関係者A

放課後、特別補講が開かれる。

「榎本」

廊下ですれ違いざまに呼び止めると、息をするように振り返る背中。
櫛も通していないようなボサボサの髪型に、野暮ったい眼鏡をかけた榎本真澄は、視線を合わせずに「はい」と言った。

「放課後、進路指導室に」

それが意味することには、暗黙の了解があった。榎本真澄は名前を呼ばれた時と同じように、抑揚の変わらない声でもう一度はいと返す。
顎を引くように軽くお辞儀をして、教室の中へ去っていった。

 

生きている気配を殺したような彼、榎本真澄は、教員の一部では有名人だった。
高校二年生とは思えないような落ち着きと、達観した視線。それは全て諦めに由来するものだと、最近になって気が付いた。
両親の離婚で一年のうちに名字が変わったが、今は父親と一緒に暮らしているらしい。父親が婿に入っていたのかとまず浮かんだが、どうやらそういう訳でもないそうだ。要するに、榎本真澄は戸籍的には他人となったかつての父親と、日々を送っているのだ。

国語教師である自分が〝榎本真澄〟としての彼に初めて会ったのは、昨年の秋。突然の病休となった前任の国語教師の代わりとして、臨時採用になったのだ。
しかし、彼自身に出会ったのは、もう少し前の出来事。
去年の春、最寄り駅の裏側、少し離れたところにある公園で。
そこはいわゆるハッテン場で、そういう目的をもった男がごろごろと集まっていた。

「木戸ちゃーん、なぁに、そんな湿気たツラしちゃって。木戸ちゃんもたまにはこういう所で発散するべきよぉ」

やたらシナを作った口調でベンチに腰かけるのは、よく行くゲイバーで知り合ったオカマのジェニー。無国籍風な風貌に違和感のない名前だが、もちろん自称だ。
極彩色の派手な服装に、同じく派手な長い金髪を後ろで一つに結っている。度重なるブリーチで痛んだ毛先はほとんど死んでいる。とんでもない格好だが、ジェニーには不思議と浮かずに似合っていた。
好んで着る服は女物ではなくユニセックスで、性転換手術も受けるつもりはないという。
女になりたいわけではないが、男でもない。
この世界は思っていたよりずっと複雑にできていた。
普段はインテリアデザイナーとして働いているが、ストレスがたまると近場の(と言っても職場からは離れた)ハッテン場に繰り出し、後腐れないその場かぎりの相手を漁るのだとあっけらかんと言っていた。金銭の授受は面倒なことになるのを避けるため絶対にしない。それが、この男のポリシーだという。
「これから西口の公園行くけど、木戸ちゃんもどーお?」そんなふうに誘われた。電話の向こうで声が弾む。
採用試験を受けず、講師として複数の学校に勤務したり、塾で働いたりする毎日に飽き飽きしていた自分は、あっさりとその提案に乗った。
ゲイだと自覚したのはもう遥か昔。長いこと特定の相手もおらず、朝目が覚めても誰もいない。夜はもっと一人だった。

「木戸ちゃんこういうとこ初めてよね。いい?未成年とゲンナマちらつかせる奴には手ぇ出しちゃダメ。さくっと一発慰めてくれそうな奴をね、こーやって見分けるのよ、こうやって」

指を丸くして、双眼鏡のように当てて辺りを見渡すジェニー。「アタシは狩人なのよ」と言う。どこまで本気か分かったもんじゃない。
突然「あっ」と低い男の声を上げる。「イイ男はっけ~ん!じゃ、木戸ちゃん、まったね~」そう言いながら立ち上がり、軽い足取りで跳ねるようにベンチを去っていった。
唐突に一人取り残された俺は、呆然とその背中を見送るしかなかった。

さて、どうしたものか。夜も深くなり、如何わしい雰囲気は一層密度を増した。制服姿の学生らしき姿も見られるが、未成年のブランドを切り売りするのが本物の学生なのかは定かではない。
よく分からない場所だし、今日はもう帰ろうか……そんな風に考え始めた時だった。
ベンチが重みで軋んだ。
はっとして横を見ると、年齢のつかめない男──いや、少年が座っていた。

「何だ、君………」

久しぶりに自分の声を聞いた、気がした
彼は長い前髪を流し、ぱちぱちと瞬きをする。猫に似た双眸がこちらをじっと覗き込んだ。やたら大きな、水分を湛えて吸い込まれそうな瞳。
紺色のパーカーに、薄いブルーのストレートジーンズ。黒いナイキのスニーカー。取り立てて目立つ格好ではないのに、思わず視線を奪われるほど、整った外見をしていた。
こんな安っぽい蛍光灯に晒されるのは勿体ない、というか、こういった場所が恐ろしく似合わない。

「ねえお兄さん、僕を買う?」

妖艶という言葉がぴったりの微笑みを浮かべ、小首を傾げる少年。

「未成年と、金はダメ」頭の中でジェニーの忠告が駆け巡る。警鐘が鳴り響く。

こんなの、間違っている、危険だ。理性が脳みその外側で叫んだ。

「一晩、どう?」

ベンチが錆びた音を立てる。少年が身を乗り出すように動いた。冷たい手が、触れる。
唾液を飲み込んだ。喉が渇いて張り付いている。
目の前には、にっこりと、天使のような微笑みを浮かべる、悪魔。
あるいは、美しい鬼の子。

この日は、自分がいかに誘惑に弱く、快楽に流されやすい質なのか、自覚することになる。

***

翌朝、ホテルで目覚めた時には、彼はすでに身支度を整えていた。

「お兄さん、お金」

開口一番、そう告げる。体温と同じくらい冷めた声音だった。
そうだ、これはビジネスだ。需要があって、供給がある。まったく良くできたシステムだった。

「……幾ら、払えばいいんだ、」

寝惚けてはっきりしない頭で応じる。ガリガリと頭を掻き、枕元に手を伸ばすも空振り。そうだ、ここはホテルで、自分の部屋ではない。サイドテーブルにもタバコはない。
彼は少し考え、うーんと唸ってから「最低三万」と俺を見た。
相場なんて知らないから、この金額が高いのかどうかも分からない。どうにでもなれ、と、昨夜ホテルに入った時から腹をくくっていた。

「そこの鞄……黒い財布が入ってるから、そっから抜いてけ。俺はまた寝る」
「えっ」

チェックアウトは昼の十一時。布団に潜り込むと、その向こうから驚いたような声が聞こえた。
再び睡魔が忍び寄ってきた頃、毛布が捲られて光が差し込んだ。
一万円札が三枚、眼前に掲げられる。

「……ねえ、これ、貰っていくからね。ちゃんと三枚だから確かめて」
「…………なんだ、お前」

変な奴だと思った。金儲けのためにやっているのに、自分を売り物にしているくせに、素直なんだかバカ正直なんだか分からない。欲望の方向性が掴めなかった。
「……別に、もっと取ってっていいぞ。……ろくに入ってないがな。ああ、カードはやめてくれ」寝返りをうって彼に背を向ける。早く一人になりたかった。
結局、こんなことは〝ひとり〟を浮き彫りにする一瞬の慰めにすぎないのだ。
もう当分は、ジェニーの誘いになんか乗らないと決めていた。

「…………お兄さんお金持ちなの」
「……そう見えるか?」
「……じゃあやめておく。三万貰っていくね。……お兄さんこういうの向いてないよ。いつか騙される。じゃあね、ばいばい」

深追いする気なんて一ミリも無かった。もちろん、もう一度関係を持つ気も、脅す気も。

「お前、名前は?」

けれど、ただ何となく気になってしまったのだ。
物音ひとつしない沈黙の後、彼は小さく「スズハラ」と呟いた。本名かどうかなんてもちろん分からなかったが、それでよかった。

「お兄さん本当に向いてない。マナー違反だよ、変な人」

入り口のパネルを操作する音が聞こえて、それから薄い扉が開き、閉まった。
静寂が訪れる。

「あーーあ」誰もいない広い部屋は、俺の溜め息だけを受け入れた。

***

それから数ヵ月後、臨時講師として採用された高校で彼と再開したときは、文字通り頭を抱えた。

乱雑な髪型と黒縁眼鏡。一見あの夜の面影は無かったが、視線が交わって直感した。
それは向こうも同じだったようで、露骨に「あ」という顔をした。
慌てて名簿を確認するも、しかしスズハラという名字はない。やはり偽名だったようだ。

初回の授業のあと、放課後、俺は彼に声をかけた。
廊下で話す内容でもないだろうと、すぐ隣の進路指導室に滑り込む。

「あーー、あのな、人違いだったら忘れて欲しいんだが、お前あのときのスズハラか」

前髪の隙間から覗く表情は、ぴくりとも動かなかった。
あれ、と少しの違和感にひっかかる。

「そうですよ」

驚くほどあっさりと、彼は認めた。口には笑みさえ浮かんでいる。
こいつ、本当にあの時の少年か?

「やっぱりスズハラは偽名か。まあ別にいいけどな、まさか会うとは思わなかったし」
「……別に嘘ではなかったんだけど……俺は、榎本です、榎本真澄。よろしくお願いします。……センセイ」

言いながら軽く頭を下げる。ますます、妙な感じがする。そういえば一人称も、「俺」になっている。
それに全く覇気のないこの口調。
あの公園では、もっと生き生きとしていた。

「お前、その、前会ったとき……から、そんなんだったか。格好も、言葉も、全然」
「違うって?」棘のある声。

後ろめたさから伏せていた顔をはっと上げると、そこにはあの時の彼がいた。
不敵で強気な、片目を細めて微笑む、少年と青年のちょうど真ん中。

「だってそうでしょう。変装、みたいなものだよ。それに俺、ここで浮いてるから、これくらいでちょうどいいんだ」

公園では素顔で振舞い、学校で変装をするなんて、これもおかしな話だ。けれどこれ以上の追求はやめた。自己の保身も、同然含んでいる。

「心配しなくても、先生のこと言わないよ。それより、どう?ここで……溜まってるんじゃ、ない?」

言うなり、床に膝をついて榎本真澄は俺を見上げた。ガラスレンズの向こう、濡れた目が光っている。

「バカ、やめろ、おい」

彼の細い指が、スラックスのファスナーに伸びる。隙間から冷たい感覚が侵入する。
素肌に触れられ、ぎょっとして思わず仰け反った。ご明察というか、何というか、実際何もかもご無沙汰だった。三十も半ばを過ぎると疲労感が勝るのだ。勿論そうでない場合もあるのだろうが、少なくとも俺はありとあらゆる欲望に鈍感になってしまっていた。

「おい、スズ……榎本、」

制止する間もなく、榎本真澄は下着から取り出したモノを、なんとそのまま咥え込んだ。
舌先が隅々まで走り、窪みを刺激する。相変わらず冷えた彼の指先とは対照的に、あっという間に熱を持ったそれはガチガチに固くなった。背筋がぞくりと痺れる。意識が点滅する。まずい、これはまずいだろう、さすがに、いや、でも──……

頭の中の冷静な部分が、溶けた。呆気なく果ててしまった事実に打ちのめされそうだ。脳裏を転がるのは男としてのプライドや、常識や、社会通念。いや、そんなことはどうだっていい。それ以前に、何もかもが狂っている。

まるで悪夢だ。

「おえっ、ぺっ、……ぺっ、」

置かれていた備品のティッシュを数枚抜き取り、榎本真澄は口に含んだものを吐き出した。飲まれなくて良かった、と、そんなことをぼんやりと考える。俺は脱力して、デスクに凭れかかった。

「先生、ソーロー?」にやりと笑みを浮かべる。ティッシュに精液を吐いていても、綺麗な顔は少しも乱れていなかった。
「アホ、お前なあ、……」
「内緒ね、お互いに。じゃあ、さよなら。失礼します」

なるほど、そういうことか。バレて困るなら、こんなこと、早く止めれば良いものを。

「おい、ちょっと待て」膝を払って立ち去ろうとする背中を呼び止める。

振り返ったその胸に、一万円札を押し付けた。

「……どういうつもり」

榎本真澄は、視線を警戒心で尖らせる。

「そういうことにしてもらえないと、俺が困るんだよ。黙って受けとれ。お前は売って、俺は買った。ビジネスなんだろ、お前の」

驚いて目を見開く榎本真澄。そうすると、本当に大きな瞳だった。

「……先生、バカじゃないんだね。……でも、向いてない。そうだよ、俺の商売だ」

そこまで言って、ふと俯いた榎本真澄は、押し付けられた紙幣を恐る恐るといった感じで受け取った。

「……そうしないと、生きていけないんだ」

えっ、と聞き返す隙も与えられず、一瞬垣間見えた闇はすぐに引っ込んだ。万札を受け取り、微笑みながらポケットに突っ込む。

「じゃあ、先生またね」

さようならが〝またね〟になった、地獄のような秋の終わり。これが、榎本真澄との出会いで、再会だった。

***

それから月日は流れ、榎本真澄が進級して二年生になってからも、この関係は続いた。放課後の進路指導室で、彼の取り引きは行われる。気が向いたら呼び止めて、体を重ねた。なぜこんなことをしているのか、稼いだお金を何に使っているのか、そういうことは一度も尋ねなかった。

榎本真澄との関係は教師と生徒ではなく、自分は彼の客だったからだ。

学校での彼は、とにかく全くと言っていいほど馴染んでいなかった。

いじめとまではいかないものの、少なくとも友好的な雰囲気は感じられなかったし、彼もそれを改善する気はないようだった。

そして気付いたのは、たまにすれ違うと酷い顔色をしている時があるということ。

階段で蹲る彼を見掛けたときは、教師として本当に心配した。

保健室の来室記録を見せてもらうと、かなりの頻度でここに来ている。ある時は九度以上の高熱で倒れており、なぜそんな体調で学校に来たのかと問い詰めたくなった。

 

再会からちょうど一年が経ち、また秋がやってきた。

校舎の周りに高い建物は他になく、坂の上に建つ立地から、見下ろす限り一面の紅葉は圧巻である。この季節は郷愁を連れてくる。

職員会議が行われたこの日、教務室はちょっとした騒ぎにになっていた。
二年一組の担任宛に、一件のメールが届いたのだ。件名も本文もなく、あるのはいくつかの添付ファイルだけ。ファイルを受信して開いてみると、それは写真だった。
数枚の写真は、無言であらゆる事実を語った。
それは、榎本真澄の写真だった。
薄暗い公園で二人の男に囲まれ、何か──おそらく紙幣──を受け取っている。そしてそのうちの一人と連れ立って歩いていく姿まで。

「全く……どこですかねえ、ここは」年配の誰かがそう呟いたが、俺にはすぐに分かった。これは、あの公園だ。

しかも、比較的最近撮影されたものだろう。小さく写る電線工事のビニールカバーは、先月にはなかったはずだ。
ここ数日、彼は特に具合が悪そうだった。連日あの公園に通っていたのだろうか。こんな風に無茶をしていたのなら当然の結果だろう。
画面を食い入るように見つめる担任の顔色も蒼白だった。眼鏡のレンズがブルーライトを反射する。

その日は校長が会議の後から出張で、理事長も不在だったため、ひとまずは担任からの生徒指導を行う結論に落ち着いた。
画像が暗く不鮮明で、ここに写る生徒が本当に榎本真澄であると断定できない……というのが、その理由だった。
「本人に確認して、厳正に指導します」担任は震える声でそう言った。正直この教員はそんなに指導熱心な方ではないし、こんなにもショックを受けた姿は言っては悪いが意外だった。

そして、放課後。メールひとつで榎本真澄を進路指導室に呼んでいる。相変わらず、一万円札三枚で繋がる取り引きだ。
昼間見た写真のせいで、なぜか虫の居所が悪かった。
臨時講師にそこまで多くのタスクはない。放課後までには終わる仕事を片付けて、進路指導室に向かっていると、ちょうど彼の背中が見えた。
部活の始まる時間帯。外から運動部のかけ声が聞こえ、廊下には既に誰もいない。
後ろから近付き、その腕を掴んだ。
ぎょっとした表情で振り返る榎本真澄。俺を認めて、なんだ先生か、と呟いた。

「やろうぜ」

下品な誘い文句だと、我ながら思う。待って、と垣間見えた動揺を無視して狭い教室に潜り込む。後ろ手で鍵をしっかりと閉めた。

「ちょ、ちょっと待ってよ、何、急に」

放課後に約束をしていたくせに、珍しく抵抗するからどうしたのかと思う。
待ってと繰り返す榎本真澄を無視し、ネクタイを緩め、彼の履いている制服の下に手を伸ばす。彼は過剰なほどびくりと反応した。
耳に噛み付くと、強い力で押し返された。

「だからっ、ちょっと待ってって……!」
「どうしたんだよ、珍しい」

怪訝に思って顔色を窺うと、榎本真澄は真っ赤になって視線を逸らした。肌が白いからよく分かる。 こんな様子を見せるのは初めてだった。
「何、どうしたの」質問には答えず、ぐいと俺を押す。そわそわと腰を動かす姿を見てぴんときた。けれど同時に、意地の悪い心も起き上がる。虐めてやりたい。羞恥に染まる頬を、もっと見たい。ドロドロと醜い加虐心がこれまで自分の中に眠っていたのだという事実に驚きながらも、自分を制御することができない。
壁に寄りかかった体勢で、曲げられた太股を辿るようにそろりと撫で上げると、彼はひっと息を詰めた。

「どうしたの」もう一度聞く。

榎本真澄は、観念したように溜め息を吐いた。

「……トイレに、行こうと思ってたんだよ……っ。ちょっと待ってて、戻ってくるから」

食欲も性欲もほんとうはたいして無いくせに欲望を売り物にして、そのくせトイレに行きたいと排泄欲を恥ずかしがる。
彼がこんなに抵抗して、恥じらう姿は珍しかった。

「そうか。じゃ、我慢だな」
「はあ?」

押し返す両手をまとめて掴み、自由を奪う。そうされてしまうと非力な彼にできる抵抗はなくなった。下着の中に手を突っ込んで、彼の震える性器を手に収める。細い体をうねらせて、必死の表情で尿意をやり過ごそうとする様に、衝動が背筋を駆け上がった。手の甲で膀胱の辺りをぐっと押してやると、彼は隠すことなく矯声を上げた。びくびくと震える下腹を絶えず刺激して、そうしながら、尿道口を締めるように包んで、握る。

「ひっ……。ね、ェ、本当に待ってって………ッ、あさから、ずっと行けてな……っ」

先端から、微かに温かいものが溢れる。咄嗟に太股を閉じて擦り合わせるも、俺の手が邪魔でうまくいかないようだった。
両手の拘束を解いてやると、ばっと隙間にその手を差し込む。腰を曲げて必死に押さえる様子がやたらと扇情的で、俺は彼のシャツの下、薄い胸に右手を這わせた。「やだ」「やめて」うわごとのように呟いて、熱い呼吸が歯の隙間から逃げ出す。呼吸がでたらめに乱れる。激しく巡る血流が沸騰しそうだ。

「っ…………まって……本当に、漏れる、からぁ……」
「だから、俺が押さえててやるって」

朝から我慢してる尿意なんて、自分にはとても想像が出来ない。なぜこんなに我慢したのだろう。
行こうとして学年で折り合いの悪い生徒と鉢合わせたのかもしれないし、単にそれほど切迫せず、後回しにしてしまったのかもしれない。
いずれにせよ今の彼が相当差し迫った危機にあることは変わらないし、俺が彼を手洗いに行かせる気が無いのも事実だった。
それに今、俺は彼を三万円で買っている、彼の客。自分達を繋ぐこの行為も、愛し合っている人達のそれではなく、欲望を満たすための動物的なセックスだった。

「あ、……あっ……ぁ」

いよいよ立っていられなくなった榎本真澄は、壁を背にずるずるとしゃがみ込む。足踏みをする余裕もない。
太股が、膝が、がくがくと揺れていた。

──おそらく、彼も途中からビジネスだと割りきっている。最初こそ抵抗を見せたが、本来の関係を思い出したのか、今は従順だ。嫌がって見せるのも、ある種のパフォーマンスなのかもしれない。

不規則に捩る腰を浮かせて、後孔に指を一本、二本と増やしていく。ゴムの持ち合わせが無かったので、今日は指だけにしておこう、と、妙に冷静な自分に驚いた。指の腹が奥の一点を掠める度に、ぎゅうっと付け根を押さえ込む。

「ひっ、……ぅ、…………やぁっ……」

両目にいっぱいの涙を溜めて、唇をきつく噛む。

「………も、……もうむり、無理………っ、」

半分だけ下ろされたズボンは、足の自由を奪っていたんだと思う。身じろぎして動かす度、ベルトがカチャカチャと音を立てた。
榎本真澄は自分で自分を支えることがもう困難で、上半身も半分以上床に預けていた。
きつく握り込まれる彼の性器も、おしっこが溢れそうな先端も、俺の指を咥え込んだ後ろも。全てが明るいところに晒された光景は、欲望が生々しかった。
薄い腹と骨の浮いた窪み、その真ん中で下腹部だけパンパンに膨らんでいる。
一日分の老廃物が、ここに溜まっているのだ。

「イッてると、小便出ないって聞いたことあるけど、本当かな?」
「しっ、知らない……そんなの……っ」

酸素を失った金魚のようにぱくぱくと口を動かす。快感と尿意と、それから羞恥心も加わって、もうどうしたら良いのか分からなくなったのかもしれない。
彼のいいところを続けざまに刺激してやると、声にならない悲鳴を上げて溜め込んでいたものを放出した。最初はたらたらと溢れるくらいの勢いだったのが、徐々に筋肉が緩んで弧を描く。はだけた彼のシャツにも、俺のスーツにも、彼のおしっこがかかる。
これは彼のビジネスで、俺は顧客。そう頭のなかで唱え続けることに必死で、もしかしたら、きっと、俺も演技をしていたのかもしれない。

全て出しきって放心状態にある榎本真澄は、切れた唇もそのままに天井を見上げた。
頬を涙が伝う。
手持ちのスポーツタオルでは、床に広がった水溜まりを吸いきれなかった。
俺も脱力感に包まれて、反対側の机に寄りかかって目を閉じる。

「…………お前の写真、学校のメールに届いてたぞ」
「……はあ?」

見当がつかないのか、思考を放棄しているのか、何の話をしているのか本当に分からないといった顔。「公園の」と一言添えれば、合点がいったようだった。へえと相槌をうったきり目を閉じる。
少しは焦りでもするのかと思ったが、本人は呑気に「大変だね」と力無く呟く。

「バレたらやばいんじゃないのか」
「……別に。……もう担任も……俺の客だもん。今頃向こうも色々勘ぐって、……焦ってるんじゃないの」

何でもないことのように、彼はとんでもない爆弾を落とす。あの担任が青ざめていた訳がようやく理解できた。
一体こいつは、何がしたくて、何があって、こんなことを続けるのだろう。
臨時講師で取り引き相手の一人である俺は、やっぱり深入りを避けた。
「そうか」とだけ返して、彼の服を整えてやる。
保健室からタオルを借りてくるために、その教室を後にした。

絡みつくような彼の視線を断ち切るように、ドアを閉める。
そうでもしないと、彼の引力に負けてしまいそうだったから。

 

これきり、彼との三万円の時間は二度と作らなかった。

 

***関係者A:END

目撃者A

鞠谷圭太は可愛かった。

小さい頃から可愛い可愛いと言われ続け、「お人形さんみたい」「女の子のよう」と例えられた。姉のおままごと道具の手鏡を見て、これが自分の顔かと目を合わせたことを覚えている。
可愛いという形容詞に違和感を覚えたのも束の間。賢い鞠谷はそれを利用することにした。それも、隅から隅まで、余すことなく。
学んだのでも教わったのでもなく、感覚で自ずから身につけた処世術だった。

大人たちを思い通りに動かすのは簡単だった。
幼い鞠谷にとって大人は二種類。
最初から笑顔全開で、人懐っこくしていれば簡単に「可愛い」「良い子」のレッテルをくれる存在。
あるいは、最初は人見知りの風体で様子を伺い、徐々に笑顔を出していくことで「まあ可愛らしい!」と落ちてくれる存在。
ことあるごとに服の裾を引っ張って、ありがとう、と微笑んでしまえば一瞬だった。

同性相手でもチョロいもんだった。
大人しいキャラではなかったから、一緒になってバカみたいに遊んで、つるんで。
そして時々、弱って見せるのだ。
鞠谷はお稚児さん扱いよりも、愛されるクラスの中心でいることを選んだ。その方が、何かと好都合だったのだ。不注意で足を骨折した時なんかは、クラスメイトが一から十まであらゆる手助けをしてくれた。

先輩になるともっと簡単で、ニコニコと愛想を振りまいて過剰なまでに持ち上げておけばイチコロだった。中学時代には共学にも関わらず、同性五人の先輩に告白された。どうやら、自分の顔やキャラクターは同性にも、〝そういう意味〟でウケるらしい。
男子校に行こうかとも思ったけれど、人並みには女の子が好きだったからやめた。
それに、わざわざむさ苦しい所に飛び込まずとも、鞠谷は持ち前の可愛い容姿を十分に生かすことが出来たのだ。
とは言えチヤホヤされるのは満更でもないため、サッカー部で活躍しながらも柔道部のマネージャーを掛け持ちしたり、そんなことをしていた。

異性相手、つまり女子は一番最初が肝心だと、経験的に感じていた。
けれど異性から嫌われることはまず考えられなかったので、笑顔で、優しく、時には面白くふざけてみて、適当に過ごせば問題なかった。

そういう訳で、鞠谷圭太は本当に賢く、自他共に認める可愛さを存分に発揮して生きてきた。先生にも先輩にも気に入られ、気さくな姫としてフランクで、それでいて丁寧に扱われる環境を作る術に長けていた。

だから、高校に入学し、入学式で彼とすれ違った時、抱いたのは〝敵意〟だった。
可愛い可愛いと持て囃されても、それはあらゆる計算と計画の上に出来上がっているもの。所詮本物には敵わないと、鞠谷はちゃんと自覚していた。
初めてその本物の存在を知った時、一目で自分の立場が脅かされると直感した。
可愛いというだけで全て自分に甘く、好都合に可塑的な環境。その城が崩される危険を初めて感じた。
すぐに彼の名前を調べようと躍起になった。

 

鞠谷圭太にとって初めての脅威の名前は、鈴原真澄と言った。

 

鈴原真澄は、一切手の掛かっていない起き抜けのような髪形と、ダサくて地味な黒縁眼鏡をしていた。ひょろりと不安定な体型も相まって、一見するとただのオタクか、いわゆる暗い男子の印象を受ける。
けれど鞠谷は、まずその眼鏡が伊達だとすぐに気がついた。
そして、その下には珍しいくらい整った顔が隠されていて、透けるような肌や薄い唇に釘付けになる。その性別不詳な人形を思わせる風体は鞠谷にとって地味だなんて微塵も思えない、まさに〝脅威〟だったのだ。

一年の時は、全く別のクラスだった。顔を見ることさえなかった。
近隣でも有名なマンモス校で、同じクラスになる確立はかなり低いのだということに、鞠谷は密かに安堵した。
だけど同時に不安も膨らんだ。自分の知らない所で自らの城が侵略されていたら。もっと言うなら、鈴原真澄が自分の立場に取って変わろうとしていたら。そんな危惧をしていた。
一度あまりに気になって、鈴原真澄のいるクラスを探し出し、そこにいる友人に話を聞いてみたりもした。
返ってきた返事は、「スズハラ?そんなやついたっけ?」「あの暗ーい眼鏡だろ」。
鞠谷には鈴原真澄が暗いどころか、寧ろ発光しているようにさえ見えていたため、その反応が理解できなかった。

二年に上がった時だった。
掲示されたクラス表を見て、鈴原の名字がないことにほっと胸を撫で下ろす。
取り敢えず、この一年は平和に暮らせそうである。
しかし教室に向かうと、なんと壁側の席に鈴原真澄が座っていたのだ。
鞠谷はぎょっとして、慌てて卓上の座席表に目を通す。

鈴原真澄は、榎本真澄になっていた。

名字が変わるということは、それだけでイレギュラーな事情が垣間見える。
鞠谷は榎本真澄を取り巻くほの暗い雰囲気に、知らず知らずのうちに惹かれていた。
それはもちろん、敵意を媒介として。

「鞠谷、最近さ、……えーっと、何だっけ、そう、エノモトのことよく見てるよな」

だから同じクラスの友人からそう指摘されたときは、思わず頬が引きつった。
昼休み、いつもの数人でだらだらと過ごしていた時のことだ。

「え……、そうかな?榎本くんを?」

鞠谷はとぼけてみせた。
可愛いと計算ずくの角度で首を傾げる。

「あ、いや!気のせいかも」
「おい、鞠谷が困ってるだろ。鞠谷があいつと関わりあるわけないじゃん」
「ええ?別に困ってはいないけど……僕榎本くんと話したことないんだよね。だから、どんな人かなって気にはなってたかも」

そして、戸惑ったような微笑みを作る。
友人は慌てたように首を振る、手を振る。大丈夫、まだ城はある。

「やーー、止めとけ止めとけ。鞠谷、それはダメだ」
「そうだぞ鞠谷。あいつ、いい噂ないし」
「ってか、悪い話しか聞かねえよ」
「えっ」予想外の反応に驚きを隠せない。

身振り手振りを交えて大袈裟なまでに否定され、思わず周りを見渡す。

「わ、悪い噂って……?」
「鞠谷には汚い話は出来ねえよ~」
「取り敢えず鞠谷にはあいつと関わって欲しくないな。俺達は鞠谷を心配してんだよ」

うんうんと一様に頷くので、それ以上の追求は出来なかった。

そう、これなのだ。
可愛い扱いをされることの、唯一の弊害。
いつも何となく、一線を置かれてしまう。
そうなるように振る舞っているのは他でもない自分なのだが。

好奇心が燻る。

***

鞠谷の危惧が現実味を帯びたのは、秋の初めだった。

クラスの中で特別誰かと親しくすることもなく、浮きに浮いていた榎本真澄だったが、課外学習に向かうバスに酔って体調を崩したのだ。鞠谷の座席は榎本真澄の斜め前に決められていて、振り返ればその一部始終が見てとれた。
休憩に立ち寄ったサービスエリアで、集合時間を過ぎても戻らなかった榎本真澄に心配の声が上がったのがきっかけだった。

「サボり?」
「いやフケんだったら高速道路はねーだろ」
「迷ってるのかな?」

口々にそんな憶測が飛び交う。
結局、榎本真澄が姿を見せたのは、出発予定時間から十分は過ぎたころだった。
小走りでやってきた榎本真澄の顔色は悪く、咎めようとしていた担任も「おい、大丈夫か」と声を掛けた。
その声が大きかったので、車内は一斉に静まり返った。

「すみません、少し、酔って」と掠れた声で呟くのが聞こえた。

待たされてイライラしていた雰囲気が、同情と心配の色に変わる。
「治まったか」担任の問いかけに無言で頷いた榎本真澄は、視線を集めながら通路を進み、自分の座席に戻った。
怠そうに俯く猫背を見て、ああ、こいつ、吐いたんだな、と思った。
あの黒縁眼鏡を、外していた。
外した眼鏡は左手に握られている。相変わらず前髪は長かったが、その下、泣いたような目元ははっきりと見てとれた。

「………待たせて、ごめんなさい」

座る前、隣の席にそう告げる。
座ったまま僅かに顔を上げたクラスメイトが、榎本真澄の顔を見上げて固まるのがすぐに分かった。
鞠谷は舌打ちをしそうになった。

「……あいつ、あーいう顔だったんだ」

鞠谷の隣に座る友人も、感心したように言う。

「えー、見えなかったよ。見逃しちゃった」

面白くない、展開だ。

***

それからの展開は、鞠谷にとって本当に面白くないものだった。
クラスの殆どが榎本真澄の美貌に気付いてしまったからだ。
馴染んでいないのは変わらずだったが、そこに拒絶や悪意はなく、寧ろ受容的だった。
――やっぱり、人間、顔の美醜でこうも反応が変わるものなのだ。
可愛さを武器にここまで城を作り上げてきた鞠谷も、改めてそれを痛感した。

休み時間、トイレの鏡で自分の顔を見る。
周囲から散々言われるだけのことはある、と自分でも思う。
大きく丸みを帯びたアーモンド型の瞳に、幼さを感じるようなふっくらと厚みのある唇。猫っ毛の髪はスタイリング剤を付けずともふわふわと揺れる。今までにこの顔を活用して楽をしたことは数えきれないほどあった。

底意地の悪さが滲み出ては居ないだろうか。そう、珍しく自嘲的になっていると、バンと大きな音を立ててドアが開いた。
ぎょっとして鏡から離れて顔をあげると、駆け込んできたのは榎本真澄だった。
校舎の特別棟の端、普段あまり使われないこのトイレに人が居るとは思わなかったのか、鞠谷の姿を認めた榎本真澄は目を見開いた。
その顔は、すぐに苦痛に歪む。
うっと短く呻き、口元を押さえて背を丸める。押したら壊れてしまいそうな薄っぺらい肩が、堪えるようにびくりと跳ねる。
ふらつきながら個室に入ろうとする榎本真澄の前に、鞠谷は立った。
榎本真澄は真っ青な顔色で眉間に皺を寄せる。
至近距離で見ると、目に毒なくらい、本当に整った顔立ちだった。
けれど今、その顔は苦痛に歪み、額にはうっすらと汗が浮かんでいる。

「………なに、」

絞り出される小さな声。
吐き気の波がきたのか、再びびくりと体が強張ったのが見てとれた。
普段の背丈は自分よりも少し高いくらいだが、今は弱々しく縮んでいる。鞠谷は背中を丸めた榎本真澄を無言で見下ろした。

「ちょ、っと、どいて………」

ひりつく焦燥感の滲んだ声音。ぱくぱくと喘ぐように開く、薄い唇。
耐えられない、といった様子で、俯いて胃の辺りを押さえていた左手が鞠谷の腕を掴む。
その腕を、鞠谷は払った。

「僕、お前が嫌いだ」
「ほんとに、どいて……ってば……」

あっけなく榎本真澄は限界を迎えた。

「ひっ」息を詰めるのが聞こえた。ぐぶ、と喉が鳴って、頬が膨らむ。

がくりと背を折り、タイルの床に堪えてたものを吐き出した。
洗面台を掴もうとして叶わず、バランスを失った体は頽(くずお)れる。吐物の広がる床に汚れるのも構わず座り込んだ。

「ゲホッゲホッ、げほ、ゲホッ、」

肺が痛そうな咳だった。

「僕はお前が嫌いだ、大嫌いだ」

乱れた呼吸に合わせて上下する背中に、もう一度大嫌いだと叫ぶ。
吐物のにおいは、強い芳香剤の香りに負けていた。
まだ落ち着かない呼吸で、濡れた口元を手の甲で拭いながら、榎本真澄が顔を上げる。
ぞっとするほど酷い顔色だった。その目尻には涙が滲んでいる。
弱ってもなお鋭さを失わない視線にまっすぐ射貫かれた。

「………俺は、……あんたを、知らない、よ」

途切れ途切れに告げられた榎本真澄の言葉に、カッと頭に血が上る。
気がついたら、その顔を殴っていた。
張り倒す程の力は無かった。
せいぜい榎本真澄の上体が傾くくらい。
鞠谷は、逃げるようにその場を去った。

***

「じゃーな、鞠谷~」
「また明日ー」

放課後、繁華街で寄り道をして、照明ばかりが煌々と眩しい最寄り駅で友人と別れた。

「うん、また明日ね」
ひらひらと手を振って、笑顔を固定。
二人が背を向けたのを確認して、家とは反対方向へ歩き出した。なんとなく、まっすぐ帰る気分になれなかったから。

――榎本真澄を殴った。

右手に、まだ感覚が残っている。何かしら変化があるかと思ったが、あれから一週間経った今も、彼の態度は一切変わらなかった。
そのこともまた、腹立たしい。
間違ってるのも、悪いのも、自分だという自覚はある。
けれど、イライラして仕方がないのだ。その苛立ちの正体は掴めない。

ぼんやりと歩いていたら、いつの間にか帰路を外れてしまっていた。ほんの少し遠回りをして、いつもの道に戻るつもりだったのに。
街灯も少なく、微かな光がぼんやりと照らす公園に出る。

(こんな公園、あったんだ)

木々に囲まれた狭い公園で、しかし人影はまばらにあった。
何となく足を踏み入れようとして、すぐにその歩みを戻す。
ベンチに座る女子高生に、スーツ姿の男性が紙幣を渡しているのが視界に入ったからだ。二人は連れ立って歩いてくる。
制服姿の鞠谷とすれ違いざま、訝しげな視線を投げられた。

(あーーーヤバい所か、ここ)

鞠谷は一瞬で理解した。
面倒なことになる前に、さっさと立ち去った方が良さそうだ。
そう踵を返そうとした時、突然、静寂の公園に怒声が響き渡った。
思わず振り返って様子を伺う。

「おい、五だよ、五!さっさとしろよ!」

背の低い男が、華奢なラインの人影に向かって怒鳴っている。
鞠谷から見て背を向けているその人影も、声を張って言い返す。

「やだよ、あんたとはもうしないって言っただろ」

聞き覚えのあるその声に、文字通り心臓が飛び出そうになった。

(えっ……え……?)

好奇心。それ以上によく分からない衝動に突き動かされて公園に入り、木の後ろに身を隠した。二人の口論が一字一句はっきりと聞き取れる。
怒鳴られている相手は、間違いなく、榎本真澄だった。
しかも、普段の様子とは一転、眼鏡も無ければ前髪だって、ちゃんと整えられている。
鞠谷が殴ったあの顔を、惜しげもなく晒していて、安っぽい街灯の下、どことなく毒々しささえ感じる。
普通、こういう場所に来るときこそ変装が必要なんじゃないのか。
榎本真澄を取り巻く〝悪い噂〟とは、この事を指していたのかもしれない。

バスに酔い、集合に遅れたことを殊勝に謝る姿。
人気のないトイレの床に、苦しそうに嘔吐する背中。
そして、いかがわしい公園で男と口論する強気な態度。

 

どれが、本当の榎本真澄なのか?

 

二人のやり取りを聞きながら、鞠谷はふと思い立ち、鞄から携帯を取り出した。
やはり自分はどこまでも性悪で、曲がった根性をしていると、笑ってしまう。
無音カメラで、榎本真澄の姿を捉える。
いつの間にか人が一人増えていて、榎本真澄はそいつから万札を握らされていた。

 

フォルダに数枚の現場が保存されたのを確認して、鞠谷は公園を出た。
教員に報告したら、きっと大問題になる。
鞠谷は込み上げてくる笑いを止められなかった。
すれ違う人々に奇妙な視線を向けられた。そんなこと、少しも気にならない。
担任のメールに、匿名で送信しよう。
停学にでも、退学にでもなってしまえ。
つくづく、自分は最低だ。

 

しかし、鞠谷がその写真を密告した後も、榎本真澄に処分が下ることはなかった

 

***目撃者A:END

傍観者A

進級したての春の出来事だった。

満開の桜に囲まれて、坂の上に立つ公立高校。
県内でも有数の在籍人数の多さで、クラス替えの度に新しい出会いがある。
春浩が四組の教室に入った時にはほとんどの生徒が揃っていたが、三年目にしてもやはり見慣れない顔が多く並んでいた。
教卓の座席表が示した自分の席に荷物を置く。
名簿順で暫定的に指定された場所は、一番窓側の席だった。
少し顔を向ければ高台から、通学路である急な坂、さらにその下に広がる街並みが一望できる。眼下に広がる一面の桜色は少し息苦しさを感じるくらい、圧倒的だ。

「よっ、春浩。すげえな、また同じクラスだ」

言いながら近付いてきたのは忠彦で、彼とは三年前の入学式で前後に座ったときからの縁だ。去年も同じクラスだったことを喜び、今年もこのように顔を会わせた。遂に三年間、同じ教室で同じ時間を共有したことになる。このマンモス校で三年連続クラスが重なるなんて、少なくとも自分の周りに例はない。
失礼しまーす、なんて言いながら、忠彦は空いている席に腰掛ける。

「まだ全員来てないけど、俺ほとんど初対面っぽいな。忠彦は?」
「どーだろ、部活で一緒なやつが何人かいるくらいかな。ま、皆そんなもんだろ」
「あー、部活ね。忠彦は部活入ってるからなあ……」

そんな風に適当な話を交わしながら、机の中身を整理する。と言っても授業もない新学期初日で必要な物はさほどなく、せいぜいファイルとペンケースを鞄から移す程度だ。
ホームルーム前の騒がしさが教室を満たしていた。
誰もが雑談に花を咲かせている。
だから、その噂話が談笑に紛れて飛び込んで来た時には、耳を疑った。

「ね、このクラスらしいよ、〝売ってる〟ヤツ」

すぐ隣で固まっていた女子の集団から聞こえてきた、新学期の朝には似つかわしくないそんな言葉。
盗み聞きをしようとしていたとか、そんなことは決してない。
ただ、聞こえる音量で憚ることなく話しているから、耳に入ってしまうのだ。
センセーショナルな話題に集団は一気に盛り上がり、口々にその噂話を広げていく。
聞き取れた所によると、所謂エンコーをしているヤツがこのクラスにいて、しかもそいつは男だという。そして、買うのもどうやら男らしい。売る方も売る方だが、買う方も大概だ。

わりと有名な噂らしいが、当人の名前や特徴は一切出てくることはなかった。話の中でも細かな食い違いはいくつもあり、当然尾ひれがついていることは簡単に推測できる。それでも、雑談の一部として消費されるには充分に刺激的な内容だった。

「あ、俺、知ってんよそいつ」

前の机に腰かけた忠彦が、ぽつりと呟く。
女子の会話をひっそり聞いていたことを気付かれてギクリとしたが、忠彦は気にするふうでもなく続ける。

「え、マジな噂なの。俺、初耳」
「なんか部活の友達が、西口公園のハッテン場……っていうの?そこで見たって」
「………たまたまそこにいたとかじゃなく?」
「万札、握らされてたって」

うわー、と思わず背筋を反らせてしまう。
こうやって噂は広がっていくのだろう。

「なんか、このクラスだってな。忠彦、名前も知ってんの?」
「確か……鈴原真澄?あ、そういや、そいつ名字途中で変わったんだった。榎本真澄だよ、エノモト」
「詳しいね」
「その友達が同じクラスだったんだよ、榎本真澄と」

忠彦は教室を見渡したが、「まだ来てないっぽい」と首を横に振った。忠彦はどうやら、榎本真澄の顔も知っているらしい。「たぶん」と言い添えたので、自信はなさそうであったが。

丁度その時チャイムが響き、前の扉から担任が入ってきた。
大声で挨拶をしながら、席につけと出席簿で教卓を叩く。

「へいへい。じゃ、春浩また後で」
「おう」

榎本真澄は、まだ来ない。
そもそも売りなんてやってるくらいだし、それだけでも不良っぽいというか、少なくともマトモじゃない。果たして初日から登校してくるのかも怪しい所である。

「お前ら出席取るぞー。相澤、……梅田……」

名前を呼ばれ、はいと返事が続く。その流れも、エノモトで早くも止まってしまった。

「榎本、……榎本真澄ー、……遅刻か?」

怪訝そうに空席を見やる担任。誰か聞いてないかと問われ、沈黙が答える。榎本真澄の名前は飛ばされた。
教室の扉が開けられたのは、サ行の佐藤が呼ばれた時だった。
ドアの開く音に教室は一瞬で静まり返り、前の引き違い戸から小柄な男子生徒がふらりと姿を見せた。思わず、息を飲む。

榎本真澄だ、と直感する。

空席は一つしかなく、このタイミングで教室に入ってきた可能性は遅刻した榎本真澄しかないのだが、直感はそんな推測の先に立っていた。

「あー、榎本か、初日から遅刻だぞ。気を付けなさい」
「……はい」

かろうじて聞き取れるくらいの小さな返事をして、誰とも視線を交えることなく、まっすぐに空席まで歩いていく。淡々と。淡々と歩を進め、鞄を置き、椅子を引いて席につく。

榎本真澄の第一印象は、一言で表すなら地味だった。

取り立てて特徴のない、覇気のない様子。ボサボサの髪と黒縁の眼鏡に顔の殆どが隠されていて、なんというか、すごく暗そう。
良く言えば真面目そうにも見えるのに、あんな噂のネタになるなんて、人は見た目によらないものである。
唯一際立っていたのはその華奢な体躯で、三年にもなるというのに制服がまだ大きく見える。裾から覗く厚手のセーターは濃い紫色だった。
隣の女子が、離れて座る友達に目配せする。「ほら、噂のあいつ」という視線。理解できないもの、自分とは違うものを笑う目をしていた。
榎本真澄は自身の噂や好奇の視線を知ってか知らずか、俯いたまま顔を上げることはなかった。
ただ、音も立てずにそこにいて、怠そうに頬杖をつくだけ。
出欠確認は何事もなかったかのように再開した。
なぜか春浩は、榎本真澄から視線を離せなくなっていた。

***

「なあ、そういや思い出したわ」

昼休み、弁当を持ってやって来た忠彦は、開口一番そう言った。
前の椅子を勝手にひっくり返して座り、弁当の包みを開く。

「何を?」
「榎本真澄。あいつ、確か始業式でぶっ倒れたやつだよ。今朝顔見て思い出した」

言いながら、忠彦は玉子焼きを口に放り込んだ。
春浩は煮物を咀嚼しながら、昨日の始業式の記憶を辿る。
そう言えば、途中で前の方が騒がしくなったような、気もする。
式は最初から最後まで起立で通され、誰かが貧血を起こすのは毎年恒例の話。だからきっと、気にも止めていなかったのだろう。

「まあ、それだけなんだけどな。倒れたってか、立ってらんなくなった、って感じで。養護の教員がすっ飛んできて連れてったよ」
「ふーん」

視線を忠彦の後ろに伸ばし、榎本真澄の席を見る。
授業中は確かに座っていたはずだが、昼休みになるとすぐにどこかへ立ち去ってしまった。その空席は、切り取られてここではない別の世界にあるような、そんな浮き方をしていた。
おそらく今も、教室のどこかで彼の噂がされている。
誰もが遠巻きに榎本真澄の姿を認め、いたずらに噂話を繰り返すのだ。誰も、彼に近寄ろうとはしない。
彼は今、どこにいるのだろう。

放課後、一緒に帰ろうと荷物を持って来た忠彦に掃除当番だと告げた春浩は、だらだらと教室のすみを掃いていた。
ランダムに割り振られた当番制で、榎本真澄も同じ班だと掲示されていたのだが、時間になっても彼が姿を見せることはなかった。

「ねえ、誰かゴミ捨て行ってくれない?」

黒板を消していた女子が、教卓でチョークを数えながら声を張った。
面倒な掃除から早く解放されたい面々は、曖昧な返事でお茶を濁す。「誰かが、行くでしょう」そんな雰囲気が漂っていた。
春浩はホウキを動かす手を止めた。

「あー、じゃ、俺行ってくる。先解散してていいよ」
「春浩くん、いいの?」
「おー。別に俺、用事ないし。校舎裏だっけ?」

周囲から、役割を押し付けられずに済んでほっとした様子がありありと伝わってくる。
ゴミ捨てくらい大した手間でもないし、バイトや塾が待っている訳でもない。可燃ゴミでいっぱいになった袋をゴミ箱から抜き出し、口を縛る。間延びしたたくさんの「お願い」と「ありがとう」に送られて教室を後にした。

校舎裏には、一階渡り廊下の職員通用口から出るのが最短ルートだ。
踵の踏まれた靴で、ゴミ袋を引き摺らないように廊下を歩く。外に繋がるスチール製のガラス戸を開けると、突風に包まれた。
砂埃が目に入り、思わず顔をしかめる。桜の花びらが風流の欠片もなく飛ばされていた。

「風つっよ……」

制服の裾がバタバタと煽られる。
高台で遮るものが何もないせいか、この辺り一帯の風は強い。
校舎裏の植木や花壇は正門側ほど整備が行き届いておらず、桜の木の枝は伸びっぱなし、草は生えっぱなしの状態だった。自然に伸びた満開の桜は生命力に満ちていて、寧ろ好感を持てる。

ゴミ捨て場に向かいながら、舞い上がる花びらを何となく目で追っていくと、視界にふと制服の紺色が映り込んだ。
立ち止まってみれば、その人影は木の根本に寄り掛かるようにして幹に背中を預けているのが分かる。

何となく気になって近付いてみて、そしてぎょっとした。
芝生と言うには伸びすぎた雑草の中、桜の木に体重を預けて眠っていたのは、あの榎本真澄だったのだ。

サクサクと土を踏み、そっと柵を越える。自分の影が榎本真澄を覆う。
こんなに至近距離に近づいてもなお、彼は起きる気配を見せない。無防備に寝顔をさらすその姿に、作り物めいた印象すら受ける。
具合でも悪いのかと一瞬焦りを覚えたが、規則的に上下する薄い胸に安堵した。
随分長いことここに居たのか、榎本真澄の髪や肩、風によってあらわになった額には、たくさんの花びらが落ちていた。
黒縁眼鏡は外されて、右手に握られている。隠されていたその下、睫毛の長さに目を奪われた。
木漏れ日がゆらゆらと揺れる。榎本真澄の頬に光が落ちる。

春浩は困惑していた。
起こすべきか、起こさざるべきか。
人気の少ない校舎裏で、このままでは確実に日が暮れてしまう。
けれど自分は今まで榎本真澄と話したこともなく、何なら存在さえようやく知ったくらいである。
加えて彼を取り巻く噂のせいで、変に身構えてしまっている。偏見なしに、どう話しかけろというのだ。出来ることなら、関わることなく立ち去りたい。
そんなことを考えていた矢先、再び強い風が吹き、木々が擦れあってざわめいた。

「!」

その音に起こされたのか、榎本真澄は小さく身じろいだ。作り物のようだった顔に、ぴくりと意識が走る。
握られていた眼鏡がカチャリと音を立てるのが聞こえ、春浩は逃げるようにその場を離れた。
何かに急かされるように走り去り、ゴミ捨て場に袋を投げ入れる。
走って乱れた呼吸を整えようと、深く息を吸い込んだ。

「はーっ……はーっ……」

制服の袖で顔を擦る。
この焦りの正体を、春浩はまだ知らない。
梢の触れるザワザワとした葉音が、どこか遠くに聞こえた。

***

気付いたことがある。

榎本真澄は、よく見ると、かなり綺麗な顔をしていた。

伸ばしっぱなしの髪型と縁の太い眼鏡で隠れていたが、その下の長い睫毛は現実で、「こりゃ、好きなやつは好きだわ」と、あの噂を一人合点した。はたと冷静になってみると、大変失礼な話である。

結局、あの後春治が校舎裏に戻ることはなかった。
だから榎本真澄がいつまであの場所で昼寝をしていて、いつ室内に戻って、どうやって帰ったのか、何一つ知らない。
彼は今日も頬杖をつき、気配を殺して教室にいる。

そして、もう一つ。榎本真澄は、時々酷い顔色をしている。
それは授業中であったり、たまに廊下ですれ違った時だったり。とにかく死にそうなくらい真っ白な顔をしているのを見かけたのは一度や二度ではない。
この前の体育の時間。その日も榎本真澄はただでさえ色素の薄い顔色を一層白くさせていた。

笛が鳴って試合が始まる。試合形式のバスケットボールで、彼の班がコートに出ていた。
榎本真澄は一応中には入っているものの、積極的に動くことは当然ないし、周囲も彼を居ないものとして扱っているのは誰の目にも明らかだった。
忠彦と二人、壁に寄りかかって試合を目で追う。
忠彦は友人の応援に精を出していたが、春浩は相変わらず、榎本真澄から目が離せない。

「うわっ」忠彦が声を上げた。
「あ」

ロングパスで投げられたボールが、榎本真澄の頭に直撃した。思わず目を閉じる。あんなの、絶対、痛い。
勢いに負けて、あっさりと彼は床に崩れた。膝から木張りの床に倒れ込む。ボールは弾みながら転がっていく。
教師がホイッスルを鳴らす。
「どんくさ」と、笑う声がまばらに聞こえた。
手を貸す人はいない。大丈夫か、と得点板の脇に立つ教員が叫んだ。けれど、榎本真澄は起き上がらない。
冷たい体育館の床に、手足を投げ出して倒れていた。
異変に気付いた周囲が徐々にひっそりと騒ぎだし、それを見た教師も榎本真澄に近づいた。やや乱暴に肩を揺するが返事はない。
そのまま、榎本真澄は保健室に運ばれていった。
今度も春浩は、ただ、見ているだけだった。

「うっわ、脳揺れたんじゃねえの、あれ」

ぎょっとしたように顎に指を添わす忠彦が言う。
不自然に空いたコートの真ん中には、壊れた彼の黒縁眼鏡が落ちていた。
彼の眼鏡は、翌日には復活していた。少し形は違ったが、変化のない黒縁だった。
頬には大きなガーゼが当てられていた。

その日の午後、英語の時間。
教科書を読み上げながら机の間を歩いていた教師を、榎本真澄が呼び止めた。
いくつか言葉を交わし、彼は席を立つ。手の甲で口元を押さえていた。
僅かに背を丸めて、不安定な足取りで教室から出ていく。
行き先は想像に易かった。
教師は再び英文を続ける。
背中を向けた時、春浩は教室を抜け出した。

ドアの開く音でバレるだろうとか、目を丸くした忠彦の視線とか、そんな理性に気付かないふりをして、真っ直ぐに廊下を歩く。
この階に男子トイレは無い。少し迷って、階段を下る。

階下。廊下に出ると、ちょうどトイレのある角に入っていく人影を見た。やや前傾姿勢で、つんのめるように角を曲がった薄い背中。はやる気持ちをそのままに、小走りで追いかける。

乱雑にドアが開閉される。施錠の音は聞こえなかった。そんな余裕も無かったらしい。
間髪入れずに耳に飛び込んできたのは、くぐもった嘔吐き声。バシャバシャという水っぽい音。

「う、オエッ………げほっげほっ、……ゲホ、うぇっ………」

吐いている。
喉の奥がよじれるような苦しげな声が廊下まで響いていた。
壁に背を預けながら、息を殺して開き戸の向こうを想像した。トイレに入ってすぐ、榎本真澄は吐いていた。駆け込んだのは一番手前の個室か、あるいは、個室までもたなかったかもしれない。そうだ。きっとそうだ。
あの綺麗な顔が、苦痛に歪むのか。
涙や鼻水でぐしゃぐしゃになった姿を思う。桜の下で、きっと自分は殺されたのだ。いや本当は、もっと前、最初に教室に入ってきた時から、きっともう。

咳き込む声。呼吸が乱れる音。

頬のガーゼに、吐物がはねているかもしれない。

彼が蹲るドアの向こうに、たまらなく興奮した。

***傍観者A:END

3

「………っぅ………」
パソコンのモニターの前、キーボードを操作していた真澄は、襲ってきた腹部の痛みに俯いた。
朝から始まった腹痛は、昼近くなった今まで、断続的に痛みを生み出していた。
痛みにも波はあるが、徐々に強さを増すそれに背筋が寒くなる。
(………治まれ、よ……っ)
左手で腹を擦るようにさすり、睨むようにして再びモニターを向く。
そして自由な右手で遅々と作業を進めた。
(……腹痛い)
ぽん、と表示されるエラーメッセージ。ミスが増えて、苛立ちが募る。

 

結局、佳隆の誘いに甘えてしまった。

「一緒に暮らそう」という佳隆の提案に頷いた。以前住んでいた賃貸はすぐに解約し、携帯も変えた。殆ど身一つでやってきて、三食までついてくるという好待遇。個室まで与えられたのだから驚いた。
「この部屋を使って」「好みもあるだろうから、家具は追い追い買い足していこうね」俺に部屋を見せる佳隆は嬉しそうだった。
あまりに申し訳無くて、何もしなくていいなんて落ち着かなくて、せめて働こうと求人情報を調べてみたりした。それも佳隆に感づかれやんわりと反対されてしまう。それでも、佳隆に頼りきりの現状をただ享受することはできなかった。
折れずにどうしてもと頼み込む。すると佳隆は自分の仕事を手伝ってみないかと提案した。佳隆は学生時代に立ち上げたIT企業で、主にゲームや企業のシステムを作っている。
こうして手にした職は、佳隆が動かす会社の雑用係。
用意してもらった仕事で、とは思ったが、やるべきことができてようやく自分の輪郭を得た気がした。
佳隆は俺に甘い。
だからこそ、せめて与えられた仕事くらい、完璧にこなしたかったのだが。

「……っあ、………っ」
刺すような痛みが広がり、皮膚の下でぞわりと臓器が蠢いた。
情けない音が響いて泣きそうになる。
納期は、今日の午後。
隣の部屋で寝ている佳隆が、データを取りに来る予定だ。
俺に渡される部分なんて単純な入力作業で、にわか仕込みの知識でも事足りる程度の難易度。一応、といったかたちで設けられる作業期間は毎回様々で、今回は一週間だが、佳隆のところのスタッフにかかれば当然ながらその半分も不要だろう。
だからこそ、なるべく早く、早く。
負担になりたくない。そして足手まといにならないようにしたかった。
なのに今回、与えられた仕事は半分も終わっていない。
理由は明白。
ここ連日、酷く体調を崩していた。
精神的なものだとは分かっている。
自分の不調の原因を、しかもそれが精神状態に起因するものなら余計に、自分自身で見つけ出して解決するのは難しい。誰かに自分を分析して貰いたいような、その一方で突きつけられるのは怖いような、微妙な葛藤すらある。
それに、新たな企画を始めたばかりで、忙しさのピークを迎えている佳隆に、最近触れていない。佳隆は昼夜逆転の生活をしているから、1日のうちに顔を合わせることすら少ない。
これなら、何の為に一緒に暮らしているのか。
家事もろくに出来ない、仕事も出来ない、セックスの相手も出来ない。
曖昧になっていく存在意義。
そもそも、そんなもの、はじめから存在していたのだろうか。

「………!」
突然、捻れるような痛みが襲い、思わず身を捩った。
机に伏せたはずみで押されたキーボードがエラー音を響かせる。
(………、トイレ)
あ、と思った時には遅く、肛門に感じる嫌な不快感。
同じ下すにしても、水に近づくにつれ我慢の自制が効かなくなるから、本当に困る。腹圧をかけずとも自然に溢れてくる、といった感じで、常に括約筋は緊張状態。ぎゅる、と音がして血の気が引く。体は早くしろと急かす。立ち上がろうとして痛みに叶わず、崩れるように腰を下ろした拍子に水っぽいものが直腸を通って、ぞわりと鳥肌が立った。
トイレに行くには当然部屋を出なくてはならず、間取り的には佳隆の部屋の前を通らなくてはならない。
それまでの間、まっすぐ歩けるだろうか。早くしないと、まずい。でも、もう少ししたら、少しだけ治まってくれるかもしれないし。
葛藤する間にうしろへの圧力は徐々に切羽詰まってくる。
痛む腹に体力を削られ、漏らさないように神経を使うこともつらい。
どうしよう、どうしたらいい。
焦りばかりが募っていく。
いい年して、自分の部屋で下痢便を漏らしそうになるなんて、惨めで滑稽で、それでもやっぱり痛みには勝てなくて、泣きそうになった。
「………っぁ、!……っ!」
一際強い、波。
いよいよ危機感が現実味を帯び、机に体重を預けながらよろよろと立ち上がった。
トイレ、行きたい。
腰が引けた不自然な前傾姿勢で、なんとか部屋を出る。
しゃがみ込んでしまいたかったが、そうなったら絶対に決壊してしまいそうな確信があって。少し進んでは立ち止まって、また歩いて、たった数メートルが遠い。
心臓が跳ねたのは、人の気配と足音を感じたから。

「あれ、真澄くん。おはよう」
キッチンからひょっこりと顔を出して、目を合わせて微笑む佳隆。
慌てて背筋を伸ばし、腹を抱えていた両腕を離した。緩いスウェットの生地を掴む。そうしないと、行き場を失った手はすぐにでも腹を庇ってしまいそうだったから。

(何で起きてんの……!?いつも、まだ、寝てる時間……)

なんでもない風を装ってあいさつを返すも、内心動揺でいっぱいだった。うまく笑えているだろうか。そうしているうちにも下腹はぐるぐると音を立てて俺を急かす。手のひらに変な汗をかいていた。

「六時頃布団に入ったんだけど、なんか目が覚めちゃって。真澄くんは?」
「ん……。仕事してたら喉渇いちゃってさあ。なにか飲んで、トイレ行って戻ろうかなって、出て来たとこ」
「僕はお茶でも飲んでまた寝ようかな。真澄くんもいる?」
「いい、いい。自分で、やる、」

平静を装うのは当然つらくて、体は今か今かとせっつくし、とにかく早くトイレに行きたかった。腹をすっきりさせてしまいたい。
もう、多少ばれてもいい。腹を抱えて丸まりたい。
グウゥ……きっと自分にしか聞こえないくらい小さく、でも確実な痛みを伴った悲鳴。耐えられなくて左手を腹部に添える。
ああでも、やっぱり気づかれたくない。
早くこの場を切り抜けて、トイレに行って吐き出したい。
悶々と考えていると、急須と湯呑みを持った佳隆がキッチンから出て来た。

「じゃあおやすみ。仕事無理しないでね」
「うん。おやすみなさい」

肩をぽん、と叩かれる。
吃驚するほど体が強張っていたことに、そこで初めて気付く。
佳隆が部屋に入るのを見て、トイレに駆け込んだ。

***

外の明るさで朝を迎えていたことには気付いていた。
六時頃ようやく仕事を終え、布団に入って数時間、脳と目を休ませる。そうして、とくに何かがあったわけではないだろうが、ふと目が覚めて体を起こす。
睡眠不足から鈍く痛む眉間を揉む。朝日が眩しい。
別にこんな生活をする必要は無いだろうと何人かに言われたが、深夜の方がアイデアが湧くし、自分が学生時代からの癖でもあった。
その〝癖〟はそのまま習慣となり、もうすっかり定着している。朝起きて、夜に眠る。そのような生活こそ、自分には特に必要の無いものだと感じていた。
しかし、今は生活の中に真澄くんがいる。彼と暮らすようになったのだから、この習慣も改善したいと思うようになった、
一緒に暮らしているのに、生活時間帯が合わないなんて、あまりに勿体無い。
少し前から真澄くんに仕事の一部を任せるようになって、その手際の良さには正直驚いている。何より、数字と記憶に強い。
簡単な説明をしただけで、教えた内容の仕事に関しては本職とほとんど変わらないスピードで完成させるのだから、もともと向いていたのかもしれない。専門のスタッフが少し可哀相なくらいだ。
そういえば、スタッフからメールが届いていた。業務報告に、「光の君に会わせてくださいよ」と冗談めかした追伸を添えて。彼らがしきりに真澄くんを見たがるのをなにかと理由をつけて回避しているのだが、なかなか彼らも引きそうにない。
人柄を重視した採用方針だから変な事はしないだろうと分かっているのに、これは完全に僕のエゴだ。

欠伸をひとつして体を伸ばし、こわばりをほぐす。暖かいお茶でも煎れようと思いついて、作業部屋を出る。寝室は別に設けているのだが、仕事が立て込んでくると作業部屋のソファやクッションなんかで仮眠を取ってしまうことも多い。真澄くんがいるのに、これもまた勿体ないことをしている。やっぱりすぐにでも習慣を変えよう。
お湯を沸かして茶葉を用意していると、足音が聞こえた。
真澄くんだな、と思い、手を止めて廊下側へ向かう。
「真澄くん、おはよう。」
そう声を掛けると、俯き気味に歩いていた真澄くんは顔を上げ、微笑んだ。
なんだろう。何かがへんだ。微かに、違和感を覚える。

「六時頃布団に入ったんだけど、なんか目が覚めちゃって。」
「へえ、そうなんだ」
「真澄くんは?」
「ん……、と。仕事してたら喉渇いちゃってさあ。なにか飲んで、トイレ行こうと思って、今出て来たとこ」

言葉を交わすうちに違和感の正体が掴めた。体調が優れないのを隠している。
顔色は紙のように真っ白で血の気がない。
こめかみの辺りにうっすらと汗が滲み、前髪が張り付いている。
僕の前だからと、なんとか気丈に振る舞っている、といった感じだ。
時折眉間にぴくりと皺が寄る。
わずかに、身を捩った。

「僕はお茶でも飲んでまた寝ようかな。真澄くんもいる?」
「っ、いい、いい。自分で、やる」

『喉が渇いた』と言った彼は、しかしお茶は要らないと言う。声にも焦りが滲んでいた。どうやら、それほどまでに調子が悪いようだ。表情はきつそうに曇っていき、もう微笑む余裕は無いらしい。
僕がいたらきっとトイレには行かないだろう。
急須や湯呑みなど全て抱えて、退散したほうがよさそうだ。

「じゃあ、おやすみ。仕事、無理しないでね」
「うん、おやすみなさい」

すれ違い様肩に手を置くと、びくりと全身で跳ねる。
迂闊だった。彼は全身を強ばらせて、ただ立っていつも通りのふりをすることに神経を張り巡らしていたのに。
不安と、心配が膨らんだけれど、真澄くんから発せられる鬼気迫った雰囲気とでも言うべきか、とにかく僕がこの場を立ち去ってくれることを切望していることがひしと伝わってきて、従わないわけにはいかない。
部屋に入って、すぐには動かず外の気配を窺っていると、暫くして荒っぽい足音と、乱暴にドアが閉まる音がした。
普段の真澄くんでは有り得ない。
慌てて外に出てトイレに向かい、扉に近づいてはたと足を止める。
個室から聞こえて来たのは、明らかに下している音。
勝手に、ただ気分が悪いだけだと思っていた。
ここまで下しているのだから、きっと腹痛も酷かっただろうに、自分の前ではそれを隠そうとしていたという事実がやるせない。
水が流れるような音に混じって、はっきりとそれと分かる音が聞こえたが、この様子では出しているものは殆ど水だろう。つまり、出すものがない、という状況。
ぐうっと喉奥がよじれるような音がして、低く抑えた呻き声が続く。空えずきだろうか、聞こえてもおかしくないはずの水音は聞こえず、しばらくの沈黙。
絶句して、息をするのも忘れていた。水を流す音がしてはっと我に返る。必死で僕に不調を見せまいとしていたのに、すぐ外で聞かれていたなんて知ったら最悪だろう。急いで部屋に戻ってドアを閉める。少しして、不安定な足音が扉の前を通過した。

「………真澄くん」
彼は、いっそ強情なまでに弱った姿を隠したがる。
ここでの暮らしも僕のエゴの帰結点で、罪悪感を感じるべきは僕なのに、彼はなぜか自身に負い目を感じている。
分からない。
分からないから、知りたいのに、きっと真澄くんは知られる事を罪だと感じている。
居ても立ってもいられなくなって、足は真澄くんの部屋に向かっていた。
鍵は掛かっていなかった。中に飛び込めば、机に伏せる彼が視界に映る。
突然の物音に驚いた顔を上げて振り向くも、蒼白な顔面には苦悶の色が滲んでいた。
こんな体調で、仕事をしようとしていたのか。
視線がぶつかる。

「真澄くん、辛いなら言って。具合が悪いなら教えて。嫌なことは言ってくれて構わない。何で我慢しようとするの」

思わず強くなる語気に、彼は俯いた。

「違う、怒ってるんじゃない。真澄くんが心配なんだ。お願いだから布団に入って」

モニターに映る画面を見ると、いつものペースの半分も終わっていなかった。
いつから、こんなに具合が悪かったのだろう。
同じ時間帯を過ごしていれば気付けたかもしれないのに。

「ほら、………立てる?」
「………っ」

体を支えると力無く立ち上がり、よろよろとベッドに向かおうとする。
両手で腹部を抱え込んでいるうえに、痛みが酷いのだろう、服の上から鷲掴みにしている。その下からは、ぎゅる、ぐる、と、さっきからひっきりなしに腹音が響いている。
辛そうに顔を歪ませる真澄くんと目が合ったと思えば、すぐに逸らされてしまう。

「………やだ、きかないで………」

ああ、と思う。こんなことを口にしたら怒られるだろう。赤みの差した目尻に涙を滲ませる真澄くんを、たまらなく愛しく感じる。
嫌なら断っても大丈夫。罵られたって構わない。この家に、無理に引き留める気はないし、縛り付ける気なんてさらさらない。そうは思うも、すんと鼻を鳴らして強引に目元を拭う真澄くんを見ると、このまま閉じ込めてしまいたくなる。誰にも見せたくない。自分だけのものにしたいと、こんな時なのに思い巡らせてしまって、自戒してブレーキをかける。
お腹を庇うことで両腕がふさがった彼の代わりに布団を開く。横になるよう促したが、しかし彼は首を横に振った。
ベッドの上で、お腹を抱えながら、体育座りで丸くなる。頭を膝に預けてきつくお腹を押さえ込んだが、力みすぎてかえって痛くはないのだろうかと心配になる。

「その体勢の方が楽なの?」

そう聞くと小さく頷くのが見て取れた。
痛みを代わってあげられないことを、こんなにもやりきれなく感じたことはない。
薄い背中に軽めの布団をかけて、その上から薄い背中をさする。拒否はない。真澄くんにとって、これは不快ではないようだ。
相変わらずその内側からはくぐもった腹音が聞こえ、真澄くんは時折体を強ばらせたり、身を捩ったりして、波がある痛みに耐えている。

少し前のことを思い出していた。
夕飯の後、真澄くんがトイレで吐いていることに気付いた。
彼が体調不良から嘔吐しているのを見るのはその時二度目で、ひょっとして持病でもあるのかと、個室から出て来た時を見計らって聞いてみた。
吐いた直後の疲弊した声で、彼は、そうではないと首を振る。新しい環境になじめていないだけだと、俯き、床に落とすように呟いた。
そこには謝罪の響きがあった。
慣れない環境で体調を崩したと言うことで、今の生活にストレスがあると告げることになるからだろう。
真澄くんが僕に対し、仮面を被って相対している自覚はある。いつかのホテルで「あんたは何も分かっていない」と叫んだ彼が本物なのだろう。
誰しも程度の差こそあれ、仮面を被ることで環境に適応していく。仮面を持たない人間なんて存在しないものだと理解しているが、真澄くんの場合、きっとそれが凄く厚い。
常に仮面を被ることに気を張って、素のままを出す機会を無くした結果、自分でそれを外す方法を忘れてしまったのではないだろうか。
だから、感情が高ぶった拍子にコントロールを失う。
真澄くんのことが知りたい。
真澄くんが一番安心出来る場所になりたい、と願う。

「………っ」
静まり返った部屋で、突如真澄くんは息を詰めた。
膝から微かに顔を上げ、視線を落としたまま唇を噛む。
一層大きな腹音。
それに呼応して目をきつく閉じ、眉間に皺を寄せた。
「真澄くん?」
話し掛けるも返事は無い。
真澄くんは緩慢な動作でベッドを降りようと背を起こす。
「………、トイレ、行きたい………」
消えそうな声でそう呟き、立ち上がろうとするも、うっと呻いて体を折った。
じっとしていられない様子で、下半身を忙しなく動かしている。
「………っ、………っぅ、」
強く噛んだ唇から血が滲んでいるのが見えて、もう遠慮はできなかった。
「真澄くん、ごめんね」
返事を待たずに、足の隙間と脇に手を通し抱え上げた。
「ひっ、や、っやだ、待っ」
真澄くんが悲鳴のような声を漏らす。
歩いて移動するのはどう見ても不可能そうだったし、間に合わなかったときの彼のダメージを考えたらこうするほか浮かばなかった。
酷く我慢のしづらい体勢だとは思う。
ごめんね。
「や、や………っ!よしたか、さ………っ、」
あと少し、という廊下の途中で、真澄くんが激しく身じろいだ。
「わ、危ない、っ」
落としてしまう、そう思い、床に下ろすが早いかしゃがみ込んだ。
俯いたまま両手でお尻を押さえている。
フローリングの床に涙が落ち着いた。
汚してしまってもまったく構わなかった。
苦しそうな真澄くんを見る方が嫌だった。
しかし彼は、暫くそのまま静止した後、お腹を抱えてふらつきながら立ち上がった。壁に体を預けるから、思わず引き寄せて歩幅を合わせる。刺激を与えないように、あと数歩の距離をゆっくりと進む。

やっとの事でトイレまで辿り着き、便座に腰を下ろした真澄くんは、堰を切ったように泣き出した。
完全に液状の下痢は、なかなか治まってくれない。このままでは脱水症状を引き起こしてしまうと、水を持ってきて飲ませたが吐いてしまった。
出し切って、下痢が落ち着いてから水分を取らせたほうが良さそうだ。そう心に決めて、ただ真澄くんが泣き止むのを待つ。
「……やっぱり、ここで暮らすこと……君の負担かな」
背中をさすりながらふと口にしてしまった言葉に、真澄くんは驚くほど過敏に反応した。
がばりと顔をあげ、流れる涙には気にもとめずに首を振る。咄嗟に、といった勢いで袖を掴まれ、慌てて口を噤んだ。
「ちっ、違う、………違う…っ、ちがう…っ」
息が上がっている。「真澄くん」確かめるように名前を呼んだ。返事はない。

「真澄くん、ごめん、そういう意味じゃ」
「違うっ、ちが………、嫌だ、ごめんなさい、ごめんなさい…っ」
「真澄くん、聞いて」
「す、っ、捨てないで………っ、嫌だ、捨てないで、ごめんなさ………っ、」

思わず、真澄くんを抱き寄せていた。
背骨の凹凸を二つ、指でなぞる。

「真澄くん、聞いて。捨てたりしない。絶対に。真澄くんが出て行きたくなるまで、ここに居て良いんだよ。嫌になるまで、ここに居て下さい。僕が、居て欲しいんだ。捨てたりしないから、お願い、落ち着いて」
「………っ、」

耳元で、ずっ、と鼻を啜る音がした。
肩に暖かいものが落ちた。
違う、と、また彼は呟く。

「違う、信じて………っ、俺、いやなことなんて、無いのに、なんで………!」
「………真澄くん、」

まるで迷子の子どもみたいだ。庇護を求めながら、どうしていいのか分からないから泣くしかない、迷子の子。見ていると痛いような、もどかしいような気持ちになる。
真澄くんは、自分の仮面に気付いていない。
無自覚のまま、自分自身を追い詰めて、傷つける。
真澄くんが、ここに居たいと思ってくれている間に、何とか、真澄くんの仮面を外してみたい。檻を壊して自由になった彼を見たい。
彼が素のままで居られるような、そんな場所になれたらいいのに。
俯いた真澄くんの表情は分からなかった。

***toi et moi 3 :END

2

コーヒーの香ばしい香りと、ほのかに小麦の焼けた匂い。

空調の効いた店内には、数名の店員含め十人程の人がいた。

俺は禁煙席の一番端で、楕円のテーブルに伏せていた。華奢なスツールは洒落たインテリアとして似合っていたけど、座るための家具としてはあまり相応しくないように思う。

もっとも、今日みたいな具合じゃなければ、窓際の席に浅く腰掛けて、階下に広がる都心のビル群を眺めるくらいの余裕はあったのだろうけど。
地上五十階、オフィスビルの最上階にあるカフェバーで、俺は男を待っていた。
携帯を見る。メールは無かった。
一口分も減らないまま隅に追いやったコーヒーは、もうすっかり冷めきってしまった。

「………っ、くそ」

みぞおちの辺り、鋭い痛みが差し込んで、全身に緊張が走る。
思わず飛び出した悪態を飲み込むように唇を噛んだ。じわじわと存在を主張し続ける痛みは、カップの底に沈みついた汚れのようだった。

今日俺を買ったのは、「木村」という会社員。
本名かどうかなんて当然不明。俺は彼を「木村さん」と呼び、彼は俺を「真澄」と呼ぶ。
一昨日誘いのメールが届き、彼の方から待ち合わせ場所も時間も指定してきたにも関わらず、俺は二時間も待ちぼうけを食わされている。
急な会議が入った、と簡潔なメール一本で。
その時からなんとなく腹の調子がおかしくて、帰る理由はあったのに、そうしなかったのはどうしてなのだろう。

──ただ漠然と、寂しい。

ぐぅぅ……と、音が鳴って、下腹部が張るような感覚。締め付けるような痛みが増していく。咄嗟に抱え込んだ腕の下で、内臓が重たく蠢いた。

「…………いっ、た」

額がテーブルにつくくらい、背中が曲がる。痛い。お腹、痛い。
治まれ、治まれ、と一心に念じながら、不調を訴える腹をさする。
けれど、そんな祈りもむなしく痛みは少しも引いていかない。それどころか、ボコボコとガスが動くような不快感の後、感じたのは肛門に下ってきた圧迫感だった。
動きたくない。もう少し、落ち着いてから、トイレに行きたい。そうは思うも一度下ってきたものはもはやどうしようもなく、淡い色のジーンズと下着の下、緊張した括約筋がひくひくと攣縮するのが分かる。いよいよ現実的な危機感を感じ、ふらつく足取りのまま席を立った。
個室に籠もってほとんど水に近い下痢便を出し切ると、少しだけ腹痛が和らぐ。もっともいったん落ち着いたところで、すぐにまた捩れるような痛みが襲ってくるのだろうと想像がついた。嫌な予感に気が遠くなる。
気休めの整腸剤を飲んだだけで、朝から何も食べていないからか、まるで腸壁にこびりついた残滓を一掃する様なそれ。
臭気が残っているのが嫌で、消えるまで何度も水を流している間に吐き気までやってきて、渦巻く水流の中に嘔吐した。

──『真澄くんを、僕にください』

咳き込みながら、佳隆のそんな言葉を思い出す。
そんなことを言われたって、どうしていいのか分からない。
勿論こんなこと──すなわち、〝売り〟──をやめることが、その言葉に対する最も相応しい返事だと分かっている。
だけど、このクソみたいな行為が俺のアイデンティティを保っているなんて馬鹿げた話、きっと理解しては貰えないだろう。
誰かに酷く扱われている間は自分の存在を感じられるし、そこにしか存在意義を見いだせない。痛みを感じることで、やっと何かに許されたような気分になる。その瞬間だけでも誰かの特別なんだと錯覚することで、何とか自分の輪郭を保っているのだ。
佳隆には佳隆の人生があって、彼が俺に巻き込まれて坂道を転げ落ちるのは嫌だった。

ふらつく足取りで、一人分のコーヒーが置きざらしになったテーブルに戻る。
体調が悪いとそれだけで感傷的になるから困る。
そう考えると、詩人なんてみんなある種の病人なのだ。なんて、不遜な思いが浮かぶ。
半ば自棄になって、冷めきったコーヒーを飲み干した。
空っぽの胃に真っ黒な液体は痛いほど染みた。

「真澄!」

突然名前が呼ばれ、はっと顔を上げる。木村だ。彼の指定した店で、いつもの座席。すぐに目が合い、木村はゆったりとした歩調でやってくる。慌てて腹を抱える手を離して、背筋を伸ばした。

木村は、私服に着替えている。
仕事終わりの時間帯に会うのに、スーツのまま、つまり私服にならず、変装もせずに来るのは、佳隆くらいだ。
大胆なのか、浅慮なのか。
そのどちらでもなかったら、凄く──

(…………凄く、…………何だ………?)

「真澄、ごめんね。急に会議が入って、思いのほか長引いた。急いだつもりなんだけど、二時間も待たせたね。何か奢るよ」

ああ、と思う。
実は、佳隆の提案があまりに魅力的で、暴力的なまでに理想そのもので、俺はあの時から届く誘いをほとんど全て断っていた。
しつこく連絡を送ってくる相手もいたけど、多くはそのまま関係を終える。
それでも木村のメールを無視出来ないのは、こいつの物腰がどことなく佳隆に似ていたから。
もともと錯覚を渇望しているのだから、もうどうでも良かった。
それに、あの日以来佳隆からの誘いはない。まるで恋人のようなメールが時折届くが、電話ですらない電子の繋がりは脆く感じた。
佳隆のためを考える振りをして、俺は逃げたのだ。
スイッチを切り替える。

「木村さん、遅い。……お仕事お疲れ様。俺も昨日遅かったから眠くてさあ。だから木村さんに会議が入ってくれて良かったかも」
「そう?なら良かった。何か食べる?お腹空いたでしょ」
「あは。木村さんが遅かったから、俺もう食べたよ。今度何か美味しいもの奢って」
「そうだね、また今度。…………じゃあ、行こうか」
「うん」

木村は、席にも着かず、俺の手を引いた。

「…………っ」
広い歩幅でずんずんと歩いていくものだから、否が応でも小走りになる。背筋を伸ばして歩くことはできなくて、不格好に丸まった背中で木村を追いかける。ぎりぎりの小康状態を保っていた腹はあっさりと音を上げた。

(………痛い、)

木村の後ろ姿を睨みながら、唇を噛む。

「ありがとうございました~」

店員の声に背中を押されるようにして外に出ると、この時期の夕方らしい冷気に包まれた。ニット一枚では心許なく、風が吹けば思わず身震いするくらい。どうしてこんな薄着で来たのだろう。上着を持ってくるか、せめて下にもう一枚着込んでおけば良かった。
ビルの隙間風に全身撫でるように冷やされて、一時は和らいだ腹痛がぶり返す。じわじわと便意が押し寄せてきた。
木村は、俺のそんな異変に気付くわけもなく、通りに出て手を上げる。霞が関のお役人様が退勤する頃合いだ。流しのタクシーは自家用車よりも多く行き交っている。そのうちの一台なんてすぐに捕まって、路肩に停まった後部座席、扉が開く。
強い痛みをもって腹部が不調を訴えた。ぎゅるぎゅると不穏な音が腹の真ん中で響き渡り、痛みの波に合わせて激しく暴れている様が手に取るように分かる。
タクシーに乗り込む木村を見て、ぞっとした。
車、乗りたくない。嫌な予感ばかりが膨らむ。皮膚の下に感じる不快感が不安で立ち止まっていると、手首を掴まれた。

「真澄?」
怪訝そうな木村の声。
微かな前傾姿勢を崩せない俺を、彼はシートに座って見上げた。
「………ん、何でもない」
こうなってしまったら、引き返す道はない。
ここからホテルまでは五分とかからない。歩いても行ける距離なのだ。
何でもない、の後には「だいじょうぶ。たいしたことない。」と頭の中で続けた。自分に言い聞かせるように繰り返して笑顔を作る。
タクシーに乗り込んで、浅く前傾姿勢。車が動き出すのと同時に、木村に気付かれない様にそっと腹に手を添える。
不規則な蠕動をダイレクトに感じて血の気が引いた。
内臓が、冷たい。そんなことあり得ないのに、そう感じてしまうくらい、感覚がおかしくなっていた。

初めこそ木村の話に相槌を打っていたが、徐々にそれすらも困難になってきた。
一瞬でも気を抜いたら漏らしてしまいそう。
水っぽいそれが、すぐそばまで下りてきている。
「…………真澄?どうかした?」
俯き、無言になった俺を、木村は車酔いと勘違いしたらしい。「酔った?」と顔を覗き込む。無遠慮に前髪まで避けて。
見られたくない。きっと酷い顔をしているだろう。細く吐き出す息が震える。
返事も出来ないでいると、木村の手が腰に伸びてきた。
「真澄は乗り物弱いよね。……大丈夫、もうすぐ着くよ」
労るように腰や背中をさする木村。
腹部を温めたいのは事実だが、正直、今は少しの刺激も辛い。
「………っ、………ふ」
腹を抱えて丸まりたい。今すぐにトイレに行かないと、まずい。
帰りたい。でも、帰るって、どこへ。
お腹、痛い。
帰ってもいい場所なんてない。

路肩にタクシーが止まった。
ドアが開き、しかし動けないでいると、先に降りた木村が回り込んで手を差し伸べた。
微笑んだ瞳の奥、欲望の色が見える。

──佳隆は俺を強制的に休ませた。
あれがイレギュラーで、この扱いは「普通」なのだ。木村に佳隆の影を重ねるなんてばかみたいだ。
木村と腕を絡ませながら、照明の眩しいホテルに入る。
パネルの前、部屋を選ぶ木村を横目に、たまらずトイレに駆け込んだ。
「あ、………っん、………っ!」
空いていてよかった。誰もいなくてよかった。捻れるような痛みに襲われ、思わず身体を折る。全身から冷や汗が吹き出して、指先はぎょっとする程冷たかった。
指先まで汗ばんでジーンズがうまく下ろせない。手足は震え、半ばパニックだった。ばくばくと心臓が早鐘を打つ。
緩めたベルトと格闘する手の甲に、水分がぱたぱたと落ちた。
それが涙だと気付き、慌てて両目を拭う。
「………い、……っ、…………は、ぁ」
歯を食いしばりながら、熱いものを吐き出していく。ひどい音を響かせて、水に近い腹痛のもと(あるいは、副産物)を出し切って、少しだけ緊張がほどけていく。
壁に膝が触れてしまいそうなくらい、狭い個室。
便器に腰を下ろしたまま壁に寄りかかる姿はさぞ滑稽だろう。
そうは思ってもあまりに体力を消耗し過ぎていて、もう一歩も動きたくなかった。
正直、息をするのも辛い。それでも、疲弊した体に鞭打って、何とか個室を出た。いい加減戻らないと、木村が不審に思う。

エントランスを見渡すと、木村は携帯を弄っていた。俺に気付き、片手を上げる。
「大丈夫?吐いちゃった?」
颯爽と。下世話な場所に似合わない足取りでやってきて、俯く俺の頭を一撫でする。
髪の毛の感触を楽しんでいるようだった。
「…………ちょっと、体調悪い、……かも」
自分の声があまりにも情けなくて驚いた。
ええ、と声を上げながら、木村は俺の顎を掴む。飛び込んできた天井の照明が眩しくて、思わず目を細めた。
「……うん。確かに顔色悪いね。大丈夫、優しくするよ」
実にスマートに体を寄せられ、木村の手がするりと俺の腰を撫でる。
やはり、するのか。
当然の事なのに、とてもそんな気分にはなれなかった。体調的にも木村を受け入れるのはどうしたって不可能だし、ベッドに入ったとしても、何度もトイレに駆け込むことになるのは目に見えていた。
一度優しさを知ってしまうと、ずるずると甘えが引き出される。
前はどんなに体調が悪くても、いっそ壊してくれと願っていたのに。
(……佳隆、)

重症だ。
俺の方が、依存している。

***

木村に連れられるまま、流されるまま、部屋に着いていた。
後ろ手にドアを閉めたのと同時に、木村が顔を寄せる。勢い余って歯と歯がぶつかった。
背中は扉に押しつけられて、もう逃げられないのだと心臓が冷えていく。薄いドア一枚で隔てられた外の世界にも居場所はない。それはナイフを首筋に当てられたような感覚。
「………ん、………」
混ざり合った唾液が唇の端から糸を引いて垂れた。
ざらざらとした舌の感触を、随分久しぶりに感じていた。
木村の手が服の中に潜っていく。ニットの下、木村の親指の腹が、臍の辺りを刺激した。
「…………っ!」
突如、捩れるような痛み。
体から響いた腹音は誤魔化しようもなく、はっきりと木村にも聞こえただろう。
木村は唇を離し、眉間に皺を寄せ俺を見た。
「……真澄?」
刺激されたせいか、外気に触れたせいか。
おそらくその両方のために、再び激しくぶり返した腹痛に、堪えられずしゃがみ込んだ。
抱え込んだ下腹部から、細く情けない悲鳴が聞こえる。痛みを逃すように息を吐いて、その隙間にたまらずに声が漏れていく。
「真澄、どうしたの」
「………っ、ごめんなさい………っ。お腹、痛くて、」
「ええ……そんなに?大丈夫?………酔ってたんじゃなかったんだね」
同じように屈み、目線の高さを合わせた木村は、俺の額に唇を落とした。
そして信じられない言葉を口にする。
「………うん、大丈夫。お腹痛い真澄も可愛いよ。そんなの忘れるくらい気持ち良くしてあげる。苦痛って快感に繋がるって言うし、きっとすぐ良くなるよ」
え、と思う間もなく、半ば抱きかかえられるようにして、ベッドに下ろされた。その弾みで熱いものが肛門を通る。慌てて括約筋を締めるが、少し、漏らしたかもしれない。
背筋にぞわりと悪寒が走った。
ぞっとする。自分の意志ではどうにもできない。痛みを伴って、ただ下りてくる、そんな感じ。
「やっ、やだ、待って、………っ、ん、………っトイレ、行かせて………」
もう隠す事なく腹を抱え、迫り来る不快感に堪える。
俺の懇願は、しかし許されなかった。
「漏らしていいよ。俺が見たい」
言いながら木村は服を脱ぎ、上半身は完全に裸だった。
シャツを放ったそのままの手で、俺のニットを下から捲り上げる。
強引ともとれる動作に抵抗するだけの力も無くて、されるがまま、無防備な肌が外気に触れた。
「………っあ、……!」
腹痛が、一層牙を向く。生理的な不快感に肌が粟立っていくのが自分で分かる。
ぎゅるぎゅると絶え間なく響く音は木村にも聞こえているだろうに、彼はお構い無しだった。決壊寸前の肛門を踵で必死に押さえつける。不安定なベッドの上では、それすらもままならない。
「………っ、ぁ、………っう」
木村の手が俺のベルトに掛かる。手を止めて、ふふっと口角を上げる。
「すごい緩めてるね。いつから痛かったの?」
楽しそうに、そう囁く木村。
嗚咽が零れる。痛くて、惨めで、みっともないくらいに泣いていた。
「………お願い、………っ、ちょっと、………」
「汚したくないなら、脱げばいいんだって。お腹痛いんでしょ?していいよ」
あんたが良くても俺が良くない。
そう言ってやりたかったが、口から飛び出すのは情けないうめき声。痛みに、息が詰まった。視界が点滅する。
「………舌、噛んでるよ」
そう言って唇を塞がれる。名前を呼ばれる。ほら、と木村の手のひらが這った。
あとはもう、覚えていない。

***

「真澄、真澄」
肩を揺すられ目が覚める。
薄目を開けると、小さな窓から微かに朝日が差し込んでいた。
はっとして体を触ったが、木村が全て片付けてくれたようで、俺はバスローブに包まれていた。
「………きむら、さん……」
体を起こすと、下半身にじわりと痛みが広がった。
「ああ、寝たままでいいよ。急に仕事が入っちゃって………先に帰ることを伝えたかっただけだから。お金置いておくね。あと、ここの支払いは済んでるから、昼までならゆっくりしていて大丈夫」
起きたてのぼんやりとした頭に詰め込まれる情報。
「じゃあ、また。真澄、凄く可愛かったよ」
木村が部屋を出た後サイドテーブルを見ると、万札が重ねて置かれていた。
時間に対する対価。行為に対する対価。自分につけられた値札。これがお前の価値なのだと、思い知らされるような。
でも、これしかない。自分が生きている証明も、肯定も、これ以外になにも持っていない。こんなことでしか自分の輪郭を掴めない。ひとりで、夜を過ごすこともできない。
「………っ、く、………ふ……」
言いようのない虚しさが襲ってきて、涙が溢れた。
涙腺が壊れてしまったみたいだ。昨日から泣きっ放しで、目の奥が痛い。
突然、携帯の振動音が響いた。
誰だろう。
こんな朝早くに。
緩慢な動作で転がっていた携帯に手を伸ばし、表示を見て目を見張った。

──佳隆。

振動は止まらない。着信だった。
恐る恐る通話ボタンを押す。
耳に当てる。
心臓がうるさい。
不安で、どうにかなりそう。

『──もしもし、真澄くん?』

懐かしい声。

「…………佳隆さん」
『あれ、寝てたかな。ごめんね、仕事の関係で時間感覚狂ってるみたいだ。』

まだ学生だったころにゲーム会社を立ち上げて、本人もプログラミングに関わっているという佳隆の生活は、ほとんど昼夜逆転と言っていい。

『どうしても言いたい事があって。眠かったら掛け直すよ?』

佳隆の声は、耳に心地良い。

「佳隆、さん」
『………もしかして、具合悪い?』
思わずしゃくりあげてしまいそうで、慌てて息を深く吸った。
「………ううん、何?」
『怒らないでほしいんだけど、君の事を調べたんだ』
「………え?」
『そしたら君が一人暮らしだってことも、取り敢えずの身寄りも居ないってことも分かったから、………買ったんだ」
「待って、何、何の話?」
『二人で暮らす家』

突拍子もない言葉に、眠気は吹き飛んだ。

「は………?」
『もし、真澄くんが僕に就職してくれるなら、一緒に暮らしたくて。僕と家族になってください。………どう?本当は会って言おうかと思ったんだけど、早く伝えたくて』

楽しそうに住所を読み上げ、間取り等を嬉々として話す佳隆。真っ先に頭を埋めたのは困惑だ。いま、なんて言った?家だって?

「ま、待って、それ………どういう、」
『一緒に暮らしませんか。僕が、真澄くんを独り占めしたいんだ』

殴られたような衝撃。
もつれた言葉の意味を、ゆっくりと解きほぐす。一緒に暮らしたいと、佳隆は言った。「家族に」って、そんなの、まるで。
不意に、視界が歪んだ。世界が滲んで、滲んで、頬があたたかなもので濡れていく。
拭っても拭い去れない。

「……俺で、いいの」
『え?』
「だって、………俺、汚い、………っ」

俺のことを調べたのなら、俺がどんなことをしてきたのか、どんなふうに生きてきたのか、そんなことも全て、佳隆は知ることになったはずだ。ただ目の前の繋がりを貪ることで、振り返るまいとしてきたことまで知られてしまった。これを、汚いと言わずになんと言う。
今だって別の男と寝ていたのだ。漏らして、吐いて、それだけでなく、もっと内面的な、卑怯さが汚い。

『──いいよ。綺麗にしてあげる。だからおいで』

佳隆はずるい、と思った。
それとは全く違うベクトルで、負けないくらいに俺は狡かった。
携帯を変えよう。番号もアドレスもなにもかも。
それで、一番最初に佳隆を入れよう。

「──俺を、買ってください」

微笑みが聞こえた。

『もちろん』

***toi et moi 2:END

1

「真澄くん、今日はどこに行こうか?」

 

目の前で嬉しそうに微笑むのは、佳隆という長身の男。

 

彼は俺を、五万円で買っている。

 

_toi et moi 1

「んー、……どこでもいいよ」

繁華街から一本離れた通りの公園に、電車の往来もにぎやかな高架下。寂れた駅の駐車場。アンダーグラウンドのレンタルショップ。〝そっち〟の人が自然と集まる場所は案外どこにでもあるもので、佳隆と知り合ったのもそのうちのひとつ。

誰でもよかったし、幾らでも構わなかった。
目が合って、声を掛けられればついて行って一晩を過ごす。それで相性が良かったら、相手に気に入られたら、メールアドレスを交換して、今度は呼ばれた場所でセックスをする。それが日中だろうと、真夜中だろうと。

気に入らない連絡先は消した。それは、相手だって同じこと。所詮そんな関係だから、各々おおむね後腐れなく他をあたる。
面倒なことになった時もあった。死ぬかもしれないと何度か思ったし、その度に住処を変えなきゃならなかったから、けっこうな、いや、かなりの手間もかかる。
でも、やめようとは思わなかった。いっそ壊してくれればいいのに。そう思った。

この衝動をなんと呼べばいいのか分からない。
相手にもそれが伝わるのか、はたまたそういう扱いが好きだと思われているのか、俺に金を払う奴らは往々にしておかしなことを要求する変態ばかりだ。

けれど。佳隆はイレギュラー中のイレギュラーだった。
今日だって、彼は会うなりにこにこと「いくら必要なの?」なんて聞いてきた。きっと言い値で万札を出すのだろう。
それにも関わらず、彼が求めるものは普通のデート。
食事や映画、買い物と、本当に普通のデートなのだ。おまけに、彼は俺に指一本と触れてこない。不能なのかと疑いもしたが、半ば強引に関係を繋いだ際にその疑いも晴れた。どうやら俺の外見は、佳隆にとって相当の好感を与えているらしい。
ずいぶん物好きなやつだと思う。

佳隆と初めて知り合った夜、俺は厄介な男に絡まれていた。
そいつは強烈な変態趣味で、数ヶ月前に一晩過ごした後にすぐ、連絡先を消した。
偶然か、まさか探されていたわけではないだろうが、とにかく再会してしまってしつこく言い寄られ、腕を掴まれて逃げるにも逃げられず膠着しているところに、佳隆が現れたのだ。

『彼、僕が買っても良いかな?』

俺と男の間に割って入るようにして、確か、そう言った。
ひと目で質の良さが窺えるスーツに見を包んだ佳隆は、見るからにこの場に不釣り合いだったし、経済的なゆとりも明らかだった。穏やかな声音の中に有無を言わさぬ強さがあって、堅気じゃないんだと言われたら納得できてしまうくらい、底知れぬ圧がある。それは、俺の腕を掴んだままの男も察したらしい。二,三、言い合って、押し負けるように男の体温が離れていく。舌打ちをしたのはせめてもの虚勢か。
そして、佳隆は悪態を吐きながら去っていく男には一瞥もくれず、俺に微笑みかけながらこう言ったのだ。

『ところで、いくらで君と過ごせるの?』

***

「…………くん、真澄くん、」

ぼんやりと思い起こしていると、佳隆に名前を呼ばれた。

「僕が行きたかったレストランがあるんだけど、そこでいい?」

見れば彼は既に携帯を取り出していて、予約を入れる一歩手前といった感じ。
慌てて手を重ねて制止する。

「えーっと、ちょっと食事はパスかなあ」

もう済ませちゃった。そう嘘を続けるより早く、佳隆は俺の肩を掴み、背を屈めて視線を合わせる。
突然目の前に整った顔が現れて、少したじろいでしまう。

「暗いから分からなかったけど、顔色が悪い。具合が悪いんじゃ……」
「…………なにそれ、考え過ぎ。もう済ませちゃっただけ。ってか、具合悪かったら来ないって」
「そりゃあそうだろうけど……」

納得のいかない佳隆の視線を受けながら、知らん顔で気付かない振りをする。
実際のところ、気分が、ひどく悪い。

午前中、何度もやり取りをしている男からメールで呼び出され、直行したホテルの一室。なにも知らされないうちに、二の腕から薬を打たれた。
倫理やモラルなんて無いに等しい関係だけど、さすがに薬物はルール違反だ。ふざけるなと抵抗もむなしく、「悪いものじゃないから」と、あっさりと男に捕まっていた。帰ろうとして叶わず、揉み合いになっているうちに、世界がひっくり返った。

天井がメリーゴーランドみたいにくるくる回る。天と地が、上下左右がまるで分からなくなる。なんのBGMだろうと思ったら、あらゆる音が旋律を持って聞こえているだけだった。「なにこれ」と俺の口が言った。「おもしろいでしょ。気持ちよくなるよ」と、男の声。五感が輪郭を失って溶けていくのに、会話だけは明瞭なことが不思議だった。

ベッドに運ばれて、男を見上げて。煌々とした光に目が沁みて。そこで、コンセントを引き抜いたように意識が落ちた。

夕方、強い頭痛と吐き気で目が覚める。男の姿は既にそこにはいなかった。記憶はまるで残っていなかったが、体に残った不快感はすべてを覚えていた。
照明が眩しくて痛いほどで、ベッドサイドに手を伸ばして明かりを落とす。備え付けの液晶テレビは海外のポルノ映画を延々と流していた。

その後、灰皿を文鎮に置かれていた裸の万札を手にホテルを出て、今に至る。
熱いシャワーを浴びても怠さは流れてくれなくて、少し歩いただけで足下が歪む。薬が残っていてもおかしくない。自業自得だな、なんて自虐的な気分にすらなっていて、だからこそ佳隆には見抜かれたくなかったのだ。

「…………そんなことより、飯より、俺、佳隆さんが欲しいな」

いいでしょ、と耳元で囁くと、佳隆の喉仏が上下するのが見て分かる。
正直、こんな体調で、とてもそういう気分にはなれない。けれど彼だって金を払っているのだ。そもそも俺の顔はこいつ好みなはず。自惚れるつもりはないが、魅力的な誘いではあるだろう。
真面目な話なんてしたくない。真剣な目で見られたくない。欲望以外の感情なんて、重たくて重たくて耐えられない。

「…………分かったよ」観念したように佳隆が言う。
「でも、先に食事をしてもいい?実は君と食べようと思って、まだなんだ。真澄くんは食べなくてもいいから」

デザートだけでもどう?なんて、呑気に尋ねるものだから笑えてしまう。

***

食事先に選んだのは近くのカフェだった。
コーヒーとサンドイッチなんて、まるで昼食のようなメニューを注文して、佳隆は次々とどうでもいい話を続けた。
動物を飼ってみたいこと。名前を考えているけれど、何を飼おうかは決めていないこと。米国市場で売りが目立つなんて経済情勢。最近行ったタイ料理のお店で、ライムがかご盛りで出されたこと。なにそれと、思わず吹き出してしまうような時には、そんな自分に驚いた。

アメリカンサイズのサンドイッチを、佳隆は器用に片付けていく。
よく見れば想像よりも大きな手だ。コーヒーカップで持て余す長い指をぼんやりと視界に入れながら、俺はストローを噛む。
店に入った時から胸が詰まるようないやな感覚があって、佳隆が頼んでくれたジャスミン茶はもう半分以上飲み干していた。

(……あー……気持ちわる…………)

どんどん動悸が高まっていく。無視できない吐き気に息苦しさすら覚え、相槌もそこそこにグラスを置いた。

「……佳隆さんごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「うん。突き当たりを左だよ」

自分がひどい顔をしていることが分かるから、佳隆の方を見れない。嘘の言葉なら、作ってみた笑顔なら、どんなに見られたって構わないのに。取り繕えない生身の自分を覆うものは何もなくて、それが、怖いと言ってしまえば、それまでなんだけど。
小さなカフェなので、トイレは男女兼用の一つだけ。ふらつく足取りで辿り着いた個室は、使用中だった。

「……………っ、………う、」

手洗い場の壁に寄りかかり、少しでも楽な体勢を求めて体を折る。
こんなこと、こうまでしてどうして続けるのか、自分ではもう分からない。なんのために。それを考えるにはとても正気じゃいられない。
冷や汗が出て、ますます呼吸が速くなる。強い眩暈が襲ってきて、たまらずその場にしゃがみ込んだ。

(早く、出ろよ………っ)

閉じられたドアを憎らしく睨む。
耳が鳴る。吐き気がする。でも、床に戻してしまうのだけは、絶対にいやだ。
浅く呼吸をして、なんとか息を整える。

「………!」

少し緊張が抜けた一瞬に、胃の中が逆流してきて総毛立った。頬が膨らむ。咄嗟に両手で口もとを覆う。

「っ、ふ………、んん………っ」

どうしよう。どうしよう。こめかみを冷たい汗が流れる。
視線だけで辺りを見回す。何もない。バケツとか、袋とか、そんな都合の良いものはどこにもなくて、板張りの床が迫ってくるような錯覚。
ぞっとするような覚悟を決めて、一度溢れかけたそれを飲み込んだ。視界が滲む。口の中全部が苦くて、気持ち悪い。

水が流れる音がして、はっと顔を上げると個室のドアが開いた。中から男が出てくる。
足下の俺にぶつかりそうになって、男のスニーカーがたたらを踏む。困惑と驚き、それに非難も含んだような声が投げられたけど、構わずに押しのけて駆け込んだ。使われたばかりの便器に抵抗を覚えたのも一瞬。迷っている余裕はなかった。

「ぐ、………ぶ、っう、ゲホッゲホッ、げえッ、」

空っぽの胃から濁った液体が飛び出して、ばたばたと水面を叩いた。
苦しくて苦しくてどうにかなりそう。もう、いっそ死んでしまいたい。

「は、………はぁ、っん……………」

吐き出せるものはもうなにもないのに、まだ不快感は消えない。
けれどそろそろ戻らないと不自然だ。訝しんだ佳隆に、様子を見に来られたらたまらない。重い体を無理やり動かしてレバーを引けば、ぐるぐる、水が汚れを流していく。床が沈んでいくような眩暈を感じたけど、構わずに手洗い場で口を濯いだ。
鏡に映った自分と目が合う。見つめ返すのは、底の見えない暗い瞳。その顔色は、ぎょっとする程真っ白だった。

トイレから出て周りを見渡すと、会計を済ませた様子の佳隆が店の出入り口に立っていた。近付いてくる俺に気付いて小走りで寄ってくる。

「遅かったから、心配したよ」
「あは。ごめんねー。ちょっと並んでて」
「会計済んでるから、行こうか」
「うん」

外の夕暮れはすっかり夜の色に変わっていた。辺りの暗さに街の照明が際立って、その刺激に目が眩む。ふらりと身体が傾きかけた時、腕の隙間から佳隆の腕が割り込んできた。
佳隆から腕を組んでくるなんて初めてだ。驚いて見上げると、微笑む佳隆がいる。

「…………恋人みたいで、いいでしょ」
「ん、…………」

額に何か触れたと思ったら、佳隆の唇だった。
ビルの灯りが、街灯が、金平糖みたい。
もう、どうにでもなれ。

***

佳隆に腕を引かれなかったら、きっとまともに歩くこともできなかっただろう。

ホテルのチェックインを済ませる佳隆の横顔に、ぼんやりとそう思った。
行き先は普通のホテルだと思っていたのだが、外観やロビーのインテリアを見る限り、どうもそうではなさそうだ。値の張るようなところに縁遠くよく分からないが、フロントマンに希望の景色なんかを聞かれているところを見ると、少し高い場所なのかもしれない。当日に、飛び込みで泊まれたりするのだろうか。

「では、ご案内します」

俺の心配は杞憂に終わったようで、すんなりとカードキーが差し出された。
制服を着た女性にエレベーターホールまで見送られ、ごゆっくりどうぞ、と一言。
厚いドアがゆっくりと閉じる。

「………ごゆっくり、だって。佳隆さん」

エレベーターは音もなく、滑らかに上昇していく。
佳隆の首に腕を回す。精一杯の微笑みを作り、目を細める。
吐き気も落ち着いてきたし、大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。

―――存在意義

―――自己有用感

しかし、佳隆は、俺の手を取ってはくれなかった。
肩を掴まれ、べりっと引き剥がされる。

「よしたかさ……」
「僕がこのホテルを取ったのは、君を寝かせるためだよ」
「………!?」
「歩けない程具合が悪い人と寝る趣味はない」

悲しそうな、あるいは少し怒ったような佳隆の瞳を正面から受けて、次の言葉が出てこない。こんな目を見たことがなかったから。こんな目で、見られたことがなかったから。

息が詰まりそうな沈黙の中、エレベーターが止まる。「ちょっと」「ねえ、佳隆さん」呼びかけは幾度となく無視される。一言も交わさずカーペットの床を進み、それでも佳隆の腕は俺の肩を抱いていて、行き着いた一室。
「もう寝なさい」俺をベッドに座らせ、そう言った。佳隆の手が諭すように肩を押さえる。
どうしようもなく、腹が立った。
佳隆のネクタイを思いきり引っ張って、バランスを崩した彼の足を払う。
佳隆は、俺に覆い被さるようにしてベッドに倒れ込んだ。

「真澄くん、っ」
「…………」

強引にネクタイを緩める。
シャツのボタンに手を掛けた所で、初めて聞く強い口調で名前を呼ばれた。

「真澄くん!止めなさい!」

佳隆の手は、簡単に俺の両手を封じた。ほら、やっぱり大きな手だ。まるで場違いなことを思う自分もいて、もう、わけがわからない。
くすぶっていた吐き気が、じわじわと形になっていく。パチンと、感情が弾けた。

―――自己証明。

「………っ何なんだよあんた!何で俺の事なんて気にすんだよ!あんた分かってんの?俺を買ってるんだろ?恋人ごっこじゃないんだぞ!」

大声を出したせいか、頭の芯が痺れてくらくらした。
気持ち悪い。吐きそう。佳隆といると、おかしくなる。自分が自分じゃなくなっていく。

「………分かっていないのは真澄くんだ。身体を壊したらどうするんだ」

どうして、俺の心配なんて。
ずっと目を逸らしてきた。答えがほしくて、だけど、答えを聞くのが怖くて。矛盾を抱えていられないから、だったら。

「壊れたいんだよ………!………も、何でもいいから、酷くしてよ………。じゃないと、俺……………、どうしていいのか分かんない………っ!」

何が悲しいのか。何が辛いのかも分からないまま、涙だけは溢れてきて、シーツに顔を埋めた。遠慮がちに伸びてきた手が、頭や背中を撫でる。

「………一目惚れだったんだ、君に。お金で時間が買えるなら安いと思った。でも、こんな風に自暴自棄になる君は見たくない。………ねえ、」

佳隆の手が止まる。

「真澄くん、僕に就職しなよ」
「……は………?」
「お金が欲しいなら、僕があげる。だから、真澄くんをください」

なんだ、こいつ。
頭、おかしいんじゃないか。
そうじゃなかったら、何でこんな汚いものを欲しがるんだ。
何か言わなくては。そう思ったが、込み上げてくる吐き気にそれは叶わなかった。

「………っ、よし、たかさ………っ、」
「真澄くん、………ごめん、これしかない」

佳隆が腕を伸ばしたかと思ったら、どこからかタオルを引っ張り出した。
言わんとしていることが明らかで、腕を突っ張ってそれを拒む。

「や、………待っ、………トイレ、」
「そんな状態じゃ、歩けないでしょう」

ベッドから降りようとするも、佳隆にあっさりと止められる。
嫌だと首を振ったけど、質量を持った不快感は迫ってくるばかりで。見かねた佳隆に口元をタオルで覆われる。空えずきを繰り返して、決壊はあっけなく訪れた。
喉奥からねじれるような、つぶれるような音が鳴る。だらだらと口の端から垂れる唾液を、佳隆はそっと拭った。

「ゲホッゲホッ、………っ、………んぐ、ぅ……っ、」
「………大丈夫、大丈夫だよ………」

額に、頬に、佳隆の唇が下りてくる。
不思議と、心が凪いでいく。
柔らかなシーツで包まれるような、どこか胸を突く郷愁。

「………真澄くんは気付いてないだろうけど、僕は何度か君を見たことがあったんだ。いつも違う男の人と歩いていたし、そういう雰囲気って分かるものだよね、君がしている事も推測できた」
「……なに、……」

ふらついた体が、佳隆の胸に収まる。
佳隆の、匂いがした。

「僕の名誉のために言っておくけど、夜の街で若い子を買うなんて、初めてだったからね。………もうこんな事やめて、僕のところに来てくれると良いんだけど」

佳隆の体温を感じながら、布団に沈む。
まぶたが落ちてくる。意識が眠りに下りていく。
本当は、ずっと望んでいたのかもしれない。
目が覚めても、独りではありませんように。

***toi et moi 1:END