「和泉の家」に行った日の、その翌日も和泉は欠席だった。
結局、和泉は3日間も休んでいたことになる。
担任が言うには風邪らしいが、それが重症なだけなのか、それ自体嘘なのか、はたまたまた学校に来なくなってしまったのか。
和泉の携帯番号も知らない橋葉には、確認の術がなかった。
和泉が登校してきたのは、二時間目が始まってすぐだった。
化学の時間。
教卓で丁度実験が始まった時で、教室内の緊張やら、集中やらが入り混じった沈黙を和泉は崩した。
要するにタイミングが悪かったのだ。
遠慮がちに引かれたドアの音は、それでも響き渡って、教室中の途切れた集中は一斉に和泉に矛先を変えた。
教室中に注目された和泉は驚き、反射的に後ずさりドアにぶつかった。
どこからか舌打ちが聞こえた。
それが聞こえたのか先生は一瞬眉をひそめ、和泉に声をかけた。
「遅刻か。職員室には寄ったか」
「・・・はい」
さっきまで和泉に浮かんでいた表情はすでに形を潜め、また無機質な無表情になっていた。
「席に着きなさい」
「はい」
真っ直ぐに和泉は席に着いた。
律儀に毎日教材を持ち帰っているらしい、重そうな鞄を机に置き、中から教材を丁寧に出す和泉。
「おはよう」
緊張している自分がいた。
和泉相手だと、どうも調子が狂うのだ。
たかが、あいさつなのに。
「おはよう」
和泉から返って来た言葉は小さくて、けれど、それでも十分だった。
「和泉、何かすっごい久しぶりな感じがする。本当にただの風邪?」
授業が終わるや否や、橋葉は和泉に話しかけた。
和泉に聞きたい事は山ほどあった。
ありすぎて、十指に余るほどだ。
あの女の人は誰か。
あの住所は本物か。
何よりも気になっているのは、あの人が言っていた「和泉なら死んだ」という発言はどういう意味なのか。
あれからずっと引っかかっていたが、和泉は確かに今目の前に居るし、それが直接的な意味ではなく比喩のようなものなのだろうとしか想像できなかった。
それにまず、和泉を一番最初に保健室に連れて行った時に和泉本人が言った、「おれと関わると不幸になる。みんな死んでいった」というのも、一体何を意味するのだろう。
何かしらの関係はありそうだが、如何せん和泉については知らない事が多すぎた。
加えて口にするにはあまりにも重いワードが連立するので、迂闊に尋ねる事さえ憚られたのだった。
結局、和泉との会話の糸口は、そんな当たり障りないものになってしまった。
「そんな・・・三日だよ。おおげさ」
化学の時間も終わり、次も移動教室ではないので、教室内はそれなりに騒がしい。
和泉の小さな声はあっけなく掻き消される。
「え、何?」
和泉の声が聞きたくて、椅子に座ったまま和泉の方に身体を寄せた。
それだけ、だったのに。
和泉は驚いて跳ね上がった。
驚いて、というより、怯えて、に近いのかもしれない。
目と表情が警戒心を顕著に表している。
不自然に伸ばされた背筋は橋葉から少しでも離れようという無意識下の防衛反応だった。
「・・・え?」
「え、あれ、何だろう・・・。吃驚して、・・・」
ごめん、と呟く和泉。
それは本当に意図しない行為だったらしく、和泉本人も驚いている様だった。
和泉は時々、こんな反応を示す。
そう橋葉はぼんやりと考えた。
こういうの、パーソナルスペースって言うんだっけ。
きっと和泉は極端にそれが広い。
・・・そうなったからには、何か理由があるのではないか。
和泉の思いつめた表情と、あの女性の鬼気迫った表情が頭の中に浮かんでは消える。
もしかして、例えば、あるいは――――――――・・・
(違う、だめだ)
考えが膨らみそうになるのを、慌てて打ち消す。
和泉の家に行ってから、色々なことを想像で考えたので、どうやら想像力が豊かになってしまったようだ。
余計な詮索は、やめよう。
いくら考えたところで、所詮は想像の域を出ない。
そもそも明確な理由があるのかさえ分からないのだ。
全ての物に関連性を持たせようとするなんて、まるで陳腐なミステリー小説ではないか。
まどろっこしいが、心理戦に出る事にした。
実際には“心理戦”だなんて大それたたものではない。
ただちょっと、相手の反応を窺ってみるだけ。
「そうそう、和泉が居ない間にだいぶプリント溜まってるんだよ」
話題を変えたかった、というのもある。
教室内のざわつきが、微妙な空気を埋めてくれて助かった。
ほら、と言いながら和泉の前にプリントの束を掲げてみる。
もし、あれが本当に和泉の家なら、プリント、というワードに何かしらの反応を示さないだろうか。
自分はあの日和泉にプリントを届けに行ったのだし、あの妹尾小百合さんという女性にも伝えてある。
「そうなんだ。見せて」
期待に反し、和泉の反応は至って普通だった。
模試の申し込み用紙を見て、むむ、といった表情。
これで何かしらの反応があれば、少なくともあの家と和泉の関係性は証明されたのに、やはり振り出しに戻ってしまった。
和泉は、なんて事のない内容のものにも丁寧に目を通しているようだ。
しかし3枚目に差し掛かった頃だろうか。
ぴくりと人差し指に力が入ったかと思ったら、次には激しく咳き込んでいた。
「大丈夫!?和泉、まだ治ってないんじゃない?」
「げほっゲホ、・・・へ、いき、ただの風邪だから」
風邪で欠席、というのはどうやら事実らしかった。
慌てて和泉の背中をさすろうと、橋葉が手を伸ばしたのと同時に、始業のチャイムが鳴った。
立って話をして居た人も、徐々に自分の席に戻っていく。
和泉に届かなかった右手は、宙を掴んで行き場無くひっこめっれた。
ほんの少しの空虚感。
次の時間の準備をしていない。
チャイムが鳴り終わった時、思い出したように現実に引き戻された。
和泉のような律儀な性格を持ち合わせていないため、教材はロッカーに置いてある。
一番後ろの席は、こういう時非常に便利だ。
取りに行こうと立ち上がった時、ジャケットの裾が掴まれた。
え?と思って振り返ると、和泉が座ったまま身体を折っていた。
「・・・どうしたの、和泉」
教員こそまだ来ていなかったが、時間的には授業は始まっていることもあって教室内は静かだ。
声をひそめてそう聞くと、弱々しい声が返ってきた。
「・・・気持ち悪い・・・」
真っ青な顔でそう言うと、片手を口元にあてがい俯いてしまった。
「えっ」
さっきまで普通に話していたのに。
表情はもう分からない。
丁度その時、静まりかえって居た教室の空気を切り裂く様にドアが開く音が響き、「あー、送れて悪かったなー」なんて呑気な声を上げながら教師が入って来た。
「起立、」
学級委員の声が響く。
ガタガタと音を立てて椅子が引かれる。
和泉は当然立ち上がる事なんてできそうになかった。
(本当に、タイミングの悪い・・・!)
「・・・和泉、次の授業出れそう?」
微かに首が横に振られる。
「礼、」
立ち上がりもしなければ礼もしない、そんな二人に気づいた周囲から、訝しげな視線が送られる。
「・・・保健室行こう」
これには、微かに肯定の意思表示。
「着席、」
「先生」
再び椅子を引く音が教室内を包む中、左手を上げて教師を呼び止めた。
「3番の和泉直矢を保健室に連れて行きます」
突然上がった号令以外の声に、一瞬間の抜けた表情を見せた教師だったが、和泉の姿を視界に捕らえ頷いた。
和泉は来たときと同じ位の視線を浴びながら、教室を後にした。
教室には、一時間と居なかった。
和泉の体調は急降下した。
時々、息を詰めて廊下の壁に寄りかかる。
ちらりと見えた唇は血の気が失せていて紫に近い。
こんなに体調が悪いなら、もう一日位、休んでてもよさそうなものを。
橋葉はそのままへたり込んでしまいそうになる和泉を何とか支えて、慎重に3階まで降りた。
「・・・っう、」
突然襲ってきた強い吐き気に、和泉は膝を折った。
支えを失った身体はそのままもつれる様に体勢を崩す。
「和泉!」
このままだと頭から倒れてしまう。
そう思って反射的に和泉の腕を掴んでいた。
とっさに掴んだ腕は左腕だった、と、そんなどうでもいい事が頭の隅に浮かぶ。
重力に任せ傾いだ和泉の身体は、けれど一方では橋葉に引かれ、がくん、とバランスを失った。
それが引き金になったのだろう。
和泉は堰を切った様に嘔吐した。
「!」
あまりにも唐突で、あっけに取られてしまった。
「っぅえ・・・っ」
和泉の体内から押し出された吐瀉物が、廊下の床に広がる。
口元を覆っていた右手は、気休めにしかならなかったようだ。
何度か息を整えようとしていたが、その度に酷く咳き込んでいて、見ているだけで苦しくなる。
「げほっ、ゲホッゲホ、う・・・っぅ・・・え、げほっげほっ、ゲホッ」
そこで初めて和泉の左腕を掴んだままだったと気付いた。
血の巡りが悪くなった指先はぎょっとするほど冷たかった。
「はあっはあ、はーっ、はぁっ、はぁ・・・っ」
荒い呼吸は、悲鳴にも聞こえた。
否、掠れたそれは本当に悲鳴だったのかもしれない。
「和泉、保健室行って先生呼んでくるから。少しだけ、だから、ちょっと待ってて」
こんな状態で1階まで降りろという方が無理だ。
吐いてしまった物もあるし、何よりまだ和泉の呼吸は落ち着いていない。
混乱している頭でそれだけを考え、残りの階段を駆け下りた。
「南条先生、っ」
ドアに掛けた手には思いのほか力が入っていて、派手な音を立てて引き戸が開いた。
息んで飛び込んで来た橋葉の期待にに反し、保健室には誰も居なかった。
・・・と思われた。
「あっ、はい、はい。居ますよ」
どうしましたか、と言いながら南条は一番奥のベッドのカーテンを抜けて出てきた。
(誰か、居たのか)
騒がしくしてしまった事への罪悪感が胸に広がる。
どういう訳か緩んだネクタイを正している南条に、橋葉は状況を伝えた。
和泉が倒れたんです、と切り出すと、南条の表情は一気に真剣なそれへと変わった。
「それで、どこに?」
「3階廊下です。教室棟の」
「分かりました。・・・和泉君は、さっき登校して来たばかりなんですよね」
「ええ、そうなります」
「では早退させた方が良いですね。ええと・・・そうですね、私は和泉君を特別棟の保健室で休ませようと思っているので、ご家族の方への電話、橋葉君にお願いして良いでしょうか」
あちらには電話が無いんです、と付け足す。
「分かりました。それより、早く、」
きっと一人で蹲って居るであろう和泉の所に一刻も早く向かってくれ、という思いで一杯だった。
「私の机の上に黒いファイルがありますから、その中から速やかに和泉君宅の連絡先を探してください。電話を終えたら、橋葉君は教室に戻ってくださいね」
言われなくとも、他人の個人情報なんかに微塵の興味も無い。
南条が保健室から出て行くのを待たずに、橋葉は奥の机に向かった。
50音順にファイリングされていた為、和泉のデータは直ぐに見つかった。
保護者連絡先の欄に目を通す。
携帯の番号だった。
間違えない様慎重に番号を打ち込みながら、脳裏にはあの女性の姿が浮かんでいた。
(・・・小百合さんが、出るのだろうか)
和泉なら死んだ、とヒステリックに叫んだあの女性が電話の相手でないことを祈る祈る思いと、あの家は和泉の家だという確証が欲しいという矛盾した思いを抱えながら、コール音を聞いた。
「もしもし」
相手が電話に出る気配が無く、諦めかけたその時、受話器の向こうから響いた声は、橋葉の祈りの前者を叶えた。
学校名を告げると、「直矢がどうかしましたか」と尋ねられてしまった。
第一印象は、爽やかな好青年。
実際の姿を見た訳では無いので当てにならないかもしれないが、この人を妹尾小百合の夫と考えるには、若すぎる声に聞こえた。
「申し訳ありません、教師では無いんです。同級生の橋葉といいます。只今ご在宅ですか」
「仕事に行く所だったけれど、一応まだ自宅です。構わないので続けてください」
相手の声色は変わらなかった。
橋葉は焦る心を何とか落ち着かせ、事務連絡に努めた。
「一時間程前に登校して来ましたが、途中で体調を崩しました。養護教員の方で、早退させた方が良いと判断されたみたいです」
途中で相手が息を呑むのが聞こえた。
「・・・だから薬の飲み合わせに気をつけろと言ったのに・・・。分かりました、今すぐ迎えに伺います。ご迷惑お掛けして申し訳ない」
「いえ、そんな」
「連絡有難う御座いました。失礼します」
一瞬車のエンジン音が聞こえ、その次の瞬間には受話器は無機質な音を立てていた。
ぼそりと呟かれた一言に、質問を挟む余裕も、その混沌とした疑問を脳内で具現化する間さえ無いまま、通話は終わった。
__________和泉を3階保健室のベッドに収め、南条は元の、第一保健室に戻って来ていた。
「幸喜、出てきて良いですよ」
部屋に入るや否や、何条はそう口を開いた。
「はーい」
一番奥のベッドカーテンの向こう、間延びした声が響いた。
そしてひょっこりと、五十嵐幸喜は顔を出した。
「こういう事があるんですから、授業をサボって此処に来るのも大概になさい」
「あー、先生、お預けくらって拗ねてます?もしかして」
「・・・出入り禁止も考えますよ」
「冗談ですよ。冗談。さすがにこんな午前中から盛ってないです」
南条は深い溜息を吐いた。
「橋場君、勘鋭いでしょうし、気付いたんじゃないですか。そこに幸喜が居るって」
「それは無いと思いますけどねえ・・・。何よりあいつ、取り乱してましたからね」
まさにその言葉の通りで、南条にも、いつも本心が伺い知れない橋葉が妙に年相応に見えていた。
五十嵐でも、あそこまで慌てている橋葉を見たことは未だかつて無かった。
「彼、どうやら和泉君の事になると本気になるみたいですからね」
「・・・俺達みたいになると思います?」
「?といいますと」
五十嵐がくすくすと押し殺した笑い声を上げた。
あっと思った時には遅く、防ぐ間もないまま南条の唇には五十嵐のそれが押し付けられていた。
勢いが良すぎて歯と歯がぶつかる。
午前中から盛らないだなんて、よく言う。
何条は手にしていた教員手帳で五十嵐の頭を殴った。
「酷いですね、それ、角」
「そんな事より、和泉君のご家族の方、ご在宅ですって?」
「・・・その様でしたよ。話してるあいつの口ぶりからして」
文句を言う五十嵐を無視して話を進める。
よく見ると、机の上に走り書きのメモがあった。
『和泉 家族 在宅 迎えに来るそうです。』
これを見る限り、どうやら五十嵐の存在には気付いて居なかった様だ。
「・・・幸喜じゃないですけれど、あの二人はお似合いかもしれませんね」
五十嵐と目を合わせると、五十嵐は続きを促すように微笑んだ。
「橋葉君、彼自身は無自覚だと思いますが、少々やさぐれていると言うか、まあ以前の幸喜程ではないですが、ささくれ立った所があるでしょう。和泉君の方は誰か支えてくれる人が居ないと駄目になってしまいそうな気がします。彼が弱いというのではなく、メンタル的な面で。そんな二人ならお互いを安定させるのではないかなあと思いまして」
「俺も変わりましたけど・・・そんな風に考える先生も先生で変わりましたねえ」
「結果良い方に安定したので、結果オーライという事にしておきます」
調子の良い先生!そんな風におどけながら、今度は五十嵐が南条の胸を小突いた。
「さて、そろっと和泉君の様子を見に行かないと」
そんな和やかな雰囲気を、一気に冷却したのは、勢いよく開かれたドアだった。
「直矢は・・・!?」
校内を走って来たらしく、息が上がっていた。
その姿には見覚えがあった。
(確か、復学手続きの前に、和泉君の親権者代理で来た・・・)
「妹尾・・・貴樹さんですね。お久しぶりです」
軽い会釈を返す貴樹。
その目に、五十嵐が留まったようだった。
「彼が、電話の橋葉さん?」
「いえ、彼は絆創膏を貰いに来ただけの怪我人です。和泉君は3階の保健室で休ませていますので」
行きましょう、と促す。
南条は先に立って歩き、貴樹を案内した。
それは早すぎる到着だった。
十分後、五十嵐の居る第一保健室に、南条は戻って来た。
ぐったりとしていた和泉も、貴樹の姿を確認すると緊張が解けた様な、ほっと安心した表情になったし、それは貴樹も然りだった。
南条の感じた違和感は、五十嵐も感じていた様で、顔には怪訝そうな表情が浮かんでいた。
「幸喜、あなたこの前和泉君の家に行った時、どれ位の時間が掛かったんでしたっけ」
五十嵐に和泉の住所を教えたのは、他でもないこの南条だった。
「電車と徒歩で、トータル二時間位でしたね」
「・・・橋葉君と彼の電話が終わってから彼が此処に来るまで、何分でしたか」
「・・・15分です」
それでは、早すぎる。
「彼は・・・自宅に居ると言っていたんですよね」
「少なくとも会話を聞いた限りではその様でしたね。あいつもメモに残している通り、です」
和泉が学校に提出した書類には偽りがある。
分かったことは、これだけだった。
〈不完全アナリシス:END〉