気がついたら夕方で、僕は依然として玄関にひっくり返っていた。
最初に視界に入ったのは天井で、その次に右手の真ん中、固まった血が目に付いた。
そして分かったのは、叔父さんが家を出て行ったということ。
夕飯の準備をしようともしない叔母さんと、叔父さんの靴がすっかりなくなった下駄箱を見ての推測だけれど、きっとそう。
数日間やけに静かだったから、そういうことか、とすんなり納得できた。
叔父さんは、僕を見捨てて、置いていったのだろうか。
貴樹さんは引っ越して、叔父さんは出て行った。
これが最初から計画されていたことなのかは分からないけれど、紛れもない事実はもう二人はこの家には居ないということ。
僕と、叔母さんの、二人。
誰も、守ってくれないし、庇ってもくれない。
不安だけがまるで夏の雲のようにどんどん大きくなっていって、心の隙間を埋めていった。
どうすればいいのか分からない。
お父さん、
お母さん。
中学生になった。
自分の事を、いつからかも分からないうちに「おれ」と呼ぶようになった。
リストカットという行為も、誰から教えて貰った訳でも無いのに知っていた。
記憶がはっきりしなくなって、いつの間にか左の手首から肘にかけての皮膚には傷がいくつも出来ていた。
変わったことはそれだけ。
叔母さんは相変わらずで。
全ての八つ当たりを受け、叔母さんの喜怒哀楽に、今だに怯えながら生活している。
だんだん色々な事に目を向けられるようになっていって、あんなになった叔母さんは、周りの人から不審がられないのかとおも思ったが、それは杞憂だった。
叔母さんの感情の高ぶりは、全て自分に向けられているのだ・・・と平然と買い物に出掛ける叔母さんを見て悟ったから。
叔母さんは細いし、力もさほど強くない。
けれどなすがままにされるのは、あの家から追い出されるのが怖いから。
無意識のうちに手首は切るくせにね、と自嘲気味に思う。
学校も相変わらず。
学区で振り分けられているので、顔ぶれがあまり変わらないのが原因のひとつだろう。
最早これといった理由は無いまま、意識というか、決まりというか。そんな暗黙の了解が空気に混じって流れている。
持ち物が無くなるのにも、掃除中に頭から水をかけられるのにも、その様子を見て意地悪く笑う人達にも慣れた。
辛くない訳が無かったけれど、それどころでは無いのが現実だった。
徐々にエスカレートする叔母さんのする事に比べたら。
そうやって、流れ作業のような一日がまた始まる。
そういえば、変わったことが、もうひとつあった。
食事を取ることが、苦手になっていた。
「私のクラスではいじめがあります」
そう、職員会議で告白したときのあの空気といったら。
1年2組の副任となった長谷川は、今でもその瞬間を鮮明に覚えている。
教員免許を取ってから、初めての正規雇用で初めての副担任。
やる気に燃えていた長谷川はいきなり出鼻を挫かれた。
近くに出来た新しい学校の所為で入学者数が下降気味なこの学校では、「いじめゼロ校」をモットーに掲げ、そこを魅力として押し出そうとしている。
程よく厳しく程よく自由に。
その頑張りあってか近年はいじめと言える類のものは無くなりつつあった。
しかしそこに水を差すような、稀に見る過激にエスカレートした1年2組のいじめの存在。
担任である井上の機嫌も悪く、長谷川は頭を抱えていた。
でも、と長谷川は思う。
「あの子」も、少し妙なのだ。
「あの子」というのは、和泉直矢という些か複雑な家庭環境を持つ生徒の事で、いじめを受けている被害者その人である。
彼は、酷いいじめを受けているにも関わらず、一向に辛そうな素振りを見せない。
強がって、とか、そんな感じでもなく、何も感じていないかのように平然とそこに居るのだ。
初めて長谷川が和泉と会ったのは、就任式の直ぐ後にあったLHRだった。
一際際立つ外見で、真っ先に長谷川の目に留まった。
けれど、長谷川が自己紹介や何やらを始めて、教室全体が活気づいている時でも、和泉は我関せずとばかりに窓の外に目をやっていた。
周りの生徒もまるで和泉など見えないかの様に振舞う。
長谷川は不思議に思ったが、その時はまだ気にもしていなかった。
和泉に対するいじめが始まるのは、それから一ヶ月もしなかった。
首謀者は原口という大柄な男子生徒。
和泉の小学校からの同級生で、今も変わらず「恵理香ちゃん」が好きな一途な男子である。
持ち物を隠す、捨てる。無視、加えて陰口。
そんな典型的なものから始まり、根も葉もない噂がじわじわと和泉の周りを侵食していった。
既に慣れていた和泉は相手が満足する反応も見せることなく、それはどんどんエスカレートした。
殴られても、蹴られても、一言も発さない。
怖くて、相手を恐れて、歯向かわないように意識しているのではない。
和泉はそんなこと、どうでも良いと、心から思っていた。
自分への制裁を与えてくれる原口達に、和泉は無意識の内に感謝さえしていた。
綻びだらけの記憶と理不尽な現実の中、和泉はいつの間にか、どういう訳か「叔父は死んだ」と思い込むようになっていた。
それさえも自分を責め立てる一要因になり、一層の自己嫌悪の悪循環だった。
長谷川がその現場を初めて目撃したのは、6月の頭だった。
じめじめとした重い空気と、職員室前の軽やかなアジサイがそれはそれは対照的だった。
放課後、長谷川は施錠の見回りをしながら校内を回っていた。
廊下を歩いている時、1-2のプレートが付いた教室から、その場には不釣合いな物音が聞こえてきた。
(・・・誰か残ってんのか)
「お前っ、気持ち悪ぃんだよ!」
「何とか言えよ!」
どすっ、という低く鈍い音。
一瞬で今起きている事態の想像が付き、長谷川は慌てて教室に飛び込んで止めさせようとした。
・・・が、中の様子がドアの隙間から垣間見え、動きを止めた。
殴られながら、蹴られながら、それでもなお無表情な和泉が視界に映ったからだ。
その時長谷川の心を占めていたのは、常識とか、モラルとか、そんな普遍的なものではない。
単純な一言で表すならば好奇心。
もっと詳細に分けていったとしても、結局は和泉直矢というほんの少し「妙」な生徒に対する、教師の立場を越えた好奇心に帰結する。
初めてみるその生々しい現場に、魅了された・・・というよりか、見てはいけないものを覗いてしまった背徳感にも似た、言葉では表せない不思議な感覚に囚われ、釘付けになっていた。
「ってめ、」
3人のうちの誰かが焦れたように叫ぶ。
「・・・っぅ」
丸めた背中を蹴られた和泉が、息を詰めるのも聞こえた。
そして咳き込む。
呼吸が落ち着くのも待たずに、今度は髪を掴んで無理やり起き上がらせる。
綺麗な顔が顕になった。
その大人びた、疲れきった表情で、しっかりと和泉は目の前の相手を見据える。
逆に、暴力を振るっていた奴らの方がたじろいだ程だ。
「・・・んだよ、その目・・・!」
大きな音を立て、和泉はロッカーに叩きつけられた。
痛みからか、和泉は背中を反らせる。
また、表情は隠れてしまった。
と、不穏な動きを長谷川は視界に捉えた。
彼等は無理やりに和泉をロッカーの中へ閉じ込めようとしていた。
実に古典的だが、それでもやはり続いているものは続いている。
始めは何事かと顔を上げた和泉だったが、直ぐに状況が分かったらしい。
身を捩って、何とか逃げようと、伸びてくる手を押しのけた。
何をされても無反応だった和泉が初めて見せた抵抗だった。
彼等は意を得たとばかりに薄笑いを浮かべ、和泉の細い腕をつかむ。
「おいおい、逃げんなよ」
「そっち押さえとこうぜ」
「っおい、暴れんなよ!うぜえ!」
そうこうしてる間に掃除用のロッカーは空けられ、当然の如く和泉には3人に勝る体力なんてある訳が無かった。
手足を動かして抵抗するも、ぐいぐいと押し込められる。
「っや、・・・やだ・・・っ!」
そこでやっと、長谷川は我に返った。
(・・・俺は何を、・・・早く、止めないと)
いじめの現場を目撃して、それを長々と見物していたなんて、教師としてありえない。
初めてに近い和泉の声は最早悲鳴に近かった。
彼等も驚いた様に動きが止まっている。
「何やってるんだ、下校時刻はとっくに過ぎたぞ!」
まだ夢から覚めない様な間隔の中、和泉への罪悪感に満たされながら、長谷川は教室に入った。
「げっ、」「おい、帰るぞ」「早くっ」
「おい、待ちなさい!」
鞄をひったくるように掴み取り、ばたばたと三人は逃げていった。
長谷川は追いかけようかと一瞬思ったが、ぐったりとその場に蹲る和泉を見て、優先順位を考えた。
「・・・和泉・・・君?大丈夫?」
「・・・」
何しろ会話なんてした事無かったため、長谷川は和泉にどう接して良いのか分からなかった。
「冷えるから、今日は帰った方が良い。明日、先生から・・・言っておくから」
「・・・」
「・・・、えっと・・・立てる?ほら、」
「・・・っ!」
「!」
ぱしん、と乾いた音を立て、長谷川が差し出した手を和泉は払った。
(えっ・・・)
きっ、と睨みあげた表情に浮かんでいたのは、怯えと憎しみ。
直ぐに視線を逸らした和泉はふらりと立ち上がり、足早に教室から出て行ってしまった。
教室には、長谷川だけが残った。
長谷川の心に満ちているのは、苛立ちと、不信感と、悔しさと、とにかく色々な負の感情だった。
なぜあの子は誰にも相談しないんだ。
折角助けたのに、なぜあの子は逃げたんだ。
上からはいじめの処理を押し付けられ、行動に出れば当の被害者から拒絶される。
なぜ、俺ばかり、こんな目に。
八つ当たりに近い長谷川の苛立ちの矛先は、和泉に向けられることになる。
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