「たまき?いるんだろ」
そう言いながら、保健室のドアを引く。年季の入った重厚な作りの木製開き戸だ。
まるでどこかのコンサートホールのような、漆喰の艶が残る観音扉はこの校舎の至る所に見られる。高校の建物としてはきっと珍しいこの設計は、明治の有名な建築家が残した古い洋館を増改築して作られたためと校史にあった。はめこまれた三連窓、彫りの細やかな窓枠、レンガとモルタルの外壁……かつて洋館であった面影は、確かに各所で確認できる。古くなった扉の蝶番が軋むのもその一つだ。
保健室は柔らかな光に満ちていた。窓から差し込む光が木漏れ日を床にうつす。
一歩足を進める。前髪が微かに揺れて、室内なのに風を感じる。視線を動かすと、換気のためか窓がほんの少し開いているのが分かった。改めて見上げるとそれは縦長の上げ下げ式で、ここにも洋館らしさは残っている。
空調も効いていて、外の空気も入ってきて、贅沢な温度だな、と一瞬だけ思う。
クリーム色のカーテンがはためいて、俺に居場所を知らせた。
「たまき」
最奥の一角まで真っ直ぐに足を運び、半分だけ開いていたカーテンを一息に開く。
ベッドに横になって、顔を半分枕に埋めた環が視界に飛び込んできた。環は眠るとき、膝を抱えて小さく横になる。昔から変わらない環のクセだ。
「こーへい」
俺を視界に捉えて、嬉しそうに顔をほころばす。
「お前、また仮病かよ」
半ば呆れながら、いたずらっぽい笑顔を浮かべる環の髪の毛をくしゃりと掴んだ。
環は留年した。
理由は、出席日数の大幅な不足だ。
生まれた時から体が丈夫じゃなかったらしい環は、心臓に病気を抱えていた。小学校、中学校と、今までなんとか折り合いをつけて生活していた環に、ついに手術の話が持ち上がったのは昨年の話。
主治医と散々話し合った結果、環と環の家族は手術を選んだ。その後待っていた検査入院の段階で休学手続きを取ったため、丸々一年分欠席ということになる。
結果、環はもう一度一年生をやっている。
手術は無事に成功したとはいえ、今でも全ての授業に出られるわけではないし、検査や治療があれば当然学校なんて後回しになる。一歳年下の同級生に馴染めず、寂しくなるとこうやって保健室へ逃げ込むのも、環のクセ。
そうすれば、俺が来ると知っているからだ。
「……いや、だってさあ、無理でしょ。俺、超腫れ物だぜ?」
悪びれる様子もなく、あっけらかんとそんな風に言ってのける。
掴みどころのない飄々とした言動の裏、環はそれはすごい寂しがりやだ。小さい頃から家が近く、ずっと幼馴染だった俺と環だが、俺の記憶の限り環はいつも俺にくっついていた。
小学校の図工室にあるような木の角椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。授業の始まりを知らせるチャイムが聞こえた。俺は四限をサボることになりそうだ。
「お前の教室言ったら居なかったからさ、えーと、誰だっけ、斎藤?内藤?お前のクラスの茶髪……に聞いたんだよ」余韻を残してチャイムが鳴り終える。「そしたら保健室行ったって言うからさ。いい加減馴染めよ」
「サイトーでもダイソーでもどっちでもいいよ。俺航平が居ればいいもん」
「もんじゃねーよ、もんじゃ。可愛くねえ」
「はは」
もぞもぞと身じろぎし、布団から環の手が覗いた。髪を耳にかけるその指は、同級生の誰よりも細い。折れてしまいそうな手首はすぐに毛布に引っ込んだ。
「腫れ物って……お前がそういう風に振る舞うからだろ」
「やーだよ。だって去年までは後輩だもん」
拗ねたようにそう言う環。ふいっと顔を背けるのも「拗ねています」というポーズだ。
「一歳しか違わねーだろ」
そっぽを向いた顎を掴んでこっちを向かせる。両頬が挟まれて不細工に唇がつぶれた。たちまち不機嫌そうな顔になるので、最後に一度だけむに、とつまんで手を離した。
俺の方が先に卒業して、そしたら環はどうするんだろう。環の未来を考えるのはいつでも苦くて、少しだけ怖くて、意識して無視し続けていた。
本当は、保健室に行ったと聞くたびに、背筋がひやりとしている。
学年が違えばそう簡単に会うことはできない。それは去年だってそうなのだが、去年の環は病院にいたわけで、何かあっても大丈夫だという安心感があった。
だけど、ここではそうはいかない。
仮病だと知りたくてこうやって保健室に急いでいるなんて、環は思ってもいないんだろう。仮病かよ、と念を押すことで、自分を安心させているのだ。
廊下を誰かが話しながら通っていった。授業時間中だから、移動か、教員か。笑い声が遠ざかる。階上では、椅子がガタガタと動く音がする。沈黙になった隙間に腹の虫が鳴いて、顔を見合わせて笑い合った。
「昼、どこで食う?学食?」
「んー、あそこは人が多いから嫌だなあ」
「じゃあ、購買で何か買うかな」
「航平適当に買ってきてよ。俺たまごサンド食べたい」
「パシってんじゃねえよ、アホ」
軽く額を小突くと、環はにやりと笑った。
その時、ヒュウッと高い音がして、窓の隙間から風が吹き込んできた。カーテンの向こう、机上の書類が飛ばされる音が聞こえた。何かが落ちたような軽い音も続く。
「うわっ、やべ」
片付けなければ、そんな使命感に腰を浮かせて立ち上がり、その視界の隅で環は布団に潜って丸くなった。まさか、と嫌な予感が胸をよぎる。
「たまき寒いの?」
指で少しだけ毛布を捲ると、ぐしゃぐしゃになった前髪から白い顔が覗く。
さっきまでは全く気付かなかったが、確かに少し顔色が悪いような、気もする。なにせいつも真っ白な顔をしているから、なかなか違いが分からないのだ。
「……や、んー、ちょっとね」くぐもった語尾が笑う。
室内は一般的な温度で、決して寒さは感じない。窓が開いているとはいえ空調も効いているし、ジャケットを脱いでも良いくらいだ。環は指定のセーターまで着こんで、毛布にすっぽりくるまれてもなお寒いと言う。
環が弱っている証拠だ。
「お前、仮病じゃなかったのかよ」
俺は慌てて窓を閉める。ジャケットを脱いで環の布団の上に被せる。他のベッドから布団を持ってこようか。室温を上げようか。様々な懸念が思考を駆けて、一番優先すべきことは何か、何をするのが最善か、断片的に次々浮かんで泡になる。
「航平!」
名前を呼ばれてはっとした。にわかに焦りだした俺を、環は起き上がって呼び止める。そんな些細な動作でさえ俺を不安にさせるには十分で。
出来れば、環には学校になんて来て欲しくなかった。
絶対に大丈夫だと言われるまで、環の状態が落ち着いたと太鼓判を押されるまで、どこかに閉じ込めておきたいと本気で願うほどである。
「大丈夫だって。大したことない 」
環の視線が、まっすぐに俺を捉える。長い睫毛が光を弾いていた。
環のことを言えないくらい、俺が寂しがりやなことを、環はきっと知らない。
背中にくっついてくれるから、俺は環の居場所を確認できるのだ。
「ヘンな顔するなよ、具合悪かったら休むから」
ほっそりと伸びた指先が、俺の首に触れる。頬までのぼって、仕返しだとつままれる。
冷たい指。
環の心臓は、ちゃんと指先まで血を送っているのだろうか。
冷たいと感じるこの瞬間、環の指は俺の体温を奪っている。
指が離れる。
たまき、と名前を呼ぶ。
うん、と返事が返ってくる。
名前が呼ばれる。
END
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