手を握ろう

教室内に不思議な空気を連れて、彼は今日も登校してきた。彼が教室に一歩踏み入れると、話をしていた人もふざけていた人も、彼をどこかで意識してしまうのだ。話をやめるわけではなく、ふざけてペンケースを投げたり机に座ったり、いつも通りを続けるのだが、皆が一瞬彼に視線を奪われているのはすぐに分かる。

十七歳で一年生をやり直している彼。「須野原 環」は高校二年生の年齢で、去年までは中学生だった俺達のクラスにいる。

最初はサボりで留年したのかと誰もが思ったが、始業式から一ヶ月もしないうちに、どうやらそういう素行不良の類とは違うらしいと気付き始める。
時々しか参加できない体育の授業。クラス行事のキャンプにも来なかった。何かの装置を腰につけて登校してきたこともある。朝は教室に居たのに昼前にはいなくなっていることなんてざらで、どうやら保健室で休んでいるらしい。
彼はどこか体の具合が悪いのだろう、という認識が、いつの間にか出来上がっていた。
だが、彼が視線を集めてしまうのはその特殊な事情だけではない。
とにかく顔立ちが整ってるのだ。
身長は平均より少し低いくらいだが、体の薄さは他の比ではない。ひょろりと薄っぺらくて、風が吹いたら飛ばされてしまいそうだ。それだけならガリガリだと気持ち悪く見えてしまうのだろうが、恐ろしく綺麗な顔が乗っていれば繊細さを際立たせるアクセントになる。

「須野原さん、おはよ」

机に荷物を置いた音がして、俺は振り返る。彼は俺の後ろの席だ。
一番入り口に近場所に彼の席を設けたのも、考えてみれば体調が悪くなったらすぐに退室できるようにという配慮なのかもしれない。

「あ、内藤」

このクラスで彼と話す人はほとんど居ない。その中で比べるなら俺はわりと話す方なのかもしれないが、話しかけられることはまずなかった。名前だってちゃんと覚えられているのかどうか怪しいところである。
線の細い繊細な外見に反し、彼が存外ぶっきらぼうで、雑な性格をしているのを俺は知っている。年上だからといって偉ぶることもなく、もっと外向的になればすぐに馴染んで溶け込めるはずである。
もっとも、彼はそれを必要としていないのかもしれないが。

「須野原さん、今日俺と日直です。日誌の分担、どうします?」
「……俺、自分の字嫌いだから書きたくねぇ」
「じゃあ俺書きますから、号令お願いしますね」
「ん」

眠そうに気のない返事をして、彼は廊下の外に視線をやった。
首から顎に繋がるラインがあまりに綺麗で思わず見とれてしまう。
白い肌は光を弾く。

——きっと、「あの人」を探しているんだろう。
二年生の年齢だとはいえ、二年生と親しいかと言うとそうではないらしく、部活の先輩の中には須野原さんの存在を知らない人もいた。一度も登校していないクラスメイトがいる事実は知っていても、その名前までは把握していない……というのが大半。
そんな須野原さんだが、一人だけ心を許している相手がいる。
背の高い、快活な印象の先輩だ。昼休みになるとわざわざ階段を上ってこのクラスまで来て、良く通る声で「たまき」と須野原さんを呼び、教室から連れ出していく。
その時の須野原さんの顔が本当に嬉しそうだから、この教室では決して見せることのない笑顔だから、きっと二人は長い付き合いなのだろう。
須野原さんの号令で授業が始まり、須野原さんの声で終わる。須野原さんの声はイメージしていたよりも低くハスキーだ。
須野原さんは、結構適当でマイペースに生きている。それは例えば英語の時間。須野原さんは居眠りをしていたらしく、ふと後ろを振り返ったとき、船を漕ぐノートの文字がぐちゃぐちゃに踊っているのが見えた。そういう瞬間は、何度もあった。
 

休憩時間のうちに日誌を片付けたい。日誌と言ってもそれほど大したものではなく、時間割の表を埋め、担当教員を書き、授業の内容をざっくりとメモするだけである。大したものではないだけに、地味に時間を取られてしまう。実際、この作業が本当に必要なのかどうかは一考の余地があると、きっと皆が思っている。
ペンを持って一限の内容を思い出そうと記憶を辿った時、「ないとぉー」と間延びした声に呼ばれた。顔を上げると、黒板の前でたむろしていた数名がひらひらと手を振っている。

「内藤、次の化学、モリコんとこ行くんじゃなかった?」友人の親指が扉を指す。
「うわっ、やべ、そうじゃん。忘れてた」俺ははっとして立ち上がった。
「あっぶねー!モリコキレんぞ、はよせい」
「うん」

モリコというのは化学担当の森山の事で、代々モリコというあだ名で呼ばれている。前回の授業から教室で軽い実験を行っていて、日直は化学準備室まで実験器具を取りに行かなければならないのだった。俺はまた振り返り、座っている須野原さんに呼び掛ける。須野原さんもこのやり取りを聞いていたらしく、顔を上げて腰を浮かせていた。

「須野原さん、行こう。休み時間あと五分だ」
「俺も忘れてた、悪い」

教室を飛び出して、小走りで廊下と階段を抜ける。化学室は特別棟の一階だ。
ふと、須野原さんが走っていることに不安を覚える。
どこが悪いのかは知らないが、体育を殆ど見学していることを考えると、あまり体を動かしてはいけないのかと思ってしまう。とはいえ先週のバレーには参加していた気がするから、そう神経質にならなくてもいいのかもしれないが。

渡り廊下を駆け、階段は二段飛ばしで、化学室の前に立った時には随分息が上がっていた。教卓横の扉で繋がる準備室の入り口は鍵がかかっておらず、抵抗なく開いた。

「何が必要なんだっけ?」

器具を運ぶためのカゴを机に置きながら須野原さんが尋ねる。

「えーと……あ、そこのプリント」
「ん、」須野原さんは頷く。

カチャカチャと器具を移しながら、授業五分前のチャイムを聞いた。やべ、と須野原さんが呟いた。棚からカゴへと動かす手を早める。

「須野原さん、あの背の高い先輩、幼馴染みかなんかですか?」

ふと、尋ねていた。
須野原さんは、不意を突かれた様子で俺を見る。ガラスのぶつかり合う音がぴたりと止まり、瞬き三回分の沈黙があった。

「航平のこと?」
「いや、名前は知らねっすけど」
「うん、家が近所だったんだ」

何気なく応じながら、須野原さんが、微笑んだ。
俺はもちろん彼から笑顔を向けられたことなんてなくて、初めて真正面に表れたそれがあまりに幸せに満ちていて。思いがけず飛び込んできた繋がりに息を飲んだ。
幸福の象徴はあっという間にはにかんだ照れ笑いに変わり、その次にはいつも通りの、作り物みたいな初期設定に戻っていた。須野原さんが作業を再開したので、俺も背を向けてフラスコを掴む。白昼夢のような一瞬だった。

負けたな、と思う。

勝負事ではないし何に負けたのかなんて分からないのだから、敗北感を覚えるのも変な話だ。けれどその笑顔と、笑顔を引き出せる相手との繋がりには、理由を考える前に白旗を上げたくなった。負けたけど、白旗だけど、不思議と悔しくはない。 
その時唐突に、ガラスの割れる音が響いた。ゴンっという鈍い音も。我に返って振り返り、ぎょっとして息を飲んだ。
須野原さんが、割れた試験管の破片の中で蹲っていたからだ。

「須野原さん?」

慌てて駆け寄り肩を支える。床に倒れてしまったら、広がるガラスの一帯に顔から突っ込むことになる。この顔に傷がつくのは恐ろしかった。手の下で丸まった背中は痙攣するように小刻みに上下して、左手はぐったりと投げ出されている。

「……ちょっと目が、回っただけ……、大丈夫」

抑えられた細い声が震えている。
大丈夫という言葉はどういう意味だったかと考える。少しも、全然、大丈夫じゃない。
目をきつく閉じた須野原さんの口元が、微かに笑みを作ったのが見えた。その唇は血の気が引いて紫色だ。須野原さんの身に何が起きているのか、一瞬で推測した。

「誰か、呼んでくる」

さっきまで流れていたのんびりとした空気や、少しの敗北感なんてどこかへ消えた。緊張で背筋が冷えていくのが分かる。須野原さんから、返事はない。

***

さあっと血の気が引いていく。
襟首に太い注射器を当てられて、一気に何リットル分かの血を抜かれてしまったような、そんな錯覚。世界が真っ逆さまに落ちてくる。
このまま意識を失うかと思うほどの、強い目眩に襲われた。
持っていた試験管をケースごと落として、同時に床に座り込んでしまった。ガラスが割れるすごい音がした。「貧血?」と一瞬だけ思い、耳鳴りと共にそうではないと自覚する。
これは、きっと発作だ。

「須野原さん!」

内藤のぎょっとした声も膨張して聞こえる。甲高い耳鳴りの向こう側に音の壁がある。
心配しなくても、大丈夫。すぐに収まる。少し休めば、すぐに。
そう伝えたいのに、何か言葉にすれば戻してしまいそうな吐き気に負けてしまう。
もう、喉の奥まで胃酸が迫り上がってきているのだ。

「……ちょっと目が、回っただけ……、大丈夫」

親切にも体を支え、背中をさすってくれる内藤。大きな手のひらに撫でられて、飛びそうな意識が何とか現実に足をつける。彼は俺の言葉を信じてくれただろうか。この言葉を信じたいのは、他でもなく俺自身だ。
動悸が激しい。体のどこで鼓動を感じているのか、これは自分の心臓なのか、自分の心臓はちゃんと動いてくれるのか――ぐちゃぐちゃな思考が浮かんでは消える。
ぼんやりとした頭は焦りに包まれた。

(……怖い……っ)

航平。

***

夢を見ていた。
クリスチャンである母親に連れられ、教会へ行ったときのこと。これは記憶だ。

「この子は本当に愛らしいですね。きっと神様のご加護がありますよ」

シスターが微笑んで言う。
母親に抱かれた俺はまだ掴まり立ちも出来ないころで、手を伸ばして空中を掴む。
幸運を願うシスターの祈りを「でも、」と遮り、母親は俺の心臓にある欠陥を伝える。
これは記憶であり夢であると不思議と自覚していた俺は、その様子を協会の外からぼんやりと眺めていた。ポーチを進んでタイル張りの正面扉に一歩ずつ近づく。母親が振り返ったら、俺の姿が見えてしまうだろう。けれど母親は振り返らない。俺はそれを知っている。
天窓のステンドグラスから光が落ちて、教会全体がきらきらと揺れている。
姿の見えないパイプオルガンが一度だけ鳴った。
シスターは嘆く。

「ああ、きっとこの子は神様に愛され過ぎてしまったのね」

母親のすすり泣く声、嗚咽。
何もわからない小さな俺は、泣かないでと母親の髪の毛を引っ張った。
神様に愛されなくても、航平が居てくれればいいのにな、と、俺は光の外から考える。
そんな夢。

***

目を開けると、白い天井が視界に映った。視界が明るさに慣れなくて思わず目を細める。ここはどこだろう。何をしていたんだっけ。眠くて眠くて、瞼が開かない。
ピッ、ピッ、ピッ……と、規則正しい電子音だけが聞こえた。
体が信じられないくらい重たくて、寝返りひとつ打てなかった。それでもやっとの思いで横向きになり、布団に潜りなおす。だってあまりに眩しいのだ。

「須野原さんー?目、覚めましたか?」

すると身動きする音が聞こえたのか、カーテンの隙間から看護師が一人顔を覗かせた。布団から顔を出すと目が合った。ワゴンを引いてきた彼女は、にっこりと微笑んで仕切りの中に入ってくる。カルテの紙面を捲りながらボールペンを走らせる姿が見えた。

「点滴終わったら心電図検査しましょうね。どこか痛いところはありますか?」

そう言われてようやく、自分が点滴に繋がれていることに気が付いた。下から見上げた点滴パックはゆらゆら揺れていて、水越しに歪む天井をぼんやり眺める。夢で見たステンドグラスの光に少しだけ重なった。
目を閉じて首を降る。
思い出せる強烈な吐き気は嘘のように引いていて、うるさい耳鳴りや狂ったような動悸も収まっていた。熱を測れば平熱を示したが、寝ている間にちょっと驚くくらい汗をかいたようだった。額やシャツがしっとりと湿っている。蒸しタオルで顔や首筋を拭いてもらった。
満身創痍、といった感じだ。
どこもかしこも痺れたように重くて、怠かった。
点滴の速度を弄り、終わる頃にまた来ますねと言い残して、彼女はワゴンと一緒に去っていった。背中が薄い仕切りの向こうへ消える。カーテン一枚隔てて、とても孤独だ。
ふと顔を動かしてみる。
切り取られた窓の向こうは夕焼けだった。
こんなことがいつまで続くのだろう。こんな体がどこまでもつのだろう。赤く染まった空のせいで、いつもよりも感傷的な気分になる。
神様、俺は贅沢すぎますか。
思考が自己嫌悪の領域まで伸びようとしたその時、ガンッと大きな音が聞こえた。 「いてっ」という声と、靴が床を蹴る音も続く。
足音は俺のカーテンの前で止まり、薄い隔たりの向こう側に人影が立った。人指し指でカーテンを少しだけ開き、そっと中を覗き込む。その視線を知っていた。

「こーへい」

俺が起きているとは思わなかったらしい。横になったままベッドから名前を呼ぶと、航平は大袈裟なほど大きな溜息をこぼした。

「なんだ、案外元気そうじゃねえか」

遠慮なくカーテンを引いて中に入り、備え付けのパイプ椅子にどかっと腰を下ろす航平。雑な所作には安堵がありありと見えていて、それに気づいて胸が痛んだ。
「心配かけたね」と言おうとして少し迷って。航平の顔を見て、あれ、と思った。
学校から病院まではバスで十五分程。乗り継ぎも要らないうえにバス停も近く、俺が入院したときはいつも帰りに立ち寄ってくれていた。だから、今回もバスで来てくれたのだろうと思っていた。が、どうだろう。
目の前に座る航平は、肩で大きく息をしていて、額が濡れるほどの汗をかいている。

「……まさか航平、走って……?」

何も言わない視線がぶつかる。
痛いほどの心配を感じて、あえて気付かないふりをする。航平が何も言わないから、俺もあえて大丈夫だと強調したりしない。
大丈夫、分かってるよ、伝わってるよ。心の中でそう思う。

「学校から丁度いいバスがなかったんだよ。駅前までバスで出て、そこからな。……こっちは、一日、ひやひやしてた。……救急車が学校に停まったときは、こっちの心臓が止まるかと思った」
「え、俺、救急車で運ばれたの」
「呑気だなあー」

航平は真面目くさった顔でそう言ったが、覚えていないもんは覚えていない。事の次第を聞けばどうやら俺は化学準備室で倒れ、そのまま救急車で運ばれたらしい。確かに自力で病院まで来たとは思っていなかったが、どうやってここまで来たのかなんて少しも考えていなかった。

「授業始まってすぐに救急車の音がして、近くで停まった時から嫌な予感してたんだよ。窓際のやつとか外見てたし。で、休憩時間にお前の教室行っても居ない、保健室行っても居ない。先生つかまえて聞いたらやっぱりさっきの救急車はお前だって聞いて、でも俺が学校抜けてまで病院に行くまっとうな理由がないだろ。それで、一日ずっとひやひやしながら過ごしたのに、バスねえし」

時系列を追って独り言のように続ける航平に、うん、うん、と相槌を打つことしか出来ない。本当は泣けてしまうくらい嬉しいのに、俺は素直になんてなれないのだ。

倒れる前、航平の事考えたよ。
夢の中でも航平の事考えてたよ。
きっとこの言葉は重すぎる。

「俺、救急車、実際乗ったの初めてかも。覚えてないの勿体ないなあ」
「人の気も知らないで呑気な奴だ」
「あは。でも大丈夫、ちゃんと会えたし」

重たい言葉を飲み込んで笑う。航平の眉間に皺が寄る。
どーもありがと、そう言うと、その皺はますます深くなった。
もうすぐ点滴が終わる。
俺はベッドから手を伸ばして、航平の手に触れた。あの時空中を掴むことしかできなかった手のひらは、今、ちゃんと航平をつかまえている。

「相変わらず冷てぇな」不満顔で航平が言った。
「相変わらずあったかいね」俺はその温かさを奪う。

最後の一滴が落ちるまで、こうやってお互いの体温を交換していよう。
それまでは、誰もこのカーテンを開けませんように。

END

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