recall the past 5

暫くして、長谷川は和泉の異変に気付くことになる。

6月頭のあの日以来、長谷川は輪をかけて和泉を気にかける様になった。

それは100%の善意・・・教師としてのモラルからという訳では無い。

教師としての心配はある。

教師としての義務もある。

それ以外の私的な感情は、長谷川本人にも把握しきれていなかった。

自分を拒絶した事への薄っすらとした苛立ちも、まだ尾を引いていた。

勿論恋愛感情なんてものではない。

長谷川は若くして世帯持ちだ。

来月には子供も産まれる予定である。

それでも長谷川は、気が付けば和泉を視界に捉えていたし、ふとした拍子に目で追っていた。

湧き上がってくる興味に唆された結果が、これだ。

和泉は給食を食べていない。

給食の時間が始まった時からずっと見ているのだが、和泉はプレートと睨み合ったまま、箸を取ろうとしない。

気にする様になって直ぐに分かった事だから、一体いつからこうなんだろう、と長谷川は思った。

今日はたまたまなのだろうか。

そう考えた長谷川は、一週間様子を見た。

が、やはり和泉の箸は進まなかった。

職員室で他の教員から聞いた話によると、和泉は何度か授業中に貧血で倒れているらしい。

体育の授業は特に欠席が目立つ。

しかも殆どが無断なので、保健室の来室記録と照らし合わせて何とか出欠を取っているんだ、と担当教員はぼやいていた。

昼休み開始のチャイム。

原則的に完食までは席を立ってはいけない事になっている為、和泉はいつも一番最後まで席に残っている。

何度か箸を動かすが、口元まで運ぶのが限界な様で、ぱっと顔を背けてうつむいてしまう。

小さな溜息。

長谷川は意を決して和泉に話しかけた。

「ねえ」

和泉はゆったりとした動作でだるそうに顔を上げた。

ぼんやりとした双眸が、長谷川を映す。

色白の顔に大きな瞳、やけに赤い唇。

長谷川はどこか扇情的なものを感じていた。

「給食、全然食べてない様だけど」

「・・・」

すっと視線を逸らされてしまう。

燻っていた苛立ちが頭をもたげた。

生徒に私的感情と好き嫌いの分別を付けるなんて教師としてあってはならないことだが、まだ教員経験の浅く感情を割り切れない長谷川にとって、それをコントロールできる技量はなかった。

「完食が決まりって、知ってるかな」

意地の悪い考え。

「全く手も付けないで、作ってくれた人に悪いなあって思わないかい」

「・・・」

「具合が悪いなら、言ってくれないと分からないよ」

唇をきゅっと噛む和泉。

しかしなお手も口も動かさない和泉に、長谷川の苛立ちは一層膨れ上がった。

ここまで私的感情に動かされるのは久しぶりだった。

そして長谷川は、和泉の食の細さを好き嫌いと勘違いしていた。

「とにかく、少しでも良いから食べなさい」

プレートを和泉の方に押し出す。

びくりと細い肩が震えた。

「ほらっ、」

ここまでくると、もう長谷川も意地だった。

大人気ないことに、後に引けなくなっていた。

和泉は震える手で茶碗を手に取った。

怒鳴られるのが怖かった。

大きな声が怖かった。

最近、何か食べてもすぐに吐き気が襲ってきて、既に何度も吐いている。

食べ物の匂いを嗅ぐだけで胃が不快感を訴えるので、本当は給食中席に座っているのも嫌だ。

こんな状態になってしまった理由も、これは何という状態なのかも和泉は分からない。

ただ食べ物を食べると気分が悪くなる。

これは確かな事だった。

食べても何も無いときもあったが、それは吐き気の原因が食事だと気付かなかった頃。

食事を取ると吐いてしまう。

そう自覚してからは必ずと言っていい程その通りになった。

吐くのが嫌で、食べることを止めた。

「ほら、少しでも良いんだから、とにかく何か食べなさい」

「・・・、っ」

和泉の呼吸が涙で震えているのに、長谷川は気付かなかった。

一口、白米を口に運ぶ。

カラカラに乾いた口の中へ、和泉は無理やりに押し込んだ。

おそらく極度の緊張もそれを助長したのだろう。

嚥下するが早いか、胃の中に食べ物が届いている筈がないのにも関わらず、突き上げる様な吐き気が和泉を襲った。

がくんと身体をくの字に折り、両手で口元を覆う。

「、はっ、はぁっ、はあ、」

軽い音を立てて箸は床に落ちた。

その音と、和泉の悲鳴に近い調子外れな息遣いだけが教室に響き、長谷川の思考は一気に「教師」という現実に引き戻された。

目の前の和泉があまりにも苦しそうで。

背中を摩ろうと長谷川が手を伸ばしたその時、和泉は身体を折ったまま椅子を引き、教室を飛び出した。

「あっぶね・・・おい、一年!」

誰かとぶつかりそうになったらしく、長谷川からは見えない位置からそんな声が聞こえてくる。

勿論和泉の返事は聞こえない。

急いで追いかけて行った先で長谷川が目にしたものは、信じられない光景だった。

和泉は嘔吐していた。

ふらつく足取りでトイレに駆け込む和泉を、長谷川は追いかけた。

押し戸に手を掛けた瞬間、視界よりも先に耳がそれを捉えた。

激しい咳き、嗚咽、乱れた呼吸。

そして何度かえずき、また咽返る。

不安と心配の入り混じった面持ちでトイレに足を踏み入れた長谷川は、最奥の個室、ドアも閉めずにへたり込んでいる和泉を見つけた。

和泉は便器を抱え込み、何度も咳き込みながら胃の内容物を押し出していた。

そこに固形物と言えるものは殆ど無く、濁った液体が無残に叩きつけられるだけだった。

頭の中は疑問で埋め尽くされていたが、混乱で言葉で表現することが出来ず、長谷川は無言で和泉の背中を摩った。

ちらりと覗いた和泉の横顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。

痺れた頭は「養護の先生を呼ばないと」と必死に冷静な部分を繋ぐ。

そしてぼんやりと、おぼろげながらも長谷川は「和泉の家に電話をしよう」と決めていた。

電話をして、学校での和泉の事を話し、家での様子を尋ねよう。

そうすれば今まで自分が感じてきたこの生徒への違和感は解決するかもしれない。

もっと早く家庭訪問でもすれば良かったんだ。
その程度にしか考えていなかった。

週明け。

和泉の顔には痣が出来ていた。

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