西瓜の日和

酷暑続きの七月中旬、エアコンが故障した。
築三十年のアパート「ナツメ荘」はかつて社宅として貸し出されていたもので、当時の精密機器工場がなくなってからは賃貸物件となっていた。
工場併設で建てられたため駅からの立地は悪く、近くに便利な店もない。再開発の潮流によって周囲には高層ビルやマンションが建ち並び、したがって陽当たりも最悪だった。そびえ立つガラスとコンクリートの箱は鋭く太陽を迎え撃つので、拡散する光の下を俺たちは目を細めて通り過ぎるしかない。
そんな環境の物件なので、当然買い手を見つけるのは至難の技。近くには便利で新しいアパートが山ほどあるし、単身ならなおのことこの物件は適さない。築ウン十年と過ぎていようと、リフォームやリノベーションで新築さながらに生まれ変わったりするのだ。あえて三十年前にタイムスリップした住空間を選ぶなんて、よほどの訳ありか変わり者だ。

「ただいまー」

赤く錆びて塗装のはげかけた階段を上り、21号室が俺の部屋。階段同様、雨風にあてられてざらついたドアノブを掴む。鍵の調子が悪くスムーズに回らないことが増えたため、最近は少しの外出なら施錠せずに出てしまっている。

「おかぁりぃ」

古びた木造1K21号室は、俺たちの、家だった。

***

「のびてんなぁ。ほら、ちょっとよけて」
「だって暑い!エアコン効かないなんて、こんな、あり得ない……」
「あり得てるから現実なの」

持っていた買い物袋をドサドサと下ろす。
室内の温度も湿度も、外とほとんど大差なかった。直射日光に当てられないだけまだ柔らかいが、快適とは程遠い蒸し暑さだ。

「来る途中さ、凄かったよ。水道管かな?アスファルトから水噴き出してて。そこだけ涼しいんだけど、工事の人も大変だよなあ」

冷蔵庫に買ってきた食材を並べながら、良はついさっき見てきた光景をとりとめもなく呟く。老朽化した水道管が度々水漏れして問題になっているのは、ここ最近の話ではない。良も何度か耳にしたし、水道管由来の水溜まりと工事業者の制服も見ている。けれどあんな風に噴水のごとく迸発しているのを見たのは初めてだ。スーパーからの帰宅途中、すぐそこの出来事だった。
南央はふぅんと興味のなさそうな相槌を返した。反応があるだけましかもしれない。関心のないときの南央は、平気ですっぱりと無視をする。

小さな広告代理店でコピーライターとして働く南央と、見渡せばどこにでもいるようなサラリーマンの良。二人の共通点は地元を離れて進学し、ともに朝が弱いということだった。
取り立てて出来のいい頭でもなく、かといって救いようのないアホでもなく。夢も目的もなかったが、他の多くの十八歳がそうするようにモラトリアムを延長した。進学したのは都内の中堅私大である。
講義で組まれたグループで知り合ってから意気投合……というわけでもなかったのだが、なんとなく一緒にいる時間が増え、昼飯を食い、酒を飲み、つかず離れずの距離感でここまできた。
就職先が地理的に近く、「ルームシェアしねえ?」と誘ったのは、都心の単身住宅相場に目を剥いていた良。特に迷うことなく「いーよ」と頷いたのは、暑い暑いと唸る南央。立地の悪いオンボロアパートを紹介したのは、実家の建設会社を継ぐ(予定の)従兄だった。なんでも今月中に入居が埋まらないとまずいそうで、ただでさえ安い家賃をさらに値引いてもらっている。
南央の腕がゆらゆら揺れて、タオルで汗を拭う良を手招く。

「エアコンの修理さ、いつ?」
「時期で予約詰まってるんだと。来週には来てくれるってさ」
「来週かぁ」

居間の畳にタオルケットを敷き、南央はオーバーサイズのTシャツとボクサーパンツなんて、外には出られない軽装だ。音を立てて首を回す扇風機の、可動域に合わせて寝転がる。良いとこ育ちの南央だから、両親が彼のこんな姿を見たら卒倒するかもしれない。

「来週かぁ」

南央はもう一度、寝言のように繰り返す。
伸びる手足はまるで日差しを知らないように真っ白で。体温の低そうな外見も相まって一見涼しげにも見えるその実、額には汗の粒が浮かんでいる。
立地も悪けりゃ設備も悪い。入居当初からだいぶ古びていたエアコンは、先日ついに寿命を迎えた。修理の予定は、先ほどの会話の通りである。
集合住宅は熱がこもる。あっという間に蒸し風呂の完成だ。
意外にも衣食住にたいしたこだわりのない南央だって、今回ばかりは我慢ならないようだった。

「ぐえっ」

良は南央の腹の上に、炎天下運んできた荷物を落とした。カエルに似た奇声が足元からあがる。南央は飛び起きた。

「何、なにこれっ」
「スイカ。トミさんから貰ったんだよ。冷えてるから食おうぜ」
「トミさん?」
「下の階の冨井さん。さっき階段のとこで会ってさ。トミさんの実家、すいか農園らしいぜ」

そう言いながらまな板と包丁を用意する良を、南央はきっと睨んで指差した。

「手、洗う!切る前に!」
「うへ、ごめんごめん」

良は慌てて流しに向かう。包丁落としそうになったじゃないか。
南央にはすこし潔癖なところがあって、例えば外から帰ったら手洗いだとか、バスタオルは毎日洗濯だとか、食卓はアルコール除菌とか(南央に言わせれば当たり前だそう。いや、俺だって手を洗わないわけじゃない。もちろんちゃんと洗っている。ただちょっと、後回しになるだけなのだ)。パンくずを畳に落とした日には、さらにそれを手で払ったりなんてした日には、それはすごい形相で怒られる。
汚いのが嫌だとか、神経質なのとはちょっと違う……というのは良の見解。現に南央は下着一枚でうろうろするし、まあまあ存在感のある虫でも素手で掴んで窓の外に放り投げる。きっと南央の中には明確な基準があって、それに従って白と黒を選別しているのだろう。
とりあえず、そんなプチ潔癖の南央のお陰で、築三十年あばらなる蔵である我が家の衛生は見事に保たれている。引っ越して荷物を運び込んでからの一週間が大掃除に費やされたのは、その布石のようなものだった。

「あれ」

手を洗おうとして、良は首を傾げる。
蛇口を捻れど水が出ない。わずかなぬるい一筋が手のひらに落ちて、それからピタリと止まってしまった。あれ、いつもどっちに回していたっけ。試しに反対回りに回してみる。やはり、蛇口は沈黙を貫いていた。

「なあ南央、水出ない」
「はぁ?」
「ほら、見て」

文句を呟きながら南央はかったるそうに立ち上がり、ぺたぺたと足音が近づく。仕切りにしているベージュの麻暖簾をくぐって、良の背後から流しを覗きこんだ。ぬっとのびた腕が蛇口を左右に捻りまわす。

「おい南央、暑いって。くっつくな」
「本当だ。凍る時期でもないのに。なんだろう」
「故障?」
「エアコンの次は水道ぉ?ライフラインがったがただなー」
「ま、出ないもんはしょうがないし。とりあえず……」

――スイカでも食うか。
良はウェットティッシュを取り出した。気になったときに使えるようにと、ファミリーサイズで玄関に常設してある。円柱形の容器にはでかでかと除菌の青い文字。
この夏初めてのスイカは、渡された時キンキンに冷えていた。どうせならつめたく美味しいうちにかじりつきたい。良は少しだけ塩を振りたいのだが、南央は味が尖るから嫌だという。お子さまめ、と心のなかで笑うのは毎年のことだった。

「そのうち復活するでしょ」
「そぉかなぁ」

手洗い代わりのアルコールティッシュで、南央はしぶしぶ了承した。
顔には出ないが南央はスイカに上機嫌らしい。俺が切ってあげると包丁を握るので、良は慌ててそれを奪い取った。ろくに手入れもせずに使い続けているのは一般的な三徳包丁で、固く大きく丸いものを切るのにはとても向いていない。力加減も難しい。冬にカボチャを切ろうとした南央が刃先を滑らせ、左手をスッパリと切ってしまったことを思い出したのだ。

「切るのは俺!」
「ん」

その時の不便を覚えている南央はすんなりと持ち手を譲り、代わりに食卓の準備をはじめた。起きっぱなしのティッシュ箱や本に文具を適当に下ろし、食器棚からガラスの大皿を引っ張り出す。いつだったか近所で開催していた骨董市で買ったものだ。目利きは、もちろん南央担当。
台所の狭いスペースに四苦八苦しながらもスイカは二等分され、さらに半分に切り分けられた。上から見ると膨らんだ三角形にも見える夏色のコントラストに、暑さにうだっていた南央も歓声をあげる。はやく食べようと良のシャツを引っ張った。

「いただきまぁす」
「トミさんごちです!」

カタカタと動く扇風機の影、すこしだけはやく目覚めたセミ達の輪唱。もう少しして、真夏が混声合唱団だとしたら、今はデュエットの時期かもしれない。
それらの音を耳のすみっこで聞きながら、ふたりで瑞々しい赤色にかぶりついた。

「つめたぁ」

南央は爪の先でちょんちょんと種を落とし、ある程度の範囲取りきったら大きく一口かじる。良は種なんてお構い無しに一口二口と頬張って、頬にたまった種をまとめてはきだす。それを見ると南央は決まって「でかいハムスターだ」と揶揄するのだ。
つめたい、おいしい、と呟く南央の隣、良は心の中でトミさんに万歳していた。
産地直送家庭菜園のスイカは微かに青い味がして、それが今期の西瓜初めとしてはたいへん相応しく感じられた。舌と上顎でクシャッとほどける強い甘味と冷たさを飲みほす。スイカは九割水分でできているというから、食べるというより飲むと言った方が近いのかもしれない。
じゅっと果実を吸いながら、南央が「そういえば」と口を開く。

「スイカって食べるとこ、実じゃないよね。なんていうの?皮?」
「知るか。うまいとこを食うんだよ」
「そぉか」
「えっ、南央、ふたつめ?」

いつの間にか南央はひとつを食べきっていて、テーブル真ん中並んだふた切れに手を伸ばしていた。驚いてそう言うと南央はむっと唇を尖らせる。スイカの果汁が唇から顎に伝っていて、ちょっとやらしい。

「いいじゃん。残しとくつもりだった?」
「いいけどさ、食いきれんの?」
「当たり前じゃん」
「……って!お前まだそれ食えるから!もったいな!」

ふと見た南央の手元には食べきったというスイカひと切れがあるのだが、良からすれば、まだまだ十分可食部が残っている。勿体ないと非難すると、南央はますます険しい顔で良を睨んだ。

「うまいとこを食うんだよ」

うまいとこを、と変な節をつけて伸ばし、したり顔の南央はにやりと笑う。スイカのふたつ並んだ皿からより大きなほうを奪い取る。満足気な南央がおかしくて思わず吹き出してしまい、種を飛ばして思いきり叩かれた。
苦味を感じるぎりぎりまで食べ進めた良は、南央から三口遅れてふたつめに手をつけた。

***

丸々とした一玉は、あっという間にふたりの胃袋に収まった。それほど喉が乾いていた自覚は無かったが、暑さで水分を欲していたのかもしれない。

「腹いっぱい~苦しい~」
「そりゃ、お前、スイカ半玉食ったからな」
「手ぇベタベタする」

不快そうに手をひらひら揺らす南央。そう言われて、そういえば水道は生き返ったのだろうかと思い出す。夕飯の支度もあるし、そろそろ水を使いたい。
ウェットティッシュを適当に何枚か抜き取って手のひらを拭く。台所に向かって蛇口を捻ってみるも、相変わらずうんともすんとも言わなかった。

「ええっ」

まだ水出ねえぞ。そう言おうとして、南央の驚嘆が先に飛んできた。「りょぉ、りょぉ」と、通りの悪いこもった声が焦っている。一体どうした何だ何だと居間に戻ると、南央が良のスマホを掲げていた。

「おい南央、勝手にいじんな」
「だって通知。みえちゃったんだってば」
「お前なあ……で、何だって?」
「ほら、環さんからメッセージ」
「――須野原さん?」

次に驚嘆するのは、良の方だった。

須野原さん。須野原環さん。

高校の時の、一つ年上の同級生だ。
生まれつき心臓に問題があった須野原さんは、入学直後に一年休学。結果、良の同級生となり、良と座席が前後になった.
須野原さんには大好きな幼馴染が居て、その彼(そう、彼女ではなく、彼なのだ)は良の先輩にあたる。それが、町田航平先輩。航平先輩、と呼んでいたその人は、良が高1の年ひとつ上の高校二年生で、ストレートに順当に卒業していった。
そして、何度も卒業が危ぶまれた須野原さんも三年の三月、良と同じ卒業式を迎えた。最後の年には須野原さんの体調はずいぶん安定していて、高校生活最後の体育祭にも参加した。初めての体育祭だと喜んでいた顔を思い出した。

そんな須野原さんとは卒業式の日に連絡先を交換し、大学生になっても社会人になっても、一か月に一度はあいさつを送るような関係が細く長く続いていた。地元に残った須野原さんは、卒業同時に航平先輩と一緒に暮らし始めた。航平さんとしては、最初からそのつもりで一人暮らしをしていたらしい。少し広めのマンションに須野原さんの荷物を運び、ベッドや机の組み立てを手伝ったことも、懐かしく思い出せる。
そんな仲睦まじいふたりは去年、良たちの住む市内へと引っ越してきた。それも、橋をひとつ挟んでかなり近くだ。須野原さんの主治医がこの市内にある系列病院へ移動になり、通院への利便性と安心のために居を移したのである。
良は再び引っ越しの荷ほどきを手伝いに馳せ参じ、その時には人手として南央も連れて行った。南央と須野原さんはなぜか波長があったようで、二人で買い物に行くような仲になっている。良は須野原さんと呼び、南央は環さんと呼ぶので、航平先輩からはどっちかにしろと笑われる。
須野原さんは相変わらず「内藤」と呼びかける。藤をちょっと伸ばして、「ナイトー」と。

「須野原さん、何だって?」
「ここ、断水だって。あ、画面消えちゃった。開いて」
「断水?」

聞き慣れているようで少しも飲み込めない言葉に、思わず耳を疑った。南央からスマホを受け取り、指紋認証でロックを解除し、須野原さんとのトーク画面を開く。

『内藤のとこ、断水してるらしいな』
『回覧まわってきた』
『俺のとこは出るよ』
『大丈夫?』

ぽんぽんと並ぶ短いメッセージを目で追って、「あっ」今朝見た光景がひらめきと同時に浮かんで声が出た。

「南央!水道管だよ、水道管。今朝の。俺見たわ。あれかぁ~」

そうだ。確かに今朝、アスファルトの亀裂を見ていた。迸って地に滲む水流を見ていた。水が止まっているのは、そのせいか。
良は指先をトーク画面から通話へ動かした。
着信メロディ四コールのち、ちょっと戸惑ったような声で須野原さんが応えた。

『え?もしもし、内藤?』
「あ、もしもし内藤です。すんません電話で。こっち断水ってマジっすか」
『うん。え、今家じゃないの?』
「いや、家なんすけど。そういや昼前から水出なくて」
『じゃあビンゴじゃん。なんだよ』
「いつまでとか聞いてますか」
『いや。橋のそっちで断水だってことしか。あ、でも、夕方には復旧するんじゃないかって話は聞いてるぜ』

夕方。
今が十四時だから、夕方というのはいつからだろう。良は礼を言って電話を切った。

「断水、夕方までは続くかもってさ」

スマホをポケットに差し込みながら、居間の座卓に寄りかかって座る南央を見る。足の指でリモコンをいじっていた。動かないエアコンのリモコンだ。電話する良を見上げていた南央だったが、「えぇ」と唇を尖らせて不満げだ。

「なんとかしてよ」
「無茶いうな」

スイカの皮はゴミ袋に落として、洗い物は水道が復旧してからだ。冷蔵庫には水も麦茶も冷えているし、飲み物には困らないだろう。良は台所以外の水まわりを確認し始めた。
他に水道を使うのは、風呂とトイレと洗面台。風呂場の水道をダメもとで点検していた時、「ねぇ」と背後から呼びかけられた。控えめな声に振り返ると、困った顔をした南央が扉の外に立っている。

「大変言いにくいんだけどさぁ……その、ちょっと、腹痛い」

言いながら、右手で腹を押すようにゆっくりと撫でる。
いたずらが見つかった子どものように、南央は顎を引いてちらりと視線を泳がせた。

「……お、ま、え、な~……だから食いきれんのかって言ったんだよ」
「だってさぁ……」

何かを言いかえそうとして、しかし開いた口からは呻き声が零れる。俯いて腰を曲げ、へろへろと居間に戻っていく。
食い過ぎだ、自業自得だと呆れた良だったが、まさかそんなにひどいのかと慌ててその背中を追った。居間の暖簾をあげると、南央は壁にもたれて背を丸めている。扇風機は相変わらずカタカタと回っているが、その先には誰もいない。

「おい、おい、マジでやばい?大丈夫か」
「うぅん」
「どっちだよ」
「んー……」

扇風機の音、一匹で独唱するセミの鳴き声。その隙間にきゅぅと切ない音が立つ。南央は小さく呻いた。ずるずる体勢が崩れて、腹を抱えて畳に横になる。暑さのせいか、それとも他に理由があるのか、たらり、額から一筋汗が流れた。
良はぎょっとして、枕になるよう座布団を頭の下に差し入れた。いや、違うだろこれは。頭の中でツッコミが空振りする。

「な、なあ。トイレ、大丈夫か。水、出ないけど」

恐る恐る、そんなことを聞いてしまう。
大学時代、飲み会の途中で腹を壊した南央に「漏れる?」なんて聞いてしまって、うるさいと叩かれた帰り道を思い出した。また叩かれるかと身構えたが、手は飛んでこなかった。指も手のひらも腹を押さえ、南央は体折ってを身を縮める。

「……そうゆう感じじゃない」

くぐもった返事はとても気弱そうで、ひやりと背筋が冷えるのは良の方だった。
どこかでトイレを借りる?一階のトミさんちとか。いやダメだ、うちが断水なら、トミさんの部屋だってしっかり水が止まっているはずだ。須野原さんの家は免れているというが、断水はどの程度の範囲で続いているのだろう。
南央の頭が動いて、顔色を覗き込んでいた良と視線が合わさる。

「……気にしなくていーよ。そんな、やばい感じじゃ、ないし。見られてると……ちょっと、やだ」
「そ、そりゃそうだよな、悪い」

誰だって、腹が痛い様をまじまじとは見られたくないだろう。南央の言葉はもっともで、それもそうだと慌てて良は体を離した。
南央は再び座布団に顔を埋め、強く腹を抱えなおす。「そういう感じ」じゃないと口では言うが、恐らく、きっと、結構まずい具合なんじゃないだろうか。ピクピクと不随意に緊張する瞼、睫毛が広がるほどきつく閉じた目。唇を噛んで強張った頬に、先回りした最悪の事態を想像せざるを得ない。
どうすることも出来なくて、所在なくて、ただし水道は使えなくて。良は仕方なく干しっぱなしにしていた洗濯物を取り込むことにした。
変わらずにTシャツと下着の姿で丸まる南央に干したてのバスタオルをかけ、部屋着の薄っぺらなハーフパンツを投げやる。汗ではりつく前髪の隙間、蒼白な横顔が震えていた。
窓の外は、憎らしいくらいの晴天だ。

***

一週間ぶんの洗濯物を、収納し終えてしまった。
そうしてしまうと、もうこの狭い室内で出来ることなんて無いに等しくて、結果、南央の隣に腰を下した。南央はいて欲しいとも来るなとも、何も言わない。
陽の匂いが残る洗濯物をたたんでいる最中、南央の背中はどんどん丸まっていった。今はもう、膝と額がくっつきそうなほど、小さくなって耐えている。
するべきことも出来ることも、何一つ浮かんでこなかった。
南央の隣でSNSを開いて、市名と断水のキーワードで検索をかけてみる。市役所からの現状報告と、今朝の出来事を見ていた誰かの一言。それから、良が見たものと同じ光景を撮影した動画がいくつか。腹痛で苦しむ青年を救える情報は流れていなかった。
薄い腹から、低く唸るような音が響く。

「っ、い……っ」

南央が不調を訴えてから、一時間近く経過している。
食いしばった歯が擦れて嫌な音を立てた。
扇風機は相変わらず、明後日の方向に風を送っている。
南央が小さく呻いてから、水っぽい音はひっきりなしに鳴り続けて止まらない。その度に南央は座布団に額を押し付けて、バスタオルの下、両手で腹を擦り続けた。
なあ南央―、そう声掛けようとした時、南央はむくりと体を起こした。

「りょ、う」

声を絞り、泣きそうな目で良を見上げる。

「……やっぱ、やばそ、……腹痛い、どうしよう、」
「南央、落ち着け、」
「どぉし、よ、も……、もう、漏れそ……お腹、痛、……っ」

南央の言葉は途切れ途切れで、どうしたらいいんだと良の頭は真っ白になって。その時突然、スマホが振動した。メッセージの受信通知だ。

『まだ復旧しないらしいな。暑いけど大丈夫か?』

送信者は、航平先輩だった。
良ははっとして通話に指をすべらせる。

『内藤?どうした?』航平先輩はすぐに応答した。
「先輩っ、今、家にいますか」
『は?いるけど、どうした。何かあったか』
「南央が、腹痛くて。ちょっとやばそうで、すみません、先輩の家、トイレ借りにいっていいですか」
『大丈夫。それは全然、いいけど、大丈夫だけど。南央、ひどいのか』

電話の向こう、須野原さんの声で「どうしたの」と聞こえた。「内藤から電話」と先輩が応じる声も入っている。
ここから直近のコンビニまで、自転車で五分はかかる。それに橋のこちら側だから、コンビニまで断水していないとは限らない。コンビニまで耐えて、悲惨にもトイレが使えないなんて事態になったらたまらない。
航平先輩の家、同時に須野原さんの家までは、コンビニよりは若干遠いがそれでも十分とはかからない。あちらは上下水道生きていると分かっているし、へたに探すよりも確実だと思ったのだ。
ただし、南央が、自転車に乗っていられれば。

「これから、南央にがんばってもらって、俺自転車で連れていくんで。先輩すんません、お邪魔します」
『わかった。待ってるから、気を付けろよ』
「はい」

通話が切れる。
良は腹部を庇って固まる同居人の名前を呼んだ。

「南央、今、自転車の後ろ乗れる?先輩んち、トイレ借してくれるって」
「……じ、自転車……?」
「うん。俺が漕ぐから。ええと、無理そうだったら、えっと、」

どうしようかなんて、考えてない。
南央にとっても、迷っている余裕はなかったらしい。よたよたと立ち上がって、良の胸をぐいと押す。

「ほ、ほんとに、きついから、早く連れてけ……!」

なんて横暴!
押されるままに後退していったら踵で何かを踏んでしまい、前を向いたら今度は背中をつつかれた。くすぐったいと思ったら、爪の先で急かされていた。

「連れてくから!押すなって」

良は財布と鍵を引っ掴んで、床に放られていたエコバッグに突っ込んだ。今朝の買い物に使ったやつだ。保険会社のロゴが入った、絶妙にださくて、しかし絶妙に使い勝手の良いMサイズ。
他にいるものは無いよな、先輩の家まで走るだけだ。そのまま玄関先まで出てしまいそうだったが、ちらっと後ろの様子を確認して、これはマズイと居間へ駆ける。慌てて畳から拾い上げたのは、部屋着のハーフパンツだ。猫背のまま、顔をしかめる南央に押し付ける。

「せめて下は着ろ!」

マンション裏の駐輪場から自転車を押してくると、南央は花壇のブロックに腰かけていた。両手というより両腕で腹を抱え、不安そうに視線を泳がせる。ざりざりと車輪が地面を擦る音に気が付いて、ぱっと顔をあげた。
チェーンカバーがフルタイプでないせいか、最近ブレーキの度に甲高い金属音を立てる愛車は、引っ越しから使い続けているママチャリだ。サドルに跨り、荷台を叩く。呼ばれた南央はフレームに触れるも、青い顔で苦笑した。

「はは……これ、今、乗れるかな」

そうおどけてみせる南央の指先は微かに震えていて、頬を伝った汗がアスファルトに落ちた。体の真ん中、やわらかい部分を庇い続けていた腕をそうっと離して、恐る恐るといった様子で荷台に跨った。
足を開いたとき、びくりと強張った南央の手が咄嗟に後ろを押さえた。見てはいけないものを見てしまった気がして、良は思わず目を逸らす。は、は、と短く吐き出す息も、また震えていた。

「そうしてるの、辛かったら、横向きでもいいけど」
「んん……そっちの方が、落ちそうで怖い」
「分かった」
「……腰、掴んでいい?」
「おう」

南央の腕が腰に回った。日差しは殺人的な鋭さで降り注ぎ、息をするのも苦しい気温だ。
腰に触れる細い腕も汗ばんでいて、体温のくっついた背中はもっと熱かった。

「良」掠れた声で名前を呼ばれる。
「止まれって言ったら、止まって」

それは、今まで聞いたどの言葉よりも、弱々しく消えそうな懇願だった。背中に、南央の頭が押し付けられる。
良は頷いてペダルを踏み込んだ。

こんなに焦っているのに、こんなに急いでいるのに、世間は苛立ってしまうくらいいつも通りの進行だった。
「困っちゃうわよねえ」という世間話とすれ違う。「夕方には流れるらしいわよ」と話す飲料水のおすそ分けとすれ違う。どうやら断水は現実だ。
補装の甘い道では自転車は不安定に揺れ、南央は息を詰めた。汗で濡れて不快だろうに、回した腕に力がこもる。ぎゅうと背中に南央の体温がくっついて、悲鳴のような、嗚咽のような呼吸が後ろに流れていった。「止まれ」とは言われない。良はつま先まで緊張させて、必死に自転車を走らせた。

橋が見えた。
推定一〇〇mで左折。橋を直進。住宅地に入って、二ブロック先を左折。
あと少しで、先輩の家に着く。

西瓜の日和:END

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