二限が終わった休み時間。次の時間までの十分の間に、俺は生徒玄関に向かう。開け放たれた玄関から吹き抜ける北風が冷たくて身をすくめた。くしゃみをひとつ。
制服のポケットからティッシュを取りだして、人気が無いのをいいことに盛大に鼻をかんだ。 喉もイガイガして不快だし、どうやら風邪を引いてしまったらしい。
先週までの暑さは何処へやら、急に秋めいたここ数日。季節の変わり目である。
玄関のロッカーに寄りかかり、時計を見上げた。針は十時五十二分を指している。三限が始まるのは十一時ちょうど。環は今週、この時間に登校していた。
急激な気温の変化で万年健康優良児の俺ですら風邪気味なのに、環が弱らないわけがない。登校前にいつもの病院に寄り、抗生物質の点滴をしているらしい。本格的に体調を崩す前に、予防策のようなものだと言っていた。
環にとって、風邪等のウイルス性疾患は相性が悪い。弱った心臓の働きを機械が助けているのだ。心臓の中で血液が逆流しないようにする部分、環のそれは生まれつき脆かった。だから環は高校進学時に受けた手術で、生来のものを機械と取り替えた。
他の誰のためでもなく、環自身が生きるために。
機械は半永久的に機能する性能を持っているが、機械という人工物であることに変わりはない。特にウイルスには弱く、ただの風邪でも菌が心臓で炎症を起こしたら大変なことになる―これが、環が復学する際、環の主治医に聞いた話だ。退院前日に見舞いに行った時である。
家族でもない他人が患者の個人情報を聞き出すのは大変だった。守秘義務が、と渋る主治医に頭を下げ、土下座でもする勢いで頼みこんだ。結局、俺が環の家族よりも多く見舞いに来ていたことを覚えていた看護師が折れ、主治医に口を利いて貰えたのだ。
とにかく、最悪の場合再手術も考えられる、とまだ若い医者は気の毒そうに言っていた。
環に風邪をうつすわけにはいかない。何としても避けなくてはいけない。
(……俺の風邪が治るまで、近付かない方がいいかもな)
「航平?」
突然呼びかけられて、はっと我に返る。首を傾げた環がそこにいた。
いつのまにか傍まで来ていた環は、既に靴を履き替えていた。不思議そうな顔で覗き込まれる。くしゃみが出そうになって思わず顔を背けた。
環の胸元には、一年生のピンバッジが光る。
「悪ぃ、ぼーっとしてた。おはよ環」
「はは、変なやつ」
特に示し合わせることなしに、二人で並んで歩き出す。玄関の段差をひょいと越えたその肩があまりにも薄くて、いたたまれない気持ちに襲われた。
特にこれといって会話をするわけでもなく、ただお互いの体温を、気配を感じている。少なくとも、俺はそうやってようやく安心を得る。
三階、二年の教室がある階についた。環の教室はこのひとつ上だ。
「じゃ、航平、次の授業頑張って」
トントン、と階段を昇る環の背中が軽やかに遠ざかる。
「あのさ」呼び掛けると振り返り、数段高い位置から見下ろされた。天窓からの逆光で表情はよく分からない。「なんだよ」と首を傾げるのは見てとれた。
「俺、明日からちょっと課題で忙しいんだわ。この時間出てこれないかも。悪ぃな」
風邪をうつしたくない、なんて言ったら、環は罪悪感を感じてしまうだろう。早く風邪を治して、来週には戻れればいい。そう思いつつも、心のどこかで「少しは残念がってくれないかな」なんて、ささやかに期待していた。
環に対するこの感情は、付き合いの長さを抜きにしても、他のクラスメイトに感じる親しさとは違っている。名前を見つけることは、まだできない。
「なーんだ、そんなことかよ」
期待はあった。けれど、環はあっけらかんとそう言う。
「もともと俺、頼んでないし。忙しいのに悪かったな。てか、お迎えなくても教室くらい行けるって」
あはは、環はいつもの調子で笑った。確かに玄関まで迎えに行くのは、別に頼まれたわけじゃない。俺が、学校に来る環の姿を確認したかっただけ。
それでも、寂しがり屋の環はそれを望んでいるんじゃないか、そんな自負もあった。
「たまき」思わず名前を呼ぶ。
「なに?」真っ直ぐな環の声。
表情は見えない。
――環は、思ったより俺を必要としていないのかもしれないな。
そう気付くや否や、落胆や虚しさがせめぎあって溢れてきた。
何でもない。そう告げて片手を上げた。
***
「須野原さーん、そろそろかな?」
処置室のドアが開き、看護師が一人入ってきた。武井由美子というベテランだ。朝の点滴は毎回この人にお願いしている。血管が出にくいという自分の腕に一発で刺してくれるのだから、武井は点滴が上手いのだろう。以前は内出血や青あざの絶えなかった左腕も、武井が担当するようになってからはすっかり綺麗だ。
「はい。終わりました」
「じゃあ、ゆーっくり起き上がってくださいねえ」
馴れた手付きで針を抜かれ、点滴が外されていくのをぼんやりと眺める。
登校前に点滴をするようになって、一週間が経った。
もともと「とりあえず十日間」と言われていたので、順調なら今日を入れてあと三日。つまり、あと二回の点滴で治療は終了だ。ほとんど自覚症状のない風邪の治療だなんて変な話だが、この厄介な心臓がそれを求めるのだから仕方ない。
「あらどうしたの、元気ないわね」
「えっ」
突然言い当てられ、どきりとする。
何かあったの、と尋ねられた。点滴前の検温で、武井は俺が平熱だと知っている。不調があるとしたら精神面だと踏んだのだろう。
心当たりは、無いと言ったら嘘になる。
先週の水曜日以降、航平に会っていないのだ。
点滴が始まってから、航平は俺の登校時間に合わせて一階の生徒玄関まで来てくれていた。航平が待っているという事実は、俺が学校に足を運ぶ大きな動機だった。その事を謝ると、航平は嫌がる。だから心の中に泣けそうなほどのありがとうを隠しながら、いつも通り笑ってみせていたのに。
水曜日、「しばらく来れない」と航平は言った。課題が忙しくなるのだという。強がって、何気ない風を装ってはみたが、本当は、すごくショックだった。
仕方ないとは思う。
航平の生活より自分を優先して欲しいなんて思わないし、毎日会いたいなんてそんな我が儘を言える立場じゃない。一階から三階までを歩くためにわざわざ来て貰うのは悪いと思っていたから、それは別に良かったのだ。仕方ないと納得できた。
けれどそれよりもショックだったのは、そしてこうやって気分が落ち込むまでに引き摺っているのは、航平が昼休みにも姿を見せなくなったことだ。
いつも通りのあの良く通る声で、「たまき」と呼ばれるのを待っていた。馴染めていない教室から連れ出してくれるのを。けれどいくら待っても、昼休みが半分過ぎても、航平は来ない。賑やかな教室でただ一人じっとしていることに耐えられなくて、教室を抜け出した。
階段を降りて特別棟へ。一階の購買で売れ残っていたたまごサンドを買い、適当な空き教室でもそもそもと胃に押し込んだ。
航平の来ない昼休みは次の日も変わらずで、もう教室を出るのも億劫になってしまい、行きにコンビニで買ったゼリー飲料を飲んで机に伏せた。なぜだかとても、疲れていた。
そうして朝も昼も航平に会えないまま、金曜日が終わり、土日を挟み、月曜日が憂鬱を連れてやって来た。よく晴れた朝日を重たく感じるのは久しぶりだった。
(……面倒に、なったんだろうな)
そりゃあそうだろう。俺と違って友達の多い航平が、高校で留年なんてレアなことをした友人を気にかける理由なんて存在しないのだ。
航平が優しいのは今に始まった事じゃないし、俺に限った話ではない。
「幼馴染みと、けんか……しちゃって」
実際は、けんかにすらなっていない。俺が勝手に期待して、勝手に落胆しただけだ。
武井はあらあらと大袈裟に反応した。
「珍しいわねえ、須野原くんがそんなに落ち込むの。もしかして、その幼馴染みって須野原くんの好きな女の子だったりして」
嬉しそうに顔をほころばせる武井。武井は俺の小さい頃を知っているから、時々母親みたいなことを言う。俺と同い年の息子がいると聞いたこともある。答えられないでいると沈黙を肯定と受け取ったらしく、次に浮かぶのはにやりと噂好きの笑みだった。
「あらあ、やっぱり?でもだめよ、そんなに落ち込んじゃ。免疫力が下がっちゃうわ。はやく仲直りして、デートでもしなさいな」
「……」
「はい、点滴おしまい。学校行くんでしょう?」
「あっ、はい」
「本当は微熱もあるし、大事をとって欲しいって先生も言ってるんだけど……。行けるときは、行きたいわよねえ」
無理はしないこと、と念を押し、その他に細々とした注意を残し、武井は処置室を出ていった。白衣の背中が扉の向こうに消える。俺は武井がいなくなった後も、しばらくその出入り口を眺めていた。
荷物を持って、会計をして。学校に行かなくてはならないのだが、どうにも動く気が起きない。ベッドに腰掛けたままぼんやりと瞬きを繰り返す。
学校、休んでしまおうか。そんな考えまで浮かんでくる。
だって、学校に行っても、航平には会えない。
航平には言っていなかったが、普通に点滴を受けていたら、終わって学校に着くのはどんなに急いでも三限の途中になる。二限終わりの休み時間に着けるように、航平に会えるように、クレンメを弄って滴下速度を上げていたのだ。少しくらい速くなっても体に影響は出ないし、入院していたときに得た知恵である。
けれどもう、それもやめた。休み時間に間に合うように着く理由がない。
心のどこかで、航平の「特別」だったらと思っていた。
俺が幼馴染みで、他の人より、体が丈夫じゃないから。だから、優しい航平は他と「区別」して俺を扱ってくれる。じゃあ、俺が幼馴染みじゃなかったら?俺の体がフツウだったら?もし、俺の心臓が、治ったら?
「……っ」
悔しくて涙が滲んできた。
拳で胸を思い切り叩く。
目頭が熱い。
***
(今日も、だ……)
いつもつるんでいる仲間と窓際に固まって、下らない話をしながら昼食を取る昼休み。内藤は菓子パンを頬張る手を休め、入り口前の席に視線をやった。今日の昼は購買で買ったばかりのカレーパンと、メロンパンだ。
「どうしたんだよ」気付いた友人が、訝しげにそう尋ねる。
「須野原さん、今日もここで昼食ってる」
あー?と間延びした声を出しながら、友人も須野原さんの方を振り返った。
須野原さんは先週から、昼休みを教室で過ごしている。今までは、あの背の高い先輩が迎えに来て、連れ立ってどこかへ行っていたのに。
航平、と須野原さんは呼んでいた。名字までは分からない。
「いつも二年の先輩がさ、迎え来てたじゃん」
「ああ、確かに。ケンカでもしてんじゃねーの。なに、内藤、あの人と仲良かったっけ?」
「仲良いまでいかないよ。後ろの席だから、たまに話すけど」
興味もなさそうにふうんと返し、友人は提出期限の迫る英語の課題に話を移した。
学校を休みがちな須野原さんは、年下ばかりの一年の教室に、全くといっていいほど溶け込んでいない。浮世離れしたその容姿も、近付きがたい印象を与えるらしい。
もし席が遠かったら、自分も卒業まで話さなかったかもしれないな、と内藤は考える。
ゼリー飲料とパックのカフェオレという食事ですらない昼食を終えると、須野原さんは机に伏せた。そのまま寝ようとしているのか、薄い背中が規則的に上下する。
最近、須野原さんは痩せた。
もともと作り物のように細くて、あれ以上どこに痩せる余地があったのか分からないが、確実に痩せた。やつれた、と言った方が正確かもしれない。
先週から一限、二限の授業は来ていないし、今日も三限の途中から教室に入ってきた。また、どこか調子が悪いのだろうか。それなら航平さんは、何をやっているのか。なぜ、須野原さんの所に来ないのか。
お節介な苛立ちが頭をもたげる。
友人の話題が昨夜のバラエティ番組に移り、ペットボトルのコーラが空になった頃、チャイムが昼休みの終了を告げた。皆各々の席に戻っていく。俺は、須野原さんの前の席に。
このうるさい教室内で本当に眠れたのかは分からないが、須野原さんは既に体を起こしていた。机の上には教科書や筆箱が用意されている。
ふと顔色を窺って、思わずぎょっとした。
どこを見ているのか分からない目で、どうしようもなく思い詰めた表情をしていたからだ。悲壮感に近いような、どこか鬼気迫る必死さを感じた。
「はーい、授業はじめるぞー」先生が教室に入ってきた。現代文の時間だ。
俺も慌てて教科書を引っ張り出して、姿勢を一応、整える。睡魔と闘う午後一番、すぐに眠気に負けてしまうだろうと想像できた。形式通りの号令があり、授業は始まった。
須野原さんの異変に気付いたのは、授業が半分ほど過ぎた時だった。
「……おい……内藤……」
斜め後ろから、小声で呼び掛けられる。俺は想像通りの睡魔にやられ、目を半分閉じかけていた。名前を呼ばれてゆるやかな夢路からいっぺんに授業中という現実に引き戻される。
どうせ、消ゴム貸せとか、シャーペンの芯をくれとか、そういうお願いだろう。隣の席に須野原さんがいるのに、クラスの人は基本的に須野原さんには話しかけない。首だけ捻って目線で「何?」と問う。この先生は私語に厳しいのだ。
斜め後ろに座る友人は、焦った表情で身を乗り出していた。どうやら筆記具の無心ではないらしいと直感する。
「内藤……、なんか、……須野原さんの様子……」
「えっ?」
先生に睨まれないよう抑えられた声は聞きづらかったが、それでもすぐに理解する。
慌てて体ごと振り返り、
「須野原さんっ」
飛び出た大声に、教室中の注目が刺さった。
須野原さんは、俯いたまま目を見開き、その大きな瞳からは大粒の涙がぼろぼろと零れていたのだ。両腕で抱かれた体は、微かに震えている。
「先生!」
立ち上がって須野原さんの肩を掴む。ぐらりと抵抗もなく上体が揺れた。須野原さんの視界に俺は写らない。
「須野原さんを、保健室に連れていきます」
教室を抜けた須野原さんはされるがまま、俺に腕を引かれて廊下を歩く。良いとも悪いとも、何の意思表示もない。涙は一向に止まらなくて、床にぱたぱたと落ち続けた。
一体、どうしてしまったのか。
壊れた人形みたいだ。そんなことを考えた時、突然須野原さんが体を折った。壁にもたれてなんとか立っている、といった様子で、しかし彼は相変わらず言葉を発さない。
咄嗟に立ち止まって、そのまま倒れてしまわないよう彼の薄い肩を支えた。
「……うぅっ、……っ」
絞り出すくぐもった声。喉の奥に堪えるような仕草ではっとする。
「吐く?」
直感して返事を待たず、目の前の男子トイレに押し込む。手の甲を口に押し付けてえずく須野原さんは個室まで間に合わなくて、入ってすぐの手洗い場に嘔吐した。あまりにも突然の出来事で、鏡に映った俺は情けないほど明らかに狼狽していた。
「は、っ……うぇっ……、」
相変わらず涙を流したまま、ずるずるとタイルの床にしゃがみ込む。がたがたと震える須野原さんは、このまま、死んでしまいそうなほど不安定に見えた。
「須野原さんっ……、落ち着いて下さい。保健室まで、行きましょう、ね?」
とにかく、早く休ませなくては。震えているのも、寒いからなのではないか。布団に入れて、暖かくしていないと。少なくともこんな冷たいタイルの上ではなく。だって、須野原さんの体は俺みたいに頑丈じゃない。詳しいことは何も知らなくても、彼が何も言わなくても、そんなことは誰もが気付いている。だから今の不調もだって、俺には想像もできないほど深刻な事態かもしれないのだ。俺は深呼吸して呼びかける。
しかし、須野原さんは嫌々をするように首を振った。
「嫌だ……っ、嫌……っ、」
「どうしてですか!具合悪いんじゃないですか」
「や……っ、嫌だ……」
「だから、何で……!」
焦れったくなって、つい声を荒げてしまう。
――須野原さんは。
俺の知っている須野原さんは、一歳年上で、ちょっと珍しいくらい綺麗な顔で、でもその外見に反して内面は案外雑な、ずぼらな面もあって。話してみれば普通に続くのに、自分から誰かに話しかけたりしないから、年下ばかりのクラスでは浮いていて。
背の高い幼馴染みの話をする時は、すごく嬉しそうで。
「……航平、…来ないもん……!ひ、一人はやだ……!」
怖い、と絞り出した細い声は、まるで悲鳴のようだった。
目の前で震えるこの人は、今まで見てきたどの須野原さんとも違う。きっとどの須野原さんも本物で、嬉しいとか寂しいとか、怖いとか、そういう揺らぎがちゃんとある。近寄りがたさは須野原さんじゃなくて、俺たちが勝手に作った隔壁だった。
まずはここから動こうと、そして後ろから須野原さんを支えようと腰を浮かせた時、須野原さんの指がぱっと俺の袖を掴んだ。それは全く無意識の行動だったらしく、「あっ」とすぐに指を引っ込めた。が、例え一瞬でも、求められたことに確かな充足感。
須野原さんが縋りたい相手は、俺ではない。ここにいてほしい相手は一人しかいない。
「須野原さん、お願いだから保健室行きましょう。もう、保健室じゃなくてもいいっすから、とにかくここじゃなくて、横になってください」
そして、続ける。
「航平さんは、来ますから。」
***
自習の時間、俺はぼんやりと窓の外を眺めていた。教員がいないのを良いことに、広げたノートの上に肘を置き、行儀悪く頬杖をつく。
(……たまき)
先週は、あれから環と会わず仕舞いだった。入院していた時でさえほぼ毎日見舞っていたから、こんなに顔を見ないなんていつ以来か、思い出すのも難しい。
先週の金曜日には悪化のピークを迎えた俺の風邪は、週末ですっかり回復した。一時は三十八度まで上がった熱も平熱に戻り、くしゃみや鼻水も止まった。完全復活である。
気がかりなのは、環のこと。
今日、いつもの休み時間に迎えに行ったが、環は玄関に姿を見せなかった。
欠席なのだろうか。休んだのなら、それはつまり環の具合が良くないということ。
昼休みになったら教室に行ってみよう。そう思い、だるい自習を寝て過ごすために目を閉じる。じきにやってきたまどろみは、突如教室に響いた一声で一気に吹き飛んだ。
「航平先輩!」
バァンと大きな音を立ててドアが開き、叫ばれたのは俺の名前。反射的に声の方を向くと、見覚えのある顔が怒りのオーラを全開にして睨んでいた。頬杖から顎がずり落ちる。
一瞬で教室は静まり返り、クラスメイトから「呼ばれてるぜ」と視線が集まってくる。横に座る友人は、「お前だよ」と言いたげに親指で出入り口を指す。
(……確か、環のクラスの……?)
話したことはないが、見たことのある顔だった。記憶を辿る。内藤、と言っただろうか。
彼は靴音を立ててこちらに来る。ずんずん近づいて、ついに目の前に立った。
何が起こっているのか分からない。困惑して見上げると、内藤の鋭い眼光が刺さった。
「航平先輩、何、してるんですか!」
「……何って、……お前が何だよ、何の用……」
「須野原さんが倒れたんですよ!」
ダンッと机を叩き俯く内藤。須野原、環の名字。
一瞬で血の気が引く。
「おい、廊下出るぞ。」
好奇の視線に晒されながら、内藤を廊下に押し出した。
「環はどこに」
「なんとか、保健室まで連れていきました」
倒れたと言っていたが、環は今どこにいるのか。具合はどうか。保健室で休んでいるのだろうか。内藤に問い質したいことがまだ残っていたが、とにかく今は一刻も早く駆けつけたい。教室の戸を閉めるが早いか走り出した。内藤が飛び込んできた時と同じくらい、それよりももっと派手な音を立てて扉が閉まる。反動で少し開いたのだが、二人はそんなことに構わず廊下を駆ける。
それにしてもなぜ、内藤はこんなに怒っているのか。どうして俺は怒られているのか。
「ありがとな」
いずれにせよ、環を保健室まで連れていき、二年の教室まで伝えに来てくれたことには変わりがなない。素直に感謝を告げると、内藤は虚を突かれたような顔をした。不機嫌そうに眉根を寄せて正面を向く。
「別に」内藤は歩幅を広げる。航平はそれを追った。
「環!」
階段を駆け下りた一階、保健室。叩きつけるようにドアを開ける。古い蝶番が軋んで甲高い音を立てた。大股で保健室に飛び込む。
環はソファに腰掛け、腕を枕に中央のテーブルに伏していた。養護教諭はいない。突然名前を叫ばれて、びくりと肩を震わせた。
ぱっと顔を上げ、航平を視界に捉える。驚きに見開いた表情はみるみる歪んでいく。
「こっ……こう、へ……」
赤く充血した瞳。頬には涙の跡がある。
その跡を辿るように、一筋、また一筋と涙が溢れた。
会いたくて、仕方のなかったひと。
「なあ、環」
床に膝をつき、環と視線を合わせる。
航平は、いつもとは違う何かを感じていた。いつものように、寂しくて、自分が来ると知って保健室に逃げ込んだとか、そういうものではない何か。
ベッドで横になってないということは、体調はそれほど悪くないのだろうと推測する。
ならばどうして、こんなにも環は不安定になっているのか――……
「たまき、どうしたんだよ、お前」
深く考えるのは向いていない。どんなに大切だって、他人の気持ちなんていつでも自分の想像を超える。分からないなら、聞くしかないのだ。
航平は直球で尋ねる。環はひくっとしゃくりあげた。
「……こうへい、来ないから……、き、嫌われたと、思っ……」
流れる涙をそのままにして、構わずに環はずっと吐き出したかった言葉を繋ぐ。
途切れ途切れに続いた言葉に航平はがく然とした。
「課題忙しいって……、分かるけど……!昼も来ねぇんだもん……!も、……俺のこと、……め、面倒になったのかって、俺……」
「環」
思わず、薄い肩を引き寄せていた。
環は腕の中にすっぽりとおさまって、一瞬の強張りもすぐにほどける。環は抵抗しない。
環の吐く息が首筋に触れ、涙がシャツの襟を濡らした。
耳元で嗚咽が漏れる。空気が揺れる。
久しぶりに感じる環の体温。
昼休み明けの授業中、環は看護師の武井が言っていた言葉を思い出していた。
『もしかして、その幼馴染みって須野原くんの好きな女の子だったりして 』
幼馴染みとけんかをした。呟いた時、武井はそう言ってからかった。
(……好き)
渡された言葉の意味を反芻する。ゆっくりと咀嚼する。
そして、唐突に理解する。
女の子ではないけれど、でも、航平が好きだ。好きでいっぱいになって、息が出来なくなるほど。環はそう自覚した。
でも、航平は自分の方を向いていなくて。昼も、もう一緒に食べられないのかもしれない。幼馴染みという切り札は、諸刃の剣だった。
幼馴染みだからああして「区別」してくれて、でも、「特別」になれなかったら、それはただの足枷だ。こぼれた刃は自分の手も傷つける。
(……お前が、好きなんだよ、俺)
そう思ったら目頭が熱くなり、あっと思った時には涙が止まらなくなっていた。
異変に気付いた内藤が腕を引かれて教室を出る。目まぐるしい感情の波に吐き気がして、途中で一度吐いた。立っているのも難しいほどに世界が回った。保健室に行こうと言う内藤の言葉に、強情になって首を振る。
保健室にはどうしても行きたくなかった。
朝も昼も航平は来なくて、もし保健室にも来てくれなかったら、俺はどこにも居場所がない。環はそう考えていた。
保健室に行って、航平が来ないことを確認したくなかったのだ。
だから、賑やかな教室で不安や寂しさに襲われても、少しくらい具合が悪くなっても、保健室に足は向かなかった。
「ごめんな。環ごめん」
背中に手を回し、厚みのない背中を撫でながら、航平は何度も謝る。
「俺、先週風邪引いてて。お前にうつすのはやべえって、思ってたんだよ。だから、治るまでは会わないでおこうって……」
「……んなの、言えよ、バカ」
「だって言ったらさあ、お前絶対気にすんだろ」
「何も言われない方がもっと怖い……!」
環の声に再び涙が滲み、航平は慌てて抱き締める腕に力を込めた。これ以上強く抱いたら折れてしまいそうだと不安になると、それを打ち消すように環の腕が背中に回った。ぐいと寄せられて、存外な力強さに環の意思を確認する。
「あー、だから、悪いって。俺が悪かったって、頼むから泣くな、な?」
昔からこの涙には弱かった。たくさん我慢して笑ってきたことを知っているから、全てを投げうって降参したくなる。環の我が儘も、横暴さも、それらの根っこにある弱さも、全部自分のものにしたかった。頭を撫でるつもりで、環の髪の毛をぐしゃぐしゃと掴む。
何となくおかしくなって、航平の体温をいっぱいに感じながら環は笑う。
苦しいくらい、お前が好き。
心臓がそう叫ぶ。
いつか、ちゃんと伝えられたら。そう思いながら、環は航平の肩に頭を預けた。
***
環が寝たのを確認して、握っていた指をほどいた。相当疲れが溜まっていたらしい環は、ベッドで横になるとすぐに眠りに落ちた。穏やかな寝息に安堵して胸を撫で下ろす。ストレスの原因が自分だったと思うと頭を殴りたくなる。
音を立てないようにそうっとベッドを離れ、静かに保健室を出ると、内藤が廊下の壁に寄りかかってスマホを弄っていた。航平は、そこで初めて内藤が保健室に入っていなかったことに気が付く。気を利かせてくれたらしい。何となく気恥ずかしくなって頭を掻いた。
視線に気付き、内藤は会釈する。微妙な沈黙が訪れた。
「俺、」口を開いたのは内藤だ。
「文句言ってやろうと思ってたんスよ、航平先輩に。けんかしたのか知らないけど、あんなに具合悪そうな須野原さん放ってて」
「……風邪、あいつにうつしたくなかったんだよ」
「はい。立ち聞きしてました。……事情も知らずに、教室に押し掛けて、怒鳴って、すみません」
終業のチャイムが鳴ったが教室に戻る気持ちは無くなっていた。二人とも動かない。
内藤は言いにくそうに続ける。
「須野原さんが悪いの、心臓ですよね。俺、ばあちゃんも心臓悪かったんで、なんとなく分かります」
航平は言葉に詰まった。
環の個人的な話を、本人の許可なく勝手に話していいものかと迷う。自分しか知らない環のことを他人と共有することに、子供じみた抵抗があったのも事実だ。だが、そんな悠長なことも言っていられない。環の抱える問題を知っている人が誰もいない所に、環が一人でいたと思うと背筋が冷えた。
「あいつ……環の心臓は生まれつきだ。留年したのも、手術で入院してたからなんだよ。で、俺とは……」
「幼馴染み、ですよね」
「環から聞いてたのか?」
「はい。俺、須野原さんの笑顔見たことなかったんですけど、須野原さん、航平先輩の話するときだけ、笑ったんですよね」
そう言いながら目の前で寂しそうに笑うのを見て、さすがの航平も内藤の内心を察した。
(こいつ、環が好きなんだ)
「そういや内藤、お前、俺の名前……」
「それも、須野原さんから。俺は航平さんの名字まで知りません。航平さんだって、俺の名前、須野原さんから聞いたんでしょう」
ゆるゆると頭を振る。口元には諦めの笑み。そこに、敵意は無い。
(……違うな…、好き「だった」んだ)
「……悪いな」航平は、内藤の目を見る。
「俺、環が大切なんだ。環が、特別なんだよ」
聞きながら、何を言い出すんだと内藤の目が見開かれる。内藤は一気に耳まで赤くして、わーっと大声を上げる。泣くかな、という予想は完膚なきまでに裏切られた。足を、思いっきり、踏まれた。
「ああもう!のろけないでくださいよ!そんなの、知ってます、気付いてます!須野原さんだって、航平さんだけが好きなんですよ!恥ずかしげもなくそんな宣言、俺にしないでくださいっ」
早口になって一息で続ける内藤。聞き捨てならないフレーズが聞こえた気がして、思わず横に並んだ両肩を掴んだ。
「おいちょっと待て、環が、何だって?」
「はあ!?あんたまさか気付いてないんですか!?」
信じられないと内藤は絶句した。年下にあんた呼ばわりされているが、そんなことはどうだっていい。俺は、何に気付いていないんだ。
「二人とも似た者同士ですよ!心配して損した!どうぞお幸せに!」
腕を振りほどき、肩を怒らせずんずん廊下を歩き出す内藤。航平は、その背中を慌てて追いかける。
「ちょ、ちょっと待て。どういう事だ。あっお前、教室で環見てろよ、頼んだからな。あいつが無理する前に休ませろよ」
「何で俺に頼むかなあ……!もう勝手にしてくださいっ」
廊下に二人分の声が響き渡る。何事かと職員室から顔が覗いた。
たまき。
誰が何と言おうと、あいつは俺の、特別だ。
END
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