nekogumi

「じゃあちょっと、行ってくるから。南央困らせないようにな、環」
「南央、須野原さんに迷惑かけんなよ」

そんな風に言い残し、二人は揃って出掛けていった。環と南央は顔を見合わせ苦笑する。
足音は遠ざかって然るもしかし、チノパンとTシャツという軽装だった航平は一度離した玄関扉が閉まる前に体を捩じ込んで、「環!なんか羽織るもん」と呼び掛けた。紅茶を淹れようとティーポットを温めていた環だったが、仕方ないなあとキッチンを出る。

「これでいい?」

環は壁に掛けてあった紺色のマウンテンパーカーをハンガーから外す。

「なんでもいい。サンキュー」

片腕を通して半回転するので、環はもう片方の腕にも肩を合わせる。あまりに自然なその流れに「新婚みたいっすね」と声を挟むのは内藤、すなわち良だ。良はドアの向こうで航平を待ちつつ靴の踵を履きなおしている。それは決して新婚ごっこのようだと二人を揶揄するものではなく、二十年以上近くにいてもなお、昔からのこの調子が変わらないことに感心しての呟きだった。

「南央~俺にもそのパーカーくれよ」

外はやはり、少し肌寒い。良もまた、ジーンズにグレーの綿シャツ一枚という軽装だ。航平の背中越しに部屋の中にいる南央を呼ぶ。椅子に座っていた南央は「えぇ」とむくれた顔をして、パーカーの胸元をしっかりと掴んだ。

「絶対やだ」

スウェット生地で裏側起毛のパーカーは南央のお気に入りだったが、良の記憶が正しければそれはもともと良のワードローブに入っていた一着である。

「やだってなぁ……それ俺のだと思うんだけど」
「そぉだっけ?」

渡すもんかとそっぽを向く南央に、「貸してやれって」と環は笑う。「俺の服貸してやるから」そう環に諭され、渋々といった様子でパーカーを脱いだ南央は、ふてぶてしくも汚すなよ、なんて添えて手渡した。受け取った良の大きなため息と航平の笑い声は同時に部屋を出ていって、二人ぶんの足音がいなくなる。

「南央も飲む?あったかくなるよ」

環が湯気の昇るマグカップをふたつ運んできた。二人がいた玄関の方をちらりと横目にカップを置いて椅子に座る。南央はその細い指先を見る。

「飲む。なに?」
「ジンジャーティー。はちみつもあるぜ」

机の上のマグカップに顔を近づけ、すんと鼻を鳴らすと確かに生姜の香りがした。環がカップを傾けたので、南央は「いただきまぁす」と手を合わせた。
「南央って意外とお行儀良いよね」環は感心して目を開く。
そういう環さんは意外と口が悪いですよね――浮かんだ言葉は、紅茶と一緒に飲み込んでおいた。
ややあって、環は「ごめんね」と呟いた。マグカップを両手で包むように持って、視線はゆらゆら浮かぶ湯気に落として。南央はやっぱり何も言わないで、カップの縁にそろそろと口をつける。さっきの一口で舌を少し火傷してしまったのだ。

環と航平、南央と良。四人の休みが重なった祝日、航平の運転で遊びに行こうと話が出た。行き先は鎌倉辺りで良いんじゃないかと航平が言い、運転手の意向に全員が乗り気になって、南央なんかはネットで紅葉情報を検索してみたりと珍しくうきうきした様子だった。
しかし当日、結局その計画はお流れとなってしまう。環が熱を出したのだ。
熱といっても平熱プラス一度の微熱であり、環本人も違和感すら自覚のない変化だったのだが、体温計は素直に七度五分とデジタル表示。毎朝の検温は主治医の勧めだ。
こうなると、テコでも動かないのはむしろ航平であり、良だった。微熱のある環を人混みに連れていくなんてもっての他だし、二人は口を揃えて自宅待機の絶対安静を言い渡した。南央ももちろん、それに賛成する。

男四人でドライブの予定はなくなったが、揃った休日であることに変わりはない。せっかく出掛ける準備をしていたんだから、家に来たらと提案したのは環だ。寒くなってきたし鍋でもつつこう、自宅なら酒も飲めるから、と。それで、南央と良は狭く古いアパートを出て、並んで歩いて橋を渡り、二人が暮らす仲睦まじい1LDKのチャイムを押したのだ。
航平と良は鍋の材料と日用品の買い出し係に、環と南央は留守番で、こうやってのんびりお茶を飲んでいる。
環は、自分が心配されている自覚がある。皆が心配するのも、それはそうだろうと分かるから、だから無理をしようとは思わないし、反対を押しきって出掛けようとも思わない。仕方がないのだと諦めることは、とっくの昔に学んでいた。
だけど。自分のせいで計画が流れて、楽しみにしていた南央はこうして部屋に残っていて。少なからず残念な気持ちはあるだろうに、誰も少しの素振りも見せない。そういうもの全てに心苦しくなって、自分のことなのに自分ではどうにもできないことが悔しくて、環はいつも泣きそうになる。もう、いい大人なのに。
ごめんねと謝ってみたけれど、返事が欲しいわけではない。肯定も否定もいらなかった。流し見していた音量六のテレビ番組がしっかりと聞きとれる。環が今朝回した洗濯機の音も。南央も口数の多い方ではない。

ピーッと音が響いて洗濯の完了を知らせた。重く落ちかけていた沈黙が流れる。環が腰を浮かせたので、南央は「おれがやる」と肩を押さえて座らせた。

「お言葉に甘えて」環は深く座り直す。
「紅茶一杯ぶんの働きはね」南央はぺたぺたと風呂場に向かった。
「じゃあ、もう一杯で風呂掃除もやってもらおうかな」
「いいよ。良がやる」
「内藤、かわいそうなやつ」

口ではかわいそうなんて言いながら、環はけらけらと笑った。南央もつられ笑いで二人ぶんの洗濯物を抱え戻ってきた。ステンレスワイヤーの洗濯カゴには取っ手がないので、持ち運びには少し苦労する。ベランダ側の壁にあるフックを起こして物干しロープを引っ掛ける。タオル類はベランダの物干しに、さらに空いたスペースには厚手の服を干した。

「……あ、」

黙々と洗いたての服をハンガーにかけていた南央だったが、カゴから掴んだ一枚に動きが止まった。カゴに戻そうと一度は腕を下ろし、干さなきゃなあとまた上げた。「どうしたんだよ」環は身を乗り出してその手元を覗き、

「…………あぁ」

同じように、動きを止めた。

「まぁまぁ、そういうこともあるって!な?」

結局、残っていた三枚の衣類は環が干した。その後に保温ポットからお湯を出して、もう一度紅茶を入れる。

「思い出した……さいあくだ……死にたい」

椅子の上で膝を抱え丸くなる。そんな南央に、環はまあ飲めとマグカップを押し付けた。
南央が掴んだのは、航平が部屋着にしているスウェットだった。無地でグレーのよくあるスウェットパンツ。南央はこのゆるいシルエットに見覚えがあった。

夏の盛りのこと。
同じマンションの階下に住む知人から、旬で食べ頃のスイカを一玉貰った。暑さにうだっていた二人にとってよく冷えた瑞々しさはすこぶる魅力的で、調子に乗ってまるまる平らげてしまう。その結果、南央は腹痛に見舞われ下してしまった。自業自得と言えばそれまでだが、災難だったのはタイミングの悪さだ。マンションに繋がる水道管が破裂し、一帯が断水していたのである。台所も、洗面台も、もちろんトイレも。ピンチの南央は自転車の荷台にニケツして、断水を免れていた環と航平のマンションまで運ばれた。トイレを貸してもらうためだ。運転はもちろん良。

南央の腹痛は本当にひどい状態で、でも、どうしても諦められなくて。自転車がマンションについてからも、南央は唇を噛んで後ろを押さえた。腹の中では濁流が暴れ、一歩一歩と進むたびに、ガスと一緒に溢れていった。足元もふらつき、良は嗚咽を漏らす南央の体を寄せた。ハーフパンツの後ろに土色の染みが広がり、太股を伝って落ちていく。自転車を降りて五歩くらい歩いた時、南央の腹が悲鳴を上げた。南央は堪らずに体を折って、肩を支えていた良を突き飛ばして、その場にしゃがみ込む。南央の限界は駐輪場の屋根下だった。

良は電話で顛末を話して二人を下まで呼び出した。呼吸があやしく乱れた南央の背を擦る。その役割を引き継いだのは環で、動こうとしない南央をなんとか引っ張って連れていってくれた。残った良と航平は、汚れたアスファルトに水を流して片付けた。
南央のハーフパンツはもう履けなかったので、下着と一緒にビニールに入れて口を結んだ。代わりの下着は環のもので、「まだ使ってないからあげるよ」と渡された。ズボンの代わりが、このスウェットだったのだ。

洗濯カゴからひっぱり出したそれによって、顔から火が出る苦い記憶がまざまざと蘇り、南央は頭を抱えるしかない。弁償するから捨ててって言ったのに。同じものを新品で返すから処分させてくれって、言ったのに。

「洗ったしまだ履けるんだから問題ないだろ、だって。航平の言葉ね」
「そぉゆう問題じゃない……!」 

南央はさらに背中を丸くして、もういっそ紅茶に溶かして飲み干したいと、浮かんでくる記憶も小さく小さく丸める。

「いい年して、も、漏ら…………も、死にたい…………」

大きく溜め息をついて唸る南央のつむじを、環は苦笑して突っついた。テーブルに両腕を置いて、その上に顎をのせて「なーお」言い聞かせるように名前を呼ぶ。

「ぶっちゃけ話そう。俺もある。大人になってから失敗したこと」

突然の打ち明け話に南央はえっと顔を上げる。ちょっと珍しいくらい綺麗な顔がいたずらっぽく笑っていた。仕方ないなあ、聞く?という顔。

「いつだったかな。そんな前じゃないよ、去年の頭とか……寒かったから、冬かもな」

記憶を辿るように、大きな瞳がぐるりと視線を巡らす。

「ちょっと調子悪くて、五日くらい入院したんだよ。熱結構高くて、点滴打って。そしたら、夜、すげぇ腹痛くなっちゃってさぁ。点滴もうすぐ終わりそうだったし、外す
ときに連れていって貰おうって思ってて」「でも、だんだん、ヤバいなって、なってきて。もう無理だって思って、トイレ行こうとして……四人部屋だったから起こさないよ
うにって、外のに行こうとしたんだよな。見舞い客も使えるやつ」「すぐそこ、ほんとにすぐ手前まで来たんだけど、あと少しってところで目が回って動けなくなっちゃって。そこで、床で、アウトだった」

環は、眉を下げるようにして笑っている。参っちゃうよね、とでも言いたげに。

「…………それは、それは……」

環があまりにあっけらかんとしているから、南央は相槌に続く言葉が見つけられない。

この人はいつもそうだ。押したら倒れてしまいそうな、風が吹いたらするするほどけて
飛ばされてしまいそうな、そんな印象を誰もが抱く。淡い光にすら溶けてしまいそうで、時々背筋がヒヤリとする。なのに話してみて中身を知ると、誰よりも強かで優しくて、男らしい気質が「須野原環」を構成していると気付くのだ。

「だから!何が言いたいかっつうと、ビョーインで、万全の態勢で、トイレなんて目の前にあって……もちろん断水なんてしてねぇぞ。そんな時だってうまくいかないときはいかないんだよ。そういうこともある」

うんうんとおどけた調子で頷いて、環は試すように首を傾げた。

自分と環じゃ状況が違うだろうとか、こっちは断水とはいえ自業自得だとか。赤と緑の愉快なコントラストを思い浮かべたりしたのだが、同意を促す環の顔は、そんな些末な懸念を気にも留めていなかった。

「……そぉいうこともあるね」
「だろ?」

だから、南央もようやく体育座りから膝をもどし、環と同じ口調で頷いた。すっかり冷めた紅茶に手を伸ばす。マグカップは冷たくなっても生姜の香りは仄かに残っていた。

「この話、航平には内緒だから。内藤にも言うなよ」
「おれのことは知られてるのに。ずるい」
「紅茶二杯ぶんのお代かな~?」
「なにそれ」

不満を溢しつつも南央はカップをあおってぐいと一飲みする。環は南央の、この無頓着さが好きだった。航平や良だとこうはいかない。環が一番弱っていた時期を知っているから、気にするなと言っても二人にとってはとても無理な話。航平のことも良のことも好きだけど、付き合いが長い分気の置けない相手だけど、南央は別種の気楽さを環にくれる。

「……ねぇ、環さんと航平さんってさ、いつからこういう感じだったの」

突然切り替わった話題に、環は一瞬置いていかれた。

「は?」
「だからぁ、純愛韓流ドラマみたいな」
「……見たことねぇけど」
「じゃあ、いつから、好きだった」

珍しく饒舌な南央の口から思いがけない問いが飛び出してくる。環は茶化して返そうとして、ふと真面目に考えてしまう。いつから。いつからって、いつからだろう―

「…………たぶん、最初から」

手元のマグカップはとっくに空だ。紅茶に逃げることはできない。

「航平がどうかは知らねーけどな。俺には最初から、小さいときから、航平しかいなかったから」

噛み締めるように紡がれる言葉。南央はぱちぱちと瞬きをして続きを聞いた。

「だから、俺は航平と一緒にいないっていう将来を考えらんなかった。そうなったら多分、俺はだめだったと思う」

言葉にしたら、なおさらその通りな気がしてきた。自分の言葉をもう一度咀嚼して飲み込んでみる。すとんと腑に落ちて舌触りの良い事実だった。

「一緒に住もうっていうのは?」

南央は独り言を呟くときと同じ音量で小さく尋ねる。

「こーへいの言葉。あいつ、最初からそのつもりで広い部屋に一人暮らししてたって、笑っちゃうよな」

環はそれに、はにかみをほころばせて答えた。世界が祝福するような笑顔だ。神様が今か今かと待ち受けて、天使を巡回させている。
その話なら、良から以前聞いていた。良は航平から聞いたのだろう。一年遅れて環が卒業したら一緒に暮らせるように、大きめの部屋を借りたのだと。

「……航平さんがあぁなったの分かる気がする。こんなキレーな顔がずーっと隣にあったら麻痺するよ」
「…………なーんだそれ」

わけがわからない飛躍に環は吹き出した。顔を褒められたこと、無いと言ったら嘘になる。顔の造りに対して特別な感情は無かったが、この顔のお陰で航平が麻痺してくれたのなら、遺伝子に感謝しなくてはいけない。南央の言う「麻痺」が何を指すのか、いまいちピンとこなかったけど。

――ねえ、南央はどうなの。内藤とは、ただの同居人なの。あの部屋は、ほんとにルームシェアのつもりなの。 

喉元まで出かかった言葉は、突然響いたインターホンのチャイムに遮られた。液晶画面を見ると、四隅が緩く丸まった映像で航平と良が映っている。買い物から帰ってきたらしい。オートロックのマンションなので、室内から解除しないとエントランスに入れないのだ。

「帰ったみたい。案外早かったね」ロックを開けて、環は椅子に戻る。
「あ、ちょっと前にメッセージ来てた。そろそろ帰るって」スマホの画面が掲げられる。
「じゃあコンロ出さないと。南央、手伝えよ」
「ん」

南央はマグカップを流しに運んだ。環が収納棚からカセットコンロとガスボンベの一式を引っ張り出していると、ガチャリとハンドルが回って扉が開いた。ビニール袋でガサガサ音を立てながら、長身の二人組が入ってくる。

「ただいま」
「お邪魔しまーす」

二人は両手にビニールをぶら下げていた。鍋の材料を揃えたとはいえ、どう見ても四人分ではない食材だ。おかえりと迎えた環が目を丸くしていると、南央も同じ感想を持ったようで、袋の中を疑わしげに覗き込んだ。

「食べきれる?こんな量。大学生の胃袋じゃないんだぞ」
「いやいや、鍋なら案外いけるんだって。航平先輩と選んでたらさ、どれもうまそうで決めらんなくって」
「なんの理論、それ……」

白菜、長ネギ、キノコ類。豚肉につみれ等、いかにも鍋らしい材料を机に並べる。食べ過ぎに嫌な思い出のある南央は、せっかく萎んでいた記憶がまた膨らんできたのを感じてジトっとした目で良を見る。突然睨まれて見当のつかない良は、「なんだよ」と南央の鼻をつまんだ。南央はむっとしてその手を払う。コートを脱いだ航平と、それを受け取る環。二人は年下の二人を微笑ましく見守った。

「甘い匂いがする」

ふわりと漂った甘い香りに気が付いたのは環だ。

「あ!そうそう。これ買ったんでした。須野原さん、これ好きですか」
 
良は慌ただしくエコバックを開いて、中から新聞紙の包みを取り出した。ガスボンベの半分くらいの大きさのそれはちょうど四つある。航平は自分の分として自分で掴んで、残った三つから一つずつ留守番の二人に手渡した。残った一つが良の分だ。

「焼き芋。商店街で売ってたんすよ。うまそうだったんで買っちゃいました。鍋の前ですけど、あったかいうちに食いません?」

賛成を示して航平が頷く。航平の手はすでに新聞紙を開いて紫色の皮を剥きかけていた。それを見て、南央はあっと声を上げる。

「手、洗う!航平さん、良も!」

普段の倍の声量と活舌で南央の正論が飛ぶ。外から来た二人はひえっと肩を竦めて包みを置いた。そして、いそいそと洗面台に向かっていく。このやりとりはもう数えきれないほど展開されていて、おかしくなって環は声を上げて笑った。

「あー、おかしい。南央。俺たちも洗っとこ。俺、焼き芋、今年初だ。早く食いたい」
「そのつもり。うん、おれも好き」

ハンドソープを泡立てる航平の後ろに良が待ち、その後に環、南央と続いて並んだ。「何してんだ、お前ら」航平は若干引き気味だ。手を洗って口をゆすいだら、四人で座って焼き芋を食べよう。食べ終わったやつから鍋の準備。夜になったら、酒を飲みながらふつふつと煮立つ鍋を囲むのだ。環はそんなこれからの数時間を想像して、何気ないことなのに、浮足立っている自分に気付いた。南央の頬も緩んでいる。航平と良は、見なくても分かる。こういう時間は、それぞれがどういう関係だって問題ない。
環の番が回ってきた。
芋が冷めるから早くしろと急かされて、環は苦笑しながら蛇口を捻った。

nekogumi:END

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