梅雨の晴れ間に

関東は先週梅雨入りした。

梅に雨。ばいう、と書いてつゆと読む。実はその語源ははっきりしていないのだと、現国の先生が言っていた気がする。高校時代の霞んだ記憶だ。

今年の梅雨は全国的に大気が不安定で、梅雨入り後は長雨、雷雨、カンカン照り、ところにより雹まで降って。気温も今日と明日で十度近く違うような、なんだか妙な空模様である。

いずれにせよ、今日は雨。朝から降りだして、遂に一日晴れ間を見ることはなかった。風は少なくほとんど角度のつかない雨粒が、絶え間なく都会の街を濡らしている。

鉛色の水溜まりを踏んだ。泥が跳ねたが、通勤スーツの裾にはとっくに雨水が染み込んでいる。これはクリーニング必至だと諦めたのは、急ぎ足で退勤してからものの五分としない頃だった。

アパートの軒下に小走りで駆け込んでビニール傘を閉じる。コンビニで五百円で買ったビニール傘は案外丈夫で、壊れることもなく、なくすこともなく、もう長くこの一本を使っている。

閉じた傘の水を払っていると、ガチャリと錠前の開く音がした。それはちょうど左手、十五号室の扉だった。 

「内藤さん。こんばんは」

良を視界に認め、老人は「おや」目を少しだけ見開く。出てきたのは十五号室の住人、吉峰──峰さんだ。峰さんは還暦をとっくに迎えたような御年の、小柄で、おおらかで、感じの良いおじいさんだ。グレイヘアと呼ばれるような豊かな白髪を後ろに流して、鼻下で揃えた髭まで白い。入居の挨拶に回った時から、「峰さんと呼んでくれ」と笑って握手を交わしていた。

「こんにちは。これから出るんですか」
「いやいや、この雨では。郵便屋の音がしたんでね」

そう言ってポストを開けると、確かに封筒や葉書がぱらぱらと入っていた。取り出して両手でトントンと揃える。

「おや、風邪ですか」

じゃあ、と会釈して階段を上りかけた時、峰さんに聞かれた。振り返れば視線は手元のビニール袋に向けられている。中身は冷えピタの箱と、レトルト粥、それからいくつかの市販薬。近くのドラッグストアで貰った半透明の袋は中身が透けていて、なるほど確かに風邪引きだと苦笑した。

「俺じゃないんですけどね。一緒に住んでるのが、ちょっと」
「はあはあ。ええと、確か挨拶に来てくださった」
「あっ、そうです。こう、ひょろ~っとした、白っぽい感じの」
「ええ、ええ。確か、ええと、ます──益之宮さん」
「うわ!すげえ。峰さん覚えてたんですか。益之宮南央っす」
「名前を覚えるのは得意でしてね。ご近所ですし」

峰さんは得意そうに笑い、それに珍しい名字だと付け足した。言われてみれば、ナイトウなんていう凡庸……いや、凡庸というほどありふれてはいないだろうが、大体において初耳ではない苗字とは違い、益之宮性の知り合いは南央が初めてで、今のところ後続はない。

「ああそうだ。少し待っていなさい」
「え?」

何かを思い付いた顔をした峰さんは、待て、と手のひらを向けながら部屋に入っていった。ややあって再びドアノブが回り、錆びたスチール扉が開く。そこから出てきた峰さんの手にはプラスチックのパッケージが収まっていた。

「若者暮らしでは持っとらんでしょう。新しいやつだから、良かったら使いなさい」

目を細めて差し出されたのは体温計だった。それも何やら最新式で、額でも耳でも測定できる、とゴシック体。赤外線体温計というのだと、書かれた文字を追って知る。良は慌てて頭を振った。

「いやそんな、悪いっす、大丈夫です」
「景品で貰ったんですよ。どうせ使い方は分からないし、昔から使ってるのがまだまだ使えるからね」

峰さんの推測通り、良と南央、どちらも体温計なんて持っていない。そのことには、実は帰り道のドラッグストアで気付いていたのだが、五千円の値札を見て躊躇したのだ。

いやいやいや、五千円?体温計ってこんなに高いの?小さな店舗にはこの一種類しか並んでいない。隣のラックにもう少し安いものがあったようだが品切れ中で、いずれにせよ税込五千円超の値札では二の足を踏んでしまう。なあ南央、体温計、いる?売り場をうろつきながら、心の中で尋ねていた。

峰さんは年長者の柔らかい強引さで、新品の体温計を通勤鞄の外ポケットに差し入れた。

「ほらほら、持って帰りなさい」
「でも」

例え平熱だろうと、四十度だろうと、測定値を知ったところで仕方がない。しんどいのも、そうでないのも、本人の感覚だけが事実だ。そんな風に半ば屁理屈で正当化して店を出たことすら、峰さんには見越されてしまったように感じる。

「例えばね、救急車を……例えばですよ。救急隊をね、呼ぶようになった時、ただ、熱が高いんで来てくれーって呼ぶのとね、四十度の熱が昨日から、って言うんじゃね、医者に、伝わり方が違うでしょう。感覚をね、目に見える数字にするのがこれなんだから、持って帰りなさい」

「……はい」
「使わなければ捨ててもいいんだから」

そんな大袈裟な、と、返すことは出来なかった。峰さんの存外に強い口調に気圧されてしまったのと、何よりも「捨ててもいい」と念押しながら、品のいい老人は部屋の中に引っ込んでしまったからだ。

「いただいていきます!」

有り難く観念して、閉じたドアの向こうに呼び掛ける。それから、袋を持ち直して鉄階段を上った。申し訳程度の滑り止めも、すっかり錆びた階段だ。ふわっと何かが香って、コーヒーの匂いだと気づく頃には湿った空気に流されていた。

そういえば、峰さんの部屋からはいつも、コーヒーの香りがしている。

***

二十一号室。塗装の剥げたプレートに、これまた古びた……良く言えば、歴史を感じる書体で漢数字が振られている。
良はただいまも言わずにそっと扉を開けた。南央が寝ていると思ったからだ。

物音がしたので安心して開け放ち、いつも通りの気安さで靴を脱ぎ、「うおっ」驚いてたじろいだ。

台所の流しの前、南央はぺたりと座って歯磨きをしていたのだ。電気も付けず、カーテンも開けずに。

「おいおい、何してんだ」
「ほかぁり」
「口入れたまま喋んな」

靴を脱ぎ、だらしなく伸びた南央の足を跨いでリビングに。空調は除湿になっている。良は買ってきたものと通勤鞄を畳に置いた。 

「南央、お前具合大丈夫なの」
「んん」

かったるそうにシャコ、シャコ、と歯ブラシを動かしていた南央は、引き続いて緩慢な動作で立ち上がり、適当なコップを掴んで口を濯いだ。一度、三度と水を吐き、四度目は少しだけコップを傾けて、一口飲んだ。南央は意外にも平気で東京の水道水を飲むのだ。もちろん、俺も気にしないけど。

「なんか食ったの」ジャケットをハンガーにかけながら聞いた。歯磨きの手前に想像するのは食事だからだ。
「食ったというか……」

洗面所から出て、暖簾をくぐった南央はのそのそ居間に戻り、敷きっぱなしの布団に腰を下ろす。そして、「というか、吐いた」言いにくそうに、続けた。「少し」と、申し訳程度に補足する。

「うそ、マジかよ」
「ごめん」
「良いけど、そうじゃなくて。そうじゃなくて、大丈夫じゃねえじゃん」
「んー」
「熱は。今も吐く感じあんの」

良は意識せず早口になっていた。今週の南央は月曜日から調子が悪そうで、ついに今日は仕事を休んだ。南央は普段からシャキッとしているタイプではないし、テキパキ動く姿なんて見たことがない。だから「ちょっと変かも」と呟いた時もまるでいつもの調子で、夏バテじゃねえの、なんて、最初は悠長に構えていたのだ。半分冗談のような口振りで。

それが今朝、南央は布団に臥せたまま起き上がれなかった。「えー、なんか、変」今度も南央はいつもの口調で、苦笑いでうつ伏せになっていた。触ってみると、体はかなり熱い。

いつも以上にふにゃふにゃした様子の南央をせっついて欠勤連絡を促し、いつから開いているのか分からない風邪薬を取り敢えず飲ませ、冷蔵庫に食パンやハム、トマト──つまり、そのまま食べられるような食材──が入っているのを目視で確認。「ヤバくなったら病院行けよ」玄関先でそう言い残し、良は仕事に向かった。湿った空気ともくもく膨らんだ雨雲の下、帰りに薬局に寄ってやろうと思いながら。コンビニのビニール傘を持って。

「今は、ない」

返答に間があったので、良は何を言われたのかすぐには分からなかった。今吐きそうかと尋ねたことへの返事だった。

「そうか」
「そぉです」
「明日行けんの?」

明日。少し躊躇って、それでも気になって聞いてしまう。明日ねえ、と呟き、壁に背中を預けた体勢で、南央は足の爪をいじった。

明日、土曜日、南央は朝から実家に帰る予定だ。南央の祖父さんだか、ひい祖父さんだかの法事に呼ばれているらしい。

『本家の人間はみんな招かれるみたいだから、行かないと』

そうだ、確かそんな風に言っていた。

実家に「招かれる」って何だそれはと思ったけれど、同時にああやっぱりと妙に納得してしまった。南央が実家と距離を取っていることに薄々気付いていたからだ。そもそもこいつはこんな築ウン十年のボロアパートに住むような人間じゃないのだと知ったのは、ルームシェアを初めた後のことだった。

「行くって言っちゃったし」
「でもさぁ」
「いいじゃん。俺が行くって言ったら行くんだよ」
「お前へんなとこで譲らないよな……」

南央が不満そうにむくれたので、行くか否かの論争は収束させることにした。南央が行くと言ったなら、行くのだ。

「泊まり?」
「まさか。昼まで出たら帰る」
「了解」

これ以上続ける言葉はなく、空腹を感じた良は台所へ立った。少し考えて、居間の暖簾の向こうへ呼び掛ける。

「南央、なんか食う?」
「うどん」
「うどんな」
「半分」
「おー」

聞いておきながら、吐いたばかりでよく物を食えるな、と若干引いた。歯みがき粉のシトラスミントもまだ忘れちゃいないだろうに。
こいつはそういうやつだ。ピンポイントでちょっと潔癖な気を見せることはあれど、そのほか全般的に無頓着なのだ。自分にも、他人にも。少なくとも、良のよく知る南央はそういう人間だった。

リクエストに応えるべく、冷凍うどんを取り出して包丁で無理矢理に二等分した。残った半分は冷凍庫に戻す。小鍋に火をかけ、冷蔵庫からめんつゆと油揚げを外に出した。

良はというと、今朝炊いた半ば水分の抜けた白米をフライパンに落とし、炒飯を作ることにした。具材はネギとウインナー、それから卵だけの簡単な、炒飯と名乗って良いのか微妙な飯炒め。長ネギはうどんにも使えるし、一本出しても良いだろう。

「なお~たまごは」
「いらなぁい」
「はいはい」

そんな感じで、食卓にはうどんと炒飯が並んだ。卓上に置かれていた広告やダイレクトメールの束を床に下ろして。

油揚げを切る前に念のためと南央に聞いたら、それもいらないと言うので、結局刻んだネギだけのうどんである。より火が通っているほうを好むと知っているから、ネギは麺よりも先に鍋に入った。見映えは悪いが、それでも南央は「どうも」と言って笑った。

炒飯だって見た目は悪いが、うまいものをうまい組み合わせで炒めたわけで、当然、不味いわけがなかった。

「あち」

ろくに冷まさずに麺を啜った南央は、熱さに舌先を出した。おおよそ成人男性には似つかわしくない仕草である。ちらっと覗いた舌は口元のほくろのあたりを掠める。良は飲みかけの冷えた麦茶を渡す。

「落ち着いて食えって」
「うん」

南央はコップを受け取り、麦茶を飲み、小さくなった氷を口に含んだ。消音のテレビの光に照らされた部屋で、聞こえるのは二人分の食器が当たる音だけ。

しばらくは片膝を立てた粗雑な体勢で食べ進めた南央だったが、結局三口めくらいで箸を置いた。良はとっくに炒飯の皿を空けていたので、きっと食べきれないんだろうとなんとなく気付いていた。

「大丈夫か」

南央は何も言わずに頷くので、良は自分の焦りを無視できなくなった。いつも通りに振る舞うことで、いつも通りだ、大丈夫だと思っていたかったのだ。

「食わなくていいよ、それ」

口には出せない焦燥を纏った強がり。声が固くなる。

「ごめんね。ありがとね」
「いいって」
「別に、ゲロ出そうとかじゃないから。でも、ちょっとやめとく」
「わーったって」

ごめんねだとかありがとうだとか、耳慣れないフレーズにゾワゾワする。

良は、南央の残したうどんを平らげた。風邪っぴきの食べ残しを食べるのはどうなのかと迷いはしたが、自分の頑丈さには自信があった。抵抗よりももったいない精神が勝ったのだ。

「シャワー浴びてこいよ」

壁にもたれ、うつらうつらと船を漕ぎはじめた南央を見て言う。

「昨日も入ってないだろ」

普段なら、明らかに具合の悪い病人を捕まえて、風呂に行けなんて絶対に言わない。けれど、明日の南央には一家一堂に会する大事な用事があって、朝も早い。二日もシャワーすら浴びていない状態で向かうのはさすがにないだろう。

「りょぉ、入れて。介護介護」
「アホぬかせ」
「冗談だってば」
「ほら立て。な」

立たせてやろうと腕を掴むとやはり熱い。干してあった洗濯物からバスタオルと下着を掴んで汗ばんだ背中を押した。

「寝間着は持ってってやるから。とりあえずシャワー浴びてこい。そんで早く寝ろ」
「うーん。ありがと」
「いーから」

南央を浴室に押し込んで、しばらくするとシャワーの水音が聞こえてきた。良はこれまた洗濯物のハンガーから、おそらく南央の寝間着と思しきTシャツとハーフパンツを手にバスルームに向かう。「置いとくぞ」一声かけてドアのすぐ脇に置いてやったが返事はなかった。シャワーの音にかき消されて聞こえなかったのかもしれない。まあいい。開ければ気付くだろうし、気付かなくてもそのまま出てくるだろう。下着一枚を恥じらうようなやつではない。

半分眠った顔で風呂場から出てきた南央は、その後すぐに眠りに落ちた。固いせんべい布団に猫の赤ちゃんのように丸まって。熱い湯は吐き気まで洗い流してはくれなかったようで、ゴミ箱の袋を入れ替えて傍らに置いていた。自分の体調を案じられるようになったのは、南央にしたら大進歩かもしれない。

***

翌朝、南央は夜明けに呼ばれて静かに起き上がった。良はまだ寝ているはずだ。

カーテンの隙間から溢れる薄い朝日で目を覚ましてしまうくらい、浅い眠りだった。

視界に映るのは昨夜寝落ちたままの部屋の景色。ほとんど寝返りをうたなかったみたいだ。体の節々が固まって軋む。背伸びのついでに手の甲で自分の額に触れてみた。

(…………ぬるい)

自分では、熱が下がったのかどうか判断つかない。

それもそうかと下ろした手のひらを開いて、握って、何度かそれを繰り返す。

同じ一室に眠る良を起こさないよう、そうっと起き上がって洗面台に向かう。
良は狭いと言うけれど、古い作りの功名か、1Kにしては結構広い間取りじゃないかと南央は思う。布団は余裕をもって二枚敷けるし、自分は一度寝たら起きないし、仕事はフリーランスで融通がきく。会社勤めの良と共同生活を送るのに、今のところ、とくに不自由は見当たらない。
だだっ広いお屋敷で一人過ごすより、よっぽど落ち着く生活だ。

突如、世界が回るような眩暈に襲われたたらを踏んだ。咄嗟に壁に手をつき目を閉じる。

────ぐらぐらする。

これ、熱、きっと下がってないな。

耳元で心臓が鳴ってる気がする。たぶん、ここで無理に動いたら、胃からなんか出そう。

昨日の失敗を思い出す。昨日は、吐き気を覚えてせめてトイレにと動こうとして、廊下を一度汚してしまった。

耳鳴りと足下の浮遊感に耐え、全身に血液が巡るのをじっと待つ。

しばらくそうして、ようやく治まって。
身支度を整えた南央は、仕切りの長押に引っかけた礼服を羽織って家を出た。

最寄りから地下鉄に乗ってターミナル駅に向かう。通勤ラッシュにはまだ早い時間だが、それでも駅構内は人で溢れていた。出張だろうか、キャリーケースを引いたビジネスマンが多いかんじ。
フォーマルスーツに身を包んだ南央も、慌ただしい朝の喧騒に違和感なく溶け込んでいた。

ずり落ちてきたマスクを引き上げ、咳払いひとつ。
なんだか喉の奥に詰まったような感覚がある。
それが吐き気だと気がついて、南央はあわてて水を飲んだ。気分の悪さはうっすらと、膜を張ったように離れてくれない。

六時二十分発の山手線に乗り込めば次の乗り換えがスムーズになる。人の流れに従って詰め込まれた車内。座席を確保できたのはラッキーだった。これからトータル二時間超の道程と、その後に続く気の重い親族の集まりを考えたら、少しでも体力を削りたくなかったから。

乗客の隙間から、車窓の景色がぼんやりと流れていく。こんなに大きな駅に来たのに、空の色は古びた家の窓から見えるものと変わらなくて、なんだか不思議な気分になる。曇天。分厚い雲に挟まれて、太陽の光は届かない。

フリーランスという職業柄、南央はほとんど遠出をしない。契約中の広告代理店はあるが、それだってやり取りは概ねオンラインで事足りる。気分転換に近所のカフェやワーキングスペースに出ることはあっても、都心まで来るのはずいぶん久しぶりだった。実家に向かうのなんて、それよりもっと遠い昔。

ああ。これからあの家に帰るのか。

いつの間にか、眠りに落ちていた。
淡い意識が戻ってくる。人が動いている。電車は停まっている。はっとして外を見ると、乗り換えの駅だった。

「あ、すいませんっ。降りますっ」

発車メロディの響く中、乗客をかき分け隙間を縫う。
乗り降りのタイミングを逃してしまったせいで、発車直前に急ぎ降りようとする南央には迷惑そうな視線が向けられた。
ホームに降り立つやいなや車両扉は滑らかに閉まり、背後で規則正しく発車していった。
南央は、その場にしゃがみ込んだ。

急に動いたからだろうか。湿気たっぷりの外気と人混みにあてられて、朝の吐き気が再び牙を剝いていた。

膝に乗せた両腕に顔を埋める。
そうだ、俺、人混み、嫌いだった。良と暮らすようになって、そんなことも忘れていた。
動かなきゃ。次の電車、待ち時間はあったけど、そんなに先じゃない。乗り換え、何番線だっけ。階段を降りて、探さなきゃいけないのに。

「…………だ、だいじょーぶですか?駅員さん呼びます?」

不意に声が降ってきて、顔を上げるとチェック柄のスラックスが見えた。

「うわっ。ちょっと顔色、すごいっすよ。俺の声、聞こえますか」

スラックスの膝を床について、南央の顔を覗き込んできたのは制服姿の男子高生だった。
風を感じると思ったら、もう一人、女の子がクリアファイルを団扇に扇いでくれている。スカートのチェック柄が同じパターンだから、同じ高校のふたり組なのだろう。

「えー…………、と……。えっ、うわ、うわわ。ごめんね。暑くて、立ち眩みしただけ。もー大丈夫」

気付けば周囲には数人が足を止めていた。心配そうな、怪訝そうな視線に全身を撫でられているようで落ち着かない。
大げさな感じになったらいやだ。
眉間を揉みながら立ち上がれば、幸か不幸か今にも戻しそうな感覚は引いていて、体も動かせてしまう。

「きみたち、学校遅れない?ごめんね。俺もう大丈夫だから」
「や、でも、顔色……」
「ほんと、大丈夫なんだ。ありがとう。俺も行くから、ふたりも」

外行きの、お行儀の良い笑顔を作っていることに、自分で気付いていた。
他でもない生まれ育った家に近づいている。そのことが南央からあらゆる現実感を遠ざけていることも、疑いようのない事実だった。

短髪の男子高生の顔には、「いや、ほんとかよ」と疑いの色がありありと浮かんでいる。ボブカットの女子高生の眉毛は、心配そうに下がっている。
それらの優しさに念押すようにもう一度お礼を告げると、彼らはじゃあと言って足早に去って行った。
制服の背中が見えなくなったのを確認して、南央も同じ階段を駆け下りた。

***

地下鉄から乗り換え、さらに揺られ、辿り着いた地方都市の最寄り駅。
良い思い出はない、こともないけど、嫌な記憶の方が大きいし強い。すすんで来たい場所ではなかった。けれど着いてしまえば、この体調でよくもまあ無事に着いたものだと達成感が先に立つ。
自分は今、「益之宮南央」の顔をして、ここにいるのだろう。

北口のロータリーでタクシーに乗り込み、行き先を告げる。
曾祖父の大法要だ。おそらく既に何人も運んでいるのだろう、初老のドライバーは「ああ、益之宮さんのお屋敷ね」と、ナビも入れずに走り出した。

時間を見ようとスマホを出すと、通知を知らせるランプが点滅していた。
『具合どうだ』『××線遅れてるらしい』『着いたら連絡しろよ』……エトセトラ。全部、良からのメッセージ。
既読も付かないのに送り続けるのが良らしくて、変な表現だけど、心配が心地良い。

電車の運行情報とか、天候とか、そんなニュートラルな話題を続けながら、「具合はどうだ」の一言に返信を待っているんだってこと、俺にも分かる。良は俺のことを、ぼんやりしたやつだとか、抜けたやつだと思っているんだろうけど、良の不器用な気遣いが分からないほどバカじゃない。というか、良が相当分かりやすい性格をしていることに、良自身が気付いていないのかも。

(……すきだなあ。良のこと)

ぽんぽんと並んだ良からのメッセージを指で撫でながら、画面の眩しさに目を細める。

いつだったか、環さんに聞かれたことがある。「内藤のこと、好きなんだろ」。綺麗な顔がいたずらっぽく笑って、にやりと上がる口角が不思議と似合っていて、ちょっと見とれてしまった。「どうなんだよー」と華奢な拳でつつかれる。からかいと本気を絶妙なバランスで混ぜ合わせた問いに、南央は頷いて応じた。友人とか、腐れ縁とか、そういう定義に収まらないほうの「好き」だ。

(言わないけどね)

今はいないみたいだけど、良には彼女がいたこともあった。自分と違って、良はノーマルだ。
航平さんと環さんのことがあるから偏見はないだろうが、同居人から自分がそんな風に見られていると知ったら、きっといい気はしないだろう。

だから、言わない。
言わなければ、このままでいられる。
広い屋敷は嫌。良との関係が変わるのも嫌。
俺はたぶん、すごい我が儘なんだと思う。

「お客さん、雨強くなってきましたよ。傘お持ちですか」

つと、前から話しかけられて我に返る。言葉通り、大きな雨粒がフロントガラスを叩いていた。

「折りたたみがあるので、大丈夫です」南央はバックミラー越しに微笑んでみせる。嘘。本当は傘なんて持っていない。

それは良かったと言って、ドライバーはまた口を閉じた。小さな音でカーステレオが鳴っていることに、そこで初めて気がついた。

「最寄りついたよ。今タクシー」「また連絡する」良からのメッセージにはそれだけ返信して、画面を閉じる。
体調については、あえて返信しなかった。
大丈夫ではないことを「大丈夫」とは、良には言いたくなかったし、ぬるま湯のような心地良い心配を、もう少しだけ、自分だけに向けていてほしかったから。

実際、腹の底のほうで嫌なむかつきが燻っていて、じわじわと体力を削っていた。
本調子じゃないから気持ちも参ってるみたいだ。今ならどんなに無理な我が儘も、体調のせいにして許されはしないだろうか。

車は二十分ほど市街地を走り、閑静な住宅街にさしかかる。
そのうちに突如として現れる、城郭建築で見るような土塀。その内側にはささやかな日本庭園が造られていることを、南央は知っていた。晴れていれば、目隠しの生け垣が緑も鮮やかに塀から覗いていたはずだ。
この辺りから区画一帯、益之宮家の敷地である。

黒々とした瓦屋根の門構え。その数メートル手前で車を止めた。
現金で支払いを済ませて外に出る。乗ってきたタクシーが走り去っていく音を背後に、水たまりを踏まないよう急ぎ足で門庇をくぐる。
そこで、足が止まった。

ここまで来ていまさら引き返せない。分かっているのに、進むしかないのに、足がすくんで動かない。

───母屋と渡り廊下で繋がった離れには、地下牢のような折檻部屋がある。

───出来の良い兄たちと違って、俺はうまくできなかったから、ことあるごとにあの地下室に入れられていた。

───厳格でまるで人間味のない、機械のような父親の命令で。

「……………………っ、は、………」

吐き出す息が揺れる。強く握った指先は冷えて震えていた。

(…………どーしよ……。気持ち悪……)

瓦を伝った雨水が襟足を、上着の背中を濡らしていく。目を閉じてもなおぐらぐらと世界が回る。
足元から昏く沈み込んでいくような感覚。こんなところで立ち止まっていたら変に思われる。警備員を呼ばれるかもしれない。動かないと………。

「南央さん?南央さんですよね?」

不意に名前を呼ばれ、南央は肩を跳ねさせる。
水たまりを踏むバシャバシャという足音が近付いてくる。

「ああ、やっぱり南央さんだ。いらしていたんですね」

濡れるのも構わず駆け寄ってきたその人に、南央は見覚えがあった。

「………ヒロ兄……佐伯さん」
「名前でいいですよ。ご無沙汰しております。南央さん、大きくなりましたねえ」

しみじみとそう微笑まれて、張り詰めていた緊張がゆるやかにほどけていく。

佐伯さんは、庭師兼家事手伝いとしてこの屋敷に住み込む使用人だ。周りから「ヒロくん」と呼ばれていたから、南央はヒロ兄と呼んで懐いていた。
記憶の中ではいつも作業服を着ていたが、さすがに今日ばかりは襟付きである。染めてところどころ色の変わった長髪を、後ろで輪をつくってまとめている。

もともと庭師を担っていたのは佐伯さんのお祖父さんで、南央が高校生になった年に孫の佐伯さんに引き継いだ。南央がはじめて会った時にはすでに上の兄よりも年上で、時々お祖父さんに付いて庭仕事を見に来ていた。ぐーんと長く伸びたはさみを使って生け垣を整えていくお祖父さんを、よく二人並んで下から見上げたものである。

兄のように……と言ったらうそになる。それ以上に、こんな兄さんがいたらいいのにと慕っていた。屋敷の中ではどこにも見当たらなかった落ち着く居場所を、この庭園ではすぐに見つけられた。そんな風に思っていたからこそ、「なお」と呼んでくれていた彼からいつしか「南央さん」と呼ばれるようになったことが、ひどく寂しかったのを覚えている。

今でも佐伯さんは年二回、年賀状と暑中見舞いを律儀に送ってくれている。時には旅先からポストカードが届くこともある。この家で得られた関係の中で、唯一と言っていいあたたかな繋がりだ。

「そっちがさん付けなのに、俺だけ名前で呼んだらへんでしょ」
「そうでしょうか」
「それに、十八から身長伸びてないし、大きくはなってない」
「それは、そうですけど。雰囲気の話ですよ。大人になられたなあと」

自然と頬も緩み、ようやく楽に呼吸ができる。そうなると今度は濡れた背中が気になってきて、南央は一歩軒下に入り込む。

「あの………南央さん、お加減でも?」

遠慮がちに、佐伯さんが問う。その穏やかな声音に、ここにきてはじめて懐かしさを覚えた。

自転車がまっすぐ乗れなかった時、箸がうまく使えなかった時、家庭教師をつけてみても、どうしたって成績が奮わなかった時。南央が地下室に閉じ込められていたことは、屋敷中が知っていた。けれどそのことを悲しんでくれたのは、南央の知る限り庭師のおじいさんだけだったし、怒ってくれたのはまだ若かった佐伯さんだけだった。

「それに傘は?お持ちじゃないんですか」

頷く。この雨続きに?信じられない。驚いて目を見張る佐伯さんの顔に、そう書いてある。

「実はちょっと、熱ある」
「えっ」
「大丈夫。法要だけ出たら、すぐ帰る」
「ご無理なさらぬよう。後で長傘お持ちします」

礼を告げると、佐伯さんは言いにくそうに「それから」と続ける。

「坊っちゃん方も、みなさん殆どお揃いです。そろそろお入りになったほうが……」

佐伯さんは、南央の兄らを「坊っちゃん」と呼ぶ。お祖父さんがそう呼んでいた名残だろう。

「………ん。ありがとね、佐伯さん」

同じ厳格な家庭の子として生まれ、同じく窮屈な思いをしてきた兄らにとって、出来の悪い弟の存在には価値があった。
南央を見て、あいつよりはできると自尊心を保ち、怒られたって、地下室にいるあいつよりはマシだと自身を慰めることができたから。

ここまで来たんだ。行くしかない。行って、さっさと帰ればいいんだから。
良が待つ、あのナツメ荘を考えてみると、少しだけ息苦しさがやわらいだ。

***

視線を感じる。
それも、あまり心地よくない類の。

会場となった大広間で、豪勢に設えられた祭壇の前、最前列に益之宮の直系が並んだ。南央に与えられた席はその左端だ。

その後ろには一度も顔を合わせたことのないような遠縁から、地元企業の重役なんかが大人しく肩を並べている。既に顔見知りらしい兄二人に挨拶に来た彼らは、横に座る南央を見てみな一様に上座の顔色を窺った。上座には、定規をあてたように真っ直ぐな背筋を立てて、南央たち兄弟の父──益之宮高嗣(たかつぐ)が座る。

高嗣は彼らの”お伺い”を無視した。きっと気付いていただろうに、一瞥もくれないことで「そいつは取るに足らない愚息です」と、無言の圧をくれて寄越したのだ。

由緒正しき屋敷を飛び出した奔放な三男。勘当同然に処せられた、出来の悪い末息子。そんなふうに評されていることを、南央は知っていた。

結果、秘書連れでへこへこと頭を下げにきた男達は、表面的には南央を居ないものとして扱ったし、高嗣に対するパフォーマンスのように素通りした後、無遠慮に好奇の視線を向けた。
判を押したようだった会場の雰囲気は、益之宮の集まりにほとんど顔を見せないいわく付きの末子が現れたことで、均衡が大きく歪んでいた。

(………………きもちわるい)

腹の真ん中がむかむかする。息を細く吐き出して、視線だけを膝の上に置いた拳に落とした。
一挙手一投足が視線に晒され、あれやこれやと詮索される。もう十分に冷ややかな注目を集めていた。南央にできることは、一刻も早いお開きを、息を殺して願うことだけ。

読経、焼香と形式通りに事は運び、法要は滞りなく幕引きとなった。
南央は会場を飛び出した。

「…………っ、………ぉえ゛………ッ…………げえぇっ………」

駆け込んだ先は一番近くにあった客用の手洗場。南央は便器に顔を突っ込んでいた。

「………は、……………はっ、…………は……」

こんなに気持ちが悪いのに、うまく吐けない。舌を突き出すように空嘔が続く。口の端からたらたらと垂れていくのは、無色透明な唾液だけ。
喉元を押さえたら嗚咽が溢れた。

──法要の最中、息の詰まるような空気と線香のにおいに包まれて、燻っていた吐き気が形を持った。不快な存在感が無視できない不調に変わるのはあっという間で、南央は礼服の下、濡れるほどの冷や汗を流していた。

大広間にいた面々は、そのまま会食に向かっていく。当然席次も決まっているから、順に案内されているのは分かっていた。曽祖父の思い出話なんかに花を咲かせる要人達が、誰一人として急いでなんかいないことも知っていた。けれど、そんなことを斟酌する余裕は、南央には残っていなかった。

──人混みをかき分け早足で駆ける。ゆったりと談笑しながら広間を出ようとしていた参列者達は、あっけに取られて立ち止まった。なんだあれはと、怪訝と不快を混ぜ合わせたような顔が南央の背を見送る。

抜け出さないと、あの場で、曽祖父の仏前で、吐いてしまいそうだったから。

(…………も、しんど……)

苛立ち任せに、叩くように水洗ボタンを押す。ままならない最悪の気分。
ため息さえ震えた。

もう帰ろう。帰りたい。帰ってしまおう。

トイレを出て、重い足取りで客間に向かっていた南央だったが、はたとその歩みを止めた。こんな具合で、食事なんてできるわけがない。よく考えなくたって分かることじゃないか。
それに、もう会食はとっくに始まっている頃だろう。賑やかな歓談の声が微かに聞こえる。途中で入っていくなんて、そんな目立つこと、したくない。

ふらつく足で踵を返し、客間とは反対に歩いていく。屋敷をぐるりと囲む長廊下に灯りは少ない。日が落ちて薄暗くなった面廊は、どこまでも続く果てしないあわせ鏡みたいだ。

熱、上がってる。
そういえば、解熱剤、朝飲んだきりだ。

靴を履こうと暗がりの玄関に腰掛けたら、もうどうにも動けなくなった。見えない木の根が細く長く伸びてきて、全身絡め取られてしまったような錯覚。だから、「南央」そう呼ばれて返事と同時に立ち上がったのは、ほとんど反射みたいなものだった。あるいは、幼少期から染み付いた習慣。

「そこで何をしている」
「………父さん」

体調が優れないので今日は帰ります。その一言が出てこなくて、代わりに何度も空気を呑んだ。

高嗣が何かを言っていることは分かった。なにか大きな音がした。けれど朦朧とした意識では立っていることで精いっぱいで、言葉として結ばれない。

南央は足元に視線を落とした。

そうだ、前にもこんなことがあった。
どうしてもこの家を離れたくて、勝手に進路を決めたことがバレた時。高嗣の逆鱗に触れた南央は、先も見えないような大雨の中、外に閉め出された。あの日も酷い雨降りだった。屋根があるぶん地下牢のほうが幾分かましだと、その時ばかりはそう思った。

「お前は益之宮の恥晒しだ!」
「!」

いきなり衝撃が生まれた。こめかみの辺りに固いものがぶつかって、それは高嗣の拳だった。南央は床に崩れ、そうして同時に、胃の中身がひっくり返った。

腹の真ん中辺りから酸っぱい唾液があふれてきて、ばたばたと口から溢れていく。
空っぽの胃袋から薄く濁ったものを吐き出す南央に、高嗣は舌打ちを落とした。

「この、出来損ないが」

もう一度、高嗣の拳が上がるのが気配で分かる。思い出す。あの時も、こうやって殴られた。ロボットみたいな父親には、時々、こうやって暴力的なエラーが起こる。

「南央!」

そんなわけない。あり得ないと、耳を疑う。

飛び込んできたのは、聞きたかった声。

***
[newpage]

良はタクシーに揺られていた。

今朝、起きたら南央はいなかった。スマホを見ると、時刻は八時を少し過ぎたところ。上着を引っ掛けていたハンガーが、そのままぷらりと長押にかかっていた。

寝返りを打って二度寝に入ろうとして、やめた。
安普請を揺らすような強い風。その音がやけに耳障りで、寝付けそうになかったから。

日当たりの悪い立地なうえにこの曇天だ。まだ朝だというのに薄暗い。灰色の部屋に電気をつけて、両手で顔を擦る。眠い。顔を洗うために起き上がるのもおっくうだった。

南央のやつ、熱は下がったんだろうな。
だんだん目が醒めてきて、座卓隣の南央の寝床を見やる。傍らのゴミ箱は昨夜のままそこにあるから、少なくともゴミ箱が必要な事態には至らなかったようだ。

枕元でスマホが震えた。開くとニュースアプリからの通知がいくつか。南央からの連絡はなかった。

「具合どうだ」メッセージを送ってみる。既読はつかない。

昨夜の南央の、熱っぽい体温を思い出す。いつもよりも明らかに血色を良くした頬と、ぼんやりと宙を見る溶けたような目。

フリーランス、在宅勤務、出不精と、インドアを極めたような男だ。多少熱でもあったほうが人間みのある顔色に見えた。日に焼けていない真っ白な普段の肌色は、人間というより造り物に近い。

本人に言ったらきっとすごく嫌な顔をするんだろう。俺はこんなにタイヘンなのに、と、むくれた声まで聞こえてきそうである。

惰眠をむさぼり、思考はまだらに膨らんでいく。

造り物らしさと言ったら、真っ先に浮かぶのは須野原さんだ。須野原さんの浮き世離れした顔立ちは、高校の時から人目を引いていた。喋らずに、例えばヴィンテージもののソファなんかに座らせてみたら、十人中、たぶん八人くらいは良くできた人形だと思うだろう。

南央のそれは、須野原さんとは少し違う。
顔の美醜は正直よくわからない。学生の時、南央の連絡先を聞いてくる女子は学部学年問わずに何人もいたから、人目を引くというか、好かれやすい外見をしているんだと思う。

須野原さんに感じるような人形らしい印象は、南央には抱かない。あいつはわりとよく食うし、変なところでガサツだし、よく眠る。よく知らないが、性欲だって人並みにあるんだろう。

だけど時折、本当にたまに、近未来SF映画を観た後なんかは特に、こいつはひょっとしたらアンドロイドなんじゃないだろうかと思うときがある。食欲も、勝手気ままに見える振る舞いも、そうするようにプログラムされていて、突然ふと、その活動の一切をやめてしまいそうな危うさが、南央にはある。

──ピンポン。
チャイムの音で我に返る。
待て待て。何を考えているんだ。何が楽しくて俺は、同居人の、しかも男の顔について考えているんだ。

──ピンポン。
もう一度チャイムが鳴る。

「はあい、います、今出ます!」

することがないからだ。暇だからだ。だからこんな、しょうもないことを考えてしまう。布団から這い出て玄関に急ぎながら、良はこれまでの思案を退屈と理由付けた。だってそうだ。機械ならゲロを吐いたりしない。

「すんません、内藤です──」

慌ただしく玄関扉を開けると、そこにいたのは峰さんだった。郵便か配達だろうと思っていた良は面食らって瞬きする。

「えっ。え、峰さん?」
「お休みにすみませんね。次出なければ帰ろうと思っていたんですが」

綿シャツにベスト姿の峰さんを見て、寝間着姿が急に恥ずかしくなってくる。おまけに顔さえ洗っていない。

「いやね、益之宮さん、具合はどうかと思って。もう帰っているんでしょう」
「え?」
「どうにも気になって。知り合いからもらったりんごがあるんですよ。口がまずい時はりんごがいいですから」

そう言って、峰さんはビニール袋を掲げた。言葉どおり、大きなりんごの赤が透けている。

「あ………えーと、まだあいつ、帰ってないんです。ちょっと出かけてて。たぶん帰りは夕方になるんじゃないかな」

えっと驚いたのは、今度は峰さんの方だった。眉を顰め、怪訝な顔でりんご入りの袋を下げる。

「夕方?」
「あっ、でも、せっかくなんで、いただきます。あいつも喜ぶと思うんで」

昨日から度々すみません、と続けた言葉は、峰さんの手が遮った。

「あんな具合で、まだ戻らないんですか。今、誰か一緒にいるんですか」

「あんな具合」?「もう帰っているんでしょう」と、峰さんは言った。どうして、峰さんは南央が出かけていることを知っているんだろう。どこで南央と会ったのだろう。

穏やかな峰さんの声音に、俄かに困惑と焦りが滲む。そのままの固さで「今朝ね」と峰さんは言う。

「新聞取って外に出ましたらね、そこの角のところ、益之宮さんが見えて」

言いながら、りんごの入った袋を差し出す峰さん。
聞けばアパートの敷地を出たところ、細い通りに面した塀のそばで座り込む南央を見かけたらしい。今朝、六時半頃のことだという。

『益之宮さん、益之宮さん』

南央が風邪っぴきだと聞いていた峰さんは、そう声をかけたそうだ。呼ばれてのろのろと上がった顔色の悪さに、峰さんは目を疑う。こんな具合で、なぜ外にいるのかと。

『どうしたんですか、こんな朝から。ご用事ですか』

峰さんの問いに、南央は苦笑いで首を振る。

『いや、ちょっと、かったるくて』
『それなら一度部屋に戻ったらどうです。雨も降りそうですし』

南央はうーんと首を傾げる。

『でも、今日は行かないと』

そう言って、南央は峰さんにスマホの画面を見せた。『それにもう、タクシー着きそうなんで』と続く。峰さんにはそれが何の画面だか分からなかったが、この辺りの地図上に車のマークが動いて近付いてきていることは見て取れ、なんとなく南央の言わんとしていることを理解した。

『ちょっと出て、すぐ戻るつもりなんで』

南央は立ち上がり、ちょうど、通りの向こうから黒い車体。見送られる年ではないだろうと納得した峰さんは、『では、お気をつけて』車が着く前にその場を離れた。

南央の反応は聞かなくても分かる。はぁとかへぇとか気の抜けた返事をして、少しむず痒そうに笑うのだろう。ぼんやりしてるくせに(あるいは、それゆえに)図々しくて、我儘なやつだが、不意打ちの親切に弱いところがある。ついでに言えば、褒められることにも。

大学時代のいつだったか、厳しいことで有名な教授にレポートの出来を褒められて、やつはみんなの前で目を丸くしていた。その時のリアクションはまさに、今朝の峰さんが見たものと同じはずだ。

「それからどうも気になって。貰い物のこれを思い出したんで、お見舞いにでもと……」

これ、と言って、峰さんは俺の手にあるりんごを指した。俺の両手はりんごを受け取った形のまま、まるで俺と峰さんの橋渡しをしているようだった。
俺の知らない南央の時間。俺の知らない南央と峰さんの会話。

「連絡はつくんですか。あんな朝早くから、益之宮さんはどこに行ったんでしょう。どこかで、倒れてやいないといいんですが」

どこかで、倒れて。

ターミナル駅の往来で、ぐったりと横たわる南央のイメージが脳裏に浮かぶ。そんな馬鹿な。そんなわけないと否定したかったが、昨日の南央の様子を思えばむしろ現実味を強めていく。

「あ」

雨。
ポツポツと外廊下に染みができて、とうとう雨があたってきた。
廊下に屋根はなく、「降ってきましたね」二人で空を見上げて言った。

「年寄りのおせっかいですみませんね。取り越し苦労なら、それがいちばんですが」

峰さんはそう言って、りんごだけ残して帰っていった。

俺はひとまずその袋ごと冷蔵庫に入れて、なにもないシンクを見下ろした。南央は朝飯も食べずに出ていったはずだ。俺が起きる二時間近く前に、ひっそりと。

そういえば、とスマホを掴む。起きてからいくつかメッセージを送っていた。開けば南央からの返信を知らせる通知が届いていて、人差し指で触れてみる。

『最寄りついたよ。今タクシー』
『また連絡する』

簡潔に、短い吹き出しが並んでいた。
それはいつも通りの馴染みのやり取りに見えて、ほっと肩の力が抜ける。

最寄りに着いたということは、少なくとも駅構内なんかでぶっ倒れている心配はないということ。
それに安心したのもつかの間、次には具合はどうだと聞いた質問には返答がないことが気になってくる。筆まめなやつではい。むしろ全ての問いかけに律儀にレスポンスを返す方が”らしく”ない。だけど気になってしまうと、もうとても二度寝に入る気分じゃない。

気が重い親戚連中の集まり。
週の頭からすぐれない体調。
丸一日寝込んでいた、昨日。

どこかで倒れていないといい、そう言った峰さんの心配顔が俺を急かす。
人の往来で蹲る南央の姿が思い浮かんでしまう。

「あー!っとに!世話の焼ける!」

どうにも落ち着かなくなって、嫌な想像ばかりが膨らんで、峰さんが帰ってからおおよそ三十分後。
今度は、俺がアパートを後にしていた。

***

そういうわけで、良はタクシーに揺られていた。
家を出た時は小降りだった雨も、都内を出る頃には土砂降りになった。大粒の雨が激しくフロントガラスを叩いている。

「お客さん。道混んでるんで、迂回してよろしいですか。益之宮さんのお屋敷ですよね」

雨音の隙間、運転席から声が飛ぶ。

「あっ、ハイ。それでいいです。もう、着くなら何でも」

ワイパーは絶え間なく動いているが、降りしきる雨粒はそれも追いつかないくらいの勢いだ。
片道三時間。

(本当にここまで来たんだろうな…………?)

深く腰掛け、長い溜息を吐く。

実家の最寄りに着いたという連絡があったのだから、ほぼ間違いなくこの道のりを辿っているのだが、分かっていても簡単には信じられない。

迎えに行ってやろう。
半ば恩着せがましくそう決めて、そこではたと足が止まる。自分は、南央の行き先さえ知らないことを思い出したから。
実家は、確か北関東の方だったと聞いた記憶があるが、それだけだ。洗ったばかりの顔も拭かずに途方に暮れていると、居間の床に置きっぱなしになっているダイレクトメールの束が目に入る。

まさかな。でも、もしかしたら。
顎から水滴を落としながら一つ一つ見ていくと、あった。益之宮家、三十三回忌法要の開催を知らせる葉書。差出人で住所が分かる。見つけた。

──そこから、電車を乗り継ぎ、タクシーに飛び乗り、もう三時間だ。
葉書をカバンに突っ込んで、身支度もそこそこに家を出てきた。疲労から船を漕ぎつつ降り立った地方都市。タクシーがすぐに捕まったのは幸いだった。

(………それにしても、”お屋敷”かぁ)

いったい、あいつ、どんな家の生まれだよ。
手持ち無沙汰にスマホを開く。南央からの連絡はない。

打ち付ける雨の隙間からは大きな一軒家が並びが見える。車はだいぶ住宅地まで来たようだ。角を曲がると白塗りの塀が続いていて、その向こうには緑が覗く。公園かなと思っていたら、車が止まった。

「──円ですね。お支払いは?」

どうやら、ここが目的地のようだった。

「すいません。帰りもお願いしたいんで、少し待っててもらえますか。迎えなんです」

そう言いながら、良の左手はドアにかかっていた。気付いた運転手が扉を開ける。少しの隙間から雨が吹き込んできた。
メーターを止めておくという運転手の申し出に会釈して、良はアスファルトに降り立った。威圧感さえ覚えるような、重厚な造りの門構えがそこにある。

ここが、南央の生家。

傘を広げながら息を呑んだ。まさに広壮な日本邸宅。なんともまあ、見事な造りだ。
さっきの運転手が「お屋敷」と言ったのも頷ける。見本のような中流家庭育ちの自分には、とても民家とは思えない。

良は敷地に足を踏み入れて辺りを見回した。傘の下で意味もなく身を縮める。
車一台が余裕で通れる広さがあったから、この門が正面玄関で間違いない……とは思う。人気のなさが、良の心細さを駆り立てた。おい、本当にここで合ってるんだろうな。

雨に濡れた飛び石を踏み、足は玄関に向かう。安い革靴は平たい石の上を滑りそうだ。おまけに何年も履き倒している。靴底なんてきっとぺらぺらだろう。

「なにか御用ですか」

突然背後から声がして、良は文字通り飛び上がった。踵が滑り、慌てて踏ん張りなおす。振り返ると、小走りでやってくるスーツ姿の男がいた。その顔には、怪訝と不信が同じくらいの割合で混ざっている。

「法要は終わりましたが……」
「あ、すみません。違うんです。いや、違うは、違うか。ええと……」

長髪を後ろで一纏めにした彼は、慣れた足取りで庭を横切っていた。きっとこの家の身内だ。隣に立つ距離まで来た男に、良はしどろもどろになる。ここまできて、怪しいなんてつまみ出されたら嫌だ。

「迎えに来たんです。益之宮南央、来てると思うんですが」
「迎え?南央さんの?」
「えっと俺、内藤といいます。南央の、その、友人で」
「ああ!あなたが、内藤さん。内藤良さんですね」

合点したように大きく頷く彼。敵意のない声音でフルネームを呼ばれて拍子抜けしてしまう。

「自分は佐伯尋武(さえき ひろむ)といいます。この家の庭師をしていて。内藤さんの名前は、南央さんから聞いています」

よろしくと会釈を交わして、佐伯は「それで」と声を落とした。
傘を傾ける。大粒の水滴がビニール滑り落ちていく。

「南央さんを迎えに、と仰いましたね」
「あ、ハイ。そうなんです。約束はしてないんですけど、あいつ、月曜からずっと具合、悪かったんで」
「月曜日から………」

佐伯は信じられないとでも言いたげに眉根を寄せた。

「泊まりじゃないとは聞いてたんで、そろそろ終わるかなと思って来てみたんですけど。もしまだ中にいるようだったら、外で待ってます」
「ああ。会は終わったんですが、ちょうど食事会が……」

途中、振動音が挟まれた。「失礼します」そう断って、佐伯が内ポケットからスマホを取り出す。眉間にすっと皺が寄る。
佐伯の目が、画面と良を交互に見やる。その視線がなんだかただ事ではない気がして、一体何だと良は内心首を捻る。

「一緒に来ていただけますか」

問われて、直感する。南央になにかあったんだ。

***

佐伯が早足で歩を進めるので、良は何度か足を滑らせた。ぬかるみにはまって靴もズボンも泥だらけだ。法要、なんてたいそれた場所に行くんだし、それにどうせクリーニングに出すのだからと、仕事用のスーツで着たことを後悔していた。

「実は、自分も南央さんのところに行こうとしていたんです」

少し前を行く佐伯の背中がそう言った。二人は正面玄関からぐるりと回って、建物に沿って敷地を歩いていた。どこに向かっているのか良には分からない。ただ、だだっ広い古風な庭園に圧倒されていた。南央はどこにいるんだと、そしてこの男は誰なんだと、なんだか腹が立ってくる。「南央さん」と丁寧ながらも親しげな呼び方。年は、十は変わらないように見える。そういえば、「内藤良」とフルネームを呼ばれた。南央から聞いていると言って。生家と距離を取っていたはずなのに、この庭師とは連絡を取り合っていたということだ。

「その途中であなたがいたので……。驚かせましたよね、すみません」
「いえ……」
「中の者から連絡があったんです。南央さんが帰るかもしれないと」

染められた長髪、少し浮世離れした面立ちに反するような物腰の低さが落ち着かない。ひとまず、良は浮かんだ苛立ちをこの鬱陶しい雨のせいにした。

「さっきの玄関は来客用なんです。家の者はこっち側の玄関を使うことが多くて」

これほど立派なお屋敷だ。出入り口がいくつかあったっておかしくない。
「こっち」と手のひらが指した先には、正面の玄関よりは些か小作りとはいえ、四枚建ての引き戸がそこにある。

南央は、と問おうとして、大きな物音に遮られた。佐伯と二人、はっとして首を回す。何か重量のあるものが割れる音。扉のほうだ。聞き取れない男の怒声が続く。嫌な予感に、良は弾かれた。

「南央!」

無遠慮に扉を開け放って、そこに見たのは目を疑う光景だった。
拳を振り上げる男。足もとに散らばる割れた破片。おそらく壺と思しき焼き物のパーツを辿り、三和土に蹲る南央の姿を認め、思わずその名前を叫んでいた。

「な……っにやってんだ、あんた」
「誰だ、君は。どこから入った」

睨み上げると男の顔は不愉快そうに歪んだ。それでも、拳が下りたことにほっとする。あの手で南央を、たぶん、殴っている。
「旦那様、落ち着いてください」
後ろからこの光景を目にした佐伯が、南央と男の間に割って入る。良は、庇うように南央の肩を寄せた。なぜか、そうしなきゃいけない気がしていた。

「おい、南央。だいじょうぶか」

良の膝が破片を踏む。南央は蒼白な顔色で目を見開いていた。自分が幽霊みたいな顔をしておきながら、まるでお化けでも見たようなリアクションじゃないか。

「えっ……なんで……?良、ほんもの……?」
「なんだそれ。俺の偽物がいるのかよ」

ぽかんと開いた口の端が唾液で汚れている。見れば、床についた手元の辺り、吐物が点々と落ちていた。

「益之宮先生」と、家の奥から知らぬ女の声がした。足音とともにまた人が一人増える。良は咄嗟にジャケットを脱いで、南央の頭から被せていた。真っ青な顔をした南央を、これ以上人目に晒したくないと思ったから。

やってきた女は、仁王立ちで立ちはだかる男に何やら耳打ちをした。先生と呼ばれた、南央と同じ名字のその男は、何事もなかったかのように平然と言葉を交わす。

「──分かった。すぐ戻る。……南央。お前はもう、勝手にしろ。二度とその顔を見せるな」

ジャケットを被っているから、南央がどんな顔でその言葉を聞いたのか分からない。
「まったく、とんだ失敗作だ」そう吐き捨ててその場を去っていった男は南央の父親なのだろうと、その時にはぼんやりと気付いていた。

暴力的な嵐は、あっけなく過ぎ去った。

「…………南央。帰るぞ」

南央は緩慢な動きでジャケットを引っ張り、顔を出す。その頭がこくりと頷いたのを見て、内心胸を撫で下ろした。

「……これ、湿ってる」
「つまむなつまむな。濡れたんだよ、ここに来るまでに」

失礼なやつだと言いかけたが、上着をつまんでみせる指先が微かに震えているのが分かって口を噤む。南央が感じているのが恐れか、落胆か、それともそれ以外の感情なのかは知らないが、少なくともポジティブなものではないことくらい分かる。平静でない中、なんとか平常に振る舞おうとしているのなら、それに従ってやることくらいできる。

「南央さん。ここは片付けておきますんで、お帰りになってください」佐伯が言った。
「……ん。そぉする」
「お荷物は?」
「持ってる」

南央が佐伯と話しているのを、良は不思議な思いで聞いていた。そもそも、良は南央が誰かと喋っている姿をそんなに知らない。大学時代を思い返してみても、特定の誰かと個人的に盛り上がる、みたいなことはなかったんじゃないかと思う。目的のあるやり取りはできても、いわゆる“他愛のない会話”みたいなものが苦手なのだ。「だって、何話すの」と、いつだったか酒を飲みながら言っていた。タレのかかった焼き鳥を咀嚼しながら。近所の炉端焼き屋のカウンターで。

『何って……。何話すんだろうな。今俺たち、何話してたっけ』
『俺、良と話すから良いよ』
『良くはないだろ、良くは』

そうだ。確かそんな会話をした。
須野原さんとは、気が合うみたいで二人でよく出かけてる。航平先輩とも、四人で集まることが多いから、なんだかんだ自然に話している。けれどそれ以外の、つまり自分の知らないどこかの誰かと、こんな風に普段の調子で話す南央を、俺は知らない。

「内藤さん。南央さんの手荷物です」
「──あっ、はい」

名前を呼ばれてはっとする。腰をかがめた佐伯が鞄を差し出していた。見覚えがある。南央の鞄だ。
荷物を持って玄関にいたということは、南央はまさに帰ろうとしていたのだろう。それで、どういうわけか、父親に殴られて今に至る。

「預かります。──ほら、南央。立てるか。帰ろうぜ」

すれ違いにならなくて良かった。と。そう思うことにした。

「佐伯さん、ごめん」

南央の謝罪は、面倒ごとに巻き込んだことか、割れ物の片付けか、あるいは吐いたものの後始末をさせることか。おそらく、本人にも判然としていないままの言葉だろう。横に触れる体温が想像よりもずっと高くて、熱っぽい瞳は今にも閉じてしまいそうだったから。

***

来た道をそのまま戻って、良は南央をタクシーに詰め込んだ。運転手に行き先を告げ、車は動き出す。
南央はぐったりと背もたれに体を預けていた。大きく胸を上下させて、息一つするのも大仕事のように。

(……これ、家まで帰るのは無理そうだな)

「――すみません。行き先、やっぱり××駅にしてもらえませんか」

来る途中に見た記憶だが、この近辺には泊まれる場所も病院もなさそうだった。それなら少し離れて大きな駅前に出た方が動きやすいだろう。視線を感じて横を見れば、南央の目が半分ほど開いていた。熱のためか涙の膜が光っていて、動いたらぽろりと一粒落ちてしまいそうだ。

「駅……ちがう」掠れてカサついた南央の声。
「いーんだよ」良の手元は、今から駆け込める病院を検索していた。
「ふうん……?」

南央はふたたび目を閉じた。病院を探して、ホテルも取らなければ。南央も服を替えた方が良いだろうし、濡れて気持ち悪いから、自分の着替えも調達したい。

──おまえ、俺とか須野原さん以外にも喋るんだな。

忙しくタスクを考えることで、浮かんだ言葉を無かったことにしたかった。目尻から涙を拭ってしまいそうで、良にはやるべきことが必要だった。
ふと、座席に置いた通勤鞄を見ると、外ポケットに見慣れないパッケージが差し込まれていた。そうだ、慌ただしく家を出たから、鞄も通勤用のビジネスバッグのままだった。取り出してみて思い出す。昨日、峰さんからもらった体温計じゃないか。

感覚を、目に見える数字にする。峰さんの言葉も同時に思い出されて、良はプラスチックのパッケージを開けた。電源は──入った。

まったく冷静なんかじゃなかった。
良には理性が必要で、やるべき正解が必要で、直近で思いつくのが峰さんの助言だったのだ。
良は最新式の体温計に電源を入れて、南央の額に近づけた。

「っ!」

が、その手は、止まった。
眠ったようにも見えた南央の両腕が、頭を庇うように上げられたからだ。ひょっとしたら普段よりも遙かに素早い動きで。
体温計が座面に落ちる。対象を失った液晶には、ややあってエラーが表示される。

「あれ……ごめん」
「や、こっちこそ……」

動いた本人にも意図せぬ動きだったようで、南央はぱちぱちと瞬きをしながら掲げた腕と良を見比べる。
峰さんから体温計を貰ったこと、鞄に入れっぱなしで来てしまったことをかいつまんで説明しているうちに、幾分か頭が冷えてきた。南央は聞いてるんだか聞いてないんだか、ぼんやりとした顔で手を握ったり開いたりしている。

「俺、親父さんじゃないからな」

少し迷って、言うことにした。

「──ん。わかってる」

南央は、朦朧とした意識の中に近付いてくる気配を、父親の拳と錯覚していた。そして良は良で、その混同に南央自身で気付いたことに、気付いていた。
体温計はもう一度鞄に収まった。すんません峰さん。貰ったりんごは、帰ったら食わせます。心の中で峰さんにお辞儀する。

寝てて良いぞ、と告げようとして、「あ、ねえ」南央に袖を引っ張られた。その指先が進行方向を指さす。

「むこう、ちょっと晴れてる」

フロントガラスの向こう、確かに淡く青空が覗いていた。滝のようだった大雨もいつの間にか小降りになっている。

「そーだな」

南央の口角が満足そうに上がっていて。それなら、このままでいい。今は、しばらくは、このままでいよう。
正面を向いて座り直して、ようやく肩の荷が下りた気分だ。なにせ、長旅だった。

言葉もなく、触れることもなく。窮屈な空気を抜けて。
梅雨の晴れ間に連れ出した。

梅雨の晴れ間に:END

1件のコメント

  1. ピンバック: ナツメ荘 – Lepsy02

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