和泉のこれまで。
和泉が小学校に上がった年だった。
和泉の両親は交通事故で亡くなった。
交通事故だった。
和泉の父親・・・和泉洋介の運転する車が信号待ちをして居たところ、居眠り運転のトラックに正面から衝突されたのだった。
洋介の妻、即ち和泉の母親である和泉早苗は即死だった。
その時早苗は近所への外出ということもありきか、シートベルトを着用していなかった。
そのため衝突の衝撃で身体が大きく動き、エアバックの位置が合わず、頸部を圧迫してしまったことも死因のひとつとなったらしい。
洋介は、病院に運ばれる途中の救急車の中で死亡した。
出血が酷く、意識は殆ど無かったそうだ。
そんな状態の彼が傍らの救急隊員に必死になって訴えたのは、一人息子、和泉直矢のことだった。
『妹尾・・・佳宏、義兄さん・・・義兄さんに、直矢を―――・・・』
洋行には元々両親によって決められた婚約者がいた。
それを破棄して、反対を押し切って早苗と結婚した為、親族とは絶縁状態であった。
それに反して早苗の親族とは、得に早苗の兄である妹尾佳宏とは、佳宏と早苗がとても仲の良い兄妹だったということもあって、
親交が深かった。
休日もよくお互いの家に行き来していたし、何より直矢は佳宏に懐いていた。
自分の死後、不仲な自分の親族に直矢が引き取られたら、一体どんな目に合うか分かったものではない。
きっと、愛してはくれないだろう。
そう朦朧とした意識で、洋介は考えた。
だから、当然頼るべきは義兄、という結論なのだった。
そして、これが彼の最期の言葉となった。
この日は、和泉の7歳の誕生日だった。
洋介の家庭は、洋介とその親族との関係を除けばとても穏やかで、仲の良い理想的なものだった。
妻である早苗は家庭的で近所で評判になる程可愛かったし、息子の直矢もその遺伝子をしっかり引き継ぎ、目に入れても痛くないほど可愛い。
「ほら、見て、この眉なんか、あなたそっくりよ。きっと素敵になるわね」
「そんな事を言ったら、直矢の目は早苗と瓜二つだ」
こんな会話がよく繰り広げられていた。
親バカでない親は親ではない。
各々が、家族全員が愛しくてたまらなかったのだ。
直矢は、人見知りはするが良く笑う、とても愛らしい子供だった。
女の子と間違われる事もしばしばで、直矢はそれを嫌がって、少しでも髪が伸びるとすぐに切りたがった。
毎日早苗は直矢の手を引いて幼稚園まで送り迎えをした。
直矢がその日習った歌や、起こった事を一生懸命話すので、早苗も真剣にその話を聞いた。
あまりにも真剣になりすぎて、自宅の前を通り過ぎる事もあった。
そんな時は二人で笑い合いながら、再び道を戻るのだ。
「またやっちゃったね、」と。
直矢が小学校に上がると、早苗は日中の余暇の時間が増えた。
「ねえ、洋介さん。わたしお料理教室に通いたいの」
洋介が風呂上りくつろいでいると、早苗はそう言っていくつかのパンフレットをテーブルに並べた。
意見を求めているようでいて、もう早苗の中ではどの教室に通うかまで丁寧に決められているようだった。
昔からそう。
ぼんやりしているようで、地に足はしっかりとついている。
そんなところも、早苗の魅力だった。
洋介はそれを微笑ましく感じながら、いいんじゃないかな、と笑顔で応じた。
ぱっ、と嬉しそうな表情が浮かぶ。
自分の親族の事で肩身の狭い思いをさせているという自覚がある為、早苗のそういった要望を拒んだ事はない。
早苗もそれをうっすらと分かっているので、あまり無理なお願いはしなかったし、頻繁に意見を言うことは無かった。
幸いにして、洋介にはそれらを叶えられるだけの経済力があった。
「わたし、お料理のレパートリーをもっと増やして、洋介さんを驚かせるわね」
「直矢も驚くんじゃないか。あんまり美味しいものをあげすぎると、俺の作った飯を食べなくなったりして」
「ふふ、あなたお料理したことなんてあったかしら?」
「うちのシェフには頭が上がりません!まあ、くれぐれものめり込まないでくれよ」
「気が早いわ、洋介さん。分かっています。ちゃんと直矢が帰ってくるまでにはうちに居るわ」
「ああ、あと・・・」
「怪我をしないように、でしょう?心配症ね、本当に」
可笑しそうに声を上げて笑う早苗に見とれながら、洋介は他愛も無い話を始めた。
直矢も早苗の習い事を快く応援した。
週3日。月、水、金、と、早苗はその教室に通った。
こうして、夕飯に出される料理の品目が増えていき、早苗の料理の腕も上達していった。
それは幸せすぎる日常だった。
この幸せはずっと続くと信じて疑わなかったし、夫婦で老後の旅行の話までしていた。
今にして思えば、この日々は直矢にとって残酷すぎるものだった。
忘れることの出来ない10月28日がやって来た。
その日は朝から土砂降りで、雨がアスファルトにうるさい位に叩きつけられていた。
直矢は水色のビニール傘をさしながら、帰路を急いでいた。
今日は7歳の誕生日。
誕生日には、いつも仕事で遅いお父さんも、仕事を早めに切り上げて帰ってくる。
お母さんは、いつも通り玄関の扉を開けると笑顔で出迎えてくれる。
そして決まってこう尋ねる。
『直矢、お帰り!今日は何があった?』
今日は色々な事があった。
学校で行われた球技大会で直矢のクラスが優勝したし、先週のテストも帰ってきた。
何人もの友達から誕生日を祝って貰った。
その話を早く聞いて欲しくて、自然と足が早まった。
いつもよりも早く家に着いた。
早く家の中に飛び込んで、早苗に、いつもの通りに迎えてもらおうとした直矢の期待に反し、ドアには鍵が掛かっていた。
あれ、と直矢は首を傾げる。
「お母さん?お父さん?」
ノックをしながら、家の中へ向かって叫んだ。
沈黙が返ってくるだけだった。
――――――寒い。
(・・・まだ、かな)
何で、鍵が閉まっているんだろう。
二人はどこに行ったんだろう。
そんなもやもやとした想いが、黒い霧のようになって心を埋め尽くしていくので、誕生日の楽しい気分はどこかへ吹き飛んでいた。
叩きつける雨が、濡れた服が、容赦なく体温を奪っていく。
寒くて、歯かカチカチと音を立てる。
鞄は重たかったので、足元に置いていた。
その脇に、両腕で身体を抱えながら体育座りに腰を下ろした。
玄関の、開かない重い扉に背中を預ける。
こんなこと、今まで無かったのに。
言葉で表現できない不安な気持ちが脳裏を掠めては消える。
(はやく、帰って来て)
玄関の小屋根から滴った水滴が、頬に落ちた。
「・・・っぅ、え・・・っ・・・」
寂しくて、不安で涙が溢れた。
大丈夫、二人ともすぐに帰ってくる。
あと少ししたら、車が留まって、お母さんが助手席から駆け出してきて、「ごめんね、遅くなっちゃって」。
お父さんは荷物を抱えながら、「道路が混んでいたんだ」、って、申し訳無さそうな笑い顔で。
そう自分に言い聞かせた。
随分長いことそうやって膝を抱いていた。
もう泣いてはいなかった。
泣きつかれて、ただぐったりとドアに寄りかかっていたのだった。
バタン!と丁度車のドアが閉められるような音が響く。
顔を上げたが、一瞬の期待は見事に裏切られた。
(・・・パトカーだ)
心がざわついた。
助手席から降りてきたのは、お母さんではなく、警察の制服を着た女の人だった。
「和泉・・・直矢くんね?」
なんだかよく分からないまま、それでも不安だけが胸を占めて、こくりと頷いた。
その拍子にまた涙が零れた。
不意に、女の人に抱きしめられた。
暖かくて、自分が思っていたより自分の身体が冷え切っていた事をじんわりと実感した。
「落ち着いて、お姉さん達と来てくれる?」
その人の声は震えていて、それが悲しくて、やっぱり不安を助長して、一度は止まった涙がまた頬に伝った。
頷くしか、道は無かった。
「今日、直矢くんの誕生日なんだって?」
なんでそれを知っているんだろう。
疑問が浮かんだが、それが音として発音されることは無く、直矢は黙って首を縦に振った。
助手席に座っていた女の人は、パトカーの後部座席を直矢に勧めた。
直矢が乗り込むと、女の人もそれに続いた。
テレビのドラマなんかで見るのと違って、速度はゆっくりで、やけに静かなパトカーだった。
『寒かったね、』から会話は始まり、それからは身体のどこかしらに手を添えられながら、途切れ途切れの会話が始まった。
「直矢くんのお父さんと、お母さんね、予約してあったケーキを取りに行っていたのよ。きっと、直矢くんのケーキね」
「・・・」
「その途中でね、とっても大きなトラックが・・・二人の乗っていた車にぶつかったの」
―――トラックが?
―――お父さんとお母さんに?
―――ぶつかった?
咽喉のさらに奥の方から、酸っぱいものが込み上げてきた。
横にいる女の人をちらりと見たが、自分の相槌を逐一待っているようで、話を続けようとはしない。
(・・・どう、しよう・・・)
俯いた直矢を気遣って、背中に手が回された。
「・・・直矢くん?大丈夫?」
「・・・気持ち悪い・・・」
ぐるぐるした気持ちが頭の中を駆け巡った。
瞬きをする度に焦点がぶれ、目が回る。
車の揺れと相まって、吐き気はより確実なものへと姿を変えていった。
込み上げてくるその波に、堪らず直矢は身体を折った。
おでこと膝がぴったりとくっつく。
「直矢くん」
手際よく黒い袋が差し出される。
こうなる事は分かってたよ、という具合に。
「うえっ・・・っぇ、うっ・・・げほげほっ、ゲホ」
酸の臭いが鼻腔につくのに比例して、袋の重量が増していった。
背中をさすりながら、なおも女の人は続ける。
「直矢くん、聞いて。これからお父さんとお母さんの所に行くのよ。・・・お父さんは、頑張ったんだけど、」
「なん、・・・っで、」
咳き込みながら、喘ぐようにして女の人の言葉を遮った。
黒い袋を抱えて、胃の中の物を吐き出しながら、それでもそうしないではいられなかった。
「何で、音、鳴らさないの」
「え?」
「パトカーって、・・・音、鳴らすんでしょ」
「あ、ああ、だって、今は悪い人を追いかけているんじゃないのよ。・・・それが、どうしたの?」
怪訝そうな顔をされたので、なんでもない、と首を振る。
乗り物酔いみたいな気持ち悪い感覚も、目の前がチカチカする感覚も、全部の感覚が引き潮のように遠ざかっていった。
『急ぐ必要はない』ということは、もう、結論は見えていた。
車の速度がいっそう緩やかになった。
ふとまどの外に視線を動かすと、何度か通ったことのある病院の目の前だった。
車のドアが開けられて、降りて、と促される。
地面に足をつけたものの酷い眩暈がしてふらつき、手にしていた黒い袋が地面に落ちた。
「あ、・・・っ」
口を閉じてなかったので、自分の吐いたものが地面にぶちまけられる。
だいぶ日が落ちて来ていて、暗くてよく見えなかったが、それでも足元に自分の吐いたものが広がっているという状況は嫌だった。
それに気付いた女の人がやんわりと微笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、後で流しておいてもらうから。・・・それより、ついてきてもらえる?」
「・・・うん」
行きたくない、という漠然とした思いが染み出してくる。
嫌だ、というイメージだけが脳裏にこびり付いて離れなかった。
それでも深く考えようとすると頭痛がして、ただ足を動かす事しかできなかった。
「直矢!!!」
突如名前が叫ばれて、顔を上げると病院のエントランスに叔父さんが居た。
叔父さんは真っ直ぐに走り寄ってきて、そのままの勢いで抱きつかれた。
そのまま叔父さんはずるずると崩れる様に地面に膝を付く。
耳元で押し殺したような嗚咽が聞こえる。
大人が泣いているのを見るのは初めてだった。
「佳宏・・・叔父さん、」
言葉を発すると同時に現実に引き戻されて、両目から涙が溢れてきた。
「お父さん、・・・お母さん・・・!」
自分で思っていた以上に細い声で、しかもそれは震えていて、それを自覚すると余計に涙が止まらなかった。
一生分泣いた気がした。
悪循環と不幸の歯車が動き出したのは、この時だった。
佳宏叔父さんに連れてこられたのは、四角い薄暗い狭い部屋だった。
誰も一言も発さない。
白衣を着た女の人が、「10分だけです」と、叔父さんに耳打ちするのが聞こえた。
空気は流れていないかのように重く、ずしりと全身を覆った。
白い塊が二つぼんやりと目に映った。
そのうちのひとつに女の人は近づき、白い布をお腹の辺りまで捲る。
お母さんだった。
お母さんの姿は静かだったけれどあまり変わっていなくて。
寝ている様にも見えた。
もっと近づいて話しかけて触れれば起きるんじゃないかと思った。
「吃驚したでしょう」そう言って目を開けるんじゃないかと。
けれど横たわるお母さんから発せられる空気はそんなに活動的なものではなくて。
鋭く尖って切れそうな位に冷たいそれを感じて、怖くなって止めた。
横にはお父さんも横たわっていた。
全身が白い布に包まれたままで。
「見ない方が良い。どうしても最後に会っておきたいなら、それは直矢の好きにしなさい」
叔父さんが真っ直ぐに真っ白なお父さんを見据えて言った。
涙を押し殺した声だった。
「・・・ううん。いい」
沈黙が怖くて、不安で、堪らずに首を横に振った。
「・・・直矢は、偉いな」
叔父さんの暖かい大きな手が頭をゆっくり撫でてくれた。
(・・・偉くなんかない)
逃げただけなのだ。
怖くて、怖くて。
お父さんがお父さんでなくなってしまったのを見たら、お父さんを思い出せなくなってしまいそうで、それが怖くて、逃げただけ。
「10分です」
そんな声が響いて、お父さんとお母さんとの時間は終わった。
これが、二人の物質的な存在を確認した、最後だった。
かくして、その次の日からは佳宏叔父さんの家での生活が始まった。
叔父さんと、何度か会った事のある叔母さんと、一度も会った事の無いお兄さんが居た。
「直矢くん、大変だったね。私、小百合叔母さん、覚えてるかしら」
と、叔母さんは言った。
「始めまして。俺、貴樹。15歳」
と、お兄さんは言った。
「・・・よろしくおねがいします」
叔父さんの背中に隠れて、そう答えるのが精一杯だった。
「直矢、ここはもう直矢の家だからな。そんなに緊張するなよ!」
ぽんぽんと叔父さんは肩を叩いてくれたけれど、緊張するななんて、そんなこと、出来る訳ない。
叔父さんのそれがただの空元気で、気を遣ってくれてるのだとは分かった。
けれど、それに乗ってあっけらかんとしていられるかと言ったら、到底無理な話だった。
お兄さんはずっと部屋に篭って勉強をしていて、あまり話す機会は無かったから良かった。
どう話していいのか全く分からなかったから。
叔母さんには、馴染めなかった。
自覚している人見知り以外にも、理由はあった。
『お母さん』を見たことだ。
叔父さんは、もともとたくさん話した事があったし、遊んだこともあった。
それに、自分は『お父さん』を見ていない。
だから、お父さんのポジションに『お父さん』でない叔父さんが来ても、丁度空席を埋めるような具合に、頭の中で整理がついた。
けれど、横たわる『お母さん』を、自分は見ている。
まるで今にも動き出しそうな『お母さん』を見ている。
お母さんの椅子には、まだ『お母さん』が座っているような気がして。
叔母さんはどの席に座るのか、いくら思い込もうと頑張っても、そこは空席にはならなくて。
そう思ったら、酷く混乱してしまって、考えを進めることはできなくなってしまった。
使われて無かった個室をひとつ、「直矢の部屋だよ」と与えられた。
ベッドも、机も、本棚も、前の家で使っていたものは一つも無かった。
布団も、新品の匂いがした。
心の奥が痺れた様に寂しさを訴えたけれど、それにしっかりと蓋をした。
(慣れなきゃ、・・・慣れなきゃ)
お父さんの親戚の人達には会った事がなかったし、仲が悪いのかな、と子供ながらに感じていた。
だからこそ。
(慣れないと・・・ここに居られなくなったら、どこにも行けない・・・!)
そんな脅迫じみたものに囚われて、慣れない布団の匂いも、妙にしっくりこない机も見ないふりをして、ひたすら「ありがとうございます」を呪文のように唱えた。
タオルは好きなのを使っていいのよ。ありがとうございます。
食器も好きなのを使っていいけど、ご飯茶碗と箸はこれね。ありがとうございます。
冷蔵庫も勝手にいじっていいけど、何か食べたければ言うのよ。ありがとうございます。
叔母さんが眉間に皺を寄せているのを見て、胸がざわついた。
嫌われないようにしないといけないのに。
「ありがとうございます」と「ごめんなさい」。
他に術は見当たらなかった。
一週間程、その家に一日中篭る日々が続いた。
お兄さんは朝早くに中学校に行くし、叔父さんはそのさらに前に会社に行っている。
叔父さんは会社に行く前に必ず僕が寝ている部屋に寄ってくれて、僕に「行ってくるからな」と声を掛ける。
そのときは固まっていた頬の筋肉も緩んで、笑えるんだ。
叔母さんと過ごす時間が一番長かったけれど、あまり話しはしなかった。
叔母さんのことは嫌いじゃない。
でも、お母さんは『お母さん』だけで。
だから、どう接していいのか分からない。
「フレンチトースト、食べる?」
フライパン片手に叔母さんは話かけた。
キッチンテーブルから身を乗り出して。
見慣れない新品の香りのするものが何となく居心地悪くて、僕は折角与えられた自室ではなく、リビングのソファでぼんやりと過ごすことが多かった。
「ありがとうございます」
空腹ではないけれど、満腹でもない。
自分のお腹の空き具合も、何だかよく分からなかった。
ぱっと顔を上げたけれど、目を見ることはできなくて、叔母さんの首の辺りを見上げて答えた。
だから、叔母さんの眉間にやっぱり皺が刻まれてることに気付かなかった。
叔父さんの家に来て一週間後、学校に行くようになった。
叔父さんは「もう少し家で休んでたいか?」と聞いてくれたけれど、僕は寧ろ家から出たかった。
いろいろな事をして、いろいろな物を見て、目まぐるしくして頭の中からもやもやした考えを消し去りたかった。
「大丈夫。学校行くよ」
そう言うと叔父さんは微笑んで、頭を撫でてくれた。
大きな手。
温かい手。
「本当に直矢は偉い子だ」
(・・・だから・・・偉くなんか、ない)
ランドセルはさすがに以前まで使っていたものだった。
ただ、お母さんが作ってくれたカバーは、無くなっていたけれど。
剥き出しの黒い革。鈍く光を反射するランドセルは、新品同様だった。
お母さんとお父さんを忘れなければいけないのか、時々酷く迷う。
忘れた方が良いと、叔父さん達は思っているのだろうか。
でなければ、こんなこと。
学校は、歩いて15分の所にあった。
校舎の造りも、窓の大きさも、当然だけど、前の学校とは全く違った。
1年3組だからね、と言われて、最初の日は叔母さんと登校した。
教務室で何かを話して、それから校長室にも呼ばれて話をしていた叔母さんとは、道中一言も話せなかった。
俯いて、ひたすら後をついていった。
それはとても気まずくて、だから次からは一人で登校できるように必死で道順を覚えた。
カーブミラー、電柱、公園。
見えた物を写真のように切り取って記憶して、断片的なそれを何とか整理して、頭の中に拙い地図を作った。
担任の先生は、前原先生といった。
背が高くて、日に焼けた、スポーツ選手のような先生だった。
叔母さんが帰った後、前原先生は廊下で突如僕の肩を掴んだ。
「よろしくなあ、直矢。何かあったら、先生に何でも相談するんだぞ」
吃驚して、あっけにとられて、ぎこちなく頷く事しか出来なかった。
教室の雰囲気は暖かかった。
名前を言おうとして、叔父さんの苗字を思い出して、どうしようかな、と少し迷って、それでもやっぱり「和泉直矢です」と言った。
休み時間になると質問の嵐だったけれど、前原先生が何か予め言っておいてくれたのか、それとも本当に興味の矛先が向かなかっただけなのか、頭で考えなくても答えられる質問ばかりだった。
好きな食べもの。嫌いな食べ物。
ゲーム、テレビ、勉強。
けれどそれはそれで正直戸惑って、そんな事初めての体験だったから、どうして良いか分からずに聞かれた事にぽつぽつと答えて言った。
「ね、何で髪の毛伸ばしてるの?女の子かと思ったよ」
誰かがそう言った。
髪の毛。
そういえば最後に切ったのはいつだっけ。
お母さんが短ければ女の子に間違われたりしないわよ、と言っていて。
よし、じゃあ一緒に髪の毛を切りに行こうか、とお父さん。
やだ、直矢の髪くらいわたしが切れるわよ、と言ったのは、
「・・・っ別に、伸ばしてる訳じゃ・・・」
蓋の隙間から溢れた記憶の断片。
それを断ち切るように、髪の毛に触れようと手を伸ばしてきた女の子の手を払った。
―――これまでの記憶を仕舞い込むには、箱があまりにも小さくて。
きょとんとした女の子の顔はみるみる泣き顔になった。
―――けれど小さく小さくしておかないと、新しいものを入れられなくて。
名前も知らない女の子は泣き出した。
息が、苦しい。