痛む。
ああ、やってしまった。風邪を、引いてしまったんだ。
絶望的な気持ちに打たれていると、乱暴に襖が開けられた。

「テメェ、おい、金稼いで来いや」

布団が剥ぎ取られる。刺すような冷気が襲ってきた。
体を起こそうにも、全身がふやけてしまったようで、どこに力を入れたらいいのか分からない。末端の感覚も、あまり無かった。
ぐいと腕を掴まれる。
手の甲にチリチリとした痛み。タバコの灰を落とされていた。
前髪の隙間からそれを確認したが、何も考えられない。感じない。
何も言わない真澄に興味を失ったのか、達男は手を払って和室から出ていった。殴られなかっただけ機嫌が良かったのかもしれない。
真澄は崩れるように布団に倒れた。

それから、たぶん、三日。真澄の熱は下がらない。
真澄の持ってくる日払いの給料が途絶え、パチンコで大負けした達男の所持金は底を突いた。

「おいっ、クソガキ!いつまで寝てんだよ!親父様のお帰りだぞ!」

布団の上から蹴り飛ばされ、真澄は目を開けた。
三日間、水以外のものを口にしていない。服も着替えていない。
真澄の意識は、高熱と栄養失調で混濁していた。

「…………ねえ」

張り付いた喉から絞り出した自分の声は、まるで他人のもののように、そして少しの現実味もなく聞こえた。

「金稼いで来いってんだろうが!クソガキ!」
「…………ねぇ、」
「あ?」
「………無理、だよ。…………働けない。も、……何も、……できない」

口角が上がった。目を囲む筋肉がぴんと張る。
自分は今、笑っている。

「…………もう、死んでもいい?」

達男がどんな表情をしているのか、窺い知ることは出来ない。
ただ、少しの沈黙の後、男が言ったその言葉だけは、今でもはっきりと思い出せる。粘りつくような下卑た笑い。

「…………まだ売るモン、あんじゃねえか」

 

バイトの掛け持ちは、必要がなくなった。

 

***当事者(前編):END

先輩

〝客〟は、学校の外だけではない。

外で知り合った人が学校の中にもいたということもあれば、どこで伝え知ったのか、あるいは分かる奴には分かるのか、校内で「お前、売ってるんだろ」と無遠慮に訪ねられることもあった。

イエスかノーで聞かれれば、当然イエス。
さすがに後輩にはいない(と思う)が、先輩や先生に買われることは、もうそんなに珍しくなかった。

小野一志先輩も、その内の一人。
最近知り合ったこの先輩は、性癖が歪んでいた。
屋上で首を絞められた時には冗談抜きで意識が遠のいたし、剥き出しのコンクリートに擦りむいた背中が痛かった。外で会ったときには全く面識の無い男を連れていて、そいつに犯される所が見たいとにっこり笑った。受け入れる義務はないけれど断る理由もなくて、言われるがまま従った。
外面も良く、外見だけは誠実そうな好青年然と整った先輩は、サディスティックな性癖を持つ変態だったのだ。
勿論、人のことを言えた道理じゃないってことは、痛いほど分かっている。

そんな小野先輩が今ハマっているのは、スカトロプレイ。
以前外で会った客ほどえげつない、ハードなものではないのが救いだ。

鞄の中で、無造作に突っ込まれた紙幣が丸まっていた。生きるために必要なもの。それら全てはこの紙切れで代替可能だ。信頼の社会システムの中に組み込まれたルールだけは、誰にでも平等で、慈悲の欠片も無いほど均等に配分されている。

崩れるのは、きっと一瞬だ。

***

眠気覚ましにコンビニでブラックコーヒーを買う。
缶コーヒー独特の、少しツンとした薄い味が嫌いだったが、それしかなかったのだから仕方がない。パキッとプルタブを引いて、薬と思って一気に飲み干す。
ごみ箱が近くに見当たらなくて、真澄はそれも鞄に押し込んだ。うんざりするような坂道を登って、緑に囲まれた校舎を目指す。

携帯がメールを受信したのは、ちょうど下駄箱から内履きを掴んだとき。
バイブの振動を感じて尻ポケットから取り出すと、小野先輩からの連絡が届いていた。

『今日の放課後ね』

周囲の雑踏が、ふっと遠退く。離人感とでも言うのだろうか。昼と夜が切り替わるように、曖昧で、それでいて明確なリセット。
その一文が意味するところは、取引の〝お誘い〟と、放課後までの排泄禁止命令だった。
真澄は目を伏せ、小さく溜め息を吐く。

「はい」返信を送る。

コーヒーの選択は失敗だったな、と、階段を上りながらぼんやり思った。
うんざりするような、毎日だ。

 

(あー……、トイレ、)

何事もなく時は流れ、午前中の授業が終わった。尿意を意識するようになったのは、午前最後の四時間目の途中。
下腹がむずむずしてきて、思わず時計を見上げた。前髪の隙間から時刻を確認する。今が何時だろうと、何時間我慢をしていようと、放課後に約束があるのだから、全く無意味な行為だった。
チャイムが響いて昼休みに入る。「便所行ってくる」「あ、俺も」という話し声を、羨ましく感じてしまう。
真澄は鞄から覗くコーヒーの空き缶を恨めしく睨んだ。

じっとしていると嫌でも気になってしまう。大丈夫、まだまだ全然、平気。
気を紛らせようと立ち上がり、購買へ向かった。すれ違う人とぶつかりそうになってヒヤリとする。殆ど本能的に下腹部を庇いながら、昼食にお握りとチョコレートを購入。喉が渇いていたが、余計な水分を取るのは躊躇われた。ああ、クソ、煩わしい。

手入れの行き届いていない校舎裏の、錆び付いたベンチに腰を下ろす。鬱蒼とした木々と、伸びっぱなしの芝生。透明な青空に見下ろされて、なんだかいたたまれない気持ちになって視線を地に落とした。

食欲はなかったが、半日過ごせば適度に空腹を覚える。包装紙を剥がしてお握りをもそもそと口に入れる。具材は塩鮭。咀嚼して、飲み込む。
人目が無いのを良いことに、イライラと貧乏揺すりを繰り返した。

──ちょっと、キツいかも。トイレに行きたい。

足を揺らす度、膀胱の中に溜まったおしっこが波打つような錯覚。その感覚も気持ち悪いのに、もうじっとしていることは出来なかった。
放課後って、いつだろう。
二年はあと二時間で終わるし、俺は部活も委員会もやってない。けれど小野先輩は、確かサッカー部のキャプテンだった気がする。もし今日が活動日なら、彼の言う放課後はその後──……もしかしたら、もっと先……

悶々と思考を巡らせ、はっと我に返る。こういうのが、先輩の思うツボなのだ。
朝になって突然メールで命令してきて、こちらの精神的余裕を削る。それが、先輩の大好きな歪み。
いったい、何をやってるんだろうな、と虚しさに包まれる。けれどこの商売をやめることは出来ない。自分には、これしかないのだから。
木々が擦れあうざわめきの中に、飛び込んできた無機質なチャイム。授業開始五分前を知らされる。慌てて食べかけのお握りを詰め込んで、ベンチから腰を上げた。戻りながら水道で口を濯ぐ。

水の流れる音に、膀胱がきゅっと縮まった。一瞬で冷や汗が吹き出し、背筋が凍る。
その場にしゃがみこんでしまいそうになるのを意地だけで堪えて、逃げるように手洗い場を去った。

あ、チョコ、置いてきちゃった。

***

五時間目が始まってすぐ、尿意は無視できないほどに膨れ上がった。脇の下に、こめかみに、嫌な汗が滲む。
ペンを持つ右手が震えた。
椅子に浅く腰掛け、何度も何度も足を組み替える。長い前髪の下、真澄の眉は苦しげに顰められていた。
教壇に立つ先生の話なんて、少しも頭に入ってこない。今考えられるのは限界を迎えそうなおしっこのことと、それをどうやって先伸ばしにするのかということだけだった。
ぐっと筋肉を緊張させ、少しでも意識を反らそうと手のひらをつねった。
太股がぴくぴくと痙攣する。
ポケットに手を突っ込んで、思い切り前を押さえたい。握り締めて、出口を塞いでしまいたい。けどそんなこと、教室で、出来るわけない。
話し相手も友達も、知り合いと呼べる人もいないこの教室だったが、それでも。

「ちょっと」

突然肩を叩かれて、文字通り跳ね上がる。振り返ると、後ろの席から訝しげな視線が向けられていた。
プリントを差し出している。どうやら後ろから送って回収されるらしい。

「あ、…………悪い、……」

受け取って、殆ど埋まっていない、白紙に近い自分のプリントを重ねる。

「なあお前、顔色悪くねえ?大丈夫?」

言葉が続いて、ぎょっとする。こいつ、誰だっけ。伊達眼鏡の向こうに、恐らく一度も話したことのないクラスメイトを捉えた。
何度も色を抜いたような、透けるような金髪。不審そうに寄せられた眉。

「………だ、大丈夫……ごめん」

顔を合わせないように前に向き直る。もしかして、尿意を我慢する、不自然な動きに気付かれてしまったのだろうか。 羞恥で、かっと血がのぼる。
そろり、ぎりぎりの攻防を担う膀胱の辺りに手を添えてみる。制服の上からでもはっきりと分かるほど、パンパンに膨らんでいた。

結局、次の時間、真澄は授業を抜けて保健室に向かった。体育の時間だった。ジャージに着替えたところで限界だった。誰もいないのをいいことに、入室記録も書かずにまっすぐにベッドへ向かう。「もうむり」小野先輩にメールを送る。
教室にいたって気を抜くと足は震えてしまうし、腰を揺らしてしまう。それを無理矢理押さえ込んでいるのだから、我慢は輪をかけてつらいものになっていた。
飛び込んだのはカーテンに仕切られた空間。視線に晒されることのない安堵から、もう形振り構うことはできなかった。

せわしなく太股を擦り合わせ、足をばたつかせる。
下半身を上下、左右に揺らす。真澄のジャージには柔らかいシワが細かく寄り、ベッドのスプリングが軋んだ。
細い出口を求めて暴れる奔流が苦しくて、吐き気までしてきた。
悔しさと、情けなさと、あらゆる方向に苛立ち、舌打ち。
狭いシングルベッドの上を転がるように、何度も何度も体勢を変える。「うう、」と唸り声が漏れる。
クッと乾いた笑い声が、聞こえた。

「そんなにおしっこしたいの、真澄」

上機嫌に微笑みながら、小野先輩がカーテンの向こうに立つ。はっとする。来た。カーテンの隙間から滑り込んでくる先輩は、スキップでもしそうな足取りだ。クソ、変態、と心の中だけで悪態をつく。真澄は半身を起こし、すがるようにその長身を見上げた。両足は相変わらず、もじもじと動きを止められないでいる。

「おの、せんぱ、」
「なに?」
「もう、むり、無理」
「ふうん?」

小野先輩はそろりと指を伸ばす。真澄の下半身を撫でるように触れた。ジャージの隙間に指先をちょんと潜らせる。ゴムをぱつんと弾かれて、情けない声が漏れた。勿体付けたその動作。ぜったい、たのしんでる。

「おのせんぱ………、ッ、」
「どうしたの真澄」
「トイレ、行かせて……むり、もう、ほんとに、………」
「トイレに行って、どうしたいの?」

屈んで、目線を合わせて。にっこりと完璧な微笑を浮かべ、真澄の頬に触れる。伊達眼鏡を抜くように外す。長く重い前髪をよける。泣き出しそうな双眸を縁取る睫毛には、涙が絡んでいた。瞬きの度にぽたぽたと落ちる雫を、先輩は親指でこするようにする。からだのどこを触られても、もうだめだった。

「おしっこ、させてください………」
「そう」

真澄の懇願を満足そうに受け取って、目を細める。その微笑みのまま、肩をぐいと押されて、真澄はベッドに仰向けになる。限界まで膨らんだ膀胱が、さらに伸ばされる。きゅうっと収縮。少しも気持ちよくなんてないのに、小野先輩はヤってる最中のような顔をする。
仰向けになって、我慢のまったく効かない体勢で、立てた膝ががくがく震える。上下に激しくすり合わせる必死の抵抗を、先輩はあっさりと封じた。膝を上から押さえて、まるで介護でもするように両手で真澄の足を真っ直ぐにする。動きを止められた真澄は、嗚咽混じりの悲鳴を上げる。

「むりむりむり、やだ、むり、出ちゃ、………っ」

トイレに行きたくてたまらない。朝から溜め込んだ一日分の水分が、一ヶ所に集まって、真澄の内側を攻め立てる。

「これ、あれだね。真澄におしっこ我慢させるのはいいけど、可愛く我慢してるところ、見られないのが問題だね。学校だとさ。ねえ、こんなエロい姿誰かに見られなかっただろうね」

言いながら、先輩は薄い布団をそっとかける。邪魔だと真澄が端に追いやっていたやつだ。どこまでも歪んだ先輩は、残酷な一言を平気で落とす。

「じゃあ、放課後にね」
「は………!?」
「だって、朝そうやってメールしたじゃん。今俺、授業中。自習だけどね」

耳を疑う。
手をひらひらさせて、本当に出ていこうとする背中。慌てて先輩の名前を呼ぶ。小野先輩と呼んだのか、一志先輩と呼んだのか、定かではない。
クラスメイトの名前は覚えられないのに、覚えてたって仕方のない客の名前は学校の中でも外でも記憶に残る。
優しくしてほしいなんて思わない。

「う………、やだ、今……したい、」

いろんな感情がないまぜになって、両目から溢れた。
先輩は、満足そうに、頷く。

「ああ、泣いちゃったねえ。早く素直になればいいのに」
「………ひっ、う、」
「ちょっと待っててね」上機嫌に歌い出しそうな口調で、先輩はふらりとカーテンをくぐる。戻ってきたときには、両手に白いタオルを掴んでいた。

横になっているのはどうしてもキツくて、ベッドの端に正座して、震える両手で握り締めて、先輩の言葉を待つ。指先の感覚も、張りつめた下腹の感覚も、鈍い。

「備品だけどいいよね。たくさんあったし」
「………なに」
「はい。持っててあげるね。おしっこしていいよ」

先輩は床に膝をついていて、小刻みに体を震わせる真澄を見上げる。「は」「なに」理解できない。嫌な予感に、ぞっとする。
先輩は指を重ねて、ジャージを下ろそうとする。ひやりとした空気が隙間から入り込む。

「え?なに、えっ?」
「だから、これにしなさいって」
「いっ、いやだ、」
「トイレまで歩いて行けんの?」

笑みの含まれた、意地の悪い問い掛け。見上げているのは先輩なのに、手のひらで転がされているような感覚。
流されていた方が楽なこともあるってことくらい、知ってる。

「俺、制服の方が燃えるんだけどね、ほんとは」

ズボンを下ろされ、下着をずらされ、じんじんと痛みさえ訴える性器を取り出され。べつに排泄ための器官が性器じゃなくてもいい気はするのだが、とか、そんなことを思う。せり上がる尿意に呼吸がどんどん乱れていく。

「すっごい。真澄細いから、目立つね。すごい我慢、してるんだ」

本当に感心したような声で、ジャージの上までまくって膨らんだ下腹をまじまじと眺める先輩。外からの光と蛍光灯で明るい室内で、全裸になるよりもずっと恥ずかしいはずなのに、頭の芯が痺れている。殆ど自棄になっていた。
誰のせいで!クソ野郎、ど変態。喉の奥だけで、大声で叫ぶ。

「あ、」

気を抜いた瞬間、じわっと尿道が抉じ開けられる。背中にざわっと鳥肌が立つ。
射精するとき、みたいだ。

「おっと」間一髪、先輩のあてがったタオルに、放尿。これは、漏らしているのかな。白地の布におしっこが染み込んでいく。

涙が落ちて、伝った頬に先輩は満面の笑みでキスをする。愛情ではない。これは、愛着?それとも執着?
止まらないおしっこを、先輩はタオルで受け止める。気が遠くなるくらいだ。二枚のタオルが犠牲になった。悔しいけど、排泄できた快感はたまらない。

 

「キレイにしてあげる」

 

言うが速いか、排泄を終えたばかりの性器を先輩は躊躇いもなく咥え込む。頼んでもいないのに。サディスティックな性癖の先輩は実はマゾなんじゃないだろうか。言葉の通り、裏側も、窪みも、丁寧に舌が這う。腰に鈍い痺れが走る。心の中で先輩に向けた暴言は、みんな自分に降ってくる。皮肉な毒を持った言葉の槍に、視界を塞がれ真っ暗になった。

されるがまま流されながら、天上を見上げる。世界から音が消えていく。カーテンの向こうに窓が少しだけ覗いていて、そのさらに向こう側は夕焼けの色をしていた。

 

「実は、鍵、閉めてあるんだ」

 

呪いのようなものだった。

行為が終われば先輩は万札を二枚、ご丁寧に手渡しするのだろう。学生のくせに、どこからそんなお金が出てくるんだ。そんなことは追求したって仕方がない。
いずれにせよ、この紙幣二枚で、今月の光熱費と水道代は支払える。
それだけが、平等なルールの中の、客観的な事実。

 

***先輩:END