暴力描写有り(苦手な方はご遠慮ください)
*
目が覚めて、まず始めに聞いたのは雨音。
小粒のそれがシャワーの様に降り注いでいる、そんなイメージの雨音だった。
雨は嫌い。
あの日も酷い雨だったから。
身体を起こすと、床に畳まれた毛布があった。
(・・・そうか、貴樹さん、朝まで)
純粋に嬉しかった。
(貴樹さんみたいに、笑うんだ)
変わる。
話す。
そのために、笑って、まず、あいさつをしよう。
それから、叔母さんに謝って。
それから、一緒に笑えるのかも。
階段を降りる足取りが、いつもよりも軽かった。
あいさつ。
けれどそんな小さな期待が壊されるのは、ほんの数秒後の事だった。
(・・・あれ)
まず、違和感だった。
普段朝食は叔母さんと二人で食べている。
叔父さんは仕事で朝早いし、貴樹さんも学校が早い。
だから二人で、叔母さんが用意してくれた朝食を食べていたのだけれど。
(・・・叔母さん?)
リビングには誰も居なかった。
テーブルの上には、食パンと目玉焼きとサラダ。
一人分の食事しかない。
(・・・これを食べてってこと・・・?)
パンは焼かれていたけれど、冷えていた。
立っていても仕方が無い。
冷えた朝食を胃に詰め込んだ。
(・・・そういえば)
―――今朝、叔父さんは部屋に来た?
叔父さんはいつも僕に朝を知らせたあと、ほんの少しドアを開けておく。
外の空気を入れるためだ。
―――今日は?
思考が途切れた。
瞬きだか何だか良く分からない、一瞬の暗転。
今日は、閉まっていた。
(・・・ああ、そっか)
諦めに似た思いで食器を置く。
カチャリ、静かなリビングに響いた。
遂に、嫌われてしまったのかもしれない。
『不気味』で『変』なんだもの。当然だ。
叔父さんと叔母さんが喧嘩した原因も僕。
(・・・悪いのは、全部、僕じゃないか)
鼻の奥がツンとしたが、涙は出てこなかった。
「ご馳走様でした」
食器を片付けて部屋に戻る。
学校に行かないと。
夕飯も、そんな調子だった。
いつもの時間に下に降りようと部屋を出たら、足元にプレートに乗った夕飯が置かれていた。
食べ終わったものを出しておくと、いつの間にかそれが片付けられている。
追い出されることは無さそうで、それが一番安心した。
貴樹さんがたまに部屋に来てくれたけれど、その夜は叔母さんのヒステリックな叫び声が家中に響いた。
だから貴樹さんと顔を会わせる機会も減っていって、叔父さんにも会わなくなって、叔母さんにはもっと会わなかった。
洗濯物もそのまま放置される事が多くなっていって、自然と洗濯機の使い方を覚えた。
テレビも随分見ていない。
学校ではずっと一人。
時々靴や教科書が無くなった。
でもそれは大抵ゴミ箱や中庭で簡単に見つかるので、大して困りはしなかった。
休みの日はずっと部屋の中。
晴れていて、風のある日が好きになった。
窓から見える雲が、唯一の楽しみだった。
そうやって、3年が過ぎた。
髪の毛が伸びて、鬱陶しかった。
叔母さんの居ない時に、叔父さんが何度か髪の毛を切りに連れて行ってくれたけれど、もう首はすっかり隠れてしまう程の長さだ。
貴樹さんは大学に行った。
大きな物音がする日が続いていて、模様替えかな、と思っていたら、貴樹さんが部屋に来て「明日引っ越すんだ」と教えてくれた。
ああ、引越し準備だったのか、と一人納得。
「暇でしょ?」
そう貴樹さんは申し訳無さそうに言って、ダンボールを運んで来た。
中身は、漫画や雑誌や参考書。
「・・・直矢にあげる。・・・これしか出来なくて、ごめんね」
「・・・!」
貴樹さんの目が真っ赤で、気付かずに自分も泣いていた。
心が麻痺したようになって、何が悲しいんだかも良く分からないまま、声を立てずに泣いた。
「行ってらっしゃい」
見送りはできないだろうから、今、言わないと。
「ありがとう」
そういうので精一杯だった。
「・・・やっぱり、直矢は笑った方が可愛いよ」
貴樹さんの泣き笑いを、脳裏に焼き付けた。
神様、どうか。
貴樹さんみたいな人になれますように。
毎晩叔父さんと叔母さんの怒鳴り声を聞いた。
けれどここ数日、やけに静か。
そんなある日だった。
その日は朝から土砂降りで、憂鬱で。
玄関を開けて、いつも通り無意味なただいまを呟こうとした。
同時に目の前に人影が現れて・・・というより、きっと、ずっとそこに居たのだ・・・いきなり、肩を掴まれた。
「!」
思わず息を呑んで身構える。
それはあまりにも唐突で、恐怖で言葉が出なかった。
(・・・叔母さん、)
久しぶりに見る叔母さんは前より痩せていて、直感で、怖い、と感じた。
「あなたの所為よ!!」
ぐい、と持ち上げられたかと思うと、次の瞬間には玄関に叩きつけられていた。
「・・・っぅ!」
頭を玄関の段差に強く打ち付け、痛みで背中が反る。
目の前がチカチカしたのも一瞬。
叔母さんは僕の胸倉をもう一度掴んで、無理やり起き上がらせた。
足に力が入らなくて、膝立ちの様な状態になる。
(・・・何、何・・・!?)
「あなたの所為よ!あなたの所為よ!」
最早絶叫に近い声を上げて、叔母さんは僕の身体を揺さぶる。
下駄箱に何度も頭を打ち付けられ、痛みと恐怖が全身を支配した。
「・・・痛い、っ・・・やめて、叔母さん、止めて、」
下駄箱の上に置かれていた花瓶が、一際大きな音を立てて落ちた。
投げ出された右手がそれに直撃する。
もう水は与えられていなかったらしく、枯れた花とガラスの破片だけが辺りに飛び散った。
「あなたの所為で!!」
だん、と背中に激痛。
目を開けると、叔母さんは僕を見下ろしていた。
相変わらず叔母さんの手は僕の胸を掴んでいるので、叔母さんの全体重が掛かって、息が苦しかった。
「・・・っは、・・・叔母さん、ごめんなさい、止めて・・・、痛い・・・っ」
何か言う度、叔母さんの体重が一層掛けられる。
「あなたの所為で、誰も、居なくなっちゃったじゃない・・・!!!」
どうしてくれるのよ!と叔母さんは叫んだ。
(・・・どういう事?何が?どうなってるの・・・?)
「あなたの所為で、うちは、めちゃくちゃよ!!!」
強い力でまた身体が持ち上がり、そしてまた叩き落された。
「・・・っぁ!」
痛くて、上手く息が吸えなかった。
みっともない位、ぼろぼろ泣いていた。
今度は壁に打ちつけられる。
叔母さんはあなたの所為よ、あなたの所為よ、ともう聞き取れない位の声で呟いている。
ごめんなさい、バカみたいにそれだけ唱えながら、痛みに耐えた。
遠ざかる意識の中で、ぼんやりと見えた自分の右手からは、血が出ていた。
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