よく似たふたりの年越し支度

高校三年の卒業式、八坂基は欠席した。

地元の公立高校。偏差値で見たら真ん中よりも下の階層にあって、清らかでお上品な校風もなければ厳格な規則もない。よく言えば生徒の自主性に任せた信頼、悪く言えば放任。その実態はマイルドな無法地帯だった。
卒業後の進路にさほどバリエーションはない。就職する者、進学する者。ごく稀に、結婚するやつだっていた。
俺と基はそんな中の下高校で、初めて同じ制服を着た。家自体は近所だったのだが、学区の境で小中と別れていたのだ。

基は当時、いわゆるクラスのはみ出しものだった。
もっとも、不登校も退学も素行不良もありふれた気風。入学から一人も欠けずに卒業まで迎えることなんて先ずもってあり得なかったから、「はみ出す」のが本流というか、なんというか。
とにかく、クラスに上手く馴染めていなかった基は、高校最後の一年間、ほとんど教室に姿を見せなかった。
誰かから嫌がらせを受けたとか、何か大きな失態を晒したとか、そういう訳ではないと当時の基は話した。どうしてか教室に足が向かなくて、オイル切れで軋む体でどうにか階段を上っても、途中で動けなくなってしまう。そんな状態がしつこく付いて回っていた。

俺と基の関係は変わらず、俺は配布物や課題をせっせと届けては、畳の上にカフェオレ色のカーペットを敷いた基の部屋で漫画を読んだり、ゲームをしたり。時には基の母さんが作った夕飯を囲んだりした。料理人をしている基母のご飯は味噌汁ひとつ取っても工夫がなされていて(或いは、そう感じて)、俺は特にしじみの味噌汁が好きだった。

調子の良いときは教室で授業を受けていたが、それと同じくらい、誰もいない廊下で肩を強張らせていたと思う。併せて、その時から基の胃腸はひ弱で、時々、生徒玄関から一番遠い教員用トイレに籠っていたことを知っている。寒いのとか、辛いものが苦手だと言っていたけど、ストレスみたいな精神的な負荷もきっとダメなんじゃないだろうか。と、俺は思っている。

年明けから自由登校が始まって、朝の出欠確認がなくなった。そうなると基の不在を意識する者は担任と、クラスに数人の友人だけになった。
その僅か数人から基の進路を聞かれた俺は、少し迷って、知らん顔で貫き通した。本当は、調理の専門学校への進学が決まっていた。

そして迎えた卒業式。
俺は、初めて基を迎えに行った。
学校に向かう道上にあって、さらにお互いのだいたい中間地点。それは大通りを跨ぐ歩道橋の前だった。
俺はいつも八時……十分とか、十五分くらいまで基を待ってみて、基の姿が見えなかったら道路を渡っていた。それ以上は遅刻してしまうし、あえて家まで呼びに行くなんてこともなかった。
だけど卒業式は、なんか違う。なぜって問われたら答えに困るけど、出ても出なくても変わらないのかもしれないけど、そういうんじゃないだろ。

「もといー、行こうぜ」

チャイムを鳴らし、インターホン越しにそう呼び掛けた。応答は存外すぐに返ってきた。切り替え音の後、基の息遣いが聞こえる。わざとらしいくらい大きな溜め息である。

「…………行くよ」

行くってばあ、と続けてぼやいた返事の途中で基はインターホンを切った。目を細めた嫌そうな顔が浮かんできて、3月の青い寒空の下、俺は一人で笑ってしまった。

***

「──よし」

晴天。
ベランダに干していた布団を取り込もうと、落ちてきた袖をもう一度腕まくりする。サンダル履きで腕を伸ばして掴むのは、洗ったシーツと天日干しの羽毛布団。両腕に抱えて、そして片足で網戸を閉めて、司はそれら寝具をベッドに下ろした。

年末。師走の三十日。
司の職場は一昨日仕事納めを迎えた。昔気質の社風ゆえ、課長の音頭で深々とお辞儀をして、拍手なんかで各々老を労った。
一方基はというと、老夫婦経営の小さな居酒屋に今日もせっせと出勤中だ。ただし居酒屋としての営業は昨日で終えている。年内最終営業日となる今日は、昼まで惣菜の販売を行い、午後からは会計締めと大掃除の予定だそうだ。
基の提案で始まったという惣菜販売は、食材の在庫廃棄を減らしたいオーナー夫婦と、年末の食卓に猫の手も借りたい主婦層両方にたいそう評判らしい。 

そんな二人で過ごす、もう何度めかの大晦日。
一日気ままに過ごすため、司は昨日から家中の大掃除に精を出している。風呂場、トイレ、台所。加えて大きな洗濯は午前のうちに済ませた。さて、午後は、床と窓。換気扇なんかも洗えたら良いのだが。

雑巾を探しに玄関へ向かう。雑巾や工具など、使用頻度の低い日用品が詰め込まれた袋戸を開けた時、微かな着信に気付いた。
振動が長く続くので、メールではなく着信なのだと分かる。慌てて壁に掛けたコートのポケットをまさぐって、入れっぱなしの社用機に触る。沈黙していた。違う。これじゃない。そもそも社用機は音が出るじゃないか。

スマホ、どこに置いたかな。思案しつつも足は動き、テレビ台の足元にぶーんと震える端末を見つけた。まったくどうして、こんなところに。

「はい。一係の柚原です」

口にしてしまってから、しまった、と思う。つい、会社用の言葉付きになってしまった。しかも、画面を確認しなかった。どこからの電話だろう。

一呼吸の間に浮かんだ思考が水切りのように巡った。どこからの電話だろうかと思い当たった時には先方の言葉が返ってきたので、水面を弾んだ石はポチャンと沈んだ。

『ああどうも、”わか葉”の谷口です。柚原さんでしたか』

少ししわがれていたが、それでいて芯のある聞きやすい声。
“小料理屋わか葉”は基が働く居酒屋だ。店主のお爺ちゃんのことを、基は”タニさん”と呼んでいたから、電話口で”谷口”と名乗った男性がその”タニさん”なのだと気付くのに瞬きの間が必要だった。

「あ、谷口さん。タニさん、ですよね。基の……」
「そうだ、そうだ。君が柚原さんですか」
「そうです」
「いや実はね、基くんがちょっと、熱があるようで」
「え?」
「店の座敷で休んでもらっとるから、迎えに来てもらえると助かるんだが、どうだね」

探るように「来られるかい」と問われて、二つ返事で引き受けた。返ってきたのは、ああ良かったという安堵の溜め息だ。
店の場所は分かるかと質問が続き、大丈夫だと答えて電話を切った。”タニさん”が商売人らしい暢達さで、折り目正しくあいさつするもんだから、司も思わず姿勢を直していた。

熱?熱だって?
思いがけない方向から飛んできた小石は波紋を広げた。心配そうではあったが、のんびりとしたタニさんの口調からは焦燥は伝わってこなかった。まあでも、とにかく、迎えに行ってやらないとな。

“わか葉”は地下鉄の駅で三つ先にある。
地下鉄の最寄りまでは少し歩かなきゃいけない。司は上着を引っ掴んで、そのまま外に飛び出した。マフラーを巻けば良かったと気づくのは、公道を渡る横断歩道に立ち止まった時だった。

***

今朝の基は、どんな様子だっただろうか。
地下ホームから電車に乗り込み、袖仕切りに凭れて記憶を辿る。
毎年正月料理に精を出す基だったが、今年俺達の台所は休業だ。基母の料亭も今年は店を閉めるそうで、年末年始にお呼ばれしてしまったのだ。
家族で過ごせよ、と一度は遠慮した司だったが、途端にむっとした基に押しきられる形で予定は決まった。まったく、あいつの不機嫌は、どこにスイッチが埋まっているのか分かったもんじゃない。

乗客まばらな車内。流行りの感染症に備えて、軒並み皆マスクで顔半分を覆っている。

車体は継ぎ目を踏んで規則的に揺れる。行き先表示の隣、液晶ディスプレイでは関東の天気予報が流れていた。笑顔の太陽マークが並ぶ。三が日は晴天が続くそうだ。

朝起きて、隣に基はいなかった。俺は枕カバーやシーツを剥ぎ取って、顔を洗いがてら洗濯機に突っ込んだ。顔を拭いたタオルもそのまま入れる。歯を磨きながら機械を回し、動き始めた音を聞きながらリビングに向かって……

停車した。目的の駅に着いたのだ。
“わか葉”は駅徒歩五分の飲食街にある。

「おじゃましまー……す」

木製の引き戸をおそるおそる開けて首を伸ばす。暖簾は下げられていたし、太いマジックで書かれた正月休みの張り紙は堂々と貼られていた。遠目で見ても鍵が開いているように見えなかったというのもあるし、店舗に自信がなかったのもある。日が出ているうちに来たのは初めてだったから。

店内は閑散としていた。当然だ。閉店中なのだから。椅子も机に揃えて上げられていて、きれいに磨かれた床には窓枠の形で光が落ちている。

「ああ、どうもどうも」

奥から足音が近付いてきて、小上がりの襖が開いた。中から出てきたのは、おそらくタニさんなのだろう。小柄だが締まった体つきの男性が、雑巾片手に顔を出す。

「こんにちは。すみません、柚原です。基の迎えに来ました」
「良かった良かった。待ってましたよ」

手招きされてタニさんの後に従った。個室になるはずの和室の襖は全て開け放たれていて、大きな一部屋のようである。
左右を見渡して、その部屋の隅で横になる背中をすぐに見つけた。えんじ色の座布団を枕に、見覚えのあるコートを布団にして、薄い肩を僅かに上下させている。
司はその塊にそっと近付いて肩を揺する。

「基。もといー。帰っぞ」

むずかるように顔をしかめ、ぎゅっと閉じた後の薄目を開く。下になっていた片目から、涙が浮かんで落ちる。虚ろな視界に司の姿を認め、基の口からは「え?」という間抜けな声が漏れた。

「………何で、つかさ………?」
「お前が熱出したって聞いたんだよ。おい、大丈夫か。………あーーほら、急に起きんなって」
「タニさん、奥さん、すみません」

起き上がった基の目は司を越えて後ろに向けられていて、つられて司も振り返る。服の膝で手を拭くタニさんと、いつの間にか「奥さん」も和室の外に揃っていた。奥さんはこれまた見覚えのある鞄を畳の上に置いたところで、おそらくバックヤードから基の荷物を持ってきてくれたのだろうと想像がついた。

「気にしないの。荷物これね、全部かしら。午前のお弁当二つ取っといたから、後で食べなさいね」

奥さんが、売り物と同じプラスチックの弁当箱を紙袋に入れてくれていた。二つ、と言われて司も慌てて居ずまいを正す。

「うわ、スミマセン。俺まで」
「やだわ。いいのよ」
「残り物で悪いが、持って帰んなさい」

そのまま世間話でも始まりそうな雰囲気だったのだが、司は会釈だけして会話を絶った。背中側、シャツの裾がくっと引かれたのだ。「帰ろう」の、基のサイン。

横目で見える基の顔はしれっといつも通りで、酷く具合が悪そうには見えない。けどそれも、タニさん夫妻に気を遣ってのことなのかもしれなかった。

「よし、じゃあほら、帰るぞ」
「ん」
「………立てるか。手?」
「平気。トイレ行ってくる」

思いの外しっかりとした足取りで立ち上がって、和室を抜けてトイレに消えた。夫妻に頭を下げるのも忘れない。なんだ、案外大丈夫そうじゃないか。

「基がすみません。忙しい日に」

基が離席したのをいいことに、改めてお礼とお詫びを告げる。夫妻はとんでもないと首を振った。

「午前はいつもと変わらなかったのよ。午後になって、外片付けてる時に、ねえ。急に気分悪いって」
「床掃除だけでもするっつうんだが、横に寝かしといた。どうも良くならないもんだから一回起こして……。一人で帰すのも気の毒だろう。車出そうかと聞いたらね、そしたら、君が家にいるって言うもんだから」
「そうだったんですね。呼んでいただけて助かりました」
「あの子、ちょっと無理する気質でしょう。風邪も流行ってるし、司くんも気をつけて」
「すんません。お気遣い、ありがとうございます」

ちょうど会話の途切れたところで、基が戻ってきた。もう靴は脱がない。司も立ち上がって三和土で靴を履き直した。
基の荷物も掴んで、挨拶もそこそこに店を出る。トイレから戻ってきた基の顔が、紙のように真っ白だったから。様子が変だ。「良いお年を」お決まりの文句で別れたが、基は軽く頭を下げるだけで口を開かなかった。きっと、夫妻も気付いていただろう。

玄関を閉めて店に背を向けた途端、基に袖を引かれた。足を止める。基は、ふらふらとガードパイプに向かっていき、その場でしゃがみこんでしまった。

「おい、基。大丈夫かよ」

やっぱり、さっきはトイレで吐いていたんじゃないか。思わずさすった背中は分厚いコートで体温までは分からず、手の甲で色を失った頬に触れてみた。熱い。こんなの、高熱じゃないか。汗ばんだ額に動かす。額はもっと熱かった。
眩暈を逃がすように踞っていたが、突然「うっ」と肩を強張らせた。

「…………ごめん、つかさ、ちょっと……。ちょっと吐いていい……」
「おい待て、今?吐きそう?」

問いかけにはこくりと頷く。そうしている間に喉仏が何度も上下して、唾液を飲み込んでいるんだと分かる。堪えるようにいっそう背中を丸くする。亀みたいに小さくなる。

「店戻ろう。トイレ貸してもらおう」

もう口元を両手で押さえながら、それでも基は頷かなかった。タニさん夫妻に遠慮しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。違う、とゆっくり首を振る。ちがう、そうじゃなくて。

「店のトイレ、タニさん掃除してた。使うの、悪いから……」

遠慮はしていたが、方向性が違ったようだ。さっき手洗いに立った時、掃除中の便座を見て使えずに戻っていたのだろう。吐けなくて、それで、落ち着きを失っていたんだろう。

「わかった。しんどいな。吐いて良いから、ちょっと待て。袋、あ、弁当の袋……」
「ある、袋、……っ……オエッ……!げええっ」

司が慌てて袋を出そうとしている間に、基は体を折っていた。思わず息を飲む。バシャバシャと吐いたものが叩きつけられるのは、グレーのビニール袋。なんだ、袋持ってたのか。

「おええっ…………げえ…………っ」

まばらに、人の往来もある。車通りも少なくない。
地面にへたりこんで袋を宛がう基は、年末の昼下がりに明らかに異質で、怪訝な視線が無遠慮に刺さる。司はそんな視線に背を向けて、基を隠した。

基が弱ってしまうと、正直、腹の底から怖い。
目の前にいたはずの基がパチンと弾けていなくなってしまいそうな気がして身震いする。
けどそれじゃ、そろそろだめだ。司は自らを叱咤する。

ひとしきり戻して、出すものがなくなってもしばらく空嘔吐が治まらなかった。基の下唇の端からは唾液が糸をひいて落ちていく。

「はーーーっ………はあ………」

乱れた呼吸を言い聞かせるように整える。
落ち着いたかと問おうとして、基の上体が傾いだ。その手から慌ててビニール袋を奪う。質量のある、白っ茶けた吐瀉物が中で揺れた。胃の中にこんな未消化のものを抱え込んで、よく平然といられたものだ。

色素の薄い猫っ毛が寄りかかってきた。目をきつく閉じたまま俯いて、浅い呼吸を繰り返す。
司はそのビニールの口を縛りながら、どうしたらいいかと顔を上げた。真っ直ぐ歩いて、もうすぐそこに地下鉄の出入り口がある。吐くほど具合が悪いと思わなかったから、電車で帰ることしか考えていなかったのだ。

眩暈が治まったのだろう。凭れていた体温がそっと離れて、自分の力で体を支える。

「………ごめん、つかさ。ごめんね」
「何で謝んだ。タクシー呼ぶから待ってろ。体冷やしたら余計しんどいだろ」
「………帰りたいですねえ」
「帰るから、心配すんな」

そんなやり取りをしながら、司は配車アプリでタクシーを呼んだ。便利になったものである。黒い車体は10分と待たずに横についた。

マンション近くの歯科医院を目印に伝え、静かに滑り出して数分。基は再び落ち着きを無くしはじめた。
実は車に乗り込んだ時から、ヤバイかな、とは思っていたのだ。タクシー特有のにおいが鼻について、基の眉間に皺が寄ったことに気付いていたから。

マスクの位置をしきりに直し、その上から唇を摘まむ。窓側に座った基が寄りかかれるよう、司は真ん中に腰を下ろしていた。すぐ近くで熱っぽい呼吸が次第に乱れて、背中が徐々に丸まってくる。

「…………降りるか?」

声を落としてそっと尋ねる。
基は困ったように司を見た。

「…………分かんない……。早く帰りたい」

そう言われると、こっちだって困ってしまう。
基の体の事は、基にしか分からないから。
車はメーターを数えながら進む。

分からない、とは言ったものの、基の体調が急降下していくのは目に見えて明らかだった。
本人にも分からないくらい不安定な具合なのだ。司は、些細なサインも見逃すまいと気を張っていた。
司の肩に頭を預けていた基だったが、次第に前屈みになって体温が離れ、左手は口元から離せなくなっている。

基が何か呟いた。走行音に掻き消されるくらいの小さな声で。

「ん?なに?」同じように体を倒して耳を寄せる。
「………気持ち悪い………っ」

基の白い手は、食道を塞ぐように、首の薄い皮膚を摘まんでいた。あまりにきつく押さえるので、爪のあとがついている。

「運転手さん、すみません、止めてくださいっ」

***

横断歩道の手前で車は止まり、基はつんのめるようにして外に降りた。司に腕を引かれてなんとか歩いたものの、コンビニの前で嘔吐。
拭いても拭いても涙が滲んできて、体が全然言うことを聞いてくれなかった。

司がコンビニの店員に断ってくれて、トイレを貸してもらった。心配したアルバイトが紙コップに入った水道水を持ってきてくれ、何度も口を濯ぐ。吐き気が落ち着くと、自覚するのは鉛のような倦怠感。悪寒と、熱を持った体の不自由さ。

それ以外の方法がなくて、再び呼んだタクシーに揺られてマンションに帰る。司に思い切り体重を預けてた。外が眩しくて目がチカチカする。熱が上がって曖昧になった思考回路で、基は高校の卒業式を思い出していた。

あの時、俺は学校を休みがちで、はっきりした理由も言えないまま、三年生の時なんてほとんど出席していなかったんじゃないかと思う。
今になっても、あの時どうして登校できなかったのか、説明を求められたら困ってしまう。特に大きな事件があったとか、誰かに悪意を向けられたとか、そんな類いではないのだ。

クラスメイトの話に合わせることが出来なかった。流行りの曲も、芸能人も、テレビ番組も分からない。どの先生が厳しいとか、あの先生は何が好きだとか、教師の話題で盛り上がれるのも分からなかった。どこのクラスの誰が可愛いとか、ビジンだとか、そんな話題も分からない。取り上げられている人のことは知っているけど、意見を求められても閉口するしかない。だって、判断できるようなものはなにもないから。自分にはよく分からない話題で笑いが弾けているのを見るのは、自分だけが宇宙人になってしまったようで、怖いとさえ思っていた。
冷たい言い方をすれば、自分に関係のないことに、興味がなかったのだ。

それでもなんとか頑張って、話題に合わせて笑ったし、時には意見を表明したりもしてみた。その緊張の糸が、プツリと切れてしまったのが、あの時期だったんだと思う。浮かないように、”普通”らしく、なんとかしがみついていた手を離して、あっという間に濁流に飲まれてしまった。

朝起きて、今日こそはと思うと息が詰まる。制服を着て外に出ても、途端に腹が下ってきて、玄関に駆け込むことになる。
世の中は平均的なものを正常とするし、偏ったものは異常と分類して回ってる。今振り返っても、あの時の自分は”異常”な側の人間だった。

だとしても、あの時離してしまったと思ったものが果たして一体何だったのか、濁流に飲まれて流れ着いた先が本当に異常なものだったのか。それだって本当は、誰にも分からないんじゃないかと今ならば思う。

司はそんな状態の俺の所に、足しげく通い続けてくれた。どうしたんだと言われないことが救いだった。何があったんだと追求されないことが有り難かった。変わらないトーンで喋って、ゲームをしたり、お菓子を食べたり、そういう時間にどれだけ助けられたか分からない。

そんな調子で卒業式当日を迎えた。3月。明るくて雲ひとつない晴天だった。
けれど、やっぱり体が動かない。司からメールで行くかと問われ、行くよと返していたこともあって、身支度は、ちゃんと整えていた。

リビングのアナログ時計が秒針を刻む。
家には、俺ひとり。
静かに、正確に、時刻は八時十五分を過ぎた。
今家を出れば、ギリギリHRに間に合う時間。

フローリングの床に座ったまま、ぼんやりと宙を眺めていた。

立たなきゃと思うのに、足に力が入らない。

(司に嘘、吐いちゃった)

──ピンポーン

不意にチャイムが鳴って、俺は文字通り飛び上がった。
脱力しきっていたことも忘れ、インターホンに駆け寄る。もしかして、と期待した。液晶画面に見つけたのは、司の姿だった。すぐに通話ボタンを押してしまって、ちょっとだけ気まずい。これじゃまるで、迎えに来てくれるのを待っていたみたい。
一拍開けて、今一番聞きたかった声が返ってくる。

「もといー、行こうぜ」

すぐに返事をするのも癪で、素直じゃない俺は大きく溜め息なんかついてみせた。

「行くよ」昨日メールで送った言葉。
「行くってばあー」

気恥ずかしくなって、途中で切り上げてしまった。
司の苦笑いが浮かんでくる。

その日初めて、頬が緩んだ。

大丈夫だと思った。
行ける気がしたんだ。

でも、だめだった。
遅刻確定の通学路。制服を着た学生は一人もいない。
司は俺を急かすことなく、二人でのんびりと足を進めた。大丈夫だと思ったし、それは自分に言い聞かせていた言葉。

(…………あ、)

俄に、怖い、と思った。
それは、俺がだめになるスイッチ。

校舎が近付くにつれて、司の声が耳鳴りに負けてしまった。
心臓が破れんばかりに脈打って、息の吸い方を忘れる。吐き方を忘れる。漠然とした恐怖が足に絡み付いて引っ張って、お腹の真ん中に嫌な感じが広がっていく。

「──基、」

呼ばれて、顔を上げた弾みで、目から涙が溢れた。頬を伝う感覚で、濡らしたのは自分の涙だと気付く。

司は困惑顔だ。見て分かる。そりゃあそうだろう。同級生が、幼馴染みが、突然何も言わずに泣き出したんだから。

俺、やっぱり帰る。司は行きなよ。親も来てるでしょ。卒業式なんだし。
そう言うべきだった口からは嗚咽が漏れるだけで、平気だと振って見せたかった右手は、司のコートを引いていた。

「…………帰りたい?」

頷いたら、また涙が落ちた。
頭がクラクラしてきて、その場にしゃがんでしまいたい。

「分かった。じゃ、やーめよ。俺も出ない」

ニッと歯を見せて笑う司に何と言われたのか、すぐには飲み込めなかった。

「そっ、……それは、だめだ。ごめん、俺のせいで。ごめ……」
「落ち着いて。だいじょーぶだろ。出なくても死なない」
「で……でも、」
「分かった。そしたらさ、俺、すげー良いこと考えた。来て」

今度の司は俺の返事を待たず、いつも通りの歩幅で歩き始めた。その足は学校のある方角へ向かっていたけれど、司の後を追いかけてるんだと思ったら、不思議と前に進むことができた。俺が付いてきているか、時折司は振り返る。腕を伸ばせば掴まえられるくらいの距離を保って先を進む。

果たして、司の考えた折衷案は、体育館の外にあった。

「もとい、基っ。卒業生入場。急いで」

吹きさらしの外階段に腰かけて、はやくはやくと手招きする司。俺はわけが分からなくて、だからこそ怖いなんて感覚が割り込む余白もなくて、言われるがままに小走りで司の隣に急いだ。

「え?なに……?」
「ここ。中の音バッチリ聞こえるんですよ」

なるほど確かに、音楽と、床を踏む足音がはっきりと聞こえる。俺が呆然と立ち尽くしていると、中から『着席』とマイクの声が響く。この声は確か、学年主任。社会科の、日本史の担当だったような覚えがある。居眠りしていても怒らない、優しいというよりは、史実の説明に夢中になっちゃうような先生だ。

「基。着席だって」
「あ、え?これ、どういう……」
「入んなくていいからさ。ここで俺たちも卒業式しよ」

突拍子もない提案に文字通り耳を疑う。
コンクリートの階段に腰を下ろして、俺はニコニコと得意げな司を見た。信じられないものを見る思いで。

「やっぱ、卒業式ってなんつーか、今日だけじゃん。もし帰ってたらさ、これからさ、卒業式っぼい話題が出る度にさ、あー、行かなかったなーって、勝手に浮かんできちゃうと思うんだよね。そんなのちょっと、嫌じゃないかなって。だったらさ、いいじゃん。俺もここで卒業式するから」

さみぃけどな、と、また笑う。
『卒業証書、授与』教師の声が反響する。

「卒業証書、授与。八坂基」

司が、恭しく証書を持ち上げるまねをした。

「卒業証書、授与。柚原司」

俺も、そんな司のまねをして、見えない卒業証書を手渡してみる。

おかしくなってきて、一度込み上げてきた笑いはなかなか引っ込んでくれない。
体育館の中まで聞こえるんじゃないかと思うくらい、腹を抱えて笑った。

***

「………い。もとい。基~」
「!」

ハッとした。今、寝てた。ここ、どこだっけ。
司の大きな手が目の前で振られて、基の視界は徐々に焦点が合っていく。

「起こして悪い。家着いたぞ」

そうだ。タクシー。
タニさんのお店から帰る途中、コンビニで吐いて、タクシーに乗って。記憶を辿って、懐かしい夢を見ていたことに遅れて気付く。

「降りれるか」
「ん」
「良く寝てたな。道混んでたから、寝てて良かった」
「ん」

リビングに戻るやいなやほっとして、その場に寝転んでしまいたくなるのを「手洗ってこい」と司は制した。洗面台で並んで手を洗い、口をゆすぐ。

「……帰ってこれないかと思った」
「俺も。お前がもっかい吐いたら救急呼んだ」
「え。そうなの」
「いや、そうだろ」

まだ調子は悪そうだが、蒼白だった顔色は熱で上気した頬の色だけになり、そのことに司は内心安堵していた。言葉の応酬は概ねいつも通りだ。

リビングにも廊下にも、至るところにいわゆるお掃除グッズが散らかっている。やりかけて慌ただしく飛び出してしまったから。
ベッドの上に放ったシーツをとりあえず下ろし、なんとなく体裁を整えているうちに、基はソファに横になっていた。

「怠い?」干したばかりの布団をかけながら司が尋ねる。
「少し」太陽のにおいに潜り込みながら、基は返した。

ソファの上、布団の丸みがゆっくりと上下する。
手持ち無沙汰になって、司はテレビを付けた。音を消してザッピングする。年末の特番は色合いだけで賑やかだ。

落ち着いたら、腹が鳴った。
タニさん夫妻からもらった弁当を思い出し、台所に向かおうとして、基の寝返りが視界に映る。

「…………今日さ、ミヤノが来たよ」

寝言にしてははっきりとした口調で、かといって会話を投げかけるでもなく、独り言のように基が呟く。
ミヤノ?誰の話だ?

「俺覚えてなかったんだけど、『宮野だよ。覚えてる?』って言うんだよな。覚えてないって言ったら、高三の時、五組だったって」

三年五組。宮野。そう言われて、朧気に一人思い当たった。同級生じゃないか。基が学校に来なくなって、司は件の彼に基の進路を聞かれていた。懐かしい。

基は続ける。相槌は要らないようだ。

「近くに住んでるんだって。で、弁当二つ買ってった。今度彼女と来るって」

司は弁当を取り出した。輪ゴムを外し、プラスチックの蓋を外す。ラップをかけて、レンジを開けた。

「卒業式、連れてってくれてありがとう」

600Wで二分。弁当をレンジに入れた後で良かった。そうでなかったら、仰天して丸ごと床に落としていただろう。
何か言おうとして振り返る。何も言われないように、基は布団に潜り込んだ。レンジの稼働音だけが静かに響く。

──あの時、司が連れ出してくれなかったら、俺はきっと、もっとだめになっていたと思うし、永遠にあの閉塞感を”卒業”できなかったよ。
──付け足したかった言葉を胸に抱えて丸くなる。

電子音がして機械が止まった。
冷蔵庫から取り出した麦茶をグラスに注ぎ、弁当と一緒にリビングへ。
寝息を立て始めた基の向かいで、司はわか葉の弁当を食べた。

師走の三十日の話。

初詣も似たものどうしで

大晦日の夕飯は蕎麦だった。蕎麦つゆは醤油ベースの濃厚な関東風だ。小ネギやミョウガ、シソを刻んで、生姜をおろして、それぞれ丸い小皿にのせていく。基はさすがの手際の良さで、慣れた手つきで着々と薬味を並べていった。司はというと、そんな基の邪魔にならないようにテーブルを拭いたり、グラスを出したり、こつこつとリビングを整えていく。

調理の専門学校を卒業した基は、定年をとうに迎えた夫婦が営む個人居酒屋で働いている。大晦日と年始は営業をお休みするような、超のつくホワイトさである。加えて、基母が経営する料亭の厨房にも不定期に立つ。料理以外の家事はからきしダメな基だが、その秀でた特技に司の胃袋はがっちりと掴まれていた。

「飲むもん、ビールでいい?」台所に立つ基に呼び掛ける。
「うん。あ、ワインあるから、後でそれも」基は珍しく声を張って答えた。
「えっ、基、いつの間に。赤?白?」
「白」
「やりぃ」

蕎麦つゆが鍋からふつふつと湯気を立てる。一緒に煮込まれているのは鴨肉と九条ネギだ。鴨肉はすぐに固くなってしまうから、火が通ったタイミングを逃してはいけない。
隣のコンロでは蕎麦が湯がかれていた。鍋底から浮かぶ気泡で麺がゆらゆらと踊っているように見える。麺がほぐれてもうすぐ60秒。基は息を止め真剣に鍋を見つめた。
今!基はサッと火を消して、蕎麦をざるに掬い上げた。水の入ったボウルにざるごと浸し、手を突っ込んでゆるやかに粗熱を取る。

「よっ!料理人」

拍手と掛け声はすぐ後ろから飛んできた。振り返るより早く司の顎が肩に乗る。手元を覗き込む司に構わず、基は手を動かした。

「良い蕎麦だかんね。うまく茹でないとかないでしょ」
「生蕎麦だもんな」
「そうですよ」

つやつやと茹で上がった生蕎麦は、基の専門学校時代の同期から送られてきたものだった。卒業してからずっと、信州の蕎麦屋で働いているらしい。毎年年末になると律儀に冷蔵便で届くので、司もありがたくご相伴に預かっている。基からも、百貨店で選んだ練り物や燻製品などを送っていた。

「早く食おうぜ。腹へった」

そこに相手が立っていたから。顔が近くにあったから。基は瞬きのようなキスをして相槌に代える。司からも、まるで念押しのようにぐっと唇を押し付ける。お互い、唇が触れあうくらいで赤くなったりしない。そうして、基は蕎麦の盛られたセイロを二つ手渡した。

「いただきまーす」
「いただきます」

手を合わせて一口目をすすったのは、年末の歌番組が中盤を迎える頃。二人だけの夕飯は、基本遅い。基は後ろでまとめていた髪をほどいた。食卓には、せいろに盛られた蕎麦と熱々の蕎麦つゆ、薬味の小皿とだし巻き卵。
あ、と言って基が立ち上がる。

「かき揚げ冷めちゃった。あっためる?」
「いいよ、そのままで」

基は長方形の平皿に乗せたかき揚げを持って戻ってきた。大判で丸く揚げられたかき揚げには、刻んだ柚子の皮が入っている。司は基が腰を下ろす前に、ひょいと皿からつまみ上げた。つゆにくぐらせ一口かじり、柚子に気付いてにっと笑う。司の名字、柚原にかけて、なにかと柚子を取り入れたがるのは、八坂基の習慣になっていた。

「これ見終わったらさ、初詣いくか」

缶ビールをぐっとあおって司が言う。マンションから歩いて20分の所に地元で有名な神社がある。元旦12時過ぎから明け方3時までが一番混雑すると分かっているのだが、歌番組を最後まで見て食器を片して、それから出かけるという流れがなんとなく恒例に続いていた。人混みもそんなに苦ではないし、毎年あの行列に詰め込まれるのがある種楽しみでもあったのだ。
基もその気持ちは同じで、グラスにワインを注ぎながら頷いた。司に勧めながら自分でも一口含む。

「蕎麦と白って合うよな」
「もとい、毎年言うよね、それ」
「白ワインは和食にいけるって聞くけど、煮物と合うとは思わないんだよな。でも、蕎麦はいい」
「おう。俺もそう思う」

普段多い方ではない口数が、料理の話になると途端に饒舌になる。司はそれを面白いなあとか思いながら、笑って同意と肯定を。もともと大味だった司の味覚は基好みに矯正され、今では食の好みは大体似通っている。

セイロの上から蕎麦がなくなる頃にはワインも空いて、歌番組もエンディングを迎えていた。食べきれなかったかき揚げはラップをかけて冷蔵庫へ。基はグラスに残ったワインを少しずつ飲み続けていたので、司は代わりに流しに立った。特に当番なんかで決めたわけではなかったが、なんとなく大晦日の洗い物は司がこなしている。

スポンジで洗剤を泡立てながら、ほんのり赤くなった基の目元を盗み見る。少しだけ下がった目尻で、テレビの光をぼんやりと追っていた。最近の基は髪の毛が伸びてきて、料理中はひとつにまとめて縛っている。タートルネックのセーターから覗く首筋が好きだなあと、司はこれまたぼんやりと思う。その首のラインは、今は薄茶の猫っ毛に隠されている。

「さーん、にーぃ、」

日付が変わった。
基の匂いとワインの味。そこに、食器用洗剤の人工的な柑橘類の香りが混ざる。
水を流していたから、テレビのカウントダウンに気付かなかった。
いつの間にか台所に入っていた基が3秒前をカウントして、

「ぜろ」

年を越した。
大きな感動もなく、物凄く特別な感じもなく、いつものように変わった日付が元旦となってやってきた。
テレビの向こうでは色とりどりの紙吹雪が舞っていて、アナウンサーやタレント、芸人、モデルに女優。華やかな面々が祝福に手を叩くのを流れるように映している。

元旦を迎えてしばらくは、呼吸の音しかしなかった。

「さ、初詣行こ」

頬をくすぐっていた基の睫毛はあっさりと遠ざかり、ぬっと伸びた腕が水道の蛇口をひねって閉めた。あ、もしかして水、流しっぱなしだった?
見れば床に泡がぱたぱたと落ちていて、スポンジを持った手が宙ぶらりんだったとようやく気がつく。

「基っ、待てって」
「置いてくよ」
「今行く!」

手を流して床を拭いて、ばたばたと身支度を整えた。スウェットを脱いでコーデュロイパンツに履き替える。ソファーにひっかけていた焦げ茶色のダッフルコートに袖を通す。洗面台でちょっと前髪を直し──いや、夜の0時過ぎだ、必要ない。
玄関に駆けると、すっかり着込んだ基が携帯カイロを揉んでいた。

「遅い」と不満顔でむくれる基。
「冷やすなよ、腹」
「わかってる」

基はとても、それはとても胃腸が弱い。ダメなのは刺激物や生物、それから寒さ。朝起きて挨拶より先に「お腹いたい」と呟く基も、トイレに籠って不機嫌な基も、もう何度も何度も見てきた。
さらに基はとんでもない寒がりなのだ。今年新調した基のコートは濃紺のダウンジャケット。アウトドアメーカーの手掛けた寒冷地作業にも採用されているアウターで、充填されている羽毛は純国産だと言われていた。精製も縫製もすべて日本国内。果たして国内生産のために仕上がったクオリティなのかは分からないが、とにかくその着心地は目を見張るものだった。細身のシルエットに反して一枚で保温し、羽織ったそばから暖かい。
なぜそんなことを司が把握しているかと言えば、一緒に出掛けたときの購入品だからに他ならない。お連れ様も一着どうかと店員に勧められたが、そんな試食感覚で手の出せる代物ではとてもない。自分にはポリ50アクリル45、ウール5パーセントの中国製で申し分ないと丁重に断った。これだって百貨店のメンズフロアで三万はしたはずだ。
基は上機嫌で支払いを済ませていたが、司は恐ろしくて最後まで値段を確認できなかった。
冷え性基は防寒着に関してのみ、金に糸目をつけない。中に着るのはどこにでもあるような白のセーターとベージュのスキニーだ。

玄関を出て、施錠する。暗闇の寒さに二人で身震いした。風に乗って除夜の鐘が届く。基が、猫のように身を寄せてくる。
「手、繋ぐ?」と左手を差し出したが、基はふいっとそっぽを向く。「寒いから嫌だ」どうやら繋ぐためにカイロの入ったポケットから手を抜くのが嫌らしい。
司は肩をすくめ、そうですねと嫌みらしく呟いてみせた。

それにしたって底冷えする気温だ。時間を考えればそりゃ、当然ではあるのだが。司もポケットに手を突っ込んで、握ったり開いたりを繰り返す。
驚いたことに、屋根のなくなった通りまで出ると、白いものがアスファルトをうっすらと覆っていた。

「嘘。雪じゃん」

感嘆の声を上げながら、基は数歩駆け出し地面に足跡をつけた。

「ほんっとだ。へええ、いつ降ったんだろ」

道理で寒いわけだと納得する。まさか、雪が降っていたなんて。思わず空を見上げたが、厚い雲で星も見えない黒が広がっているだけだった。

靴底で雪を踏みしめる感覚。ぎゅ、ぎゅ、と、一歩進めるたびに音が鳴る。すれ違った夫婦が「雪ねぇ」と話している。
神社が近付くにつれ、人通りが増えてきた。若い連れも少なくない。司は基の口数が減ったのが気になって、半歩後ろの顔を覗き込む。

「冷えた?平気?」

自分は鈍感だから。言葉で言われないと、気付いてやれないから。だから少しでも気になった時には、司はストレートに尋ねることにしていた。
心配して投げ掛けた言葉に、基はぽかんと顔を上げた。

「え?何、急に」
「や、黙ってるから。冷えたかと思って」
「いや、そりゃぁ、寒いですけど。ほら見て、前の人の足跡だけ踏んで行けるか、挑戦」

何だそれと思って足元を見ると、なるほど既にある足跡を踏むように足を進めていて、やっぱり「何だそれ」と笑ってしまう。とりあえず、具合が悪いわけではなさそうだ。司はひとまず安心して肩を並べる。

「甘酒どうぞ」

境内に入る手前、テントがひとつだけ張られていて、地元の酒屋が毎年温かい甘酒を配る。少しだけ生姜の効いたあっさりとした甘酒だ。

「明けましておめでとうございます」
「はい、おめでとう。はい、甘酒ふたつね」
「いただきます」

基が紙コップふたつを受け取って、横に並ぶ司に回す。司も酒屋のおじさんにお辞儀をしたが、人混みに飲まれて額しか見えなかった。
甘酒をちびちびと飲みながら、鳥居までの階段を登っていく。屋台の手前数百メートルから参拝客の姿が増え、階段は一段一段登っていくのがやっとなほど、ごった返していた。町中が目を覚ましたんじゃないかと思うくらいだ。

「毎年のことだけど、人、すっごいな」

先の長い階段を見上げ————立ち止まってはいられないので足を動かしながら————司は思わず呟いた。

「ま、元旦でもないと、来ませんから。俺たちもさ」
「調子良いよな、まったく」
「はは。神様に怒られるよ」

基の軽やかさが嬉しくて、隠すことなく頬が緩む。中身の無い会話の最中、基が「あっ」と足を滑らせたのを言い訳に、体を引き寄せ腕を組んだ。

「これなら手、ポケットでもいいじゃん」

基はちらっと司を見て、そうですねと口調を真似て、拗ねたようにツンとする。照れている顔だと今なら分かる。
実は、元旦にきちんと初詣をするようになったのは、基と付き合うようになってからだった。基がいなければこんな風に参拝することも一生なかっただろうと思うから、そのくせ、来てみればいっぱしに願い事なんかをしてしまうのだから、余計に「調子が良い」と思うのだ。

牛の歩みでしばらく進み、階段の、ちょうど真ん中辺りだろうか。列がぴたりと止まった。きっと先頭が拝殿に到着したのだろう。
立ち止まると寒さが際立って、身を縮めるのは二人同時だった。

「俺、トイレ行きたくなってきたわ」
「ああ、俺も」

司の呟きに、基も乗った。タイミング同じかよ。なんとなくおかしくなって吹き出した。これは、家に帰ったらじゃんけん勝負だな、とのんきなことを考える。元旦早々、成人男性二人で便器の取り合い……とてもマトモな絵面じゃない。

一段進み、小休止。一段進み、小休止。
ゆっくり過ぎてバランスを崩しそうな歩みだ。石の積まれた階段は、結構傾斜がきつい。
毎年芯まで凍えて来年は昼間にしようと思うのに、いざ終えてしまうとまた来年な、と約束していると想像に易い。これまた勝手で調子の良いところである。

「司」

名前を呼ばれて、基が組んだ腕をぎゅっと締めた。返事をするより前に、基は続ける。

「俺、ちょっとヤバい」

誤魔化すように小さく「かも」と付け足して。少しずつ進む人混みを見上げる。

「──マジ?」
「マジ」

意図するところは、すぐに直感できた。基の靴底が地面を踏む。石段に擦れてざりっと砂の音がした。

「おま、さっき行きたくなったばっかじゃん」
「急にきたんだってば」
「ハラちっさ!」

腹というか、膀胱というか。基はそう思ったが口には出さなかった。突っ込んでも仕方のないことだったから。
また一歩列が進んだ。前後左右満員電車のような密集ぶりだ。寒さのせいか、尿意のせいか、這い上がってくる鳥肌に、基は小さく足踏みした。今、ちょっと息んだら、確実に出る。ああそういえば、家を出る前に用を足さなかった。

「どうする?下りる?」

境内の中にトイレはなかった気がするが、すぐ近くにコンビニがある。司の提案に、「ええ、でも」と基は上ってきた階段を振り返って見下ろした。司としては、下までいってもう一度並ぶのも、まったく苦ではない。だってもともと、”基と”初詣に行きたいだけなのだ。

「……うん。じゃあ」

ややあって、基は顎を引いて、窺うように頷いた。

***

人の流れに逆らって下りる二人組を咎める人はひとりもいなかった。新年早々、おまけに初詣に並ぶような参拝客に、そう気の短い人も居ないのだろう。並んではみたが、人の多さに諦めた若者……多くの目にはそう映っているはずだ。
司が低姿勢に謝って、詰まった道を開けてくれる。

「ああ、兄ちゃん達。だめだよ」

牛歩の倍くらいの進みで階段を下っていると、両手を広げて止められた。ちょうど、父親くらいの男性だ。驚いてたたらを踏み、勢いあまってぶつかってしまう。立ち止まってみて初めて、何やら不穏な騒がしさに気が付いた。

「下でテントが燃えたって。帰んなら本殿の裏から通りに出な」  

男性は親切に立ち止まってくれたが、下からは慌てた様子で群衆が駆け上がってくる。「火事っ!火事!」伝言ゲームは誇張され、悲鳴を伴う混乱がさざ波となって広がっていく。

「テントが燃えたって……」司は拾った言葉を繰り返す。
「酒屋のテントさ。甘酒の」
「怪我人はっ」はっと食いついたのは基だ。
「コンロの火が飛んだんじゃねえか。テントが倒れたもんで、騒ぎになっちまった。なに、誰も怪我なんかしてねえよ。燃えるもんもねえしすぐ消える。だから兄ちゃん達も、焦ることねぇけど上から帰ったほうが面倒ねえぞ」

ちゃかちゃか喋る男性は、そう言って階段をのぼっていった。人混みに押されるようにして、二人も上へ上へと流されていく。待ってくれ。そんなに焦らなくたって。戸惑いに目を見合わせた。

「ええ、嘘でしょ……」

状況を飲み込めない顔で基が呟く。おそらく、上へと急ぐこの群衆の中には、なぜ走っているのか分かっていない人も多いだろう。

小走りで駆け上がり、もう拝殿が見えてきた。その後ろに建つ本殿をぐるりと囲むように道があり、杉林を抜けて通りに出るとあの階段を避けて下ることができる。

「もとい」
「……うん」

司は小声で呼び掛ける。細い林道が人で詰まり、再び膠着状態となった混雑を見て、唇を噛む基に気付いたからだ。 
その場でトントンと足踏みを続ける基は、両手で太股を大きく撫でた。ゆるく目を閉じて、震える息を吐く。

下腹がきつい。ほんとうに、さっき気付いたばかりだったのに。
寒さとアルコールのせいで、なんとなくトイレに行きたくなった。司が言うから思い出したくらいの、ささやかな欲求。だから、少しも急いでいなかったし、気に留めてもいなかった。寄り道しないで家に帰ろう、それだけの意識だったのに。
おしっこを溜めた膀胱は、全然膨らんでくれなかった。たちまちいっぱいになって、もう満タンですと信号を出す。けろっとしている司が恨めしい。こんなに我慢の効かないことは初めてだった。

「……あとどれくらい持ちそう?」

躊躇いながら、司は尋ねた。さっきから基は酷い顔色をしていて、司の心拍数を跳ね上げていた。
家まで我慢できるか、とは聞けなかった。

「…………列、外れたいな」

基は不安そうに揺れる瞳で辺りを見渡した。進むも戻るも容易くない。列を抜けて人混みから離れることも、また難しそうだった。

突然基の肩がびくりと跳ねた。ひくっと息を飲んだのが分かる。背中を折った基が両手で前を押さえていて、司は思わず目を逸らした。なぜだか、見てはいけないものを見てしまった気持ちになったから。

「あっ、……あ、ごめん、ごめん司」

それをどう捉えたのか、基はぱっと手を離して司の肩を叩く。不意にぶわりと尿意が膨らんで、喉の奥から変な声が零れた。その場にしゃがんでしまいそうになる基を前に、司は慌てる。

「ち、違う基。そうだこれ、これ肩からかけてな。長いから、その、押さえてても見えないから」

基のジャケットは暖かいが、丈が短いのが唯一難点だ。その点司の着ていたコートは尻まですっぽり隠れるロング丈で、上から引っかけておけば基の不自然な動きが目立たない。

全身でおしっこを我慢している姿があまりにやらしくて、他の目に触れさせたくなかったんだと知ったら基は怒るだろうか。
上着がなくなり寒くないと言ったら嘘になる。けれどこれ一枚で基の尊厳が守られるなら安いものだった。

「ママぁ、おしっこー」

数人分前方で、小学校低学年くらいの男の子がそう言って母親の腕を引いた。「もう少し我慢しなさい」母親は唇に人差し指をあてる。男の子は帰る帰るとしばらく駄々をこねたが、やがておとなしく前を向いた。

「……つかさぁ、おしっこ……」基が男の子の口調を真似て呟く。
「我慢しなくていいけどな」
「するよ、そりゃ」

無理は感じるが、まだ軽口を叩く余裕はあるらしい。そのことに司は安堵して、基の肩を引き寄せる。前屈みに俯いた基は、明らかに具合が悪そうだった。だったらいっそ、具合が悪いということにしておこう。
小刻みに震える基は苛立ちから地面を蹴る。コートの下で何度も太股を擦らせて、腰が落ち着かない。司は下半身にべつの熱が集まってきた気がして慌てて頭を振った。自分だってトイレに行きたかったことを、ここで、ついでのように思い出した。

「司」
「どうした?」

ゆっくりゆっくり列は進み、もうすぐ道を抜けるという時。基は小さく名前を呼んだ。基は真っ直ぐ立っていることも難しくて、顔を上げられなくて、両肩を支える司に押されてなんとか前進できていた。

「……ちびりそう、ちょっと……ちょっと、出た」

腰を屈めて耳を基に寄せると、とんでもない爆弾が落とされた。「うっそ、マジ?」馬鹿みたいな返し言葉しか出てこない。それでも基はこくこくと頷いて、司の頭は真っ白になった。

「い、嫌だ、やだ、どうしよう、嫌だ」
「落ち着けって、基、」

一度溢れてしまったらもう、堪えることが出来なくて、押さえても押さえても少しずつ、確実に下着を濡らしていく。歯の根が合わずガチガチと音を立てる。きゅっと刺すように膀胱が痛んだ。待って。嘘だ。外で。人がたくさんいて。

「基!」

強い力で腕を引かれた。いつの間にかアスファルトの地面になっていて、境内を出たのだと気がつく。

「あ、あ……あぁ、……っ」

坂を下る人混みとは反対に、つんのめるようにして一歩、二歩。足を動かすと同時に熱いものが尿道を通って、絶望感で目眩がする。基は、司にしがみついたまま放尿した。ズボンを履いたまま。間に合わなかった。間に合う算段なんてなかったけど、とにかく、間に合わなかった。

「うっ、……っ……ひ、」
「基、大丈夫だから、こっち」

正面から抱えられて、道路の端に引き寄せられる。息が苦しくて司の胸に顔を埋めた。誰かに見られているのだろうか。知らない誰かに。いい年した男が、堪えきらずに漏らしている姿を。あの小さな子供だって我慢できたのに。
好奇の視線に晒されているのか、確認するのが怖くて後ろを見れなかった。怖くて、恥ずかしくて、死んでしまいそうだ。ごめん。司、ごめん。申し訳ないと思うのに、セーターを掴む手を離せない。謝罪は嗚咽に溶けていった。

硬直した基がくっついて離れないので、司はそのまま地面に腰を下ろした。基の履いていたベージュのスキニーは、その前から太股にかけて変色している。座るのは気持ちが悪いだろうが、座らせないことには倒れてしまうんじゃないかと思ったのだ。基は冷たい地面にへたり込んだ。

固まって震える基の手に、司は自分の手のひらを重ねた。あまりの冷たさにぎょっとする。手袋させれば良かったかな。

基はきっと、恥ずかしいとか、申し訳ないとか、死んでしまいたいとか。そんなことを考えて思考停止している。こんな風に落ちた基を引っ張りあげるのは、すごく大変なのだ。

「もとい、誰も見てない。大丈夫。暗いし、何も見えない。俺しか知らない。大丈夫だからな」
「顔上げて。家帰ろう」
「ほら、俺のこと見ろって」
「このままじゃ冷えるぜ。腹冷やしたら、やだろ」

背中や手の甲を撫でながら、思い付く限りの「大丈夫」を繰り返した。何が大丈夫なのか分からなかったが、基にとって何が大丈夫じゃないのかも司には分からない。司の頭には、基への心配しか入っていないからだ。基のことを守らなきゃいけない、なんて、庇護欲じみた使命感が浮かんでくる。

鼻を啜って、基がようやく顔を上げた。真っ赤な目と鼻が街灯に照らされる。目尻から涙が零れた。

こくりと頷く基を見て、司は心底安堵した。基が何も言わないので、生きた心地がしなかったのだ。

「…………寒い」

基の声は掠れていた。司は立ち上がり、基に両手を差し出す。「俺のが寒い」苦笑しながらそう言うと、基はあっと声を上げた。

「ごめん!ごめん、司のコート!今、脱……あ、汚し、」
「ごめん禁止!だから、寒いから、早く帰ろう」
「汚して……」
「基の高級コートじゃなくて良かったです。立てる?通りでタクシー掴まえよう。具合平気?」

司に引っ張り上げられて、基はなんとか体を起こした。足元をふらつかせた基の体が冷えないように、司はコートのボタンを閉めてやる。まるまると着ぶくれして雪だるまみたいだ。上着を二枚着ているのだから。でも、これで、もう何も見えない。

家に帰ったら、すぐにシャワーを浴びよう。同時にお風呂を沸かしながら。狭いけど二人で湯船に浸かって温まる。眠くなってくるだろうから、そしたらベッドに潜ろう。元旦は寝て過ごしたっていい。基はきっと黙ったままで、なかなか浮上してこないだろうから、基が復活するまで存分に甘やかすのだ。

夜明け前の坂道を並んで歩いた。燃えたというテントは骨組みだけ横になっている。人影はまばらで、さっきまでの喧騒が嘘みたいだ。何があったのか知らない参拝客は、人の少なさを怪訝に思っていることだろう。酒屋のおじさんから貰った甘酒の味を思い出した。誰も悪くないとは言えないが、少なくとも基は悪くない。そうだろ。

お互いに言葉は交わさなかった。司は通りで右手を上げて、タクシーは信号機の手前で停まった。

「明けましておめでとうございます」

気の良さそうな運転手がミラー越しに軽く頭を下げた。司も同じ挨拶を返し、頭を下げる。そういえば、基に明けましておめでとうと言っただろうか。家に帰ってからやることが増えたようだ。
俯いて目尻を拭う基の手を握りながら、司は運転手に目的地を告げた。

初詣も似たものどうしで:END

大晦日は似たものどうしで

夕方になって、郊外のショッピングセンターへ車を走らせた。
昼と夜の入れ替わる時間。冬の夕暮れは短く、太陽はあっという間に建物の背後に沈んでいく。ほんのりと夕焼けの名残を留めていた空も、車を降りる頃にはすっかり夜の色になっていた。

「きんとん買っただろ。黒豆はあるし、あとなんだっけ」

食品売り場でカートを押しながら、柚原司は首をすこしだけ捻った。左隣、半歩後ろを歩くのは恋人の八坂基だ。オリーブ色のモッズコートに身を包み、少し俯いて襟元に顎を埋めている。ポケットに手を突っ込んで歩くから、「危ないぞ」と窘めるも無視された。

「……三つ葉。雑煮作るんだろ」
「ああ、そっか」

基はたいへんな寒がりだ。裏地にダウンの入ったこのコートは基のお気に入りで、今年の冬はこればかり着ていた。去年、散々吟味してようやく納得のいくものを見つけたと得意げな顔を思い出す。
それはコート一枚に支払う金額としては、司には到底理解できない価格だった。しかしながら、年中指先の冷たい彼曰く「コートは鎧」。どんな格好でも生きていけるが、冬の装備だけは最大限のクオリティに仕上げておかないと死活問題になるらしい。実際、コート以外の衣類に対して基の関心は薄い。
そんな基だが、今朝からどうも機嫌が悪い。機嫌が悪い時と眠い時、黙ってしまうのは学生時代から変わらない。
午前中の大掃除だって殆ど口をきかなかったし、何か話しかけても「うん」かNOを意味する「ううん」しか返ってこない。ちなみに、後者は首を振るだけで声すら出さない。
いったい何に怒っているんだろう。俺、何かしたか?
司は考えるも、それらしい答えは出てこなかった。

「なあ、怒ってんの」

自分の頭で分からないことなら、直接聞くしかない。ましてや人の気持ちのことなんて、なおさら。
白菜を手に取りながら司は尋ねた。今年の冬は葉ものが飛び抜けて高い。値段を見て直ちにためらい、いやいや三が日は鍋にするんだと思い直してカゴに入れた。そのままの動きで振り返る。基はようやく顔を上げたが、そこには驚いたような、心外そうな、なんとも言えない表情が待っていた。
目が合ったかどうかも定かでないうちにふいっと顔を背ける基。ちょっと不貞腐れたように唇を尖らせている。色素の薄い猫っ毛には、枕の形で寝癖がついていた。

「……別に、怒ってない」

基はカゴから白菜を取り出して、「こっちのほうがいいよ」陳列棚に積まれた別の一株と入れ換えた。
司にはさっぱり分からない目利きだが、基がそう言うからそうなのだろう。
高卒で調理の専門学校に進んだ基は、個人経営の居酒屋で働いている。部屋は散らかり放題、洗濯機の使い方さえあやしい奴だけれども、料理の腕だけは確かなのだ。基の母親も小さな料亭を切り盛りしており、最近になって彼はそっちの店も手伝いはじめた。酒のつまみから手の込んだ和食、繊細な見た目のフランス料理……の触りまで、スキルは上達するばかりである。司はそんな基に、すっかり胃袋を掴まれている。

「あっそう」

じゃあ何でそんなに不機嫌なんだよ————という言葉は飲み込んだ。
お互いにそっぽを向いたまま、司は季節モノでびっくりする程高い三つ葉を掴む。
多くの若者がそうであるように、正月料理がとりわけ好物な訳ではない。「縁起物」の意味するところさえ曖昧だ。けれどもなんとなく、それは例えば神社で手を合わせるように、通過しなければ落ち着かないものだった。こういう時、自分はやっぱりニホンジンだなーと、ひっそり孤愁するのだ。

海老焼きや煮物は基母からお裾分けを貰う。基が作れないものは買った。出来合いのきんとんと、足りない材料は今日揃える。司は頭のなかで買い物リストをチェックして、不備や買い忘れがないかを確認した。
人の流れに従ってカートを押す。店内には、謹賀新年らしい琴奏のBGM。鮮魚を売りさばく店員の掛け声。目の前を子供が横切って行った。母親らしき女性が、それを追いかける。
周りを見回しても、男の二人連れは珍しい。

「あ、ユズ」

ふと、基が口開く。棚からはずれ、入荷のままの段ボールには柚子が積まれていた。
司の名字が柚原ということで、基は頻繁に「柚子」を見つけて買ってくる。柚子コショウ味のスナック菓子、柚子味ののど飴。外食のメニューに柚子の二文字を見るたびに、ほらほらと指先がつつく。そういう時の基はやっぱり得意げで、その表情に司は弱かった。

「何に使うの」
「何って……雑煮に入れよう。皮、細く切って」
「中身はどうすんだよ、食えんの」
「食って悪くはないけど。絞って冷凍したら、他につかえる」
「へええ」

基がそう言うなら————と、司はまたしてもカゴに放った。
話かけてきたということは、今朝からの不機嫌を少しは自覚していたということか。
けんかをしても、基はぜったいに謝らない。その代わり、ちょっとでも悪いな、と思っている時は、様子を伺うように当たり障りのない会話を向ける。そうすれば、司は許すと知っているから。素直じゃないのだ、まったく。
面倒くさい奴だが、司だって同じくらいひねくれている。
細い手触りの頭をくしゃりと撫でる。

「わっ」

一瞬身を離した基だったが、横目で司を見て、肩にぴったりとくっついた。ひねくれた二人の交差する地点は、きっとこういう瞬間だ。

基は怒っている訳ではないらしい。
しかし長蛇の列で会計を済ませ、売り場を後にしてもなお、ひたすらに黙り込んでいる。

「こっち、持って」
「ん」

……と、まあ、一事が万事、この調子。
菓子をまとめた一袋を手渡しても、顔すら上げずにポケットから手を抜いただけだった。
司は首をひねる。
人混みの流れは足早で、流されてずんずん歩きながら考える。
怒ってない、眠くもない。なのに貝みたいに黙りこくる。

あっ、と思った。
同時にぐいっと上着が引かれる。

「……ちょっ、と、待って……」

足を止め、「まさかお前さあ」振り返ろうとして─足下から、基の声がした。

「お前さ、具合が!悪いなら!最初から言えって!」

基は、背中を丸めてしゃがみ込んでいた。菓子の袋が床につかないよう上に掲げて。司はその袋を、ひったくるように奪う。何事かと周囲の視線がちらちら刺さる。
もともと口数の少ない基が、さらに静かに黙る時。それは不機嫌な時と睡魔が勝る時、それから、具合が悪い時だった。
両手で腹を抱えて踞った基は、少し呻いてよろよろと立ち上がった。司の肩にポンと手をやり、「トイレ」。ついて行こうとすると、食品持って入る気、と睨まれた。コートの上から痛いところを庇うように押さえる仕草。司はこの姿を、これまで幾度となく見ていた。基は、本人もとっくの昔に自覚してしまうくらい、胃腸が弱い。
不安定な足取りで角に消えた基を、司はヒヤヒヤしながら待っていた。
暫くして戻ってきた基は、司の座るベンチに影のように腰をおろした。腹をゆっくり擦りながら、長い溜め息。
あまりにげっそりとしたその様子に、司は思わず肩をすくめた。

「おいおい、大丈夫かよ」
「あんまり……」

猫背の背中をさらに丸くして俯く基。血の色が透ける唇からは、また深い息が溢れた。

「いつから調子悪いの」
「…………朝」
「……お~ま~え~な~……」

司は天井を仰いだ。
ショッピングセンターの天井なんて、初めて見たよ。なんて、思いながら。

***

朝目が覚めて、ベッドを抜けた時から違和感はあった。胃もたれに似た不快感は、徐々に痛みの形になる。それはちょうど、大掃除をしようと張り切る司に掃除機を渡された時だった。風呂場のカビ取りを終えてきたという司からは塩素のにおいが流れてきた。
司が窓拭きに精を出している間に床掃除を任された基だったが、時間とともに増す鈍痛がそれを許さなかった。
掃除機を支えに何度も動きを止め、息を止め、痛みが和らぐことだけをただ願う。今日は午後に買い物に行って、夜は重箱にお節を詰めて、そばを食べながら年を越すのだ。年末特番を流しておくのも良い。そしてその後は二人で初詣に行こうと決めていた。言葉で約束したわけではなく、毎年の恒例だったから。
居酒屋で働く基と、保険会社で働くサラリーマンの司。ただでさえ生活時間が合わないのに、せっかく休みの揃った大晦日をこんなことでふいにしたくない。

「なんか食ったかなぁー…………」

基はフローリングの床にへたり込んで、情けなく胃の辺りを掴んだ。

「もとい~終わったかあ」

のんびり戻ってきた司は雑巾をぶら下げて、まくっていた袖を戻していた。基は掃除機のコンセントを引き抜いて手繰り寄せる。やっとのことで一面終えたところだった。狭いマンションで助かった。

「……ん」
「買い物行くけど、行く?」
「うん」
「じゃ、行こうぜ」

コードを巻き取りながら、司に気付かれないようそっと腹を庇う。
痛みはさしたり引いたりしていて、不快感が常に付きまとう。それでも、我慢できる範囲だと、基は判断した。
じきに治まる。大したことない。自分に言い聞かせるように暖かなコートに袖を通したのが、二時間ほど前のこと。
祈りの甲斐あってか収まりかけていた腹痛は、食品売り場の冷気にあてられて再びぶり返してきた。痛みもだんだん、平静を装うのが難しいほどに、性質を変えていく。ジクジクとさし込んでいた痛みは、締め付けるような激しいものに変わっていった。

司、と呼びたくなる。
でもそうしたら、買い物なんてやめて帰ろうと言うだろうし、今朝からおかしかったなんて言ってしまったら、なぜもっと早く言わなかったのかと怒るだろう。司は優しいから、司自身を怒るのだ。
そんなことを考えてもいるうちにどんどん具合は酷くなり、言い出すタイミングを失ってしまった。カゴいっぱいの食材や菓子をレジに通し、袋に詰める。コートの下、基の真ん中がギュルッと不穏な音を立てた。
背筋を伸ばすことも出来なくて、人混みのなか、司の背中を追うことで必死だった。大股で歩く司に追い付くことが出来なくて、待ってと言おうとした時、鋭い痛みが基を襲った。
「っう」思わず、声が漏れる。
その場にへたり込む、その直前に司の服を掴んだ。

「……ちょっ、と、待って……」

自分の口から飛び出した情けない声に、基は頭を抱えたくなった。

***

しっとりと汗の浮かんだ額に触れる。俯いていた基の肩がびくりと跳ねた。

「熱……は、分かんねえな。ダルい?」
「……たぶん、熱はない」

あれから二回、基はトイレに消えたのだが、調子は一向に回復しない。
基の「腹痛い」には慣れているけど、こんなに弱るのは珍しい。司は自分のマフラーを巻き付けて、基の腰のあたりを撫でた。腹を抱えて丸まっているから、強張った瞬間が直に伝わる。痛みの波が寄せては唇を噛んで震える基を、ただ見ていることしかできない。刃物みたいな無力感の前で、司は焦り初めていた。

「もとい、とりあえず帰ろ。もうだいたい買い物終わったし、あとは別に、今日じゃなくてもいいから」
「……も、ちょっと待って、……もうちょっと、落ち着いたら……」

押すように腹を擦る基。前髪の隙間から司を見た。司の顔色は、具合の悪い基に負けないくらい血の気が引いていた。
言わんとしていることは伝わった。
そんなに心配しなくても大丈夫。司を安心させたくて、基は蒼白な顔色のまま、しかし唇が弧を描く。基が弱ってしまうと、ダメなのは司の方だった。
司は、基の頭をくしゃりと撫でた。
それからややあって、「帰る」突然基が口を開いた。

「だ、いじょうぶ?動ける?」
「……今なら」

基は曖昧に頷く。
ようやく小康状態まで治まったということか。司はそうであってほしいという期待を込めて解釈する。
動けるならばこんな人混みのベンチより、住み慣れた家のほうが何倍も良い。基の体調が落ち着いているうちにと、司は手早く荷物を持った。
基も猫背のまま、ふらりと立ち上がる。

「……気付かなくてごめん」

駐車場に戻って開口一番、運転席の司は呟いた。助手席でシートベルトがカチリと音を立てる。ほらきた、と基は思う。

「気付かれないようにしてたんだから、成功」
「お前なぁ……言えよ……」
「すぐ治ると思ったんだってば」
「動くぞ」
「うん」

司の運転する車は静かに滑り出した。
師も走ると書いて師走。その最後の日、大晦日。
午後七時過ぎの県道は、上りも下りも大混雑していた。二人の乗る車も、なかなか前に進まない。いや、確かに進んではいるのだが、交差点の多い道柄、すこし動いては赤信号につかまって……という流れを繰り返していた。
のろのろと進んでいるうちに、基の体調はまた下りはじめてしまった。
隣に座る基の様子が変わったことに、司はすぐに気が付いた。

「基、」
「……うん」

弱ったところを抱え込み、鳥肌の立つ腕を擦る。目を閉じると睫毛が震えた。
司は後部座席に腕を伸ばし、上着を掴んだ。「かけてろ」と、基に手渡す。基は黙って素直に頷いた。
車内に聞こえるのは、絹擦れの音と苦しそうな息遣いだけ。司の上着を握りしめて、基はただ痛みをやり過ごす。少しでも暖めようと、和らげようと、けれど刺激しないように慎重に。手のひらには、やわらかい皮膚の下の危うい動きが伝わっていた。
ハンドルを握りながら、司は横目でその様子を窺った。

「どこか止まるか」
「……まだ、そういう感じじゃ、ない」

基のその言葉は嘘ではなかったし、何よりも早く帰りたかった。どこかに立ち寄ろうにこの混雑だ。再び車線に入るのに困難を極めることは想像に易い。
大きく前屈みになった基は、ただ震える膝を見下ろした。

住宅街が近付くにつれ大通りから離れ、したがって車の動きもスムーズになる。基の体調は酷くなる一方で、不規則に鳴るいやな音は運転席にも聞こえていた。厚着している薄い体からはグルグルと低い音が響いていて、それに呼応するように浅い呼吸が乱れる。

「ごめん基、もう少しだから……」
「……っ、……ぅ」

混雑から抜けたのはいいが、住宅街には立ち寄ってトイレを借りられるような場所は少ない。コンビニに繋がる裏道を探すくらいなら、真っ直ぐ帰ったほうがずっと現実的だった。
片手でハンドルを握りながら、基の膝からずり落ちそうになっている上着を引っ張った。汗で張り付いた前髪をよけてやる。

ちょっと、ほんとうに、まずいかもしれない。

今、どの辺りだろう。車は動いているのか、止まっているのか。

基の想像に、最悪の事態が可能性として浮かぶ。考えないように頭を振るが、血圧がどんどん下がっていく不快感を気付かないふりは出来なかった。
捩れるような痛みはいつの間にか強い排泄欲に変わっていて、下ってきた緩い圧力に動悸が治まらない。
鼻をすする。そうしないと、泣けてしまいそうだったから。

「基、」

呼ばれて、はっと顔を上げた。見慣れたバーチグレーの外壁、申し訳程度に設けられた、屋根の無い駐輪場。

「先降りてて。車停めてくるから 」ロックを解除して司は言う。

無言で何度も頷いて、基は車から急ぎ降りた。はやる気持ちとは反対に、ふらつきながら階段を昇る。熱いものが今にも後ろを通りそうで、ひくっと喉が鳴った。震える手で解錠し、コートも脱がずにトイレに駆け込んだ。

裏の駐車場に車を停めた司は、大股走りで部屋に急いだ。
肩で息をして玄関を開けると、丁度基がトイレから出てくる所だった。

「……つかさぁ」

目が合うと、ほっとしたように緊張がほどける。基の声には涙が滲んでいて、司の思考は固まった。貧血らしい基は、慌てて駆け寄った司に体重を預けた。震える瞼を閉じ、深く息を吐く。未だ渋り続ける腹をそっと押さえて暖める。

司は暖房のスイッチを入れ、基のコートを脱がしてやる。代わりに部屋着のトレーナーを押し付け、毛布を放り、やや強引にソファに落ち着けた。
毛布からは基の白い顔だけが覗いている。
電気ストーブも付けて、エアコンも付けて、司は強ばった表情で買い物を仕分けていた。冷凍するものは小分けして冷凍庫へ、野菜は野菜室へ。テレビは年末の特番を低音量で流していた。
酷く下したせいで目が回って、照明が目に染みる。

「…………ねぇ今何時」

少し、眠っていたらしい。
微睡みから瞬きを数回。ソファに横になったまま、座面に寄りかかる司の耳たぶを引っ張った。司は年末恒例の歌番組をぼんやりと眺めている。日の落ちた部屋はテレビから届く光だけがぼんやりと照らしていた。

「あー、十時半」
「十時半ね」

お節作れなかったね。年越しそば、どうする?初詣行けるかな。
浮かんだ言葉は沈黙に泡となった。

(…………なんか言えよ)

べつに司が責任を感じることじゃないのに。
まだ半分眠った思考は、ろくに考えずに口に出していた。

「ねえ、司、怒ってるの」
「はあ?」

風をきる勢いで振り返る司。その反応に、基は逆に面喰らってしまった。

「なんで俺が、お前を怒るんだよ」
「や、俺をじゃなくて、ええと、」
「……は?」
「えーと、司をね、ええと……自分で怒ってるんだろうなと思ったわけです」
「……」

司の大きな手が伸びてきて、毛布に視界が遮られた。無造作に髪の毛をかき回される。おかしくなって、笑いが溢れた。

「…………何でだよ」
「あは。だって黙ってるから」

怒ってる時と寝そうな時、静かになるのは司の癖じゃん。
そう言うと、なぜか司は吹き出した。毛布の上から肩を叩かれる。それも、結構強い力で。病み上がりだというのにひどい扱いである。全くもって理不尽だ。
わけが分からずにいると、顔だけ、ばっと布団がはぎ取られた。このままキスだって出来そうな距離に、司の顔がある。眉毛の下がった笑い顔で。

「なあ、おばさん元気」
「母さん?うん」
「じゃあ、さっさと治せ。明日は挨拶に行くから」

出来なかったことをいつまでも嘆くのではなく、新しく積んでいく。その方が司らしかったし、基は司のそういう所が好きだった。

「来年もよろしくな」
「当たり前じゃん」

大晦日は似たものどうしで:END