全てくだらないと思っていた。
要するに、子供だったのだ。
何もかもどうでもよかった。
学校はエスカレーターだし、お金にも困っていない。
このまま何となく過ぎていく毎日に乗っかっていれば、それなりの場所に辿りつける。
その先が自分に合う合わないなんて関係なくて。
その先で適応させていけばいいと思っていた。
嫌いなことは、本気になること。
何かに一生懸命になるなんて自分のする事ではないと思っていた。
恋愛ごとに熱を上げるなんて愚かだと思っていたし、それこそ自分の役割ではない。
本気になるのが苦手なのだと気付いていなかった頃のこと。
本気になるのを恐れていた頃のこと。
それに倣うなら俺は今、『愚か』だ。
(最も今ではそれが『愚か』だなんて、思いもしていないのだけど)
*
________3年前。
中等部の養護教員が変わった。
保健室。
五十嵐にとって格好の休息場だった。
これまでの養護教員はとにかく甘かった。
年齢は自分の母親よりも数年上。
サボりに来ても何も言わないし、にっこり微笑んで「そんな時もあるわよね」なんて言う始末。
好きではなかったが、見逃してくれるなら何でも良かった。
今回は、どうだろうか。
人の優しさに取り入るのは得意だった。
大抵の人なら、うまくあしらえて来た。
きっと今回も、取り入って、この部屋の一角を自分の休息場にしてやる。
そう考えながら、ドアを開いた。
「、いらっしゃい」
長身の男だった。
てっきり女だろうと思っていたから、正直意外だった。
荷物の片づけが終わっていないらしく、机の上には分厚い冊子と、プリントの束が無造作に置かれていた。
ドアを開ける五十嵐に気付き、柔和な微笑みを浮かべる。
その表情は、嫌味なくらい、格好良かった。
「どうしましたか?3年生ですよね、そのネクタイ。怪我でもしましたか」
荷物を整理する手を休め、白衣を翻して近づいて来た。
微かに、香水のような、そんな香りが漂う。
特に思い当たる理由もないのに面食らってしまっていたが、五十嵐はすぐにいつもの調子を取り戻した。
ネームプレートに目をやる。
「南条先生、っていうんですか」
名前を呼ぶ、という行為には大きな影響力があるものだ。
「先生、新しく来た養護教員でしょう」
「?ええ、違いませんが」
「俺、ここに休みにきました」
様子を伺う。
怒られてしまうようなら、何か別の手を考えなければならないから。
返って来たのは何てこともないリアクションだった。
「あなたでしたか、前任の松川先生が言っていた生徒は」
「・・・へえ、何て聞いていたんですか?」
「よく休憩しに来る男の子が居る、って。あの人は微笑ましそうに語ってました」
「なら、話は早いですね。あそこのソファ、空けておいて下さい」
微かに、緊張していた。
ここで一蹴されてしまったらどうしよう、とか、そういう類いの心配は一切無かった。
それよりも、この人の“読めなさ”が五十嵐に不安に近い何かを与えていた。
何を考えているのかさっぱり分からなかったから。
「容認はしませんが、追い出しはしませんよ。邪魔をしないなら、好きにしていてください」
微笑んでいるかにも見える表情で、そう言った。
その時は、大変満足だった。
何度か通って、会話をして、授業はサボれて、秘密基地を手に入れたような気分だった。
南条先生にも、自分は好かれてるのかもしれない、なんて、浅はかな思い込みまでして。
南条先生は俺を気に入って、保健室に通って来ることを咎めないのでは無かった。
心の底から、“好きにして”くれ、と思っていたのだ。
なぜなら南条先生にとって、俺の授業単位や出席日数、内申なんて、毛の先程の関心も無いものだったから。
五十嵐が南条の本性を見たのは、南条が赴任してから半年も経った頃だった。
無意識下であったが、五十嵐は南条と過ごすこの時間に心地よさを感じていた。
勿論南条は、そんなこと、微塵も思っていなかった。
“何もかもどうでもいい”と、本当に思っていたのは、南条だった。
まだ一限も始まっていない朝。
五十嵐は保健室に入るなり苛立ちを露わにした。
「先生、何で、勉強しなければならないんです?勉強の価値って何なんです?」
こんなこと、いつ使うのか理解できません、と、五十嵐は鞄から出した教材を床に投げ捨てた。
授業出席日数が著しく少ない、と学校から五十嵐の家に連絡がいった。
弁護士である父親は激昂し、どうしてお前はこうなんだ、と何度も殴られた。
『俺の後を継げ。』
ずっと言われ続けて来た。
誰も彼もがそう言った。
上辺だけの理屈とそれをあたかも受け入れたかのように諭す教師も、親も、本当は分かってなんていない事を『当然』にする。
それが『普通』で、『規範』なのだ、と。
そのあまりにも子供じみた質問を、突如ぶつけられた南条は、書類を書く手を休めた。
どんな時でも一向に変化を見せない微笑が浮かんでいる。
「どうしましたか、こんな朝から。感情的になるなんて、五十嵐君らしくないですね」
「っ!」
小ばかにされた気がして、五十嵐は南条に教科書を投げつけた。
こんなの、八つ当たりだと頭のどこかでは分かっていた。
南条は微動だにせず、教科書はそのまま顔面にぶつかった。
認めて欲しかった。
肯定して欲しかった。
まだ、もう少しは気楽でいいよ、と言って欲しかった。
南条なら、そうしてくれるだろう、という、全く根拠の無い甘えがあった。
「いい加減にしろ、クソガキ」
その期待に反して、南条から出たのは、今までに聞いたことも無いほど低いトーンの、別人の様な声だった。
「なん、じょう・・・」
五十嵐は驚きを隠せなかった。
「あなたが留年しようと退学になろうと知ったこっちゃありません。いつまでも甘えていたければそうして居れば良い。私には何の関係もありません。親がエリート?厳しい父親?辛い現実?それこそ関係を持つ必要のない事柄ですね。あなたの選択に巻き込まれたらたまりません。業務外です。私、最初に言いましたよね、」
静かに淡々とまくし立てた南条の口元には、酷く皮肉な微笑みが浮かんでいた。
「邪魔をしないなら、好きにしていてください、って。今のあなたは私にとって非常に不愉快な存在ですし、現実逃避も判断の放棄ですから、『好き』なようにもなってないですね。逆に問いますが、この程度のタスクも乗り越えられないで、そんなあなたの価値って、どれ程のものです?」
沈黙が部屋を覆った。
今までに浴びせられたことのない、辛辣な言葉だったが、五十嵐が感じたのは、不快感でも怒りでも屈辱でもなかった。
「先生、格好良い。付き合って」
あまりにも不意に出た本音で、五十嵐本人も驚いた。
けれどもうどうしようもできなかった。
だって、それこそが自分でも気付いていなかった、自分の中身なのだから。
「・・・はあ?」
完全無欠にも見えた南条は、予想外の極みな五十嵐の発言に、気の抜けた返事を返した。
持っていたボールペンが床に落ち、軽い音を立てる。
「いや、まじ、感銘受けました。真剣に付き合ってください」
「お、お断りします。あなたの様な子供に興味はありません」
「俺にこんなに現実を教えてくれたの今までに居なかったんです。ね、いいでしょう、南条先生?」
「寂しい人間関係を築いて来たんですね。拒否します。何よりまず、この教材を拾って鞄に戻しなさい」
「俺が勉強頑張るようになったら、付き合ってくれます?」
「未来のことは計りかねます。その気になったなら教室に行ってください」
「その気にさせてくれたの、先生ですよ。前向きな検討期待してもいいですか?」
「~~~~ああもう!自己判断に委ねます。ほら、早く片付けてください」
「先生、大好きになりました」
「はいはい有難う御座います。片付いたなら出て行ってください」
その朝は、南条に押し出されるようにして保健室を出た。
それから五十嵐はまさに一念発起し、南条を数ヶ月間口説いて回った。
南条が折れたのは次の年の春。
最初にお互いが抱いていた感情はお互いに明かさないまま、今にいたるのでした。
〈曖昧なあれこれ:END〉