和泉が風邪をひく話。
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そろそろ直矢を起こしに行かないと。
そんなことを考えながら、貴樹はまな板の上、ネギを刻んだ。
直矢は昔から酷い低血圧で、朝自力で起きて来たことは殆どない。
声を掛けただけじゃまず目を覚まさないし、布団を剥いでもやはり名残惜しそうに背を丸めるだけ。
そんなところも可愛くないと言ったら嘘になるが、出来れば目覚ましでも設定するなりして頑張って欲しいものである。
朝食も食べた例がないので、今作っている味噌汁も所詮個人用。
もしかしたら、学校から帰ってから食べてくれるかもしれない、と気持ち大目に作っているのだが、結局は自分の夜食になってしまう。
刻んだネギと豆腐を鍋に放り込む。
直矢のために紅茶でも入れようと、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、薬缶に注ぐ。
本当はしっかりと食べて欲しいが、無理強いをするつもりは毛頭なかった。
コンロの火を付け、キッチンを背にする。
さて、彼に朝を知らせに行こう。
「直矢ー、朝だよ。起きてー」
カーテンを引くと朝日が差し込み目にしみた。
直矢たっての願いで、カーテンは完全遮光性。
真っ暗だった部屋を、太陽の光が切り取る。
空気中のちりがきらきらとそれを反射して、まっすぐにベッドまで伸びた。
案の定、微動だにしない。
あまりにも静かに眠るものだから、生きているのか不安になった時もあった。
うつ伏せで寝る癖も、変わっていない。
「もう七時だよ。遅刻する」
暖房のスイッチを切る。
少し低めのベッドに眠る直矢の肩を揺すりながら、そう声をかけた。
「……ん、」
直矢は小さく呻いて、実に緩慢な動作で身体を起こした。
朝日で目が開かない様で、ぼんやりとした眼差しで何度も瞬きを繰り返す。
「おはよう。朝ごはん食べる?」
微かに首を左右に振る。
これが毎朝の恒例儀式だ。
答えなど分かっていたが、自分の心に落胆の色が滲むのはどうしようも出来ないことだった。
「そう。じゃあ先下行ってるから」
二度寝しないでね。
そう良い残して部屋を出、階段に足を掛けた時だった。
さっき出たばかりの部屋から物音がした。
それは丁度、人が倒れるような。
嫌な予感がして急いで戻ると、そこには案の定。
直矢がベッドから降りたままの体勢で倒れこんでいた。
2年前の“あの時”がフラッシュバックする。
血の気が引くのを感じ、慌ててそれを振り払った。
「直矢!」
とにかく冷静にならなければ。
慎重に抱き起こし、ざっと全身に目をやる。
(…よかった。どこも、怪我してない)
とすれば貧血だろうか。
直矢の表情は俯いていて分からない。
“あの時”の繰り替えしでないことにほっと胸を撫で下ろした貴樹は、そこで初めて直矢の体温が高い事に気付いた。
もしかして、と思い額に手を当てると、やはり熱い。
「なんだ、風邪か…」
普通に考えればおかしなことだが、それでも貴樹は「風邪」というレギュラーな状態に安堵していた。
だからといって当然放り出すわけではない。
ぐったりとした直矢を再びベッドに収め、職場には休みの連絡、直矢の学校には欠席の連絡を入れた。
直矢にとって風邪は厄介な状況で。
普段から薬を服用している直矢に、市販の風邪薬を与える訳にはいかない。
飲み合わせも考えた処方箋を貰いに行こうと言っても、大の病院嫌いの直矢を連れ出すのは困難なこと。
おそらく食べないだろうとは思うが、もしかしたら、という希望的観測の下、在り合わせの材料でスープを作ることにした。
確か冷蔵庫の中にグレープフルーツかスウィーティーか、何か柑橘類があった筈だから、それも後で剥こう。
果物だったら食べてくれるかもしれない。
考えを巡らせていると、咳き込む声が直ぐ近くで聞こえて、振り返るとリビングの入り口に直矢が立っていた。
ふらふらとキッチンカウンターまで歩いてくる。
「ゲホッげほ…たか、き」
掠れた小さい声。
いつの間に部屋を出たのだろう。
階段を降りる音なんて聞こえなかったのに。
「直矢?どうかした?」
「つまんない」
眉間に皺を寄せて、ずいぶん深刻そうな顔で言うのは、そんな事。
何となくおかしくて、頬が緩んだ。
「暖かくして、何か食べてくれるなら、ここに居ていいよ。ソファーに座ってテレビ見てたら?」
こくりと頷く。
熱に浮かされ潤んだ虚ろな瞳が貴樹を捉えた。
よほど退屈していたらしい。
「よし。ちょっとまっててね、」
手を洗って、暖房の設定温度を上げ終えるころには、直矢はソファーに寄りかかってちょこんと座っていた。
傍らにはクッション。
床に座り、全体重をソファーに預けているところを見ると、腰掛けて座る体力は無いらしい。
「そんなんで大丈夫なの?出来れば布団に入ってて欲しいんだけど…」
テレビの前に置かれているDVDケースから面白そうなものを探しつつそう呟くと、不満そうな声が返ってきた。
「居ていいっていったじゃん」
「まあ、そうなんだけどね …DVD、これでいい?」
結構前に話題になった映画のDVDを掲げてみる。
反応を窺うも、直矢はクッションに顔を埋め、気の無い返事を返した。
「時代劇じゃなければなんでもいい」
「…ケンカ売ってる?」
貴樹の趣味は時代劇鑑賞である。
ふふ、とくぐもった笑い声が聞こえた。
直矢がこんな風に感情を表してくれるまでに、随分掛かった。
たまにはこんな風に時間を過ごすのも良いかも知れない。
そんな風に思いながら、貴樹はDVDをデッキにセットした。
直矢の様子が変わったのは、それから10分後のこと。
テレビ画面に映し出されている映画はまだ序盤で。
出来上がったスープを弱火にかけ、グレープフルーツを剥くための小さいまな板を出そうと、棚に手を伸ばした時だった。
「…貴樹、」
搾り出す様な、呻く様な声で。
「ん?なに?」
「…吐き、そう」
驚いた貴樹の手をすり抜けたまな板が床に落ち、鈍い音を立てた。
慌ててキッチンを飛び出した貴樹が見たのは、体育座りでクッションに顔を埋めた直矢。
咳き込んでいるらしく肩を上下させるが、それは全てクッションが吸収していた。
「動ける?トイレ行こう」
背中をさすりながらそう話しかけると、直矢は少しだけ顔を上げた。
大きな目には隠しきれない程の涙が溜まっていて、今にも零れそうだ。
突如、激しく咳き込む直矢。
それが吐き気を堪えているのは明確で、しかしそれも限界が近いようだった。
直矢が立ち上がろうとソファーに手を掛ける。
けれど熱でふらふらの身体では、それさえも叶わなかった。
ぐらりとバランスを失った身体は、崩れるように倒れこんだ。
身体を床に打たないようにと貴樹が手をまわすのと、直矢が息を詰めるのは同時だった。
「っぅえ…ッおえ…っげほ、ゲホッゲホッ…うっ、え…っ」
むせ返る音と、吐瀉物が床に叩きつけられる音、それから映画の陳腐な台詞がでたらめに響いた。
「ゲホッげほ、っげほ、」
直矢は苦しげに肩を上下させ、腰を一層深く折った。
ぱたぱたと大粒の涙が零れ落ちる。
咳き込む姿があまりに苦しそうで、見ているこっちが辛くなってくる。
それから何度も咳き込み、やっと直矢の呼吸は落ち着きを取り戻したようだった。
「ごめんね、袋か何か持ってくれば良かった」
直矢はそれには答えず、だるそうにソファーに寄りかかった。
深く息を吐き、それから目を閉る。
涙の跡が頬に線を残していた。
虚ろな瞳が瞬いて、また涙を零した。
「みず」
ようやく発した第一声がそれ。
甘えてもらえるのが嬉しいなんて、どうかしているのかもしれない。
頼られる事で、自分を安心させている。
床を片付け、コップに注いだ軟水を渡すと、直矢は涙目で微笑んだ。
<トローチ:END>